レコード芸術 2003年10月号 新譜月評

武久源造を中心に集まった古楽奏者、また声楽アンサンブルを包括し、2000年にコンヴェルスム・ムジクムが誕生した。

 今回の《メサイア》はこれに加え、国分寺チェンバークワイアの15名の参加を得て、02年、カザルスホールでのライヴが実現した。

 ライヴの常として、最初のうちは固さが目立って、音楽が流れて来ないものである。ことに声楽に関するものは、ほとんどが後半になって声も精神的にも余裕が出て来る。この《メサイア》とて他と同様、最初のうちは緊張のほうが伝わって来て、ヘンデルらしいのびやかなフレーズがことに独唱部分では聴かれなかった。

 武久はそれぞれの部分など、テクストに応じた表現や、テンポの設定などに新しい工夫を見せているものの、器楽面の充実に比して声楽面の弱さが武久の意図を十分に表わせなかったようだ。武久の一音符一音符へのこだわりの中に、ヘンデルの中にあるイタリアの情感を聴きとれるのは愉しいが、まず各パートのピッチ、ソリストたちの声のフォームの安定を心掛けてほしい。とはいえ、第2部に入ってコーラスも安定してきて次第に活気を帯び、白熱的な瞬間を作り出す。これだけ歌えるのなら、最初から−と思うものの、これがライヴの宿命だ。スタジオ録音なら順序を逆にすることも可能だが。

 女声ソリストはいずれもしっかり歌えているが、男声はいささか問題を残した。それぞれヘンデルの時代に沿った自由な装飾のヴァリアンテが工夫されている。

 このメンパーで毎年演奏を深めていけぱ、“心あふれるメサイア”がステージから流れてくるはずだ。〈畑中〉

 《メサイア》のような長丁場の曲を演奏するとなると、全体のめりはりのつけ方、山場の張り方が問題になる。この曲の場合、もちろんそれははっきりしていて、〈アレルヤ〉に設定すれぱよいわけだ。それがどのように効果を出せるか。このCDの〈アレルヤ〉は、犬見得を切った、ドラマティックなアコースティックで聴き手を圧倒しようとしない。もったいぷったところのない、落ち着いたひびきで、心のなかにじんわりと感動が染み込んでゆく道を選んでいる。これはとても好感がもてる。

 全体の出だし(第1部序曲)もすぱらしい。思い入れが探く、ふくよかでありながら、純なもの、超越的なものへの接近を感じさせる。第2曲でもチェンパロは精妙でうるおいのある純なひびきを奏で、テノールの野村和貴もその敬虔な雰囲気に合っている。第8曲でのアルトの青木洋也も説得カに富む。全体に澄んだ空気感もただよっていて、趨越的な世界が望見される。

 出だしはなかなか期待がもてたのだが、〈田園曲〉あたりから、疲れてきたのか、全体にだれ気味になり、リズムが堅く、のびのびとした空気が重苦しくなって、緩急の自在が失われがちになる。器楽ではヴァイオリンはしなやかに歌うものの、低弦がそれに対応しきれていない。独唱陣でもレチタティーヴォの出来にむらが出てくる。ソプラノの松堂久美恵は美しい声で聴かせ、志はあるものの、腰がいくぷん弱い。こうして全体が沈滞気味になってくるなか、バスのリポンが気を吐いて、声の威カを見せつけ、牽引カの役割を果たそうとするかのようだ。

 そして山場の〈メサイア〉で落ち着きをとり戻す。その後は気が楽になったのか、生き返ったように生彩を放ち、第46曲では、器楽とソプラノの掛け合いも光彩をおび、つづく第47曲の合唱もテキストに合った説得カで聴かせる。それも束の問、フィニッシュに近づくと、ふたたび全体は重苦しくなってくる。合唱に威カがあり、最後の締めくくつにふさわしい重厚さとも言えるが、どこか暗い印象を残す。全体を通しての統一感というか、むらがなくなれぱ、聴きごたえのある演奏になったと思われる。〈喜多尾〉

[録音評]2002年4月、東京・カザルスホールでのライヴ録音。距離感が適度で、左右によく広がる各パートをよく聴きとれ、それらがほぽウェル・バランス。独唱のなめらかな歌唱がわずかにこもり気味になるところが惜しまれるが、それぞれの位置感は明瞭。そうしたホールの響きのくせを感じさせるところ以外に、ライヴのハンディらしいところはなく、無難にまとめられでいる。〈90〉三井

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