52 なんでもない日常

「ねえ、フェイト、今日は帰りは何時頃になるの?」

「えっと、そうだな・・・今日は部活もないし、5時過ぎには戻れるよ」

ごく平凡な会話。何一つ違和感のない、日常の中の日常。
何事もなく、毎日が過ぎていく。それだけでも、彼らには十分な幸せだった。

「わかったわ、それじゃあ、ご飯作って待ってるわね」

「ありがとう、それじゃ、行ってくるよ」

いってらっしゃい、と笑顔で見送る。
彼女の憧れた生活、今までの全てを捨てて、一からまたやり直そうと決めた、あの日。
いや、捨てたわけではない。むしろ、それを全て胸に秘め、新たにそこから踏み出したのだ。

何もかもが、わかった。
それは同時に、今までの日常が非日常へと移り変わった瞬間でもある。
何もかもが、自分の周りにあるモノ、コトすべてが変遷していった。

こんなにも当たり前のことを、今までどうしてこんなにも夢に見てきたのか。
当たり前のことを、当たり前のように感じることが出来なかったからだろうか。
というよりは、その当たり前ということを、今まで経験することが出来なかったからだろう。
何もかもが、人とは違っていた。何もかもが、異端だった。



同じ蒼髪の青年、フェイト=ラインゴッドと暮らすようになってから、今日でちょうど1年になる。世界を背負った戦いを終えてから慌しい日々が続き、ようやくこの形に落ち着いたのも、その日。彼女、マリア=トレイターは、今まで歩んできた全ての人生を変えるべく、フェイトと生きる道を選んだ。

その選択が間違いだったとは、彼女は微塵も感じていない。
むしろこうなることを望んでいたのは紛れもない彼女自身だ。不満などあるはずもない。
だが、ときどき感じることがある。

―――今、自分はこんなにも幸せを感じてもいいのだろうか―――

いつか、この幸せが壊れてしまうのではないか。また、何か大変なこと―――それがなんであるかはわからない―――が起きて、平穏が崩壊するのではないか。

今までに感じることのなかった、平穏と安泰、そして至高の幸福。
何もかもが新鮮で、これからの生活がどうなっていくのか、それも予想が出来ていない。
このまま、この生活が続いていくのか、それとも・・・。

「考えるだけ、無駄なのかもね・・・」

考えれば考えるほど、思考はマイナスへと突き進んでいく。悪いことを考えたり口に出したりすると、それが現実になるという迷信があるが。以前の彼女なら、そんなことを信じることなどなかった。理屈のみが全てであり、迷信や伝説、言い伝えは何の意味も持たなかった。

が、彼女は、色々な意味で変わった。
考え方、性格、表情、全てが新しいものへと変遷していく。
それを、彼女自身でも十分に自覚している。自分は、変わったと。



時間の経過がもたらしたのは、彼女の変化だけではなかった。
フェイトとともに、地球へと帰還してからの1年で、崩壊した街は徐々にその姿を取り戻し始めていた。2人も進んで地域活動へと参加し、その復興を手助けしていた。微力ではあったが、その2人の活動によって鼓舞された人々の新たな援助も生まれ、復興は見る見るうちに進んでいった。そして、フェイトの通っていた大学の復興も完了し、フェイトは再びバークタインアカデミーの学生としての生活を取り戻した。フェイトはマリアにも入学を勧めたが、中学知識すら危ういことを自覚している彼女はそれを辞退し、フェイトと共に住む家での生活を守る、いわば主婦としての役目を担うことになった。

とはいえ、大学に通うようになったフェイトも、いまだ復興の行き届いていない地域への援助活動が主な大学の活動であり、やっていることはそれ以前とさほど変わらないのだが、唯一大学に行って新たに行っていることがあった。それが、主将フェイトの率いるバスケットボールクラブである。

フェイトの活躍は相変わらずだった。
決して高いとはいえない身長のビハインドなどものともしない動きで、ポイントガードとしての役割を担っている。フェイトの出場する試合ならほとんど負けを知らないBBC(バークタイン・バスケットボール・クラブ)は、いまやその地域ではその名を知らない者はいないといっても過言ではないほどの知名度となった。そして、BBCの試合は、被災によって心に大きな傷を負った人々に対する激励としての役割も果たしていた。フェイトはそれに大きなやりがいを感じ、行く先々でチームメイトとの演説を行ったり、ボランティア活動を行ったりと、積極的に活動をしている。

何もかもが、元通りになろうとしている。街も、人々の心も。
だが、マリアにとって、それは決して「元通り」ではなく、むしろ「変化」だった。

変わっていくことが悪いこととは思わない。
だが、その変わった世界が、自分自身に馴染むのかどうか、というよりは、
変わってしまった自分が、この世界に馴染むことが出来るのか、という不安がよぎる。

「結局は、私次第なのね。どんな結果になるのも」

自分の考え方1つで、何もかもが変わるのなら。
そんな簡単なことはない。前向きに捉えればいいだけのこと。
どんな結果であろうと、それを自分の生きる道だと受け入れる。
そして、今生きるこの世界を、存分に楽しめばいい。





1日がたつのは、比較的ゆっくりに感じる。
家で独りでいる時間が増えたこと、そして何より、落ち着いてものを考える時間が出来たこと。今までのように、常に頭を動かし、身体を動かし、休む間もなく全身全霊を尽くしていたころとは違う。独りになって考えることが、今までは部下のことであったり、世界のことであったり。しかし、今こうして考えていることは、自分のこと、フェイトのこと、そしてこれからのこと。考えることが、楽しく感じられる。不安もあるが、それも楽しみの中に含まれている。

緑溢れる街道は、この町の復興に比例してどんどん広まりを見せた。
春になれば、どんな花を咲かせることだろうと、今から心弾ませてくれるものがある。

マリアは1人、街道を歩く。
ただそれは、独りではない。いつも、そばにはフェイトがいる。
物理的にそばにいなくとも、マリアのそばにフェイトはいつもいる。いつもある。

(今日の晩御飯は、何にしようかしら・・・)

疲れて帰ってくるフェイトのためにも、なるべく食べやすく、尚且つ栄養のあるものを作ろう。
意気込むと同時に、笑みがこぼれる。こうして誰かのために料理をするということの楽しみを知ったマリアの1日の一番の楽しみは、その言葉どおり料理になっていた。

マリアが地球に来る前までは、マリアの料理は、それを料理と呼ぶには語弊があるほどの実力だった。何度か、料理に挑戦したことがある。あの頃から恋い慕っていたフェイトのためにと、そのたびに精一杯彼女なりに努力してきた。が、結果は何度やっても変わることはなかった。渋い顔をしながらも、必ず完食してくれるフェイトを見るのも、嬉しい反面どこか心が痛んでいた。

いつか、心から、私の手料理でおいしいと言わせて見たい。

それがマリアの夢だった。
それからの彼女の努力は、人並み以上という言葉ではいいつくせないほどだった。
あれだけ嫌っていたはずのソフィアに料理の講師を頼むほどにも至り、その結果、今マリアは、そのソフィアさえも凌駕するほどの料理の腕前を誇るようになった。弟子は師をいつか上回るというが、それに付随する形で、マリアとソフィアは今親友関係にある。何かにつけて2人であっては、喫茶店でお茶をしたり、家に招いて雑談をしたりしている。気がつけば夕方になっていることなどザラで、夕食を3人で囲むことなどもう数えきることは出来ないほどの回数に達する。

(せっかくだし、今日もソフィアを家に呼ぼうかしら・・・)

そうと決まれば、3人分の食材を調達しなければ、と、更にマリアは意気込む。
そんなとき、ふと目に留まった1つのフラッグ、そこで声高に叫ぶ、蒼髪の少年。

「みなさん!街の復興募金にご協力くださいー!!」

BBC復興募金委員会。フラッグに刻まれた言葉。
多くの人々が、そこで足を止めては募金に協力しているようだ。
やはり、噂どおりBBCの活躍は、コートの外でもその威力を発揮しているらしい。
そして、その場で笑顔で活動に参加しているフェイトの姿も、目に新しい。

(そういえば、フェイトがこうして部活の中で野外活動しているのを見るのは初めてね・・・)

これも意図があってのことか、フェイトたちはみなユニフォーム姿で募金活動を行っている。
そんなとき、マリアはふと気づいた。何故か、フェイトの持っている募金箱だけ、やたらと入っているお金が多い。さらに、フェイトの周りには、他のメンバーの3倍、いやそれ以上の人々が群がっている。しかも、そのほとんどは若い女性で、みな黄色い歓声を上げながらフェイトへと近づいている。

「フェイトさん、サインいただけませんか!?」

「フェイトさん、終わってからの時間、空いてます!?どこかで私とお茶でも―――」

「あなた何言ってるのよ!フェイトさんは私のものよ!!」

みな、身勝手なことばかりを口走っている。
どうやら、BBCで活躍し続けているフェイトのファンの女性達らしい。フェイトは運動神経もさることながら、ルックスも他の男性に比べて抜きん出るものがある。そうとなれば、女性がフェイトをほうっておくことなど、考えられないことなのだ。だが、決して募金をしないわけではない。フェイトのためにという意図だろうか。中には、フェイトの懐に札を入れようとしている女性もいるが、それは流石にフェイトが断っていた。

「フェイト」

見ていられなくなり、マリアは他の女性を尻目にフェイトへと近寄る。

「あれ、マリア、こんな時間に会うなんて奇遇だね。今から買い物?」

「なに鼻の下伸ばしながら言ってるのよ」

あ、ゴメン、といいつつ、フェイトは赤面しながら目を背ける。どこか不機嫌になりながら、たむろする女性たちにちらりと目配せして、わざと聞こえるように言い放つ。

「フェイト、今夜はあなたの好きなものを作って待ってるからね。『家で』楽しく食べましょ」

フェイトが頷いたのを見てから、マリアはその場を立ち去った。もちろん、あつまっていた女性達の刺さるような嫉妬の視線に対して、勝ち誇った瞳を向けるのも忘れずに。



結局、夕食は2人で作ることになった。
帰りがけにソフィアの家に寄り、ソフィアを夕食に誘ってみると、すぐさま準備をしてそのままついてきたのだ。そして、紅茶などを飲みながら世間話をしたのち、2人で夕食の準備を始めた。

「そういえばソフィア、聞いてくれる?」

「どうしたんですか〜?」

ソフィアは包丁で野菜を切りながら、マリアはフライパンで炒め物をしながら、それぞれ話している。

「今日フェイトったら、マジメに募金活動してると思えば、女の人に囲まれて鼻のした伸ばしてるのよ。気持ちはわからないことはないけど、ひどいと思わない?私がいるっていうのに・・・」

「あはは、フェイトはどっちかっていうと、鼻の下を伸ばすというより、女性に弱いんですよ〜。たくさんの女の人に囲まれると、どうしようもなくって笑うしかないんですよね。だから、それがマリアさんには鼻の下を伸ばしたように見えただけじゃないんですか?大丈夫、フェイトは一途ですよ!」

「そうかしら、それならいいんだけど。私も信じてはいるんだけどね、どうもああいう場面を見ると落ち着かなくて・・・」

「それは当然だと思いますよ、それで落ち着いていられるのなら、フェイトへの気持ちが浅はかだってことですし」

ソフィアもフェイトのことを好いていたのは、マリアも十分に理解していた。
だが、ソフィアはフェイトとマリアの関係を一時は嫉妬していたものの、結果的には素直に祝福してくれている。そして、今となっては、ソフィアはマリアの一番の親友であり、相談相手でもある。生まれてから、ずっとフェイトのそばで育ってきたソフィアは、フェイトのことならほとんど知り尽くしている。だから、マリアはソフィアにフェイトのことを相談することが多かった。そして、ソフィアもそれを快く受け入れた。

「マリアさんがフェイトを一番に想っているのと同じですよ、フェイトもマリアさんのこと一番に想ってます。もちろん、2番なんてありませんけどね。フェイトには、マリアさんしかいないんですから」

「そうね、ありがとう」

ソフィアの、消え入るような語尾を、マリアは聞き逃さなかった。
ソフィアは、いまだどこかで、フェイトのことを好いている。その事実は変わらない。
恐らくは、マリアが抱き始めたフェイトへの好意よりも、ソフィアのそれは長いのだろう。
2番なんてない、という言葉は、マリアにとっても何か衝撃的な一打に思えた。

「フェイトは、形は違うにしろ、あなたのことも、とても大切に想ってるわ。フェイトは私を選んだかもしれない。でも、あなたのことだって、とても大切に想ってる。私には、わかるわ・・・」

「わかってますよ〜!もう、マリアさんたら、しんみりしちゃって、らしくないです!」

あはは、と乾いた笑い声を上げて、ソフィアはそれきり黙ってしまった。
包丁を握る手の速度は、元に戻っていた。が、その横顔は、どこか哀愁が漂っていた。





「ただいま〜・・・って、あれ、ソフィアも来てたのか」

「やっほ〜フェイト、お疲れ様〜」

フェイトの帰宅は、5時半を回っていた。結局あれから、部活で練習に戻ったのだろう。
食事には少し早いかもしれないが、フェイトもあれだけ動いたあとだから、空腹になっていることだろう。食卓に並べられた料理の数々、3人分であるから、それほど量があるわけではない。が、それでも2人がかりでじっくりと作り上げた代物ばかりであるから、味は一級品だ。

「よっと・・・それじゃ、いただこうかな」

「いただきまーす」

食卓を囲む3人の顔は穏やかだった。
小さめのテーブルの周りで、お互いの表情を見ながらとる食事。
微笑ましく、また暖かい食卓。理想的な家族の形。




会話の弾んだ食事は1時間ほどで終わった。
それから後片付けを済ませたソフィアは、2人の時間を邪魔しちゃ悪いからと、すぐさま帰宅した。
家まで送ろうかと提案するフェイトをも振り切って、足早にソフィアは帰路へとつく。
2人が残された家の中は、先ほどまでとは違い、どこか静けさが漂っていた。

「フェイト、明日の予定、どうなってる?」

食後の紅茶をカップに注ぎながら、マリアはソファーに座るフェイトへと言葉をかける。
それに反応して、フェイトはどこともなく泳がせていた視線をマリアへと向け、答えた。

「いや、特に決まってないかな」

「それじゃあ、一緒にどこか行かない?ほら、前に大きなショッピングモールが出来たって言ったじゃない」

「そうだね、それじゃ、そうしようか」

ほどよい湯気の立ち上る紅茶を口にしながら、マリアはふっと微笑んだ。
憧れていた生活。地球に戻って、ようやく手にすることが出来た幸せ。

私は、ここにいてもいいんだ。
私は、ここで生きていていいんだ。

誰も、厭わない。誰も、拒絶しない。
日常を生きること、ようやくマリアが掴んだ、たった一つの、そして最高の幸せ。