レコード芸術 2001年1月号 新譜月評

 コンヴェルスム・ムジクムのりーダー、武久源造その人が書いているところによれば、彼らが目指してきたのは“原初回帰”、つまり作品が書かれた時代に帰ることであったという。ただし、「古い音楽を掘り起こし、それを蘇らせるという歴史的興味に終始するものではな」くて、「現代に生きるわれわれ自身のため、われわれの耳を活性化し、音楽と呼ばれるもののルーツに目覚め、地に根を下ろした音楽活動を再建するためだった」とする。もっともな話であり、私は賛成する。大賛成だ。

 ただ武久は遠慮でもしたのか、そうすることにより、多くの新しい聴き手を獲得したい、とは明言していない。しかし彼らは、自分たちだけのためにバロック音楽に取り組んでいるのではないはず。前述のような、彼らの明確な目的が達成され、その結果として彼らの演奏に共鳴共感する人たちが増えてくるのを待ちたい。

 このディスクでは、二曲のチェンバロ協奏曲のうち、一曲にチェンバロ、他の一曲にフォルテピアノを使うとか、鍵盤楽器が主役の三曲ではピッチはA=四四○だが、ヴァイオリン協奏曲ではA=四一五といったように、近年の研究成果を取り入れた細かい心くばりがなされている。しかしその反面、特別なバロック音楽ファンでない”普通の"聴き手にとっては、アンサンブルがまだ少々粗いのが気にかかる。それにチェンパロを使用している《チェンパロ協奏曲第三番》では、ときおりチェンバロが弦に圧倒され、その陰に隠れてしまっているような感じを受ける。これはどんなものだろう?

 今のコンヴェルスム・ムジクムに最も求められるもの、それは“洗練”だと私は思う。

岩井

 推薦 シリーズ「鍵盤音楽の領域」などですぐれた成果を上げている武久源造の、初のバッハの協奏曲録音である。武久は、おそらく新たなシリーズとなるであろうこの録音のために、ヴァイオリンの桐山建志らオーケストラ・シンポシオンや東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ、バッハ・コレギウム・ジャパンなどで活躍する気鋭の古楽器奏者たちとコンヴェルスム・ムジクムという新たなアンサンブルを結成するという力の入れようであり、チェンパロ協奏曲とヴァイオリン協奏曲、さらにソロの《イタリア協奏曲》という選曲もユニークである。そして、その演奏は、いかにも颯爽とした強い気概にとんでいる。武久のチェンバロ演奏が強い生命感と説得力をもっていることは、これまでのソロ演奏でも明らかだが、各パート一名という最小の編成によるコンヴェルスム・ムジクムも若々しく意欲的な演奏で、ソロとオーケストラがかっちりと組み合って、いきいきとしなやかな主張をもった表現をつくっている。チェロの諸岡範澄とヴィオローネの諸岡典経による充実した低音部がユニークであるとともに、演奏をいっそう手厚く、手応えのあるものにしていると言ってよいだろう。しかも、《チェンバロ協奏曲第四番》では、ソロにフォルテピアノ、通奏低音にガット弦を張ったチェンバロであるラウテンベルクを用いるという凝りようである。このあたりの楽器の選択や作品などについては、いつものように武久自身が委曲をつくした解説を書いており、これも大いに輿味深い読み物になっている。ただ、個人的には、フォルテピアノによる演奏は、音の丸みが必ずしもバッハに合わない面もあるように感じられた。そして、各声部の歌と構築性を的確に明らかにしながら多様なドラマと変化をつくった《イタリア協奏曲》も充実した聴きもので、《ヴァイオリン協奏曲第一番》では、桐山建志がしなやかに冴えたソロを展開している。後者では、もう少しソロとリトルネッロの対比があってもと思ったが、武久が解説で書いているように、ヴァイオリン独奏を中心とした合奏協奏曲的な面を示した演奏なのだろう。

歌崎

[録音評]二〇〇〇年八月、東京、三鷹市芸術文化センターで録音。解説書の写真を見ると、中央に四本のマイクが見え、七、八名の小編成で演奏されているが、低弦が豊かで芯がしっかりし、高弦が清澄で美しい、小編成とは思えない厚いサウンドを展開。チェンバロ協奏曲のチェンバロのよく粒立つ、つややかな音色も、ヴァイオリン協奏曲のヴァイオリンの透明でしっとりした音色も美しい。

〈90〜93〉三井

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