36、夏が終わる日



終わりの雨



抜けるような青空。
真っ白にわき立つ雲。
照りつけるような日差し。

季節は、夏。



「暑いな」

無造作に束ねられた蒼い髪を鬱陶しそうに払いのけ、手にしている本に目を落とす。
いくら室内だとはいえ、この暑さは流石にこたえる。

キールは、図書室の窓から外を眺めた。

学問の町ミンツ。
そこは学生たちの都。
しかし、その学生たちは暑そうに着込んだ制服を鬱陶しそうに引きずっていた。

「…気が抜けるな」

入道雲が立ち込め、うるさいのは蝉の声。
論文をまとめなければいけないというのに、頭はぼーっとするばかりである。

一息ついて、キールは本を閉じた。
インフェリアの夏は暑い。
どこまでも暑くて、気が遠くなりそうだ。
暑いのも寒いのも苦手なキールにとっては、溜息をつくばかり。
目の前の原稿用紙は、半分も埋まっていない。
それなのに、真っ白な原稿用紙はあと数十枚と積んである。

「はぁぁぁ」

盛大な溜息をついて、キールはまた外を眺めた。
青い空は、どこまでも突き抜けている。
そう、もう空は青いだけ。
空の上に広がっていた世界は、どこにも見えなくなっていた。
セレスティア。
今はもう、遠い世界。

キールはその世界を懐かしく思った。
初めて目にした異世界。
初めて触れた文化。
自分の足で旅をして、触れた世界。

「まさか、本当に行くことになるなんて―――」

「キールぅ!」

暑い中物思いにふけっていた瞬間。

ばたんっ。
思い切り開けられた扉。
『図書室は静かに』という張り紙なんて無視して。

その声に、その行動にキールは内心溜息をつきながらも微笑んで振り返った。

インフェリアではめずらしい肌の色に髪の色。
額の宝石。
ふわふわと揺らしたライトパープルの髪は、今は高くひとつに結い上げられていた。
暑いともあって、白を基調としたワンピースに身を包んでいる。

「メルディ…なんだ?」

後ろに立っていたのは、セレスティアンの少女だった。





グランドフォールの後、エターニアは元の形へと戻った。
二つの世界は遠く離れた。
多少なりともグランドフォールの影響を受けた二つの世界は、徐々に復興していっている。

あの時。
セイファートリングという世界を繋ぎとめている楔を砕いた瞬間、世界は急速に離れていった。
落ちた世界は―――バラバラで――。
キールが見上げた空は、見慣れない空。
隣には守らなければならない少女の姿。
幼馴染の姿はどこにもなくて、ただセレスティアに落ちたということだけが事実だった。

なぜ、インフェリアにいるのかというと、それは少し前の話。
キールがセレスティアでメルディとの生活に慣れ始めた頃の出来事。
インフェリアに行く術もなく、ただ日常生活を送りながらも仲間の心配をしていた。
そんなとき、アイメンの岬にバンエルティア号が停泊した。
そう、それはインフェリアからやってきたのだ。

それは、この離れた星を行き来する新たな移動手段となった。





「キール、メルディとっても暑いな
 それに、とってもとーっても暇よ〜」

少々だらけ気味で、メルディはキールの近くの椅子に座った。

「暑いのは当たり前だ、夏だからな…暇なのは自分でどうにかしろ」

セレスティアンの彼女にとっては、この暑さは耐えがたいものなのだろう。
しかし、暇というのは仕方ない。
キール自身論文を書き上げてしまいたいというのもある。
まぁ、締め切りがぎりぎりというわけではないのだが…。

「むー、キールのいじわるぅ」

頬をむっと膨らませるメルディ。
そんな彼女をみて、キールは呆れたように息をつき、その後笑った。
残り少ないこの夏を、彼女と過ごすのも悪くはない。
実際、ミンツ大学への論文を書くためインフェリアへ出向いたキールなのだが、やはりメルディを一人セレスティアに残しておくことができなかった。
その結果一番暑い時期から、インフェリアに滞在することになって…今に至るのだ。

「わかったから、そう怒るな
 論文ここまでにして、付きあってやるから」

キールは机の上をざっと片付ける。
最初から散らばっていたのは数冊の資料集と、実験レポートくらいだ。
それをひとまとめにし、かばんに詰め込む。

「ワイール!さっすがキールぅ」

きらきらと瞳を輝かせ、メルディはキールの腕にしがみついた。

「なっ、メルディ」

暑いはずなのに、そんなこと感じさせないというようにしっかりとつかまっているメルディ。
キールは胸中で微笑む。
しょうがないか…と。

資料集やらなにやらを司書にあずけ、二人はミンツの町へと繰り出す。



路面の照り返しが暑い時間帯。
それでも、人通りは途絶えることない。
露店には、今の時期だけお目にかかれる金魚売りや氷売り。
子供たちのはしゃぐ声にまじり、学生もちらほら。

「キールはここで、ずっーと勉強してたんだな」

その光景を見ながら、メルディはぽつりと呟いた。
旅をしてこの町に来た頃は、ゆっくり町の光景なんてみることができなくて。
ただ、精一杯だったから。

「そうだな、ラシュアンを出てからはずっと」

キールは懐かしそうに空を見上げる。
青い空に沸き立つ白い雲。
積乱雲。

積乱雲…?

「メルディ」

「はいな?」

露店で買ったシャーベットとほおばって、メルディは首をかしげる。

「夕立が来るかもしれない
 …といっても、ここまで来てしまえば家まで遠いな」

町外れの公園に辿り着いていた。
ここからキールの家や大学まではだいぶ遠くて。

「別に平気だよ〜…っ、バイバ!キール、今光ったよぉ〜」

見上げた空は、いつの間にか真っ黒。
稲光も走る。

「あ〜、夕立くるな…あそこに行こう」

公園の真ん中にそびえ立つ大きな樹を指す。
周りにも何本か樹があるため、安全であろう…たぶん。

そこに辿り着いた瞬間、落ちてきた雨粒。
ぽつぽつ−というのは一瞬で大きな雨音に変わった。
雷も、轟く。

「降ってきたな」

人の声が、なくなる。
そして、雨の匂いが立ち込めて。

「はいな…ごめんな、キール」

「なんで謝るんだよ」

小さくて、途切れそうな声のメルディに、キールは怪訝そうに眉をひそめる。
彼女が謝ることなんてあっただろうか。

「キール、メルディがわがままにつきあってくれたよ
 ほんとは論文書かなきゃいけないのにな、メルディのせいで雨にも出会ったな」

ほんの少しだけ、付き合ってもらうつもりだった。
だけど、一緒にいるほどもっと一緒にいたくなって…。
メルディはついついわがままを言ってしまう。

「それは違う
 それは僕の意思でメルディにつきあったんだ、論文だってすぐに出さなければいけないわけじゃない」

最近は図書館にこもりっぱなしで、ろくに話もしていなかった。
せっかくインフェリアに来たのだから、インフェリアの夏を楽しんでもらおうとは思っていた。
セレスティアンは海で泳ぐこともない。
だからインフェリアの海に連れて行ってあげたかった。

なのに、何も実現してあげられなくて。
もうすぐこの夏も終わりで…。

「ほんとか?」

「あぁ、嘘じゃない」

「…キールはやっぱりやさしいな」

メルディの笑顔は、雨にも負けないような笑顔。

「優しいか…?僕が」

「はいな」

雨音は、少しずつ小さくなる。

「キールはいつも優しいな
 勉強してても、ちゃんとメルディのことみてくれてる」

雨のおかげで、暑さはなくなり逆に少し涼しくなった。
過ごしやすい。

「でも、最近はずっと図書館と大学に缶詰だったからな…すまない
 せっかくなんだから、遊びに行きたかっただろう?いろんなところに」

インフェリアにきて行った場所といえば、ラシュアンにいるリッドとファラに会いにいったくらいだろう。

「ううん、メルディ十分よ〜
 ここでこーやって、キールとお話しながら雨宿り、楽しいな」

ずっと一人で家にこもっているなんて楽しくなくて。
窓から見える景色に溶け込みたくなった。
日差しは眩しすぎて苦手だけど、それでも町へ繰り出したくなった。
そして、会いたくなった、キールに。

そして彼は、今ここに居てくれる。
それで十分。

「すごいな、メルディは」

「そうか〜?
 そだ、前にな、バリル言ってたよ」

横に立っているキールの顔を、まん丸な目で覗き込む。
思い出した、というようなメルディ。
キールは次の言葉を促すように待つ。

「インフェリア、夏の終わりに雨降るって
 すごい雨と雷な、それ止んだら…すごーく綺麗な空になるって、バリルから聞いたな」

幼い頃の記憶を引っ張り出して、メルディは得意げに微笑んだ。
確かに、インフェリアでは夏の終わりが近づくと夕立が多くなる。
その後は、なんともいえない綺麗な色の空が広がるのだ。

「あぁ、そうだ
 この雨が止んだらきっと綺麗な空が広がるだろうな」

「見れるか?」

木の下から、メルディは空を仰いだ。
今はまだ、どんよりとしていて重たい雲の切れ目から小さな光が覗いている。
未だ、晴れない。

「そうだな、雨止んでから…しばらくしたらみれるんじゃないか?」

「ワイール!早く止むといいな」

こうやって、こうしている時間も好きだけど、その空が見たくなった。
父であったバリルも好きだったという、インフェリアの空。
見てみたいと思った。

「…でも、夏終わっちゃうかー
 セレスティアにはないから、さみしいな、なんか…すごーくさみしい気持ちになるな」

胸の奥が苦しくなる。
切なくて…。
別れるときと少し似ていて。
でも、また出会える。
それまでのお別れ…。

メルディは、木陰から出てみる。
もう雨はほとんど止んでいるといっていいだろう。

水溜りがきらきら。

「さみしい…か、そうだな
 その気持ちはわからなくはない」

「キールもか?」

少し曖昧で、言葉で表すには難しいが、この時期になると心にぽっかり穴が開いたような気分になる。
特に黄昏時なんて。

「まぁ、また夏はくるけどな」

季節は、めぐり来る。

「はいなっ、また会える」

「来年は…その、だな」

「…?」

急に言葉が詰まるキール。
メルディはキールがいるほうに振り向いた。

言葉を、待つ。

「いろいろ…行こうな
 海行って泳いだり…花火もしよう、リッドたち誘って」

この夏は出来なかったから、次こそは。
たくさん思い出が作れるように。

「はいなっ、行きたいよ
 メルディ、キールといろんなとこ行きたいな、一緒にな」

これからもずっと。
ずっとずっと。

「次の夏も、その次の夏も…ずっとな」

空。
見上げた空は、いつの間にか晴れ渡っていた。
重く覆っていた雲はどこへやら。
日差しが、雨露をきらきらと輝かせる。
空の色。
それはなんともいえなくて。

夏の終わりを告げる雨が降りしきり、夏が終わる。
それはインフェリアでは当たり前のことで。
この空も、インフェリアにとっては毎年のことで…。

でもやはり、この空を見ると誰もが物悲しくなる。
そして、懐かしくなる。
遠い日を思い出す。

そして、また会えることを願う…この季節に。

「でも、メルディ暑いの苦手だろう?」

「むー、メルディがんばるよー
 暑さなんてへーきってなるまでがんばるな…って、キールに言われたくないよー、キールもばてばてだな、夏」

人のこと言えないよー、と頬を膨らますメルディ。
暑いのは少し苦手。

「はは…まぁ、いいじゃないか
 そろそろ戻らないといけないしな」

もう、日が長いなんていえない。
夕方を過ぎでも明るかったのは少し前のことで、日が少しずつ短くなっているのだ。
どんどん短くなって、秋が来て冬が来る。
空も、季節によって変わり行く。

「はいな、キール、今日はありがとな」

我侭に付き合ってもらった。
それに、この先の約束も出来た。
夏の終わりに、素敵な思い出。
メルディは花が綻ぶように微笑んだ。

「こちらこそ、ありがとう
 いい息抜きになったよ…帰っていっきに論文仕上げるか」

気分が心地よくて、すべてが雨で洗われたような気持ちになった。
今なら、どこまでも素直になれて。

「はいな、かえろー」

水溜りはきらきら。
夕日に染まる空。
繋がれた手。

夏が、終わる。
でも、また出会える。
終わりじゃなくてそれは、繰り返すもの。

すこし切なくて、その切なさが秋を運ぶだろう。
ずっとずっとこの先も、それを二人で見ていきたい…なんてキールは小さく思った。






Fin