古楽情報誌アントレ2017年10月号

新諸試聴記 飯森豊水

 珍しい企画である。中堅ヴァイオリン奏者の桐山建志がベートーヴェンの《クロイツェル・ソナタ》を2人の共演者と2種類の演奏をした記録だ。ひとつは古楽器を使ってベテランの小林道夫と、もうひとつはモダン楽器を使って若手の江川智沙穂と、というもの。しかし聴き手の私には、楽器や奏法の違いよりも3人の作品解釈の違い、さらに音楽家としてのあり方の違いが興味深く映った。

 この《クロイツェル・ソナタ》は、ベー卜一ヴェンのウィーン時代初期から中期への移行期の作品である。1803年5月に行われたヴァイオリン奏者ブリッジタワーとの共演のために作曲した。初版楽譜に「ピアノフォルテとオブリガート.ヴァイオリンのためのソナタ、極めて協奏的、ほとんど協奏曲のスタイルで書かれた」と記されている。ヴァイオリンの存在感を強調していることに注目しよう。

 作風についていえば、最初の6曲の弦楽四重奏曲(1798-1800)を書き終え、これから「熱情jソナタ(1804-5)へと向かう時期にあたる。すなわちベートーヴェンの音楽家としての個性は十分に顕れているものの、まだ緻密で論理的な書法で有無をいわさぬ説得力をもつ前の、ほとばしる才能から立ち昇る詩的霊感が先行しがちな時期の作品だ。従って演奏家がこの詩的霊感に対してなんらかの確信をもっていないと、聴き手には中心軸の見えにくい演奏になってしまう(名ヴァイオリン奏者・故レオニ一ド・コ一ガンの解釈は極めて明確にこの詩的霊感を伝えるものだった)。

 私の理解では、この作品のとりわけ第1楽章はこの詩的霊感を核に据えている。「楽譜の行間を読む」という表現があるが、この楽章では楽譜に書かれているのがせいぜい半分で、行間の部分が半分かそれ以上ほどもあるのではないか。そして厄介なことに、第2楽章の内容はこの第1楽章を受けたものだし、第3楽章は先行する2つの楽章の重々しさを前提としている。

 では、この詩的霊感なるものは何か? ベートーヴェン研究者の言葉では「道徳的な雰囲気」とか「教訓的」等と説明されることもあるが、わかりづらい。しかも、どうもその実態は、(まるで幽霊のように)感じる人は感じるが、感じない人は感じない類のもののようだ。言葉による説明は断念するほかない。

 さて、演奏である。桐山はベートーヴェン中期の「道徳的」とか「教訓的」とかいった内容よりも、音楽的な充実そのものに関心を寄せているようだ。そのため、ふたつの演奏を通して聴いていくと、各楽章の内的な構築性は尊重しつつも、楽章間の相対的位置づけには必ずしも拘りがないように思える。桐山が最も積極的な表情を見せるのは小林と共演した第1楽章で、彼としては珍しく、テンポが乱れることも意に介さず、フレーズに内在するエネルギーの表現に没頭することが何度かあった。

 小林は大家ならではの解釈を披露している。例えぱ第1楽章で桐山がテンポを崩しそうになっても小林の付けるわずかなニュアンスで音楽が安定を取り戻すさまは、「ここに名人芸あり」と言いたくなる。第2楽章は終始小林の主導で進むが、表現が人間味(人間的な弱さ)を微塵も見せずに純粋に音楽的充足を目指すところなど、もはやべ一トーヴェンではなくバッハになっていて興味深い。総じてこの録音では師匠と弟子という関係が目立ってしまうが、小林の理解の深さ、桐山への配慮に深い感銘を受けた。

 3人の中で最もベートーヴェン中期の「道徳的」あるいは「教訓的」側面を感じさせてくれるのは江川だ。彼女は鋭敏な感性でこの作品の奥にある主観的なドラマを見抜き、情熱的に伝えてくれる。ただ残念なことに、音楽家仲間の間には「伴奏者は共演者の邪魔をしない」という暗黙の淀があって、彼女も感じたままに演奏できずに遠慮してしまうところが度々あるのがもったいない。「打てば響く」音楽家だけに、リミッタ一を外した演奏を聴いてみたかった。

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