レコード芸術 2002年2月号 新譜月評

 熱っぽい、一途な《ヨハネ受難曲》が日本人の手によって生み出された。全曲通じて、指揮・チェンバロを受け持った武久源造のバッハ、特にこの《ヨハネ》に対する劇的造型への思い入れと、現在までのバッハに関する考証学的立場、また演奏法の新しい世界の試みなどにも眼くぱりを利かせての録音である。

 その昔、ちょうどニ十年前、ジョシュア・リフキンの《ロ短調ミサ曲》がリリースされ、世のバッハ・ファンを驚倒させたことがある。それは“各パートひとり"の演奏で、音楽学者でもあるリフキンの新しい学説の実証でもあった。“各パートひとり"主義に対する肯定、否定説はさて措くとしても、その徹底した演奏それ自体は、強烈なエネルギーの放射と、完壁な各パートの唱法の確かさで、まさに奇蹟としか言いようのない精神の充溢を示していたのである。

 武久はこの方法の是非を徹底的に分析し、その長所、短所を洗い出したようだ。彼ほここでは声楽パートは合唱にあってはだいぶ各ふたりずつを配し、アルトのパートでひとりはカウンター・テナーを加えている。

 各楽器、各パートのそれぞれが「自分がこの曲で何をなすべきか」という問いかけに対しての解答を確実に認識し、その自発性の勁さがどの楽節からも噴き出している。

 おそらくここまで到達するために、長い月日をかけた研究と実践、声楽的トレーニング、ドイツ語唱法などセミナーが行なわれたであろうことは想像にかたくない。ことに《ヨハネ》は《マタイ》にない“劇的展開”の要素を持っているだけに、各バランスが少しでも崩れると全体像は成立しないと言ってもよいほどである。

 各オリジナル楽器の奏者たちの名演を背景に(特にヴァイオリンの桐山建志、チェロの諸岡範澄が名演を聴かせる)、エヴァンゲリストの野村和貴、イエスのジュリアン・リポンをはじめとするアンサンブルがよく歌い込んであり、各アリアも立派に歌い上げている。カウンター・テナーの青木洋也の〈成就した〉のアリアは絶唱。これでフレーズの最後のところまでこの充実が保てば第一級中の一級なのだがEs ist vollbracht!の最後の一音符の支えの弱いのがほんとうに惜しまれる。声域的間題なのだろう。

 エヴァンゲリストの野村和貴にいまひとつ低音の充実がほしかったし、バスのアリアの小酒井貴朗(と思われる)も、声はのびやかですばらしく美声なのだが、音楽的持続力がさらに望まれた。これらが何年か先に熟してくるのをたのしみに待ちたい。

 武久のバッハは、劇的展開にあって、気持ちが先に立ち、客観性を失う場が応々にして見られる。彼はこれまでのバッハ指揮者が行なわなかったような内包的熱情をこの曲のなかに描き出したかったのであろうが、劇的頂点へ歩みを勧めるときに起こるクレッシェンド、アッチェレランドなど、さらにアゴーギクの振幅が曲のかたちを崩しかねないところも出てくる。コラールは概して美しく、表現もよく考えられているのだが。

 ともあれ、将来の日本のバッハ演奏に一石を投じ、同時に大いなる期待を抱かせるに十分な演奏の出現である。

畑中

[録音評]

 二○○一年四月十一日と七月八日の二度の演奏会のライヴ収録で編集されている。手堅い収録手法が感じられる録音で、自然な音場感と手堅いサウンドのバランスは良好だが、やや手堅さが勝っていてク
リアな収録になっている。オーケストラとコーラスのバランスは自然であり、これは絶妙と言えよう。本レーベルの主宰者、小島幸雄がトッパンホールでプロデューサー兼エンジニアで収録している。

〈93〉神崎

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