新しい世紀の《四季》

ヴィヴァルディ:「四季」について
数々の演奏を比較したChoi, Ji-Young氏の考察

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チェ・ジョン(Choi, Ji-Young)氏の韓国語のページを
翻訳ソフトの助けを借りながら、日本語訳してみました。
誤訳があったらごめんなさい。

オリジナルの韓国語は、こちらです。
http://www.antiquevangelist.com/vivaldi/quattro_stagioni.html

新しい世紀の<四季>

 全く同じ協奏曲を数百曲も作曲したと言う類の無理解と悪意、冷たい非難にもかかわらず、真実の探求者たちは今日にも絶え間なく赤い頭司祭の新しい面を発見し、隠された作品を発掘して正しい演奏方法と斬新な表現の方法を求めて、その価値を世の中の人々に知らせることを疎かにしない。

 今日、ヴィヴァルディ作品の位置づけとその演奏方式の革新は、ヴィヴァルディが再発見されていた19世紀末と20世紀初の状況とは比べることもできないくらいになった。もし過去のヴィヴァルディ非難者たちが、現代演奏者たちの生気溢れて変化無双な演奏を耳にすることができたら、そのような評価を簡単に下すことができなかっただろう。いわゆる正格演奏運動、歴史的な演奏方式を適用しようとする動きは、バロックとそれ以前の時代の音楽に対する見方を完全に変化させた。ヴィヴァルディの他の作品はもちろん、いちばん大衆的に知られた<四季>を演奏する方法とそのサウンド、さらに進んで作品を見る根本的な思想は、この作品が初めて演奏されていた1950年代とは全く別なことになった。1970年、ヤープ・シュレーダーの演奏以後、<四季>の演奏者はピリオド楽器の演奏者とその方向性を共にしてきた。新しい楽譜の発見などのような音楽学的な研究成果はほとんど直ちに<四季>の演奏に反映されて来た。

 ヴィヴァルディは、型にはまって退屈だと言う認識は歴史的な演奏方式によって壊れた。ソリストの絢爛たった装飾、力動的なリズムを作り出す分節的な演奏、弦楽オーケストラにリズム感と色彩感を加えてくれる通奏低音の多様な編成及び即興演奏、何よりアンサンブル全体を合わせている自由な雰囲気が作り上げられたのは、バロック時代の演奏慣習を忠実に研究して来たからこそである。

 よく正格演奏のことを、その語感の故に、とても独断的で演奏者の感性的な自由を抑圧する演奏傾向ではないのかと、誤解する人々がいる。しかし正格演奏は即物主義とは全く区別されることで、この言葉の意味は正確に「歴史的な文献と演奏方式に基づいた」と理解されなければならないだろう。

 今や現代楽器を使うオーケストラでも、バロック作品を演奏するときには当り前のものと考える、バロック式のフレージング、緩徐楽章の即興演奏、アーチリュートやテオルボのような通奏低音楽器の採用、当代演奏慣習に忠実な鍵盤楽器演奏者、といったすべての要素は、歴史的な演奏方式とピリオド楽器運動の恩恵だという事実を、誰も否認することができないだろう。

 筆者はすでに去る1995年(音楽東アジア5月号)に<四季>の革新を主導したいくつかのグループの演奏について論じたことある。90年代という時期はとても重要な意味を持つことになったのだが、それは何よりもこの時期に、バロック音楽の演奏と結びつくことによって正格演奏、すなわち歴史的な演奏方式が一般的に認められるようになったからである。それは、イギリスのいくつかのピリオド楽器演奏団体が成熟期に入って、イタリアの若いバロック演奏者がちょうど浮上していた時期であった。ここで言及する演奏者はカルロ・キアラパ−アカデミア・ビザンティや、ニルス・エリックスパルプ−ドロトニングホルム・バロックアンサンブル、ファビオ・ビオンディ−エウロパ・ガランテ、サイモン・スタンデイジ−イングリッシュ・コンサート、エンリコ・ガッティ−イル・ジャルディノ−アルモニコ、ナイジェル・ケネディ−イングリッシュ・チェンバー・オーケストラなどで、それらは多彩な演奏スタイルと編成、解釈を網羅している。

 このように色々の解釈の開かれた可能性が、<四季>の絶え間ない生命力の源泉であるということは、去る90年代にも、新しい世紀が始まった今も変らない事実である。<四季>に新しい光を当ててみようとする熱意は、決して冷めることがない。去る何年間に、いくつかの演奏者は<四季>を互いに別なスタイルで再録音する程に、大変な愛情を見せている。その演奏の中では演奏者的に、音楽学的に相当な意義を持ったものもある。従ってここでは新しい演奏を中心に<四季>の演奏を見てみよう。最新の演奏を扱うといっても、古くなった演奏に意味ないと主張したいのではない。ただ、過去何十年の変化より最近何年の変化がさらに劇的で、ヴィヴァルディをどのように演奏しなければならないのかと言う問題について具体的であって、細部に至まで考え抜かれた、多方面に興味津々な演奏が多いからである。

 個別的な演奏を扱う前に、版本問題に幾分触れておきたい。なぜならば<四季>の多様な解釈は相当部分その楽譜に原因があるからであって、興味深くまた信憑性の高い印刷本と筆写本が、共に残されているからである。

 <四季>の版本は大きく二つが重要である。周知のように<四季>は、1725年アムステルダムのミシェル・シャルル・ル・セーヌが出版したヴィヴァルディの12曲の協奏曲集作品op.8〈Il Cimento dell' Armonia e dell' Inventione〉の初め四つの曲で、これがいわゆるル・セーヌ版というもので、従来、一番重要な版本であった。ル・セーヌ版はマリピエロが編集したリコルディの旧ヴィヴァルディ全集を初め、ジェンキンスのオイレンブルク版、アンジェロ・エフリキアン、ビットーリオ・ネグリとクラウディオ・シモーネの演奏用エディションのような多くの現代エディションの基礎になった。

 別なひとつは、1970年代にイギリス・マンチェスタ市図書館の音楽部分であるヘンリーワトソン音楽図書館で発見された多数のビバルディ筆写本に含まれた楽譜で、しばしばマンチェスタ版と呼ばれる。もともとこれらの筆写本は音楽家の強力な後援者であったオットボーニ枢機卿の所有であったし、後にヘンデルの台本作家となったチャールス・ジェネンスが、一連のイタリア作品を収集したとき、そこに含まれていた。

 マンチェスタのヴィヴァルディ筆写本は、その年代を1720年まで遡ることができるが、確かにメンチェスタ筆写本の<四季>はル・セーヌ版より以前のである。この事はヴィヴァルディがモルツィン伯爵に宛てたop.8の献呈文で「前々から有名な<四季>を、再び見られることになっても驚かないでください」と述べていることと一致する。

 マンチェスタ筆写本はヴィヴァルディ研究に新しい光を当てた。たくさんの音楽学者はマンチェスタ版がル・セーヌ版に比べてヴィヴァルディの意図をさらに正確に伝達していると信じている。ル・セーヌ版の些細な誤謬は、現代編集者が大部分校正してはいたが、マンチェスタ版を参考することにより、もっと歴史的な正当性を持ってル・セーヌ版を検討することができるようになった。マンチェスタバージョンは、発見直後から特に既存現代エディションに批判的であったピリオド楽器演奏者によって研究させて、70年代後半から演奏も試みられた。

 マンチェスタ筆写本に基づいた現代エディションでは、マイケル・テルボートが校正したものがリコルディの新ヴィヴァルディ全集で出版され、クリストファー・ホグウッドが校正したものがベーレンライターから出版されている。マンチェスタ版は細部に於いてル・セーヌ版と差がある。ル・セーヌ版の場合には、ソネットに数字とアルファベットを併記して、楽譜の合間に適当な位置に表記してあるのと対照的に、マンチェスタ筆写本にはソネットの詳しい指示がなされていない。一方、マンチェスタ筆写本は各パートのリズムとアーティキュレーションがより厳格で、演奏効果を狙った音楽的な仕掛けが所々にある。例えば、後のル・セーヌ版では簡単にユニゾンだけ
で処理された<春>1楽章鳥たちの声の次のトゥッティは、メンチェスタ版では1、2バイオリンの華麗な上行スケールエコーで、ぴりっとした感じを与える。ファビオ・ビオンディはマンチェスタ版の特徴について「熱病のような身軽さで生き生きとした魂を目覚めさせる」と叙述している。

 近頃、一部レコード輸入商などを中心に、まるでマンチェスタ版で演奏したものだけが正格演奏であって、そうでなければ誤った演奏という言い方で人々をだまして、マンチェスタ版が前々から演奏されて来たのにもかかわらず、新しいレコードを広告するにあたって、まるで最初で演奏したと言うような宣伝しているが、これは明白な誤りである。マンチェスタ版を使用した初期の重要な演奏の一つであるサイモン・スタンディジとトレバー・ピノックのアルヒーフ録音は、もう20年以上も前のものである。

 そしてル・セーヌ版とマンチェスタ版は全く同じ権威を持って、同じく価値がある。ル・セーヌとそれを再版したル・クレルクの楽譜は18世紀に実際に広く販売、演奏された。はたして細かい誤謬にもかかわらず、ル・セーヌの楽譜は忠実に製作されてその印刷、出版過程にヴィヴァルディが直接監督したと言う証拠もある。ル・セーヌ版を使うのか、マンチェスタ筆写本を使うのかという問題は、正しいか正しくないかという問題ではなく、解釈による演奏者の選択と意志の問題である。もしマンチェスタ版だけが正しくて残りは正しくないと言えば、すでに正格演奏の精神を失ってしまった独断になるだろう。

 ニルス・エリックスパルプ、カルロ・キアラパ、ゴットフリート・フォン・テオゴルツの演奏はマンチェスタ筆写本を使わない立派なピリオド楽器演奏である。現代楽器演奏でも、音楽学的に新しい面をたくさん見せたこのピルラルモニチの演奏、いうまでもなく卓越した折衝主義的な演奏であるツェートマイアーとカメラータ・ベルンの演奏も、やはりマンチェスタ版を使用しなかった。これらはすべてル・セーヌ版とそれに基づいた現代エディションを使用した。

 サイモン・スタンディジ (独奏バイオリン、ジャン・バティスタ・ロゼリ、1699年)
 トレバー・ピノック (ハープシコード、指揮)
 イングリッシュ・コンソート Archiv400045-2 (1981年録音)

 もう20年以上も経た演奏であるが、これは時代を超える面貌を持っている。筆者は一時、この演奏家が18世紀ベネチアスタイルを過度に様式化しているのではないのかと、批判的な意見を述べたことがあった。事実、この演奏で秩序整然した弦楽器奏者はスタンディジの独奏バイオリンに従って、今にも突撃せんばかりである。70年代のピリオド楽器演奏とは比べることができない程に技術的に優れて、音響も洗練されているが、ちょうど十余年の後に登場するイタリア人たちが見せるそのような身軽さ、自発性は欠けてある。

 しかし演奏者の巨視的な観点で見れば、このような様式化は充分に納得できることである。<四季>の録音と前後してイングリッシュ・コンサートは、バッハとヘンデルの主要管弦楽作品をすべて録音していた。これらの録音は今日にもすべて優れた演奏に評価されている。確かにピノックは実験的な道具としてではなく、完璧な伝達媒体として、過去の正格演奏運動の結晶体として、ピリオド楽器のきずない演奏が見せたかったに違いない。

 すでに76年のアールノンクールや、78年マルゴワールの演奏で聞くことができる果敢な表現を採用しない理由は、それから必然的に派生するアンサンブルの不完全さを免れたかったからである。この演奏は80年代以前の音楽学的な成果を精巧な細工で完成させ、マンチェスタ筆写本の使用、熱情的なリズムを増幅させるテオルボの使用、トゥッティに強い対比を与えるオルガンのダブル・バッソ・コンティヌオのような新しい要素を結合させて、以後の多くの演奏に影響を及ぼした演奏モデルを確立した。

 ヴィヴァルディ演奏のすべての水流が一つの大河に集まって広い解釈の海に流れ出る。その大河の滔々とした流れは、本当の苦戦のように絶え間ない刺激を与え、いつでも参照することができる偉大なレファレンスとなる。

ズルリアーノ・カルミニョラ (独奏バイオリン、ピエトロ・グァルネリ、1773年)
ソナトリ・デ・ラ・ジョイオサマルカ DIVOX ANTIQUA CDX-79404 (1992年録音)

 <四季>の愛好家たちにカルミニョラはもうお馴染みの名前である。<四季>を何度も演奏した人は多いが、モダン楽器とピリオド楽器の両方で立派な録音を残した人は、たぶんカルミニョラが唯一だろう。ブレチア-ベルガモ国際フェスティバル室内オーケストラと共に演奏したモダン楽器の実況レコード(fone)に続いて、「マルカの楽しい音楽家」とはピリオド楽器で演奏している。

 ただ楽器が変わったものだけではなく、編成もとても小さくなって、通奏低音楽器を除外してはすべて各パート一つの楽器で構成された、最小編成である。ハープシコードとアーチリュートが通奏低音楽器に使われて、曲によって多様な組合で演奏される。

 この演奏は、最小編成であると信じることができない程、豊かな音響と幅広いダイナミックを誇る。速いテンポと強いリズム感、誇示的なヴァイオリンソロの演奏は、同時期に演奏された他のイタリア正格演奏団体のものと類似するが、生命力が溢れながらも表現は控えめで、アンサンブルはより精巧だ。それぞれの楽節にダイナミックを配分する方式は変化が豊富で、初めからそのように意図したかのように余りに自然に演奏している。

 確かにカルミニョラは部分的な描写、自然のリアルなイミテーションそれ自体だけに集中するのでなく、もっと純音楽的な側面、協奏曲の原理に忠実なように見える。表題音楽に対するカルミニョラの観点は、カルミニョラと「マルカの楽しい音楽家」のほかの傑作レコードである〈Concerti della Natura〉(Erato)にもうまく現れている。自然を模倣するだけでなく、もっと完全に加工しているのである。

 マンチェスタ筆写本を使用したDIVOXレコードの唯一の短所であると言えるのは、同じ楽譜を使用したビオンディの初録音(OPUS111)と同じように、緩徐楽章の即興演奏が除外されたということである。

 カルミニョラは最近、アンドレア・マルコンが指揮するベニス・バロック・オーケストラと共に<四季>をソニー・レーベルで再び録音した。ベニス・バロック・オーケストラ方は編成が倍に拡張されて、即興演奏も含まれて、通奏低音楽器もさらに強化されたので、小編成であった以前の演奏に比べて、耳を興奮させる華麗な色彩感とリズムが加味された。一方、ソロヴァイオリンは相対的に弱くなって、全般的な曲の力動性や、ダイナミックは顕著に減少する結果を生んだ。

 一方、ベネチア・バロック・オーケストラの<四季>では、アンドレア・マルコンの指揮下に改編される前、まだアカデミアデサンロコベネチアという名前を持っていた1996年に、エンリコ・カサチァが独奏ヴァイオリンと指揮をとったレコード(ARTS)が、注目に値する。ここでは反復楽節でテラス的ダイナミックの効果的な使用、速い楽章でも支障のない独奏ヴァイオリンの即興演奏が目立った特徴である。

 トーマス・ツェートマイア (独奏ヴァイオリン、製作者未表記)
 カメラータ・ベルリン BERLIN Classics0011642BC (1995年録音)

 ベンゲロプ、ベル、ミュルロバがガット弦を使ってバロック弓を取るずっと以前に、ツェートマイアはすでに歴史的な演奏方式を多方面に実験してみていた。その成果がまさにブリュッヘンが指揮したべートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、アムステルダム・バッハ・ゾリステンと共に演奏したバッハのヴァイオリン協奏曲、そしてここに紹介するヴィヴァルディの<四季>だ。

 この演奏は完全にピリオド楽器を使用した訳でも、弓と楽器のセッティングを部分的にピリオド楽器のように代えた訳でもなかった。ただ演奏スタイルは歴史的な演奏方式を忠実に従っている、いわゆる折衷主義的な演奏である。ただ演奏方式だけを変えたのにもかかわらず、この演奏は驚く程、ピリオド楽器演奏と似ていて、ありふれたモダン楽器演奏とはその音響から違う。速く、リズミカルで、聴いただけでは判らないようなやり方でダイナミックを具現する。通奏低音には生気はつらつとしたリュートサウンドが運動性を加えている。ヴィブラートの細心な使用は、表現力を一層倍加させている。全体的なサウンドはいちばん優秀なピリオド楽器演奏団体に匹敵するくらいで奇麗で、暖かく包まれるような感じが素晴らしい。これは単純な模倣以上のものである。

 ツェートマイアの個性がよく分る部分は緩徐楽章で、即興的な装飾が付け加えられているのだが、緩徐楽章の演奏は一般的な演奏より二倍ぐらい速い。また、緩徐楽章で伴奏楽器の積極的な参与が目立つ。例えば<春>2楽章の独特な犬の吠える音など、特定パートを目立たせる為に意図的に楽譜と違うように演奏したりする。

 現在は歴史的な演奏方式がモダン楽器の演奏にも多くの影響を及ぼしているので、ツェートマイアの<四季>のようなものは、ある面ピリオド楽器演奏であるかないかを区分することが無意味かも知れない。表面だけつやつやしているナイジェル・ケネディや、自分なりに斬新な解釈を試みたが期待に応えることが出来ていないクレメルとムターの新録音、新しい姿をほとんど見せることができなかったカントンソク、チョンキョンファの演奏と比べてみるときツェートマイアの<四季>は優れた、断然きわだつ存在であることに間違いない。

 ファビオ・ビオンディ (独奏ヴァイオリン、製作者不明、18世紀中後半)
 エウロパ・ガランテ Virgin veritas5454652 (2000年録音)

 桐山建志 (独奏ヴァイオリン、沢辺稔、1991年グァルネリ・デル・ジェスのコピー)
 武久源造 (指揮、ハープシコード)
 コンヴェルスム・ムジクム 
ALM ALCD-1043 (2002年録音)

 最後に表題の描写と表現と言う側面で、その水準を一層引き上げた演奏二つに言及したい。<四季>の表題をどのように眺めるかという問題は、色々の理由(表題と描写の具体性、適切な位置が指示されたソネットの行、オペラとの関係性)の為に、その表題を「積極的に表してくれるほうが良い」と言うのが一般的な立場らしい。学者によっては、<四季>をはては「器楽だけで演奏される音楽劇」、「一遍のドラマ」などという見方をしている。

 それではどのように表現するか、ということが重要な問題になってくる。ここでヴィヴァルディの演奏方式を理解することは重要だが、ヴィヴァルディと同じく演奏しようと試みることは不可能であり、また意味もない。なぜならば、<四季>に表現された人間のすべての行為は、自然と時間の流れの中できわめて日常的であり、現実的にそこに表現された感情とは、自然に現在のものになるからである。

 従って文字で書かれた表題を音楽化する為には、まるで台本だけで実際動作を演技する演技者のように、<四季>の演奏者は自分の経験とすべての想像力を加味しなければならない。いわば代表的な描写部分である<春>のはじめの鳥たちのさえずりは、本物の鳥たちが囀っているということを想像しなくては、またその想像を実際に具現することができなくては、平易なヴァイオリン合奏に終ってしまうだろう。

 そのような点で、この二つの演奏は魔法のような力を発揮する。ビオンディはすでにはじめの録音で音響の素晴らしい例を見せた。それぞれのパートのヴァイオリン演奏者は、まるで鳥たちが近くに、また遠くいるように音の増減で立体感ある音空間を創造してみせた。二番目の演奏では、強弱は少なめになった一方、音色の変化がもっと加味された。彼らの演奏で有名になった部分は、<冬>1楽章のぞくぞくしたコルレーニョである。ビオンディとその同僚は、すべての感情と風景を耳で感じることができるようにレコードに盛り込むことに成功した。

 先頃韓国にも来た、桐山建志とコンヴェルスム・ムジクムの演奏は、もっとセンセイショナルで、ここでは実際に独奏ヴァイオリンの周囲でそれぞれのヴァイオリン奏者が鳥になって飛び回る(!)。このようなパフォーマンスを実際に見ることは大変な経験である。コンヴェルスム・ムジクムは音楽的な描写を視覚的な領域で拡張させた。<秋>の演奏が最も魅力的だった。ヴァイオリニストはまるで酔った人のようによろける。銃声も騒々しい猟場で音源と演奏者は休む間もなく、追いつ隠れつ、また逃亡を図る。そうしつつも、単に視覚的な側面だけを強調したのではなかった。例えば秋1楽章のUbriaco(酔っぱらい)のよろける動機が、実際の動作とどれほど絶妙に一致するのか体験してみれば良い。祭りの後の眠り場面での、低音パートの気分良いいびきはまたどうだろう?演奏する人も大変な想像力を発揮したが、聞き手もやはり豊富な想像力がなければならない。直接目に見たり、そうでなくても頭の中で想像してみないで、ただ耳で聞いただけではこの演奏の真価を、半分程しか理解することができないだろう。

 ある人は、このような演奏を過度に破格であると考える。けれどもヴィヴァルディが意図したInventioneを具現する為には、まさにこのような冒険精神が必要なものである。去る半世紀間ヴィヴァルディ演奏家、そしてバロック音楽の解釈が絶えず新しくなって、広く認められることになったものは、どのように演奏されなければならないと言う枠を、絶え間なく破って想像力を刺激して来た偉大な解釈者と演奏者の功である。

copyright Mr. Choi, Ji-Young 2002

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