レコード芸術 2002年10月号

演奏における“自由”について  吉田秀和

 アーノンクール、ブリュツヘン、クイケン、ガーディナー……頭に浮かぶ−−−というより順序も何もなく、ただ口に出てくる名前を書き連ねながら、その名の下できいた、いわゆる「古楽器による」演奏のはしばしを思い出してみると、この人たちの仕事が、ヨーロッパ音楽の演奏の歴史の中で果たした役割の大きさに、いまさらのように、感心する。あれは、本当に大きな解放だった。この人たちのそれぞれがその中でまたずいぶん大きな違いをもってではあったが−−−活動がなかったら、今私たちが目の当たりしている音楽界の在りさまはまるで違っていたにちがいない。

 フルトヴェングラーがいて、カラヤン、バーンスタインがいようとも、ホロヴィッツ、リヒテルがいようとも、グレン・グールドが、ハイフェッツがいようとも、音楽は化石とまではいわなくとも、何か動きのとれないような、こわばった表情のものになっていたのではないのだろうか。

 私は、いつも書いてきたように、「古楽」一点張りではなく、またフルトヴェングラーさえいれば、クライバーも何もほかのどんな指揮者もいなくていいという考えのものでは全くないのだが、それでも、こういう流儀の大指捧者、大演奏家だけでは、モンテヴェルディからバッハに至るまで、モーツァルトからブラームス、マーラーにいたるまで、ドビュッシiからブーレーズに至るまでの音楽でさえ、果たして二十世紀を生き延びてこられたかどうか、わからなかったような気がする。

 この間も、私はレオンハルトのバッハ、鈴木雅明さんのバッハをきいて、改めて感動した。そうして、最近では桐山建志さんのヴァイオリンと武久源造さんのチェンバロによるバッハ(ヴァイオリンとチェンバロのための)BWV1014から1016に至る三曲のソナタを、ちよっと言葉で言ってみるのも下らないと思ってみるくらい、おもしろくきいた。このニ人の、同じ古楽器派の人たちともまたちよっと手ざわりの違うバッハをきいていると、本当にバッハが新しく生きかえってきたような気がする。今まで寝ていたのが、起き上がって来て、きいている私に向かって、「やあ」と話しかけて来るような気がしたのだった。

 私はカール・リヒターのバッハが好きでよくきいてきたが−−−今でも、時々ききかえす−−−鈴木雅明さんのバッハの身近な感じは、また、格別の味わいである。それと同じというのではないけれど、この桐山・武久のバッハは新鮮で、しかも身近だ。つまり、「あっ、こんなところもあったっけ」と改めて気づく個所もたくさんある一方で、何か初めて出会った珍しい人の話をきいているというのとはまるで違うのである。

 たまたま、ヘンリク・シェリングの来日演奏会(1976年東京文化会館)でのオール・バッハの曲集によるCDが来たので、それをきいてみた。

 シェリングのバッハは、あのころ、心ある人たちの中には最高のバッハと考えているものが少なくないくらい高く評価されていたのである。

 今、そのCDが出て、きき直してみると、りっぱなものである。シゲティの知性の勝った行き方とはまた別の「精神美」の輝きは、これをきいても、ありありと思い出されてくる。

 しかし、桐山・武久のコンビのバッハのもつ「自由で、生き生きと呼吸している感じ」に比べると、これは何としかめつらしい硬いものだろう。この二人と違って、きいている間にだんだん近くによって来るというのでなくて、あくまでも威儀を正して、向こう側を歩いている人の姿をみているような感じである。どの音をとっても、どのフレーズをとっても、無駄一つない、引き締った精神の充溢があるのは確かだが、きいていて、とてもとても、こちらから話しかけるなんて気にはなれない。りっぱなものだけれど、そんなに始終聴く気にはなれない。

 私は、何もシェリングの価値を貶めようと思って書いているのではない。

 それに、これはシェリングだけのことでもない。トスカニーニだって、ムラヴィンスキーだって、こうだった。

 そういう大家たちの演奏を、さんざんきいて来た私たちにとって、アーノンクール、クイケン、トン・コープマンなどなどの人たちが出て来たことは何と大きな救いだったことだろう!彼らがどう意識していたか、私はよく知らないけれど、この人たちが「かけがえのないヨーロッパ・クラシック音楽」の源泉に立ち戻って、新しく出直したということの意味を、全く知らずに仕事をはじめたということは考えられない。

 その結果が、果して、「カエサルのものはカエサルに」戻したように、音楽を再び「古の響」そのものに帰したのかどうかは、わからない。この分野での知識も何も欠けている私の想像では、彼らのやったことは、かって十六世紀末から十七世紀初頭にかけてのフィレンツェの人文主義者たちが「古代に戻る」ことを目指して、音楽劇をつくることを通じて、オペラという破天荒の新しいものを創造したのに、むしろ、似たような結果になっているとしても、不思議ではないのではないかという気がする。

 それくらい、「古楽器派」の人たちは音楽を新しくよみがえらせた。あるいは新しいよみがえりへの霊感と、そのいろいろな手がかりを提出した。

(後略)

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