オブレート便り


PAX
'06.12.24発行


院長挨拶

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。 

                       院長 シスターテレジア 斉藤 弘子

† 主の平和

 オブレートの皆様、2006年も後少しとなりましたがお元気でいらっしゃいますか?

 病床にある方々、外出が思うように出来ない方々には、この冬の寒さを乗り越えられる力が与えられますようにお祈りしながらご挨拶申し上げます。

主のご降誕おめでとうございます。

 今年もいろいろなことがありましたが、コミュニケーションの手段である言葉とは面白いもので、同じ言葉でもイントネーションの違いで意味が変わってきます。

「信じられない!」と恐い顔をしてきつい語調で言われると傷つくこの言葉も、日本一、アジア一に導いた日本ハムのヒルマン監督のあの独特のジェスチャーとイントネーションで発した「信じられなーい!」は、野球ファンには無論のこと多くの人々の心に残りました。

 監督さんのこの名言はドーム内だけでなく、聴衆が集まるところではお決まりの言葉を要求され、大人達も子供のように声をそろえて「信じられなーい!」と叫ぶ姿は北海道の歴史にしっかりと刻み込まれた感じでした。

日々苦しい練習を積み重ね沢山のプレッシャーと戦いながら栄冠を勝ち取った選手達を労い、又ファンの後押しがあったからと感謝しながら帽子をとって深々と頭を下げたヒルマン監督の姿に学ぶことがたくさんありました。

 高校野球のような純なところが感じられないと思っていた人々をも感動させた何かが今年の日本ハムにはあったと感じたのは北海道人のひいき目でしょうか?
こうして今年一年間を静かに振り返ってみる時、私達はどんな言葉で身近な人を喜ばせ、勇気づけてきたでしょうか?

 良いことがあった時、嬉しいことがあった時、どのくらい、身近な人に感謝してきたでしょうか?

 又は、例え嫌なことがあっても、自分には必要な試練だったと気持ちを切り替えてきたでしょうか?

 私達はこの世の中で、たった一人で生きている人は誰もいません。いろんな人とのつながりの中で共に生きています。人には自分一人だけで手に入れた幸運などないはずなのに、良いことは自分の誉れとし、悪いことの原因を周りに責任転嫁するクセがいつの間にかついてしまったようです。
身についてしまったクセをなおすためには、「誇る者は、主によって誇るべきである」(Uコリント10の17)との信仰者としての初心に返ることが急務と思います。

 人は誰も、人間は人間であって神ではないと知っていますが、日常生活の中では知らず知らずの中に「自分は、」「自分は、、」と自己中心の歯車に振り回されたり、「信じられない」と、不満と怒りに左右されているのではないでしょうか?

 ニュースの報道の仕方にも問題がありますが、最近は悪が闊歩している感じです。せめてクリスマスには、イエス様の生き方を生きることが勝利への道であると叫びたいものです。

 クリスマスを知らない日本人はいませんが、クリスマスをどこで祝うかは様々でしょう。それでも救い主イエス様は全ての人のために来られました。

 クリスマスの本当の意味が分かったら、教会、修道院からは無論のこと、社会のあちこちから「信じられなーい!」「信じられなーい!」の歓声が聞こえ、私達の社会は今よりも良い方向に変わって行くのではないでしょうか?

 一人の力では成し遂げられないことも、私達の総監督イエス様の上手な指揮によって「信じられなーい!」ことがおこりますように願いながら2007年を迎えたいと思います。

 オブレートの皆様、新しい年も、私達と共に歩んで下さるイエス様を信じて生きてゆきましょう。
恵みのご降誕節でありますように……







第20回 オブレートの集い
9月19日(火)於 札幌修道院

エドワード・ヴェベロン神父様のご紹介


 1986年アメリカミネソタ州のセントジョーンズ修道院入会。7年前に来日、1990年アメリカで叙階。現在、長野県富士見町にある三位一体修道院で、八人の会員と修道生活を送る。

 毎週日曜日、横浜山手教会で英語のミサを捧げ、英語圏の信徒、特にフィリピンの方々と係わっておられる。 38歳。
 
 

《午前中の講話》

『教会の祈り』について

『教会の祈り』とはどういうものか、歴史的な観点から考えてみましょう。

最初に祈りとはどういうものでしょうか?

毎日歩く道には、沢山の桜の木がありました。春になるとその桜の木は、見事な花を咲かせ、全く同じ道なのですが、桜の美しさできれいになり、見慣れた風景にもかかわらず歩く人に感動を与えます。

私達の生活の中では祈りがこの桜の木と同じだと思います。祈りは、人生に意味を見出させてくれます。

たとえば、私達の生活の中では神の愛、神が私達を愛してくださることが分かると、安心して生活する事ができると思います。これがなければ私達の生きる意味がどこにあるか、私達の希望がどこにあるのか迷うことになるでしょう。

祈りによって神との接点を見つけ、その愛が分かるようになります。

祈りの第2点目は、私達が何か問題にぶつかった時、自分勝手にもがき苦しみ、最悪の場合などあれこれと想像してみたり、いろいろと心を騒がせます。もし、神様に信頼する心があれば、祈りの中でなんとか心静かに落ち着いて、問題に直面する事ができるのです。祈りは非常に役に立つ役割があると思います。

第3点目は祈りを毎日することによって、霊的な成長があります。それは私が修道院で日々体験していることですが、毎日同じ詩編を繰り返し唱えることによってことばが身につきます。同じ詩編であっても日々新たな心で唱えることによって、全く違う新しい意味をもった詩編に出会います。こうして祈りによって私達は霊的な養成、霊的な指導をいただき成長します。

修道院でする共同体の祈りについてお話しましょう。シスターたちもここの聖堂に一緒に集まって『教会の祈り』(読書の祈り、朝の祈り、昼の祈り、晩の祈り、寝る前の祈り)を唱え、そしてミサに毎日共同体としてあずかります。この典礼的な祈りを右の手としましょう。左の手は個人的な祈りで一人静かに個室での祈りや、レクチオ・ディビナ=聖なる読書も含みます。日常生活の中で右の手と左の手の祈りをバランスよくすると祈りの意味が深くなります。

皆さんにできることをお勧めします。それはミサに行く前に、その日の聖書の朗読箇所に目を通し準備すると、お説教も面白くなり意味深くなりますし祈りが深く豊かになり、最初にお話しした桜の木ももう少しきれいになるとお思います。

特に今日は、右手としての祈りの中で、『教会の祈り』のやり方を話します。実際に祈りの本を持っていらっしゃる方もいるでしょう。

まず最初に福音書の中で、実際にイエスの祈る姿があります。たとえばルカ5章16節とマルコ1章35節にある「人里離れた所に退いて祈っておられた。」と、また、大切な決定をする時、弟子達を選ぶ前やイエスが荒野に行って御父に祈っておられたということが記されています。「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」ルカ6章12節と、また長い間イエス様が一人で祈ることがあったとも聖書に記されています。また十字架上ではイエスは詩編を唱えました。マルコ15章34節「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と一番苦しい時に、ご自身が覚えておられた詩編が自然に祈りの形となりました。

次に決まった時間に祈りを唱えていたことについて話しましょう。使徒言行録第3章に「ペトロとヨハネは午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」とあります。すでに最初の教会はユダヤ教の伝統を受けていました。イスラム教では毎日皆がモスクで1日5回祈っていて、ユダヤ教にもこの形がありました。ミサという形式で集まったのは中世期になってからで、それまでは決まった時間、決まった場所で祈っていました。「ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の12時頃だった。」「真夜中ごろ、ペトロとシラスが賛美の歌を祈っていた」ともあります。旧約聖書の詩編119番に「真夜中に起きてあなたの正しいさばきに感謝を捧げます」ということです。「日に七度私はあなたを賛美します」これは日常生活に合わせて祈るのです。起きる時、神に感謝します。今日も日が昇って私は生かされているということです。昼ごろになると今日も無事で過します、これから食事をいただきます、神に感謝ということです。最初の修道者もこういう風に、聖書を文字通り実行しようとしました。ところが当時は、今のように出版社などなく、簡単に祈りの本を手にする事ができなかったため手で書き、あるいは詩編を全部暗記しました。これを唱えることがベネディクトの戒律に記されています。戒律の18章に「神よ、私は日に七度あなたを賛美します。」と。トラピストの修道士は今でもこのリズムを守っています。本当にさすがだと思います。私達(ベネディクト会の修道者)はそこまでゆかなくてもいいと思っています。少し怠け者かもしれないですけど……。その頃、もう一つのパターンとして修道士だけではなく一日の中で、朝の祈りと晩の祈りをするために一緒に集まり、一つの詩編を繰り返し唱えて一つの聖歌を歌った方法もありました。

皆さんは教会の祈りを修道院と全く同じような形で唱えるのは、家族の面倒やいろいろな仕事があるでしょうから無理をしない方がいいと思います。修道院は祈りについては贅沢なところです。

私のところでは食事当番があります。私は水曜日ですが、まずい物を出します。水曜日だけですね。買い物をして食事を作って後片付けをしますが、毎日するとこれは、仕事になります。週に一回だけだと楽しく、毎日するとつらくなるでしょう。ですから修道院の形と皆さんの生活の形が少し違います。

『教会の祈り』は、第2ヴァチカン公会議後に教会の伝統に添って日本の教会が定めた正式な祈りです。信仰生活をより豊かにするため聖書を黙想しながら祈ります。

現代の『教会の祈り』の方法について詳しく総則(教会の祈りの最初の頁)を見てください。

 
 
時課の目的は

読書の祈り

より豊かな聖書の黙想と優れた霊的著作を提供する。

朝の祈り

朝の賛美は、わたしたちの心と精神の最初の動きを神に奉献する。

昼の祈り

使徒教会にならって、日中の様々な時刻に、仕事のさなかにも祈る習慣を持つ。

晩の祈り

一日の出来事を思い出し、今日出会った人、出来事の中で与えられた恵みと、私達が行った善について感謝する。

寝る前の祈り

一日の最後の祈りで就寝前に唱える。神のあわれみと神のゆるしを願いながら、今日出来なかったことを明日もう一度出来るように希望を持って休みます。


係から…… 皆様のお近くの教会や修道院では『教会の祈り』をしています。全時課を唱えていないかもしれませんが、是非お尋ねください。時間や参加できるかどうかご確認の上、ぜひ一度『教会の祈り』を共唱して神様を賛美してみませんか?
 
 

《午後の講話》

『聖ベネディクトの戒律』 序について

私達の日常生活の中で何か出来事が起こると自分自身のことを良く考えるようになります。自分の前の鏡に私が写し出されるからです。また、人間関係でも誰かとぶつかる時には、やはり同じように鏡に私はどういう風に映るのかと、考える機会となるものです。

霊的な指導と成長は日々の出来事や人間関係に深く関わっていると思います。霊的指導と霊的成長は毎日ミサに出て、毎日ロザリオを唱えることではありません。出来事や人間関係を通して私達は成長の道に入るということですから、私達の祈りと全ての日常生活の活動が一致します。修道生活の道も祈りと日常生活が、神と一致する目的で修道院が建てられています。このことはギリシャのプラトン主義から起こった考えでしたが、キリスト教の基となりました。

神と一致する生活は、神の存在と私達の人生の本当の意味が分かるようになるはずです。

ここで修道生活の歴史を簡単にまとめてみます。当初、エジプトで聖書を生活の中で生かそうとするため、都会を出てエジプトの砂漠に住むことにしたのがアントニオ(251年生まれ)です。ある日のこと、彼が歩いていると教会から「あなたは完全な者になりたいなら全ての財産を売って孤独になりなさい。そして神のもとに従いなさい。」という福音書が読まれているのを聞きました。彼はその通りにしようと砂漠に出たのです。東方修道制の創始者といわれています。同じようにいろんな人がユダヤ地方でも始めその中の一人がカシアヌスです。彼は知恵をまとめヨーロッパ地方へと広めます。ヨーロッパ地方からバジリオスが登場します。彼が東方教会に強い影響を与えたのです。こうしてイタリア地方に原始修道制の精神が伝わり、ベネディクトは「師の戒律」に出会い彼独自の戒律を書いたものと考えられています。このようにしてヨーロッパからアメリカへ、南アメリカ、アジアなどいろんな地方に修道生活が広がって行きました。アントニオからベネディクトまで260年から270年ぐらいを経ています。その知恵の全てを戒律の中にまとめようとしました。

『聖ベネディクトの戒律』序の背景についてお話しましょう。ベネディクトの戒律は、ベネディクトが全部書いたものではなく、「師の戒律」に手を加えました。特徴の一つに、ベネディクトは「師の戒律」の非常に厳しい部分を少し文学的にやわらかな表現で書きました。「師の戒律」を読むと『聖ベネディクトの戒律』の序とほとんど同じものです。最初と最後の一段落だけがベネディクトが書いた独自の部分です。2つ目の特徴は『戒律』のあちこちにローマの信徒への手紙、詩編など聖書のことばが300回ぐらい引用されていることです。ですから『ベネディクトの戒律』はオリジナルなものではなくまとまった知恵だと私は思います。

『戒律』の序そのものを見ていきます。ここが戒律の中でもっともやわらかく、美しい祈りとよく言われています。

その第一段落には、『子よ、心の耳を傾け、師の教えを謹んで聴きなさい。その慈しみ深いあなたの父の勧告を喜んで受け入れ、これを積極的に実行に移しなさい。このようにして無気力で従順さに欠ける生活を送り遠ざかってしまった方のもとに、服従の労役を通して戻るのです。… 』知恵の神学でもあります。知恵は神と私達の間にあります。私達が知恵を耳にし、それに従えば神の方に近づくことが出来るという考え方です。この文章には特に自由でしかも命があります。よければ受け入れて下さいという最初の招きのようです。

次に『主よ、どのような人があなたの幕屋に住むのですか。どのような人があなたの聖なる山でやすらぎ見出すのですか』(詩編15の1)聖書のことばを使っています。幕屋というのはイスラエルで羊飼いの住居でした。神の住いに近づきましょう、永遠のいのちの山、豊かないのちの山のことです。

次に『さて修友たちよ、私達はどのような者がその幕屋に住むのかと主に尋ね、そこに住む者が守らなければならない掟についてみ言葉を聞いた以上、住む者に課せられた義務を果たさなければなりません。…』主の意志、主の恵みを願わなければなりません。全てが神によるものだからです。失敗も成功も私達の全てが神の恵みなのだという考えです。だから私達の救いも神によるであり、私達の成長も同じです。

最後の段落に進みましょう。『そこで、私達は主に仕えるための学校を建てなければなりません。これを設立するにあたって、厳し過ぎあるいは難しすぎることを、課すつもりはありません…』主に仕えるための学校とは修道院の意味です。戒律を読むと非常に厳しいことが書かれていて、実際に厳しいことがあります。たとえば何か台所で物を落とし破損すると、ひれ伏して院長様の許しが無いうちは、ずっとそのままでいる。など、これは更生のため、愛を保つため幾分厳しさがあると書いています。つまり、厳しさ・規律が目的なのではなく心の広がり、表現を超えた甘美な愛をベネディクトが約束しているのです。主に仕えるための学校は修道生活そのものだと思います。

オブレートの皆さんも主に仕えるための学校を建てていると思います。自分の生活にも何か幾分の厳しいことか何かを加えて生活するということが大切です。

今、生活している自分の所で祈りの生活を送ることは、召命の一つです。神に近づくためにベネディクトの伝統的な霊性の道を進みましょう。





おすすめの一冊

 『聖ベネディクトの戒律』 ポケット版
著 者 古田 暁 訳
定 価   945円
(修道院で購入の場合、送料はサービスいたします。)

☆ 現教皇の名前聖ベネディクトは、6世紀イタリアの修道院長である。1500年前に書かれたとはいえ、その内容は21世紀の私たちにも通じる新鮮さがある。広く読んでいただくためにコンパクト版とした。【カト新聞より】
 
 
 『晩年の美学を求めて』  朝日新聞社発行
著 者  曽野 綾子 著
定 価   1,575円

☆ 人生の後半をどのような心がまえで、いかに生きていくか-。 誰しも訪れる晩年とは? 一度、手に取ってお読みになってみませんか !!



▼オブレート会のご報告▼
 
20回オブレートの集いを去る9月19日(火)札幌修道院で開催しました。遠くは東京・新潟からの参加者15名を迎え、エドワード神父様のゆったりと静かな中で祈りの一日を≠ニいう計画に基き、午前・午後の講話はミサをはさんで祈りの心で聴くことができました。ミサの中で、亡くなられた会員と参加された方の亡くなった家族や知人のためにもお祈りが捧げられました。また『教会の祈り』についての講話を聴いた後で、シスター方と共に、昼の祈りを共唱しました。
▼この講話の内容をまとめて3頁以降に掲載しましたので、お読みになってください。霊的な生活を送るために、きっとお役に立つことがあると思います。
 
 
 ★ 新会員のご紹介

加藤  良子(よしこ)様(小野幌教会)

霊名 パウラ

大塚 惠子様(静岡県三島教会)

   霊名 マリア・テレジア


どうぞよろしくお願い致します。
 
 
 ★ 亡くなられた会員
   三浦 スエ様(小野幌教会)2006年10月4日帰天     享年88歳
天国での再会を祈りましょう。
 
 
 
 
▼修道院からのお知らせ▼
 ★ ベネデイクトフォーラム
ベネディクトの戒律に従う八つの修道院が集まる今年のベネディクトフォーラムは、千葉県白子にある十字架のイエス・ベネディクト修道会の平和の元后修道院で6月5日から2日間の日程で行われ院長が参加しました
 
 
 ★ アメリカで連合会総会開催
3年に一度開催される連合会総会に日本から院長他2名のシスターが参加しました。総会では主に21世紀の共修生活について提案と討議がなされました。
 なお、総会の席で、日本の憲法第九条が世界の宝であることの理解を得たことは画期的なことでした。
 
 
 ★ポケット版『戒律』発売中!
11月にドン・ボスコ社からコンパクト版で活字も大きく読みやすい、『聖ベネディクトの戒律』が発行されました。札幌修道院でも販売しておりますので購入ご希望の方はお知らせください。
 
 
 
 
 
あとがき
▼聖ベネディクトの極(ごく)普通の生活の中にある宝をみる、宝をつむ≠ニいう教えに日々心を込めてゆくことが大切なのだとエドワード神父様の講話から納得しました。(毎日、私は失敗の連続ですが)
 
▼福音に反するような日々の生活の中で、共に住む人の食生活や、今日は暑いか寒いかなどに心を遣うこと、また共同生活から生じる人間関係のトラブルが霊的な成長を育む神様からの大切な出会いと出来事と痛感させられました。この神様が与えてくださる贈り物を感謝します
 
▼私共も祈りのうちに皆様方との一致を願っております。共同体一同、心からこの一年たくさんのお祈りと支えに感謝の心を込めて…ありがとうございました。
 
 
 
 
 

多 忙 に 祈 る


主よ、わたしのまわりは、いそがしい世界であります。この中で、わたしたちも多忙な生活のとりこになってしまいます。

目も 、耳も、心も、この世の仕事の多忙のために、うばいとられてしまいます。

一日の仕事の生活に入る前に、わたしの目と耳と心とを、主に対して向けるように、この際、決意させてください。

わたしたちが気づかないでも、心臓の脈はうっておりますし、血液は体内を流れておりますように、わたしたちの霊的な生活がすすめられて、全生活が主に向かっての奉仕として、行われますように導いてください。

日々の多忙によって人生の基本路線をふみはずすことがありませんように、朝のひと時を祈りの時として用いさせてください。    アーメン