J.S.バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのための作品集Vol.4

このシリーズについて
Interview 桐山建志&大塚直哉

●そもそも、ニ人で一緒に演奏するようになったきっかけは。

桐山 二人とも芸大のバッハカンタータクラブに同じ時期に属していました。そしてある年の芸術祭で、バッハのソナタ全曲を演奏しようということになったんですけれど、その頃僕は、まだバロック・ヴァイオリンを手に入れたぱかりで、それがバロック・ヴァイオリンを人前で演奏する最初の機会でした。最初にバッハをやるというのは、今思うと無謀なことで、聴くに堪えない録音が残っていますが……。

大塚 でも、あのとき無理矢理6曲全部弾いたからこそ、全体を見渡すことが出来るようになった気がする。バッハのデュオのソナタにはなんだか違う世界があるようで、その時から僕はそれが気になっていました。その世界をうまく表現するには、今までの発想を切り替えないと……、と思ったことがいくつかあったんです。

桐山 その翌年だね、僕たちが留学したのは。行き先は違ったけれど「留学から帰ってきたらまた一緒にこの6曲を全曲演奏しよう」と約束して。

大塚 バッハ没後250年の2000年に、2回に分けて全曲演奏会をしました。そして、やっぱりこの曲集は一生かけて演奏していきたい、出来れば録音も、と。

●普通は、6曲のソナタを2枚組で録音することが多いのに、どうしてこのような組み合わせにしたのでしよう。

桐山 ある時、ふと気がついたんです。無伴奏ヴァイオリン曲6曲と、オブリガートチェンバロのソナタ6曲の調性が、ほとんど対になっているんです[vol.1の8ベージ参照]。 以前から、調性のことはいろいろ考えていて、例えば自分の好きなホ短調の曲ばかりの演奏会とか……、友達に言ったら「暗いからやめろ」といわれましたが。それで、そのぺアごとにハ調の回、ト調の回というように組み合わせてみたらどうなるか、と。

大塚 しかも、このソナタには、ロ短調とかヘ短調、ホ長調など、調号が多くて鍵盤楽器では使いにくい調の曲が多い。

桐山 そう、そしてヴァイオリンで一番弾きやすいとされるニ長調の曲がない。だから、楽器の都合で調を選んだとは思えない。

大塚 平均律クラヴィーア曲集はドから始まってだんだんに調があがってゆく仕掛けの曲集ということで有名ですが、このようにバッハは、ひとつの曲集の中の「調」ということにとてもこだわっていたと思うのです。例えば、ライプツィヒ時代のクラヴィーア練習曲集の第1巻だったら、シ‐ド‐ラ‐レ‐ソ‐ミとだんだん上下に開いていき、ここに欠けている「ファ」が第2巻の最初の曲、というような具合に……。そうやって考えていくと、無伴奏ヴァイオリンソナタが順にソ‐ラ‐ド、パルティータがシ‐レ‐ミとなっているのもなんだか意味深く見えてくるんです。一方、ヴァイオリンとチェンバロのソナタのはうは、曲順とは違いまずが、ミ‐フア‐ソ‐ラ‐シ‐ドの調を揃えている。両方で音階の音全部が揃うんですよね……。

桐山 そして、この第4集で取り上げることになったロ短調は、調性格論では「奇黒で不快なため、滅多に用いられない」というのに、バッハは好きだったのか、比較的よく使っているよね。

大塚 「ロ短調ミサ」もあるしね。

桐山 それと、無伴奏ヴァイオリン曲には他の楽器に編曲したものがあるし、通奏低音とのソナタも魅力的。そこで無伴奏ヴァイオリン曲のリュート編曲や鍵盤編曲を含め、ヴァイオリンと通奏低音の作品も入れ、もっと大きな視野でバッハのヴァイオリンとチェンバロのための作品を見てみたかったということもあります。

大塚 このシリーズのコンセプトということで言えば、さらに、―ヴァイオリンとチェンバロの響きをそれぞれ異質なもの、対照的なものとする側面を強調したアプローチが多いけれども―どこかに共通する響きのイメージもあったんじゃないか、それがリュートの響きだったんじゃないかという発想もありました。

桐山 僕は最初、無伴奏ヴァイオリン曲をオルガンのイメージで弾こうとしていました。でも、ヴァイオリンでは物理的に同時に3つ以上の音を延ばすことは出来ないから、オルガンのイメージでは演奏不可能なところがある。それをどう演奏するか、とたどり着いたのが音の余韻を生かして演奏する、いわばリュート的な発想です。[vol.3の8ページ参照]

大塚 チェンバロはまさにリュートの仲間なので「リュート的」ということは、楽器の本質に関わる問題なのですが、その一番のポイントは「美しい弦の響きの減衰」を生かす、ということだと思うのです。減衰していってしまうけれど、その先にある何かが聴き手の想像力を掻き立てる、だから、実際には保っていない音まで対位法のテクストの中に含めてしまうことが出来る、そんな荒業が、リュートやリュート的音楽には可能なんですよね。

桐山 ヴァイオリンにとっては、減衰という言葉はあまり適切ではないような気がする。確かに音量は減るのだけれど、その分、響き、余韻が豊かになる、といったイメージを、僕は持っている。デクレッシェンドすることによって、響きが減ってしまうのは、残念ですよね。

大塚 なるほど。「減衰」という言葉は確かにもともとネガティヴなニュアンスがあるものね。でもチェンバロではこの「減衰」こそが美しさの秘密なので、チェンバロにとっては「滅衰さまさま」なのです(笑)。この「減衰」のことに限らす、ヴァイオリンとチェンバロは発音原理が違うので音のイメージが違う部分も当然あるわけだよね。それでもチェンバロの側から言わせてもらうと、桐山さんとのデュオでとても弾きやすいのは、彼のヴァイオリンは音の「あたま」があって、そしてその後に美しいシェイプが与えられるという基本的な音の形がチェンバロと共有できるからだと思う。特に同じモティーフを弾くときにロマン派のオーケストラみたいにヴァイオリンにヌルーと始められると、音の頭が必ず「プチン」といってしまうチェンバロとしては困ることが多い。

桐山 僕も最初は音の頭をはっきりさせることがとても苦手だっだ。けれども、ガット弦を弾くようになって、弓の毛が弦に引っかかる感触をつかめるようになったんだ。

大塚 《山の音楽家》っていう曲があるでしよう。僕は最初「キュキュキュッキュッキュ」って、悪い音のイメージをもっていたから、リスは下手なんだと思った(爆笑)。でも、ガット弦で弾けば子音としてのアーティキュレーションが入る。あれがないとアンサンブルが出来ないよね。でも、それには危険な面もある。“音の頭にプチって言う音が入ればチェンバロのように聞こえる”と、ピアノの弦の上に釘を置いてプチプチ言わせていた人もいたけれど、それはちよっと違う。ヴァイオリンもキュっていう子音が大事ではあるけれど、そこに本質があるのではない。その子音の持つ雑音と母音の楽音のミックス具合が、17、8世紀の音楽家の秘伝というか、それぞれの個性だったんだと思う。19世紀からの音楽が、雑音をなるべく取り除こうとしたので、だんだんそういう方向に偏ってきてしまっだのかな。

桐山 言葉に子音と母音があるように、両方大事なんだよね。それに、言葉にも母音で始まる言葉があるように、音楽も時々そういうこともある。例えばこのVol.4に収録したロ短調のソナタ1番。チェンバロだけで始まって、そこにいつの間にかヴァイオリンが入ってくる。あれは、撥弦楽器には出来ないよね。

大塚 そうそう。あの出だしみたいに、お互いが違う音型を受け持っている、つまり役割の違いがはっきりしている部分はそれぞれの楽器の発音の違いが強調されて書かれているし、同じモティーフを模倣しあうときには、音の形をそろえていってどちらが弾いているんだかわからなくなるような瞬間もあるし、というようにこのふたつが絶妙なバランスでできていることが、たった2人のソナタとは思えないような奥行きを生み出しているのかも知れないね。

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