レコード芸術 2002年11月号 新譜月評

 第一集と同様、チェンバロ協奏曲第一番ではチェンバロ、同第五番ではフォルテピアノといったように、曲によって楽器を使い分け、仲間たちとの”手作りの演奏”の趣を強めている。ちなみに武久源造がフォルテピアノを用いた第五番では、通奏低音を受け持つチェンバロは、武久とは別の奏者が起用されている。

 パロック楽器を用い、一パートひとりで演奏するのを原則(二曲のチェンバロ協奏曲においては、第一ヴァイオリン・パートだけがふたりで演奏されている)としているコンヴェルスム・ムジクムに求められるのは、響きのいっそうの洗練、つまりは室内楽的な重奏能力のいっそうの向上。加えて言っておけぱ、緩徐楽章になると音と音の間に一種のすき間が生じ、たるみと言うのか、停滞感が強まるのが気にかかる。この点は、一考、再考、三考する余地があるのでは?

 武久のチェンバロ・ソロによる《半音階的幻想曲とフーガ》。わが耳にはチェンバロ協奏曲第一番のソロとは、多少違って響いた。と言うのは、前者の場合、タッチがやや重々しく感じられたから。ひょっとすると、この名作に対する武久の深い思い入れが、無意識のうちに彼に“熱演”を強いたのかもしれない。 〈岩井〉

推薦 武久源造とコンヴェルスム・ムジクムによるバッハの協奏曲シリーズの第二集である。前作と同様にチェンバロ曲も入っており、「バッハのコーヒーハウス・コンサート」と題された今回は《半音階的幻想曲とフーガ》のほか、いずれも短調の三曲の協奏曲を収めている。バツハがツィマーマンのコーヒーハウスで、こうした短調の曲ばかりを集めたコンサートを実際に開いたかはともかく、その選曲は、武久とコンヴェルスム・ムジクムの“オリジナリティあふれる演奏解釈とダイナミックな演奏”(解説書の演奏者紹介より)を前作以上に鮮やかに際立てていると言ってよいだろう。仮想のコンサートは《半音階的幻想曲とフーガ》ではじまるが、まずここでの武久の演奏がすばらしい。一音一音まで表現への意志が明快に行き渡った音を自在に駆使して、スケールの大きな演奏を確かな構築性と深く大きな起伏をもって展開している。そして、武久の演奏がもつ求心力は、つづいて演奏される同じニ短調のチェンバロ協奏曲第一番にもしっかりと受け継がれていて、コンヴェルスム・ムジクムがいかにも表現意欲にあふれた演奏をいきいきと織りなしている。低域がかなり強調された録音とあいまって、少々デフォルメされた感があるのも確かだが、それだけに陰翳の濃いダイナミックな演奏は、多様な変化と強い説得力をもっている。

 尾崎温子と桐山建志のソロによる《オーボエとヴァイオリンのための協奏曲》ハ短調も、これまでの演奏には聴くことのできなかったようなデモーニッシュな世界を内に秘めている。そして、チェンバロ協奏曲第五番へ短調では、前作の第四番と同様にソロにフォルテピアノを用いており、この楽器特有の丸い音はここでも好みを分けそうである。しかし、武久の言うようにバッハの悲しみの調性であるへ短調で書かれたこの協奏曲では、いくぶんくぐもったフォルテピアノの音が第四番以上に曲調にマッチしているし、第三楽章のエコーでも、通奏低音のチェンバロとの響きの対比が効果的に生かされている。 〈歌崎〉

[録音評]2001年一月から八月、秩父ミューズパーク音楽堂で録音。第一曲のチェンバロの左右への広がり感はやや聴きとりにくいが、細かな音がよく粒立ち、音色が透明、つややかで美しい。協奏曲ではオーケストラが豊かな響きとともに、数名の編成とは思えない分厚いサウンドをゆったり展開。フォルテピアノ、オーボエなどのソロ楽器も美しく、オーケストラとのバランスにも過不足がない。 〈90〜93〉三井

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