J.S.バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのための作品集Vol.2

大塚直哉 Interview

●このシリーズのテーマ、即ち、バツハのヴァイオリンとチェンバロの曲の間にリュートの響きがあったのではないか、と考えるに至った経緯を聞かせて下さい。

大塚 有名なバッハの無伴奏ヴァイオリン曲は、曲自体は素晴らしいけれども、正直に言うと、演奏会で聴くのはつらいなあ(笑)と、ずっと思っていたのです。もっとも、普通のヴァイオリン曲にはない要素があるのではないだろうか、というようなことは昔から言われていて、様々なアプローチがなされてきました。例えば早い例では、19世紀のメンデルスゾーンやシューマンがピアノ伴奏をつけていますが、どうしても原曲の持っていた緊張感がゆるんでしまうように感じられます。また、パガニー二のように華麗な技巧を披露するような方向での演奏も、何か一つ腑に落ちないものがあります。

●しかし、そこでリュートというのを思いついたのは、どういうきっかけからでしょうか。

大塚 古楽器のひとつに、ヴィオラ・ダ・ガンバという擦弦楽器がありますが、弦が6〜7本あるために、ヴァイオリンやチェロなどよりも隣りあう弦の角度が少なく、ずっと和音を奏でやすい構造になっています。チェンバロはリュートに鍵盤をつけたものとよく言われますが、ガンバもリュートを弓で擦っていると考えるべきものだそうです。留学中に出会っだヴィーラント・クイケンというガンバの名手がレッスンの時に、盛んに、「ガンバはチェロのようにではなくリュートのように弾くべきだ」と言っていました。なるほどなあと思っていたある時に、ヴァイオリンだってリュートのように弾かれることがあってもいいのではないか、と言った人がいた。僕は非常に共感を覚えたと同時に、まっさきに、バッハの、とくに無伴奏ヴァイオリン曲のことを想ったのです。例えば本来、3声のフーガであれば、一人目がテーマを歌い、二人目が歌い、三人目が歌って、その三人がそのあとずーっと各自が自分のパートを続けてなければいけないのに、バッハの無伴奏のフーガの場合は途中で一人になってしまったりする。出だしだけ歌って、いつの間にか、或るパートはどこかにいってしまったりする。けれどもこういう書き方は、まさにリュートの音楽の中に見られるものですよね。このようにリュートをヒントに見てみると賦に落ちる部分がバッハの無伴奏ヴァイオリン曲の中にたくさんあることに気づいたのえす。ああ、これはチェンバロの音楽と同じだと思いました。バッハの作品のように、ヴァイオリンの音型がたくさんチェンバロに移されたり、チェンバロ的な音型をヴァイオリンに弾かせる、といったことは楽器の発音原理の違いを重視する傾向句にある現代の我々には、一見、とても奇異なことのように感じられます。先ほど、チェンバロはリュートに鍵盤をつけたものだと言いましたが、歴史を振り返ってみると、ヨーロッバではバッハの前の時代までは、リュートというのが現在のピアノのように大変ポピュラーな楽器として君臨していました。その影響は、リュートの全盛期を既に過ぎていた時代のバッハにも、実は、及んでいたんじゃないか、別な言い方をすれぱ、バッハにも、ひと時代前のリュートの響きに共鳴するような感性があったのではないかと思ったのです。リュートは、ヴァイオリンのように一度出した音を保ち続けたりふくらませたりできませんから、ただただはじかれては減衰していく音をどのように美しく束ねていくか、ということがリュートの音楽の核心にあるわけです。チェンバロもこの点で全く同じです。一方のヴァイオリンでは、旋律を歌いあげるために音を保ったりふくらませたりすることは重要な要素の一つでしょうが、同時に、リュートのようにヴァイオリンの弦の振動も減衰するわけで、その減衰の美しさをリュートに倣えたら、その時はじめて、ヴァイオリンもチェンバロも同じ歌い方をすることが可能になるのではないか、と思うのです。

●日本では、リュートというのはそんなに頻繁に弾かれる楽器ではないのですが、大塚さんの留学先、オランダなどでは、どうだったのでしよう。

大塚 ヨーロッパでは、とくに古い声楽作品を演奏するときには普通にリュートが弾かれますし、リュートの音に触れる機会はとても多いですね。日本人でもリュートを弾く人は、ヨーロッパの方が演奏の機会がはるかに多いので、日本ではなく向こうで活動されることも多いようです。でも、日本人というのは、リュートやチェンバロのような、響きが減衰する楽器が本当は好きなのではないでしょうか。小学校の音楽室の壁に貼ってある肖像画もたいていバッハから始まってそれ以降の作曲家のものですよね。バロック時代の後期にはリュートの曲はほとんど書かれなくなってしまいますから、古典派、ロマン派などという教養としてのクラシックに登場しないために、日本では広まるのが遅れているのかもしれません。ところで、意識的にリュートの響きを取り入れて演奏しようと試みている人は、とくにチェンバロの世界では増えてきました。ヴァイオリンでは、まだ少ないでしょうが…。 リュートのような減衰する響きの美しさにこだわるということ自体が、いわゆる“ヴァイオリンらしさとは反対向きのことなのかもしれません。

●バッハと言えぱ、オルガンの響きを思い浮かべる人も多いと思うのですが、大音量を継続させるオルガンにくらべると、リュートというのは、かなり対照的な楽器なのではないでしょうか。

大塚 面白いことに、バッハのすぐ後の人が書いた“バッハ伝”には、教会で大オルガンを弾くときのバッハと、家の中でチェンバロを弾くときのバッハは、見事に、まるで別人のように違っている。テンポから弾き方まで、何から何まで別人のように変わってしまう、それが見事だ、という話が出ています。また、有名なエピソードですが、パッハが、息子のエマニエル・バッハを連れて教会へ行ったときに、アーチ型の天井を見て「見てご覧、この教会には西白い仕掛けがしてあるよ」と、遠く離れた位買を指定して、そこに息子を立たせ、小声で何かつぶやいた。すると、その声がうまく天井を伝わっていって、息子ははっきり聴き取ることが出来た、という話も伝えられています。おそらくバッハという人は、様々な空問を即座に把握することに長けていて、その空間に最適な音量、音質、テンポなどですぐさま演奏することが出来たのではないでしょうか。バッハの空間感覚が優れていることは、やはりバッハの作品からも見てとることが出来ます。そして、教会の大オルガンを鳴り響かせる名手でありながら、リュートのように本当に小さい楽器で音がすぐ消えてしまうようなそういう世界をも愛したのだと思うのです。リユートというのは元々、愛を奏でる楽器として知られています。そんな繊細なリュートの響きが、チェンバロやヴァイオリンを弾くときのバッハの耳にはきこえていたのかもしれません。

(次回Vol.3では、ヴァイオリン奏者から見たバッハの作品について、桐山建志のインタヴューを掲載します)

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