メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 作品12, 13, 44, 80

 今年(2006年)、生誕250周年ということで世間を賑わしているウォルフガング・アマデウス・モーツァルトに、勝るとも劣らない素晴らしい才能を、幼少時から発揮したフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディであるが、その優れた数々の作品に比べて、正当な評価をされているとは決して言えないのではないだろうか。それは、彼がユダヤ系であったということもある程度関係しているのであろう。七歳の時にキリスト教に改宗しているが、それでもなお、優秀なユダヤ人として、いわれなき迫害を受けることも少なくなかったようである。

 1809年2月3日、富裕な銀行家アブラハム・メンデルスゾーンとレア・ザロモンの長男として、ハンブルクに生まれたフェリックス・メンデルスゾーンは、姉のファニーとともに幼い頃から音楽教育を受けるなど、恵まれた環境の中で育った。ファニーは、彼女自身優秀なピアニストであり、女性作曲家の先駆者でもあったが、弟フェリックスの何よりの心の友、良き理解者、良き導き手であった。

 メンデルスゾーンは、幼少期から多数の作品を書いていたが、有名な「序曲ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)」「スコットランド交響曲」などの着想を得た1829年のスコットランド旅行あたりを境に、改訂に改訂を重ね完全なものだけを残そうとする姿勢がかなり強くなってきた。自身、「もうこれ以上は良くできないと納得するまで、自作に手を加えずにはいられない」と述べている。たとえ初演が大成功に終わったとしても、出版に当たっては、さらに改訂しなければ気が済まなかったのである。そして、その改訂が校正段階でも行われているため、ふつうは自筆譜が一番信頼おける原典資料であるといえることが多いのだが、メンデルスゾーンの場合は一概にそうとはいえないのである。また、初期稿で一度修正したものを、出版時に元に戻していることなども少なからずあり、ことはいっそう複雑になっている。手を加えることによって、必ずしも良くなっていくとは限らないと思うのだが。実際、交響曲「イタリア」の改訂については、姉ファニーを始め、周囲の反応はいささか冷たかったようである。

   メンデルスゾーンの弦楽四重奏のための作品としては、作品81(1849年出版)として没後出版されている四つの小品「アンダンテ(主題と変奏)」「スケルツォ」(以上1847年作曲、未完の四重奏曲用と思われる)「カプリッチョ」(1843年作曲)「フーガ」(1827年作曲、1823年作曲の四重奏曲終楽章の替わりに、新たに作られたものではないかと見られる)、幼少期に作曲された「15のフーガ」などのほかに、1823年に作曲された変ホ長調の弦楽四重奏曲も残されているが、この作品は習作的な色合いが濃く、また前述のメンデルスゾーンの姿勢から考えても、彼が本当に完成させた弦楽四重奏曲は、今回取り上げる六曲であるということも出来るであろう。

 メンデルスゾーンはバッハの「マタイ受難曲」の復活初演をしたことでも知られているが、バッハやベートーヴェンなどの作品も、充分に研究していた。弦楽四重奏曲の形態は、ハイドンによって確立され、モーツァルトの「ハイドン・セット」や、ベートーヴェンの作品18へと受け継がれ、発展してきた。古典的なその形式とは四つの楽章からなり、速いソナタ形式による第一楽章、ゆっくりなソナタ形式や歌曲形式の楽章と、メヌエットやスケルツォの舞曲楽章を挟んで、ソナタ形式またはロンド形式による終楽章、というのが基本である。ベートーヴェンの後期作品では多楽章形式になるなどこの形は破られているが、メンデルスゾーンはどの曲も、この基本をほぼ守っている。    メンデルスゾーンは、十九世紀前半において、ベートーヴェンの後期作品を入念に研究し、そのテーマ素材や独特の音楽語法、作曲技法を学んだ、数少ない作曲家の一人である。しかし彼は、それらを無批判に自分の作曲法に取り入れたのではなく、さらに発展させて独自の音楽語法として消化している。

 1827年に作曲されたイ短調の弦楽四重奏曲作品13では、第一楽章におけるテーマの対位法的な扱いかたなど、明らかにベートーヴェンの同じイ短調の四重奏曲作品132に類似している。提示部が繰り返されない点も、同作品を手本としたためなのであろうか。また、歌曲(作品9-1)のモチーフを用いているところなどは、同じくベートーヴェンの弦楽四重奏曲作品135を思い起こさせる。コーダ部分でヴィオラの分散和音が印象的であるが、これは弦楽四重奏曲変ホ長調「ハープ」作品74の第一楽章コーダを意識したものであろうか。そしてヘ長調でかかれている第二楽章は、やはりベートーヴェンの弦楽四重奏曲ヘ短調「セリオーソ」作品95をモデルにしているといわれているが、中間部ではベートーヴェン後期のスタイルを感じさせるところもあり、また楽章の最後に見られるタイの使い方は、作品132と共通している。そして第三楽章においては、彼は全く独自の路線をとる。舞曲楽章としてのメヌエットやスケルツォの代わりに、リート楽章「インテルメッツォ」をおいたのである。その中間部はフーガのように始まる妖精が踊っているかのような音楽。しかし終楽章では、再びベートーヴェンの作品がモデルになっている。この楽章のモデルはピアノ・ソナタ「テンペスト」作品31-2の第一楽章であるという説もあるが、冒頭のレチタティーヴォ風の部分や、それに続く主要主題の伴奏は、まさに弦楽四重奏曲イ短調作品132のアイデアそのものである。まるで、この作品が書かれる数ヶ月前に亡くなった偉大な作曲家、ベートーヴェンへの敬意を表しているかのような作品である。最後は、第二楽章の第二主題や第一楽章冒頭で使われた歌曲のモチーフを再現して終わる、一種の循環形式である。

   その二年後の1829年の9月、イギリス、スコットランドへの大旅行中にメンデルスゾーンは変ホ長調作品12の四重奏曲を完成させている。メンデルスゾーンはこの曲を、「B.P.(ベティ・ピストア、メンデルスゾーンの若き恋人)のための四重奏曲」と呼んでいる。ここでは、第一楽章の導入部にベートーヴェンの弦楽四重奏曲変ホ長調作品74との関連が見られる。展開部とコーダにおいて、新しい第三のテーマが登場するが、リズム的、旋律的には先の二つのテーマと似通ったものである。先の作品13では第二楽章に緩徐楽章を置いたが、この曲では舞曲楽章の代わりの「カンツォネッタ」を先にもってきた。このト短調の楽章は特に有名で、単独でもよく演奏される。ト長調の中間部では、技巧的な十六分音符のパッセージがやりとりされる。それに続く緩徐楽章は、変ロ長調でかかれている。従来の楽曲形式にはよらず、レチタティーヴォ風の部分も持つ自由な形式でかかれており、独立した楽章というよりは、アタッカで続く終楽章の導入部という役割が大きいかもしれない。終楽章は、二発の重音のあと、いかにもメンデルスゾーンらしい技巧的なパッセージが続く。第一楽章と同じくソナタ形式でかかれているが、展開部に当たる部分には第一楽章の展開部が、そしてコーダは第一楽章のコーダがほとんどそのまま再現しており、この曲も循環形式ということもできる。

 以上の二曲は1830年ほぼ同時に、作品12はホフマイスター社から、作品13はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版されたが、なぜ作品番号が作曲順と逆になったのかは、明らかではない。もしかしたら、ブライトコプフ社への原稿提出が遅くなったためなのかもしれない。そして二曲とも、スコアはかなり後になってから、作品12は1841年、作品13は1843年にようやく出版されている。

   作曲年代順にいくと次の作品は、弦楽四重奏曲ホ短調作品44-2である。1837年3月にセシルと結婚したメンデルスゾーンは、この作品を新婚旅行中に書き始め、その年の6月に初稿は完成している。作品44では三曲とも、楽曲構成の面では先の二曲と比べてさらに古典的な基本に立ち返っている。すなわち、第一楽章のゆったりとした序奏はなくなり、提示部は繰り返される。そして舞曲楽章(ここでは第二楽章に置かれている。以後、彼の室内楽作品はピアノ・トリオでは緩徐楽章が先であるが、弦楽四重奏曲、五重奏曲はすべて舞曲楽章が先に、緩徐楽章があとに配置されている)には、スケルツォ(二番、三番)やメヌエット(一番)を用いている。第一楽章の二つの主題は、同じリズムで旋律的にも似通っていて、それに強いコントラストを与える十六分音符でめまぐるしく動く経過句、そして鋭い付点のリズムが強調される終止句で構成されており、どちらかというとテーマより経過句の方が印象に残る。第二楽章スケルツォは急速な、めまぐるしく動く「妖精の音楽」。そして緩徐楽章は、この四重奏曲の価値を際だたせている。第二ヴァイオリンの十六分音符、ヴィオラの八分音符の動きの上で第一ヴァイオリンが歌う美しい「無言歌」。形式的には、展開部のないソナタ形式で、再現部では美しい旋律はチェロで奏される。終楽章は、ロンド・ソナタ形式の成熟した例である。七度の跳躍によって示される叙情の第二主題が印象的である。  

 その年の冬に着手した弦楽四重奏曲変ホ長調作品44-3は、翌38年2月に初稿が書き上げられた。第一楽章はほとんどベートーヴェン的である。冒頭、アウフタクトの十六分音符の音型が、楽章全体を支配している。このような冒頭の動機が楽章構成の中心となっている点は、ベートーヴェンほど徹底していないにしても交響曲「運命」を思い起こさせる。続くハ短調のスケルツォは、典型的なスケルツォ楽章の形式ではなく、おおよそA(a-a'-b-a)−B−C−A(b-a)−C−Coda(B'−A')という、ほぼ対称型になっている。A部分は第一楽章のモチーフを広げたような八分音符の音型が主となり、B部分はフーガ、C部分ではA部分の音型の上に旋律的な主題が現れ、「真夏の夜の夢」を思い起こさせる部分である。緩徐楽章は変イ長調のアダージョ。ホ短調四重奏曲の緩徐楽章と、基本的には似た構造を持っている。フィナーレはロンド・ソナタ形式の輪郭がはっきりとした楽章。やはり十六分音符の動き(上行分散和音と下降音階)が中心になっており、主要主題のオクターヴの跳躍が、後にユニゾンで九度の跳躍になってアクセントを添えている。この曲は所々、初期の弦楽八重奏曲作品20(1825年作曲)を思い起こさせるような気がするのは、同じ変ホ長調のためでもあろうか。

 調性の面では作品番号のない四重奏曲も含めると、七曲のうち三曲が変ホ長調であるが、この調性は弦楽器にとって決して弾きやすい調ではない。そういえば、ヴァイオリン協奏曲もたいていの作曲家がニ長調で書いているのに対してメンデルスゾーンの有名な作品はホ短調(初期の作品はニ短調)であるし、ヴァイオリン・ソナタは三曲ともヘ調(作品4が短調、没後発見された二曲が長調)である。メンデルスゾーンの調性に対するイメージというのは、何か独特なものがあったのではないかと思われる。

   作品44の最後の作品は、ニ長調作品44-1。1838年7月に初稿が完成している。メンデルスゾーンにしては珍しく、弦楽器が一番輝かしく響くニ長調で書かれた第一ヴァイオリンの名人芸が光る作品である。第一楽章は、形式的には驚くほど規則的で、第一主題が経過部や終止部で対位法的に展開されている。幾分古風な第二楽章は、ロココ調のメヌエット。通常のダ・カーポ・メヌエットの後に、中間部の素材を使った短いコーダがある。続くアンダンテは、スラー・スタッカートの十六分音符が特徴的な、郷愁をそそるロ短調の楽章。終楽章は、輝かしく鳴り響く第一楽章の性格を受け継ぐ。ロンド・ソナタ形式は、見せかけの再現(126小節)が聞き手を混乱させるかもしれないが、明確にはっきりと現されている。急速な拍節の動きが、動機の曖昧さを消し去っている。

   以上、三曲の四重奏曲作品44は、1839年に初版パート譜が出版されたが、その際メンデルスゾーンは改訂を加え、曲の順番も変えた。ホ短調作品を真ん中に持ってきたのは、ベートーヴェンの三曲のラズモフスキー弦楽四重奏曲作品59と同じである。翌1840年には初版スコアも出版されており、ここでもいくつかの修正が加えられている。旧全集はこの初版スコアに基づいているが、この出版には実はメンデルスゾーン自身が関わっていたという証拠が残っておらず、しかも出版社が勝手に手を加えたと思われる部分もあるということで、新全集では初版パート譜を一番の資料として扱っているようである。メンデルスゾーン自身は作品44を「不完全な作品」と評していることから、もしかしたら、さらに大々的な改訂が必要と考えて、スコアの出版には着手したくなかったのかもしれない。しかし、初版スコアにおいては、初版パート譜に散見される和声的な誤りなどが、いくつか直されていることも事実である。

 作品44ではホ短調の終楽章を除いて、メンデルスゾーン自身がメトロノームの数字を書いている。この数字は基本的にかなり速く、楽章によってはほとんど演奏不可能ではないか(あるいは、現在より軽い当時の弓や楽器でなら効果的であったのであろうか)と思われるものもあり、ベートーヴェンのメトロノームの指示と似たところがある。ベートーヴェンの場合、メトロノームが壊れていたという説や、さらにメトロノームの一往復を一拍だと思っていたという珍説もあるが、現代の我々には速すぎると思われる数字を書く傾向がベートーヴェンだけではなかったというのは、当時と現代人のテンポ感の違いを表しているような気がする。

 また、ホ短調四重奏曲の第三楽章は、Andanteと指示されているが、初版パート譜には「この楽章は決して緩慢な(間延びした)演奏をしてはいけない(Dieses Stück darf durchaus nicht schleppend gespielt werden)」という脚注がある。Andanteという用語は、本来「行く(Andare)」から派生した語であり、レオポルド・モーツァルト(Leopold Mozart)の「ヴァイオリン教本(Gründliche Violinschule)」(1756年初版、87年第三版)にも、「進むこと(Gehend)。この言葉は、その曲の持つ自然な動きに任せなければならないということを指している(Dieß Wort sagt uns schon selbst, daß man dem Stücke seinen natürlichen Gang lassen müsse)」とあり、決して遅いというニュアンスはない。しかし、ルイ・シュポア(Louis Spohr)の「ヴァイオリン教本(Violinschule)」(1833年初版)には、「適度に遅く(mässig langsam)」と書いてあるのである。これは、メンデルスゾーンの時代には、Andanteは遅い部類のテンポを表す用語に変わりつつあった、ということを示している。これは、筆者の想像であるが、バロックや古典派の作品を充分に研究していたメンデルスゾーンにとって、Andanteは決して遅いという意味で使ったわけではなかったのだろう。それが、四重奏曲を書き上げて演奏してみたところ、自分が思ったよりかなり遅く演奏されてしまった。そこで、このような脚注を加えたのではないだろうか。

   さて、メンデルスゾーン最後の弦楽四重奏曲となったヘ短調作品80は、彼の最晩年、1847年の夏に作曲され、没後、1850年にパート譜が、翌51年にスコアがブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版された。38歳という若さではあるが、まさに、晩年という言葉がふさわしい作品である。この年の5月に、何かにつけ頼りにしていた姉ファニーが急死し、失意のどん底にあったメンデルスゾーンは、ファニーへのレクイエムとして、このヘ短調という調性を選んだ。全四楽章が有機的に構成されているばかりか、第一楽章では作品12の終楽章のテーマも用いられており、メンデルスゾーンのすべての弦楽四重奏曲を総括するような作品となっている。第一楽章はソナタ形式、ここでは、提示部および再現部の最後に変イ長調で叙情的な旋律が一瞬現れるほかは、カンタービレな旋律はほぼ完全に排除されている。冒頭、十六分音符の刻みは、シューベルトの四重奏断章D703を思い出させるが、それは表面的な形だけであって、内容的にはほとんど前例のないものである。この作品における独特な手法、斬新さは、第二楽章でいっそう明らかになる。軽妙なイメージがあるスケルツォという語は記されておらず、激しいヘミオラのリズムによる主部、そして、カンタービレの排除は中間部の不安なオスティナートにたどり着く。緩徐楽章はヘ短調で始まりすぐ主部の変イ長調に転調する。一見カンタービレに見えるが、やがて現れる付点のリズム、遠隔調への転調など、緊張感にあふれた楽章。シンコペーションが特徴のフィナーレは、厳格なソナタ形式。コーダでは第一ヴァイオリンにややレチタティーヴォ風な音型も見られる。

 この四重奏曲は1847年10月に初演されているが、その一ヶ月後11月4日に、かねて体調の思わしくなかったフェリックス・メンデルスゾーンも、姉の後を追うかのように、脳溢血で、急逝した。出版に向けての改訂作業は着手されておらず、そのためこの四重奏曲は最終稿が完成されているとはいえないが、しかし、そのことによって、この曲の価値が色あせることは全くない。メンデルスゾーン最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」(Ich bin müde, schrecklich müde.)であった。

※この解説は、2006年3月および5月、第一生命ホールでのエルデーディ弦楽四重奏団演奏会プログラム用に書いた物です。

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