37 わかっていると君は言う

風はその一つ一つが針と化し、人の肌を襲い、傷つけていく。
風の谷とも呼ばれるその場所、天かける道。立ち塞がる山麓と吹きすさぶ風により、自然の防壁として機能し、王国ローラントの最終防衛線としての役割を担ってきた。そこを通るものなら誰に対しても容赦のない自然の驚異、旅人であれ、王国を狙う者であれ、当然王国の人間であれ、その例外は皆無だった。そして、彼らも、その例外になることは出来ずにいた。

「ったく、何でこんなに風が強いんだ、ここは・・・」

「当たり前のことをいちいち言うなよ、余計に気になっちまうだろうが」

銀髪の青年の呟きは、恐らく本音の漏れなのだろうが、それを独り言として軽く流すほどの余裕は、仲間の剣士にはなかったらしい。黙っていれば、それだけ周りが気になるものであるが、その逆も然りだ。

「ホークアイ、デュラン、もう少しですから頑張ってください」

腰の辺りまであるだろうという金の長髪を風になびかせながら、その少女は何事もないかのような口調で告げる。

「そんなこと言っても・・・リース、君はこんな山道、しかもこの風、よく平気で歩いていられるな」

ホークアイと呼ばれたその青年は、振り返りざまにそう呟き、苦笑する。
風の王国ローラントを統べる王女、リースとは、出会ってからまだ数週間ほどしか経っていない。ホークアイがマナの剣を手に入れるための旅をすることになり、それと同じ目的を持つ彼女が、それに同伴するという形になっている。デュランも似たようなもので、とあることがきっかけで牢獄に閉じ込められた2人とともに脱出、目的が同じと知り、旅を共にしているのである。

ホークアイにとって、リースはお嬢様的なイメージしかなかった。
確かに、戦闘であれだけの槍を振り回していることを考えれば、ただのお嬢様ではないことは自明だが、それでも、立ち振る舞いや気品は、明らかに自分達とは違っているということもまた自明だった。こうして山道を歩くことになっても、体力的にリースが最も早く疲弊するだろうと踏んでいたが、それは完全なる誤解だったようだ。少なくとも、リースの歩みは、ホークアイやデュランのそれよりもしっかりとしていて、かつ速度もあり、風などそもそも存在していないかのようなそぶりさえも見せる。

「生まれたときから、風と共に生きてきたようなものですから・・・」

確かに、とデュランが頷いてみせる。
それにしても、いくら風に慣れているとはいえ、この山道をああも軽々と登ってしまう彼女の体力、足腰。ホークアイからみても、あの華奢な身体のどこにそんなものが隠れていたのか、と疑いを隠せない。それとも、彼女を動かす何かが、他に存在しているのか。


そんなことを考えながら歩いていた頃だった。

「・・・あ」

突然額に何かが触れた。冷たく、色のない雫。
それは徐々に数を増し、無情な響きを奏でていく。

「ウソだろ、風に加えて雨も降るのかよここは!!」

冗談じゃない、と言わんばかりに、ホークアイは小走りになるが、すでに足元はぬかるみ始め、上手く進むことは出来ない。少なくとも、リースのいるところまでは追いつこうと速度を上げるが―――。

「ホークアイ!危ないっ!!」

それがリースの声だと気づいた頃には、既に体が傾き始めていた。
雨と風、そして地面のぬかるみも影響し、左右の感覚というのが少しずつずれていたことに気づいていなかった。
そして、それはすぐ脇の崖をも、視界から消し去っていたのだ。

「うぉあ!!」

傾く体を静止させようと力をいれるが、やはり地面のぬかるみによって、全く手ごたえがない。それどころか、力を入れれば入れるほど、逆に体の加速は止まらない。ホークアイは、自分の体が宙に投げ出されるのを覚悟した。同時にそれは、この急斜面からの転落を意味する。高さがどれだけあるのか、それははっきりとは把握できないが、恐らく落ちたら、怪我なしでは済まないだろう。

身体は、重力に任せて真っ直ぐに崖に向かって流れていく。
そんなとき、わずかに体の動きが止まった。そして、その力は逆方向へと働き、そのままホークアイは崖の淵まで引き戻された。同時に、自分に働いていた力が、崖の方に向かって投げ出されるのを感じた。

それがリースだったことに気づくまでに、それほどの時間は要さなかった。

「リースっ!!!」

腕を伸ばす。が、それは気休めにしかならない。
すでにリースの身体は、崖のそこの闇へと消え、姿が見えなくなっていた。

「くそっ!待ってろ、すぐ行くからな!!」

ホークアイの身体は、再び崖に向かって動き始めていた。
が、崖を飛び降りようとするホークアイの肩を、デュランが強引に掴んで振り返らせる。

「バカ野郎!お前まで落ちるつもりか!!」

「止めるなデュラン!俺の所為でリースが・・・」

そこまでいって、ホークアイの言葉は強制的に止められた。
デュランの腕がホークアイの胸倉を掴み、ギリギリと締め上げる。

「お前、リースの頑張りを無駄にする気か!?せっかくお前を助けたリースの気持ち、わかってやれよ。 助けに行くな、とは言わない。もう少し冷静になれ。ここから降りなくても、安全な通路があるはずだ。第一、そういうところがなかったら、お前、どうやってリースを連れて上まで来るつもりだったんだ?」

「ぐっ・・・確かに、そうだ・・・とりあえず、離してくれないか・・・」

ずっと締められていた首からは、すでに血の気が引いていた。
悪い悪い、と口では謝っているデュランだが、その顔はどこかしてやったり、というような様子だった。

「ふぅ、とにかく、足場が安定していそうな場所から下に降りよう。
 デュラン、お前はどこか、雨が凌げそうな場所を探してくれないか?」

「わかった、そっちも気をつけろよ。すぐわかるところにいるからな」

それきり、お互い振り返ることはなかった。
信用しているからこそ、お互いの心配を必要以上にすることはない。

(さて、リースを探さないと・・・あの場所から落ちたら、下手したら動けないからな)

リースに対する心配、不安は大きくなるが、それでも、無事であることを祈るばかりだった。雨は次第に強くなっていくが、それでもホークアイは、その歩みを止めることはなかった。




「・・・っ!」

動こうとする身体に電流のような痛みが走る。
崖から転落してみて初めてわかったが、ここの高さは大体6メートル弱というところだ。さほど高くなかったのが不幸中の幸いだったが、どうやら倒れこんだ際に、腰と打ち、足首をひねったらしい。その所為で、歩くどころか、立ち上がることすらままならない状態になってしまっている。

(どうしよう、ホークアイたちに合流しなきゃ・・・)

とはいえ、歩けないのだから、どうすることも出来ないのもまた事実。
雨も強くなる一方で、どうにか身体を縮めて、寒さだけでも凌ごうとしてみるが、彼女の露出度の高い装備では、それもほとんど無意味と言っても過言ではなかった。

(心配、かけてる・・・私、またみんなに、心配かけてる・・・)

リースの心には、いつでも誰かのために精一杯、という意思があった。
それは弟を目の前で奪われたこと、王女という立場にあるだけでなく、戦闘技術も王国随一だったのにも関わらず、ナバールの兵士達に対して、あまりにも無力であったこと、そして、崩壊した王国を再建するために、たった一人で国を出て、旅立ったこと、それら全てが、彼女の意志の強さに繋がっていた。しかし、その意思も、何度となく空回りし、周りの人間から見れば、哀れに見える部分も多々あった。そして、気持ちの空回りが焦りをうみ、さらに空回りを生むという悪循環。

誰かを心配して、身を呈して守ろうとする自分自身が、周りの人の一番の心配の種。それが、彼女は嫌だった。いつでも、自分ばかりが足を引っ張ってしまう。だから、今日こそはと、先導を切って天かける道をひたに登っていたが、予期せぬ雨、そしてホークアイの不注意によってもたらされた、結果だけ見れば、彼女の空回り。

(あれは、ホークアイの不注意だったの?)

本当に心配をするのなら、雨が降るかもしれない、地盤が緩むかもしれない、そういったことも考慮に入れた上で、出発すべきだったのだろう。が、彼女にそれは出来なかった。気持ちばかりが焦り、前に進むことしか考えられなかった。

(私は、いつも、周りが見えてない・・・)

むしろ、遠くを見すぎて足元を見落とす、まさに灯台下暗しという状況なのだ。彼女は先を読みすぎて、すぐ目先のことを考えることができないことが多い。それゆえ、トラブルが起きたとき、予期せぬ出来事に遭遇したときの対処に弱い。

(私は、間違っているの?)


そんなことを考えながら、ふとその場に今までなかったはずの音が混じったのに気づいた。木の葉を裂くような、むしろ空気そのものを切り裂くほどの振動、それが何を意味するのか、彼女はすぐに察した。

(まさか、私が落ちてきた場所は、ニードルバードの巣があったの?)

天かける道の周囲は、鋭い羽をもつニードルバードの生息地となっている。
その巣を見かけるものはほとんどいないが、学説によれば、それは崖の下部に集中しているらしく、普段は目に付かないような、木の影やら地面やらにそれらを作る習性があるらしい。それも、長い年月をかけて培った彼らの野生の本能なのだろう。

そして、彼らの持つ羽の切れ味は、並の剣などと比べても大差はない。つまり、野生のニードルバードに囲まれるのと、いっぱしの兵士に囲まれるのは、ほぼ同格ということだ。

改めて足元を確認してみれば、そこには小さな枯れ木のようなものを集めて作ったと思われる巣があった。恐らくそれが、今目の前を何度も何度も行き来してこちらを威嚇しているニードルバードの巣だったのだろう。今はもう、見るも無残な姿に変形してしまっていて、それが巣だったのかどうかすら、危ういところだが。

「戦わなきゃ・・・でなきゃ、私が・・・」

殺される。
相手も必死なら、こっちも必死にならなければ、生半可な気持ちでは勝ち目はない。ならば、やるしかない。幸い、槍はすぐ脇にある。槍さえあれば、戦えないことはないが。

「うっ・・・!!」

立ち上がろうとすれば、鋭利な痛み。
動かすことが出来るのは、上半身、さらには腕だけと言ってもいい。
槍を振ることが出来るのかどうか、それも際どいところだ。腰の回転は、まず期待できない。

ニードルバードは、1羽であっても油断することは出来ない。
遠距離から放たれる羽は、まるでその1つ1つが弾丸のように放たれる。
全てを捌き切ることはまず不可能だ。全てをかわしきるには、上空に飛ぶか、左右に身体を振るしかない。が、そのいずれも、今のリースには不可能だった。立ち上がることすら出来ないのだから当然だ。

(でも、戦わなくちゃ・・・)

ニードルバードが、その翼を大きく振りかぶった。
そして、無数の羽の弾丸を放とうとした、その刹那。
ニードルバードは、それそのものがすべて羽と化し、その真下に散っていった。

「え・・・?」

何が起きたのか、状況が全くつかめないまま、リースはただ呆然と、羽と化したニードルバードの亡骸を見詰めた。目の前で散ったニードルバード、そして、その一瞬に見えた、一閃の煌めき。

「リース!無事かい!?」

その声を、まるで久しく聞いていないかのような感覚にさえも陥った。
そして、それが今の自分に、どれだけの安堵を与えてくれたのかを、リースは心の中でなんども詠み返した。

ニードルバードがフェザーニードルを放とうとしたその刹那、ホークアイの短刀がニードルバードを両断した。それも皮肉なことに、そのニードルバードが木々に当たり、擦れる音をホークアイが聞き当てたことで、リースの居場所が判明し、結果、ニードルバードの撃破にも繋がったのである。もしもあの場所にニードルバードの巣がなかったのなら、確かにリースの危険が1つ減ったことになるかもしれない。が、それは発見の遅れという新たな危険を増やすことにも他ならないのである。

「ホークアイ、助けに、来てくれたんですか・・・?」

「当然じゃないか、君を放っておけるわけないだろう?」

それだけ言って、ホークアイはリースのすぐ脇にしゃがみ込む。
そしてリースの足にそっと触れると、なにやら一言二言呟いたあと、何度も頷いて見せた。

「骨には異常ないみたいだ。多分、捻挫したんだと思う。それほどひどい怪我じゃなくてよかったよ」

そういうと、今度はリースに対して、しゃがんだまま背を向けた。それが何を意味するのかリースも察することが出来たが、それを実行に移すのには度胸がいる。まして彼女のように、今まで異性と触れ合うようなこと事態が少ないのならばなおさらだ。ホークアイに、赤面した顔を見られないよう、俯き、目を逸らす。

「ほら、どうしたんだ、早く乗れって」

「大丈夫です、歩けますから」

あくまで強気に言い張って、立ち上がろうとする。が、当然足と腰の痛みが引くわけではなく、身体を起こしても、意思に体がついていかず、よろける。その身体を支えたのは、やはりホークアイだった。

「こんなときくらい、強がるのはやめなよ。このままじゃ、動けないんだからさ」

「・・・わかりました」

それが不服というわけではない。ただ、慣れていないというだけだった。体重はホークアイに任せたまま、肩に手をかける。それを合図に、ホークアイはそのままリースを持ち上げ、何事も無かったかのように歩き始めた。

「重く、ないですか?」

「なんだ、もしかして、そんなこと気にしてたのか?」

「あ、いえ、そうじゃないですけど・・・」

軽い調子で、ホークアイは笑いを上げる。
何がおかしいのか分からず、リースはむっとして、

「な、なにがおかしいんですか?」

「い〜や、リースも、女の子らしい部分があるんだなって思っただけだよ」

その言葉も、リースの困惑をより深める材料に他ならなかった。ホークアイの言葉は、わかりにくい部分も多々あるが、時に真理をズバリついてくることもある。それも、リースは十分に理解していた。むしろ、理解できなかったのかもしれないが。



それから、どのくらい歩いたのだろうか。
6メートルの高さを上るのに、人一人を担いで上るには、ある程度なだらかな勾配を探さなければならなかった。ホークアイはそれも完全に計算に入れた上で、リースの救助に向かっていた。そうでなければ、2人同時に、かつそのうちの1人は怪我をしている状態で、崖を上るのは不可能だった。あのとき、デュランがホークアイを止めていなかったなら、今頃2人とも、どうなっていたのかわからない。

「リースって、頑張ってるよな」

突然話しかけられ、リースは躊躇する。
本当にホークアイは、突拍子のないことをずかずかと言ってくる人だ、と改めて実感する。

「どういう、意味ですか?」

「そのままさ、君は頑張ってる。何に対しても一生懸命で、みんなを引っ張っていこうとする」

「・・・・・・」

真理を、ついている。
全てが、見透かされている。
ホークアイの、そういうところが、彼女は怖かった。

「でも、それも空回りしてる。頑張ろうとして、気持ちばかりが焦る」

「・・・わかってます」

「それでも君は、周りに心配かけたくなくて、一人で頑張ろうとする」

「わかってます」

「結局1人じゃ何も出来なくて、周りに心配ばかりかけてしまう」

「わかっていますっ!!!」

三度目には、それが怒声に変わった。
今まで堪えてきたものがすべて吐き出されたかのような、そんな叫び。

「私だって、好きで空回りしているわけじゃありません・・・精一杯やってるのに、結果がついてこないだけです」

「本当に、わかってるつもりなのか?」

ホークアイの言葉1つ1つが、心に棘となって突き刺さる。
わかってることを指摘され、一番自分が気にしていることをむき出しにされ。怒りだけではなく、悲しみも不安も、ここですべて吐き出したい、そんな衝動に駆られる。

「こんな、こんなこと、私が望んでいるわけじゃありません・・・どうして、どうして・・・」

「だから、君はわかってないんだ」

「何がわかってないっていうんですか!!わかってないのはホークアイ、あなたのほうでしょうっ!!」

叫びと共に溢れる涙。
もう、一体どれだけの時間、涙を忘れていたのだろうか。
もう泣かない、と決めたあの時、旅立つと決めたあの時から、ずっと泣くことを忘れていた。

「君は、独りじゃないんだ」

「・・・えっ?」

「君は独りじゃない。全てを、独りで抱え込む必要なんてない。俺達は、仲間だろ?それとも、ナバール出身の俺なんかじゃ信用できないか?剣士の端くれのデュランなんかじゃ、頼りないか?」

「そんな、ことは・・・」

ない、と言い切ることが出来ない。
どうして、今までずっと独りで全てを担ってきたのか。それが、どんな理由だったのか。

「君は、信じることを恐れているだけなんだろう?誰かを信じて、裏切られるのを恐れている。今までたくさんのものを失ってきた君だからこそ、またなにかをなくすのが怖い。そうだろう?」

「・・・・・・」

「何かを手に入れるという幸福を感じたとき、何かを失うという恐怖も覚える。それは誰にだってある。でも、その恐怖だって、独りで抱え込むより、みんなで抱えた方がいい。違うかい?」

ホークアイには、隠すことなど出来なかった。
ずっと独りで頑張ってきたこと、それがすべて裏目に出てしまったこと、すべて、彼にはお見通しだった。

頼ることが出来なかった。甘えることが出来なかった。
失うことが怖くて、気持ちを隠し続けて、独り悩み続けていた。

「・・・私も、誰かを信じることが、出来るでしょうか」

「出来るさ、君はもう、独りじゃない。俺達は、君の仲間だ」



恐れていたこと、それは何もかも杞憂。
不安だった、独りでいるのは怖かった、それなのに、矛盾する気持ち。
いつでもそばにいた孤独。でもその2文字は、仲間へと変わって。
もう何も、恐れない。いつだって、仲間がいる。いつだって、彼らがいる。