三百二十一の昼 (2003 12 31) 大晦日

 9時過ぎ、長男を送りがてら、おはなしの森のOさんのお宅に退会の挨拶にうかがった。3年お世話になった。その間、3回学校で語らせていただいた。なかでも長堀小学校でのおはなし会のことは忘れられない。路上で寒さに震えながら、これからも助け合いましょう、友人でいましょうと別れた。

 それから大掃除、かずみさんの部屋、お仏壇、お仏壇のあるわたしの部屋、玄関、台所、一階、二階のトイレ、お風呂場。一年分のそうじを一日でするのは無理がある。思うように動いてはくれない次男に窓ガラス、玄関、夏にあつらえてほっておいたロールスクリーンの取り付けをまかせ、娘たちにかずみさんの部屋とキッチンを頼み、わたしは自分の部屋と仏壇とトイレ、それからガスレンジと換気扇、換気扇はシロッコファンなので4枚の通風孔のカバーがあるのだが、粉石けん(合成石鹸ではない)で洗ったら落ちすぎて、油汚ればかりか塗装が剥がれてしまった。終わったのは9時半。

 お寿司を食べながら紅白を見た。あっという間に過ぎ去った2003年、いくつか大きな変化がありこれからの兆しが仄見えた年だった。なにも後悔はない。後悔がない年というのはたぶん生まれて物心ついて初めてのことだと思う。これはこのささやかなサイトを夜毎訪ねてきてくださる方たちのおかげである。一年間、一日も休むことなく日記を書き続けられた。みなさまが読んでくださると思えばこそ、眠い目をこすりながら、キーボードを打ちつづけた。

 そして、そのことがわたしにどんなに力をくれたことだろう。柔なわたしが今までできなかったことだった。今日、自分がどこに立ち、何にむかっているか、どちらを目指しているか、辿りつくために明日なにをすればよいのか、日記を書き続けることで、この場でみなさまに広言することで力をいただき、わたしなりに誠意を持ってひとつずつ、こなしてこられた。みなさまの無言の後押しがなければ、まだわたしはどこかを彷徨っていたと思う。

 一年間、お付き合いいただいてほんとうにありがとう。これからもよろしくお願い申し上げます。




三百二十の昼 (2003 12 30)  あと一日

 朝、工事代金を届けにきてくださる方がくるので会社に行った。そのまま、日報整理をしたり、来年の目標を印刷して壁にはったりした。机の中を整理していたら、古い写真やすっかり忘れていた、トラブルの記録などがでてきて、振り返れば、長いこと闘い続けてはきたのだと思った。ひとは辛いことは忘れてしまう。そうしないと生きてはいけないのだ。

 3時間際に今年最後の入金に行くと、支店長がコーヒーをご馳走してくださった。先日プラントに寄ってくださったのだそうだ。3時半、池尻大橋に向かう。ATSのせいで宇都宮線は25分も遅れたが、わたしはほとんど意識なく眠り込んでいた。

 渋谷に着くと5時をまわっていて寒いし、足は痛むし帰りたくなったがそうはいかないのだ。成城石井でブルサンアイユやケーキを買って、威勢をつけて、田園都市線に乗る。半年のあいだ、お金を振り込んでくれない会社に抜け駆けで談判に行くのだ。マンションに着いて、エレベーターで6階に行く。スルスルとドアが開くと、目の前にくだんの社長が立っていた。

 素晴らしいタイミングである。神、我を見捨て給わず.....そのまま事務所に行く。この社長は一見温厚な紳士なのだが、実はなまなかの相手ではない。3年前、ちょうど研究セミナーが始まったころ、わたしは何度社長と会い、話し合い、煮え湯を呑まされたことか....出さないのである、お金を。結局、話し合いがつかないまま550万の工事代金残額について裁判を起こし、今年、春東京地裁で調停となったが、一ヶ月178000円の支払いは2回で終わってしまい、その後なしのつぶてであった。

 いつものように穏やかに笑顔を絶やさずのらりくらり、逃げようとする相手に、知恵と胆力の限りを尽くし、こちらも笑顔を絶やさず戦う。1/15に1回分支払うという言質を得るのに1時間半かかった。昔のわたしだと途中で怒りのため、激昂してしまうのだが、このごろは実に冷静である。こうしてこの3日で、喧嘩もせず、仕事のつながりを反古にせず、交渉をし回収した金額は75万ほどになる。さほど大きな金額ではないが、あるとないでは大違いだ。

 仕事はおもしろい、人生ってほんとうにおもしろいものだと思う。時間と体力があれば、あと30年くらいは現役で楽しみたいなぁ。わたしは自分をたいせつにしないでずいぶん濫費してしまったからそんなに長くは保たないだろうが......

 NHKで映像の時代を放映していた。満州や南京のことがあるからあまり大きなことはいえないが、アメリカという国は実際、よけいな介入をしては徒に難民を増やしてきたのだなぁと嘆息した。人間ほど同類で苦しめあい、殺しあう生き物はおるまい。飢餓から逃れてたかだか一世紀(日本にかぎっていえば)その結果、絶滅した種は数え切れず、自然を汚し資源を食い尽くすように人類は跋扈した。これから、どうなるのかなぁ。新しい文明、奪わず共存共栄する文明を人類はたちあげることができようか。わたしにはそれは至難のことであるように思える。


三百十九の昼 (2003 12 29)  えっさか、ほいさか

 来客(お金を持ってきてくれる方、仕事を持ってきてくれる方)の応対と集金と銀行廻りで目が回る一日。予定外の400万以上の入金があり、1月の資金繰りをクリアーし、ほっとする。合間に振り込んでいただいたお客様に挨拶に行き、個人の年賀状を買い求め、キャビネットの書類を整理する。

 夕方、かずみさんが疲れ切って帰還、やっぱり頼りになるのは一緒に苦楽を共にした古参の社員だねという話になる。常務は自分の仕事は終わったのに、奥さんとプラントのそうじにきてくれたそうだ。アベちゃんも正月明けの段取りに来ていたし、ナガさんも現場が心配で一日現場を見て夜の8時過ぎ、鼻水をすすりながら帰ってきた。こういう社員をたいせつにしたい。

 かずみさんが「かあちゃんとふたりでここまでにした会社だもの、もっといい会社にしような、がんばろうな」と呟いた。わたしも来年は会社と語りを両立させようと誓った。すこし任せ過ぎた。電話の応対など、聞いていてひやひやすることが多い。お客さまをたいせつに、血の滲むような努力をしてここまできたのだった。わたしはうるさいばばぁと言われても、創業のこころは伝えなければならないと思う。

 来年は、仕事も語りもやりたいことがたくさんある。26日、担当のかわりに見えた大塚商会の課長さんが、「スマイルαのシステムをここまで活用している会社があるとは....感動しました」と言ってくださった。わたしは経理は得手ではない。けれど考えに考え、工夫して既存のソフトを活用し、エクセルでサブシステムを考え、徹底した部門管理、日次決算、入出金シュミレーションを立ちあげた。それには事務員さんたちも協力してくれたが、経理屋さんとは立脚するところが全く違うと思う。わたしは過去の決算などそんなに重視しない。帳簿上10円や100円違ってもまったくかまわない。重要なのは、現時点の認識と今、何をしたらいいか...である。それを経理がいくらわかっていてもなんにもならない。現場や営業にデータや情報を提供する、そして考えてもらい自発的に実行に移させ、数字の変化で検証する。それが経理の役目だと思っている。

 来年は中短期のシュミレーション、および現金の流れがもっと明確に予測できるようにする。そしてあとふたつやることがある。語りは....1月 わたしがちいさかったときに 2月 お月さんももいろ  3月 カールカルーソー その後 死霊の恋、ライフストーリーをふたつ、この三つは20分を超える。その他創作と創作民話の私流再話で8分前後のおはなしをいくつかラインナップにくわえる。歌、できれば楽器 パネルなどもつかった複合的なものも手がけてみたい。そして2.3分のちいさな落ちのある話も語ってみたい。学校やデイケアでもっと対話してみたい。つまるところ、もっと冒険したい、語りの地平を拡げたいのだ、それはわたしにとっては本来の語りに還ること、ルネッサンスともいえるのだ。どこまで歩いていけるだろう。

 今年はほんとうに実り多い年だった。たくさんの方と出会い、今まで知っていた方でも、新たな絆がむすばれた。ほんとうに、ありがとうございました。


三百十八の昼 (2003 12 28)  もちつき

 今日は会社でもちつき....といっても例年より休みが二日早かったのでお客も呼ばず、それでも25人くらいでテーブルを囲んだ。からみもち、納豆もち、きなこ、それからおしるこ、お雑煮....つきたての餅は美味しかった。阿部ちゃんちの悠太、伸二、美咲、明日香、海ちゃんちの雄介、正也の子どもたちがきてそのにぎやかなこと、おサルのように窓から出入りするし、チョコをわけなさいといってわたすとひっつかんで独り占めしようとするし、ロッカーに入り込んで壊してしまうし、野生児の集団には負けた。....といいつつ、かなりおもしろかった。子どもってこんなに生き生きした、打てば響くような存在だったのか。

     
         丸めたおもちはみんなの家のおそなえに

 阿部ちゃんのところでは4兄弟がそれぞれのフロアーを持って大家族で暮らしている。今のところ、子どもは合わせて7人。それが群れなしてほどけたり団子になったりしてわいわい過ごしてるのだから、親はさぞかしたいへんなことだろう。一方、子どもにとったら毎日がお正月、毎日が修学旅行のようなものだ。それで天真爛漫(稀に野放図ともいう)の子どもに育つのかもしれない。

           

 久美ちゃんとまたメールのやりとりをしている。今日のメールに私の語りを裸んぼの語りだと書いてあった。自分の中にある思いに何もまとわず語り....初め裸んぼになって語り、『ディアドラ』の時、初めて聞き手も受け入れて貰えた気がした。(原文のまま)ふうん.....そんな風に感じるのか。久美ちゃんもわたしもおやすみが多いからディアドラの前に聞いてもらったのは一年近く前のことではなかったろうか?
セミナーが終わっても、いつまでも仲よくいたいね....とこのごろ呪文のようにいいあっている。


 


三百十七の昼 (2003 12 27)  年の瀬

 朝からしごと、見積もり書の表紙、A4用の封筒、5人分の名刺の印刷。請求書。事務所のそうじの指示、台所廻り、書類の整理、机廻りの清掃、電話、来客の応対。それから海藤くんに運転してもらって集金に行く。一軒は29日、一軒は電話待ち、一軒は内金をいただいて残りは来年15日。話せばたいてい通じる、わかってもらえる。海藤くんはお金をもらうことが、現場で働くと同じくらいたいへんだと思ってくれただろうか。わたしの車のガソリンがからっぽなのを知って事務所にあったガソリンを入れてくれたらしい、半分ほどゲージが上がっていた。。

 2.3日、重い気分だった。帳簿のうえでは利益があがっているのに来月の資金繰り上、現金がなくて賞与をほんの気持ちしかだせなかった。一生懸命がんばってくれたひとにもっとあげたかった。2月3月の繁忙期が過ぎたらまた考えよう、来年からは短いサイクルで年に3回くらい一時金を支給しようと思う。それに部門の利益を加味しようと思ったことだった。打ち上げが終わってほっとした。打ち上げをして片付けへとへとで帰った。

 今日ちょっとドキドキしたこと。@ お客さんと話していて、「年金制度の抜本的改革ができなかったのは公明党のせいですよねぇ」...と言ったあと!! しまった!学会のひとだったと思い出した。もうしょうがないので言いたいことを全部言ってしまった。A 集金に行って追い返されそうになったので、さっと事務所に入って「1年近く待ったので今日はきちんとした返事をいただくまで待たせてもらいます、すみませんが足がわるいので椅子貸してください」と言ってまたせてもらった。しばらく待ってたいくつしたので、「雪女」を語り始めた。我ながら名調子であった。すると、途中で事務員さんが社長が1月に払います...言ってくれた。留守のはずの社長は物置の影にいたらしい。大つごもりはもらう方も払う方も必死の攻防である。



三百十六の昼 (2003 12 26) 死神

 落語「死神」はグリム童話KHM44「死神の名づけ親」から円朝が創作したものだそうだ。これは初耳、こんなふうに翻案や再話をしたものがまだあるのかもしれない。ネットサーフィンをしていると、いろいろおもしろいものに出会う。イラストを検索していたら「しゃんくれーる...」というきれいなサイトがあって、萩尾望都さんに影響されたらしいCGがとても美しかった。今日見つけたのは「工芸あを」というサイト、大島弓子さんに雰囲気が似てると思ったら、好きな漫画家が大島さんや山岸涼子さんだった。

 時間があったらCGを基礎から学んでみたい。今は仕方がないのかなぁ。今日は10:00まで仕事、年末調整が終わった。仕事納めは明日だけれど、例年とおり30日まで忙しいだろう。年末は滞っている売掛金をいただくチャンスである。このときを逃すと3月末までむつかしい。31日、家の片付け、お節をつくって、新年の墓まいり(なぜか、恒例)賀状書き、早く自由な時間にならないかなぁ....

 片岡先生へ年賀状かわりにメールで送るセミナーまとめの宿題、書くのが楽しみでならない。それに一件落着した卒業発表のちらし兼プログラム、早く手をつけたいなぁ....せっせと仕事しよう。



三百十五の昼 (2003 12 25) メリー クリスマス!!

 おはなし会や講座を前日に準備なさると尾松さんから聞いた。先生も前夜になさっている気配....わたしはなぜかデイケアのときは頭のなかはいっぱいなのだが、整理がつかず直前まで決まらない。
11時からなのに内容が決まったのは10:30.新聞紙と2冊の絵本を袋に入れ、セブンイレブンで紙のおさらと割り箸と豆を買おうとしたら豆はないのでマーブルチョコを買った。

 年末のせいか、おばあさんたちは8人、ボランティアさんが4人。
はじめに今年した手遊びをいくつか....みんな上手だった。もしもしかめよのいろいろバージョン、キャベツのなかから♪ あともうひとつ ちょっと疲れたので絵本「魔法の夜に 」クリスマスのお話です。パステルなので見難い方がいたかもしれない。それからわたしのクリスマスの思い出話 すなわちライフストーリー.....で大笑い....子どもたちのためにガレージや車のなかに贈り物を隠してサンタさんをしていたのは わたしばかりではなかった。それからそういえばこんなこともあったというみなさんのクリスマス談義....

 つぎにゲームをした。最初に紙皿にマーブルチョコを10粒入れて、それを別の紙皿に移しつぎのひとに渡すというリレーを2チームでした。これはなかなかむつかしいがみんな真剣でけっこう早かった。それから新聞紙を1枚ずつ渡して、できるだけ長い1本の紙ひもにするゲーム。これが驚くほどみんな熱中して真剣そのもの。できあがったところで並べてみる。性格がわかるようなちぎり方で、みんな違ってみんないい。

 長い新聞紙のテープの束を部屋のすみで手にした福脇さんが、「ねぇみなさん、とても気持ちいいですよ! クリスマスツリーのてっぺんの星になった気分!!」というのでみんなで順番に花束のように抱えて「2003年、さようなら!」とかさようなら♪さよなぁら♪とか歌手の真似をしたり、わたしなどはおばあさんと踊りだし、大笑いのうちに幕。用意したプログラムの半分もしなかったが和やかなおはなし会。

 「来年も楽しく、楽しく過ごしましょうね」と挨拶してさようなら。このグループは一年半になるが、ほんとうにいい雰囲気になってきた。今年は語りから踏み出していろいろなことをした。来年ももっとさまざまなことして来所するメンバーさんやボランティアさんからなにか引き出したいな...と思った。

 帰ったら、補習の惣のことが心配で疲れもあったか、肩が凝って
わか菜に揉んでもらっているうちに寝込んでしまい、仕事はしまず仕舞い。これから夜なべ仕事にいってきます。みなさま メリー クリスマス!!



三百十五の昼 (2003 12 24) イブ

 学期終りの恒例で、惣の学校から呼び出しが来た。成績不振者の保護者への呼び出しである。まず学年で該当する親子が視聴覚室で学年主任から注意を受ける。視聴覚室の半ばが埋まっている。それから各教室で個人面談。4人いた。待っているあいだに、今学期の成績通知表を見た。

 言葉がない。196人中、192番とは....なかなかとれる成績ではない。確信犯である。各教科の敗因、つまり赤点の原因を分析しなさいと紙に書かせた。試験の結果、提出物、欠時、授業態度という答。
 
 そのあとの面談で三学期、後がないと通告。進級のためには、補習ならびに追試、三学期の成績の3つをクリアーしなくてはならない。終わったあと、学年主任の先生が追いかけてきて、「おかあさん、まだ結果には結びつかないけれど、彼の目に輝きが戻ってきましたよ。1学期とはあきらかに違います」と言われた。

 そういえば、たしかに違ってきたような気がする。1学期はなにも希望のないような死んだような目をしていて、それが気がかりだった。新しいガールフレンドのせいで変わったのだろうか。それとも、学校に送るとき、語り続けてきたことがすこしはこころに通ったのだろうか。

 惣はかって熱い子どもだった。目がきれいだった。優しい子でよく涙ぐんでいた。数年前、権現堂にお花見に行ったとき、痩せこけた犬を見つけて飼ってくれと大きな目から涙をぽたぽたおとして私にたのんだ。二年後、そのチャコがいなくなって一生懸命探していた。 長い睫も痩身も変わらなかったが、惣はしだいに変わった。 わたしには惣の気持ちがわからなくなっていった。惣も自分でもわからなかったのかもしれない。反抗する覇気もなく、迷い道に踏み込み彷徨っているように見えた。なぜここにいるのか、なにをしたらいいのかわからないように見えた。

 それでわたしは生きることはとても素敵なことなのだとなんとかして伝えなくてはと思ったのだ。毎日つづけるひとつのこと、そのことが人生を変えていくことの不思議、ひととひととの出会いの不思議、誰もがそのひとにしかできないことをもち、そのひとにしか幸せにできないひとがいるということ、果たして伝わっているかどうか心に届いているかわからないけれど、過去や現在のわたしやかずみさんやそのほかのことを通して、今 惣に伝えなければと思った。 進級できないとしても、今年の残りそれから三学期、惣が努力してそれが惣に火を点してくれたらそれだけでいい

 イブの夜、テーブルクロスをかけ ろうそくをともして、娘たちと用意したご馳走をならべた。前菜、パンプキンポタージュ、チキン、ホタテのフライ、サラダ ケーキやかずみさんの好きなゼリーも....6人だし食べ盛りの子どもたちだから山のようにつくったのだがそんなに食べられるものでもなく、残ってしまった。明日の朝にはなくなるだろう。せめてクリスマスの夜、おなかを空かせている子どもがいなければいい、苛められている子どもがいなければいい、寒さに震えている子どもがいなっくてすみますように。 神さま 絶望している子どもにどうか希望をお与えください。



三百十四の昼 (2003 12 23)  師走の休日

 掃除の日。次男がリビングの大きなライトのかさをはずし、電球を取り替えてくれた。よくぞ育ってくれた...と喜んでいたら、ヤマダ電気に行くといって出たきり逐電。ヤマダ電機は5分の距離である。夏姫が送ってくれたハーゲンダッツがお昼ころ届き、それをにんじんにそれぞれが自室のそうじを終わらせるはずだったのが、もう15:50....予定の4時にはとうていだれも間に合わない。

 わたしは掃除が苦手で、下手である。かっちゃんみたいにお家を磨き上げられたら、どんなに素敵だろう。これで正月が迎えられるかしら。明日から仕事は追い込みだ。

 冬の空を眺めて、本を読んで、物語を熟させて、お茶を淹れ、お菓子を焼き、のんびり正月休みを過ごそう。温泉にも行かないで。

 念願だった中学校での語りに一歩が踏み出せる。この地をたいせつにしよう、縁をたいせつにしよう。わたしが生きてはたらいてたくさんのひとたちと心を寄せたこの地。 子どもたちに触れて、語って、伝えて、伸びてゆくのを見ていたい。自分のゆくすえを目を凝らしてそろそろ見極めるときだ。たいせつなことをわすれないように。うっかり残さないでゆけるように。


三百十三の昼 (2003 12 22)  岸先生

 それでも、今日は悪いことばかりでもなかった。中学の岸校長先生を約束の一時半に訪ねた。語りとはなにかお話した。なぜ子どもたちに語りたいのかも話した。先生は生徒に時間がないからと否定的だった。演劇部や文芸部ならと言われたが、それでは目的の半ばにもならない。おはなしするよりどうか聞いてくださいとお願いして、歴代の校長の肖像写真が見下ろす校長室で、校長先生おひとりのために語った。谷川さんのほうすけとわたしがちいさかったときにを.....。校長先生は目を瞑ってじっと聞いていらした。

 終わったあと、先生は語りのことはおっしゃらなかった。子どもたちの今を話された。子どもたちが小学校の時には考えてもみなかった、家庭環境の差に対峙したとき、どのように感じるか、恵まれた子どもばかりではない。 スタートの時、既に歴然と差がついているのだった。子どもたちが教師のありのままの真実を見抜き、評価していること、子どもたちがどんなにクラスのなかの自分の位置、成績、容姿、運動能力などの座標軸を熟知しているか、子どもたちが人がどう思うかということにどんなに神経をすり減らしているか。 入試のとき、偏差値で輪切りにされ、進む高校によって、親社会では人間性をも含めた評価になってしまうこと。 

 自己中心の世界観、携帯依存症、極端に簡略化され、語彙の乏しい会話、コミュニケーション能力の減退.....わたしも人間は生きる力の多くをコミュニケーションに負っている。語り手として、語るだけでなく子どもたちの伝達能力をのばす手伝いをすることが夢だと話した。さまざまなものがたりがあり、ひとつではない生き方があり、それぞれに輝きがあることを語り手として伝えられたら....。先生は教師として、子どもたちにかかわり、子どもたちが伸びていくときの喜びを語られた。卒業して20年たった当時の問題児童が、車で通りかかったとき、飛んできて「先生、オレだよ、覚えているかい!」と言ったときの喜びを語られた。子どもたちのなかに眠っているもの、子どもたちが表現を躊躇しているものをのびのび伸ばして出させてやりたいと語られた。すでに2時間がたっていた。語りのことはどうも駄目らしいが、先生の信念を聞かせていただいたことだけでよかったと熱い想いで立ち上がろうとしたら、「それで、どのようにすればいいのですか?」とおっしゃった。

 朝、読書の時間をすこし語りにまわしていただけたら...とお願いした。4月、新学期からでも、そのまえでもいいのです。どうかわたしにも先生のお手伝いをさせてください。子どもたちの背を押させてください」ともう一度お願いした。「いいでしょう、お願いします。語り手たちの会のことがわかる資料をください。先生たちに説明したいと思います」  4時に辞した。熱い2時間半。どうなるかまだわからないけど、一歩進んだ。


 会社清掃、スタンドと単価の折衝、行政書士事務所と打ち合わせ、融資の資料を届ける、連絡会。帰るとまりが大掃除をはじめていて夕食もこしらえてくれた。明日は家のそうじ。 


 卒業発表のちらしのことで朝からTEL、夜もTEL。相対して直接の話ではなく、TELであちこちで話が進んだために錯綜したのだ。わたしが余計なことを言ったからだ。こういうところが要領が悪いということなのだろう。

  


三百十二の昼 (2003 12 21)  ポジション

 今年最後のレッスンに刈谷先生のところに行った。セミナーの竹内さんからTELがあって、卒業発表のちらしは結局わたしがつくることになり、冬語りのことや、「グループのジャンルにこだわらないで語りたいおはなしを語っていいのじゃない」と焚き付けたりしていたら、また遅刻してしまった。

 刈谷先生は吉田さんたちから銀座ゼミのディアドラやその前のつつじの娘のことなど聞いていて、よかったそうだねと言ってくださった。そのうえで、「あなたは、ほんとうに要領がわるい。からだのことも考えてやりなさい。声楽と朗読は根底はおなじだ。もうすこししっかりレッスンをしなさい。いいものを持っているから早くオペラのアリアを歌えるようになってもらいたい。あなただけ大目にみるわけにもいかないのだよ。」というようなことをおっしゃった。わたしは8月の発表会以来声楽のレッスンをさぼっていて、ドタキャンも二回してしまった。幼稚園の語りが午前になったりしたためなのだが、申し訳なくてことばもなかった。

 ただ叱られているというより、先生のあたたかい気持ち、気遣ってくださる気持ちが伝わってきたからだ。レッスンの帰り、ないてしまった。今日はポジションを変えないで歌うという意味がようやくわかった。音程がかわっても同じ位置から声を出しつづける。感情の起伏で声が変わらない。そうするととても安定した旋律になる。語りで試してみたら、一瞬今まで見えなかったもの、考えたこともないなにかが閃いたのだが、まだうまくことばに表せない。

 市場ではたはたとあんこうを買っておなべにすることにした。それから鮪のアラを買って、うちで聖護院大根と炊いた。炊きながら、子どもたちがバトルロワイヤル2を見始めたのでいっしょに見たのだが、1と2のどちらがいいかで意見は真っ二つ、長男と次女が1、長女と次男それにわたしが2の方を推した。1は過激なバイオレンスでR指定になった話題作であり、2は深作監督の遺作である。ちょうど一年前撮影が始まった直後に亡くなったのだ。

 エンターテインメントとしては1のほうが完成度は高いかもしれない。でもわたしは不快な感じがしたのだ。2は破綻がある。教師リキの演技はぶち壊しだし、主人公の七原は救世主になってしまって覇気がなく暗すぎるし、やはり主人公のタクマはエキセントリックに過ぎ、幾人かの登場人物の心理が変わってゆく経過が納得できるほど描き込まれていないし、(そのなかできたのたけしがやっぱりすごかった)でもメッセージは強く感じて、そして希望があった。ひとの心に響かせるのは上手い下手ばかり、有名無名でもない。たそがれ清兵衛も先だってビデオで見たが、わたしは壬生義士伝の方がよかった。ネモさんに話したら、中井貴一よりテレビの渡辺謙の壬生義士伝の方がよかったそうだ。

 午後2時 母と示し合わせて浦和に行った。足の悪い親娘ふたり、師走の街をおぼつかない足取りで歩いた。母も年をとった。


三百十一の昼 (2003 12 20)  身過ぎ世過ぎ

 会社がいろいろたいへんであたまが痛い。夢ばかり見て生きていられたらいいのに....なんとなく暗いのである。ギクシャクしている。今日は年賀状の印刷を終えた。官公庁の営業結果2月から11月までまとめてみた。やはり巷間言われているように、名刺を置きにいくと入札に呼ばれるという傾向がある。語りにのめりこむより、名刺の一枚もおきにいくとか、会社のホームページをつくるとか、せめて電話をとるとかすべきなのでは...と考えた。

 きのう よそで電話の応対を3時間ほどしたら、あとでその場にいた二人の方から別のところで声をかけられた。電話の応対が半端じゃないらしい。あざやか、的確、出すぎず、寄り添い あたたかい.... 過分なお褒めをいただいたとき これは語りをしたからだろうと思った。実は2年前まで手伝っていたのだが、そのときはこんなにほめられなかった。

 語りのことばかり考えていられたら....でも、それが心に響く語りをすることにすべてつながるわけでもないだろう。悲しかったり苦しかったり、身もだえするようなことも乗り越えて深まるものもあるだろう。それにしても、尾松さんのグループも他のグループもみなどこも 自分たちの語りがよりよいと思っているのだろう。

 櫻井先生やわたしたち(そのなかだって温度差はあるけれど)が考えている自分のことばで語る語りがすべてのひとに受け入れられるわけでもない。このごろ痛切にそれを感じる。小野寺さんが今週の火曜日に「森さんみたいにつくれるひとはいいけど....(そういうひとばかりではない)」と言った。わたしはギクっとした。自分のことばで語るのはあたりまえのことと...思っていたのかもしれない。わたしが暗記して語ったのは最初の一年だけだったから、息を吐くように自然にそうなったけれど、10年.20年暗記の語りをしてきたひとは、歩き方を変えるようなものなのだと思う。それでも決してできないことではないのだ。

 途中からだって変えられる。でも一旦 染み付いた歩き方を変えるのはたいへんなことだろう。わたしはだから、素話もストーリーテリングも知らないまっさらなひとに伝えたいと思ったのだが、読み聞かせをしているひとに、本を信奉しているひとに本を置かせるのはこれもまたたいへんなことなのだ。10人のうち何人育つかはわからないけれど、がっかりしないで気長にいこう。

 途中のひとにもはじめてのひとにも、まず聞いてもらうことだと思う。わかってもらうには心に響く語りを受け止めてもらうのが一番の早道だ。聞いてもらえる場所がほしいなあ。夕べの尾松さんの会でうらやましいと思ったのはその参加者の数だった。夜の部で80名はいたように思う。昼夜あわせて180名はやはりすごい。研究セミナーの発表会、いい会になるだろうか。楽しい話、しんみりした話 民話、ファンタジー、ライフストーリー 大勢の方に聞いていただけたらいいのだが....そしてわたしたちセミナー生が聞き手とともにいい時間をともにできたら、心に響く語りができたら....

 わたしは からだひとつで あちらこちらに行こう。語りを知るひと、知らないひとのところへ....。そして聞いてもらうこと。ひとは笑いたい、感動したい、そういう語りを届けられたら、世界はすこしずつ やさしくなるだろう。語りをしようとするひとがもっとふえるだろう。

 語ることはわたしにとって 手をさしのべること 約束を果たすこと わたし自身を解き放つこと なにも持たず生まれたわたしの今手にしている最良のもののひとつであり、ひとに心から手渡せるものなのだ。



三百十の昼 (2003 12 19) 
木曜ゼミ・事業報告・冬語り

 今日は木曜ゼミ....櫻井先生がまたおいでになるまで、つなぎたいと思った。まだひとに教えるという段階ではないが、いっしょに学ぶことはできるだろう。最初に なぜ、語るか 誰に語るか なにを語るか どう語るかのうちで 自分がなぜ 語るか 語りたいのか 確認することがなにを語るか、どう語るかににつながり 子どもたちや聞き手のこころに響く語りにつながるのではないかと思います。と言ったら杉原さんから「太田小のメンバーのすべてが必ずしも語りをしたいわけではなく、読み聞かせに役立てばと考えて参加したひともいます」 という意見が出て前途多難の予感がした。

 しかし、そんなことでめげはしない。櫻井先生、尾松先生の講座でもその多くの時間がなぜ語るのかに割かれていたように、読み聞かせにおいても同じなのではないか、語りを学ぶことでかわってゆくのではないか......いっしょに学んでいければいいですね。....ということにした。本音をいえば、語る仲間がほしい。さもなければ時間を割いてこのようなことはしない。しかしなんであろうと子どもたちに手渡すものが良質になればいいし、わたしは新しい語り手の出現に賭けたい気がした。

 滑舌と発声、腹式呼吸、黄金の腕を最初にわたしが語り、そのあと順番に語ってもらう。櫻井先生の銀座ゼミの踏襲である。みんな、よかった。ゾクリとした。ただ、やはり最後の腕はおまえが持っている......が弱い。それから詩をやはり順番に....途中から自分のこころで追うばかりでなく、ここにいるひとに伝えようと語るように読んでください....というと背筋に響く、こころに響くのである。それは聞くひとがみな確信したと思う。

 中央公民館のN課長に心に響く語りの講座の事業報告を提出する。来週の公民館の会議で発表があり、教育長の手元の届くのだそうだ。Nさんが「人数も集まったし、内容のある講座でした」と言ってくださったのでうれしかった。銀行や買い物、支払いをすませ浦和にむかう。7時過ぎ 赤羽まで夢夢の会の冬かたりに行く。尾松さんからおとといちらしが届いたのだ。

 半分以上終わっていた。おととし山とことりのはなしを泣きながら語られた方が宮沢賢治のいちょうの実を語って、それが不思議な感じがした。素の声と思えるのに数人の子ども(木の実)がさざめきながら話しているような錯覚があった。素敵だった。もっとほかのジャンルに挑戦されたら....と思った。尾松さんのろくでなしのサンタ...で最後の幼い子どもが叫ぶところでわたしは泣いてしまった。その声の力で....泣いた。尾松さんのなかにいる子どもが叫んでいると思った。けれど浅田次郎の原作は泣かせよう泣かせようとしている感じがあって、終わったあと澄んだ透明な気持ちになれなかった。それにわたしはやはり、語り手は板の上で泣いてはいけないと感じる。ひとり芝居で芝居として泣くのはいい。けれど登場人物が泣く場面でなくて、語り手が自分で感動して泣くと、聞き手はスにかえってしまう。ちいさい場所でなら、まだいいのかもしれないが。

  もったいないと思ったことがふたつ、語りのなかでクリスマスソングがひんぱんにはいるのだがそれが充分生かされてはいない。キタムラとサンタの歌が響きあい、聞き手のなかで聞き手がかって歌い聞いた旋律と重ならなくては意味が薄れる。そして最後のギターがとってつけたような感じがある。このものがたりからすればギターよりはオルゴール、ハーモニカだと思う。歌や楽器を入れるのはただ入れればいいというのでもない.......と思った。  が、力のこもった語りの会だった。

 野田さんが来ていた。大島さん、君川さんも見えていた。年配のおばさんが多かった。わたしは聞くより語るほうがいい。おはなしのなかに入ることはできるが、聞いたあと、あそこをこうしたらいいのにとかつい思ってしまい、自分が語りたい思いで苦しくなるから。新しいものがたり、古くて新しくて懐かしいものがたりを語りたい。先生に会いたいと思った。今日はゆっくり休もう....といってももう一時だけれど。 22日 校長先生に聞いていただき、25日デイケアのおばあさんたちとクリスマス会をしたら今年の語りの事業はおしまい。今年はよく働いた.........



三百九の昼 (2003 12 18)  その一言

 今日は幼稚園のおはなし会、年少さんに「ねずみ浄土」と「ジャックと泥棒」手遊びなど...。.....ねずみ浄土はクラスによってかなり変わった。「おむすびころりん、すっとんとん、ころころ ころりん すっとんとん」を二クラス目は子どもたちに歌ってもらった。「100年たっても1000年たっても猫の泣く声 聞きたくない♪」も歌ってもらった。
 3 クラス終わって、今後の打ち合わせをした。幼稚園の要望としては、民話がひとつ、それもよく知っているものを......エプロンシアター、パネルシアターなどは先生もできるので、本格的なおはなしがよいとのこと。
 まだ二回目だが、20分しっかり聞いてくれる。今は参加型のおはなしがひとつ、民話がひとつという構成だが、徐々にじっくり聞く話もしてゆきたい。

 事務所で会計事務所のまたさんと打ち合わせ、現金ベースのシミュレーションができた、立て替え金、とリサイクルの入力など終わらせた。中学の校長先生と22日時間の打ち合わせ。ついでにまた喧嘩。


三百八の昼 (2003 12 17)  駅で

 ウールのコートを着てマフラーと手袋も身につけ、ブーツをはいてひさびさにまっとうな格好で、夕方娘と浦和に出かけた。駅で偶然校長先生と出遭った。7月から中学で語らせていただくことはできないか、考え続け、先だってもお願いをしながら一歩が踏み出せないわたしだった。

 こうしてお会いするのは意味があることだ....と勇気を出して近づき、浦和までの40分、会話が途切れることなくつづいた。語ること、中学生にこそ伝えたいこと、なぜ学外の人間がなかにはいって生徒たちとかかわりがもてないか....それを先生は週休五日制のため、時間が足りないためだとおっしゃった。現在は時間をとる行事は縮小せざるを得ない、それほど時間が逼迫し各教科
でとりあいになっているというのだ。

 同じ世代の誼もあって、昭和30年代の給食の脱脂粉乳ミルクの思い出、鯨の立田上げでしか肉が食べられなかった時代のことから、勇壮だった運動会、棒倒しや騎馬戦の息詰まる興奮のこと、現在では父兄の要望から危険とみなされ棒倒しもできないということ、特色ある学校経営がしたくても、さまざまな縛りがあって思うにまかせないこと、学校の先生たちが週休五日制になっても土日出勤をせざるを得ないこと、事務や報告書などの作成にかかる時間のため、肝心の子どもたちと過ごす時間がとれないことなどの苦渋、新任の教師が採用されても、社会科などは100倍近い倍率で筆記試験で決まるため、ガリ勉詰め込みのひとが採用されることが多く、必ずしも教師として熱情をもってとりくめる、人の気持ちがわかる先生が来る訳ではないというジレンマなど....子どもを預かる先生のご苦労が身に沁みた。22日 語りを聞いていただけることになった。

 わたしは実際躁欝質である。むかしはどつぼに落ち込むと浮かび上がるのに相当の時間がかかった。家の外に出るのも億劫でうんざりしながら自分と向き合う、本を読み続けること、音楽を聴き続けることで紛らす....そんなことの繰り返しだった。このごろ自身をコントロールすることがわかってきて早めに社会復帰できるようにはなった。

 おとといあたりからエアポケットに落ちているのはわかっていたのだが、あすあたりはなんとか浮上できるだろう。



三百七の昼 (2003 12 16)  空

 息子を学校に送ったあと、車のシートを倒して空を見ていた。リアウィンドウの三角の窓をヘリコプターが横切ってゆく。銀行にいっても駐車場でぼんやりしている。ひと恋しくて恒吉さんにTELしてみる。おはなしの森の例会に行った。今日は松谷みよ子さんの再話が三つ....だそうだ。わたしは権現堂の伝説を語った。「幸手の地元のひとが聞いて、広まっている話と違っていたら困る」とかいわれた.....調べてみるつもりではいるが....利根川と江戸川の合流するあたりと実際に身投げしたというあたりとは違うのである。改修が行われたのかもしれない。けれども巡礼の親娘が見えるのである。眼裏に母のあとを追う少女の姿が....実際は投げ込まれたのかもしれぬ。真偽のほどは調べたとしても出ないのではないか....しかしこの伝説の「言い出した者が人身御供に立てばよかろう」という台詞のとき、6年1組の子どもたちの目にはなにかが映った。幾人かの子の顔色がたしかに変わった。 それはこの子たちの眼に心にこの物語が生きているからではないのだろうか  伝説をもとにしたお話ということにして語ってみようか。


 こんなことを書いたら、この拙い日記を読んでくれる語り手のかたがたのなかには傷つくひとがいるかもしれない。でも、わたしはほんとうはおはなしのろうそくの、金の髪とかエパミナンダスとか、もうあまり聞きたくない。ただ暗記した、みそ買い橋とかいわゆる定番の民話も目黒のさんまも安房直子も聞きたくないときがある。生きているものがたり、こころに響くものがたりが聞きたい。手擦れしていないものがたりが聞きたい。
 
 これで、またひとつ終わった。事務所に行っても駐車場で空を見ていた。梅の木の三番目に高い枝に一枚の枯葉が残っていて、強風に翻弄されくるくる回っていた。乗用車が揺れるほどのこの冬一番の空っ風に耐えて枝にしがみついていた。中天に雲はなく、薄い水色の空は奥行きもなく広がっている。弱い冬の陽はたちまち翳って、夕日に映えた飛行機の航跡が火箭のようだ。

 半村良の産霊の山秘録で....人々の祈りや願いは火の矢のように産霊の山目がけて飛んでゆく。そしてその祈りが集まって世を変える力となるとあった。ほんとうにそうであればいい。 けれど、ひとはそれぞれなにを望んでいるのだろう。幸せには違いあるまいが......。

 なぜか悲しい。冬の空みたいにからっぽだ。明日は命日。



三百六の夜 (2003 12 15)  即興

 ADOREの浅井さんの都合もあって、今日で銀座ゼミが終わった。始まったのは夏の暑いさかりだった。すこし語りに馴れはじめ、いい意味でも悪い意味でも語り手らしくなり、そこそこのカタチに嵌まりつつあったわたしに目も覚めるような平手打ちだった。何年も語りをしていた人たちが何人も様子を見に来て、授業に参加していったが、課題のなかで、そのひとのありようや志があらわになってゆくのだった。みずみずしい語りと型にはまった語りが、これは上手下手と関わりなく見えてしまうのだった。

 まったく先入観のない、経験のないひとの語りに心を動かされたり、自分が手垢のついた語りをしているのではないかと焦りを覚えたことも幾度かあった。一度語ったり読んだりしていただいたものがたりを少人数で順番に即興で語ってゆく。この過程で感覚の差や語彙や伝える力、それぞれの個性の差が際立ってくる。

 ものがたりに登場人物にさまざまなアプローチの仕方があることを知る。また、先生の指摘で仲間の表現が眼に見えて深まり、説得力を増すのが手にとるようにわかる。これは少人数だから可能なことであり、浅井さんが想定していたひとクラス20名のクラスの編成と相容れない矛盾を当初から内包していたと思う。

 浅井さんの語りを広めたいという想い、先生の新しい語り手を、という想いにわたしも引きずられ、この秋は冒険もした。恋するものがたりを三つ立て続けに語ってみて、最後の日に掴んだのは語りとは実にひとの奥底からあふれ出るということだった。いのちと蜜実のものだった。それも聞き手と呼応することでできるのだった。本質的に即興のものである。日に日に変わりゆくものと思う。わたしたちは生きている。ことばはいのちと連動している。壊れたオルゴールのように同じ旋律を同じ物語をまったくそのままに繰り返すのではない。ものがたりも生きている。生きることのテーマは、語ることのテーマはかわりはしない。愛すること、死ぬまで生き抜くこと、めぐりの者たちをしあわせにしようと働くこと、美しいもの、儚いものをいとおしむこと 手をつなぐこと 喜びを共有すること。けれどそれゆえにこそ、ひとはそれぞれのものがたりを、それぞれの語り口で語っていい。

 三年半たって原点に戻れたと思う。今、はるかに地平を望んでわたしは広大な野に立つ。語るべくものがたりが待っている。歌うように語りたい、弾きながら語りたい、ささやくように、叫ぶように、いとおしむように語りたい。時に埋もれたものがたりを掘り起こし、飛びすぎてゆくものがたりをこの手でとらえて語りたい。心に響く語りを、プロではないがそれだけの水準をめざして語ってゆきたい。

 浅井さんも新たなものを目指してゆくのだろう。がんばってください。



三百六の昼 (2003 12 15)  これが....

 6年1組の教室に8時5分に着いた。早すぎたので誰もいなかった。わたしは机の上の国語の教科書をひらいた。谷川俊太郎の詩があった。「生きる」....これを....と思った。

 権現堂の堤の伝説を語り、田中清子さんのわたしがちいさかったときに.....を語る  途中であの感覚があしもとから手から....すこしふるえながらわたしは淡々と子どもたちに伝える....生きるということ、語るということ、深くしんとした喜びがそこにあった。子どもたちのまっすぐな目の光がなにかを見つめていた。


三百五の夜 (2003 12 14)  ネモさんと.....
 
 ミュージアムのなかをネモさんと黙って歩いた。 不思議な空間だった。ビートルズがデビューしたとき私は12歳。70年代.80年代 彼らの軌跡に私の軌跡も重ねあわせ辿って歩いた。それからカフェでジョンのレシピでつくったロイヤルミルクティー、サーモンとコールドビーフのオープンサンド、モッツァレラチーズとトマト、サラダなどをたのんだ。

 来年の修善寺の語りの祭りのあとの会津ツアーの打ち合わせをした。ゆっくり心ゆくまで語り合える楽しいつどいになりますように。ネモさん、よろしくお願いします。わたしも副幹事をします。

 この一年はネモさんにとってもわたしにとっても、大きな一年だった。はじめて会ったときからくらべ、ネモさんの顔からなにかが削ぎ落とされたようだ。迷い、そしていささかの甘さも.....そしておそらくわたしの顔もネモさんと似た変貌を遂げているだろう。これから老年に向かう。その時を豊穣にするもしないも、今にかかっている。子どもを育て上げ、自分を実らせ、若いひとびとに伝えるべきことを伝えられるかどうか、そこにかかっている。

 時間も体力もあるうちにできるだけのことをする....そのためにこれからは、選択がより必要になるだろう。早く的確に目的地にたどり着くために、みな必要なものだけれどそのなかでより緊迫性のないものから捨ててゆかねばならないのだ。決断がより求められることになるだろう。たとえばデイケアより、やはり子どもだというように.....身なりにかけるより、より本質的なものへと......

 かって一樹さんとそうしたように、わたしはネモさんの淵を覗き込む。すると映っているのは、わたしなのだ。会うべくして廻り会ったのだと思う。


            けやき広場


三百五の昼 (2003 12 14)  白い鳥

 朝、事務所に向かう車のなかで、空を見上げたわたしは息を呑んだ、真っ白な大きな鳥が西の空を目指して幾羽も飛んでいる。それはコバルトの澄んだ冬空に浮かんだ白い雲だったのだけれど。なおも目を凝らすと白く輝く富士山が地平線に木々や屋根のあいだからくっきり見えてわたしは心臓を掴まれた気がした。あまり美しいので涙が出た。

 それから、パートの藤田さんと事務所の掃除。会社の年賀状作成(但し印刷はまだ)午後 県立図書館 おはなし会。事務所に戻ってパネルシアターのパネル作り、折りたたみの白黒二面のパネルができた。響きあうことばといのちのアンケートをまとめた。二日目のアンケートでは、パネルシアターをやりたいひとが語りを上回った。パネルシアターも語りも子どもたちにいろいろなものを届けたいという選択、おとなも楽しめるという選択が目立って多かった。おとなのだったら、くすっと笑えるようなのがつくれそうである。Upはあしたできるかどうか。

 帰って夜、ようやく小阪さんから送られたFAXを発見、3月の研究セミナーのプログラムの原稿をフォトショップでつくる。といってもグループWのだけだ。持って行くのは1月でいいらしいのだが、仕上げてあると落ち着くし、なんといっても好きな道である。

 1:32 これからまりとコンビニに行く。チーズケーキが食べたいな。

三百四の夜 (2003 12 13)   ミッドナイトブルー

 ユザワ屋で服地を買った。ミッドナイトブルーがきれいだったので.....それに合わせてブルーのオーガンジーも。それから伊勢丹でアンティークの華奢なイヤリング。岩波文庫を五冊、ゴーチェの死霊の恋は昔、青木文庫のがあったのだけれど、友人に貸したら戻ってこなかった。華麗な美文調の訳文でで、死霊になって甦る美貌の娼婦クラリモンドのゆらめくような香気と退廃、魔の跳梁する闇の思わず引き込まれてしまう妖しいまでの美しさが若かったわたしを魅了した。それには木乃伊の足も併載されていた。あ、そういえば国書刊行会から出ているゴーチェも買ったような気がする? 
 チョコレート依存症もなおった。11/7の安全大会から12/8の会社旅行という会社の二大行事が終り、偶然その間にはさまれた5回のステージ、響きあうことばといのちの講座が終わった。気の遠くなるような高速回転の日々は過ぎ去り、もうチョコレートの世話になる必要もない。ふつうに忙しいのだが、それではハイになれないので、失速した紙飛行機みたいに落ちそうで落ちず、低空を飛んでいる。やっぱりわたしは 死にそうに忙しいのが好きなのだ。 

 忘れていることができるから、追憶の波に押し流されないですむから...かもしれない。



三百三の昼 (2003 12 12) 飛び入り

 浦和に行った。折りしも今日は酉の市、十二日町である。須原屋で岩波文庫を購ってユザワ屋の前まできたら女性ばかりでイラク派兵反対の署名活動をしていた。署名をして店に入ろうとしたが、つい戻って飛び入りで道行くひとに声をかけた。するとだれかがプラカードを渡してくれた。道ゆくひとは多いが足を止めるひとは少ない。もの珍しそうに一瞥してゆく。けれど小学5年だという男の子が自転車をとめて署名してくれた。


 もし、万が一、きのうこの日記を読んでくださって、トリスタンとイゾルテの解釈に興味を感じた方がいたら、もう一度読み返してください。かなり加筆訂正があります。

三百二の夜 (2003 12 11) トリスタンとイゾルテ

 昨日に続き 語り手は望むなら聞き手を異界、この世ならぬそしてこの世と摩訶不思議なつながりをもつ美と一抹の恐怖に彩られた世界へ導くことができるのだと述べたうえで、西洋的な愛、また世界観を凝縮した趣のあるトリスタン伝説とその原型になったディアドラ伝説の相似と超えようもない圧倒的な違いについて考えてみたい。

 まずディアドラについて、ディアドラの名は災い、嘆きをもたらす者という謂いで彼女自身はかなしみのディアドラと呼ばれるのである。(櫻井先生の再話でもわたしの再話もソフィストケイトされているが)実際ディアドラはかなり強引に(わたしは若い牡牛を選ぶとさえいう)ノイシュに迫る、そしてゲッシュ(誓い)を強要する。ここでテーマは忠義と愛の葛藤である。

 それに対して、トリスタンとイゾルテの場合、トリステス(悲しみ)からトリスタンの名はきているしケルト語では面倒を意味していることが興味深い。こちらもはじめの原作ではイゾルテが求愛した。しかしここに媚薬が登場し物語は劇的に変容する。すなわちふたりが同時に愛し合うようになり、宿命もふたりに作用する。というよりわたしにはディアドラという稀有なファムファタル(女)の物語からトリストタンの遍歴と喪失と獲得の物語、すなわち男の物語に変換しているように思う。ここでイゾルテはトリスタンにとって生と死の国(アイルランド)の女王であり(トリスタンが致命的な傷を負ったとき必ずイゾルテの魔法によって癒される、)、トリスタンを運命に導くものとなる。マルク王は父性の象徴となり、乗り越えねばならぬものであり、イゾルテは父の女でありながらトリスタンの女である。

 西洋の主要なテーマであるイノセンスの喪失と試練(怪物との闘い)父親との相克、生と死、再生がすべてここにある。つまりこれはトリスタンに名を借りた人間(しかも男)の開放の物語なのではないか。
 媚薬とは象徴であり狂気である。媚薬の出現により誘惑者から宿命の愛に生きる者に ディアドラからイゾルテに変わった。そしてイゾルテはふたつに別れた。白い手のイゾルテは俗世の女、ごく普通の幸せを望む女である。金髪のイゾルテのように男の覚醒を促す女ではない。
 ディアドラの場合、宿命は予言としてあらわされるが500年の時を経て、トリスタンにおいては媚薬が宿命の象徴である。予言はお告げであり翻しようのないものだが、媚薬を飲むのは偶然の産物であり、それも運命とはいえなくはないが、予言に比べては軽い。むしろ媚薬を呑むことはふたりの決断を意味しているのではなかろうか。ひとは宿命やさだめに翻弄されて生きているのではない。トリスタンは本来の王位を捨て、マルク王の臣下として生きることを選び、マルク王の花嫁としてのイゾルテを勝ち取るために闘った。そのトリスタンが自分の愛するひとを抱くための、忠誠を脱ぎ捨て、本然の我に立ち返るための道具としての役割が媚薬にはあるのではないか。

イゾルテよ 何をお知りになったのです。なにがあなたを苦しめるのですか。

わたしの知ったすべてがわたしの責め苦です、わたしの眼に映るすべてのものが。あの空も、この海も。そして私の肉体も、この命も。

愛しいひとよ、なにがあなたを苦しめるのですか。

あなたを愛していることが。

恋人たちはひしと抱きあった。欲望と生命の力が、ふたりの美しい肉体のなかで打ち震えていた。トリスタンは言った。

死よ 来たれ

 .....とても美しいことばである。男女の愛とは決して平安ではない。相克であり、性愛の極地は一度かぎりの死である。そして再生。女のもうひとつの側面である母性が欠け落ちていることにも注目したい。ディアドラが子を産んだという記述はひとつだけ見た記憶があるが、イゾルテには記憶がない。この物語の再生とは生命の連鎖の再生と復活ではなく、あくまで個としての再生、意識としての再生、人間としての復活が性愛によってなされるのだ。


  ディアドラは原初の女の強さをもつ。トリスタンとイゾルテのユング的世界の魅惑には心穏やかならざるものがあるが、わたしがディアドラに惹かれたのはディアドラのおおらかさ、大地の匂いのするような伸びやかさ、宿命を担い自分の意志で選択する強さだった。このあいだの再話ではすこしおとなしやかに過ぎたかも知れない、ノイシュの決断、コノール王の苦しみに光を与えたつもりではあるが、テーマは宿命ならざる(わたしの嫌いな)自己犠牲とスピリチュアルな愛であったようだ、聞き手のみなさんに伝わったかどうかは別にして。昔はともかく現在の日本で性愛による人間性の復活はもろには語れはしない。しかし生と死のこの生とはまさにエロスをさしている。そこに東洋的な諦念を加味して、さて語れるか、もう一度再話してみたい。そのうちにトリスタン伝説も語ってみたい。


           
 参考:愛の原型 トリスタン伝説

 


三百一の夜 (2003 12 10) 異界のもの

 
ノイシュは眼に見えるもの、見えないもの、なんびとにもいだいたことのない愛をディアドラに抱いてしまったのです。

 ディアドラのこの一節はわたしの創作ではない。どこかのテクストにあったものだ。眼に見えるもの、見えないもの....というのは実にケルト的だと思う。ケルトのひとびとばかりでなく先住民族の多くは多神教であったし野や山、川、そしてそこに生きとし生けるものすべてに精霊が宿っていると信じていた。キリスト教が伝来し太古の神々、精霊ははちいさなものに姿を変え、駆逐されときに敵対する悪しきものとならざるを得なかった。聖書のなかで伝説の力あるもの竜は悪しきものとされている。現在においても良きもの、悪しきものともに部屋の隅、林や水辺、ビルのなかにさえ今も存在する。異界とは遠い彼方にあるのではない。今、ここにある。わたしたちの眼が完全でないために見えないのだ。ロマン主義の詩人たちは眼に見えぬものを見ようとした、見者たらんとした。
 が、眼に見えぬまでも察知することはできる。子どもの感覚はより鋭敏にこの世ならぬものを肌で感じるし、おとなたちのなかにも人よりその能力が強いひともいる。亡くなった父の話だが、埼玉県庁の運転手さんのひとりがある朝出庁しなかったという。その前日、役人の送り迎えのとき、運転手さんは戸田のあたりの欅の大木の樹上にあるものを見た。それで恐怖におびえ、ふとんのなかで震えていたのだそうだ。この肉の眼で見えるものが実はかりそめなのだとしたら....。
 わたしもその片鱗を見、聞き、感じたことが幾度もある。常識では計り知れぬことは実はとても多いのだ。理性をはるかに超えて魂を素手で掴まれるようなことが....ここにいるこの現実こそが夢なのではないかと感じることが....現と夢は裏返し、眼に見える界、見えない界、そのはざま、そのあわいの黄昏にわたしは惹かれる。
 それだからこのうつつの空つの世がいとおしい。


三百一の昼 (2003 12 10) 月の夜

 きのう、6年1組の植竹先生に4時も過ぎて、お詫びにいった。電話での打ちあわせで8日をとうか(10日)と聞き違え、朝のおはなし会に穴をあけてしまったのだ。家にいれば5分ですぐ飛んでいけるのだが、あいにくその朝は飛騨にいた。マラソン大会のかたづけをしていた植竹先生は冬の匂いをジャージに染ませて職員室に戻ってこられた。窓際のテーブルで美味しいお茶をいただきながらお話したら、末娘の6年のときの三人の担任のうちのおひとりだとわかって、先生もびっくりなさっていた。

 と、山吹色の月が住宅街パークタウンから上ってくる。見ているあいだに月はするする昇ってまるい大きな月が地平近くにすがたをあらわした。わたしは先生に6年1組の子どもたちにおはなしをさせてくださいとお願いした。来週の月曜にと先生は喜んで諾ってくださった。ほんとうにあったおはなしを語ろうと思う。創作にも命はあるけれど、もうすぐ卒業する子どもたちに、おとなと子どもの世界の狭間にいる子どもたちにほんとうにあったおはなしを、まだ命を持っている民話を語ろう。幸手の権現堂の堤のために人柱となった巡礼の話を、わたしがちいさかったときに...のなかからひとつ、そして餞に詩をひとつ。

 連絡会、メンバーはいつもに増して力が漲っているように見えた。最初に旅行の反省。安全協力会と社員旅行は別にという意見、朝食時間の連絡の不徹底、宴会でもっと企画があってもいいのではなど、次回への提起があった。よかったのは参加したひとたちがみな喜んでくれたこと、事故もなく無事に帰れたことなど。わたしの方からは当初危惧したが業者さんと社員の旅行はお互いのこころがわかって存外よかったのではないかということ。最初バス内で自己紹介をするともっと早く打ち解けたのではないか、部屋割りについてお客と社員の部屋に格差があった。(それで社員の部屋には夜食代を差し入れた)両方に満足してもらうために専任の幹事を置いたほうがよいのでは...ということ。

 驚いたことに社員さんたちはほんとうに楽しんでいたらしい。池田くん、森くん、高山さん 日ごろは無口のひとほど はじけたようだ。話を聞いてみんな大笑い。アルコールと若い女性は男性に化学変化をうながすのである。まずコンパニオンさんたちがきたとたん、会場の雰囲気は一変する。これは実におもしろい。(わたしは7人のコンパニオンさんを順に呼んでしんみりしているところに派遣した、手があいたら私服を着ているのが社員だからおじさんをおいて社員に張り付くように指示した) そのうえに日塔さんが踊りだし、わたしが走り回り、絶叫し....というわけで...1時間ですっかりみんなできあがり、二次会までもったのは10人くらいだった。

 年末まで事故を起こさず、売り上げ、利益確保に全力を尽くす、28日もちつき大会を自由参加で行うことが決まっておひらきとなった。それから大塚商会に新しいソフトのデモをしてもらう。ひとは基本的に新しいこと面倒なことはしたくないのだ。ここでこのソフトが入ると経理は大きな変化を遂げる。パソコンを導入しシステムを構築し続けて、十余年。経理が仕入れ伝票を入力する必要がなくなる。日報入力により支払い予定表まで作れ、実行予算書から注文書まで作成できる。もちろん工事台帳、仕掛工事管理、予算管理などなど.....いままで、うちの会社の特異性から普通の販売管理しかできないものを、はじめて工事会社としての経理システムとなる。これはカッター、ラインなどの特殊な分野中心の陣容から一歩も二歩も踏み出すということである。さぁ おもしろくなってきた!!


三百の昼  (2003 12 9)    そして祈り

 
 日々の暮らしは祈りに近くあった....モルモン教徒のように厳しい戒律はなくても、昔からひとはその日の無事とその日の食物が得られることを祈るように暮らしてきた。自分ばかりでなく自分の家族やまわりのひとたちの暮らしよよかれと祈るように生きてきた。日本ばかりでなくどこの国でもそれは変わらないことだったであろう。そしてそれゆえ天に背かぬ暮らしをしなければならぬという暗黙の了解があったのではなかったろうか。それは神話や伝説やフォークロアのなかに今も連綿と地中を流れる水のように流れ続けているのではないだろうか。

 ごくふつうのひとのささやかな暮らしを揺るがす最大のものは戦争である。太平洋戦争で日本は多くの国を巻き込み、無謀な戦をした。戦場で水漬く屍、草生す屍となった男たちは数知れず、あやうく私の父も南方で死ぬところであった。たくさんの子どもが死に、女たちが死に、自転車で通勤途中の男たちも沸き立つ川で死んでいった。

 負けたことのないアメリカは正義をふりかざし続け、今年春イラクに戦争をしかけた。正義の戦争はない。太平洋戦争が資源を持たない日本の資源を得るための闘いであったように、イラクへの戦争も石油資源、アメリカの産軍複合体の影がちらついている。わたしは春、何十通ものメールを送り続けた。「どうかこの戦争に反対する意思表示をしてください、子どもたちのために...」芝居畑の反応は早かったけれど、語り手たちからの返事はたった一通、櫻井先生だけだった。なぜ見過ごせるのか 不思議だった。ひとの痛みが子どもの苦しみが感じられなくて、語ることができるのだろうか。

 いくら小泉さんに、ブッシュにメールを送っても、プラカードを持って通りを歩いても、戦争を止めることも遅らせることすらできなかった。クラスター爆弾で多くの子どもがアフガンに続いて犠牲になった。劣化ウラン弾さえも使われた。わたしはひとつまたひとつ自分のサイトからイラク戦争の痕跡を消した。イラクのアフガンの子どもたちの写真、イラクの一般の死者のカウンター、イラクの高校生の手紙 絶望したから、思い出したくなかったから、今も苦しんでいる子どもたちのことを考えたくなかったから。

 ....でも、今 もしかしたら...と思っている。自分のまわりのひとや地域の子どもたちをたいせつに思う気持ちがあるのなら、どのサークル、どのグループをも愛にみちた楽しい明るいものにしてゆこうとするならしようと努めるなら、大きな声で反戦を叫ばずとも、いつか世界の平和につながってゆくのではないかと...かすかな希がたちのぼってきたから....。そして祈るように語ることはできる。

 6月、響きあうことばといのちで語りたかった「わたしがちいさかったときに」を 来年1月、市民芸術祭で語る。戦争で亡くなった子どもたちの代弁者として......。

 

二百九十九の昼  (2003 12 8) 街の灯

 平湯温泉の旅から帰った。アルプスの山なみは雪雲が覆いかぶさり見えなかったが、白銀に輝く中腹に真っ白な雲を従えた富士山を見た。富士のお山を見るとき、静かな喜びに満たされるのはなぜだろう。赤い富士(夕日に染まるのではない赤富士はほんとうにある)でも白い富士でも懐かしいようなあこがれるような気持ちになるのはなぜだろう。

 6時間の間をおいた都合4日のバスの旅が終わって、まだからだが振動しているようだ。社員旅行と協力業者さんの親睦会の総会と忘年会を兼ねた欲張りな会だった。社員、お客様、業者さん、若いひと、老いたひと、お酒が好きなひと、苦手なひと、それぞれの立場の40名が楽しく快適に満足して旅行がおえられるよう、わたしの持てるかぎりの力を駆使した。とても疲れているはずだけど、今日見交わした目、語られたことばがよみがえってきて、わたしは....苦しいような熱いようなそれなのにしんと鎮まった不思議な気持ちでいる。

 走り回り、気を働かせ、手を打つ、ことばとそれ以外のもので伝える。その連鎖が 波動を起こし、ひとの気持ちを動かす不思議。
それはやはりまなざしやあたたかい波動やことばでかえってくる。わたしはこんなふうにまいにちが過ごせたらと思う。そうしたらあえて語らなくたっていいのだ。日々のくらしがことばや行為がひとをしあわせにする、楽しませ、こころとこころを響かせるものなら、語ることをしなくても生きてゆけるかもしれない。

 梓川の流れは清く、安保の水は甘く、飛騨の里は雪が舞っていた。塩の道はつづき、雲の波、山の波はたとえようもない美しい均衡を持って遙かにひろがっていた。けれでも今日、それに負けないくらい、帰り道の外環の煤で汚れた東京の街の灯はやさしく美しく煌めいていた。


二百九十八の昼  (2003 12 6) 表現

 表現について考えるようになって、ほぼ一年、ようやく自分のなかで整理がついてきた。わたしは表現のわざにばかり目がいっていたようだ。表現は文字とおり表に現すのだが、いったい隠されているなにを表にあらわすのか?  ものがたりを表すにしてもただものがたりをなぞるのではないと思う。ここで自己開示につながるが次元はより深い。奥底に秘められているものを乗せる、その段階がひとの心に響くカギを握っているような気がする。

 表すとは裏、内側にあるものを見えるようにすること、現すとは実際にそこにないもの、見えないものを顕にするということか....
自己の表現では浅すぎる。小手先のわざなど必要はなかった。声と心と肉体を鍛え、心を澄ませて臨めばいい。すると、間とか強弱とか緩急とかは自然についてくるようだ。不思議だなぁ。

 ディアドラは実験だった。果たしてまとまるのか、受け入れてもらえるのか轟沈覚悟のヒヤヒヤものだったけれどjunさんやひさQさんの感想を知ってほっと安心した。物語のなかの歌も違和感はなかったみたい...さぁ、こんどはなにをしようかな....ひさQさんのサイトはリンク先にあるはなうたです。とってもお洒落なサイトです。

 とりあえず帰宅、明日は安曇野。



二百九十七の昼  (2003 12 5) なんとか.....

 連絡会、11月なんとか売り上げはクリヤー、ただし純利が119万だった。世田谷解体、ラインが響いた。これでは現金がまったく足りない。現金ベースの損益予想をつくりたい。Y基金、まだ結成してまもない会なので無理とは思うが申し込みをする。事業内容が多いことがどのように評価されるか興味もある。ゲンをかついで火の鳥の切手を貼ってみたが、もし万が一にも通るようなことがあれば、パニックになること必定、みんな逃げ出すかもしれない。


二百九十六の夜  (2003 12 4) ふしぶし

 きのうの語りでディアドラが森のかなたから聞こえてくるノイシュの歌声で目覚めるところ、.....その歌はディアドラの血管の節々にまで沁み入り、ディアドラの胸をときめかせ、あこがれでみたしました....と言ってしまった。もちろん血管のすみずみまでが正しいのです。みなさんしんと聞いてくださった.....今日車を運転しながらわらいころげました。....いくらふしぶしがイタクたって....。


二百九十六の昼  (2003 12 4)  自己開示

 ななつのものがたりを終わって感じたことのひとつに自己開示がある。語りをするにあたってその必要性について今まではっきり述べたものはなかったが自己開示もひとつの大きな鍵なのだ。その自己開示というのは自分さえ知らない魂の奥底の発露であるように思う。階層がある。どこまで降りてゆけるか、その奥は何かとても遠くはるかなものにつながっている。自分の幼年時代は序の口で、種族的な記憶、さらにもっと深くまで。

 語りがひとり芝居でないのは、たとえばわたしはディアドラの台詞のときディアドラを演じているのではない。自分の過去の恋の切ない想いを手がかりにして、さらにその奥の何かが語っている。ノイシュは半ば即興だった。つまり、ノイシュはきのうあの場の力をも借りてわたしの奥から現れたのである。語りとは本来、即興なのだと思う。演出は迸るものを矯める。.....そういえば壌さんもそんなことを言っていた。練習することが必ずしもよい結果を生むわけではないというようなことも。演出とかは、原初の奉納された歌や語りにはなかったはずだ。祈りが演出できるはずはないのだもの。

 4つのうちで、芦刈はもっとも時間が必要だった、それからつつじの娘がそのつぎに努力を要した。なぜかといえば、それはひとの書いたテキストがもとになっているからだ。もちろん、手は入れている。ただ、それは短くするためとか自分の恣意的なものではない。そうしなければ、伝えられない、語れないからなのだ。それでもなおつくられたものを語る、自分の血肉にするには時間がいる。

 おさだおばちゃんはわたしのものがたりだから練習などほとんどしなくてよかった。一度通して語って、あとはおばちゃんを引き寄せる。ディアドラは伝説の再話を3つ4つ読んだ。けれどプロローグの託宣とアルパ王のくだりのほかはほとんどわたしのイメージのうえの話である。誰もノイシュの切られた頭部をディアドラに抱かせたりはしない。ゆえに物語がいのちを持てば、語ることは難しくはなかった。

 ここにきて、ようやく櫻井先生の教えの再話と創作の意味がわかった。それは作り上げることではない。創作とはダヴィンチが言ったように本来そこにあるものを、なにか大きなもののの力を借りてあらわすということなのだ。ここで話をもとに戻すとそれだから、語りは自己開示でもあり、そのせいだけではないのだが共有することによって語り手のそして聞き手の癒しともなりうる。

 語ることは狭義の意味での自分のため、たとえばステータスなどではない、自己表現ということばさえ小さい。けれど発するところも結果としても自分、なんでもそうだが自分を磨くしかないのである。細き門、しかし針の穴は見ようによっては馬さえ通る。そこでようやく聞き手の魂に響くのではないのかしら。そのときわたしたち、語り手と聞き手はつながる。それはそれまでのこまごまとした雑用、時間、出費すべてを覆い流し、生きることのつらさ切なさがあたたかい喜びにかわる一瞬となるのだ。

 ところで、浅井さんが言ったようにそうした癒しの可能性を持つ語りがビジネスとして成り立つのかしら。わたしは非常にむつかしいと思う。愛は金銭でたまにはあがなえるけれど、それには大きな代償を伴う。人間がよほど大きくないと自滅するような危惧を感じる。でも浅井さんなら、多分大丈夫だろう。

 

二百九十五の昼  (2003 12 3)  自由の身

 イギリスから帰ってきた中野さんと9時過ぎにようやく連絡がとれた! 中野さんも七つの物語に間に合いそうである、よかった。まるで旅行に行くような大荷物を持って駅の階段で苦闘していたらどこかのおじさんがひょいと運んでくれた。東銀座の階段でも紳士がそこは土地柄、申し分のない礼儀正しさで運んでくれ、日本の男もまんざらじゃないとひとりごちたが、あれは単なる敬老精神の表れだったのだろうか!?
 
 着いて簡単な場当たりと打ち合わせがあり、櫻井先生からコメントをいただいたが、この一言が本番でどれだけみんなの良さを引き出したことだろう。さすが師である。お客様はつぎつぎ来場され、セミナーの仲間たちとのうれしい再会があり、カタリカタリやおはなしの森、ポコアポコの友人、講座にきてくださった方、それぞれ出会いがあった。そしてjunさん! ひさQさん、尾松先生 藤野さん ガールスカウトの友人、横田さん はじめて会った山田順子さん、あいさつはしなかったが鈴木砂智子さん、聞き手に恵まれ、わたしたちはしあわせな語り手だった。

 もうこわいもなにもなかった。ディアドラはすべり出し、尾松さんと、どなたかわからないが二列目に魅せられたお顔をなさっている方がいて こんなに一生懸命聞いてくださる と思いが強くなる。アドリブだらけだったけど、語りはそれでいいんだなあと思う。わたしは次第に櫻井美紀タイプの語り手になりつつある。練習はあまりしない、その日のノリである。あっごめんなさい、先生。先生は聞き手をがっかりさせない。わたしもすこしずつそういう意識が出てきた、それがうれしい。芦刈、おさだおばちゃん、つつじの娘、ディアドラ、四つの全く異なる語りのステージを一ヶ月のうちに持つのは冒険だったけれど、講座も開いたのでたまに死にそうだったけれど実りある旅だった。

 野田さんも、高橋さんも、橋本さんも、中野さんも、新井さんもすてきだった。練習のときよりずっと輝いていたよ、ひとまわり大きくなったよ。いい仲間と出会えてほんとうに楽しかった。櫻井先生の「あなたに会いたい」は今までの語りの概念にない可能性を示していた。みなさんに最後の挨拶でお話したように、今日は到達点、そして通過点、新しい語り(それはもしかして本来の語りのあり方であるかもしれない)語りの新しい地平をめざし、仲間たち、これから加わる人たちと声を掛け合って行けるところまで歩く。

最後に床で聞いてくださったみなさま、ほんとうにごめんなさい。わたし自身もずうと床には坐っていられなかった。寒いし痛かったと思います。語りながら最前列の方の膝に目がいってしかたがありませんでした。

そしてAdoreの浅井さんありがとうございました。

 しあさってから久しぶりに自由の身だ!!



二百九十四の昼  (2003 12 2)  ケセラセラ

 朝 ちょっとした修羅場があって、これで語れるのだろうかと思いつつ「私はプロ、私はプロ」と唱えながら図書館に行った。今日はトムの会の発表会である。お客さまはすでにかなりはいっていた。わたしは始まったあともドアのちかくで案内をしていた。なにも手伝えなかったのですこしは役に立ちたいと思ったのと、気持ちを静めたい想いもあったのかもしれない。

 つつじの娘はわたしだけの力であれば応分のできだった。....がおわったあと望月さんがとんできて「森さん、よかったですよ。でも、肝心のところ間違えましたね」というのだ。えっどこでしたか?「『もちがもち米にかわっているのです』と言っていましたよ。」あぁやってしまった。自分ではしっかり掌を見て確認して、こんどは間違いない...と安心していたのだから迂闊な話である。でも過ぎちゃったことは仕方ない。忘れてしまおう。佐々木さんは泣いてくれたし、つつじの娘がかわいそうでした....という感想もあったし、聞き手には娘は魔物と思われなかったのだから、努力はむくわれたというものだ。

 そして、今日しみじみ これから表現に囚われるのはやめようと思った。原点に戻ってこころの及ぶままの語りをしよう。計算、演出くそ食らえである。これは刈谷先生と語りの面では決別すること、たぶん壌さんとも。語りはやはり、ひとり芝居ではない。わたしは神さまのおりていらっしゃらない語りはしたくない。舞台にたってもすこしもうれしくも楽しくもないのだもの。自分のこころが揺り動かされない語りは、たとえ聞き手に喜んでもらえてもしたくない。むなしい感じが残るのだ。

 庄和町や菖蒲町やいろいろなところからきてくださった。講座にきてくださった方が大勢いらっしゃった。子ども図書館の系列の語りを長年(20年)してきた方が ああいう個性的な語りもしたいとおっしゃった。トムの会のメンバーの今日の語りはそれぞれがそれぞれの到達点であった。誰もが自分で納得できる語りをすればいい。でも確実に輪はひろがっている。夜も反響があって電話が鳴り続けた。明日銀座の会に行きたいというひともいた。

 その銀座のディアドラだが、友人に頼んでおいた衣装を見て仰天した。動揺は隠し、にっこり笑って受け取ったが帰りに伊勢丹に走り衣装の調達をする。あしたは衣装で勝負.....するしかない。....でも....でもあのディアドラを聞いたひとが三人も来てくれるという。これは...もしかしてマジで語ればけっこういけるかも....最後のあがきだ。とおしで一回やってみよう



二百九十三の昼  (2003 12 1)  師走

 晦日が休日だったので今日は大忙し、修行の足りないわたしは体調がわるいと手負いの猪である。二時間事務所にいた間に 痛烈な一撃を思わずいくつか。開けっ放しの金庫を見て「金庫は閉めておいてくださいね」日報入力に四苦八苦している営業さんに「まとめて入力するからでしょう、その日のことはその日のうちにね」年賀状の枚数とお年賀のタオルの枚数を報告していない営業さんに「締め切りはもう一週間過ぎていますよ」空廻りしていると思われる役員に「それはわたしが決めたことです。時間をかけてゆっくりやりましょう。先走りされては困ります!!」

 相当なおババである。それから買い物をして洗濯物をあたふた干して銀行。銀座ゼミ。帰ったら娘のつくったポトフーがおいしかった。TELにでるとKさんから七つのものがたりのチケットを二枚頼まれた。とても内気でわたしたちの語りを聞きたいと来てくださるような方だとはおもはなかったので、内心驚いた。それからすみれちゃんから刈谷での丸々したわたしの写真が届き、村田さんから愛のメールが届き、幼稚園から28日のおはなしが好評で12月はなかったはずのおはなし会の予約がはいり、なんだかなにもかもうまくいきそうな気がしてきた。あしたは事務所のみなさんに愛想よくしよう。


二百九十二の昼  (2003 11 30) 傍らに

 時折 襲ってくる強い痛みさえなければ なんともいえない胃のあたりの不安感さえなければ さほどのこともない。わたしは痛みへの耐性はかなり強いらしい。昔、医者に幾度かほめられたことがある。ほめられたって自慢になるようなものでもないけれど。

 あまり痛むときはお風呂にお湯をはって浸かっている。あとはただ横になっている。夢の中でディアドラの練習をしようとするのだが、「昔 今のアイルランドがエリンと呼ばれていたころ...」のところで「昔 ある山の村に..黒い目のいとおしげな娘が...」となってしまって何度繰り返しても前にすすまない。

 ふと見ると傍らで娘が寝息をたてている。すこやかな娘の香しい髪の匂い.....若いってなんということだろう。娘は気づいてさえいないのだ。からだから満ち溢れているいのち、伸びてゆこうという意志のような青い植物のような精気...わたしは黒い髪をなで香気を深く吸い込んだ。しあわせな気持ちでまたねむった。

 あしもとからいびきが聞こえる。ケヴィンだ。わたしが寝ているあいだ、枕のすみにちょんと頭をのせて寝ていたり、傍らにいたり、あしもとで寝ていたりする。病気のときはふとんのなかにはいってこない。はいってきてもすぐに出てしまう。遠慮しているのか、それともいつもより熱で暑いだけなのか。

 いないとき、ケヴィンはどこかなぁ、こないかなぁと思ったら、
2分後に脱兎のように階段を駆け上ってきた。どこかでケヴィンとわたしはつながっているよ、確かに。

 じりじりする焦燥感は捨てよう。ベストを尽くせばよい。たとえ思うことの半ばも伝えられないにせよ、それが今のわたし。あと一日でもやはり、できあがったものは壊して中途でも納得のいくかたちにしようと思う。


二百九十一の昼  (2003 11 29) 夢の中

 ときおり目覚めて水をのんだり掲示板を覗いたりするほか、一昼夜うつらうつら夢を見ていた。

 夢のなかは、いつも夕暮れか夜で わたしはいつもなにかを探しているのだった。閉店間際の喫茶店ともバーともつかない店で、マダムや従業員と話しているわたしは20代の後半で、店には熱帯魚のガラスのケースがぼんやり光っている。メニューはビニール製でわたしはカフェオレとアイスクリームの添えられた奇妙なものをたのんだ。閉店時間を気にしながらそそくさと口にしたが味はなかった。茶髪をアップにしただみ声のマダムは60年代風で、食物の臭いの染み付いた通路もシャッターの降りた閑散とした路地も妙に懐かしかった。

 と思うと久美ちゃんと夕暮れの東武線に乗っている。わたしたちは発表会のかえりで、今日はどうしてもうちに泊まると久美ちゃんがいうので、わたしは内心困っている。すると4WDの車に乗っている。そこは浦和、わたしが生まれ育った街、ゆきちゃんのお屋敷の脇をとおり、おさだおばちゃんのおつかいによくいったかさ屋の角を回る。ふと気がつくと今度は久美ちゃんが運転している。わたしは指差す「ここは、わたしの実家なの、わたしの家はそこを曲がったところよ」それは場所からいえば、昔遊んだ原っぱの、もう廃業した銭湯のあたりなのだった。けれど次の瞬間わたしたちは家にいた。

 いつのまにか 家にいるのは櫻井先生だった。先生はにっこり微笑って うちのなかが足の踏み場もないほど 散らかっていても まったく意に介す風はなかった。こうして一晩と一日...わたしは時代を超えて場所をこえて彷徨っていた。美術館にもどこかのだだっ広いホールにも洞穴のような階段状の浴場にもいた。ひとりのときも、だれかといっしょのときもいつもなにかを探していた。なにを探していたのだろう。



二百九十の昼  (2003 11 28)  志

 きのうは、木曜ゼミ全三回の最終日だった。櫻井先生が到着すると、会場がはなやぐ。やさしい花々が咲くなかにいるようにみんなの表情もほんのりする。ひとりひとりがこれからなにをしてゆきたいかことばにした。すでに教室で語る一歩を踏み出したひともいる。読み聞かせがかわってゆけば....という控えめな望みを口にするひともいる。

 先生が最後に、やはらかな口調のなかでなんどもなんども噛んで含めるように言われたのは、ものがたりをつたえるということですらなく、こどもたちに声のひびきであなたを大事に思っているのだよとつたえる、安心させるということだった。わたしはここまで、先生が踏み込んで話されるのを聞いたのは、はじめてのような気がして驚いた。夜 仲間から電話があった。「10年間、読み聞かせをし、本を読むことを子どもたちにすすめてきて、どこか違うとぼんやり思っていたことが今日わかった」と.....。それは今日の講義と二回にわたる「心に響く語りの講座」をとおして仲間たちがたしかになにかを掴んだということなのだ。

 もうひとつ先生が言われたのは「本に書かれたものがたりをそのまま語るのではない。5年10年はお借りしても、いつかは自分のことばで語ってください」ということだった。わたしには先生がおっしゃりたいことが痛いほどわかったけれど、いま 実践をまえに考えあぐねているなかまたちは途方にくれてしまうのでは....とすこし危惧した。

 そこで、実践に向けて、一緒に学ぶ会を継続し、12月にその第一回をひらくことにした。鉄は熱いうちに...である。わたしは語りの歴史も理論もわからない。3年余のつましい悪戦苦闘があるばかりである。けれど、語りの上でまっさらな仲間たちとともに、「心に響く語りの講座」を開き、木曜ゼミで初歩から学んだことは、忘れてはならない原点に立ち戻らせてくれた。わたしはいままで学んできたものを仲間たちに伝えることを惜しもうとは思わない。なにかが生まれる予感がする。

 櫻井先生とすこしお話した。先生ははじめて、わたしの語りをほめてくださった。おさだおばちゃんである。わたしはほんの少し誇らしかった。先生は「このグループがはなから自分のことばで語ることを目標にすえた最初のグループかもしれませんね」ともおっしゃった。さぁ、これから新しいスタートだ。

 
 頭痛と吐き気に悩まされながら、幼稚園の年少さんのクラスに語りに行った。赤頭巾ちゃんの人形をつかったおはなし、医者どんのアタマをステテコテンのテンをしたけれど、はじめてのお話で掛け合いが今一うまくいかない。子どもは両方とも歌ってしまうのである。最後ノクラスはとっつこうか、ひっつこうかにした。
 子どもたちに両手を差し伸べると子どもたちがみんな飛びついてくる。おばちゃんもっとお話して、おばちゃん、また来てね。おばちゃん気をつけて帰ってね。わたしはほんとうに泣きたくなった。



二百八十九の昼  (2003 11 27) 11/25の続きシンポジウム

 しかしパーソナルストーリーが近代の民話に包括されるためには、ひとつのハードルを越えなければならない。それは個人的なものがたりを越えて聞き手に受け入れられる普遍性を持つことである。パーソナルストーリーは両刃のつるぎである。語り手のなかで完結せず、物語に昇華していないパーソナルストーリーは聞き手に混乱と不快感をもたらすことさえあるということを、語り手は肝に銘じなければならない。語りはおしゃべりではない。パーソナルストーリーであろうとなかろうと語リ手のひとりよがりであってはならないし、「泣いちゃったけどすっきりしたわ」の世界であってはならない。ひとつの物語を手渡し、共有するのである。その矜持を忘れまいと思う。

 それとともに、語り手の代表としてパネリストをしてくださった末吉さんの「子どもたちに語らせる」という報告が、わたしの胸を熱くさせた。それはひそかに私自身も夢見ていたことであったから。なぜ上手下手にかかわらず、心に響く語りと響かない語りがあるのか。これはただセンスとか才能ばかりではない。自分をひと前に開けるかどうかにかかる部分も大きいと思う。つくりものでないほんものにひとは心を突き動かされるのだ。半端な技術ではとうていかなうことではない。

 自己開示は、自分をこの世にかけがえのないものと思うこと、生きる自信につながってゆくような気がする。いま、子どもたちの悩みのなかでもっとも多いのは、人間関係に伴うストレスである。いや子どもだけではない。ランチタイム症候群ということばがある。それは昼食のときに一緒に食べる人が見つけられない、 結局一人で孤独に食べる事になり、毎日昼が来るのが恐いというストレスが学生ばかりでなく会社員にも広がっているのだ。文部省の指導要領のなかで国語教育の軸が読む書くから話すに変わったのは、ひとりでは生きられない人間の、生存にもっとも必要な能力である話す、語る力が衰えてきたことに、国が気づいたのではなかろうか。

 語る力は生きる力につながる。末吉さんの報告にもあったように語ろうとする子はよい聞き手にもなる。そこでわたしたち語り手はただ自分たちが語ってさえいればよいのだろうか。真に子どもたちを愛しているならば、ただ読み聞かせる、ただ語り聞かせる、本を読ませる、それだけで事足りるのだろうか。少なくとも 子どもたちのこころを開く語りをする努力はできる。わたしも、かかわっている高齢者のみなさんに、すこしずつ語ってもらえるようになった。これにはお互いの信頼関係を築く時間が必要だった。これから末吉さんにならって、子どもたちに語ってもらうべく、地域で地道な努力を続けてゆきたいと思う。....というわけで正味4時間の参加にしては受け取るものの多い、中身の濃いシンポジウムでした。


二百八十八の昼  (2003 11 26)  デイケア

 トムの会発表会の練習のあと、新しいデイケアの場所に行った。迷子になっていったりきたりしてようやく見つけた。お世話する方が4人、高齢者が女性ばかり5人の少人数のグループである。みんなじっとおとなしかった。ちょっと暗い雰囲気だったので、有楽町で会いましょうを歌ってから 医者どんのアタマをすててこてんのてんでテーブルをどんどんしてもらった。それからなににしようかとつい思いつきでおさだおばちゃんを語った。なくなったところは抜かした。...が偶然おさだおばちゃんに感じが似た方がいて。「それで、そのひとはどうしたね?」と聞かれた。それから話がはずんで大工の手間が安くてたいへんだという話にまでいってしまった。時間があったので、芦刈を語ってみたが、これが文学作品調ではなく、かなりくだけた世間話になって、自分でもおかしかった。それから夫婦の話になって、最後はみなさんのお弁当の時間だったのだが、例のおさだおばちゃんに似たおばあちゃんがわたしの弁当のことを心配してくれててれくさかった....というかうれしかったのである。

 また迷子になってこのうの喫茶店にいったが、日差しのしたではさほどの雰囲気でもなかった。それから浦和に向かった。浦和はかって美しい街だった。緑したたる住宅街、なだらかな坂道、雑木林がそちこちに残っていた。今の浦和は残骸にすぎない。さいたま市というなんの感興も呼び起こさない地名に替わってしまったように。しかしわたしの奥底の扉をあければ、甦る...風のきらめく 霜柱かがやく 街灯の白熱灯のフィラメントが滲む 太陽に熱せられた土が匂う 砂利道を踏みしめる音 どぶの臭い 運動靴薄いゴム底を通して感じる道路のわだち すっかり変わり果てた街並みに懐かしく痛い風景が甦る。


二百八十七の夜  (2003 11 25) 安寧

 素敵な素敵な喫茶店をみつけた! 林のなかを五分ほど丸いちいさなあかりに導かれてあるく。扉をあけるとちいさなギャラリー、そして奥に薪を焚くストーブ、ガラス窓の向こうは雑木林、古びたそれぞれ異なる歴史があるさまざまな形の木の椅子とテーブルがならんでいる。均衡と調和とリズムがある。ピアノが流れている。これはいささか甘いに過ぎるが....カメラを持たずにきたことが悔やまれた。家の近くであったなら毎日でもこようものを。ここで語りの会を開けたらなんてすてきだろう。夕暮れのまだ木々のいろあいがほのかに見える時間、そしてあかりが灯りはじめる頃がいい。いつかきっとここで語りの会を開こうと思った。

 熾き火がしだいに灰色になってゆく。つつじの娘がディアドラがかたちを変えはじめる。そうだ、わたしが語りたいのは.....



二百八十七の昼  (2003 11 25)  語るということ(第三稿)

 24日の楽しい思い出を書く前に、忘れないうちに書き留めておきたい。今回、さまざまな障害をこえて刈谷に行ったのはすみれちゃんと生身の出会いをすることも含めて意味があったように思う。わたしのなかの三年間のなぞ、語り手であるのになぜ民話が語れないか...語りたくないか...が今度はほんとうに解けた気がしている。

 シンポジウムにおいていささか不満であったのは大島氏の立場が民話研究家、民話愛好家の域を出ず、民話と昔話が混同されていたこと。「語りはじめのことばが非日常にいざなう」とおっしゃりながら、その非日常が物語りの世界の域を出なかったこと。そして児童文学作家実藤あきら氏が実にご自分の戦争体験、兄上をなくされたという心に受けた衝撃から発動され創作民話を書かれたという経緯をお持ちになりながら、今回の発言が階級史観にもとづく、民衆のなかの欺瞞性に終始してしまったきらいがあることなどである。
 
 けれど、ひとがそれぞれの持ち場、それぞれの許容性のなかでしか語ることができないのであるなら仕方がないことなのだ。もう少し時間があれば内容がより深まるような気はしたけれど。そのなかで掬い取れたのは、ひとつは民話の本質は語りにあるということ。語り継ぐあいだに語るひとの人生が織り込まれ変わってゆくものであるということ。100人が本で覚えた話を語る、これは民話ではないということ。子どもたちが自ら語ることから自己開示する可能性が報告されたこと。そしてひとはみな語るべき物語を持っているということ。

 わたしはパーソナルストーリーを語るために刈谷に行った。語り手としての立場から言えば、おさだおばちゃんの話もつつじの娘も芦刈もそうは変わらない。わたしは叔母ちゃんの人生の愛と死を、つつじの娘の愛と死を、比佐女と直方の愛とその蔭の死をも、わたしの人生をそのなかにそっと熔かして語るのだから。わたしは特異な語り手なのかもしれない。しかし暗喩、隠喩、象徴に覆い隠された民話の本来のかたちにはやはり死が色濃く漂っているのではないか。愛ということばは近代のことばである。あはれ、せつない、いとしい、いろ そういう気持ちも民話のなかに色濃く漂っているのではないか。地上にひととき留め置かれた人間の最大の問題は生きること、食うことであったろう。死はいつも現代よりずっと身近に影のようにあって、生きるために贄にしなければならないものもあれば、笑い飛ばさなければならないものもあっただろう。けれども、ひとを奮いたたせたのは男女をとはず、雄々しさややさしさであったろうと思うのだ。人生の肯定こそ民話の必定なのではなかろうか。

 では、なぜわたしは民話にときめかず、語らなかったか。聞いてもつまらなかった、わくわくしなかった。生き生き生きていない、ピンに刺された蝶の標本のようなものだったからだ。本来の民話はたえず変化変遷するものであったろう。民話のなかで唯一語りたい物語が松谷みよ子さんの月の夜晒しやつつじの娘であったのがなぜか、ホテルへの道で語った(誤解しないでね)大島先生が看破してくれた。「松谷さんは男で苦労したからね」松谷さんが自分の人生をのせた再話であったから生きている物語であったから惹かれ、語りたいと思ったのだろう。ミュージアムに展示される月光菩薩が痛ましいのは本来の場所にいないからである。衆生を救うために祈りを込めてつくられた仏像は、たとい観光客しかこないにせよ、伽藍のもと、祈りの場所こそが似つかわしい。

 肉声で語れるあたらしい近代の民話があってよいのではないか。自在に変えて語っていいのではないか。保存は学者、データベースに任せておけばいい。本来あるべき語り文化にそれは立ち戻ることなのではなかろうか。そうであるならパーソナルストーリーもまたその大河のひとしずくであるように思うのである。

 

 


二百八十六の昼  (2003 11 24) しゅんすけさん

 九時に刈谷の駅まで迎えにきてくれました。しゅんすけさんの運転するうしろで、すみれちゃんとわたしはしゃべりまくりました。もう何年もつきあっている友人のようにきゃっきゃと大騒ぎ。ほんとうはトヨタまで二時間も乗っていたなんて今でも信じられません。すみれちゃんの庭のひとつに案内してもらいました。しゅんすけさんもすみれちゃんもわたしもカメラを手に真剣です。ふつうのひとの三倍は時間をかけてまわったと思います。でもね、ゆっくりゆっくり 千両や万両や百両、冬の花蕨のことなど すみれちゃんに教えてもらいながら 松平家の墓所や産湯の井戸などをまわるのはそれはそれで至福の時でありました。

 すみれちゃんは忘れ去られたような、人の目もくれないちいさな花や実に、目をむけます。すみれちゃんにはその花や実の持っている固有の美しさがわかるのでしょうね。花たちのおしゃべりも聞こえるのでしょうね。おいしいお蕎麦をいただき、帰り道、しゅんすけさんは約束の時間に間に合わせるためにスピードをあげました。しゅんすけさん ありがとうございました。

 駅で櫻井先生と実藤先生と出会い、実藤先生が児童文学を志すにいたった物語を聞きました。ひとには語るべき物語がたしかにあると思ったことでした。それからこだまに乗って櫻井先生とゆっくりお話しました。わたしはめまぐるしいのぞみよりこだまの旅のほうがずっと好きです。よく語ったたびでした。


二百八十五の昼  (2003 11 23) 刈谷の夜

 3時すこしまえ、新幹線から乗り継いだJRの車内、刈谷が近づくにつれ次第に胸が高鳴ってゆく。こんなことは久しぶりだ。刈谷産業振興センターに着く。「森先生、お待ちしていました」ギョっとした。末吉さんとハグ。控え室に行くと君島先生はじめ、偉い先生方ばかりである。場違いではなはだ居心地は悪かったが、平然とお茶を二杯いただく。

 だんだんこれはとんでもないことを軽い気持ちで引き受けたのではという不安が湧いてくる。わたしの第六感では「おさだおばちゃん」は問題なくうまくいくはずであるのだが!?

 シンポジウムのあと食事に誘われたがお断りして、ホテルのチェックインをすませ、語るまえの儀式をする。ヴォイストレーニングかわりにイタリア古典歌曲とカンツォーネを三曲ソプラノで歌う。たぶん向こう三軒両隣の部屋に響いているだろうが緊急事態なので気にしない。2.3着替えてみたが、パーソナルストーリーなので結局普段着にする。

 センターに戻る。すみれちゃんとしゅんすけさんがロビーの椅子に寄り添うように腰掛けている。ひとめでわかるのはなぜかな? ハグする。音声と照明のチェック、地声のはずだったがピンマイクが用意されていた。両方試してみて、ピンマイクにする。パーソナルストーリーは声を張り上げるのに適さない。微妙なニュアンスが必要だからである。さて、本番がはじまる。末吉さんが古事記から語りはじめる。輝いてみえる。聞きながら、導入、聞き手への語りかけをどうしようかかんがえる。ダサイタマネタを使って笑わせようかと思ったがやめて秘密の告白バージョンを思いつく。20分たって、さぁ出番。

 聞き手への呼びかけ、秘密の暴露、刈谷の地名を見るたび聞くたび、あしたから わたしのなかにぽっと火が点る理由、すみれちゃんとのこと、そしておさだ叔母ちゃん。

 スカートの左はしが気になってさわってばかりいた。終わったら櫻井先生と末吉さんが祝福してくれた。控え室に戻ったら、スタッフのひとが目を真っ赤にしてよかったといってくれた。受け止めていただいてうれしかったが自分ではおわってほっとした以上の感興はないのが不思議だった。朝、お風呂で練習したときは泣いちゃったのだけど、なぜだかこのごろ本番はいつもクールである。本音をいうとつまらない。これは刈谷先生のいう表現者のはしくれになったということ? これだったら学校やデイケアのほうがいい。神さまが降りてきてくださらないのではステージの喜びはないのだもの。

 シンポジウム「語り方、伝え方の変遷」櫻井先生の司会、パネラーは大島広志、実藤あきら、末吉正子諸氏

発言要旨 

大島氏

かつ→語る うつ→歌う そうほうとも魂へ衝撃(心を打つ)を与える行為であった。むかしむかしとかのはじめのことば、そしていちがど〜んとさけた...などの語り終わりのことばは日常から非日常への橋であった。また、あいづちは共有することであった。

伝承の語りとは...祖父母が孫へ 父母が子へ 村の語りばさが村の子どもたちに いろりや寝床、もらい湯の家で 聞いたままを語った。

現代の語りは 母が子に 語りのボランティア(かっての語りばあさん)が地域の子どもたちに寝室、学校、図書館、文庫、地域のセンターで本を読んで覚えたものを語っている

物語には文字だけでなく、ストーリーと音とパフォーマンスが伴っている。ところが30年前と歌はかわらないのに、物語は変わっている。またおじいさんから聞いた話を都会に行った兄、村に嫁いだ娘が語り継いだものは変わってしまっている。本人は変わらないと思っているのだが、自分の人生が物語に織り込まれているのだ。
昔話の本質は語りにある。かって昔話は語りであったのだから。

実藤氏

創作民話は戦後主権在民の民主国家にふさわしい民衆史を解明する手がかりとして民話への関心が高まったことを経緯として誕生した。木下順次の夕鶴は民話ではない。ムラ社会から男と女の個の関係へという視点の近代性がある。斉藤隆介の作品は全部創作である。徳目すなわちやさしくしなさいがテーマである。松谷みよ子の竜の子太郎は信濃の小泉小太郎伝説といわなを三匹たべて殺された母親の話を合体させたものである。

創作民話作家 松谷みよ子、斉藤隆介 実藤あきらは演劇畑と関わりがある。

本から100人が同じ話を語る。これは語りではない。もっと自分を物語のなかに出してもいいのではないか。スト−リー、物語の展開だけは踏襲する必要があるが。

1980年、自民党が「民話なんて貧乏くさいものはいらない」といってから教科書から民話はすがたを消し、民話の出版数は激減した。民話は語り手が語らなければ生き残れない。

末吉氏

自己開示できない、透明バリヤーを張った子どもがふえている。これまでに七校で子どもたちに語らせることを試みてきた。覚えて語るのではなく、自分のことばで語る。今聞いたばかりの物語を語って完成させる。全員が語り手、全員が聞き手である。たとえば笛を吹いて(語り手を)交代する。すると聞き手のときもとっても丁寧に聞く。
 
子どもたちはそのおはなしを 幼稚園、低学年、高齢者大学のひとたちに語る。

自分の声で自分を表現する。その成果は心の通い合い、思いやりにあらわれ、クラス運営があたたかいものに変わってきたという報告があった。。

ひとはそれぞれ語るべき物語を持っている。

パネラーへの質問

創作民話は語り変えをしてもいいのか

....大筋さえ変わらないなら自由に語ってほしい。(ただし実藤さんの作品はいいが、そうは思わない作者がほとんどであろうとのこと)

テキスト通り語ることはあるか
....最近では琴、尺八とのコラボレーションであったけれど、それはまれである。

櫻井氏

 見えないもの、匂いなど 語りは五感の裏にあることばを紡ぎだすのだということがおろさかになっている。大島氏の発言のなかでテキストを覚えて語る..現代の語り手という一節があったが、自分のことばで語る語り手も増えつつあるのではないか
 子どもたちに語らせるためには指導者の育成が必要である。
 語りは人の関係をよくする。家庭をよくする。時代をよくする。


二百八十四の昼  (2003 11 22) 前夜

 4時過ぎまでパソコンで遊んでいて、寝過ごしてしまい、起き抜けむっくりに(おさだおばちゃんの言い回しのひとつ)会社に行った。そうじと事務員さんの話を聞くことで一日さほどの仕事もしなかった。だが営業さんと話もできて、工事管理システムをいよいよ切り替えられそうである。実行から見積もりという当たり前の道筋がむつかしく、障害になっていたのだ。現在は見積もりから実行...なのである。取引業者から年間の契約単価表を出してもらうことなどでクリヤーできるのではということだ。もうひとつ いまのシステムでは工事台帳管理ができないので、現場担当社が相殺の集計に手間取ることも追い風になった。

 八時に帰り、食事のしたくや洗濯 食器洗い (ねずみが配線を齧ったらしく食洗機も自動ピアノも動かない、ヒヤヒヤ)にあたふた....結局 練習はできずじまい。
 ソウがマッサージをしてくれた。天国だった。言ってはいけないことばを思わず漏らしてしまった。単位があと一時間しかない教科があるのだが、べつに高校行かなくても食べてはいけるだろう...という気分になってきた。親も適応するのだった。ナツキと携帯テレビ電話で話した。鉄腕アトムやサンダーバード♪の世界がついにきたのだ!!ばんざぁい!!!


二百八十三の昼  (2003 11 21) その日

 「心に響く語りの講座」全二回が了った。尾松さんを駅までお送りし、庄司さんと別れ、わたしは中央公民館の駐車場でシートにもたれていた。芯から疲れて運転するのも大儀で、思っていたよりずっとこの企画に打ち込んでいたことを知った。いつのまにか日がかたむき、空が赤くなっている。ふと思いついて北陽高校の裏、コスモス畑に車を走らせた。いましも夕日が沈もうとしている。カメラを持って走る。シャッターを続けざまに切る。夕焼けが切り取られる。ねぐらに帰る鳥が、枯れかけたコスモスが、呆けたススキが切り取られる。

 50枚の写真をとる。コスモスもススキも秋のはじめに撮ろうと思いながら、気ぜわしく日々は過ぎて、盛りはとうに過ぎてしまった。だが 枯れた枝に凛と咲いているコスモスの花のやさしく美しいこと。

 今日は64名来場した。今日は半ば以上が小学生の子どもをもつおかあさんだった。、前半のなぜ語るかで尾松さんは迸るように熱く漂流している子どもたちへの想いを語られた。 後半のどう語るかではおはなし会のかたちで 提案していただいた。最後があんちゃんのたんぼで、すすりなく声が会場に響いた。

 わたしは第一回の個人的になぜ語るようになったかを踏まえて、物語の不思議な力についておはなしした。ある語り手は親子の別れの話ばかりを語り、ある語り手は苦難のすえに王子と姫が結ばれる話を好んで語る。そしてある語り手が不登校の子どものことで悩んでいたとき、変身というジャンルの旅人馬の話をなんどもなんども語らずにおれなかったこと、その話を聞いたとき、戦慄したこと、実は自分自身が不登校の子どもを抱え悩んでいたとき、カイアス王という変身の物語をつくったこと。語りは聞き手だけが生きる力、あすに向かう力をもらうのではなく、語り手もまた物語に自分を託して語ることで癒され、救われるのだということをおはなしした。

 2回つづけて来場された方は、語り手によってどんなに語り口もお話も違うかを実感されたことと思う。櫻井先生のしずかな沁みるような語り口、尾松さんの滾るように心を打つ語り口、見えた方のなかから 語り? やってもいいなぁ  というひとがでてくればいい。そして思いもよらぬことに、わたしは近隣の町のおはなし会のとの交流を図りたい、小学校のゆるやかな連携を図りたい、技術や想いを高めるワークショップや講座、おとなのための語りの会を開きたいと広言してしまったのだった。

 夕方 刈谷先生のところに行く。
 さぁ 今度は刈谷市でおさだおばちゃんを語る。



二百八十ニの昼  (2003 11 20) お箸と茶碗

 10:00、刈谷先生のレッスン。声を出すってほんとうに気持ちがいい。のどのスス払いという感じ。調律されている、いや調教かな、ほんのすこしマゾ的快感もあり。先生ご自身はリハビリだという。使わない筋肉を大脳の指令を無視して使うのだそうだ。たとえばコロッケ、たとえば竹中直人、笑いながら怒ることができるのだそうだ。もっと表情を随意に動かせるようにしなさい、そうするとその表情にしたがって声がでるよといわれた。

 10:45事務所にいって、事務員さんと面談、どうしてもひとりでは留守番ができないというのだが、よく聞いてみるとなかなかもっともな理由だった。ディアドラの台詞ではないがこれもさだめ、しかたがないのでおはなしの森のおはなし会お断りすることにし、土曜日は事務員さんとふたりでお仕事となった。

 11:30、青葉のデイケアに語りに行く。マルエツの開店にともなう激しい渋滞で遅れてしまい結局語りをしないで、野崎小唄だの蘇州夜曲だの懐メロをみんなで大合唱した。それから銀行で労務費の支払い、事務所に戻り、買い物をし、家に戻り 前回の水からの伝言のとき約束した写真を14枚プリントして、またデイケアに行き、みなさんにわたした。

 15:00、戦争の思い出話を語っていただいた。機銃掃射 ダダダダダダダとアスファルトに炸裂する弾丸、山下公園のそばで防空壕がいっぱいだと追い出され、空襲が終わったら中にいたひともろともにその防空壕がふっとばされていた話、空襲で熱くて熱くてみな川に飛び込み、湯のように川の水が熱くなってみんな死んでいた話 母親が子どもを救おうとして死んでいた話、妊婦の腹が裂けて赤子もろとも死んでいた話、 思い出すのもいやだといいながら、みんなよく話してくれた。戦争はいやだねぇ、戦争はしちゃいけないよ といった。こんな話を小学生、中学生に聞かせたいと思った。

 15:20、D2K2に行ってポインセチアと箸と茶碗を買った。きのうはいよいよおきゃくさま用もすべて割れて茶碗が2個しかなくなってしまい、お皿におかずとごはんをよそったのだ。箸もないので割り箸生活だった。これでひとなみの暮らしができる。うちに帰ってクリームシチューをつくり、ちけっとを印刷し、事務所に行って営業会議。

 18:40.来年一般廃棄物処理の許可、ISO9000、14000をとることに決まった。年内がんばってみんなのボーナスを稼ぎ出そうということになった。ただ言いなりに働くだけの人間はもういらない。配車の権限を部門のトップに移し、部門のトップは他の業務を下に移す。安全施設化を解体し、一部はなんでも課にする。今年は年賀状を各営業から得意先の担当者に送る。11/25に幹部会」の忘年会を一柳で開くことになった。

 20:45久喜座の例会に行く。来年度は4月18.19に中島敦朗読会、わたしは澤田さんにリリョウ(むつかしくて書けない)を読むように言われた。それから11月17.18日に公演「光太郎の恋パート2」ソワレとマチネ 12/19は納会 「炉端」で会費4000円。そのあと24時間営業のマルエツで買い物をして夕食。

 12:05、日記を書いて、これから印刷をしてお風呂に入ってケヴィンとおやすみ。あしたは心に響く語りの講座第二回です。



二百八十一の昼  (2003 11 19) 轟沈寸前!

 七つの物語の練習日。四谷駅についてわたしは目を疑った。こんなはずはない。こんな大都会ではなかった!! ?? また、やってしまった。必死で考える。四谷と目白を間違えていたのだ。あろうことか橋本さんを巻き込んで、2時間近く彷徨わせてしまった。午後一時の約束だったのに目白の会場に着いたのが三時だった。

 それで野田さんと高橋さんの語りを聞き逃してしまった。橋本さんは今回 あらすじだけ、櫻井先生のお話はこれが語りになるのか....と唖然とするほど、いままでの語りの概念からはかけ離れている。事件らしい事件は起こらない。空に雲が流れるようにこころのなかで物語がおきる。それを聞き手が垣間見る感じである。先生は最初主人公の三人称で語り、最後に一人称のする...とおっしゃられたが、わたしは最初から主人公アリスの一人称で進めたほうがわかりやすくおもしろいような気がした。一人称(わたしで語る)の語りが成立するか、それはどのような効果を生むか、興味深いところである。

 さて、ディアドラ、語っているうちに致命的な問題をふたつ発見、まずひとつ あんこばかりではだめなのだった。伏線のために、そしてヒロインのこころの動きや行動を理解してもらうために、饅頭の皮、エピソードの部分は必要なのだ。制限された時間のなかで語ってみようと試みはしたが、しょせんは20分で語る物語ではなかった。ただ山場をつなげばいいのではない。そこにつないでゆく段取りがあるのだった。そしてもうひとつ致命的なのは、この物語を語るとき、わたしは居心地が悪いのである。視線は宙をさまよう。聞き手のこころに届けようとできない。なぜならわたしにはどこかてらいがあるのだ。ものがたりを手繰り寄せるとっかかりが登場人物のひとりの想いにシンクロすることなのだが、わたしは絶世の美女にどうしてもなりきれない。語り部として語るには、だんだんにものがたりにいざなう時間が必要だ。現代の日本と全く異なる異空間に時間空間の壁を越えてゆくのだ。時間がない、力量がないとすると、先に述べたように登場人物の心情にジャンプするしかない。ディアドラを変えるしかない、美しいだけでなくもっと生き生きした息吹を感じるおとめに、そしてノイシュとの愛によって深まってゆくひとりの女性に、共感を得られるひとに変えてゆくしかない。いや、もうひとつ必殺技が....強引に橋本さんのいう森ワールドに取り込むという手があるにはあるのだが、これは当日にならないと成否はわからない。水物なのだ。ここはやっぱり地道にいこう。

 再構築できるだろうか? するしかない。橋本さんが歌はよかった...といってくれたので、いささか寒い状況ではあるが、切り崩してみることにする、ただし 刈谷のおさだおばちゃんが終わったあとで......


二百八十の昼  (2003 11 18)  プライド

 朝 桜並木のしたで暮らすひとの宿命である落ち葉掃きをした。ご近所はみなきれい好きであるらしく、道の端まできれいに掃き清められている。うちの前だけ紅や黄や茶色やとりどりの落ち葉、朽ち葉がかさこそ吹き溜まっている。それは秋の風情ではあるが、風情にまかせてもおれないので、この秋はじめての落ち葉掃きをしたというわけだ。

 家にはいると今度はTELが鳴りっぱなし、尾松さんやとらこやつぎからつぎとかかってくる。それからおはなしの森の例会に行った。わたしのディアドラを語らせていただいた。とちゅう 恥ずかしくなってしまって わたしはいったいなにをしているのだろうと思ったりした。わが愛、わが命だなんて宝塚みたいだ。講評してもらったところ、地名、人名がわかりにくい、心理の描写をしなくてもわかるところ2箇所余分な描写がある。櫻井先生のを聞いたときは壮大な感じがした....など。今日はまだラフな状態で淡々と流してみたのだが、やっぱりとうなづくところである。ケルトの伝説など聞いたこともない聞き手にわかってもらえるよう語らねばならない。心理描写でなくエピソードでつなぐ。ところがわたしが伝えたいのは壮大な伝説ではなくコノール王とディアドラとノイシュのそれぞれののっぴきならない想いなのだった。宿命と愛と死をどう伝えれるか、ここはやはり衣装の助けがほしいところ、衣装といわずなんでもかんでも加勢がほしい。junさんがくる。北村さんがくる。島崎さんもくるかもしれない。轟沈は避けたい。
 明日はたった一回の七つのものがたりの練習日。この段階で櫻井先生に聞いていただくのははずかしい。

 このところ、おはなしの森やらなにやらで、ひとのもっとも大きな弱点はプライドだと思う。このプライドのためにひとはさまざまなおろかしいこと、ときに愚かしくも崇高なことに手をそめるのだ。プライドに金銭がからむともはや凡人には為す術はない。ひとが決定的ななにかをしようとするときその動機はプライドかお金かそれとも愛である。

 夕方、会社の全体会議 、安全大会の各課の置き場の改善事項について発表してもらう。会社の旅行についての説明を幹事から。9月、10月の予算実績対比、日次決算累計と実際の損益の比較。カッターはたいへんよかった。ラインはまずまず、土木は材料、売り上げ、燃料等 リサイクルは大きくは 機械の修理代であった。それから11月の今日現在の問題点 いかに予算をクリアーできるか!?今期、実はかなり順調な滑り出しなのだ、というのも例年9月、10月はほぼ赤字が続くのである。それが10月などは純利が20パーセントという信じられない展開。経理の元締めのわたしが語り三昧の日々を送っているというのにである。それとも、わたしがいないほうがいいのかな。

 11月もがんばって、ボーナスをみんなにだしてあげたい。


二百七十九の昼  (2003 11 17) 青の夢

 今日は中央幼稚園でのデビュー、年長組3クラスを同じプログラムで回るのである。手遊び 日本の民話 ソーディーソーディー おしまいの歌 ひとクラス20分かかる。12人もパクリと飲み込んだので3クラス目は息があがった。こういうおはなしの仕方ははじめてでクラスによって反応がまったく違うのがおもしろかった。全部おわって階段を下りたら最初のクラスの子どもたちがまわりに集まってきて、またきてね、またきてねと握手をせがんだ。とびついてくる子、隠れて手を振っている子、ほんとうにかわいかった。やめられない、なんてしあわせ....と思う。

 7月の響きあうことばといのち、14日の講座、とても先生にはかなわないと思いながら、いつかどこかで、語りへの思いでも、聞き手への思いでも、なにかひとつのものがたりの解釈であってもいい、追いつき追い越したいと願う。それが先生への恩返しと思う。12月3日、ディアドラを語るのは、その見果てぬ夢に手をのばす最初の一歩には違いない。藍より青く、一瞬でもなりたい。聞き手の心を揺さぶる語りがしたい。


二百七十八の昼  (2003 11 16) お買い物

 娘のギターの発表会のお衣装を買いにマルイに行った。いきつけの店はバッツとアズノーアズ、結局バッツの黒の細いベルトがたくさんついたスカートとチェーンが何連もついている黒のTシャツ、そして細いりぼんがついた黒のラメのアームウォーマーを買った。アームウォーマーはわたしのために買ったのだが娘にとられた。自分のために優しい薄紫のふんわりしたカーディガンを求めた。12/3に黒の衣装はまにあいそうもなく、わりとカジュアルにグリーンのプリントのスカートに今日買ったカーディガンをあわせてそれでいいかなと思う。

 今日はもう17日、あっというまに刈谷の語り、そして12/2の発表会と3日のななつのものがたり.....がやってくる。

 
二百七十七の昼  (2003 11 15) おはなし会

 志多見小のおはなし会の日だ。からだが重くて疲れがたまっているのがよくわかる。洗濯をかたづけて、さぁ着替えようとしていたら優しい声がした。玄関の修羅場、米だわらと花々、リボンと薄紙と靴とゴミが散乱したところに橋本さんが立っていた。むかえにきてくれたのだ。(トップページにあるのは玄関の写真だがたいへん慎重に撮影してあるので真実はわからない。写真は便利なものだ。末娘が「おかあさん、これはサギだ!」といった)なぜだか橋本さんには家の惨状を見られてもたいして恥ずかしくない。

 図書館でトムの会のメンバーをひろい、総勢5人のおはなし会である。志多見小は全校200余名の小規模校で、学校開放の土曜日、年に二回おはなし会をする。子どもたちはつまらないと、寝そべったり、外にいってしまう、ちゃちゃはいれる。おはなし会としては熟練をようする場所である。

 小宮さんの医者どんのアタマをステテコテン!  わたしのソーディーソーディー  橋本さんの笑い地蔵 米田さんのライオンとやぎ 福沢さんの小石投げ名人タオカム おもしろかった。聞き手は少なかったが 新任の校長先生も世話役のムカワさんも腹を抱えてわらい、じっと聞き入っていた。

 
 あとで橋本さんが「きのう櫻井先生が言われたことを思い出してゆっくり語ったの」といっていた。いちばんすごいなと思ったのは、自分の語りたい話をただするのでなく、全員が聞き手とキャッチボールをしていたことだ。そして聞き手のこころにおはなしが落ちるのを待つ余裕があったこと、子どもたちのときに辛らつな一言も軽妙な受け答えでお話へとつないでいたことだ。最初ばらばらにひろがっていた子どもたちが50分後の終りのときは、語り手の近くに集まってきていた。どこへ出しても恥ずかしくないと思う。

 わたしは 朝の足腰の痛みはどこへやら、なんでこんなにと思うほどからだが軽くてぴょんぴょんはね全身で語った。さよならをして帰ろうとしたら2年生くらいの黒目がちな少女がちかよってきて わたしの手にふれじっと見つめて「おもしろかった」 とぽつりと言った。わたしは思わずその子を抱きしめ 「ありがとう おばさんもおもしろかったよ またきてね」 と言った。それははきらきら輝くわたしだけの勲章だった。これがあるから芸人の道は厳しいけれどやめられない。

 ステテコテンもライオンとやぎも語れそう...楽しいおはなしを増やしたい。月曜の幼稚園だが3クラスで同じものを順番に....というのはけっこうキツいかもしれない。それに時間が問題だ、銀座に行かれない。

 夜 小阪さんからTEL 研究セミナーの卒業発表 わたしたちはファンタジーのグループで惹句が「800字に挑戦!無限にひろがるファンタジーの世界」というのだ。それをB6のプログラムにまとめ11月中に稲葉さんに送れということらしい??困った...カーロのはなしは800字にはならない。ピーターマクニールはおはなしではないのだ。わたしのなかでは.....



二百七十六の昼  (2003 11 14) 響きあうこころと...

 櫻井先生は駅の階段を昇られる前に なんどもなんども振り返られた。わたしは目の裏が熱くなって、もう一度先生のお姿が見えないかとホームが見えるところに立って背伸びをしていたら ほどなく上野行きが先生やほかのひとたちを乗せて走り去っていった。

 中村さんに挨拶をするために中央公民館に戻ったら、庄司さんもいて 今日のことを語り合った。別れてからこんどは橋本さんがきてくれて 思いをわかちあった。ふたりともこころを揺り動かされていた。ふたりの友人にわたしはどんなに支えられたことだろう。

 長いことかかって準備した「こころに響く語りの講座」、県民の日ということから 案じたとおり若いおかあさんの出席がとびぬけて多いというのではなかった。むしろ遠くはさいたま市などからグループに所属している実際に語っているひとが半数以上だった。けれど総勢50名の参加者のこころはたしかに響きあったと思う。

 母音をのばしてゆっくり語ることが子どもたちをやすらがせるという先生のことばは、ことに若いおかあさんの気持ちに届いたようだった。アンケートを読むと、語りをしてみたい..語りは奥が深い、語りはむつかしくはなさそうだという選択がとても多い。

 すでに読み聞かせや語りをしているひとにとっては、もっと聞き手をひきつけたい、これでいいのか不安、学ぶ方法がわからないということが切実な問題のようだ。一言一句の呪縛から開放されたという感想もあった。ほとんどの方が感想を書いてくださっていて、感動した、ありがとうございましたという声が多かったことにわたしは胸がいたくなった。

 櫻井先生はとんがり山の魔女と山梨とりを語られた。何度か山梨とりを聞いたことがあるが、櫻井先生が語られるのを今日聞いて、はじめておはなしが見えたような気がした。三郎はゆっくり話す。じっくり話を聞いて考えて行動していくのが見えるようだった。4.5人のこどもたちも真剣におはなしに聞き入っていて、櫻井先生は男の子からごほうびにチョコレートをもらったそうだ。

 講座にさきだって なぜ櫻井先生をおよびしたいと願うにいたったかを話した。ちいさなちいさなライフストーリーである。三年間、先生のあとをついてきて なにがかわったか こどもたちの目の輝き、なにかがコトンと子どもの魂に落ちたことを感じたときのときめき、ライフストーリーをとおして自分が反抗をつづけた母を深く求めていたことを知ったこと、そしてすこしずつ自分をゆるし好きになりそれがひとをすきになることにつながっていったこと、人生をだきしめるようになったこと、それだから 桜井先生を紹介したい、語りを知っていただきたいのだと話した。

 拙い話だったが、講座が終わったあと、ある方が「不思議に思っていたが今日はじめて、なぜ森さんが変わられたのかよくわかりました。櫻井先生に出会われたからなのですね」とわたしに告げられた。外からみてもわたしは変わることができたのだろうか。

 これで終りではない。21日の尾松さんの講座、そして今日託されたものがある。おはなしのグループの交流、そしてアンケートからとても多くのかたが望んでいるおとなのためのおはなし会を開くこと、いづれワークショップを開くことなど、ひととひとをつなぐことは、自分が語る以上の深い喜びであるかもしれない。櫻井先生、庄司さん、橋本さん、カタリカタリの仲間たち、ほんとうにありがとうございました。




二百七十五の昼  (2003 11 13) 春日部

 明日並べるななつのものがたり、トムの会のチラシ、アンケート、来場者名簿の印刷に明け暮れる。夕方になって春日部に出たが、途中新設道路ができたり、レクイエム聖堂という奇妙な名前の葬儀場が建ったり(それもホテルの隣に!)、すっかりさまがわりしていたので4号線と16号線を間違えて渋滞に巻き込まれてしまった。息せききって税務署で納税照明をくださいと言ったら、機械がとまったのでもう出せませんという。

 そこをなんとか....と5分くらいしゃべっていま何時ですかと聞くと5じ10分という。しかたなく帰りかけると玄関の時計はまだ5時6.7分だった。つまり着いたのは5時2分くらいだったのだ。機械でできるのだったら、どこででも印鑑証明のように簡単に出せるようできるのじゃないかな。なにをするにも企業は納税照明、印鑑証明を求められる。証明を出すにも安くはないお金をとるのだから、せめてとりやすくしてほしい。嘘をつくつもりではないのだろうが腹が立った。

 それから労働基準監督にビデオを返しに行った。五時半をまわっていうのに感心にまだ仕事をしていた。といっても民間ではあたりまえなのだ。税務署のひとたちはつるんとした顔、おさだおばちゃんが言っていたのめっこい顔である。が、低いのや高いのや長髪やカラーシャツ、監督署はまだまだ人間的な個性的なひとたちが多い。相手が人間だからだろうか。同じ役所でもずいぶん違っておもしろいものだ。職業によって、たしかにひとは匂いが違う。語り手はどうだろう?

 さてロビンソンでブルサンアイユを見つけて3箱求めた。ポンデザールのロールケーキなどなど、今夜のおたのしみ。


二百七十四の昼  (2003 11 12) せいじ

 給振りの手続きに銀行にいったら1.2歳の兄弟をつれてアラブ系とみられる若いおかあさんがやってきた。せいじとべんというなまえのふたりはすこしもじっとしていない。外に出るのが心配でおかあさんは為替のてつづきもできない。わたしは遊んであげることにした。というより遊んでもらったのかもしれない。

 ことばはわからないなりに気持ちは通じるものだ。わたしはせいじを抱っこしたり紙飛行機を折って飛ばしたりした。せいじはだっこしたり、さかさにしたりするときゃっきゃっと喜んだ。ママがおとうとに手がかかるのでさみしいのかなと思った。抱いているとひととは思えぬかるさとあたたかみがつたわってくる。なんてしあわせなのだろうと思った。

 わかいおかあさんは「アリガト」といってふたりの手を振り、片腕にひとりずつ吊り下げるようにして去っていった。

 ななつのものがたりと、トムの会のお話を楽しむつどいの印刷をする。ここのつのものがたりのときにきてくださったお客様に、手紙をかく。午後は喫茶店に行きぼんやりおさだおばちゃんのことを考えていた。マスターは潰瘍持ちのわたしのために特製のコーヒーを淹れてくれる。かたってみた。19分だった。おはなしも成長するようだ。

 今日は事務所から6時過ぎに戻ってきた。まだ10:00、これから長い夜。


二百七十三の昼  (2003 11 11) 秋淋

 小雨のなか、ようやく次男を駅までおくり、事務所にまわってから県立図書館に着いた。すると玄関で呼び止められた。おとつい 公演をみにきてくださった唐沢さんという方だった。これまでおはなしをしたことはなかったが、旧知のように立ち話をした。とてもよかった、これからもぜひ聞きにいきたいと言ってくださった。事務所でもやはり日曜に行ったというながさんがにこにこ相好を崩してよかったよ...といってくれた。もう過ぎ去ったことだけれど、わたしのあの時の精一杯であったのだし、聞いてくださった方たちのこころにすこしでも響いたのならそれでよしとしよう。

 もう12時近かった。トムの会の例会では順番に12/3の発表会のだしものを語っていた。つつじの娘を語りだしたとき、最初ざわざわした違和感があった。ところがとちゅうから まつたにみよこさんの再話からものがたりは離れ、わたしの意識ではまったく関与しないのに 展開してゆくのである。間、抑揚、緩急、強弱 コントロールすることをわたしはまったく忘れていた。というよりなにかにのっとられた感じ、そしてそれは悪い感じではなかった。語り終えたあと、わたしはしばらくぼーっとしていた。ものがたりに捉えられたままだったのである。タイムキーパーの計測では8分30秒.たしか以前は6.7分だったはずだから、そうとう違うものになっていたのだろう。

 なぜなら自分で自分の心を意識せず、しかも演技を続けているというのは、心がもはや絶対自由の境地に遊んでおり、そこから無意識のうちに心の演技が間を繋いで行くということだからである。この無我の演技について更に論じたのが次の妙所の事である。

 妙所とは何かと言うと形のない、言葉でも論理でも表現できない絶対無上の境地のことである。妙所というものは最高の位に達した仕手でも自分の芸風の中にそれがあると感ずるだけで、さあ今ここが妙体だなどと自覚して演ずるなどということはない。無心のままやすやすと演じこなす段階に入って、自分のやっている演技に少しも心を用いないで無心・無風の境地で演ずる芸、これが妙所なのである。論理を超えたものには違いない。

 あれがそうだったのだろうか。今までもこういうことがなかったわけではない。わたしはステージに立つとき いつもそのことを祈るのだけれど 今日のは少し違っていたような気がする。カタチにはまらない語り、生き生きとたちのぼり、一回かぎりの夢のような語り、聞き手がおもしろいとさえ感じない、一緒にものがたりを生きている語り、わたしはそういう語り手になりたいのだった。

 夜、連絡会 雨の影響もあり 10日をすぎたというのに 売り上げはまだ17.8パーセント、利益はマイナス138万円、悲惨である。
 

百八の夜     (2003 11 10) 銀座で

 銀座ゼミに久しぶりに行った。今日は櫻井先生がきのうなさったケイロースの「縛り首の木」の訳本の1ぺージ、騎士が満月の夜縛り首の丘で吊るされている死骸から呼び止められるというもっとも語り甲斐のあるシーンを各自が自分なりに再話して語るという怖ろしくも魅惑的な授業だった。たいへんおもしろかった。

 それから歌舞伎座のわきの瀟洒な喫茶店で先生とコーヒーをいただきながらお話した。今日の先生はリオノールの君と騎士の恋の物語を語られた余韻が漂っているように、若々しく輝いていらした。わたしはひさびさにお会いしたのでうれしくてお話することがつぎからでてくる。なんでこんなに浮き立つような気持ちになるのだろう。

 東武線で電車に揺られているとちゅうでアベちゃんに頼まれていた用事を思い出した。高速料金60000円の前払いである。東京で解体工事をしているので、まいにち高速料がたいへんなのだ。それからパソコンが二台壊れたというので修理して、トイレのそうじをして帰ったら九時。途中高校生の息子のカバンと傘を買っていった。わたしに似て、カバンは盗まれる、傘はなくすという不経済な息子なのである。


二百七十二の昼  (2003 11 10) 学校で

 一年生はかわいい。一組でちょっと考えたので、今日の二組では順番をいれかえ最初に手遊び、とっつこうか、ひっつこうかそれからソーディソーディーにした。とっつこうかのときからもう子どもたちと掛け合いが始まり、ソーディソーディーではみんなでいっしょにビッグハングリーベアー!!
とても楽しかった。おかあさんもいっしょに楽しんだそうだ。来年またこのクラスの子どもたちと会えたなら、もっとじっくり聞かせるおはなしをしてみたい。

 ゆうべ米雄さんから公演に急用でいけないとメールをいただいたので、納得のいくできではありませんでした....と消沈して書いたら、観にきてくださった方のメールを転送してくださった。


昨晩は久喜座公演見せていただきました。今話題の童話

の朗読も上手でしたし、「喧嘩」もとても素晴らしかった

森さんの「葦刈リのうた」が始まってから、ただ言葉もなく

隣りと顔を見合わせるばかりでした。
 
 引き込まれて20分の長さがあっという間でした。簡単な

言葉では言い表せませんが森さんのフアンになりそうです。

 葦刈りは「今昔物語」からののですね。先生の仰る通り

全く知らずに聞くのも又いいと思いました。

 家に帰っても余韻は納まらず息子に話して聞かせている中

に、そういえば谷崎潤一郎にも「葦刈」というのがあるよ、と

出してくれたので、ついつい、それも読んで見ました。似た

ような話でした。一緒の高橋さんが先生にくれぐれもよろしく

との事でした。ありがとうございました。

 この方は8日にみえたのである。テープを聴いたかぎりでは、ゲネより本番のほうがいつも若干 速度が速い。そして語尾がすこし上がるのである。語尾をおさめないのは届けたいという意識が働いているからだろうか。ともかく、精進するしかないなぁ。聞き手にものがたりを、いつも最上の状態で届けられるように、上手でなくても心に響くように.....


二百七十一の昼  (2003 11 9)  楽日

 ゲネプロは今回でいちばんいいできだったのだけれど 本番はやせてしまって 表現にふくらみがなかった。...というより集中がいまいちで聞き手に届ける気持ちが不足していた。悔いが残る。あぁステージは水物だ。教室や図書館ならフォローのしようもあるけれど、舞台は一度限りだもの。チケットを買ってくださった方たちのほかに今日は手紙を出した方35名のうち15名はきてくださった。観客も200はいらしたのに。悔しい。
 かずみさんが「かあちゃんのよかったなあ、あんなにうまいんだから 続けたほうがいいよ」といってくれた。うれしかったけれど、やっぱり 悔しい。


二百七十の昼  (2003 11 8)   初日

 朝9:00から仕込み、12:00場当たり、14:00ゲネプロ、18:30本番、300人のホールで、入りは五分だった。二日公演があるとゲネプロを入れて4回舞台でできるわけで、修正がきくからおもしろい。やはり観客がはいったほうがずっとのびのび生き生きできて、ものがたりもいのちを持つ感じがする。

 舞台装置がよかった。「こんな舞台で語りができるのも、これがはじめで最後です」と言ったら澤田さんが「久喜座にいればなんどでもできるよ」と言った。尺八もついて照明もあってほんとうにぜいたくな舞台だった。

 できはというと吉田さんが「できないところをひとつひとつ克服していくところがすごい!励みになる、声の大小、緩急、間が完璧だった」とほめてくれた。一月の市民芸術祭のときはケチョンケチョンにけなされたので、さほどのできとは思わないがうれしかった。努力したことは確かだし......。

 終演後、追い出し(観客をお送りすること)でたくさんの方がまわりにきてくださった。ふたり「ファンになりました、泣いてしまいました」という方がいてうれしかった。あと世間は狭いもので息子の同級生のおかあさんもきてたちやデイケアの方や語りのなかまや知り合いの方もみえて、その目のなかに夢を見たあとの名残が光っていてうれしかった。

 今回はひとり芝居に近いものになった。が、語りのほうがカタルシスがある。喝采はうれしいものだけれど。語るほうが深い喜びがある。あすは、もっと軽くしてみよう、悲喜劇にはならないが途中もっとなにかが起こりそうな伏線と結果の意外性を出してみたいと思った。

場当たり

照明チェック

二百六十九の昼  (2003 11 7)  安全大会

 安全大会が終わった。朝8:00から夕方5:00まで30人が現場を休んで営業を休んで、お金をかけて安全大会を開くのには理由がある。安全はコストを下げる。安全は信用を増す。そして第一に大切な仲間の命を守る。

 わたしはうちの会社の社員さんたちがだいすきだ。たとえ影でオニババと呼ばれているかもしれないにせよ....。 わたしが口うるさいのは、一に自分をふくめてみんなの生活を守るためである。100人近いひとがこの会社で食べている。真剣にならざるを得ない。

 今日は新しい試みをした。会社、プラントを全員でまわり、機械整備車両整備、材料工具の整理整頓、おき場所の清掃状況、ひそんでいる危険をチェックし各課ごとに採点してもらった。それをみんなの前で発表するのである。他を採点することは見方を変えれば、自分を採点することにもなる。鏡のように批評することはおのずからをあからさまにするからである。そしてちいさい会社であっても新しい発見はある。安全施設課は今までリサイクルの手伝いには行ったが、今日はじめてリサイクルが会社の仕事であり、これからの仕事だと痛感したと発表した。はじめてプラントにいった経理の美子ちゃんはうちの会社ってすごい!と思ったそうだ。

 そのあと事故報告、安全賞などの表彰、みんな実によく手伝ってくれた。自然にからだが動くのである。わたしはほんとうに誇らしかった。うちの社員たちは学卒はひとりもいない。みんな、どこからか集まってきたのである。元暴走族もいるし、事業に失敗したのもいるし。生保レディーもいる。内気でしゃべれなかった子、字がかけなかった子、人間関係でノイローゼになってきたひと。真面目で腕もいいが仕事がなくなった大工さん、みんな苦労人だ。みんな助け合って仕事をしている。

 鈴木くんは亮のために一足90円の運動靴をみつけて5足も買ってきてくれた。亮は大足でサイズがないし、しょっちゅう靴にあなをあけるからだ。今日整理整頓の点数がもっともわるかった土木課の置き場で、リサイクルの熊木さん、カッターの海ちゃんがもくもくと帰りに片付けてくれていた。わたしもてつだった。みんな集まってきて土木課の置き場はすっかりきれいになった。

 わたしはもっともっとみんなのために働きたい、みんなの喜ぶ顔が見たい。

 そして明日、朗読と語りの夕べ。果たしてよいのかわるいのか、結果はやってみないとわからない。全力を尽くすだけだ。今日のように......


二百六十八の昼  (2003 11 6)  テープ

 あすの安全大会の準備とあさっての朗読と語りの夕べのことでてんてこまい。練習場所の公民館に三度行くハメになった。坂本さんと会えなくてひとりで練習。電池をいれたらテレコが動いた(あたりまえです)ので録音してみる。

 台詞はわるくないが....地の文がダサい感じがする。もっと鋭角的に、もっと優美に、もっと熱く、もっと流れるように、もっと吐息が聞こえるように....句読点の誤りが二箇所、イントネーションの間違いが二箇所。録音を聞くのはどきどきする。でもまだ時間がある。最大限の努力、あとはおまかせする。

 なんとかパンフレットもできた。本社とプラントの各課のチェックリストもできた。あすはそれぞれの課で採点する。これからビデオを6本見なくてはならない。あす上映するものを決めるために...


二百六十七の昼  (2003 11 5)  雨

 .....日振りかで自室のそうじ。朝から2時までかかって、掃除機をかけるまでこぎつけた。パソコンが二台、本のぎっしり入った箪笥が三棹、はみ出している本の山、書類の山、CDの山、衣類の山 正味五畳ばかりの和室にこれだけ、そしてケヴィンとわたしのお布団。

 午後、浦和の道場に行く。帰りにTAOでおもしろい服をみつける。古本屋で木を植えた男?と武蔵野の民話とファンタジーの系譜をみつける。昭和55年の本で1200円は高い...と思うが「ファンタジーとは元来目に見えるようにすること」という一節を読んだら買わないわけにはいかない。副題が.....妖精物語から夢想小説へとなっており、ケルトの伝説が近代小説にどう影響を及ぼしたか、かなり断定的だが述べてある。トールキン、ルイス、ポウやデイケンズまではともかくホーソンの緋文字やヴァージニアウルフまで...とは思わなかった。読み終えたらまとめてみよう。


二百六十七の昼  (2003 11 4)  回帰

 第一火曜日、今日は小山で五十島さんの勉強会がある。もう一年半もお会いしていない。五十島さんのところへ行こうと駅までいった。切符を買おうとしてお金がないのにきづいてすごすご帰った。わたしは嵐みたいに、思いつくと電車に乗っていることがよくある。考えなんてぜんぜんないのだ。行動あるのみである。昔、勝手に口上を述べて別れて、突然また、はるか離れた地ににいるひとに会いに行くなんてこともあった。

 自分のなかでは必然なのだが、まわりのひとにはそう見えないだろう。五十島さんは足がご不自由なので、お元気なうちに語りを久喜のひとに五十島さんの語りを聞かせたいものだ。わたしが民話を語れないひとつの理由は、ネイティヴの民話の語り、闊達で生命力にあふれた五十島さんの語りを聞いてしまったことなのだ。

 少しヒマだったので、このサイトの日記や語りについて、旅のページなど読み返してみた。最初のころ、ずいぶんアタマよさそうな書き方をしているので驚いた。だが、考えは今とそうそう変わっていないのだった。Oの会の渡辺さんとの論争からちょうど3年なのだが、基本としてはそのままである。ワザと想いの間の支点がすこしワザに近寄った (この場合は想いに近寄ったというべきか、ワザが重みを増したのだから).....ところが変わった唯一の点であろう。それは三年間のあいだに少しずつワザを積んできた証でもある。全く自分の手にないものを必要とはいえなかったのか。...得たものと失うものは等価であるという持論からいくとわたしはワザを得ただけ、なにかを失っているのだ。それはなんだろう。失ったものは戻りはしないし、目にうつることもない。
 
 語りが芸といえるとして、円熟もあろうし、衰えもあるのだろう。想いとワザ、気力体力のバランスは日々かわってゆく。一瞬一瞬が到達点であり通過点である。けれど万が一コアを忘れることがあれば、わたしは語るまいと思う。

語るのはなんのためなのか。
誰のためか。
何を伝えたいのか。

午後、会社で安全大会のための準備、夜 連絡会。売り上げは8パーセント予算より増。よかった。そのあと久喜座。


二百六十六の昼  (2003 11 3)  思い切り

 刈谷先生からレッスンを受ける。芦刈をひととおりやってみる。思ったとおり台詞を際立たせる、物語の展開部分を明確に 時間の経過にあわせた間という指摘があった。今回は思い切りよく、ひとり芝居に踏み込んでみようと思う。いままで踏み込めなかったのは、そのために大切なちいさい場での語りが大きく、そしてある種くさくなってしまいはしないかという危惧からだった。

 地の語りはそのままで問題ないとふだんは誉めない先生に言われたとき、なんとかなるかもしれない。その場にあわせた語りができるかもしれないと思った。ひさめの声をもう少し高めに、荘園の主は憎憎しく、左近の少将、行綱は粗暴でもいいと先生はいう。たしかに行綱を直方がひさめを託すにふさわしい男として雄雄しく優しく表現したら 直方と行綱を聞きわけるのは難しい。芦刈では5人の声を語り分けなければならない。そして間 舞台がひろいだけ 語りも大きくしなければ。

 眠い....

 休日なので、午後は家にいた。加須のプラントでつくった肥料をいろいろな方に安く売ったり、差し上げたりしているので、野菜をいただくことが多い。新鮮な大根は葉も湯がいて煮びたしにして食べられる。二本の大根をおおなべで炊いたら美味しかった。おひるはお寿司を食べて、夜は特製ラーメン、出盛りのラフランス、かずみさんは美味しい食事があって、わたしが家にいると機嫌がいい。
 
 ひさしぶりにのんびり過ごした。本も読んだし、ゆっくりお風呂にはいって、これから手紙を書いて、あしたからまた、戦争だ。

 
二百六十五の昼  (2003 11 2)  古本屋

 朝、かっちゃんからTELがきた。おともだちとおやど「舞」に泊まりに行くそうだ。いいなぁ....おやど舞は高山のペンションで紹介者はわたしなのだが、こちらはまったく行っていないのだ。暖炉がある。飛騨牛のステーキ、林檎酒、美味しいコーヒー、お手製のケーキ、それよりなによりオーナーご夫妻がすてき、ちいさな窓から見える雄大な景色、今頃は秋の草花が道ばたに揺れているだろう。


 語りに明け暮れた一週間が終わって、ほっとしたのか連日の古本屋通い。渋沢龍彦の「ねむり姫」、古典に想を得たものがたりのかずかず、それから安西篤子の「今昔物語を旅しよう」 あっ やっぱり語りなのだ、自分のなかに来年の語りのタネをまくための本をつい、手にしてしまう。それから山岸涼子の妖精王、白眼子、萩尾望都や西谷祥子、木原としえの漫画を買った。

 漫画というと語り手のなかには馬鹿にされる方も多いが、漫画はおそらく数ある日本文化のなかで、もっとも世界に迎えられ浸透している文化なのである。フランス、アメリカ、東南アジア、世界中にファンがいて、漫画を読むために日本語を学ぶひとも多い。漫画の神さまと呼ばれる手塚治虫は、映画の手法を漫画に取り入れ、近代ストーリー漫画のもとをつくった。そして漫画に文学の香りを注いだのが西谷祥子だとわたしは思っている。風花、金色のジェニーなど、もう手に入りはしないが短編小説の一遍といっていいだろう。そして萩尾望都、大島弓子、山岸涼子は形而上学までたかだかと漫画を運んでいった。ひとはなにか?どこからきたのか?死とは、愛とは....しあわせとは....という領域である。それをもっとも手近な娯楽、漫画のなかで、たったひとりでやってしまうのだもの。すごいと思いませんか? 告白すると描く技があれば、わたしは漫画家になりたかった。

 きのう買ったなかでは白眼子が白眉であった。終戦の混乱のなか、寄る辺ない少女が不思議なひとに拾われる。それは、白眼子と呼ばれる盲目の霊能力者なのだが、一攫千金を夢見る闇商人、美人で蓮っ葉だが心根は優しい白眼子の姉とともに人物の造形が圧巻であった。なにより白眼子の生涯、それに重なる少女ミツコの人生、ひとにとって大切なものはなにか......ひたひたと心にしみた。

 山岸涼子は別の本のあとがきでこう書いている。「.....わたしがかいているのではない、だれかにかかせてもらっているのだと気づいたとき、もう一度かくことができるようになったのです。」それは漫画だけでなく、語りでもそうなのだ。なにかがわたしに語らせてくださる、そのことを忘れてはならないし、それだからわざを磨かねばならないと思う。

 刈谷先生に聞いていただく。午後、公演のためのペンキ塗りと練習。





二百六十五の昼  (2003 11 1)  アイちゃん

 菖蒲子ども会の集まりにいった。会社でお願いしている社会保険労務士の関口さんが役員をしているご縁で呼ばれたのである。人形劇団どんぐりの前にわたしの出番があった。

 こどもたちは30人はいなかったように思う。3歳から11歳くらいの子どもたちとおかあさんおとうさんが12.3名。ホールは講堂のような感じで広い。こどもたちの年齢はいささか誤算だったが、手遊び、ジャックと泥棒...まではよかった。おはなしか水からの伝言か迷ったのだが、始まる前の雑談で水のはなしが町会議員さんから出たので水からの伝言にして、おとなと高学年のこどもたちは聞いてくれたが小さい子たちは飽きてしまったみたい。最後は手遊びでしめた。

 劇団どんぐりは若いおねえさんからおばあさんまで9人のメンバーできていた。腹話術のけんちゃんがおもしろかった。矢野さんのアイちゃんを思い出してしまった。劇ははなたれこぞうさまでかなりデフォルメしていた。効果音とマイクの音声が耳障りだったのが残念だった。1時間の公演のためにセットを組み、大道具小道具を持ち込むのはたいへんなことだ。子どもたちの喜ぶ顔がみたくてやっていらっしゃるのだろう。

 子どもに飽きさせない工夫、幕間を持たせる工夫が勉強になった。牛乳パックシアターとかもあった。11月から幼稚園での語りが始まる。語り一本ではむつかしいかもしれない。牛乳パック、赤頭巾のお人形、エプロンシアター、ペープサート、パネルシアターなど、やってみたいことはある。が本音をいえば、語りでとおしたい。小学校や図書館では子どもたちを集中させる自信があるけれど、どうしよう。子どもに迎合はしたくないのだ。ともかく年少さんにはなにか色物?を用意しよう。わたしは芸人を目指すのだもの、なんだってやる。

 子ども会活動もやり手がいない、少子化などの理由で年々下火になってゆく。地域で子どもを育てるどころのはなしではない。もっと有機的に結びつかないだろうか? たとえば大学の学生とか、地域のお年寄りとかお話をしたいおばさんとか、みんなで子育て支援ができたらいいのだけど。

  それにしても 菓子折りをいただいて、 一瞬 返そうかと思い、せっかくだからいただこうと思い、その決断のタイミングが1/3秒くらい早かったような気がするなぁ。


 代弁する

 今までに、いくつもの楽しい語りを聞かせていただいたし、よい語り手もあまたいたけれど、私がその語りを聞いて感銘を受けた語り手は、櫻井先生と五十島さんと"さるのひとりごと"を語った鳥取の80歳のおばあさんしかいない。この三人の語り手はおはなしそのものになっていた、隙間がなく過剰もない。それはおはなしと聞き手との垣根もなくす。違和感なく心地よい。

 語り手はなにを代弁するのか。これは重大なポイントである。モノがたりのモノは見えないもの、霊をさしているという説がある、能はほとんど死者のかわりに語るのである。語りのテキストはさまざまである。神話、伝説、ライフストーリー、小説、民話、創作童話などなど....どれをそのとき語るかでもかわってくるのだろうか。

 ゆうべ 山口さんとTELで話した。山口さんはつつじの娘を語り継いできたひとはどういう想いで語り継いできたのか、それを考えたすえ、語ったという。語り手の代弁..!? これはわたしには新鮮な視点である、山口さんは長らく朗読畑にいた。今はOの会の渡辺さんに師事し、熱烈な信奉者である。朗読は小説の世界をできるだけ忠実に再現しようとするものであろう....とすれば、納得がいく....しかし語り手たちの会セミナーの仲間、常吉さんがこうも言っていた.....お話の世界と誠実にむきあう......それはできうるかぎり(自分の解釈で)ものがたりの意図することを再現しようとすることでしょう.....山口さんと考え方は似ている.......わたしは、つつじの娘で 時代を超えて、国をこえて、男を愛して 恋して 自分で自分を灼くように生きた女、そしていとおしく思ってはいても、いつかおんなの熱い想いにこたえられなくなった男の代弁をしたかったのだと思う。それはいつもそう、雪女も芦刈も月の夜晒しも....

 語り手の代弁なんて、考えたこともなかった。けれどわたしは山口さんをかっている。櫻井先生もそうだけれど、アナウンサーの修行や朗読をきっちりしたひとは口跡が美しい。山口さんには破綻がほしい。整いすぎているのだ。ライブで鍛えられたらすごい語り手にならないかなとちょっと楽しみである。

 自分の語りについていえば、ほうすけは上から見ているのかもしれない。絵のない絵本も俯瞰して見、語っている。カーロ・カルーソーも地上からはなれた、大慈、大悲のまなざしで見ているのだった。なにを代弁するかは、テキストによってもかわるし、自分自身の成長?によっても違ってくるのだろう。これから語りを聞くときそのひとがなにを、だれを代弁しているのか、洞察してみよう。正直のところ、活字の代弁をしている語り手はまだまだ多いけれど。



二百六十四の昼  (2003 10 31)  十月果つ

 野久喜の公民館の秋の蕎麦祭りに招待された。トムの会は定期的に語りに行っているからだ。わたしは今日で二度目、橋本さんから進行をたのまれたので、すこし打ち合わせをしていたら、夕べ会ったばかりの尺八の坂本さんもきていた。民謡があるらしい。

 手遊びはこのごろ凝っているいちべいさん、山形弁でみんなで楽しく、それから米田さんの嫁のあいさつ、岡安さんの亀の遠足、橋本さんの怒り地蔵、わたしはきのうにつづいて、水からの伝言....最後にもう一度いちべいさんで〆た。

 三味線と尺八の演奏、民謡がよかった。アンコールして花笠音頭、秩父音頭もおねがいした。ほれぼれするような声だった。教育長や県会議員がきたので、教育長さんには子どもたちが語れるような試みをするつもりなので、そのときはお願いします、と頼んだ。帰るときは坂本さんとジョイントするからぜひきてねとみなさんに声かけした。

 かえり、みんなと山口さんの心配をし、橋本さんとも語りのことを話した。橋本さんは水からの伝言がよかった、泣きたくなったといってくれて、わたしはうれしかった。会場にいた3.40名のかたがたの胸にも届いただろうか。おなかが痛くなければ、あとカメラがみつかれば第七天国だ。

 山口さんが求めるもの、わたしが求めるものはやはり違う。トムの会でいえば、岡安さんがそうなのだが、寸部のすきなくきっちり構築する。それをまるごと聞き手に差し出す。聞き手との交流は求めない。だからいつもおなじものができる。わたしのは....勢いかな、構築はするのだがおよそのデッサンであとはその場の空気に委ねる。セミナーの友人が素手で心臓をひっつかむような...と言った。

 山口さんの語りはことばの意味を吟味して吟味して表現する。真っ黒な山間にそこだけぽっと明るくあかあかとかがり火は燃え・・・・イメージをつかんで語るのとどう違ってゆく?  わたしはこれを聞いたとき、真っ黒なという字が浮かんできたのだ。けれど、全体としてどの情景も満遍なくものがたりの世界がそこにあった。いきつくところはほんとうに同じか? ことばをことばとしてつたえる、香り、いろあい、もののいのちをとじこめた、いはば冷凍したことばを聞き手のなかで解凍する。一方、自分のなかで解凍し、ゆらめくイメージを聞き手に伝えようとする....
 同じように感じるがやはりちがうように思う。聞き手に解釈してもらうのと、聞き手の魂にじかに触れようとするのは.....
好き好きはあろうが.....

 わたしに欠けているのは、満遍なくというところで、たぶんこれという情景をピックアップしているように感じるのではないか。心象のイメージはとっかかりのあるところからはじまる、たとえば、あの山さえなかったら、あの山さえなかったら....とか髪も着物もずくっりと濡れた娘が 目には激しい光をたたえ.....のような場面、そして軽く流すところも当然でてくる。

 解釈としてはどちらが正しいのか、それともどちらでもいいのかとりあえずひとつひとつの場面のイメージをもっとあざやかに生き生きと、生きてみようか。同じテキストをつかうか、原話に近いものにしようか。



二百六十三の昼  (2003 10 30)  本・語り

 朝、太田小に急いだ。朝になって子どもがボタンがとれたの駅に送ってだので、気は焦ったがついたのはギリギリだった。Kさんとふたりで20分の持ち時間だ。今日はいきり立つ出走前の4歳馬のようにわたしはすこしく強引に先にさせて...といった。手遊びをして、本をめくる。きのうつくった水からの伝言だ。みんなじっと見つめている。しわぶきひとつ私語ひとつない。見学のおかあさんが「最後のところで泣きそうになった」と言った。片岡さんの詩の力だ。担任の先生が「実は、あの本持っているんです。ありがとうございました。ぜひまたきてください」とおっしゃられたので恐縮した。

 昼、青葉のデイケアセンターでも果たして通じるだろうかと半信半疑で本をだし、語りだした。おばあさんたちがよく見ようと席を移動する、ボランティアの数人もみなあつまってくる。おわったあとでどんな風に水道水を呑んでいるかという話になり、それからおひとりがからだに感謝しなくてはいけないのね...とぽつんといった。愛と感謝がたいせつなんだ、ことばをきれいにしよう....とかおよそいままで出なかった世間離れしたおはなしでみなさんの顔は輝いていた。ひとは明るいもの、きれいなものが好きなんだと改めて思った。

 語りだけでは伝えようのないものもある。そして語りのありようも百花繚乱である。固定観念に縛られないでこれからも新しいことに取り組んで行こう。ほんとうに徹夜してつくった甲斐があった。

 浦和のガロへパーマをかけにいった。野田さんは休みなので、杉山さんを指名した。浮気でもしたように罪悪感を感じるのはなぜだろう。けれどこの冒険はなかなかおもしろかった。.....道場によってそのまま久喜座の練習に行く。尺八の坂本さんとだんだん息が合ってくる。

 家に帰ったら山口さんからTEL。おはなしの森には行かないという。無理もないと思う。


二百六十二の昼  (2003 10 29)  一冊の本

 おなかが痛くて一晩眠れなかった。けれどこの晩についていえば、それはいいことだった。わたしは一冊の本を今日のために創りたかったからだ。日曜日に”水からの伝言”を買い求めてあったので、写真を十数枚、拡大カラーコピーし、透明フィルムにテキストをプリントし、用意したB4の用紙に貼り付けてゆく。純粋な手作業で淡々と進む。途中痛くて、もしかしたらまずいことになるかな、8,9の語りと朗読のステージ、23の刈谷、それよりまえの30日や1日の語りに穴をあけたらどうしようと考えた。今かんがえるとおかしいのだが、どうか神さまこの本を仕上げさせてさせてくださいと祈りながら手を動かしていた。

 環境問題について語れないだろうかとずっと考えていたのである。銀座ゼミでであったごうつさんが、失われた大陸アトランティスから時空をこえて来た王子が環境の危機をつたえるというお話をしていると聞いた。それから、創作絵本展に行ったことでもしかしたらできるかもしれないと思いついたのだ。

 水からの伝言は水の氷結結晶の写真集である。西条湧水、四万十川の清流の水の結晶は花のように美しい。しかし淀川、墨田川の水は見るのもおぞましく痛ましい。日本の水道水は結晶化さえ、ほとんどしない。これはかなり前の本なので水道についてはもっと悪化しているのではないか。今はかなりのひとが飲料水を別のかたちで求めているのだから。

 しかし、それよりもっと興味深いのは、精製水に音楽を聞かせ、言葉を見せたらどうなるか実験をしているのである。ヘビーメタルを聞かせた水はバラバラだ、夜毎聞いている長男はどうなるかしら?クラシックでも曲ごとに結晶は異なるが、それぞれ美しい。言葉は音声化したものでなく活字を水のビンに貼り付けて一晩置き結晶化させるのだが、どうか見てください、明日UPしましょう。

 愛・感謝のラベルの貼られた水の結晶の美しさ、ムカツク、殺すというラベルの貼られた水の醜悪さ、ひとのからだの70パーセントは水である。その水がことばに反応し変化するとしたら.....
わたしはこのことを伝えたかった。

 読み語りの講習会は10時からだったが、本が完成したのは9時半を回っていた。痛みはなくなっていたが、疲れもあって、さぁ行くのはどうしようと迷ったが、大井さんと科学絵本をしますと約束をしていたし、中途半端にするのもいやだったので、あたふた支度をして急いだ。約束とおり、最後にわたしの番がきた。読みの練習もしていないしページを繰るのもはじめてで読んでいくうちに本が分解したら....とはじめるまでは心配だったが、聞き手の視線が食い入るようにせまってくる。最後のページ、テキストにないことばをわたしは語り、片岡輝さんの詩”響きあうことばといのち”をみなさんに届けた。

 講師をはじめ、ほとんどのひとが手づくりの本とはおもはなかったようだ。講義が終わって、響きあう....のちらしを手渡した。三日間、あなたのを聞くことができてよかった、勉強になったといってくださる方も2.3いた。わたしはこころのどこかで硬直した読み方でない生き生きした読み聞かせのあり方を伝えたいと思っていた。そして語りについて興味を持ってくださればいいなと思っていた。虫のいい考えかもしれないが、一石は投じたかもしれない、初回にくらべ、確実にギャラリーの数は増えていった。

 けれど、私自身にとっても新しい道がひらけたと思う。読み語りはひとつの方法である。絵や資料をつかう語りがあってもいいと思う。おわったあと、講師の大井さんとおしゃべりをした。響きあう...のちらしをお渡ししたら...櫻井先生のことは聞いている....といわれた。そのあとロビーにいたら大井さんが追いかけてきて、その日は青森に行くので自分は行かれないが、まわりに声をかけてみると言ってくれた。あの本をどこかでつかってくださいとも言われた。そうです、もちろん、わたしは明日の朝、語りに行く、子どもたちのところへ....

 午後仕事に行く。残土券を買いにきた北井社長が1時間語っていった。最近わたしはひとに語らせるのが相当うまくなった。それから銀行だの商工会だの行って、中央幼稚園に響きあうのちらしを持ってゆく。おはなし会の打ち合わせになったが担当の先生が民話を....希望しているようす。さて、いよいよ、ちょっと苦手な民話に取り組むときがきたようだ。


 
二百六十一の昼  (2003 10 28)  おはなしの森

 朝から”おはなしの森”の発表会、わたしは今回、語りはないが受付なので、テーブルクロスとアクセントに石榴と家の庭に実った蜜柑を持っていった。激しい雨のせいかお客さまは30名、けれどそのせいもあって落ち着いた語りの会だった。本番になっておはなしはそれぞれよかったように思う。ほとんどはふすま越しだったけれどニュアンスは伝わってきた。

 なかでは山口さんの”つつじの娘”と小野寺さんの”木のまたアンティ”が聞き応えがあった。前回、わたしは山口さんの前でつつじの娘を語ったが、山口さん自身の語りを聞くのははじめてで新鮮だった。山口さんはことばの力、語る技術だけで聞き手の心に届けようとする強い意志を持っている、思いなどはいらない...と証明しようとしているようだ。情感をぬきにして語りながら、物語の骨格は鮮明だ。刈谷先生がよくおっしゃるカタチに似ていると思った。フォームを崩さない、楽譜とおりひとつひとつの音、ことばを大切に発声し、余分な情感はこめない。

 ただ思いさえあれば...とは語り手の陥り勝ちな落し穴である。上手というのは世阿弥のいうように長年やってきたとか、修練をつんだというだけではない。が、しかしそれによりかかっては聞き手にのみなさんに申し訳ないと思う。不断の努力、より深く伝えるためにワザを磨くのは言わずもがなである。しかし、ひとを魅するのはワザさえあればというのでもない。そのうえに、なにかが加わらなければ聞き手を感動せしめるには至らないと思う。

反省会では波乱があった。山口さんは泣いた。追い討ちをかけることばがあった。

 わたしは山口さんと同じように組織のなかで本流ではない。どこにいても異端である。ちかごろは異端には異端の必要性があると自認し大きな顔もし、それをゆるしてもいただいているが、異端は生き辛いものである。どうかどんな組織であってもみんなと肌合い、生き方の違う人種をいくらか大目にみてほしいと思う。彼らは変革の芽であり、組織が硬直するのを防ぐ。そのうえに大きな顔はしていても感じやすく周囲の一言二言にひどく傷ついたり居心地のわるい想いをするのである。


 3時過ぎから事務所で残土券つくり、一枚7000円で300枚、210万円分である。こんなふうにお札がつくれればいいなぁ。6時半から連絡会、うれしいことに目標95パーセント達成、あと4日でクリアー間違いなし。問題点の把握もそれぞれ明確になってきたし、みんながこの調子で育ってくれれば、おばさんはもっと語りの道に精進できるというものだ。

 8時、久喜座練習、尺八の坂本さんと合わせた。




二百六十の昼  (2003 10 27)   石榴

 石榴が会社の築山に実っている。みかんがベランダのわきにたわわに実っている。今日、米雄さんのところに行ってブスコバンを打ってもらった。クスリもいただき、ほっとした。

 水からの伝言の準備をした。

二百五十九の昼  (2003 10 26)  詠み芝居

 わたしの師は櫻井先生と刈谷先生と壌晴彦さんとかってに決めている。きのうは久しぶりに刈谷先生に会いにいった。一ヶ月もさぼってTELもしないどうしようもない弟子に先生は「せっかくきたのだから発声練習をしていきなさい」といってくださった。おそろしいものでポジションは自分でもわかるほどはずれていた。

 敷居が高かったのがまたレッスンをはじめられそうでやっぱりうれしい。どんなに罵倒されてもいい。

 今日は演劇倶楽部「座」の鶴八鶴二郎を観に行った。楽日だった。きっちりしまったいい舞台だったし、鶴二郎の壌さんの演技もよかった。なのにカタルシスがない。よくできていると、感動する、揺り動かされるとはまったく別なのだ。どうしてだろうとずっと考えていたのだが、やはり地の文の読みにあるのではと言う結論にたどり着く。詠み芝居とは文学をそのまま語り手が読む。舞台上では芝居が進行する。読み手(語り手)は芝居の場と場をつなぐ役割もある。読み方はかなり早い。

 つまり、わたしたちの語りでいえば台詞はそれぞれ専属がいて、立ち居の芝居もして、地の文だけを語り手がする。再々言うが、問題は地の文なのである。台詞は一点を見る、地の文のときに聞き手の目を見て、魂に直接イメージを届ける。ところが詠み芝居にあっては、今日見たところでは、語りは黒子、影のナレーションといってよく舞台前面にでる必要は感じない。

 語りの場面で酔いが醒めてしまう、現実に引き戻されてしまう。客観的に見ざるを得なくなる。だから鶴八を愛するあまり、こころにもないことをいって、鶴八が堅気のしあわせな暮らしをするようしむける鶴二郎にこちらも同化できないのだ。

 芝居が終わって、壌さんがロビーに出てみえた。まだ鶴二郎をまとっていて、白炎のようなオーラがあった。「劇団新夢のワークショップでお世話になりました」というと私を見据え「もちろん、わかっています」と言われた。鶴八鶴二郎を観て、わたしのなかのなにかに火がついた。身体を鍛えたいと心底思った。

 帰り、ジュンク堂が見つからないので、リブロで「水からの伝言」を買った。絵本ができるだろうか。



二百五十八の昼  (2003 10 25)  カタリカタリの魔女

 ネモさんがテレビで「フジ子・ヘミング」を見ているとき、本人を見て、恐れ多くもわたしを思い出していたというカキコミを見てまりが「おかあさん、わたしもそう思っていた」というのでちょっとショックだった。わたしはフジ子さんを見て魔女みたいだ(フジ子ファンのみなさま、決してわるい意味ではありません)ととっさに感じたのでした。先生のメールに魔女のようなlucaさんと描いてあったし、これから魔女と名乗ろうかな。

 北のよき魔女の名は寒河江の太田みささんにおくるとして、わたしはカタリカタリの魔女とでも名乗りましょう。その魔女はいま、”ももいろお月さん”と”水のゆくえ”を語りたくてあたまがいっぱいだ。実はきのう一回声にだして読み、今朝語ってみた。水のゆくえは一人称なのでどのように語れば語りとして成立するか、そして”水からの...”をどのように語るか、絵本にできるか、ピーター・マクニールはどうするか、新しいカメラはどこかへおいてきてしまい、明日かずみさんは結婚式に招待されているのに靴下もなく、ご祝儀をおろしてくるのも忘れたというのに、魔女のばさばさのあたまのなかはカ・タ・リ・カ・タ・リ


二百五十七の昼  (2003 10 24)  ポプラ祭

 今日は娘の通っている中学の文化祭、午前中、文化部の発表でステージで水墨画を描くというのでいそしそでかけた。ちょうど舞台に登場するところだった。娘だけ青いポリバケツをさげている、舞台に広げられた三畳ほどの紙に一斉に描きだした。娘はひと墨を含ませたほうきでいそがしく描いている。あっというまにできあがり、四隅を持って見せてくれたところで、一匹の大きな虎になっていた。吹奏楽部
もよかった、金管の晴れやかなつややかな響き、しっかり支える弦楽器。若いってすごいことだと思う
 昼休み、銀行に行って新しい支店長と歓談、そして午後中学に戻り合唱コンクールを聞いた。みんなまっすぐに行ってね、突き当たってもころんでもまた必ず立ち上がってね。

 校長先生に語りを聞いてくださるようお願いした。

     

二百五十六の昼  (2003 10 23)  木曜ゼミ

 前回、仕事の講習で行かれなかったので、今日がはじめての木曜ゼミ....前回の宿題、各自が持ち寄ったものがたりを紹介する。3びきのくま、ラプンツェル、7わのカラス、インドのものがたり、ころがるパンなど、大工とおにろくから大工とおにろくの元のはなしはセイント・オーラフ(キング・オーラフ)であるという物語の出自になり、明治29年に巌谷小波がすでに口演童話...学校でおはなしの出前をしていた事を聞いて一同ため息をついた。

 現在流布しているものがたりが口承を経て書承の洗礼をうけたものであること。ものがたりがこうして多くの人の手によって変遷してきたことをあらためて知った。実践ではくらぁい、くらいから語り手自身がイメージ、その場で実際に感じ体験しているイメージを持って語ることが聞き手のイメージを広がらせ、こころに響くのだと実感した。声の抑揚、大小、緩急がどのように聞き手のイメージを増幅し、わくわくどきどきさせるかということも示唆された。

 そしてみなで食事をしながら楽しい語らい、14日の段取り、櫻井先生をこの地にお呼びするという千載一隅のチャンスにひとりでも多くのおかあさんたちに声がけしようという機運が盛り上がった。ほんとうによかった。よき師、よき仲間、なにかがかわってゆく予感がする。そして先生との打ちあわせをとおして、なぜ語るか、語りの深い可能性にふれえたことは、何層倍もの勇気を与えてくれたこころ広がり、こころあたためた一日だった。

 これから冒険にでるような高揚した気分、山をのぼり山をくだり、谷をわたり、谷をわたり、テクテクテクテク.......
語りについて掲示板にちょっとおもしろい?交信記録があります。



二百五十五の昼  (2003 10 22)  運命的出会い

 法務局に寄ってから、読み聞かせ講座に急ぐ。10人ほどの読み手がつぎつぎに読み聞かせをしてなかなかおもしろかった。エッツの森のなかへとか落語絵本のまんじゅうこわいとか....定番は誰が読んでもそれなりに味わい深い。わたしは谷川俊太郎さんの「ほうすけのひよこ」を読んだ。アマゾンからきのう取り寄せたばかりである。実はほうすけを絵本で読み聞かせをするのはまったく今日がはじめてだった。わたしは語り手で絵本も読むけれど、読むのと語るのとは語るほうがずっとカタルシスを感じる。絵本を手に持つとなれないせいもあって気がとられ、集中に欠けるからかもしれない。

 講師の大井さんと終わったあと話をした。今日は気持ちのよい講座だった。次回、講座の終りに実験的な読み聞かせをさせていただけることになった。乞うおたのしみである。最後に片岡輝さんの詩、響きあうことばといのちを読ませていただこうと思う。がっかりしたのは会長に直接お願いしたのにもかかわらず講座「響きあうことばといのち」のちらしを置いていただけなかったことだ。わたしの読み聞かせがすこしでも聞くひとのこころに響くとしたら、それは櫻井先生との出会いのたまものなのに、読みを誉められてもあまりうれしくはなかった。

 櫻井先生や尾松さんの講座を聞いていただくことは、今読み聞かせにたずさわっているおかあさんがたにとって、語りをするしないにかかわらず大きなプラスになる。そしてそれは子どもたちへの読み聞かせの時間が劇的に変化することを意味する。わたしひとりではどうがんばっても年間12クラスしか回れない。けれど語ることがなにを伝え、どういう可能性を持つか気がつくおかあさんが増えればなにかが確実に変わってゆく。

 午後「座」の新内語りの講演に行った。池袋の芸術劇場である。ところが小ホールのドアはしまったまま、今日は昼の部がないのだった。...一日間違えてしまったのである。しかしこれが運命的な出会いだった。創作絵本の展示が本日までとあったのでのぞいてみたのである。

 ナイーブ・シンクタンクの第十二回創作絵本展、20くらいのブースというかスペースがあって、椅子がおいてあり、その椅子に坐って手作りの絵本を手にすることができる。最初に見たキクチマミさんがすごかった。わたしは「むかしこどもの夜」という絵本に背筋がゾクっとした。それから「みずのゆくえ」という本を読んで、声を出さずに泣いた。語りにはできない。「ぼくは今朝死んだ犬....」という出だしではじまる。その絵がまたいい。輪廻転生をこんなふうにえがくことができるってほんとうに驚きだ。

 運命的というのはキクチマミさんとのこともあるけれど、絵本がつくれてしまうっていうこともある。先日書いたピーター・マクニールの世界....絵があるととてもおもしろい。それから環境問題の本も自分でつくれる、そして語れる。ことばだけではたりないこともあるのだ。なんだかわくわくしてしまう。すなわち次週の読み聞かせまでに絵本が一冊できるだろうか?

 夜、10月度全体会議、白熱して夜9時まで、討論、話し合い。大分、問題意識が明確になった。仕事がなく、労務比率が高い部門は他の忙しい部門に手助けに行く。ただし自分の部門の労務比率を下げるというより他部門の利益に貢献しようという意識、またその仕事なり、技術なり自分のものししょうという意欲を持つこと。連絡を蜜にすることなど、カッターラインがマイナス土木が黒字で日次決算上では純利益360くらい、悪くないのだが正直恐い。土木の場合はふたをあけてみたら一発逆転がままあるのである。



二百五十四の昼  (2003 10 21)  チョコレート

 明治の板チョコを一年中よく買う。秋になって楽しみなのは新種のチョコと秋の定番が出るから....ラミーの季節だ。ラミーはロッテのチョコでなかにガナッシュとラム酒に漬けたレーズンが入っている。昨年まではわたしひとりだったのに、まずいといっていた娘たちも好きになって競争は激化した。チーズも一三さんまで好きになって、カプリスの大きい箱を半分ひとりで食べてしまった。

 美味しいものはみんなと食べると美味しいけれど、ひとりでないしょでいただくのもいいものだ。つい教えたくなってしまうのは考え物かしら。わたしは語りの美味しさもみんなに知らせずにいられない。今日はおはなしの森の例会、聞くのもいいなぁとしみじみ思った。結局最後は語ることになったが、ひとが語るのを聞いているとどうすれば心に響くか...見えてくる。これは櫻井先生がなさっているようなイメージの上でのことではない。講座ではないので私にはその方がどのようなイメージを持っているか確かめようがないからである。

 けれどちょっとした技術的なことでも変わりうるのだ。ある方に最後の台詞の前にちょっと一呼吸おいて聞き手をぐるっと見わたしたら....とアドバイスした。間とは本来無我の境地で自分でも自分の心を意識しないほどの深い心の働きで演技と演技の間を繋ぐべきものである。世阿弥)意識的にするものではないのだが、間や声の緩急、大小でぐっと聞き手をひきつける.....といったらその方は「そうか、間っておやすみすることではないのですね。」と言った。

 夜、久喜座 照明さんと打ち合わせ、尺八の坂本さんと打ち合わせ、芦刈の歌を尺八にするのに苦労していらっしゃる由。

 今日ようやく34通のちらしや案内を発送できた。そんなに凝らなくてもいいのに封筒や案内をつくるのに手間取ってしまった、ともかく投函してほっとした。





二百五十三の昼  (2003 10 20)  恋して溺れて

 まだ、きのうの語りが木魂している。しのぶ山やみるなの座敷の娘の想い、若者の想いが....。こころに響けばいいのだ。けれど、もっとゆすぶってほしいのだと思う。喜びも悲しみも笑いももっと引きずりこんでほしいのだ。しかし自分ができもしないものをひとに求めようもない。これは自分への注文である。

 ステージの語りと少人数への語りは質的に異なるのではないか。ものがたりの大きさは必須である。ものがたりの大きさのためには、声量が必要である。それと自分の想いの力、100人、300人のひとのこころを自分の声と想いを媒介としてものがたりの世界にいざなう。ひとつの異世界、磁場をつくる。これは力仕事だ。片岡さんも言っていたように、本来、語りは小さな場が似合うのだ。しかし、そうとばかりは言っていられない。ステージにはステージの語りの方法論があってもよい。

 演じると語るの根本的な違いはどこか。どちらにも後見の見、客観的に自分を見ることは必要だ。聞き手、観客と交流する、これも同じ。演劇は大きく考えれば作者を代弁するのであるが、個々の演技者においては役になりきる。語り手は代弁者である。客観的に見つめながら、客観的に代弁する。これではひとを酔わせようもない。熱、深く秘めた火のようなパトスがいるのだ。あぁきのうのふじたあさや氏のパネルディスカッション、語りは騙りを聞きたかった。

 演劇も語りもありえないものを聞き手、観客のこころにまざまざと見せる、つまりたばかるのだ。しかし、現実に見える世界は果たして100パーセントの真実なのだろうか。現実にはありえないことをわたしたちは垣間みることがある。ひとはそれになんらかの科学的根拠を付け加えないではいられないけど....。眼にみえる世界のうしろに膨大な界がひろがっている。その薄闇としか見えないものに語り手は光を当てうるのではないかなぁ。

 およそ芸能は見えない世界につながっている。語りも芸能の原点である。歌も語りももとは祈りであったのは周知のことである。どちらかというとコミュニケーションばかりが言われるけれど、ひとからひとへの双方向の伝達だけではない。過去から未来へつなぐのだ。見えない界から見える界へ橋渡しをするのだ。眼に見えるものしか信じない理性とはかけ離れたところにある。

 これは私的な考えであるが、、祈りが根底にあるはず...という気がしてきた。弥栄を願う気持ち、平和への祈り 命を寿ぐ、生は死と裏返しだから死の受容 そして愛
芝居、文楽、能 舞台は異世界への入り口である。公認の場である。ひととき、垣間見て酔って、ふたたび現実に帰るところである。しかし一場の夢が現実を変えることさえあるのだ。

 ステージとは酔わせるところ、浮世を忘れさせるところ、想いと技量の丈を尽くして。と同時に自分を燃やすところだ。その燃焼度は通常のボランティア活動とはやはり異なる。もちろんわたしにとってだが、ボランティア活動における語りはものがたりと、ともに生きている時間の聞き手との共有であり、ひたひたと静かに満たしてくれる。ステージでの語りは共有である前に格闘でもある。自分自身との闘いであると同時に観客:聞き手との闘いの側面もあるのだ。てぐすねひいて待っている聞き手に全身全霊をかけて委ねる。かえってくる。手渡す。かえってくる。ひとりひとりの聞き手のイメージの世界がたちあがる。それがひとつのおおきな夢、ひとつの界になる、みんなでそれぞれがそれぞれのそしてひとつの世界を生きているのだ。

 覚醒と酔いがひとつに、真理と嘘がひとつになる蜃気楼のような一瞬がある。だからやめられないのだろう。苦しくとも、それ以上の目くるめくものがあるから。わたしがわたしでなくなり、この我というちいさな入れ物から飛翔できるから....そしてそこになにがしかの大義があるような感じがするから。祝福が降ってくるような気がするのだった。なにかから愛されているような気がするのだった。だからわたしは語りたいのだ。

 ここまで書くといっちゃってると思われるかなぁ。いくら個人的なサイトといってもね。以前語り手たちの会のある方からそのようなことを言われてわたしは結構傷ついたのだけれど、もう誰がなんといおうとかまわない。髪振り乱してもわたしはいくだろう。この悪女のように容赦なく奪い、守銭奴のようにケチケチ与える蠱惑的な語り手の業にすっぽり首まで浸かって充分に味わうことにしよう。

 三年が経ち、目くら滅法歩くところからあたりを見渡す余裕がでてきたところで、これが今の建前でない本音である。わたしは自分のために語る。しかしそれと同時にこの発見を自分のものだけにしたくない。そこで講座をひらく、そしてもっと広く語りを知ってもらうために時間を捧げ多少の私費さえ散じる。これは自分でも信じられない行為である。恋だって溺れなければ真髄はわからない。


  

 

 
二百五十二の昼  (2003 10 19)  公開講座

 今日は青少年センター、まずはじめにカフェで櫻の会の打ち合わせ、それからセミ21の公開講座の会場に行く。先生が話してくださったのでちらしを三種置かせていただくことができた。「響きあう...」「七つのものがたり」「朗読と語りのステージ」である。末吉さん、曲田さん、藤野さん、片岡さん、セミナーの村田さんたち、竹内さんほか、小野寺さんのメンバー、銀座ゼミ、山形に行ったメンバー たくさんのひとと再会、知らないひとも大勢いた。先生がたぶんふじたあさやさん?らしい方に紹介してくださったが、恥ずかしかったので逃げてしまった。スッピンだったし...。

 チケットを押し売りした。村田姫は6枚も買ってくれた。わたしはたくさんのひとにきていただくのが好き、そうするとあとにはひけないからである。聞き手が大勢いればいるだけ燃えちゃうのである。語りは自分ひとりではどうにもならない。聞き手がいてくださってはじめて成り立つ、ましてお金をはらってくださるなんて神さまだ。なにがあっても聞きにみえたことを後悔させない語りをしたい。
 
 他に予定があって長くはいられなかったが、30分ほど語りを聞くことができた。階段教室の一番上に陣取ったのでステージを上から見下ろすことになる。そうして聞いていると不思議な感じがした。語り手と聞き手は見えない糸で結ばれている。押す、引く、押す、引く リズムがある。抑揚、リズムは語り手によって違う。あまり長いとゆったりするが間延びし、短いと落ち着かない。今日の最初の語り手は長すぎ、二番目の語り手は短すぎる。また押す一方ではやはり疲れる。心地よいリズム、間や緩急でそのリズムを破綻させることで生じる緊張感、ドラマティックな局面、しかしものがたりぜんたいを大きなリズムが支配している。こんなふうにはっきり見えたのははじめてでおもしろかった。

 もうひとつはやはり地の文の大切さである。今日の語り手おふたりはとても丁寧な語り方だった。台詞の立て方も的確だった。だがなにか物足りない。これはなんだろう。地の文になにか足す、または引く、もうすこし考えてみたい。

 太田みささんと会えてうれしかった。みささんは新幹線できて、今日新幹線で帰るのだ。みささんからぶなの大木のようなおおらかな気が伝わってきて懐かしかった。


二百五十一の昼  (2003 10 18)  こんなに

 決算が終わった。美子ちゃん ありがとう ごめんね。ずいぶん苦労させてしまった。わたしはわがままだなぁ。過ぎたことはもうどうでもよくて決算より頭は先にいってしまう。地道なあなたの努力に感謝していてもことばに出せない。

 でもすこし見えてきた。今期なにをしたらいいのかということ。キャッシュフロウがなにかはよくわからないのだけど、結果としての損益と平行して、月別の予算と平行して、現金の動きに合わせた予算が必要なのだ。それは最終的に当座の動きの先行のカタチをとるはずだ。現在の入出金予定に手直しすればできるのではないか。あらかじめ予測のつくものと不確定要素とニ欄にしてシュミレーションができるようにする。そして部門別予算も販売管理費の賦課したものをとりのぞき実際の現金の動きにあわせてみる。なにが見えてくるだろう。

 会社に行かなくてはいけないのに遅らせてディアドラの手直しをした。日ごと語っているうちに齟齬がみえたりしてものがたりはどんどん変わってゆく。テキストを訂正しないと混乱してしまうのだ。そして怖ろしいことにテキストは次第に嵩を増してゆく。それとともにノイシュとコノール王の輪郭も明確になってゆく。性格描写も心理描写もなしにエピソードの積み上げだけであらわにしてゆかなければならない。これは思ったより大仕事だった。語りを初めていちばんの大作になりそうだ。

 久喜座の方も舞台装置が次第にはっきりしてきた。効果、音響、照明、尺八、これほど贅沢なつくりで語りをさせていただくなんてもうしわけないほどだ。にぶいわたしはようやく気がついたのだが、わたしが語りをしていなければ、劇団はこうした試みをしたとは思えないのだ。澤田さんはずいぶんと後押ししてくださっているのだと今夜 気がついて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 今回わたしは制作をはじめなんの手伝いもせず、ろくに練習もしていない。あと二週間だ。いい舞台にしよう。当日、選挙でこられない澤田さんのためにもがんばろう。

 庄司さんも毎日のようにバイクで図書館や公民館に響きあう...のちらし配りをしてくれている。わたしは七つのものがたりのチケットやちらし、封筒つくりに追われている。こんなにたくさんのことに手を出してどうしようというのだろう。走り回って探し回ってなにが見つかるのだろう。いつもいつも考える。これでいいのか、ほんとうにたいせつなことをわすれてはいまいか?
あぁ、だけど 行くしかない。遠くで呼ぶ声が聞こえるのだもの。

 今日の懸案 東マテリアルに中間報告、立て替え金精算
 今日のいけないこと 美子ちゃんと又さんにTELもしなかった
 今日の美味しいもの なんとかいうナチュラルチーズ

 明日、語り手たちの会

 

 
二百五十の昼  (2003 10 17)  里芋

 寒い。もうすぐ冬がくる。ホームレスさんたち 寒いだろうな。どうかよい夜をみなが過ごせますように...。そんなにおなかをすかせないで、そんなに寒くなくて、そんなに寂しくなくて、そんなに苦しくないように.....どうか神さま お願いします。

 ケヴィンをトリミングに連れていった。
 ようやく現金が入力できた。

 美味しいもの  掘りたての里芋 ふかしたり味噌汁にいれたり
 
 懸案  封筒 ケヴィンの散歩ほか

  
二百五十の昼  (2003 10 16)    徴


 それは、4年前の春のことだった。十二指腸潰瘍でからだから血がひそかに大量に流れ出していたことに気がつかなかった。とてもいそがしかったし、自分のことをいとうひまさえなくて 気がついたら入院していて、わたしはふつかのあいだ、もう死ぬのだなと本気で思っていた。

 しんとしてこわくもなければかなしくもなかった。これでおわるんだとおもった。それはそれでいいことのような気がした。けれどまた元気になれると知ったとき、からだのそこから、深い安堵の気持ち、冴え冴えとした喜びが甦ってきて、それはまたあの修羅場に戻っていくのかといううっとうしささえ、新しい冒険に向かうわくわくした期待にかえていた。

 それから わたしはすこしずつ確実にかわった。終末がそう遠くない未来にあることをはっきり知覚したからだ。細かいことは気にしなくなったし、子どもへの執着、こうあれかしという想いも薄れた。それまでひとのことばかりをかんがえて生きていたのが実は思い込みに過ぎず、わたしはひとをただ変えようとしてきたのではないかと寒々しい気がしてきて、そのかわりに自分の生を充実させたいという希みが固い芯のように疼いた。

 そして秋、あることから大井さんの講座を受け、コスモスの朗読の講座を受講し、あきたらなくて ASKで櫻井先生にお会いしたのである。語り、それはひとつの可能性の示唆だった。わたしの生が闇から闇へ向かう一瞬の光芒ではなく、光のつらなりの一部であり、人に与えられた不確かで不十分な伝達の手段であることばに先人とわたし自身のいのちをのせて、わかいひとに手渡すことで私自身も成就し二重の連環が完成するという可能性の啓示だった。

 連環とはひとつはわたしという個(弧)の生の連鎖の連環であり、もうひとつは、ひとのおおいなる歴史のなかのちいさなひとつぶの個であるわたしが、わが声によって次の世代へメッセージを託すことで連環のちいさなちいさな環になりうるということである。肉の身をDNAの情報として残すのではなく、眼に見えざるものを伝えうるという可能性を知ったとき、わたしは戦慄した。

 それと同時に語ることは同時代を生きる仲間への連帯を深める。少し離れた場所、遠いところにもあのひとが、このひとがいる。学校や図書館やデイケアセンターやステージだけが語りの場ではない。家庭そしてこのサイトもわたしにとって、たいせつなたいせつな語りの場なのである。


 30日だったのに間違えて青葉のデイケアセンターに行った。ちょうどみんなであなたのことを話していたと歓迎され、手遊びとおしゃべりで30分過ごした。おとしよりたちとボランティアのひとと歌い、踊り(?)おはなしはひとつもしなかった。けれどもかえるとき、みんなにこにこ手を振って楽しかったよ、またきてねで30日もいくことになった。なにを語ろうかで悩んでいたのが嘘みたい、おはなしを語らなくても通じるものはたくさんあるようだ。

 午後、春日部の労働基準監督署にテープを借りに行く。かえり春日部図書館でポスターとちらしをおいてくださるようお願いする。迷子になってひさしぶりにハンドルにしがみついて帰った。夜連絡会、15日で売り上げ目標が52パーセントいっているのを知ってほっとした。出だしがいつものように悪かったのでひやひやものだった。残土券がおとといにつづいて40万円分売れた。

 今日の美味しいもの ハーブとにんにく入りのチーズ、ポン・デザールのロールケーキ....春日部は美味しいものがたくさんある。

 懸案 労基と図書館 

 今日のいけないこと チーズを食べ過ぎた。うちの食いしん坊は女たちで三人でクラコットにのせてほとんど一箱食べてしまった。


二百五十の昼  (2003 10 15)  読む、語る

 息子が風邪をひいたので米雄さんに診てもらったら、気管支炎という診立てで、今日は休ませた。待合室で見知らぬ方と楽しくおしゃべりをして夕食はポトフに決まる。

 すこし遅れて読み語りの講座に行く。各自が二冊ずつ 選書して実際に読むことになったいる。ちょうど「ザボンじいさん」がはじまったところだった。この本はもうひとりの方も選んだ。おとながこどもに読みたいだろうと思うようなものがたりだった。みな淡々と読む。抑揚もなく、間もなく 起伏もない単調な読み方であるが、それはそれでよいのだと思う。

 わたしの心に響いたのは小さいのんたん絵本を読んだ方の「いぃち、にぃ、さぁぁん、えぇと...」という声だった。語っているなぁと感じた。講師はやはり読み聞かせにいい絵本だとは思っていないようだったけれども。あと岸さんという男性市議の方が「....大好きだよ」をとつとつと読まれたのがよかった。

 「ザボンじいさん」の次 二番目に「魔法の夜」を読んだ。わたしは今日までなぜ魔法使いが魔法の力を捨ててまでして、おじいさんの犬になろうとしたのか、説得力がない...読みづらいかなと思っていた。それが病院の待合室で読み直したとき、魔法使い(犬)はほんとうにおじいさんが好きになっていたのだとわかり、そうしたらランプに火が点ったように読み方もかわった。不思議なものだ。

 講師は絵がパステル調であること、ストーリーらしいストーリーがないことなどから、少人数か大人にしか向かないといった。また自分としては少し情緒的だと感じるといった。「ここにいる方々はおとなですから大人に楽しんでいただけるように読みました。」というと「年齢層によって読み方を換えないといけないならそれは読み聞かせには適さない。もし子どもに読むとしたらどう読むのですか?」というので「何歳のこどもでしょうか?」と聞いたら絶句してしまった。

 高学年なら比較的に淡々と読む。その年頃になると表情は乏しくみえるが、女子や一部の男子は内面は感受性が実に豊かなのだ、少しの振幅でも感じ取ってくれる、また過剰な感情表現は嫌う傾向があるように思う。3年生くらいだと内と外のバランスがとてもいいので生き生きと読む。低学年はまだよくわからない。幼児は踏み込んであげる。おとなは高学年よりは起伏を持たせる.....これはあえてそうしているのではない、聞き手の目を見ながら読んだり語ったりしていると自然にかわってしまうのだ。

 聞き手にたいして 誰にでも同じように読まなければいけない。年齢層によって読む絵本を変えることで対応する。ひとつの見識のように思われるが、他の選択があってもよいのではないか。これが絶対に正しいという読み聞かせの方法があるというのだろうか。読み手が聞き手とともに楽しもうとしたり、ものがたりが聞き手の心に届いた確かめながら読むとしたら、読み方は自然とかわっていくのではないかなぁとわたしは思う。好みとかテンポはそれぞれである。わたしは山崎みどり先生の嫋々とした読み聞かせも好きだし(ぶたばあちゃんには感動した)、ときにとりつくしまがないときもあるがクールな講師の読みも好きだ。おふたりが師弟というのは不思議な気がするけど、それが妙というものだろう。

 それから「実は絵本のなかでは、老人、彼が多用されていたので、おじいさんと読み替えました」といった。これは講師にとっては問題外のようだった。原作のドミニク・マルシャンはシャンソン歌手であったという。実在の犬をつれて国中を旅していた老人のことを歌った歌から、残されただれかが甦らせたのである。ドミニク・マルシャンは老人をおじいさんと読み替えたら怒るだろうか。おじいさんと犬の想いが聞くひとのこころになにかを残したら喜んでくれはしないだろうか。講座はお手伝いを含めて14.5人であったろうか、そのなかで数人のひとから、とても不思議だった、絵本の世界にひきこまれてしまったとか来週楽しみにしていますとか声をかけていただいた。その方たちの瞳のなかに夢を見たあとの名残が漂っていたと思う。朝の学校で子どもたちの瞳のなかに見る輝きのように。わたしの読みがすべてのひとの賛同を得るとはおもはないが、それぞれの語り口でもっと自由に楽しんでもいいのではないかなぁ。それに子どもたちってなかなかたいしたものなのだ。大人がこれは無理だろうと思っても、心の世界ではこどもはちゃんと受け止めるのだ。


 講師はもちろん、よいところはほめてくださったし、次回が楽しみだといってくださった。メンバーの方もそれぞれ声をかけてくれたのでわたしもあと二回楽しみたい。そして最終日には気持ちの通じそうなひとに「響きあうことばといのちのちらし」を渡しましょう。でも....もしかしたら講師はやりにくいだろうなぁ。

 給与振込み、デスク周辺のそうじ、市役所と中央公民館と商工会にポスターを貼っていただくよう頼みにいった。

 今日の美味しいもの  お弁当
今週から4人分のお弁当をつくっているが、おいしいのである。
北海道のたらのソテー、ハンバーグ、小松菜の煮びたし、大根とがんもどきの含め煮、ポテトサラダ、紅玉 とってもまじめなお弁当でしょう。冷凍食品は使いたくても使えない、電子レンジがないのだった。

 今日のいけなかったこと
電話の応対のクレームが多く、事務方を注意したら泣かせてしまったらしい。

 今日の懸案 デスク廻りのかたづけ 介護課に行ったこと 有給残がやっと合った。



二百四十九の昼  (2003 10 14)  時雨

 めっきり 寒くなった。今日は会社で根を詰めて仕事をした。途中で脱け出してトムの会の例会で騒がせてきた。新人が入会し、当然固くなっているから肩の力をぬいていただくためである。もちろん自分も楽しいほうがいいが、新参の緊張は格別のものだ。長くいるひとにはなかなか解り辛いものである。

 だがディアドラはできなかった。本拠地の県立図書館が統廃合のため休館なので、公民館で会合を開いているから時間がないのだ。土屋県政の失敗はここにもある。サッカー場の維持費は億単位であ3ろうし、あの埼玉メッセ?みたいな巨大な施設も黒字とは思えない。目立つ箱物ばかりお金を遣って、図書館を減らすなんて全くお利巧じゃない。

 ともあれ、トムの会はつつじの娘、ASK櫻の会でディアドラになりそう、なんだか気がぬけてしまった。夜、久喜座に行ったが、坂本さんは来ないし、練習は気が入らなかった。カタチは整えたし押してはいたがそれだけである。語ったあともまったくむなしい。だいたい語りを何度も練習したって意味はないような気がする。発声とか基本的な訓練は必要だが、何度も練習すると生き生きとした息吹が薄れはしないだろうか。イメージが擦り切れるような感じがある。舞台に立つ前、100回も200回も練習する方がいるそうだが、わたしにはとてもできない。実際の語りの場で聞き手とのやりとりのなかだから上達もあるのではないかしら。


 トムの会、太田小で3回、小久喜の公民館、騎西の小学校、児童センターで2回、本町小で2回、菖蒲の子ども会、菜の花会、デイケアで4回くらい 図書館で2回、あと久喜座と刈谷と櫻の会で年内20回を越えそうだ。いただいた場でせいいっぱい聞くひとのこころになにかが残るような語りをさせていただけますように。


 
二百四十八の昼  (2003 10 13)  秋の日

 きのう、夜中に娘たちとカラオケに行った。いつもは歌はないmarieも歌った。オリビアを聞きながらとか(懐かしいね)英語の歌とか。末娘はオレンジレンジとかヴァンプオブチキンとか新しい曲、わたしは元ちとせから尾崎とかイタリア歌曲もシャンソンも歌う。マイクは使わないがすごいヴォリューム(marieがびっくり!)なので下のフロントまで聞こえているだろう。

 家でも外でもセーブしないで声をだすことはできないから、カラオケでたまに歌うといい錆落としになる。ピザもたべて5500円くらいだった。帰り道、天頂ちかくに冴え冴えと月が懸かっていた。

 明け方までまたチラシの印刷とポスターなどの手直し、インクをもう2パック半使ってしまった。A3のポスターを10枚A4のちらしを400枚くらいプリントした。プリンターの調子が悪くなってワード文書が印刷できない。困った。セミナーの宿題と響きあうことばといのちはワード文書なのだ。今夜も夜なべかもしれない。

 庄司さんがカタリカタリの仲間になってくれたのでとても助かっている。彼女はとても実際的なので、きのうから図書館などを回ってくれているのだ。午後は基準監督署に行く予定なので、帰りにわたしも春日部と宮代の図書館によってポスターを貼らせてもらうつもりだ。夜は尺八の坂本さんと打ち合わせがある。芦刈だけでなく1月市民芸術祭もお願いしようと思う。

 午前中はトムの会、ディアドラを初めて語る。朝方、ディアドラ関係の本を読んだら数箇所、違った言い回しがしたくなった。徐々にディアドラのイメージが色濃くなる。語りを重ねていくうち、もっと鮮明になる。語る前はいつもどきどきする。語りはじめると怖いとかはないのだが、始まる前は押しつぶされそうになるときもある。特に新作は.....なのであしたはどうなるだろう。


 午後、買い物の帰り、加須のプラントに寄った。どんよりした黒雲が切れて地平線に輝くばかりの青空と光含んだ筋雲があらわれ、見る間に蒼穹がひろがってゆく。つかのまの青天、あすは又曇りだそうだ。

  今日のおいしいもの  サラダ...シーザードレッシングで
  いただきものの伊豆の干物

  今日の懸案 とにかくチケット

  今日のいまいち  黒砂糖を...



二百四十七の昼  (2003 10 12)  白いボール

 芦刈とディアドラと魔法のよるとほうすけが木魂してあたまのなかはお花畑 11月から1月まで6回のステージがある。銀座は同じ床の上だけれど、ディアドラをおそらくこの国で初めて語り、このものがたりを深く愛している先生のまえで、私自身の再話したディアドラを語るのだから、つたなくも自分の最良のすべてを差し出せるように....

 久喜座と刈谷、久喜の市民芸術祭では 語りとはじめて出会うひとも多くいらっしゃるだろうから もっと語りを認めていただくために....

 今日はポスター(11/14,21)とちらしとチケットつくりと発送です。響きあうことばといのちのポスターをつくっていて、あとから予定になかった少女と白いボールを足したのだが、これって9/25のニューグランドでの霊体験の連想...?!

 今日の美味しいもの  おすそ分けでいただいた北海道の生鮭
かずみさんの鶏ちゃんが生んだたまごをご飯にかけたら...!!
 今日の懸案  ちらし ポスター 今夜チケットをつくる 数日振りに入浴!!
 今日のしてはいけないこと  手抜きの食生活


二百四十七の昼  (2003 10 11)  トラウマ

 とうとう会計事務所の又さんからTELがきた。8月決算なのに事務所にも行かず、現金のまとめもしていないからだ。これは語りにかまけているとかそういうことではない。例年繰り返される、いはばわたしのトラウマなんである。
 
 それで罪悪感があるのでなにかで気を紛らわして、夜も寝ないでサイトのリフォームなどしているというわけだ。まとめるのは2日もあれば終わるのだが、これがいやでいやで逃げ回っている。始めればなんのこともなく片付くのだ。子どもみたいと思われてもしかたがない。

 今日は朝から印刷業、チラシの作成印刷などなど。久喜座のチケットも売らねばならず、まとめて封筒に入れて連休のあいだに投函しようと目論んでいる。尺八の坂本さんと打ち合わせをする。ASKの連絡をする。チラシとポスターを各公民館に持っていって貼ってもらうよう頼む。デイケアの打ち合わせ。15.16日は又さんと約束したので現金のまとめ。給与けいさん。きのうも遊んでいたわけではない。きのうは支払い日で会社のトイレそうじ(長年事務員さんを見ていると経理の腕とトイレの清潔さは反比例するようだ)もしたし、車両三台分(ほんとうに石原都知事の思いつきにも困ったものだ、大気汚染は目標を達成しているので段階的にやればよいのに中小企業泣かせもいいとこ..問題は水質汚染だ)を含めて3000万円近く支払った。ちょっと怖いものがある。それでスーパーに行って50パーセント引きで94円10個入りのすあまなんか買って喜んでいるのだった。あの外郎みたいなほんのり甘いすあまのわたしは隠れファン、ちょっとハズイけれど。

 餓えたこどもたちが騒ぎ出したので、食料調達にでかけるとしよう。

 生きているあいだ ずっと続く 生きるための些事の連鎖、これが辛いのかけっこう楽しいのか、受け取り方しだいだけれど、だれかがちょっと肩を叩いてねぎらってくれれば、ずうと楽にはなる。ひとからしてもらうことを考えないで自分がしてあげられるかってことか.......。
  
  今日のいけないこと 手抜きの夕食 久喜座にいったけど終わ            ったあと。  
  今日の懸案  チラシ作成
  今日の美味しいもの メルバトーストとチーズ



二百四十六の昼  (2003 10 10)  出社拒否

 きのうは会社にいけなかった。行かなくては、行かなくてはと時計を見ながら、どうしても行けなかった。子どもたちもこんなときがあるのだろうなと思う。呪縛にかかったみたいに気持ちはあっても身体が動かない。いや、嘘つきの気持ちのかわりに身体が語っているのだろうな。

 きのうの夜 久喜座の練習をのぞいたらみんな驚異的進歩を遂げていて、すこし焦った。朝 芦刈、ディアドラ、魔法の夜とつづけて語ってみた。聞いていたのは車のなかのケヴィンと秋風だけだ。火曜日、トムの会、語ってみる?やめておく?もうどうでもよくなってきた。11月、刈谷市でおさだおばちゃんを...というおはなしがある。

 おばちゃんのこと、ひとりでもおおくのひとに知ってほしいなぁ。おばちゃんが十三夜におだんごを送ってくれたのは亡くなる前の年のことだった。わたしは前より死ぬのは怖くない。だってみんな待っていてくれる。直やおばちゃんや一樹さんやおとうさん、それからお磯おばあちゃん、あのひとも、寅さんのおじさんも、市場のおじさんも。 だから死そのものより、生きているあいだに自分が為すべきことを終えられるかどうか、それが怖い。

 一樹さんのこともどこかで語ることができたら....いいなぁ。ひとの人生を抱きしめることは自分の人生をもういちど見直すことになる。

 さぁ 仕事に行こう!


二百四十五の昼  (2003 10 9)  語りの力

人が良く生きることへつながる語り

  語り手として、何ができるのかを考えていく視点も必要です。現代社会の心の問題ーとくに負の部分、無感動や無関心・子どもへの虐待・子育て放棄・青少年の育ちそびれなど――を視野に入れて、語りが果たす役割を考えたいと思います。
 世の中の人々の幸せを願う物語や昔話のメッセージを、私たちも受け継いでいきましょう。自分が自分らしく生きること、自分ひとりではなく、世の中に自分以外の人がいて、人々がいっしょに生きるということ、人として良く生きることへつながる語りを考えていきたいものです。そのために語ることと平行して人間関係学・児童学・教育学や生涯学習などにも関心を持ち、幅広い学びを続けましょう。
 三万人の語りのボランティアが今、日本中で語りの活動をしていますが、世の中を明るくする語り、平和をつないでいく語りを考える新しい語り手たちの誕生に、期待と希望を抱いています。

              ー櫻井先生のHPからの引用

 
語りはひとがよく生きることへの力となりうると私もこころから信じている。語り手によって語る動機はさまざまであるが、そのなかにわたしは生き生きと生きるための手探りとしての語りを感じることがままある。失ったものを回復しようとするのっぴきならない試みである。

 まず語りは語り手にとっても救済となりうる。そしてそこから二歩目を踏み出すことができる。ここに生かされている自分と同じように、たくさんのひとが笑ったり悩んだりしながら生きている。語りはその場をひとつにする、みんなの気持ちを結ぶことができる。ものがたりは聞くひとの魂のどこかに沈んで苦しいときそれと知らず支えてくれる。ひとりひとりの語り手の力はちいさいが、3万人が5万人10万人と広がっていけば、もっと世の中が明るくなるのではないかしら。

 自分も語り続けていきたいけれど、もっと語るひとが増えればいいと思わずにはいられない。ことに若いひとや子どものなかから語り手をふやしたい。語ること、表現すること、聞くこと、共有することによって 成長の苦しみは和らぎ 世の中は余計な損失を食い止めることができるのではないか。

 人間のうちには破壊したい欲求、自己も他者もめちゃめちゃにしたい欲求が確かに存する。しかし明るみに向かうこころ、他者の幸せを喜びとする、ともに力を出し合うことを喜びとする気持ちももっと強くもっと深く存在するのではないだろうか。まだまだ人類にはチャンスがあるのではないだろうか。

  今日のいけないこと 会社に行かなかった
 今日の美味しいもの 大皿山盛り一杯の枝豆 かずみさんと。
 今日の懸案 山電でインクと紙を大量に買う
 

二百四十四の昼  (2003 10 8)  ことばの力

 今日はとてもたくさんのことがあった。ことばについてあらためて考えさせられた。

 読み語りの講習会でのことである。講師は大井さん、ちょうど3年前、市立図書館で読み聞かせの講座を飛び入りで受けて以来だが、大井さんはバイオリンがチェロになったように雰囲気が変わっていた。「どの子どももまともな感性と知性を持って生まれる。いまはどうしようもない事件がおこる時代であるが、いい絵本、いい物語、いいことばを子どもたちに届けてゆきたい。」と冒頭に話があった。

 まず読もうとするその絵本がだいすきで、こどもがすきであることが、読み聞かせに大切なことだという。これは語りの姿勢となんら違いはない。大きな違いはものがたりではなくまず絵本が主役であること、絵がたいせつであること。その絵本に足しても引いてもいけないこと。選書で80パーセントが決まり、読み手は黒子に徹することなどである。であるから、ものがたりがよくても絵とのバランスが悪ければそれは読むに値しない絵本なのだった。

 読んでひっかかりのある格助詞とか、彼ということばなどを読み替えてもよいかとたずねたところ、「読み替えるならほかの絵本をさがしたほうがよい」という答えだった。ほんの少し換えてもしもよりそのおはなしが聞き手に伝わるのであれば換えてもよいのでは....とわたしは思っているのだが。

 「もっと楽しい明るいものを、もっと昔話を、もっと科学絵本を」というやんわりした要請があった。つまり絵本をとおしてなにを伝えたいのだろう? 楽しさ、しかり、美しいことば、しかり 科学する心、しかり。それだけなのか それだけでわるいとはいわないけれどすこしさびしい気持ちがした。講師は6冊の本を読んで聞かせてくれた。それは楽しくて、講師が心から読み聞かせがすきなことが感じられた。もう少しゆっくり読まれたほうが心に染みただろうと思う。次週は実習である。わたしは語る、絵本は添え物にする。

 夕方、浦和で粕屋さんが「よかったじゃないですか」といってくれた。わたしの移管について、心底そう言ってくれたのは粕谷さんが初めてでわたしは思わず「そうですね、よかったんですね」と呟いていた。この三年間は仕事においても、家庭においてもじつにさまざまなことが起こり翻弄され、必死に眼を見張って迷宮から出るための糸口を探してきた。過ぎたたくさんのことが堰を切ったように思い出されて不覚にも泣いてしまった。してきたこと、打った手がすべて正しいとは思わない。けれど今振り返ってはじめて、よく耐えてこられたな、たいへんだったな、ずいぶん無理してかっこつけてきたなと思う。その三年間を支えてくれたのはひとつは語りであり、もうひとつはホームページであったのだ。

 粕谷さんのひとことは固く縮こまっていた私の心を解きほぐし、あしたへ後押ししてくれた。なにげないひとことでひとは勇気をもって歩き出すこともできるし、また絶望もする。櫻井先生の3人の王子でも語られたように、この世でもっとも美しいものもことばであるし、もっともみにくいものもことばである。わたしは語り手のはしくれとして、ひとを生かすことばをもちいているだろうか、ひとをがっかりさせたり悲しい想いをさせたりはしていないだろうか。

   今日の美味しいもの どんぐりのチーズケーキ
  今日の懸案 12月の申し込み
  してはいけないこと アンティークのネックレス 

二百四十三の昼  (2003 10 7)    パウロ

 ほんとうは小山の五十島さんの会に行きたかったのだけれど行けなかった。とても五十島さんに会いたい気がした。あとでよく考えたらおはなしの森の発表会の練習の日だったかもしれない。といっても今回わたしは出ないので誰も行くことを期待していないと思うがスケジュール管理をきちんとしないとバッティングばかり。

 ディアドラの残りを文字に落とした。イメージのなかでできあがっているとあとはキーを打つ手のスピードだけだ。打っているうちにこれはテンションがあがっていないとものがたりに負けてしまうかもしれない思った。半端な気持ちだと悲惨なことになりそう....である。ファンタジーではないのだ。かってあったにちがいない濃密な物語である。その場に聞き手を引き寄せるのか、場を手繰り寄せるのか。殺風景な公民館の部屋で語るのはなんとなく気持ちがひけてしまう。それなりの道具立てがほしい。トムの会で語るのはやめようか。

 支店長が転任するのでお別れに花と手紙を届けた。美味しいコーヒーのお礼に.....。
 
 連絡会はぱっとしなかった。

 今日の美味しいもの
とくになし

 今日の懸案事項
ディアドラ、会社の名刺をつくる

 してはいけなかったこと
惣と携帯をめぐって大喧嘩


二百四十三の昼  (2003 10 6)  長女

 朝、本町小のおはなし会、おはなし会で1年生ははじめてなのでわくわくした。3年生でジャックと泥棒からわたしが小さかったときにへ急旋回、急降下しても子どもたちはしっかりついてきたので、今日はいちべいさん、ジャックから一挙にほうすけへと大旋回を試みた。ほうすけが一年生に届くか試したい気持ちもあった。ところが1年生と3年生は違うのだった。

 ついてくる子はしっかり最初から食い入るようについてきたが数人の男子はちょっとひきずってしまった、中盤からしんとしてお話の世界がひとつになったけれど、学年でそうとう差があるのだなぁと思ったことだった。見学のおかあさんが聞いていて心地よかったと何度もいっていた。それはわたしが櫻井先生のおはなしを聞くとき感じるような心地よさなのだろうか、もしそうならわたしもすこしは進化したのだ。それならいいのだけれど。

 銀行にまわったら、支店長さんが移動になってよそへ赴任なさるという。なれたと思うと転任でもうお会いすることもめったにないと思うとさびしい。ずいぶん相談にのっていただき、コーヒーを淹れていただいた。ありがとうございました。

 決算だし、仕事に行かなくてはと思うのだが、つい東武線に乗ってしまう。今日は銀座ゼミがあるのだ。先生がホレおばさんを吉井さんの訳と池田香代子さんの訳で読んでくださった。わたしはホレおばさんは、はずかしながらはじめてである。スプーンおばさんみたいなおはなしかと思ったらシンデレラストーリーであった。わたしは実はこの手のおはなしはあまり好きではない。

 いつだって末娘は美しくって気立てがやさしく働き者である。わたしは長女だし、今は過半数の女は長女なのだから時代錯誤である。聞いていていい気分になれないではないか。わたしはこの話を学校で語るとき、働き者で美しい方を姉娘にしようと思った。池田さんは語り手たちの会の会員だから言いにくいが、訳は吉井さんのほうがわたしは好きだ。池田さんの訳は調子がよいが、調子のよさは両刃の剣である。

 ともあれ一回聞いただけで語れてしまうのは先生の読み方がよいからだと思う。問題は文字から覚えたのと違って、何度も語らないといつしか忘れてしまうことで、わたしは帰りの東武線鈍行でもういちどおさらいをしてみたのだけれど、窓の向こうの薔薇色の雲の美しさに気をとられてハッピーエンドまでたどり着けなかった。

  今日の美味しいもの
かずみさんが農家のおばさんからいただいた枝豆
吉田さんのヨーグルト 木の実のタルト

  今日のしてはいけなかったこと
隣のおにいさんが居眠りをして寄りかかってくるのでつい逃げ出してしまった。武士は相見互い?である。

  今日の出来ちゃった懸案
もう2ヶ月きれっぱなしの洗面所とお風呂場の電球を買ってきた。つけるのはあした。
電車のなかでディアドラがかたちになった。22分かかる。



二百四十二の昼  (2003 10 5)  記念の日

 栃木まで蕎麦を食べに行く約束をしていたのだが、寝坊したのでかずみさんは怒ってしまった。しかたがないからリビングでごろごろしている長男のかたわらで、腕枕を借りて抱き合って寝ていたらなんだかとってもしあわせだった。ケヴィンが顔中嘗め回し、ことに鼻のまわりを念をいれてくれたので息もつけなかった。たとえ犬だとしても愛されるということは幸福である。顔中舐めてくれる男なんてそうそういるものではない。もっともケヴィンは若干の塩分を必要としていただけなのかもしれないが....。
 それからサツマイモをふかして、お風呂にはいる。まりが入浴剤をいれたら....というのでひさしぶりにファムファタル(運命の女)コレクションというのを入れてみる。少なくとも家に5年はあった代物である。が、ファムファタルも年をとればふつうにばあさまである。

 次男が交通事故にあった。本人は無事だったが携帯が跡形もなかった。

 今日してしまったいけないこと;寝坊

 今日の美味しいもの 新米  福岡の鯛の頭 北海道のキンキ どこかのカワハギ 北海道の昆布 地元の野菜がたっぷりはいった鍋


二百四十一の昼  (2003 10 4)  夕映え

 空が澄んできて、毎日それは美しくて車を運転しながら空を見ていると、電柱にぶつかりそうになる。いつもデジカメがそばになくて写せないから、世界でたったひとつの、この日限りの空をわすれないように瞳に焼き付ける。

 今日はASK桜の会の同窓会をかねた発表会の打ち合わせがあった。根回しをしたわたしがどたばたしたせいもあって今日は7人のうち3人集まっただけだった。誰も姿を見せないので赤羽文化センターのロビーをいったりきたりしていたら、最初に先生がそれから新井さんが見えて、ほんとうにうれしかった。

 時間、予算、プログラム、日程がてきぱき決まった。櫻井先生は新作を語られる。「名残の薔薇」からあのひとに会いたい....とても楽しみだ。わたしのディアドラもうまくまとまればドラマティックになるだろう。語りたい終章から文字にしたので、あと序章(そのさだめ)とエピソードを今回はひとつ文字にすればよいのである。つくったおはなしや再話は私の場合、文字にするときはすでに語れる状態になっているのであとは楽である。問題は一度にひとつの物語しか生きられないので、ディアドラにかかっているときは芦刈は考えられないということである。あっという間に11/8の久喜座の「わたしの本棚から朗読と語りのステージ」はきてしまう。

 話が飛んでしまったが、新井さんの去年の木(新美南吉)も実に味わい深かった。櫻井先生が帰られてからもう一度聞かせていただいた。七つの物語....はいい会になりそうである。

 今日残土券が200万円分売れた。北井さんと話をしてなかなかおもしろかった。

 今日できた懸案事項
ASK桜の会の打ち合わせ 芦刈の説明文作成

 今日のしてしまったいけないこと
久喜座の練習をさぼって説明文をつくったこと。

 今日の美味しいもの
和光のカツサンド  (ごちそうさまでした!)


二百四十の昼  (2003 10 3)  HPの力

 あさっての10/5はHPを開いて2周年の記念日だ。よく2年もつづいたものである。これは訪ねてくださるみなさまの後押しがなければ到底 不可能だった。わたしは飽きっぽく、継続が苦手なのだが、HPの摩訶不思議な力でこうして日記が書き続けていられる。奇跡に近いと思う。また書くことで、今自分がどこにいるか知り、以前より早く的確な手を打てるようになった。

 おとといからはじめた 今日できた懸案のことは そのHPの力を借りて、手をつかねているささいなこと、一歩がなぜか踏み出せないことを解決してゆきたいという願いの表れなのだ。ダイエットもできるかもしれないと、今思案中である。

 けれど いっとう 変わったことは 私自身が以前よりずっと ひとを好きになり、あげく自分のこともすきになれたこと、これがHPをはじめて なによりの賜物である。

 今日 できたこと
有給休暇の計算、会社のパソコンのデスクトップの整理、ファイル、フォルダーの名称のルール化。松浦さんにメール
ディアドラの最終章を文字に落とした。

 今日のいけないこと
小切手帳を忘れて東京海上の高橋さんを待たせてしまった。

 今日の美味しいもの
 ベルツのシュークリーム


二百三十九の昼 (2003 10 2)  下弦の月

 午後から仕事。高校に、集金に、行く。帰り道、月が明るい。

  今日 できた 懸案のこと
会社まわりの掃除
A金属さんに報告書
Bさんと話し合って 未収金の一部をいただく
Cさんを訪問して未収金について話し合う
携帯の切り替え(半年前の機種変してそのまま放置していた)

  今日やってしまったいけないこと
ついPCに夢中になって、2:00の約束をわすれてしまった

  今日 食べた美味しいもの
紅鮭ちりめん いわしの刺身

                                                                                         
二百三十八の昼 (2003 10 1)  読み語り

 日付を換えるのに 9月31日と書いてしまった。そうとう重症である。今日は午前中 お客さんと会って 午後は浦和で受付をした。受付のシゴトの第一は笑顔である。口角を上げた笑顔がもっともいい声が出ると刈谷先生は言っていた。そういうわけで受付はフェイストレーニングになるし、それよりなにも考えないで からっぽでいられるから好きである。

 微笑といえば皇室に入られた女性のもっとも大切な訓練のひとつがあの微笑という。しかしなんといっても軍配があがるのは紀宮さまだと思う。紀子さまも雅子さまもはじめのうちのぎこちない笑顔とくらべて、とても自然になられたけれど、紀宮さまはさすが生れ落ちたときからのおひい様である。モナリザや麗子像にも通じるアルカイックスマイル、わたしも最近努力はしているが、すぐに化けの皮は剥がれ、地が出てしまう。

 帰り道TAOでタイの紡ぎのコートドレスを買った。それから須原屋で絵本をニ冊買った。魔法の夜は翻訳に難、彼とか、老人ということばがでてきて 馴染まない。おじいさんに言い換えていいだろうか。じつは今日は読み聞かせ講習会の5日連続の初日で、魔法の夜はそのためのテキストである。今日は欠席したが 実技で自分の好きな本を読み語りするのだ。これは久喜市の読み聞かせねっと・ウィングの主催する講習会で講師は見識を持った方である。わたしはこの方の読み聞かせはとても好き、清潔感がある。情感を押し付けないでそのまま聞き手にわたしてくれる。わたしはこの会のメンバーであるが標榜している読み語りというのがいまいちよくわからない。語りに手をそめているからもあるけれど、メンバーの読みを聞いた限りでは、とくに読み語りという必要があるとは思えなかった。さぁ、それで 読み語り?をしてみよう....じゃないかと応募したのでした。

 受付をしながらディアドラの歌ができた。伊勢丹のアクセサリ売り場でアンティークのアクセサリをあれこれつけてみる。古い意匠の細かな細工が気にいったセットが二点。が、高い4万円はちと大金である。

 舞台で語るとき、衣装はそれなりの意味を持つのである。衣装が目立ってはいけないが、自分自身がそのものがたりのなかにはいりやすくなる。たぶん聞き手もそうではないかと思う。となるとお姫さまものはたいへんである。レースのカーテンをはずして巻きつけるわけにもいかないし、むしろ中世の吟遊詩人ぽく、しかし彼らは実にど派手であった。この衣装で悩むのも楽しみのひとつなんである。

 今日 できた 懸案事項
日産緑樹さんに会った
絵本「魔法の夜」を買った
眼鏡を修繕に出した。伊勢丹の金鴎堂?さんはぺっしゃんこにつぶれた眼鏡をみて悲しそうだったが、きれいに直してくれた。

 今日 やってしまったいけないこと
駅のベンチでチーズタルトを食べた。
受付のあいまに こっそり モスのカフェラテを飲んでいた.....

 今日 食べた美味しいもの
金沢・別所文玉堂のかすていら:抹茶栗入り ムースみたい
モスの豆腐花 上にくずがかかっている



二百三十七の昼 (2003 9 30)  手紙

 みささんと小出さんに手紙を書いてポストに投函したら、手紙といっしょになにかがストンとポストのなかに落ちた。

 今日は老人センターに行く日、朝から落ち着かず、直前までなにを語るか決まらない。横浜の幽霊譚からはじまって、いちべいさん、三人の王子の日本版、マーガレットさんの空を持ち上げる話、つつじの娘、あとなにかひとつ語った。戦争の思い出話になって、慰問袋にいただきもののらくだの下着をいれたら、先生にいやみをいわれた話、しかし、自分にだけ中尉さんからお礼の手紙をもらったので返事を出そうとしたら親に止められた話、また小学5年のとき。MOTIDAとノートにローマ字で名前を書いたら、親といっしょに呼び出され、非国民と言われた話などお年寄りが語られておもしろかった。人数が少ない方が和気藹々としていいような気がする。ちゃくちゃくと望みの方向にすすんでいる。除堀のデイケアにも頼まれた。

 末日の連絡会、カッター売り上げ、利益ともにクリアー、ライン目標を200万上回る。標識は×。建築はかろうじて、運搬はクリアー、しかし土木が1380万のところその半分だった。元請の都合によるものがほとんどだが、シゴトの着工が遅れたりして目標に達しないときは、早めに手を打たなければならない。

 安全衛生会議を招集、安全大会の日程を決める。仕事はきついが確かに生きている感じがする。困難な道に立ち向かうとき、風に向かって歩いているような爽快な感じがする。

 今日はまりのおねだりでビッグボーイにランチを食べに行った。このごろいっしょにいる時間が多いせいか 機嫌がいい。なにか入力のシゴトでもない?...と聞かれたがあいにくなにもなかった。ちょっと落ち着いたらいっしょにジムに行こうと思う。

 TOPページをようやく換えた。まだ途中だが、とりあえずほっとした。


二百三十六の昼 (2003 9 29)  月曜日

 まりがおかあさん、公園に行こう。..と言う。自分から言い出すなんてめったにないことなので、会社にも銀座ゼミにも行かず、娘たちとケヴィンと菖蒲公園に行く。足も背も重く引きずるように歩く。途中銀行に寄る。借り換えの融資の話はパタパタとあっけなく決まり、明日実行というが、なんとなく憂鬱だ。この憂鬱な気分は分析しないでそのまましまっておこう。

 メタセコイヤが大木になっていた。この公園は子どもたちが赤子のころから、よく連れてきていた。すこし離れたところにまだ若い父と母がバギーをかたわらに坐っていた。わたしたちもシート替わりに水色の夏掛けをひいて、持ってきた青いみかんや水のボトルをならべた。青と白のビーチパラソルを持っていったのだが、緑は濃くてパラソルを拡げる必要はなかった。葉陰をわたる風に吹かれてわたしは遠くエヴィン・バッハの野を思った。ふたりが身を隠した森を思った。旋律が浮かんでくる。語ってみる。ディアドラはすぐそこにいて、わたしが手をふれるのを待っている。

 12月の「九つの物語」練習日が決まったので連絡する。九州旅行がまとまったのでUPできてうれしい。デジカメのCFカードを忘れてしまい現地調達できなかった。使い捨てカメラなのであまりきれいにできなかったが、とにかくほっとした。

 
二百三十五の昼 (2003 9 28)  日曜日

 膝がいたくて階段がのぼれない。九州の旅の写真を整理する。
朝までにUPしたいものだ。


二百三十四の昼 (2003 9 27)  ニューヨークの恋人

 夕方まで眠っていた。夕食はお蕎麦を娘がこしらえてくれた。それから久喜座の練習に行ったら、尺八の坂本さんがみえていた。芦刈にあわせて演奏してくださるのである。澤田さんに言われて語ってみたが、半ばまでばらばらのガタガタだった。台本をわたしてあるとやりにくいのである。澤田さんにわたした台本とは相当違っていて、やはりそれを指摘された。刈谷先生に注意されるのはこういうところなのだろう。練習は苦手で本番がいつだって好きだ。わたしは聞き手のみなさんの力を借りて語っている...というのは逃げだろうか。完成したものをひっさげて舞台に上がらないとプロじゃないのかなとふたたび逡巡している。

 帰り、ローソンでチーズケーキ、かきの種、新作のチップス、チョコレートにお水などを買った。レジにいたのは長男の小学、中学時代の友人高島くん、彼は週末ローソンでバイトし、来春東京理科大を卒業する。就職先は国金だそうだ。つまりとびきり真面目な青年なのである。うちの息子はといえば、途中で車から降りて、ひょうひょうと夜の街へ消えていった。

 それからゲオで、わたしは蜘蛛女のキスを娘はニューヨークの恋人などを選んだ。長い夜だ。友人に手紙を書いて、それからディアドラに会いにゆく。


二百三十三の昼 (2003 9 26)  412

 講習が終わってきのう横浜の街を歩いた。石川町からスタジアムの横を通りシルクセンター、県民ホールから山下公園。雨に濡れた歩道の陶器のタイル、懐かしさがこみあげた。街には歴史がある。表情がある。小樽、門司、横浜、一ヶ月のあいだに三つの昔からの港町を歩いたのだけれど、この街には若かったころのわたしの足跡もかすかに漂っていてそれがわたしを胸苦しくさせる。

 わたしは横浜に住んでいた。関内、伊勢崎町、森永ラブ、ポンパドール、有隣堂書店、ジャズ喫茶ダウンビートそしてちぐさ....ここでかずみさんと出遭った。山下公園で屈託を抱きながら会ったこともある。あの日の気分のいろあいや匂いまでも甦ってくる。

 わたしは思わず目を閉じた。ニューグランドにチェックインする。このホテルの315号室にはかってマッカーサーが滞在していたのだ。戦時中にはヒットラー・ユーゲントも滞在していたという。413号室と案内されて、試験の前だし逡巡していたら、ボーイが気を利かせて部屋を換えてくれた。荷物を置いて元町に遊びに出た。ちょうどチャーミングセールで街は女たちで賑わっていた。良い皮のバッグ、30000円くらいのまでオール5000円だったりする。

 昔いきつけだった「グレープ」を見つけて小躍りした。この店はレースや縮緬のドレスの店だった。記憶より思いのほか狭かった。赤いジャケットを買い、ポンパドールでパンをそれからチーズも買って中華街に行く。お粥を食べて、曲がり角のジャズスポット419でちょうどライブがはじまるところだったけれど、明日は試験なのであきらめて帰った。

 すぐに眠ってしまった。3時頃目覚めて、試験勉強をし、ちょうど5時だった。ベッドに横になって地震のせいかシャンデリヤが揺れているのを見るともなく見ていたら、女のひとの声が耳元でした。なにか小鳥がさえずるようにしゃべっている。あっと声を出す間もなく金縛りになった。目は開いている。ドアの方から対角線を描いてベッドの上、わたしが横たわっているうえをぽ〜ん ぽ〜んと白いおおきなゴムのボールがいったりきたり、恐怖で背筋が凍った。金縛りが解かれたのは5時6分、しばらくは立ち上がれなかった。部屋中の電気とテレビをつけて、窓の外が白くなるのを待った。

 向かいのスターホテルの一室からオレンジ色の光が闇に向かって放射されていた。もしあのあかりとカーテンをとおしてちらちら瞬くテレビの青い光が見えなかったら、わたしはドアを出て、終夜営業の店に飛び込んでいたと思う。幾枚か写真を撮ったなかで中庭を写した一枚のすみに、奇妙なものが写っていた。古い旅館やホテルには行き場がなくて漂っている想いのようなものもあるのだろう。


ホテルニューグランド



二百三十二の昼 (2003 9 25) ホテルニューグランド

 あしたは木曜ゼミ、待ちに待った日なのに、わたしは仕事で横浜まで収集運搬の講習に行かなければならない。二日連続の講習、終わったあとテストに合格しないと恥なのである。ホテルニューグランドに宿泊することにした。ちょっと楽しみである。昔長い夜を過ごしたジャズの店はまだあるかしら....というわけで一日おやすみ。
 
二百三十二の昼  (2003 9 24)  頭痛の種

 HPに写真をUP、自室の掃除、連絡会、あすの木曜ゼミの準備澤田さんからの宿題、芦刈をワードで打つ。

二百三十一の昼    (2003 9 23)   益子



茨城 遠く白く見えるのは蕎麦畑

 会社の友人の御母堂の葬儀で益子に行った。かずみさんが急かすのでお数珠も持たないで、でかけた。90分も早くついてしまい、「いまに」で浜田庄司さんの個展を見た。ひとつほしいなと思うのがあったけれど55万円だったので当然買わなかった。おかあさんは89歳、お会いしたことはないのだが、よく漬物や野菜を託してくださった。写真のお顔には風雪に耐えたとも思えぬ穏やかな静謐があって、こんな美しいお顔になられるにはどこをどう歩いてこられたのだろうと涙がでた。帰り、「いまに」でおそばをかずみさんが社員のみなにご馳走した。わたしは山かけ、ほかのひとはかき揚げ、これがからりとお皿からはみ出るくらいの大きさでとてもおいしかったそうな。そういえばほとんどのひとがかき揚げを頼んでいた。かずみさんに夕食をつくってから 娘たちとマックをドライブスルーして公園で食べた。それからカラオケに行って娘たちの労をねぎらった。


二百三十の昼    (2003 9 22) 九州の旅4 別れ


日没前の久住高原

 早く起きて  あっちゃんと朝風呂に行く。露天は絹風呂、ワイン風呂、ハーブ風呂、蒸気風呂、はては冷え性のための....美人になるための....などなど  わたしはプールサイドの浅瀬で横たわって湯に浸かり青い空と雲を眺めていた。ボディの形状を考えにいれなければすれば至福のひとときである。九州は音の感覚が関東よりずっとデリカシィがある。あるかなきかのBGMの音量が耳障りでなく心地よい。選曲もよい。かっちゃんと食事をした西小倉のカウンタのうどん屋さんのジャズも美容室M21のBGMも旋律が主張するのでなく環境音楽のように、わたしたちの五感を支えてくれ、感覚を増幅してくれるような感じがした。

 テンポといい音楽といい関東は旗色が悪いようである。この地には人為的でないひとの内奥に即したリズムがあってとてもリラックスできる。朝食はみんなでゆったりテラスのあるサンサンと...でとった。それからネモさんが明太子と漬物を買い占めて阿蘇山に向けて出発。草千里から山頂をめざしたのだが、ガス規制で上ることはできなかった。

 とのさんは阿蘇の裏側に連れていってくれた。途中すすきの原でとめてもらう。こちら側のすすきは穂が紅い。陽はさんさんと降り注ぎ、風はさわやか、わたしは気がふれて草地に倒れ、空を仰いで横たわる。あっちゃんもつきあってくれた。通る車が訝し気にスピードをおとす。なかには親切に声をかけてくれるひともいる。行き倒れとでも思われているのであろう。ただしあわせだったのである。風が太陽が空が雲が美しくて、すこし離れたところにはこころを通わす友がいて、わたしはラスコーリニコフのように草地に接吻した。

 つぎは水である。白水村、筑後川の源流、こんこんと毎分60トンの水が湧出している。相当の樹齢と思われる杉が緑濃く、水源を護っているようだった。泉は澄んでいた。水底には不思議な緑の苔が微かに揺らめいているようだった。湧き出る水には透明なオパールのような遊色があった。透明な繊細なレース模様のようでもあった。

 山見茶屋、青竹のお燗で若武者組固めのさかずきを交わした。そして組長が振舞ってくれた田楽定食は滋味あふれる山家の素朴な料理だった。いただいてから一路福岡空港へ....離れがたく、名残惜しく、笑い、語り、来年の計画を練り 別れに涙ぐんだ。この四日間のことは終生忘れまいと思う。

写真:とのさん あっちゃん、かっちゃん、ネモさん、luca


 飛行機を降りると冷気がわたしたちを包んだ。出発の日は紛れなく夏だったのに、四日のちの今日はもう秋の色になにもかも染まっている。ネモさんとわたしは大宮行きのリムジンバスに乗った。バスは華やかなイルミネーションの東京の中心地をはずれて、埼玉に向かう。さいたま新都心で高速を円を描いて下りる。未来都市のようだ。さいたまもなかなかじゃないか。ネモさんと別れ重い荷を曳いてホームに下り、滑り込んできた電車に乗る。これは、同じホームを使う高崎線の匂いではなく、たしかに久喜を通る宇都宮線の匂いだ。帰ってきた、ここがわたしの場所なのだ、わが子や会社のひとや地元の子どもたちやお年寄りのために、わたしがささやかな力を尽くせる場所だ。わたしはほっと息を吐いて電車を下り、ゆっくりと歩き出した。


二百二十九の昼  (2003 9 21)九州の旅3 阿蘇

 朝7:00 かっちゃんが淹れてくれたコーヒーをいただいて出発。今日のメンバーはとのさん、かっちゃん、ネモさん、あっちゃん、わたしの5名。福沢諭吉旧居を経て玖珠町へ、童話の里、来留島武彦記念館、かどかどに立っている、一寸法師や金太郎やかぐやひめの石像に別れをつげて、耶馬渓に向かう。とのさんが切り株山の話をしてくれた。オオイタ! 葉形(博多)夜明け村の名前の由来のおはなしである。一望八景それから九酔温泉、秋には紅葉が見事だという。


福沢諭吉・旧居

 昼食は桂茶屋でおろしそばと地鶏そば、黒大豆豆腐をいただいた。ここのスタッフは顔を狸や狐に彩っていて、ことばの終りにかならずぽんとかこんとかつけるのでおもしろかった。「ありがとうぽん」「ごゆっくりこん」 あっちゃんが胃によく利くという飲料用の温泉の水を潰瘍持ちのわたしのために遠くから汲んできてくれた。うれしかった。

 いよいよ久住高原、光に風に靡く一面のすすきの美しかったこと、雲の波、山の波、すすきの波、光の階段が地上に降りてくる。そして大観峯から見た壮大なパノラマ、大地が隆起し 山が火を噴き、溶岩がのたうちうねりながら母なる山の山容を変えていったさまが目に浮かんだ。折りしも阿蘇のお山からは白く噴煙が上がっている。渺々と冷たい風がわたしたちの髪や衣服をはためかせたけれど、マグマと呼応したように躰は熱を帯び、心も熱く震えた。雲の切れ間から日没間際の陽光が煌めく。緑濃い山襞が次第に青みをおびてゆく。名残惜しくわたしたちは宿に向かった。
写真・とのさん


 阿蘇ファームビレッジは300棟以上の離れ屋を持つ。一軒々はまるでモンゴルのパオのように丸いテント状で洋室も和室もある。中は床暖房でバスとサニタリーのユニットが組み込まれているがセンター棟には2000平方メートルの露天風呂を擁す大浴場もある。食堂は3箇所、夕食を食べたワールドキッチンはバイキングだった。レストランのほかにもスナックをうるところ、出前、雀荘、体育館ほどのお土産どころなどがあった。

写真:とのさん I-123号 わたしたちの家

 あっちゃんとわたしは夕食後カラオケに、長老三人はお風呂に行った。


二百二十八の昼 (2003 9 20) 九州の旅2 レークサイト

 ホテルの1階、燦々と光降り注ぐカフェで朝食をとりながらネモさんと昨夜来の会話をつづける。ネモさんのクラスの子どもたちの息遣いが伝わってくる。ネモさんが懐深く 子どもたちの成長を見守り 必要なまさにそのとき 子どもたちの成長の痛みに手を添えているのがはっきりわかって それはわたしをどきどきさせそしてしあわせにする。楓のことは忘れないだろう。

 チェックアウトのあと、ネモさんは観光へ、わたしは美容院へとしばしの別れ....さほどものに動じないネモさんが「るかさん、それは....」といったほど、わたしは手入れのされてない蓬髪、山姥のようだった。フロントに聞いたリバーヲーク前のM21に行く。10時前というのにスタッフは忙しそうに立ち働いていた。辻伸太郎さんという技術者だった。みごとな手さばきでわたしの髪が整えられていく。いい腕だ。前髪をヘナで染める。時間がないのでカットとセットで仕上げてくれた。縦ロールといわれたので内心心配したのだが、クシとドライヤーで伸びきった前髪は立ち上がり緩やかなカーブを描き、ふっくらと見目よく決まった。

 九州にきて、ほかでも感じたのだが、関東よりほんの少しテンポが遅い。シャンプーの手も、マッサージのリズムも....そしてそれがなんとも心地よいのだ。かっちゃんから折りよくTELが入り、私は辻さんに感謝して M21を出た。

 かっちゃんと一年ぶりの再会、ネモさんと合流して大谷池のレイクハウスに向かう。かっちゃんに連れていっていただきお山で発声練習。わたしの声は15分くらい発声で温めなければ艶よく伸びない。櫻井先生と10日振りでお会いし、あっちゃんと鳥取以来の再会。いよいよ始まる。とのさんの挨拶と語り、多田さんの椿地蔵、くみ子さんの花さき山、櫻井さんの三人の王子のはなし、そして第二部、とのさんの手利きの娘、間とテンポの良さで大笑い、そしてそのあとわたしの芦刈.....心配も考える必要もなかった。ものがたりはいのちを持っていて わたしは介添えをするだけでいいのだった。


写真・とのさん

 二年前、四谷ゼミで澤田ふじ子の「遍照の海」を語ろうと試みたことがある。結果は悲惨で、最後まで語ることが出来なかった。そのとき先生に語りの場合、登場人物は三人まで...がよいとコメントをいただいた。芦刈には5人の台詞があるのだが、今日までそのことにさえ気づかなかった。演出もなにもない、ただ、ひとりひとりの想いを乗せて声が迸る。わたしはすこし上方にいて抑制すればいい。11月はこれに尺八を合わせる。照明が入る。背景に月とすすきの原....そのとき イメージは増幅する?  減殺する?



写真・とのさん     櫻井先生

 最後に櫻井先生の梅津忠兵衛の強力、そしてとのさんリクエストのスペインの飛行機の話でなごやかに語りの会は終わった。この日をもって会場のレイクハウスも店を閉じるのだという。終わったあとあっちゃんやこゆみちゃんと話した。ふたりはとのさんの「と〜んと語りのコンサート」を泊り込みで手伝ってくれる頼もしい助っ人だ。あっちゃんは広島大の大学院生、こゆみちゃんは九州大学の学生である。こゆみちゃんは語りをすることに興味を持ったようだ。ところで九大といえば昔九大の全共闘の議長をしてた子がいたっけ、酒がはいると正調五木の子守唄を歌っていた....どうもこの旅は明日と今と過去が意識の裡で渾然としてしまう。

 さて、二台の車に分乗して門司港に向かうが途中、とのさんの車が故障してしまう。かっちゃんの車に乗った4人は小雨けぶる門司港をドライブしかっちゃんの家に向かうことにした。玄関先には苔むした松が数本、石造りの見事な灯篭がある。平屋建て、庭を囲んで回廊式になっている磨きこまれた日本家屋でわたしたちは一様に息を呑んだ。とのさんたちも来て、総勢8人、いつのまにか自然にミニライブが始まった。とのさんのピアノにみな聞き入った。それからかっちゃんがアルディラを歌った、そしてわたしも歌った。

 それからかくれんぼという門司港を見下ろす高台の隠れ屋で会食
、美味しいワインと料理と愉しい会話、芳醇な夜だった。とのさんと先生とかっちゃん、ネモさん、くみこさん、あっちゃん、こゆみちゃんとわたしの小倉の夜だった。







百二十七の昼  (2003 9 19) 九州の旅1 出発

 14:34の天王洲アイル行きの埼京線に乗れなかった。そのまま宇都宮線、京浜線、モノレールを乗り継いで羽田に向かう。モノレールから見る水辺の街並みが美しく わたしは目を離すことができなかった。羽田について すぐネモさんを館内放送で呼び出してもらった。現れたネモさんの顔は少し引きつっていた。

 ANA福岡行き263便の窓から、限りなく広がる雲海が見えた。ところどころに雲の峰が輝いている。たなびく雲は真綿を細くひいたようだ。やがて日は落ちて 雲の波は藍色に染まる。そしてかなたに緋色の光の湖が出現する。忘れ果てていた追憶がひたひたと打ち寄せてきて、わたしをたじろがせる。

 福岡空港から門司港行きの快速に乗る。広架なのでゆったりしている。西小倉の駅前み小倉リーセントホテルはあった。めったにないことだが、眠れなかった。明日の語りが心配だった。羽田までの車中でイメージを行きつ戻りつしてきたのだが、いかんせん 練習不足は否めない。客演ははじめてであったし、とのさんの顔も師櫻井先生の顔もつぶすような語りはできない。

 3時に目覚めた。カーテンをとおして朝の光が白さを増してくるのを、ネモさんの規則正しい寝息を聞きながら、感じていた。


二百二十六の昼    (2003 9 18)  プレゼン

 今日はパワーポイントの講習会だった。パワーポイントはプレゼンテーション作成のソフトである。9:30から15:00まで講習、そのあと、40〜50分かけて自分の会社などのプレゼンを実際につくってみる。わたしは「語りとはなにか?」というタイトルで9枚のスライドをつくった。16名?の受講生のうちふたりがつくった作品でプレゼンをすることになった。はじめは木村さんという労務管理士
さんが労務管理士の仕事についてのプレゼンをした。それから講師の遠山さんに指名されてわたしがすることになった。

 語りの起こり、語りのジャンル 語りの効果 どこでなされているか 現状 問題点 今できること 希望など....「11月の心に響く語りの講座」や久喜座の「朗読と語りの夕べ」の宣伝もした。なかなかおもしろかった。ノートパソコンを持ち込んで、おはなしをしながら 語りについてのプレゼンをするのもおもしろいかなと思った。

 夜 全体会 今年度の方針について 会社の目的はなにか 会社の資産にはなにがあるか その資産を生かすということは 運転日報と機械日報についてのディスカッション

 久喜座例会

 実は今、ネモさんからのメールを見た。なんと出発は明日だったのだ。わたしはてっきり明後日と勘違いして、美容院の予約もあしたの午後だった。さぁ、たいへん!!あしたの仕事を誰に頼もうか!??


二百二十五の昼    (2003 9 17)  峠 

 木曜日が一週間の峠である。あと一日、あと一日とようよう週をを越してゆく。ところが今週は水曜日でくたくた。
 銀行で借入金の一本化をお願いした。他行のも一括してくれるとのこと。住宅ローンも換えることにした。月」40000円安くなる。
 休暇の計算、立て替え金の計算、A金属の中間報告もすみ、今年度予算はあと一息、夜ASKメンバーと12月のことで話し合い。
練習の時間がない。明日はパワーポイントの講習。全体会議。

11月の正式名称は結局 こころに響く語りの講座となった。公民館の中村さんがよくしてくださった。


二百二十四の昼    (2003 9 16)  空飛ぶ鶏!?

 久しぶりに大笑い した。冒頭の詩をお読みになったかたはさぞかし驚かれたでしょう。これからは私をflying chikenと呼んでください。
 今日は給料日だった。アルバイトの男の子たちが8人給料をとりにきた。髪振り乱し すっぴんで給料を手渡した。合間におはなしの森の例会に行く。「フォックス氏」..青髭譚....がおもしろかったので、夜家で娘たちに語った。それから娘たちとケヴィンと夜の散歩にでかけた。半月にあてられたのか いささか 気がふれて たいそう幸せな夜であった。覚書ノートが見つかったので ディアドラの再話をはじめることにしよう。


二百二十三の昼    (2003 9 15)  再び癒し

 先週の語り手たちの会・研究セミナーで片岡講師が言われたことのなかに納得のいかないことがある。「あるべきところになにかが欠如している、それを0にするのが癒しである」と講師は言った。(癒しとは)欠けたところを埋めるそれだけのことだというニュアンスだった。語りが癒しになったとして、そのことにさほど大きな意味はないとでも? かけたところを補って0にしてそこから始まることはささいなことなのだろうか? それでは語りにはそれ以外にいかほどの深い意味があるのだろう なにも無いところからは生まれない。渇きが癒されて、甦りがはじまる。脈々と流れていた水脈が地上に迸ることがある。いのちが新しい光を帯びることがある。

 わたし自身 癒されたから はじめられた、ことばの持つ不思議な力に目覚めたとき、なにかが変わっていった。片岡講師に質問のメールを出したけれど、たぶん答えはかえらないだろうと思う。

 今日は出流神社のかたわらのお店で蕎麦を食べた。さらさら 清流の流れが耳をすませば 聞こえるのに 大音量でスピーカーで演歌を流している。水はお客がコップを借りて外の蛇口(地下水のようだがあまりおいしくなかった)からくんでこなくてはならない。一山越えたいつもの粟野の百川にすればよかったと悔やんだ。帰り 永野に出るとまだ若いすすきがひと恋しげに手まねきする。実った金色の稲穂のかたわらに彼岸花が真っ赤な花を咲かせている。百日紅があざやかだ。あたりの風景に、眼を奪われながらすすむと 栽培許可を得たのだろう 大麻の畑があった。一枚二枚 ハッパをいただいてトリップしたくなってしまった。

 半年前、立ち寄って いい時間を過ごした山添いの草地に行くと 湧き水は涸れ 赤と黒の毛虫が何百何千も草地を蠢いていた。ほうほうのていで逃げた。
 
 空には雲が 秋の雲になろうか 夏の雲でいようか 悩んでいるように 西にはすじ雲 東にはすこしくずれた積乱雲。


二百二十二の昼    (2003 9 14)  飢餓

 末娘がコンビニから帰ってくるのが子どものように待ち遠しかった。二日食べていなかった。水とバニラアイスクリームの美味しかったこと、いけないと知りつつケヴィンにもわけてやった。
 おなかがすいている時 透きとおった感じがしてすき...なのだけれど、本当に餓えているときはそんな酔狂なことは考えられないだろう。

 昔 イランの青年が働きにきたバブル真っ盛りの頃、戦場から戻ったばかりの彼らは精悍な目をしていた。削ぎ落とされたような横顔だった。それから3ヶ月もしないうちに面立ちはすっかり変わった。やわらかになったが、ピンと張った美しいなにかが消えたのである。まして美しい自分の顔を持った日本人は少なくなった。

 わたしが子どもの頃は、年寄りはみなそれぞれ自分の顔を持っていたように思う。今でも東京や大宮の駅近くにいるホームレスの老人の顔のなかに 美しい顔をみつけて驚くことがある。死と生のせめぎあうところに棲んでいるとあんなにきれいな顔になるのだろうか。そうだとすれば、曖昧な顔をしてのうのうと生きていることは幸せなのだろうか。ほんとうにそうだろうか。

 おととい 大宮の駅前のブリッジで会った老人にもう一度会いたい。カーロが年をとったら、あんな顔になるのだろうと思った。

 篠田節子の4つ目の仮面を読んだ。おもしろかった。芦刈をさらってみる。もうすこし 濃やかなひだがあってもいいかもしれない。

二百二十一の昼    (2003 9 13)  ネットの力

 夕べイタクテ眠れなかったが、フラフラしながら刈谷先生のところへ行く。力が出ないので高音が出ない。バラットという新しい曲も通り過ぎてしまう。帰りに病院に寄る。突然携帯がなって娘の同級生のおかあさんが会いたいという。

 近くのマンションに住んでいる世帯のうち3分の1がカビが出て困っているというのだ。わたしが以前、ウラ日記・千の夜にサンクタス.....のことで書いたことを検索したのだという。こちらはウラ日記はリンクからはずしているし、すっかりわすれていたのだがロボット型検索とはある意味で怖ろしいものである。

 それにしても拭いても拭いてもカビが発生するって本当に悲惨だと思う。子どもや病人がいるうちはどんなに心配だろう。高いローンを払う一生の買い物なのだもの、話し合いがすすみますように。

 午後から夜 汗まみれで寝ていた。更紗のスカートも髪の毛のひとすじひとすじも湿気を含んで重い。翌朝、娘が...(前夜 あまり痛がっていたので)おかあさんが死んでいるのではないかと朝、二階へ上るのがこわかった....といっていた。そんな簡単に死ねるものならね....まだやること残ってるし....


二百二十の昼     (2003 9 12)  休暇

 きのうに続いて大塚商会のフェアに行く。今日のセミナーはあまりおもしろくなかった。自社ネタも手前味噌になるといただけない。展示会を見たら建設自慢というのがなかなかよかった。3.4年前既存のソフトをひととおり呼んで見せてもらったのだが、これはというのはなかった。実行→見積もり→日報入力→予算管理の流れができるものはなかったのである。

 ITも進化している。しかし大塚商会の営業支援ソフトがソフトだけで480万とは高い。サーバーとかもろもろ入れたら1000万規模だ、アタマを使って工夫して作ったシステムを生かそう。

 夜 具合がわるくなってダウン。一週間の予定はクリアーしたから 安心したのかもしれない。あすからおやすみ


二百十九の昼     (2003 9 11)  ITの力

 朝 給与の振込み(3日まえに持ち込むと振込みリョウが無料である)に行こうと小切手帳を見たらもう一枚もなかった。計算してあってもなにもならないではないか。仕方がないので16日の当日振り込むことにした。振り込み料5000円はイたいなぁ。

 がっかりしながら杉戸土木事務所にいって3人のおじさまと面談、鶏小屋のことで呼び出しがあったので、こういうときはかっこつけないで足をひきずって、背中はまるめてとつとつとしゃべることにしている。わたしは役者なんだなぁと気づく一瞬である。

 それから大宮のソニックシティで大塚商会のITセミナーに参加する。現在のIT戦略の動向を聞いて、うちの会社に今なにが足りないか確認のためにと思ったのだが、なかなかおもしろかった。大塚商会はソフトやシステムを売りたいので75分のうちラスト20分は自社製品のPRになるのだが、ERP(企業資源計画)とCRM(顧客関係の維持)はそれでもかなり参考になった。

 上場会社には四半期決算が義務つけられたそうだ。刻々と会社を取り巻く環境は変化し。一年前はよくても、一年で傾いたり果てはつぶれてしまったりはふつうの世界になったのである。そのためにリアルタイムで会社の状況を把握しなくてはならないわけだ。

 うちでは日次決算はクリアーした。これは高価なシステムで行っているのではない。大塚商会も今になって、財務、販売、人事給与生産管理の一元化のシステムの必要性を説いているけれど、そんなことは経理の現場ではもう10年も前からわかっていて、二度打ちの手間がなくなればよいねとため息をつきながらも それなりに対応はしてきたのだった。

 では今 うちの会社になにが必要かといえば、営業管理と顧客管理と生産管理であり情報の共有である。営業管理は日報の入力はされているがその情報の集積がまだまったく生かされていない。大塚商会の営業管理システムは人間の魂手間をかけないで営業のプロセスをデータ化してくれるので 帰り展示会場をまわってシステムの画面を見て値段を聞いたら、知らないという。「バナナでもねぎでも値段を知らないで売るひとはいないでしょ」と思わず言ってしまった。

 けれども別にシステムは買わなくても考え方を知りさえすれば、それなりではあるが生かす道はいくらでもあるのだ。語りでもなんでも一言一句同じであるほうがおかしいのでその都度状況のあわせてかえてゆけるものだしそれが自然だと思う。10月は仕事の月にしよう。


二百十八の昼     (2003 9 10) おはなしの力

 今日はおはなしねっとウィングの交流会。17名くらい集まった。会の始まる前に語りの時間をいただいた。なににしようか考えて、おとといの本町小3年1組と同じプログラムにしてみた。”わたしがちいさかったときに”を語ったら....若いおかあさんが泣き出してしまった。そのあとで質問があった。本のことば通り語ったのか? いつも導入に手遊びをいれるのか......など、語りを初めて聞くという方もいて、新鮮だったようだ。

 そのあと、読み聞かせで今困っていることなど話し合っているうちに、子どもたちにうける本はないか.....という話でもりあがり、わたしは思わず(余計なお世話なのに)「みなさんはなぜ、読み聞かせをなさっているのですか?」と問いかけたらいしーんと静まって声もない。わたしはアウシュビッツで生存者の格別多かった部屋におはなしをたくさん知っていたおばあさんがいて毎晩おはなしをしていたという話をして、「おはなしには大きな力があるのだから、心をこめて選書して自信を持って読んであげてください」などと言ってしまった。

 支払い日なので銀行に行き、手続きをすませ会社で人と会い、自宅に戻る。それから長沢行政書士事務所と打ち合わせ。給与計算をして帰ると9:00だった。夜、園長先生から運動会が終わってからおはなしの会をとしてくださいと電話があった。わたしにはもう一箇所行かなければならないところがある。

長い一日だった。


二百十七の昼     (2003 9 9)  粟畑・麦畑


 朝の電話に「こんにちわ!!」と元気よく出たら、研究セミナーのスタッフ末吉さんだった。言いたい放題書かせていただいているので、クレーム!が来たに違いないと思わず「ごめんなさい」と言ってしまったら、末吉さんはけらけら笑った。実はスタッフの方たちも3月の発表会のことで心を痛めていたというのだ。セミナーの仲間たちの「三年間、学んだことを生かして、眼一杯 語りたい伝えたい」という気持ちを汲んでいてくれたのだ。末吉さんの提案は「3月は3月として、秋のテラブレーション(全国で語りの会をひらくこと)を目途に、3つくらいのブロックにわけて、語りの会を開こう、そこで思う存分、語ってください、スタッフもバックアップし参加します」ということだった。雨降って地固まる...かな、第二期研究セミナーはまだまだ続く。

 市立中央幼稚園の園長先生との約束は3:30だった。先生方の休憩室に案内されると、ずらっと10名以上の先生たちが若い方も年を重ねられた方も並んで待っていた。7月のことだった。勇気を出して「こどもたちにおはなしをさせてください」とお願いしたところ、まず先生方に聞かせてくださいというお返事で、つまり今日はオーデションというわけだ。子どものまえとちがってさすがに緊張する。

 最初になぜ語りをはじめたのか、今どのようなことをしているのかおはなしする。(歌の)ろうそくをつけて 「くらぁい、くらい」で驚かせ、ジャックと泥棒で山をのぼり、山をくだり、つぎにきのう先生から聞かせていただいた「めんどりときつね」を語りだしたのだが....めんどりかあさんとひよこたちがとことことことこ、ぴよぴよぴよぴよ山を下る途中で、粟畑がみつからず、麦畑にはいってしまった、ひよこたちは麦の穂をくわえて、きつねと対面した!のだった。
 それから おとな向けのおはなし「芦刈」を語った。
 園長先生も副園長も「来て、子どもたちに語ってください」とおっしゃってくださって、ほっとした。

 夜、連絡会。今年度の予算を各課から提出してもらい検討する。安全施設課だけ通る。あとは今週末までに再提出。営業に単に数字を並べるのでなく、もっと具体的にイメージするよう、たとえ小額でも金額と内容を書いて再提出するよう求める。たとえば土木のどういう工種のシゴトをとりたいのか、お得意さまのどこからどれくらいとりたいのか、公共工事は各市町村のどこからいくらいただきたいのかということだ。曖昧な目標をかかげるのとくっきりしたイメージを持った目標を抱くのではアプローチの仕方が違ってくる。おのずと到達点が違ってくる。


二百十六の昼     (2003 9 8)  つつじの婆

 朝8;00 本町小のお話会 家を出る直前 プログラムが決まった。お話会の歌、ジャックと泥棒、わたしがちいさかったときに、まどみちおさんの詩集から「橋」今日はお手伝いのおかあさんと見学のおかあさんもひとり、わたしがその方の子どもさんのクラスに行ったとき、子どもさんがおはなし会を聞いて感動して.....それで聞きにみえたのだそうだ。教室では先生も子どもたちも定刻前なのに机や椅子をかたづけて坐って待っていた。

 わたしは、もう うれしくて こころが踊りだしそうになって...開いて....語った。子どもたちも歌って びっくりするほど大きな声をして ジャックはどこまでも山を登り山を下り、冒険の旅を続けていった。一転 当時小学校三年の少女が書いた、生々しい原爆の記録、おべんとうにまつわる作文を語る、しんと静まって物音ひとつしない。きらきら輝く目が、比冶山にごろごろ横たわるひとびとを、燃え盛る市街を、似の島に向かう船のなかの少女を見ている...最後にまどみちおさんの詩を読んだ。うたでろうそくの灯を消して子どもたちのこころも鎮めた。

 先生が廊下に送ってくださって、詩をコピーさせてくださいと言われた。先生の眼も聞いてくれたおかあさんの顔も輝いていた。子どもたちの眼差しやこころが押し寄せてきた余韻がまだわたしのなかに木魂していて わたしはうれしいのか泣きたいのかわからない。セミナーより舞台よりわたしは子どもたちのまえで語るのが好きだ。ここがわたしの場所なのだ。

 学年文庫の本の清掃、そして定例会。3年の3クラスを回ったので10,11月は1年生.12、1.2月は6年生を回りたいと思う。家に帰ってしたくをしてサンドイッチを手に電車に飛び乗る。ここから銀座まで距離はどのくらいあるのだろう。月曜だし仕事はたまっているし会社に行くべきだと理性はいうのだが、つつじの娘のように五つ山を越えても行きたいのだ。どうしても行きたいのだ。

 セミナー生もきていた。今日はめんどりとおおかみのはなしを順番に語った。子ども向けのおはなしでは伝承の語り手から聞いた話をポイントと思われる魔法にまつわるエピソードもばっさり切って再話しているとのことだった。先生は比較するために読んでくださった。それから擬音、山梨とりのなかで太郎が沼の主に食われるくだりを擬音を考え順番に語った。これはとてもいい訓練だと思う。ものがたりを文字で覚えていてはぜったいに擬音は浮かばない。青く、しんと静まりかえった沼の面に太郎の影が映ったと思うと、水面下を、ささっーと黒い影がよぎる、その瞬間、ザッバッーンと水面がふたつに割れ、青黒いぬめぬめしたものが踊り出ると太郎を一のみにして再び水に落ちていった。しばらく水面は波立っていたがやがて沼はもとのようにしんと静まり物音ひとつしなくなった。

物語のイメージをそこにいるようにありありと感じることが、聞き手もそのように感じさせるのだとわかったような気がした。五つ、山を越えてきてよかった。

 ところで研究セミナーのスタッフの方々、ごめんなさい、わたしは2月の失敗をすっかりわすれ、またも代弁者になっていました。









二百十五の昼     (2003 9 7)  研究セミナー

 
 セミナーは楽しかった。友人たち、久美ちゃん、村田さん、竹内さん、村山さん、木村さん、小倉さん、菅野さん、小川さんとあときれいどころの三人とおしゃべりをし、スタッフの方々とも屈託なく語り合った。宿題のショートショートはわたしは一部しか聞けなかったが、それぞれ持ち味がでたなかなかのものであったらしい。内容は後日UPするとして、ひとつ残念だったことがある。

 三月の卒業発表のタイトルを”作品を語る”にして、セミナーのなかでなんであれ創作したものがたりを...と今日決まったことは結果としては最良と思う。それはおそらく今回のセミナーの大きなテーマであり、語り手たちの会が高く掲げる「テキストをそのまま語るのではなく、再話をしよう、創作をしよう」という旗印とも重なる。そのように決まったのはショートショートのできが思いのほかよかったということもあったのかもしれない。

 けれども、割り切れない想いが残ったのはひとりふたりではないはずだ。昨夜、「セミナー生の希望を集めた前回の内容では重たいし時間もかかるし聞き手がたまらないだろう」という懸念をスタッフに話した。そして今日、「わたしたちは三月の発表が私たちの三年間の総決算なのか、それとも聞き手を大切にする発表の場なのか明確にしてほしい」とスタッフに尋ねた。答えは当然のように聞き手あっての語りということだった。それでは土日と二日に分けて発表会を持てないかと提案したが、場所がとれないという。時間的にも内容もセミナー生の希望通りにできないことは今日を待つまでもなくわかっていたことではなかったか? 

 おおかたのセミナー生は講師の提案を受け入れた。講師の言われるとおりどこででも自分がしたかった演目はできる。けれど、語り手たちの会の最終発表の場だからこそ本当に自分がしたい語りをという気持ちもよくわかる。すっかりその気にさせておいて、ホテルの前で放りだされたようなものだ。あぁ なんという品のない比喩だろう。

 幾人かのすでに準備を始めていたひとたちは、思い入れが強いだけに、突然演目を換えることになってとまどいがあるだろう。かといって一部の人に認めれば、バランスがとれなくなる。辛いところだ。スタッフには第三回研究セミナーがあるけれど、セミナー生にとって研究セミナーは、三年かけた研究セミナーは一回こっきり、あと半年で終りなのだ。スタッフの方々は忙しい方ばかりだし一生懸命やってくださったことに感謝の気持ちは惜しまないが、前回、これはまだたたき台であると一言あれば、そして2年目の終りにお願いしたようにスタッフとセミナー生が最終発表のさまざまな可能性をたたきあった結果だったらよかったなと、やるせない顔をしていた仲間の顔を思い出して胸が痛むのだ。今後のセミナーに今回のことはしっかり生かしていただきたいと思う。

 語り手たちの会のセミナーの帰り、マリア・カラスのCDを買った。今、聞きながら打っている。身体の芯が震える。名花だった。だれかがオナシスに会うことさえなければ...と書いていたが恋に生きたマリア・カラスだからこそあれだけの表現者であったのだろう。没後四半世紀というのにいまだにオペラのいくつかでマリア・カラスを凌駕する者は出ないと言われる。マリア・カラスは役になりきることができたという。おなじ楽譜で歌っても資質、解釈でどれほどの差ができるのだろう。好みもあるのに多くのひとがこれこそトスカと言うからにはマリア・カラスは多くのひとをそう納得させられた....ということだ。

 前回も書いたしセミナーでも意見を述べたが、セミナーでことばを語り換えるだけでなく、表現による再話をこころみたかった。文学でも松谷みよ子さんの再話でもよい。短い話を全員もしくは数人で語り、それを聞き確認するというようなことをしたら、異なる地平が見えたのではないか、よりはっきり再話の意味が見えたのではないかと今も少しは心残りである。




二百十四の昼     (2003 9 5)  なかなおり

 今日は午前中いっぱいせんたく。中指の甲がうすくなって洗剤がしみるほど、ごしごしせんたくをした。手で洗えるものは手で洗う。3年前リフォームしたとき、洗面所のシンクを四角の白い大型のものに換えた。これは使い勝手がよくてタオルケットや玄関マットさえ洗うことができる。息子のベッドのマットレスのカバーも洗った。頭のなかも真っ白になる。

 仲地さんから具合が悪いというTELがあって、銀行の帰りに寄ってみると足もともおぼつかないようすだった。車で診療所にお連れして送り届けた。会社から息子にTELしてみると 「おかあさん、なにかあったの ?」「どうして? 」「怒っているみたいだから」
「それは、きのう あなたと喧嘩したからよ きのうからずっと機嫌がわるいかもしれない」「ぼく、もう遅刻しないで学校に行くよ」....涙ぐんでしまった。よかった.....なかなおりできて。怒りはパワーになるけれど、仕事ははかどるけれど、とても疲れる。夜ごとの更新もできないくらいに疲れる。しあわせな気分にもなれない。

 わたしは、ほんとうは...息子の放ったことばのように 自分の家庭をすこし変わっているのじゃないか...と思ったことがある。いや いまでもすこし そう思っている。語りに踏み込んでいったこともその苦痛から逃れたいという想いが ひそかな伏線になっていたような気がする。会社の仕事からは逃れようがなかった。どんなに辛くても、会社を護り、育てるのが わたしの役目だと心の奥底でわかっていたから。けれども、子どもはわたしのからだの一部だった。子どもの痛みはわたし自身の痛みとなって、わたしの内奥のやはらかなところを侵食した。わたしはどうしたらよいかわからなかった。子どもたちがひとりひとり、自分のかけがえのなさを知り、自分を愛し、ひとを愛し、ひとりで歩いてゆくのを見届けるまで....と思っていたけれど、わたしでさえ、この世の仕組の一端を垣間見て、自分がなにをなせばよいか気づいたのは五十の坂を越えてからのことだった。ひととてらいなく話し、友人のひとりひとりと心の垣根を越えて語れるようになったのは、人生は美しいと思えるようになったのはごく最近のことなのだった。

 若い頃の身をさいなむ自分へのいらだち 自信のなさからくる劣等感と優越感のないまぜになった不安定な心情、友人のことばに一喜一憂し 谷底から天空までジェットコースターのようにめまぐるしく変わる制御できない心のありようはまだ忘れてはいない。それを覚えているがゆえに、そこから悩み 傷つきながら階段を上ってきたという自負があるゆえに、傷つくのを厭う子どもがもどかしかった。とびらをあけて、自分の可能性を試そうとしない子どもをどこかで赦していなかったのかもしれない。

 「あなたは大きな鳥のように羽を広げ、その翼のしたに子どもたちをかいこんでいる。だから居心地がよくてあなたのそばから離れられないのよ」とらこが看破したのは、私自身が夢にも思わなかったわたしの一面だった。母は厳しいひとだったし、わたしは長女だったから、「しなくてはならないこと」はたくさんあったけれど、家庭のぬくもりは記憶にない。中学生のころまでは なぜかはわからないけれど 自分の家のなにか足りないものを姉として弟妹のために補おうとしていた記憶がある。

 海辺で、すべなくくずれようとする砂山のくずれを砂をあつめてはぺたぺたと掌でかためようとするように、足りないものをなにかで埋め合わせようと知らず知らずひとはしてしまうのかも知れない。わたしの母親としての育て方が間違っていたのだろうか。それを知ることはわたしにとって自分を裁かねばならぬことだった。

 「子どもがおかあさんは語り以前と語り以後ではぜんぜん違うというのよ」電話の向こうで竹内さんはそんなことを言った。確かにそうなのだろう。A.CとB.Cでは世界が変わってしまったようにわたしにとっても語りとであったあとでは自身のありようがドラマティックに変わってしまった。物語を身の裡から語るということはものがたりを生きることだった。ながいながい間途切れることなく流れ続けてきた人類の記憶に触れることであり、その流れが自分のなかにもひそやかに流れていたことを知ることだった。ひとにはそれぞれの道があり、ゆっくり歩いても走ってもたどり着くことはできるのだと気づくことだった。

 わたしは自分に言い聞かせる。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ.....


二百十三の昼     (2003 9 4)    喧嘩

 朝、シャンプーのことで息子と喧嘩。我が家では健康と環境のために、せっけんシャンプーを使っているのだが それがいやだというそんなささいなことから「この家はおかしいよ」と息子が言い出しわたしは切れた。それはわたしにとってとてもデリケートな問題だったのだ。
 怒りにまかせて、息子を部屋から追い出し大掃除、なんというちらかりよう!!アドレナリン噴出で膝のことなどすっかり忘ればたばた掃除をしていたら、友人の竹内さんからTEL...銀座ゼミや宿題のこと、語りについての話題で盛り上がって1時間たった。怒りがおさまると疲れがどっと出る。掃除の途中で階段に座り込んでしまった。火事場の馬鹿力とはそんなものだが部屋はまっさら、きれいになった。

 会社に走る。会計事務所で確認すると案の定、インストールしたはずなのに賞与の社会保険改定のプログラムがはいっていない。時刻は一時をまわった。もう間に合わない。手計算でしなおして銀行に付いたのがジャスト3時。夕食の買い物会社の買い物をして家に帰り封筒と明細を打ってプリントアウト、袋詰めをして会社に着いたのが会議がはじまるジャスト6:30。
 少しばかりだが、期末手当を出すことができた。みんながんばって3000万売り上げをあげた、その約束である。これは日次の累計だから実際の損益とは変わってくるが、今のところ予測よりはかなり利益が少なかった。みんなの意識を単なる売り上げから予定利益の確保へ今年は切り替えていきたい。

 全体会、役員会のあと、久喜座の例会に行く。あと二ヶ月、お客様のこころに残る語りと朗読、胸を張って時間とお金をいただける会をひらくことができますように。

 
おまけ

 あり得べからざる空を見て思ったこと。
わたしはものがたりを伝えたいのではなく、古くて、新しいもの、善きもの、美しきもの、たゆとうもの、信じがたいが厳然としてあるものを伝えたいのだった。
 おはなしを伝えたいのではなく、語ることのよろこびを、語ることそのものを伝えたいのだった。そうしてそのために鼓舞し自分を奮い立たせようとしているのだった。とても難しそうだが、足を引きずりながら、ぼつぼつと さて 行こう、見回せば ひとりではなく あちらにも こちらにも 手を振るひとがいる。



二百十三の昼     (2003 9 3)    おいしい水

 このごろ、水を一日に1リットル飲むようにしている。取引先のBさんに「おかあさんはお元気ですか?」と聞いたら、脳溢血で倒れられたとのこと....「おふくろは野菜と魚を少ししか食べないんだよ、脳溢血になるわけはないんだ。原因はなんだと思う??」とBさんが教えてくれたその答は、おかあさんが水をほとんど飲まなかったために血液が濃くなってしまったから....というのであった。コレステロール値が高いわたしも実はほとんど水を飲まない。それであわてて、1リットルということになったのだ。

 飲み始めると、味が気になるようになった。外出しているときはボルヴィックにしている。軟水でとってもナチュラルな味である。大きなペットボトルでは四万十川と安曇野の水が美味しかった。それまでただの水を買うことに抵抗があったのに、水を飲むようになってからは緑茶やウーロン茶、またスポドリなどに手が出なくなった。水が一番美味しいことに気づいたのである。もっとも昔は浦和も久喜も潤沢な地下水を汲み上げて水道水にしていたので、蛇口からごくごく飲む水はペットボトルの水に匹敵するくらい美味しかったはずである。

 今日、ボルヴィックをバッグに出かけた先は浦和のワシントンホテル12Fの椿山荘だった。11月の講座などで公民館や市役所や幼稚園を走り回り、約束の時間をずらしてもらって12時半。とらことひさしぶりにデートである。8ヶ月前に就職祝にご馳走する約束をしたのを今日果たすことになったのだ。

 とらこはわたしのことを失礼にもやまねこというのである。とらこは腰を痛めて片足を引きずり、わたしは膝が痛くて片足をひきずり、二匹の老猫は浦和の町をとぼとぼ歩いた。威勢がないことおびただしい。けれども口の方は衰えを知らずますます毒舌に磨きがかかりふたりは窓から浦和の町を見下ろすヒマもあればこそ、ご馳走を食しながら、速射砲のように会話を続けたのだった。

 五穀飯と大根もちと湯葉が美味だった。結局、刺身より天婦羅より、穀類と野菜が舌に馴染む年齢になった。もともとそういうものを先祖は食べていたのだろうから元還りなのだろう。

 わたしはとらこの潔さがすきである。マルタ猫のようにチェシャ猫のようにあたりを睥睨するその貫禄、毒舌を吐きながら、やることはひとの3倍くらいきっちりとする。駄目だと思ったら未練なくあっさりオサラバする度胸のよさが好きである。私の場合、一度は見捨てても、そっと戻って様子を見、とどのつまり わかっていてももう一度面倒を見る....ぬぐいがたい愚かしさが捨てきれない。すなわち悪女の深情けなんである。

 帰り、桜草通りの新しいファーストキッチンでもう一度お茶のみをして、さて雷鳴。飛び込んだ伊勢丹の地下では突然停電となった。レジも止まるありさまで、雨の中を駅に向かって走り出した私の目に映ったのは息を呑む空の色だった。西の空を彩るのは朱金色とベネチアの空色そして灰薔薇色。駅舎から東を望めば緋色と紫....世の終末を思わせる空の色 切り裂く稲妻の白光....あんな空は見たことがない。カメラを置いてきたのが残念でならなかった。

 夜 娘がつくってくれた葱の味噌汁、葱は近くの農家でいただいた新鮮なもの...とかずみさんが丹精した枝豆を大皿山盛りにして、あとはきはだマグロと五黒豆腐に包丁を入れ、プチトマトを洗い、山葵と野沢菜の漬物の封を切るだけの手抜きもとい手間いらずの夕餉を久しぶりに家族六人で囲んだ。



二百十三の昼     (2003 9 2)  山

 トムの会、12月の発表会に向けての打ち合わせに行った。熱っぽくてボウっとしていた。つつじの娘を語った。メンバーの語りを聞いていて前には気づかなかったことが見えた。語り手とおはなしの距離感である。外側にあるか、内側にあるか、語るひとによってはものがたりは媒体である。またある場合、道具に近い。表現というのは実に奥が深い。外からものがたりを客観的に見ていて、かつものがたりは語り手の内奥と蜜実一体になり、なお交霊しているという感じがある。わたしであってわたしでなく、樹であり空であり男たちであり女たちであり則であり、なにかの気配である。発表会ではディアドラかつつじの娘を語ることになりそうだ。わたしが語るとき空気が変わるという方がいてそういえば語り手によって、たしかにそう感じるときがあると思った。

 杉原さんはさっそくくらーいくらいをお家でしてみたそうである。そうしたらお子さんがたいそう喜んで語るようになったというおはなしを聞いて、あぁ、そうだ、それこそがわたしの望みだと思った。キング牧師が「わたしには、夢がある.....」といわれたようにわたしにもささやかな夢がある。遠く山の稜線の一本の杉の木のように目印にして歩いてゆこう。

 昼過ぎ、いつになくかずみさんのベッドで横になっていたら眠ってしまった。あわてて事務所でお客さんと打ち合わせ、そのあと連絡会。8月の売り上げは3087万円だった。目標は達成した。月半ばでは不可能と思われた目標だったが、達成しようという思いが集まるとそうなってしまうのは、ほんとうに不思議だ。l


二百十二の昼     (2003 9 1) タブロイド

 電車に乗って、文庫本の一冊も持っていないと 時間をもてあますことがある。そんなときは隣のおじさんのタブロイド紙とか見出しだけでも眺めるのだが、ひとは視線に意外と敏感で すぐ気づいてただ見をさせてなるものかといったようすでこちらをじっと見る。30代くらいまでなら、そのまま目を伏せたのだが、最近はずうずうしく見続けることにしている。

 今日、目に留まったのはこんな見出しだ。「なぜ、人間は秋に子どもをつくるか!?」ちょっと刺激的なタイトルである。さっそく指折り数えてみる。うちの場合は4人とも春から夏の受胎であった。なんだかほっとした。それってとても自然な成り行き、春ならちょっともやもやした気分になって子孫繁栄を願っても罪にはならない感じがするではないか。

 人間は発情期が無い動物である。しかし近年明治時代と比較して男子の精子は半減したそうな.....人口が減るのもむべなるかなである。この原因は諸説あるが、わたしは合成女性ホルモンを飼料へ添加したり野菜果物へ与えることが大きな原因のひとつではないかと勝手に考えている。福島のいなかで農家のおばちゃんに聞いたら、「トマトでもなんでも大きくなるからなんにでも使っているよ」といっていた。

 スイカなどの果物も甘くなるし、かって黒人暴動が盛りのころ、アメリカが牛に女性ホルモンを投与することによって、黒人暴動が起こらないようにした話がある。つまり女性化してしまうのだ。とするとおかまやホモが増えたような気がするのはその結果かしら。.....といってもわたしはおかまを摂理に反する反社会的行為などとは、金輪際考えていない。おかまには二種類ある。すなわちきれいなおかまと汚いおかま....ごめんなんさい。....でもおもしろいのは圧倒的にきたない方である。その話術のすごさといったら半端じゃない。3分間に一回は笑いすぎてひきつけを起こすほどだ。
 
 横浜の南太田に住んでいたころ、近くに帯子さんというおかまがいた。名前は当時流行っていた渡辺淳一の小説から拝借したらしい。身長は有に180センチはあってそれがピンヒールを履いているのだから見上げるばかりの大女。長い顔はウマのようで真っ赤な口紅はいつもはみ出していた。彼女とは近所のスナック昼間よく会った。なにを話したがよく覚えていないが、おなかがイタクなるほど笑った。

 さて銀座ゼミはいよいよメンバー5人となり、それが実に個性的でおもろいのである。わたしは頭痛で 1時間遅れていったのだが、まずまどみちおの詩を朗読した。それがそれぞれの個性がでていて おもしろくて興奮した。相原さんとわたしは学校などで語りをしているが、佐山さんともうひと方は初心者である。それが[カンチルと巨人]を先生が語られるのを一度聞いただけで、もう語っている。先生のカンチルは換骨奪胎して、先生のオリジナルみたいだ。小鹿のカンチルと大男のやりとりがおもしろくてけらけら笑ってしまった。わたしたちのはたまに脱線したが、それもご愛嬌で楽しかった。

 正直のところ、10年20年の語り手さんの語りより初心者さんのほうがおもしろかったりする。こういうものだという先入観がないからだ。櫻井先生も教えることを心から楽しんでいらっしゃって、それがわたしたちにも伝わってくる。ASKのときより四谷ゼミよりセミナーより楽しい。先生のこの教え方なら、みな すぐに語れるようになるだろう。

 庄司さんからTELがあり、木曜ゼミ10人集まったとのこと、とても楽しみである。8日本町小のおはなし会があることをすっかり忘れていた。そのあとの連絡会で11月のチラシを配るつもりである。今回はいつもに似ず段取りが早い。

 夜、橋本さんからTEL、明日のトムの会例会について、わたしが忘れていると困ると心配してTELをくれたのだ。庄司さんや橋本さんにわたしも支えられている。帯子さんほどじゃなくてもいいからひとを話術で笑わせられるようになりたい。浮世の憂さを忘れるほどみんなを笑わせたい。


二百十一の昼     (2003 8 31)  締め切り

 今日は締め切りの日だった。夕べは胃が痛くて風邪をひいてのども痛く、なにもしないで前後不覚で寝てしまった。今日、あくせく必死で仕上げたのだが、郵便局の窓口がしまってしまい今日の消印には間に合わなかった。たぶんだめだと思う。30年も前、小学館漫画賞に応募したことを思い出した。友人と合作でやはり締め切りに間に合わなくて母の知り合いで小学館に勤めているひとに頼んだのだ。結果は佳作にも入らなかった。そのとき受賞したのは波間信子さんである。小学館漫画賞は歴史がある。第一回の受賞者は里中真知子さん、次点が死の谷の青池保子さん、それからエリノアの谷口さんも忘れがたい。

 幼稚園の岸本園長とTELで打ち合わせした。先生は母の友人のひとりで「あれほど、心のきれいなひとはいない」と母に言わしめた方である。9/8 幼稚園で実際に先生方の前で語りをさせていただくことになった。先生はやはらかな口調で、要所要所をきっぱり押さえる、さすが長年小学校の校長をなさっただけのことはある。語り手たちの会、語りとはなにか 及ばぬながら 一生懸命おはなししたが内心冷や汗ものだった。途中で これは中途半端なものはもってゆけない....と覚悟をした。10日のねっとうぃんぐの連絡会といい、いよいよ正念場である。

 うちのこどもたちはこれから宿題をするらしい。どうやらわたしの手もあてにしているらしい。わたしの学生時代も8月31日から1日の朝までが勝負であったが、親の手までは借りなかった。子孫は確実に退化している。
 
二百十一の昼     (2003 8 30) 窓

 ばんざ〜い!! やっと塗装工事が終わった。これで明日からふとんがほせる、洗濯物が、下着がブラがみいんな干せる。窓を開けて風をとおして、大きな声で歌が歌える。
 外壁がつやつや、午後の光を反射していた。垣根や庭にも手を入れ外側がきれいになったので、さぁ、今度は内側をきれいにしなくては.....中に住んでいる住人もきれいに清潔にしなくては.....

 橋本さん、社労士の関口さん いすゞの営業さん みんな、わたしのひざと口には出さないが体重の増加を心配してくれている。橋本さんはエナジートロンに誘ってくれる、関口さんは菖蒲の市民プールの案内書を持ってきてくれた。さんはジムのメニューのこなし方を教えてくれた。わたしも肉体改造計画にとりかかろう。

 おはなしねっとの八木原さんからTEL、会の冒頭15分時間をくださるという。さぁ、どうしよう、語りについての話、それより実際に語る、どっちがいいだろう。

 8月決算なので今日で平成15年度の仕事は終わる。8月は3000万の売り上げ目標を立て、みんなにハッパをかけたが、今日集計したところ、2989万だった。あともう一歩、追加工事の金額が決まり、計上できればよいのだが....


二百十の昼     (2003 8 29)  語る

 老人センター、デイケアアエンターから語りの依頼があった。幼稚園からも....。9/6 研究セミナーで...9/9 L幼稚園で....9/10 おはなしねっとウィングの連絡会で....21日は櫻井先生やとのさんと小倉で...小倉って福岡だよね..? 18日.30日は高齢者の方々と....そして児童センターや小学校で、語る場をいただいた。3年前は語りをするとて、その場所さえなかった。語らせていただく喜び、聞いていただくしあわせ、その場所にいるのは生身を持つ聞き手だけではない。ことばはときに軽い。けれどもことばは魂のとびらをひらく。交流する。つかのまだけれど、ずっと忘れていた永久(とわ)が甦る。わたしはひとりでなく、ひとはひとりではなく 置き去りにされた孤独な生き物などではなく、赦されてそこにいる。愛のうちにいる。


二百十の昼     (2003 8 28)  支笏湖

 8時頃朝食、きのうの轍を踏まないよう、パンケーキにヨーグルト、フルーツ、グレープフルーツジュースでおしまいにする。そなえつけのスケールで計ったところ2.5キロも増えていたのだ。

 支笏湖に行ったが、霧雨で風不死山も恵庭岳も見えなかった。遊覧船はあきらめて、雨のなかを散策していると、甘く花が香った。和人が殖民してたかだか200年、豊かな北の大地はアイヌ民族のものであったが、彼らはインディアンのように、アボリジニのように居留地に囲い込まれ簒奪され、すべてを失った。もっとも過酷にそれをしたのは日本政府ではなかったか。言葉を失ったら民族としてのアイデンティティーは消えていくしかない。観光向けの美術品に片鱗を残すのみである。先住民族は生きてゆくのに必要以上の獲物を大自然からとることはない。なぜなら、樹に生き物に精霊が宿っていることを知り、畏れを知るからである。しかし他者から奪うことをよしとするものは自然からも奪いつくそうとする。日本人の心の原点でもあるヤマトタケルが闘ったのがクマソ(アイヌ)であったことは象徴的である。

  北海道にこどもの姿は少ない。旅行者は別として町を歩くひとかげは圧倒的に中高年が多いと感じるのはわたしだけだろうか。12年前、キャンピングカーで道南、道東をまわった時、わたしは櫛の歯が抜けたようなわびしい商店街に驚き、遺棄された民家、耕すことを放棄された畑が訴えかけるものにおそれをなした。けれども、今わたしの住む町も隣の町も商店街は半ば死んでいる。農地は消える一方だ。大手ス−パー、コンビニと大手家電量販店、ファミレスとハンバーガーショップばかりが熾烈な戦いをつづけ、かって私の町で20軒以上も個性を競っていた喫茶店、町の電気やさん、食堂、文房具や、懐かしい小さな店はほとんどない。大資本の寡占化がはじまっている。小さな店が生き残るには、値段だけではない創意が必要である。しかしそれは、ほとんど勝ち目のない戦いなのだ。

 世の中はこれから激変するだろう。農業にしてもそう遠くない時期に、大法人による集約的農業経営が始まるのではないかと思う。ちいさなものや異端が大切にされない文明はどうなるのだろう。子どもがいない文明に明日はない。若い両親が子どもを愛しんで育てることに希望を持てない国に明日はない。こどもたちが自分たちの明るい未来を信じられない国に明日はない。日本はこれからどうなるのだろう。北海道の今日が本州の明日につながるとしたら、どうであろうか。自分はこの世から消え去るにしても、ひとは後を継いでくれるものにたいして責任がある。残さなければならないものがある。たとえ世の中が変わっても、連綿とつないでゆかなければならないものがある。生のあたたかい言葉で手渡してゆかなければならないことがあるのだ。そして同じように水や空気、大地をじぶんたちの今の豊かな暮らしのために汚さないようにして手渡さなければならない。

  かずみさんとまた一所懸命稼いで遊びに行こうねと約束した。今度はカシオペアでゆっくり旅がしたいねと話した。子どもたちも大きくなる。つぎはもう夫婦ふたりだけだろう。三日間 一緒にいると実に性格がよくわかる。かずみさんはこれと決めると後は見ない。わたしは熟考はするが、決めるときはひらめきである。とんでもない取り合わせでここまでよくこられたものである。わたしはかずみさんと遭えてしあわせだったなぁと心から思う。一生懸命仕事をしよう。合間に子どもたちに語り続けよう、残しそして伝えよう。忘れてはならない、たいせつなことを。

  


二百九の昼     (2003 8 27)  小樽

 朝食をたっぷり食べて、小樽へ向かう。ちかごろリゾートホテルは旅館とオーバーラップしてきて、アメリカンブレックファーストどころか朝食はバイキング.....のところが多い。和食、洋食、それもトースト、ペストリー、ホットケーキにシリアルと種類が多い。トレイを持って歩いているうち目移りはするは、欲はかくはで、梅干、味噌汁、おかゆ、スクランブルエッグ、ペストリー それにフルーツにジャガバタ、コーヒー、というおかしな取り合わせになってしまった。

 小樽はたいへんな賑わいであった。観光タクシーに声をかけられて、(息子はひっかかったというのだが)あちこち案内してもらった。岬から眺める日本海の青が目に沁みた。総金張りの襖の青山別邸、ヤン衆の暮らした家、遊郭、日本郵船、造り酒屋、オルゴール屋、ガラス工房、手宮の古代壁画などなど、小樽はいっとき日本中の富を一人占めにしたような街だった。実は鉄道が産業のために敷かれた最初の場所である。薩摩切子、沖縄ガラスとならんで日本のガラス工芸の原点でもある。栄華と没落、朱と金に彩られた夕焼けの街だ。そして今は中国製の安ピカ土産品がおもちゃ箱からこぼれたように店からあふれている街だ。古いものと新しいもの、手づくりの本物と量産品が渾然となっている魅力的な街。見て歩くのに三日はほしいところだ。

 最後に美味しいという寿司屋に案内してもらう。わたしはあこがれのてんこ盛りの雲丹丼をいただいた。家のほうで買うことのできる雲丹は崩れないようにか薬品がつかわれていて少し苦いのだが、さすが北海道の雲丹は口に含むと甘みがふわっとひろがる。それからふらりふらり、ソフトクリームを食べたり、濡れせんべを食べたり、途中、馬をみつけて写真を撮らせてもらった。そのときことばを交わした青年がランドリーの窪塚くんだと息子はいうのだが、ほんとかしら?

 札幌に戻り、ルネッサンスホテルにチェックイン。こんなことは生涯あるまいと思うのだが、部屋はジュニアスィートである。最上階の一番奥で三間つづき。リビングは我が家の四つ分。一部屋に7つのスタンドがやはらかな暖色の光を放っている。ちいさなキッチン、大きな冷蔵庫もついている。夕食はルームサービスをたのむ。浴室は総大理石、バスタブはアメリカンスタンダードでかなり大きくジャグジーもついている。BGMを聞きながらお風呂につかって何も考えない....これほどのしあわせはない。


二百八の昼     (2003 8 26)  旅

 早朝、車で羽田へ、車を預けて空港に入ったが、早く着きすぎてしまった。昨夜は一睡もしないで準備をしていたので、機内ではほとんど寝ていた。新千歳空港は曇っていて肌寒い。レンタカーを借りて、カーナビを頼りに出発する。

 北海道はもう秋の気配だ。街路樹のななかまどの実も葉の一部も燃え立つような紅色に染まっている。コスモスも風に揺れている。街なみはひっそりと人気がない。ナビがワンテンポ遅れているので、曲がる角をいつも通り過ぎてしまう。道路がなくなったりしたせいで、途中立ち寄ろうとした開拓村?も二条市場もたどり着けないまま、寿司やで昼食をとって、ホテル・モントレーにチェックイン。英国風の落ち着いた調度、エレベーターは映画に出てくるように古めかしい味わいがある。

 ドアを開けると中にふたつドアがありふたつの部屋に分かれている。片方のベッドルームは天蓋つきで娘は大騒ぎ。ソファでうたた寝して目が覚めたら夜だった。華蘭亭で夕食、会席料理,雲丹の寄せものが美味しかった。11時前、近くのエーデルホフ札幌まででかける。モントレーとは系列でこちらはウィーン風、14Fに天然スパがある。スパでのんびりして、あとはカメラの勉強。

 3年の間、キャノンのパワーショット10を愛用したのだが、昨日とうとう次の機種を買ってしまった。ニコンかフジのクールピクスかパワーショットG5か迷ったのだが、使いかってを知っているパワーショットの上位機種G5にした。HP用なら100万画素でも充分だし、露光などもどうでもいいのだが、ちらしなどDTPをつくるには、物足りないのである。もうひとつ画質がゆたかな感じがした。ソニーなどはグラビア的というかきれいなのだがいろあいに深みがたりないような気がした。夜中カメラを手に出たり入ったりしてホテル内を写してみた。結果は....? あとでUPするので見てください。


二百七の昼     (2003 8 25)  無一物

 23日の晩、母のところで泊まった。ひとしきり話したあと80近い母が床をとってくれた。横になっているとうしろで母が仕事をしている、坂東まり子さん応援の依頼を書いている。あぁこんなこと昔もあった.....おかあさんは夜なべによく仕事をしたっけ。電灯がまぶしかったっけ。とても懐かしい安心した気分ですぐに眠りに落ちていった。

 母の部屋は老人の部屋のようだ。手をのばせばなんでもとれる。洋服類は鴨居にハンガーで10枚はさがっている。タオルの干し方もむかしはキチンとスミをのばしてほしていたのにさいきんはちょっといい加減である。そういえばおさだおばちゃんんもそうだった。そして....わたしも、このごろそうなのだ。年をとると細かいところは目をつぶり、つぶらざるを得ないのだが、自分が大切なことだと思うことに手間ひまをかけるようになる。

 母は、父の従兄弟の昭雄さんの通夜に行ったそうだ。死ぬときは無一物なり 秋の風......という句がある。そう、肉体さえ脱いで置いていかなければならないのだ。とすればこれから老年に向かってなにを大切にしてゆかねばならないか見えてくる。ひとつは唯一持参?できる魂をできるだけきれいにしてゆくためにできることをすること。もうひとつは残してゆく人たち、若いひとたちに何を残し伝えてゆくかである。もちろんお金や物ではない。無一物とは実は目に見えないなにかを大事にしてゆくことなのだ。ひとはことばを持たない太古から次の世代に技や則、かよわい人間が過酷な地上で生き抜くためのノウハウやタブー、そしてたぶんある秘密を口承で伝えてきた。その片鱗はまだそこここに残っている。

 人間が文明を構築するために文字が、印刷が、手が 火が必要だった。ひとはそれらのものをつかい、地上に栄え跋扈し他の生物の脅威とさえなってしまった。しかし、書物でなにもかも伝わるのではない。大切なもの、ひとからひとへ手渡さなければならないものがおろそかにされてしまった。まず個人的なちいさなことから取り戻そう、手をつなぎあって確認しよう、今ほんとうに必要なものはなんだろう。

 明日から3日留守にします。よろしくお願いします。




二百六の昼     (2003 8 24)  カタリ、カタリ

 南アルプスの天然水を2パック、コンビニで求めて9時半に会場に着いた。食欲もなく水ばかり飲んでいる。順次リハーサルとなるが42人もいるのでなかなか順番がこない。リハーサルが済むと集合時間まで1時間もない。車で送ってくれないかと13歳の一番若い出演者、...に頼まれたので送ったあと炎天をそのまま車を走らせて木陰を見つけ、車の中で歌ってみた。数日眠れなかったので声が少し掠れている。そういうめぐり合わせなのだから、声は出なくても心で...と思ったら落ち着いた。

 戻ったら記念撮影も終わっている。体力をもてあましている5歳と7歳の男のこたちと鬼ごっこをして遊んだ。ルールは10回タッチしたら鬼を交換するというのだ。すっかりこどもに帰ってしまい自分でも驚くほど身軽に彼らを追い詰めたら、敵もさるもの、ルールを交換しようという。鬼のテリトリーは著しく狭められてしまった。ソファの後ろに寝そべってねずみ獲りの猫みたいに待ち構えていたら、おばさんのことは忘れたらしくどこかへ行ってしまった。

 さて、本番 歌うとき 現そ身のわたしにゆらめくいのちのほのおがかさなってみえるのではないかという気さえする。いやわたしばかりでなく、ただ譜面をなぞっているという段階でなければ、歌はそういうものではないかと思う。 歌は語りよりもっと祈りに近い。だからひとのこころを引き寄せるのではないか。

 今、楽曲ばかりが光を浴び。浪曲などの語り芸(娘義太夫も語り芸だろうか)にさほど勢いがないのは、音楽に比べて、時代にあわせる努力を欠いたためもあるだろう。流行の歌手でも桑田敬祐や中島みゆきのように自身で作詞または作曲までしているひとの隆盛を見ると とくに中島みゆきなどは語りに近いような気もする。バラエティーの語り芸ばかりでなく物語の語りはひとつの芸としてもっと確立されてもいいのではないかと思う。

 声楽をはじめて一年と少し、想いで歌おう、想いで語ろうとするわたしに刈谷先生は、生で想いをじかに表出するのではないと押しとどめてくださった。感情を吐露することは上品ではないと言われた。その仕組はまだよくわからないのだが、カタチを崩さず意識を清ませることで、なにかがおきる。10のうち7 にとどめる。そこに聞き手の気持ちとなにかがはいってくるのだ。自分の心も時間も消える。おそらくこれが世阿弥のいう妙の片鱗なのだろう。

 着替えをしてホールにはいるとネモさんが見えた。ロビーに案内しておしゃべりをしていたら受け付けさんに伴われてみうさんがそこにいた。三人でぴょんぴよんはねて、しばし喜んだあと、荷物を持って河岸を代えることにした。みんなおなかがすいていたのだ。パスタのお店で過ごした時間はほんとうに楽しかった。こうして実際に会うことができて、語りあうことができて 奇跡みたいだ。だってほんの少し前まで、わたしたちの人生は接点をもたず、はるか離れて息をしていたのだから。

 おふたりを駅まで送り、打ち上げ会場のホテルグリーンコアに向かう。刈谷先生とピアノのコモリ先生にお礼を伝えなくてはならない。刈谷先生はお好きなワインを手にまっかな顔で幸せそうだった。今日うたった弟子?(ほとんどが10年、20年選手である)はひとことずつ感想をはなすことになっているのだが、そこは語り手のはしくれなので先生に語りを二流呼ばわりされ、イカって階段を駆け下りた話などをして湧かせる。おふたりにてがみをわたして二次会は遠慮して帰ろうとしたら、牧子先生がなにか言いたそうなようすで...語りをしているから...歌の奥から...わきあがってくるのだろうか....というようなことをおっしゃったがよく聞き取れなかった。牧子先生ともっと話したかった。




二百五の昼     (2003 8 23)  木曜ゼミ

 10:00からコムギ屋?で水曜ゼミの打ち合わせ、太田小の杉原さんと庄司さんは初対面だったが、同じ福岡出身ということもあって、三人の始めての打ち合わせは和気藹々の打ち解けたたのしいものだった。庄司さんも杉原さんも透明感のあるやさしいお人柄で、木曜ゼミ(日程の都合で櫻井先生にお願いして木曜にしていただいた)のゆくすえはスタートが待ち遠しいほど希望にみちている。これが最初の一歩...ということで気持ちはひとつになった。

 厳密にいえば3月の語り手たちの会と共催の心に響く語りの講座が第一歩、木曜ゼミが第二歩、11月の市民企画事業「ひびきあうことばといのち」が第三歩である。いずれも櫻井先生にお力添えをいただいたことは望外の喜びであったし、先生が来て下さらなければ風は吹かなかった。新しい風が、小さな種子を運び、大地に根付く。そしてみずみずしい草原がひらけ、ひとびとを癒す泉が湧き、やがて豊穣の森となるかどうかはこれからの努力しだいである。

 不安もあるようだが、話し合いを蜜に、信じて助け合ってゆけば心配はないと思う。会の名称は”おはなしdingding”から"カタリ、カタリ"にかわった。おはなし...はすこし軽いもの、語りは....と教えていただいたこともあるし、このサイトをそのまま打ち合わせ、掲示に使えるというメリットもあったから。

 あとはただざわざわと、実のあることもなく一日が過ぎ、あしたのために、今夜は実家に泊まることにした。のどがイタイので、明日がすこし心配である。

二百四の昼     (2003 8 22)  空気

 塗装工事も佳境となり、塗料の臭いで眠れない。有機溶剤が家中に充満している。明け方近く 娘たちと車で彷徨う羽目になった。車を停めて安心して寝られる場所というのはなかなかないものである。夜の公園は散歩するにはわるくはないが車のなかにいると落ちつかない。結局、ローソンで買い物をして駐車場で寝た。前の晩もあまり眠っていなかったので泥のように眠った。

 職人さんたちも、この暑さの中での作業はたいへんだろうと思う。空気の流れのよくないネットをかけた足場の上でからだに決してよくない塗料の揮発成分を吸い込みながらの仕事なのだ。若い人が多かった。なかなかの面構えの子たちだ。10時、3時のお茶出しの合間に会社で仕事をする。会計事務所の又さんがみえた。試算したところ、決算は楽勝だ、たぶん。....ほどほどの利益となるだろう。利益がたくさん出るとお金もないのに納税に苦しむことになる...が ほどほどというのは、数字のうえでは利益でも現金がやはり潤沢ではない....つまり生かさず殺さずということなのだ。それでもこの不況のなかで此処までは来た。これからが勝負所である。

 4時半に、刈谷先生のところで最後のレッスンをした。牧子先生がこんどはベルディを....とおっしゃった。ボディなら、イタリア人に負けはしないのだが。

 二階に長くいられないので、ティンガの続きが打てない。日曜は発表会でまるまる一日が終わってしまうし、月曜は準備でいそがしくそのあと三日は留守になるから、そのあいだ、このものがたりは命を保っていられるだろうか。


二百三の昼     (2003 8 21)  この世ならぬもの

 中小企業公社の研修に行くとちゅう、電車のなかでおとといのことをつらつら考えていた。ひとがなににこころを動かせられるか、おはなしの題材で半ばは決まってしまうのだろう。ひとによって差はあるが、おそらく生と死、そしてそのうえにこの世ならぬもの、ひとはこの世ならぬもの、信じがたいが人智を超えたなにかに強く惹かれるものがあるのではなかろうか。あくまでも表現の技は従であるのだろう。

 研修で講師は実に精力的に6時間以上語り続けた。WEBで成功する条件はパワー、資本であり、ノウハウであり、2005年には大きな展開があるだろうとのこと。大手あるいは先行するものにかなわないとしても、中小の活路はニッチャー、フォーロアであろうとのこと。つまり特化する、間を縫うというようなことであるらしい。

 HPのアクセス数を増やす具体的な戦略も教わった。このサイトのトップページはそれには致命的なほど適していないこともわかった。これは伝えたいことが表現の技の不足のために充分広く伝わらない事例とみられないこともない。どうりで最近やたらに長いテキストだらけのトップページが多いわけだ。講義はおもしろかったが、クスリを忘れたので悲惨な状況になり昼休みにソニックシティのなかの薬屋でガスター・テンを見つけたときはほっとした。

 帰りの電車で偶然母に会い、お茶を飲む。土屋県政のあとを担う埼玉県知事選挙も31日が投票日。これから選対会議だという。シマズ候補はいち早く医師会と農協の支持をとりつけ、医師会などは敏速に行動を起こしているようだ。母の元にも何十年も前の(医者である)教え子から突然応援の依頼があったそうだ。母は坂東候補を推しているが厳しい戦いだといっていた。わたしもうぐいす壌(?)を頼まれたがあいにく日程が合わないので断った。時間さえあれば手伝いたかった。坂東候補も応援したいが、うぐいす嬢はいはばライブなので語り手としては代えがたい修行になるのだ。

 井尾さんにも偶然会って、息子の同級生のおかあさんの訃報を聞いた。わたしよりもまだ若いのに、胸がつまった。ひとのサガにも外骨格と内骨格があるような気がする。外骨格は昆虫のように外側が厚く堅く内を守る、哺乳動物などは内側に骨組があって体をささえ、外側はやわらかい。亡くなった方は黒目勝ちの気丈な方だったが、内側はとっても繊細な方だったような気がする。わたしは....わたしも外を鎧って、既成事実を積み重ね、自分を追い詰めていく外骨格のタイプと思う。


二百二の昼     (2003 8 20)    ティンガ

 今日は刈谷先生のところへ2回行った。発表会も間近、ピアノの先生と音あわせがあったのだ。ピアノをひいてくださる先生も神戸から見えたようだった。紹介してくださる刈谷先生のことばに不肖の弟子への深いご愛情が感じられ、いつもは厳しい先生の心根に触れたようで切なかった。テープレコーダーが行方不明のため、練習していなかったのが高音の伸びの足りなさではっきりわかった。それでも、声を出しただけのことはあり「午後のほうがずっといい」と刈谷先生の奥様、牧子先生が教室のそとで言ってくださり、「カタリのアの母音がもうすこし足りない...」とヒントをいただいた。そうだ、語りでも母音はとても大切だ。母音をゆったり発音すると、聞き手は安心するような気がする。金曜日までに修正できればよいが。

 駐車場でなにかきらっと掠めたので、どんぐりに行く。インスピレーションはわいたときに、すぐ捕まえないと霧のように消えてしまう。黒い髪の煌めく瞳のティンガという少女のおはなしが生まれた。はたから見たら、髪はバラバラ、一点を見据え、一時間以上も凝っとしているわたしは、とても 怖いだろうなと思う。今夜文字に落としてみよう。すこし長い物語になりそうである。
 娘とひさびさに買い物に行く。ミシンを買おうというのである。娘はそれなり楽しそうだった。もっと連れ出してやらなければと、すまない気持ちがした。


二百一の昼     (2003 8 19)     深み

 昼近くなって橋本さんからTELがはいり、トムの会にようよう出かけた。うちあわせもすみ、勉強会をかねたおはなし会がはじまったところだった。四人組(地獄そうべいのもとのようなおはなし)三年峠、ライオンとやぎ(トリニダードトバコのはなし)だれだっぺ、橋本さんの笑い地蔵(怒り地蔵)関根さんのかっこからんこからりんこん、聞き応えのあるおはなし会だった。みんなウデをあげたなぁと思う。なかでも関根さんは今日、はじめて、テキストからではない語りをしたのだった。先週の銀座ゼミで聞いたおはなしを自分流に語ったのである。やはらかな語り口だった。
 夕方、関根さんから関根さん自身が驚いているという感じのTELがあった。30分くらい話した。関根さんはいよいよしあわせで逃れようもない『語り』の深みにまろびこんでしまったのである。

 わたしは最後にカーロというジプシーの少年のおはなしをした。テキストは?と聞かれたのできのう生まれたおはなし...といったらみんな驚いて、橋本さんは「森さんのいままでのおはなしのなかでいちばんよかった」という。関沢さんもこころに残ったというし、わたしは面食らってしまった。橋本さんが泣いてくれた”雪女”や”おさだおばちゃん”よりよかったのだろうか? 会津の峠道で風に吹かれ、刻まれた文字も磨り減りまるくなった墓石を撫でてようやく掴んだ”ほうすけ”よりも? 表現の端緒にようやくたどりついたと思った”絵のない絵本”よりも? 練習を一度もせず、ただ淡々と語っただけのカーロの方がよかったのだろうか。表現とは語りとはいったいなんなのだろう。

 夜、会社の連絡会をひらく。売り上げ目標3000万にたいし、まだ1000万とすこし、今後各課の予測売り上げを寄せ集めても2680万、あと、320万。それも天候が不順であれば不可能だ。土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も....なのである。

 きのうは鬼姫さん、junさん、櫻井先生からお見舞いのメールをいただき とのさんやかっちゃんやみうさんのカキコミもいただいてうれしかった。水曜ゼミの打ち合わせの日程も土曜に決まり、ネットウィングにTELをし、後生を祈ってねずみの埋葬をし、風呂場の配管も直していただいた。真理は些事に宿るということばがなかったかしら。ひとつひとつを確実に思いをこめて、さぁ、今日も。


二百の昼      (2003 8 18)      暗い夏

 疲れからか心配事でもあるのか、体調がわるくて、潰瘍で 時間ばかり異常に早く立ってゆく午後。11月のちらし、北海道に行く準備、決算の前にやらねばならないこと、ASKの連絡事項など、えいやっと気合をいれればなんということもないのだが、些事が砂のように押し寄せてきてわたしを埋める。たいせつなことはひとつだけ、それだけなのに。
 明日はペンキ屋さん、水道屋さんがくる。トムの会例会と会社の連絡会、ねずみを埋める、学生服のボタンをつける。24日は発表会 蝉が鳴く 暑くもないのに こんなに暗いのに あれはひぐらし? かずみさん、わたし そんなに強くない。


百八の夜       (2003 8 17)      宿題

 研究セミナーの宿題が終わった。8/4に書いたのはサスペンス小説風で、ちょっとおもしろいのだが、1200字にどうしても余ってしまうのであきらめた。父の終戦でもいいかなぁと思っていたら、突然 ものがたりが生まれた。わたしにとって3年間の研究セミナーは9/7でほぼ終わる。いい仲間に出会えてしあわせだった。夜語りと夜長のおしゃべりと朝食の時間がすきだった。春の花々と新緑、最上階のカフェから眺めた秋の紅葉、けれでもなにより緑濃い夏のたたずまいが心に残っている。裁判や回収に疲れ果てながら通ったヨヨギ城の階段。いつもいつも小田急線がわからなくて会場がわからなくて迷子になってばかりいた。ようやくなれたらもう終わってしまうのだ。

 9月は遅れないように、そして友人たちと楽しい時間が過ごせるように。


百九十九の昼      (2003 8 17)   父の終戦

 私の父は大正八年の生まれだった。秩父の寒村に生まれ、家が祖父の政治道楽で零落したため、高等小学校を終えると行李ひとつを背に峠をくだり、浦和の駅近くにいた母方の叔母のもとに身を寄せた。叔母のお菊さんは県庁に勤める役人に嫁し、父よりすこし年下の男児をふたりもうけていた。

 父は朝そうじをしてから県庁にはじめはお茶くみから勤め、夜は浦和商業の夜学に通った。叔母は厳しいひとだったから体の休まるときは無かったと思う。そのなかで父は主席を通し、大学に進学することを望みにしていたのだが、無理がたたって肋膜を患ったため 志半ばで秩父の実家に帰り静養した。

 それゆえ 徴兵検査は丙種合格だったので、父が召集されたのは戦争も末期のころだった。下田港から南方に出征することが決まり、その集合の日、父は遅刻をしてしまったのだという。物心ついてからの父は時間に几帳面で遅刻など頼まれてもしないひとだったから、大事な日に遅刻したわけがいまだにわからない。聞こうにもあの世の父は答えてはくれない。父がはしけの上で見ている間に船は黒い煙をはいて出航してしまい、帰ってくることはなかった。乗っていた兵隊もあらかたは藻漬く屍、草むす屍となって、戻られた方はごくわずかだったと聞いている。

 父が結婚したのは終戦後であったから、わたしがこうしてこの世の空気を吸っていられるのも、その日、父が遅刻をしてくれた所以なのだ。父はおそらくは大層叱られたであろうが、下田に残って松の根を掘り出す作業を割り当てられた。燃料補給の道を絶たれた日本は、松の根から燃料を抽出していたのである。過酷な労働であったが、食料は乏しく、父や父の仲間はいつも腹を空かせていたそうだ。気の毒がって現地の農家の方がくださる芋のひとつが身に沁みたそうである。

 日本は国力を使い尽くし、多くの人の屍の山の果てに、昭和20年8月アメリカに降伏した。しばらくの静寂と茫然自失のあと、電車もなく、父は軍から支給された牛の皮を一枚背嚢にくくりつけ、天城峠を越えたのだそうだ。一路故郷を目指し、黙々と歩き続けたであろう父、葉陰にひっそり咲く花に心を和ませ。冷たい湧き水にのどの渇きを癒しながら 世の移り変わりを、これからの自分の行く末を山道を踏みしめながら思ったであろう父が髣髴と目に浮かぶ。

 県庁に戻った父の、最初の仕事は空襲で丸焼けになった庁舎の後片付けだった。昭和20年暮れ、朝刊の埼玉県版トップにうつむいてひたむきに焼け跡の片付けをする浅黒い兵士の写真が掲載された。それは若き日の父の姿であった。



百九十八の昼       (2003 8 16)   指導者

 今日は地獄の釜の開く日だそうだ。昼過ぎ ご先祖さまがたはもといたところに帰られる。実家にかずみさんと父やご先祖さまにあいさつに行った。線香をあげ、秩父の本家のこと(競売にかけられそうなのである)など心配しないでくださいと祈り、子どもたちのことを話し、父が心配してくれた会社のことなども報告した。それからわたしが遅ればせながら芸の道を歩き、ボランティア活動をしていることも報告した。家に帰って、森家のご先祖さまにも常日頃はお出ししないビールをコップ一杯、お寿司など ご供養してこまごまお詫びや報告をし読経もして 我が家のお盆は終わった。

 声楽の刈谷先生の指導のことを考えていた。先生の教え方はときに違和感がある。一年間は闘いだった。けれど一年間の結果からわたしは先生に脱帽したのだ。先生は刈谷メソッドといってもよい教え方のノウハウをお持ちだ。端的にいえばカタチ、カタチである。先生はフォームを大切にするよう、指導のとおり実践するよう要求する。そしてわたしが自分で考えてすることを望まれないように思う。

 指導者にはそれぞれパターンがある。歌と語りを同じ場で論じるには無理があるけれど、櫻井先生と刈谷先生は正反対といってもよい教え方である。櫻井先生は本質的なことをいくつか指摘しあとは自由に語らせてくださる。だから門下のひとたちはそれぞれ個性的な語り口を持ち、それぞれが自分の語りやすいものがたりを語っている。語りについては結果としてまったく自分の小型版の生徒に仕上げてしまう講師もいるようだから、櫻井先生の指導は教えられる者の覚醒を促す指導といっていいだろう。結果わたしは自由に考え、試行錯誤し自分なりの語りをしてこられたのだ。

 私はいいなりになる素直なタイプではない。刈谷先生の感情は入れるなといった指導に対してもはじめは疑問でいっぱいだった。しかし、このたび 世阿弥の花鏡の解説を見て 気づいたことがある。無心のままやすやすと演じこなす段階に入って、自分のやっている演技に少しも心を用いないで無心・無風の境地で演ずる芸....
カタチから入ること、カタチを己のものにすることによってらくらくと歌い演じる、無心・無風の境地、そのことを門下生ひとりひとりの道のかなたにおいて、刈谷先生は指導されているのではないかということだ。そこまで生徒を仕上げたいと考え、けれどその段階では意味までは伝えない。プロの段階にまでいたったとき、自ずから気づくということなのだろう。

 芸とは真似、真に似せる、師匠から盗むものだった。この三年間わたしは先生をはじめとして、先輩何人かの語り手のはなし、ちょっとしたコツを自分のものにしてきた。けれど、どうしても盗むことができないものもある。それは香りというか匂いのようなものである。また一方で こればかりはわたしだけの感覚、宝というようなものもある。それは、わたしの体を通して、なにかがほとばしりでてくることがあるということ、感応者の資質を持っているようだということ、つまりもの....の霊との交流があり、代弁者になる可能性を秘めているということである。それとよき導き手に恵まれたそれゆえに 技もないのに度胸ひとつでここまでこられたのだろうと思う。
 
 芸を身につけるのは難しい。けれども良き師にめぐり合えることで遠い道も半分になる。良き師は技もさりながら心構えから導いてくれるからだ。ひとを愛情を持ってそのうえに厳しく育てるのは難しいと思う。師にたいしてわたしにできるささやかな恩返しは、早くひとの心を打つ表現者になることである。刈谷先生はぽつりとこうおっしゃっていた。「生徒ひとりひとりが伸びてゆくことが自分にとってこのうえもない喜びである」

 明日は銀座ゼミ、櫻井先生、刈谷先生、そして壌さん、良き師にめぐり合えたわたしは幸せ者である。

 

百九十七の昼       (2003 8 15)   つづき

 朝、雨音で目覚めた。単調なひそやかな雨の調べ、今日も真夏と思えぬ涼しさだ。間違いなく、東北は冷害であろう。夜半、藤沢周平の蝉しぐれを読み返していた。子どもに周平と名づけようと思うほど藤沢周平の時代小説が好きだった。その子どもは生まれなかったけれど、ときどき、その端正な文体を読みたくなる。それまでも山本周五郎とか、池波正太郎とか嫌いではなかった。しかし藤沢周平は時代小説の枠組みにくくれないまなざしを持っている。現代小説であろうと時代小説であろうと人を描くことにかわりはない。藤沢周平の描くひとびとは、権謀術策に踊らされ、運命に弄ばれることは、他の時代小説と変わりはしない。けれど そこに書かれた風景のまたひとのこころのなんと美しいことだろう。日本のうつくしいものの精髄がそこにはあるように思えるのだ。

 さて、蝉しぐれは海坂藩の郷廻り下級武士の息子文四郎のみずみずしい青春と喪失と慰謝のものがたりである。淡い恋心、年上のひとへのほのかな慕情、権謀術策のなかで命を落とした父の悲運、剣の修行、秘剣の伝授など、時代小説の急所を踏まえながら、近代小説のテーマのひとつである、少年のイノセントと一人前の男への成長の旅路がくっきりと描かれている。娯楽としての要件を満たしながら、藤沢周平が語りたかったものはなんだったのだろう。

 きのう わたしは 語りにおいてたいせつなものは 聞き手ではないと言い切った。けれど もしや 誤解を招くかもしれないと考え、付け加えたい。志は志、しかし 語りの場、小学校や老人センターや図書館やホールで語るとき、まず聞き手がいる。聞き手にこころをひらく、聞き手のひとりひとりを抱きしめるように。すると愛といっていいものが湧き上がってくる。いっしょに同じ時代を生きている、今この場所にともにいる、その喜びから語りはじめる。あとは任せてしまう。語り手のわたしだけでなく、聞き手のおひとり、おひとりが、時の経つのを忘れ、ものがたりの世界に浸ってくだされば、一期一会のその日の語りは充分なのである。

 まだ雨が降っている。昼も過ぎたというのに、塗装のために足場が組まれ、ネットで覆われた我が家は電灯をつけてもまだ暗い。ひとしきり雨足が強くなった。ノアの箱舟に逃れたひとびとは長い長い時間なにをしていたのだろう。おはなしを聞いていたのかもしれない。幼い子は母の胸に顔を埋め、声の響きに不安を紛らわせていたのかもしれない。いつか、そう遠くない時代に 語られるものがたりだけが唯一の娯楽になるようなそんな時がこなければよいと願うのは杞憂だろうか。

 
百九十六の昼       (2003 8 14)   本質

 今日はお盆である。幽界から亡き人たちが 束の間 戻ってみえる日だ。父に線香を手向けに行く前に、きのう書いたことがどうしても気になるので続きをまとめておきたい。

 語りについては100人いれば、100人いるだけ考えも想いもあろう。わたしもこのサイトで再々書き連ねてきた。なぜ語りにこのように惹かれ続けてきたかと考えると因縁ということばがもっとも嵌まるような気がする。これからわたしの考えを述べたい。

 まず語りにおいて もっとも大切なものは 聞き手でなく語り手でもない。語りとはまず祈りなのだ。ものがたりのものとは霊...である。見えないものを語るのだ。わたしが語るのでなく、わたしを語るのでなく 語り手はある種、代弁者である。ひとつに亡きひとの思いを、ひとつにこの世の理を語るのだと思う。

 ゆえに技(技巧)ではなくこころがまず一番大事なのだ。自らを清め、空にして なにを語るにせよ、語りたいものがたりを語ればよい。なにかがわたしを充たしわたしは引き下がる。そのとき心は自由である。なにものにも捉われず、語る自分の上から聞き手をも自分をも清明な目で見ている。そして それは至福である。そのような語りをしたあと、わたしは呆然自失に近い。そして確実に明るく、かるくおだやかになっている。それはなにものかに替わって、なにかを伝えたことのへ褒美でもあるような気がする。

 しかし、技が不要というのではない。容れものはできるだけ清潔であったほうがいいしそのうえに意匠も優れていたほうが 盛られたものが引き立つであろうし、その器を使いたくもなるというものだ。技(技巧)とは一に声であり、二に間であり、付け加えれば三に艶のような気がする。

 このサイトは見る人に開かれていて、語りかけてもいるのだが、究極のところ、わたし自身のための備忘録であり、試行錯誤の実験室であり、歩いていくための指針である。旅はいつまで、どこまで続くかわからない。けれど、もう、よし...と声が聞こえるまでは歩き続けなくてはならない。そうして、ここにも、あそこにも 持つものも望みも異なるが 歩き続けるひとがいる。それを知ることはわたしにとって 地平をほのかに照らすあかりであり、希望と勇気をあたえてくれるのだ。ここにこの場を借りて、このサイトの千の昼、千の夜を覗いてくださる方に心から感謝したい。ありがとう、そしてこれからもよろしくおねがいします。

 


百九十五の昼       (2003 8 13)   花鏡

 語りの世界36号の巻頭にさねとうあきらさんが書いていた世阿弥の一調・二機・三声について先日の銀座ゼミですこし掴めた気がしたので世阿弥についてあらためてネットで調べてみたら、語りと重なるところが多くかなり惹かれた。


 
まず一調・二機・三声とは能の演技におけるタイミングについて論じたもので、ここでは仕手が橋掛りに登場して第一声を発するタイミングのことを言う。先ず音曲の流れをしっかり捉えた上で、目を閉じ息を吸い込んで、流れに合わせて第一声を発する。音曲の流れと集中した精神とタイミングをぴたりと合わせて声を発するから、一調・二機・三声と言うのである。もうひとつ観客の期待感が高まった瞬間をつかんで第一声を歌い始めろということである。

 その次に演技において心は十分に動かさねばならないが、体はその心からやや控え目に動かす、つまり動きを三分控えることによって観客はその三分を自分の心の中でふくらませる、しかしこれは決してただ七分目の演技をすればいいと言うのではなく、心が十分に働いていてこそ控えられた七分の演技が十にもそれ以上にもふくらむのであって、演技しない部分を心で繋ぐと言うのである。ついで耳から聞こえる役者の声と目に見える役者の動きの関係について言葉を理解するには時間的な継続が必要なのに対して、見るという行為は瞬間的理解であるから、その双方が合致するタイミングを考えろということである。

 もうひとつ世阿弥は目前心後あるいは高見の見と言っている。目は前を見ていても、心は一歩退いておけということだが、これをつまり常に自分を客観視するもう一人の自分、もう一つの眼を持てということであり、現代の言葉で言えば、舞台上の自分を対象化して、演技に客観性を確保せよということであろう。

 世阿弥は言う。歌舞や物真似芸を十分にこなせる人を上手と言う。いくら修業しても必ずしも技巧に巧みでない人もいるが、そういう人でも上手の評判を取る人はいるのである。それは能の芸の主体が技巧ではなく心だからで何物にも捉われない透徹した心に原因があるのである。そういう人の芸は何とも言えず面白いところがあるものだが、これは本来天来の稟質から出るものだから初心のうちから面白いところのあるものもいるのである。この能の面白さと言うことが名人ということなのであるが、しかしまだその上の段階もあるので思わずあっと声を飲ませる段階もあるのである。これは観客の心に面白いと意識させる暇も与えないものであって、これを「無心の感」というのである。

 演技と演技の「間」とは仕手が秘事としている内心の工夫によるものである。この間がどうして面白いのかと言うと、それは油断なく張りめぐらした心の働きの力である。言葉、物真似全ての演技と演技の間、つまり心の緊張感を緩めず演技を繋いで行くその心の奥の心の働きである。この内心の緊張感が外に匂い出て面白いのである。ただ内側の心が外に見えるようではいけない。それではまるで操り人形の繰り糸が見えるようなものだ。無我の境地で自分でも自分の心を意識しないほどの深い心の働きで演技と演技の間を繋ぐべきである。これを万能を一心に綰ぐと言うのだ。この心掛けは能を演じている時だけでなく、常住坐臥、立ち居振舞いの全てを通じて生かされなければいけない。そういう努力をしていれば能は上達する一方であろう〉
 世阿弥がここで言っていることは重大である。今までの彼の所論からすると,仕手の演技というものは先ず登場人物になり切る、次にそのものから一歩離れて離見の見を持つ。つまり自分を対象化し客観化する。ところがここで更に演技の間を生かす、それも意識して作為的にやってはならない。自分でも意識しない心の奥の働きでこの間を繋げと、こう言うのである。ここまで来るともう一般的修行とか努力などでは及ばない特殊な段階であって、心の修行、つまり自分からの解放、我からの解脱が達せられなければこういう演技はできない、とするとこれはもう能修行の問題ではなく,明らかに禅の解脱を目指す実践の問題であろう。なぜなら自分で自分の心を意識せず、しかも演技を続けているというのは、心がもはや絶対自由の境地に遊んでおり、そこから無意識のうちに心の演技が間を繋いで行くということだからである。この無我の演技について更に論じたのが次の妙所の事である。

 妙所とは何かと言うと形のない、言葉でも論理でも表現できない絶対無上の境地のことである。妙所というものは最高の位に達した仕手でも自分の芸風の中にそれがあると感ずるだけで、さあ今ここが妙体だなどと自覚して演ずるなどということはない。無心のままやすやすと演じこなす段階に入って、自分のやっている演技に少しも心を用いないで無心・無風の境地で演ずる芸、これが妙所なのである。論理を超えたものには違いない。

 最後にある対談から.....能は、ほとんどの曲は死者というか、死んだ人間を題材にしていて、シテは死んだ人間の霊であったり、怨霊であったりするわけです。武蔵坊弁慶というその物語の中では生きている人であっても、もうこの世にいないわけで、我々からすると遠い昔の人です。それが仮の姿というか、役者の体を通して舞台に出てくるわけです。我々能役者は、その人たちの訴えかけ、何かの思いの代弁者というわけです。娯楽として観ると同時にその下部にある怨霊や霊の強い訴えかけを今の人間よりもっと身近に感じていたのではないかと思いますね。その時代は神がかりする人とか、死者と交流するというか、感応道交する人が、今よりはたくさんいたのじゃないですかね。今はそういう力が落ちてきている。文明とか何だとかで。当時は日常的に死んだ人とか霊とか神様が降りてくる人というのがいたのだと思いますね。

 以上は能について他サイトの抜粋である。このなかでまず、世阿弥がいうところの「能の芸の主体が技巧ではなく心である」ということ、能役者が語った「我々能役者は、その人たちの訴えかけ、何かの思いの代弁者というわけです。娯楽として観ると同時にその下部にある怨霊や霊の強い訴えかけを今の人間よりもっと身近に感じていたのではないかと思います。当時は日常的に死んだ人とか霊とか神様が降りてくる人というのがいたのだと思いますね。」という点は語りを始めた頃から 感じていることだったし、異端ではないかと危惧を抱いていたことでもあったので 心強かった。ついで 少しも心を用いないで無心・無風の境地で演ずる芸自分からの解放、我からの解脱が達せられなければならない芸に想いを馳せたとき、語りはやはり一生のものだと思った。語りを通して自分を磨いてゆくことができる、自分が今どのあたりにいるか察することができるからである。語りは人生の目標に到達するためのよすがであり、そのうえに深い喜びである。



百九十四の昼     (2003 8 12)  ターニングポイント

 さしも無限につづくように思われた学生たちの夏休みも折り返し地点を過ぎると 急速に足早になる。お盆がそのターニングポイントだ。あしたから会社も夏休み、やるだけのことはした。 ささやかな打ち上げの席、談話のスペースに集まった面々を見て、感慨深いものがあった。この人たちのためならわたしはどんなことだって.....と思う。両親の出身を聞くと、東北、なかでもかずみさんのふるさと福島は偶然にしても多かった。目に見えない糸で結ばれているのかもしれない。みんなこまねずみのようにくるくる よく働くひとたちだ。いただいたお中元をみなにわけた。

 今日はアルバイトさんの面接もあった。10日の折込にいれた求人案内を見て、小さな記事なのに10人をこえる若いひとが応募してくれた。できることなら全員に働いてもらいたかった。給与、労務賃もお盆なので前倒しして払った。理科大の現場が工期ちょうどで今日 終わった。県警の現場が今日契約だった。Wくんが安全大会翌日の8/8、事故をしていた。未収売掛金のほとんどが回収された。8月の売り上げはまだ1000万 あと2000万盆明けに達成できるだろうか。  忙しい けれど 充実した一日だった。


百九十三の昼      (2003 8 11)  遠い影

 今日から自宅外壁塗装工事のため足場かけがはじまった。橋本さんたちと11:50に駅で約束していたので大忙しで、事務所から家に立ち寄り職人さんの3:00のお茶のしたくをして電車にとび乗った。

 銀座のゼミに着いたのは1時過ぎ、はじめにイメージトレーニングをしてそれからカッコ カランコ カラリンコン 下駄のおばけの話を5人で順番にした。今日も初心者の語りが新鮮で驚かされた。わたしたち語り手はしらずしらず、語りの約束事のようなもの(実態はない)にとらわれて、生き生きした語り口を失ってしまうきらいがあるようだ。簡単に......次の日、下女は....とつないでしまう.....聞き手の想像を殺ぐような語り方をしてしまうと講師から指摘があった。聞き手が登場人物の気持ち、動きを納得したかどうか確認してから、次の場面に移る。呼吸、やりとりを無視して一方的におはなしを吐き出さないようにすること。実際にあったことと確信してはなしをすすめること。聞き手にものがたりのすじとはべつにカタリテ自身の問いかけを投げかけること。

 準急に乗らずに、閑散とした普通電車の車内で語りについて、3人で話した。久喜についたのは6:10頃だったのだけれど、自転車の一時預かりのゲートは施錠されていて、橋本さんも関根さんも締め出されてしまった。関根さんはバスで帰り、橋本さんを車で送っていく。今日は、語りのことで 橋本さんを追い詰めてしまった。橋本さんは傷ついた幼い自分をそっと隠している。橋本さん自身の目からも....。それがわかりすぎるくらいわかっているのに、わたしは橋本さんにもう一歩踏み出してほしくて、余計なひとことを言ってしまう。いつかきっと橋本さんはドアを開ける。それまで黙って待っていてあげればよいのだろうか。

 わたしは橋本さんのなかの幼い橋本さんを抱きしめたい、大丈夫と伝えたい。でも 今は近くで見ているしかない。ここにいるよ、大好きだよと囁くしかない。

 
百九十二の昼     (2003 8 10)  レースとフリル

 キャンプのとき、末娘が忘れてきた携帯を浦和までとりにいった。結露のためか液晶がだめになっていて、そのつもりではなかったのだろうが娘の目論見どおり、機種変することになりそうだ。

 お昼は山口屋でいただいて、伊勢丹とコルソを入ったりきたり、レースのお店で淡いすみれ色の手染めのジャケットを見ていたら、心が動いていくつか試着してみた。綿ローンの花柄にレースがほどこされたドレスを試着して、満更でもなく娘に見てもらったら、笑顔のなかに(おかあさん、それはちょっと......)という信号が伝わってきたので 我にかえり あきらめた。結局 淡いグリーンのレース使いのおもしろい長めのスカートを買った。

 わたしはAB型である。AB型はレースやフリルが好きらしい。ご多分にもれずわたしも大好きで、結婚前はその手の洋服が多かった。その後、しばらく仕事の関係もあってスーツを愛用していたが、ちかごろはなんでもありのハチャメチャである。アジアの民族衣装っぽいのも好きでオールドシルクだの派手なインド綿だのの店をつい覗いてしまう。結果、ビジネス用のジャケットは着られるものがなくなり、舞台衣装になりそうなものばかり増えてしまった。

 24日、夢見る.......の発表会は黒のスカートに黒のオーガンジーのジャケット。スカートはスリットのあるサテンのロングにしようか、透け感のあるプリーツにしようか。それでもとっても地味な方なんである。

 さて娘は今流行っている古い和のプリントの重ね着ができるタンクトップを見つけた。それから ガーリック味のクリームチーズとメルバトーストと製造直売の缶詰を11個買って娘に持たせて帰った。


百九十一の昼     (2003 8  9)  水色の卵

 朝、台風のなかを苅谷先生のところに行く。かえり、どんぐりに寄って 半年まえに かっちゃんに頼まれていた シャンソンの歌詞を今日こそ書き了えるまで帰らないとかたく心に決める。えんぴつを借りて(えんぴつでないとだめなのだ)深煎りのコーヒーをたのみ、あとは我をわすれて没頭、気が付いたら12:30
、もう2時間も経っていた。華奢な水色にひかる卵を産み落とした気分だ。気に入ってもらえるかどうか わからないけれど イメージに近いものにはなったので ご褒美に ケーキを食べた。 勢いを借りて今夜 薔薇色に金のすじが入った卵も.....ディアドラも文字にしてみようかしら。

 県立図書館のおはなし会、台風のなかを5人のお客さま。真夏なのでこわ〜いおはなしをいくつか用意したが、ちいさい子ばかりなのでくらぁいくらいにした。最後、みんなひっくり返った。あと 手遊びといたずらぼうやがひとり、おはなしもきかないで走り回っていたので、ソーディーソーディーをしたら、夢中になって聞いていた。今日のあいかたは山岸さんと橋本さん、山岸さんとパネルシアターのことで打ち合わせ、11月にはじめてチャレンジの予定、わくわくする。橋本さんと関根さんと11日に銀座ゼミに同道の約束をする。

 ただいま17:30 かずみさんが帰っているので ウデにヨリをかけて美味しいごはんをつくりましょう。


百九十の昼      (2003 8  8)    台風

 台風が近づいている。血が騒ぐ。
箱根のインターハートセミナーのみなさんはどうしているだろうか。


百八十九の昼     (2003 8  7)   健康診断

 お盆のまえは 正月まえのように忙しい。このところ朝早くから事務所に顔をだして、気がつくと日も暮れている。今日は年に一度の健康診断の日、管理部にとっては大きな年間行事のひとつだ。今年ははじめて正社員以外、準社員さんや下請けさんにも受けていただいたので、いっそうにぎやかだった。いつもはめんどうがって現場にかこつけ逃げ出すひとも(かずみさんとか...)いるのだが、今日は事前の脅しがきいたのか、胃のレントゲンも大腸癌のための検便も受けないひとは少なかった。

 健康診断のスタッフは大宮から総勢7名くらいやってくる。てきぱきと検査をしたり採血をしたり気持ちがいい。わたしはどうやら右の耳が高音が聞き取りにくくなっている。この冬、中耳炎を患ったせいかもしれない、それとも老化だろうか。予定では11:00からだったのだが10分過ぎて安全大会を開いた。通常は7月に現場災害を防ぐために大規模な安全大会を開催するのだが、今年は社内の安全協議会が動く気配がないので、プチ安全大会を付け加えたのである。
 過去の統計からいくと、安全に関する催しや働きかけをすると、事故が減るのだ。ここしばらく小さい事故はあっても大災害はなかった。そろそろ気をつけたほうがいい、これは長年の勘である。企業にとって、安全と原価管理は車の両輪である。どちらもなおざりにはできない。社員さんそのほかが入院するような大事故は3年に一度くらいのわりあいで起こる。そして不思議と一度起こると事故は続くのだ。

 3年前、大きな解体現場で続けて3件事故があった。崩落、足元の踏み外し、江戸時代からの酒蔵で軒先のあちら側はすぐ墓地だった。この現場は必死の思いで仕上げたものの大赤字でそのうえ中間にはいった会社が実はやくざがらみで支払いももつれ、あちこち奔走した。研究セミナーの最初の年であった。とりあえず決着はついたが月賦でお支払いいただくのが完了するのは3年後である。

 各課でのディスカッション、発表、質疑が終り、各課次期安全担当選出もすみ決算前であるので今期の目標を達成しようと盛り上がってぴったり12時だった。午後は役所提出書類のためのラベルつくり、立て替え金精算、給与計算など、来客もTELも多く忙しい一日だった。仕事は楽しかった。しかし、がっくりしたのはわたしも2キロ 去年より落ちたのに かずみさんのほうがわたしより......キロも軽かったのである。昔は100キロ以上の巨漢であったのに、妻より軽くなるなんてずいぶんだと思う。健康なら軽くたって重くたっていいってものだけれど。


百八十八の昼     (2003 8  6)   通夜

 赤坂さんが亡くなった。まだ62歳だったという。わたしが赤坂さんを知ったのは4年前の11月、ハートフルセミナーで初めて舞台にたち、舞台の魔に、それと知らずに語りのエッセンスに触れて戦慄したころだった。図書館の読み聞かせ講習会かどこかだったと思う。それから不思議とさまざまなシーンで彼女とであった。俳句の会、後上民子さんの事務所......わたしはほんとうのところ 初めの頃 赤坂さんが苦手であった。とがった感じ、圧迫感、かすかな飢餓のような気配がわたしを息苦しくさせたのだ。
 けれども そういうところは わたし自身にもあったのかもしれない。そのころ母がぽつりと言ったことばが忘れられない。「みんな 自分探しをしているんだよ」

 去年の7月のことだった。青葉のデイケアセンターから、高齢者の方々に語りをとたのまれてでかけていった。はじめてひとりで任されて語る、それも高齢者に語ることでわたしは緊張していた。そのわたしを笑顔で迎えてくれたのが赤坂さんだった。赤坂さんが呼んでくれたのだろうか。彼女はまるで探し求めていた居場所を見つけたように、生き生きしていた。ひとりひとりのお年寄りをそれは大事にしているのがよくわかった。

 月に一回の語りの会も回数を重ねてその年の秋、赤坂さんがかんたんな劇のようなものができないかという。ちょうどわたしも同じことを考えていたので。大きなかぶをしてみようかということになった。20人のお年寄りと4人のボランティアさんといっしょに猫やたぬきや犬や思い思いのおめんをつくった。かぶは白いシーツや緑のゴーシャでわたしがつくって持っていった。黒い大きな大きな袋のなかにボランティアさんに入ってもらいかぶを押さえていてもらう。おじいさん、おばあさん、孫むすめ、犬、猫、ねずみ、みんなの力をあわせて、かぶはスポーンと抜ける。みんな大喜びだった、なかでもはしゃいでいたのは赤坂さん、わたしが持っていった金髪や赤毛のかつら、お下げ髪とリボンをつけた黄色の麦わら帽子をつぎからつぎへかぶったり、お年よりにかぶせたりしてそれは楽しそうだった。赤坂さんはいつも玄関まで送ってくれたけれど、その日駐車場まで荷物を運んでくれて「楽しかったわ、またやりたいわ、ほんとうにありがとう」と言ってくれたのだ。

 そして今年4月、赤坂さんはとつぜん 来なくなった。母から赤坂さんは癌が再発転移したらしいと聞いたのはそれからしばらくたってのことだった。今にして思えば、赤坂さんは闘っていたのだろう。不安もあったろう。なぜこにいるのか、なにか生きた証を残したい、そう思って さまざまなことにチャレンジを続けたのではなかったろうか。もし癌であったら、わたしはどのように日々を送るのだろうか。

 赤坂さんの遺影は美しかった。たいそう気に入った写真でいつもかたわらにおいていたという。赤坂さん、わたしはあなたに会えてよかった。いっしょに活動させていただいて楽しかった。あなたが最後にこころから楽しみ、暖かい気持ちを込めてなさったこと、わたしに道を拡げてくださったことをわたしは続けます。そしてもう一度やりたいと言っていた大きなかぶをきっとみんなでやるからね。ほんとうにありがとう。おつかれさまでした。


百八十七の昼       (2003 8  5)   始動

 菖蒲の子ども会から11/2におはなしを依頼された。幼稚園にも小学校にも働きかけているのでまだ増えるかもしれない。9月から3回にわたって水曜ゼミ、研究セミナー、九州のおはなし会、11月の市民企画講座、11/6,7の語りと朗読の会、トムの会発表会、12月ASKの同窓発表会、1月市民芸術祭 そして
今 温めている企画のかずかず.... 始まる 始まる。
 
 尾松さんから 企画書の返事のFAXをいただいた。
@なぜ語る?なにを語る?どう語る?
             −声とことばとまなざしとー
   ・こどもたちの’今
   ・安心感を手渡す
   ・子どもの文化の役割(子どもの成長とおとなの役割)
A子どものためのおはなし会
            −その構成と願いー
   ・手遊びや手袋人形、パネルシアター
B語りを楽しむ

 総合タイトル’響きあうことばといのち’
             語り・実践講座


百八十六の昼      (2003 8 4) ジョン・レノンの日

 わか菜を道場に送ってから、銀座ゼミに行く。銀座ゼミはまだひとがそう多くはないので、櫻井先生にマンツーマンで指導していただける贅沢なゼミだ。発声練習のあと「黄金の腕」をひとりずつ語る。.最後の「ウデはお前が持っている」ただ大きな声を出せばよいのではない。吐く息で、うしろからわっと脅かすように...早口でなく....宿題である。くらあい くらいもやってみる。....くらあい棚の上の......は・こ・のなかから おばけ!!もかんたんそうにみえるがそうかんたんではない。

 それからハンカチでねずみを作ってねことねずみをした。最初の一回は手の動作に気をとられて 聞き手への心配りがおろそかだったとお叱りを受ける。二回目は台詞はよしとして、.....でした。の地の文のとき、聞き手の目を見ておはなしが届いたかどうか たしかめる。ここが芝居と語りの差だとだめ出し。

 つつじの娘を聞いてくださって、   ある山の村にひとりのいとしげな娘がいた。   このいとしげな   に娘のやさしさ 愛らしさをこめなさいという指導をいただいたが何度やってもうまくいかない。コレも宿題。カタリカタリも聞いていただいて出だしをうっとりするほど美しく....とこれも宿題。最後に響き会うことばといのちの会で語った絵の無い絵本.....声がちいさくて前半分しか届かないのは残念だったという感想をいただいた。あぁ まだまだだ、でもめげないゾ。

 終わったあと12/3の九つの物語パートUについて、浅井さん、先生、それにわたしで打ち合わせをした。石響で発表会をして3年、 今のわたしたちを聞いていただき、自分たちも足跡を確かめるために発表会を開くのだ。

 それから、ジョン・レノン夫妻が立ち寄ったという「樹の花」という喫茶店につれていっていただいた。市民企画講座(11/14、11/21)初心者のための水曜ゼミのことなどを打ち合わせし、久喜市に語りを広めたい。子どもたちが語れるような機会をつくりたいなどと見果てぬ夢を語っていた。ふと窓のメモに目をとめると、ジョン・レノン、オノヨーコ 1979年8月4日 と書いてある。ちょうど24年前の今日、ジョンはこの椅子にすわって静かなひとときを過ごしたのだ。わたしは思わず「ジョン、力を貸してください。語りを通して愛と平和などをひろめたいのです」と祈った。今日は新しい標へ向かって歩き出す日だ。


ジョンとヨーコが飲んだカップと吸殻

ジョン・レノンのサイン

 帰り、日比谷線直行の東武線で帰る途中、セミナーの宿題のショートショートを思いついたので原稿用紙4枚書き上げた。結局朝になってしまった。写真を挿入するのにバタバタしていたら、書き上げた日記が消えてしまい、これは翌朝書いた。きのうはまたもバッグとパラソルをわすれてきたし おっちょこちょいは直らない。


百八十五の昼     (2003 8  3)  ろうそくをたてて

 娘の真似をして、電気を消しろうそくを3本灯して お風呂にはいった。ゆったり湯船につかりとりとめなく意識を遊ばせて、なんにも考えないってなんて贅沢なのだろう。今日はこれでおやすみなさい。死の泉のことを書きたかったけれど また いつか    

百八十四の昼     (2003 8  2)   幽霊譚

 午後、下北沢に走った。運良く新宿直行の逗子行きに乗れて、新宿で小田急線に乗り換えれば10分で下北沢......今日は櫻井先生の夏のこわい話、ライブがビレッジグリーンという英国式パブで開かれる。こんなチャンス、そうそうあるものじゃない。

 響きあういのちとことばのあつまりでひかるさん、学長で詩人のほら片岡先生が「語りにはちいさな場所が似あう」と云ってらしたことは的を得ている。20名あまりでいっぱいになるパブのなかは期待で高まり、ライア演奏の三野友子さんも今までになく生き生きしていた。はじめは黄金の腕、「ウデはおまえが持っている!!!」キャーと悲鳴が起こった、その後爆笑の渦。結末はわかっているのだが、やっぱりこわい。

 タイグ・オケインの一夜のできごと、ダブリンの黄金の手 夢の家 くらあい、くらい スコットランドの幽霊屋敷 (これを書きおえたらいくつか語ってみよう わすれないうちに)イングランド、スコットランド、アイルランドの6つのおはなしのうち3つが霊がでてくるこわいおはなし、ひとつが生霊のおはなし。肉体が滅んでも霊は不滅だというのは昔はあたりまえのことだったのだろう。なきがらというくらいだもの、魂の去った肉体はぬけがらなのだ。

 じつはわたしも信じられないものを見たり、感じたりしたことはひとつやふたつではない。亡くなった方がその夜訪ねてきたこともあった。そのひとは昔愛したひとだった。別れを告げにきたのだろうか。そのときばかりではなくて不思議なことだが死者は語らない、いつも黙したままだった。気配ばかり色濃くそこに漂わせて..........

 さて、ライヤーの演奏のほかににビレッジグリーンの村長さんもメロディオンの演奏をしてくださった。メロディオンというと小学生がつかう鍵盤楽器を想像してしまうでしょう?それがぜんぜん違う、アコーディオンをすこし小型にしたような楽器で映画「タイタニック」でジャックがローズを二級船室のひとたちが宴会をしているところに連れていって音楽にあわせて踊るシーンがあったでしょう?あんな感じの楽器でありメロディーだった。手拍子をたたいているうちにわたしは体中 むずむずして踊りだしたくなった。もちろんぐっとこらえたけど、だってわたしが踊りだすと収集がつかない大爆笑になってしまう。

 ところで村長すなわちオーナーはこうした音楽の世界では知られた方のようだ。そのうえに本業はイラストレーター...!?という多才な方なのだがシャイな少年のような黒い深い眼をして、語りを聞きながらすみっこで黒ビールを飲んでいた。いいなあ 語りはこういうところでやりたいものだ。美味しいお酒、美味しい料理、気のおけないなかま ごく自然につぎつぎとなかまが語り 夜が更けてゆく。そんな語りの会がやりたいなぁ。

 というわけで、下北沢においでの節はぜひビレッジグリーンへおいでください。下北沢南口下車 左手線路際すすみ突き当たると目の前はみずほ銀行、銀行と眼科?の間をはいって正面に建物、二階の左端のドアにみどりの熊さんがいる。そこがビレッジグリーンです。
       

マスターのあたまを撫でると......下北沢、グリーンビレッジに一っ跳び!!


 おまけ 櫻井先生は木漏れ日が水に映ったような色彩のやはらかな半そでのブラウスを身に付け、左肩に白い長いレースを輝くブローチでとめ、とても優雅だった。しかしわたしは見てしまったのだ。白いレースのロングスカートの裾から覗く、それは銀色の......スニーカー!だった。



百八十三の昼       (2003 8  1)   1日

 年に12回は1日がめぐってくる。それはちいさな節目だけれど 根性のないわたしには 気持ちを切り替える後押しをしてくれるありがたいターニングポイントだ。今日市民企画事業「心に響く語りの講座」が正式に決まった。二回の講座は櫻井先生と、今日尾松さんに快諾いただいた。日取りは11月14日(金)11月21日(金)、市民企画事業は無料である。この周辺で読み聞かせをしているおかあさんたちや語りに興味を持っているひとたちに櫻井先生や尾松さんのこころが洗われるような語りを聞いてもらえたら、そこから漣のように輪がひろがってなにかが変わってゆくような気がする。

 ものごとは連動している。ちいさな力も想いも時を得て、なかまを得て大きなうねりにかわってゆくと信じる。それはひとを信じる、自分を信じることにつながり 社会につながってゆく。ひとはひとりでは生きられない。この命題は制限ととらえれば制限、しかしひとがつながってゆく信じ愛してゆく可能性とかんがえれば無限のよろこびであり希望である。

 ながいこと生きて 失ったものも多い。けれど ちいさな小石のように確かなものがいくつかわたしの掌のなかにある。あきらめないこと すこしずつでもまえに進み続ける意志 問いかけ、語りかける勇気 そしてどうしようもない性格だけどやるときはやる人間だという私自身へのささやかな信頼。たまに賞味期限が過ぎてしまうが、多少は目を瞑ることにして、なんとか周囲の方にも目を瞑っていただいて さぁ あした8月2日 なにがわたしを待っているだろうか?


百八十二の昼       (2003 7 31)   剪

 朝から植木屋さんが3人入って、垣根や庭木の剪定をしていた。耳をすますと三本の鋏のシャッシャッという小気味いいリズミカルな音が聞こえる。わたしは突然14年前ここへ越してくる前にいた中央ハイツのそうじのおじさんの箒の音を思い出した。中央ハイツには3人おじさんがいたけれど小柄なSさんの箒の音は聞いているだけで気迫が伝わってくるような、聞いているこちらの気持ちまで清清しくなるような音だった。箒におじさんの魂がのっているような気さえした。

 四方山話のなかでSさんは戦後南方で遺骨の収集をしたときのことを語ってくれたことがある。ひたすら成仏を願って遺骨に対したとき怖ろしいとは微塵も思わなかったという。

 笹竹が根をはり、つる草がからみつきお化け屋敷のようだった我が家も5時を回ったころには見違えるほどこざっぱりした。しかし今度はきれいに刈り込まれた垣根の隙間から破れ障子が丸見えである。道路から見ると障子の上の方、下の方 破れそそけたさまが芸術的といってもよい絶妙なバランスだった。来週は壁面のペイント工事である。お盆前には我が家もなんとか近隣の評価を落とさない程度にはきれいになるだろう。

 市民企画事業のことで中央公民館に出向く。担当ではないのだが年配の女性がとても親切にしてくださった。帰り際、中島敦朗読会の牛人の朗読が素晴らしかったとわたしをじっと見て云ってくださった。わたしは誉められるとほんとうにうれしくなる。あぁ こうやって一歩一歩努力を積んでいくと自然にドアがひとつひとつ開いていくんだなと思う。杉原さんから初心者向けの語りの講座に4名参加のTELがある。久喜市に語りを根付かせたいという思い、語りを通して子どもたちの後押しをしてゆきたいという熱い想いがすこしずつかたちになってゆく。かなわぬ遠い夢のように思われたことも手を伸ばせばもうすこしで届きそうだ。櫻井先生 語りの仲間 刈谷先生 壌先生 ほんとうにありがとうございます。

 今月は決算にさきがけ未収売掛金回収強化月間だったが、TELなどでお願いしたところ500万以上あった未収金もかなり回収された。受注も増え、急に活気付いてきたような気がする。こういう時こそ、気を引き締めることが肝要だ。

 レタスを買い忘れて春巻きの皮に青紫蘇と胡瓜と納豆をまいてポン酢でいただいた。なかなか美味しかった。ゴーヤチャンプル 卵豆腐 イカそうめん 茄子をオリーブオイルで調理したらこれまたおいしかった。あさりの味噌汁がからだに沁みた。昼はドライカレー。


百八十一の昼       (2003 7 30)   7月果つ

 7月は、生協のカルチャーセンター、響きあうことばといのちの会、県立図書館、トムの会、幸手の舞台、青葉デイケアセンター、老人福祉センター 都合7箇所で語りの場をいただいた。特徴的であったのは7つのうち6つまでがおとなのための会であったこと、3つがわたし個人の活動であったことである。30分ひとりで組み立てて語ることがごくふつうにできるようになった。

 このくらいのペースでできたらいいと思う。新作も3つ、芦刈がほんとうにものがたりのいのちを持った。聞いてくださった方〃のおかげである。つつじの娘も息づいてきた。もうひとつ他の語り手の語りを聞く機会があったのがうれしい。中野区立図書館、響きあうことばといのちの会、神戸洋子さん、上田さん、そして櫻井先生、先生の語りは一度聞くとすぐに語れる。砂に水がしみこむようにわたしのうちにものがたりがしみこんでゆく。

 課題もあった。芦刈の歌をもっと声をはったほうがよいという意見、歌のある語りをという希望もあった。わたしはこれから語りのなかの歌の比重を増やしてゆこうと思う。実験的に歌が3割くらいある語りもしてみたい。作曲がたいへんだけど..歌は語るように....語りは歌うようにというではないか。もうひとつ いままで行き当たりばったり、手遊びや語りのその日のメニューを決めていたのだが、いくつかパターンをつくっておこう、もちろん 集まるひとのようすや天気にあわせてフレキシブルに対応できるようにしておくのはいうまでもない。そして45分の組み立てをしてみること。最終的にひとりで90分は聞き手を惹き付けられるよう、おはなしのレパートリーをふやし、トークの研究もする。

 夏がいないと 家のなかがとても静かだ。そして絞め付けられる様にさびしい。今日一本入札が決まった。4.5日まえ、担当の営業が悩んでいたのを話しを聞いてパックアップを約束し励ましてやったのだが、いくらか効を奏したようだ。わたしのしごとは財務や総務ばかりでなくそうやって、会社のひとがはたらきやすく、意欲と希望を持って仕事ができる環境つくりをし,明かりが足りないところに灯をともすことにあるのだと思う。


百八十の昼       (2003 7  29)    女優

 6時に起きた。階段の天井のすす払いをする、というのも怪奇映画にでてくる屋敷のように灰色の蜘蛛の巣が垂れさがっていたのだ。わか菜がお弁当の日なので鎌倉に遊びに行く夏や他の子たちにもお弁当をこしらえた。10時過ぎて夏を駅まで送った。すこし神妙な顔をしていた。階段を上る夏の後姿に向かって「なつき! ファイト!!」と叫んだら、何度も何度も振り返りながら消えていった。夏はわたしのことをいつもは るかちゃんと呼ぶのだがこんどは一度もそういわなかった。てれているみたいだった。そして一度だけおかあさんと呼んだ。わたしは口のなかで飴玉をころがすようにそのことばを味わった。

 11:30 老人福祉センターに行く。駐車場で時間を調節していたのだが、担当の方は今やおそしと待ち構えていたようだ。すぐにも手遊びをふたつ、おはなしをふたつ。高齢者も担当の方も喜んでくださってうれしかった。

 午後事務所で仕事。6:30より)連絡会議、なんとか先週の予定はいきそうである。8時過ぎ急いで久喜座の例会に行く。11/8.9小ホールでの出し物はわたしの本棚から....朗読と語りの夕べにきまった。このごろほんわりしたとてもいい雰囲気だ。照明、装置、)効果、音響、楽器などもかんがえたおおがかりな舞台つくりをすることになってしまった。

 帰り イトーヨーカ堂(最近夜11:00まで営業している)に寄ったら、向こうで男のひとがにこにこ笑いかけている。知らないひとだ。わたしに微笑みかけるはずがないと、会釈して通り過ぎようとしたら「久喜座の方ですね」.....光太郎の恋を見てくださった方のようだった。なにがそのひとをあんなにしあわせそうに微笑ませたのだろうと思ったとき、わたしはすこし怖くなった。あのひとはわたしが舞台のうえで山田洋子として夫の心変わりを悲しみ怒り復讐を決意し、必死でトレーニングをするのを見ていたのだ。そして歩くこともできなかった洋子が夫を投げ飛ばすとき、たぶん息をとめて見、その気持ちを感じてくださったのだ。芝居をしてよかったと思った。そしてこれからはお店で値切ったり、文句を言ったりもできない。紙くずのポイ捨てもできない。 わたしはとりあえず 女優のはしくれなのだった。

百七十九の昼       (2003 7  28)  おこげ


 お香を焚いたら、パソコンのテーブルが焦げてしまった。雅に美しく暮らすのはなかなかむつかしい。夏がきているので銀座ゼミをおやすみした。なんだか損をした気分だが、夏姫が泊まりに来るのは年に一回だけだから 仕方がない。夕食は一柳(いちりゅう)に焼肉を食べに行った。一柳のマスターは職人肌で気に入った肉がないと仕入れをしないらしい。近頃は上等の肉が少なくなったと嘆いていた。さっと炭火に炙ったカルビはとろけるように美味しい。丹精したトマトの冷やしたのをだしてくださった、イタリヤの唐辛子の漬けたのや自家製のカクテキもサービスで、辛いの大好きなかずみさんはうれしそうだった。

 夏は冷麺やらユッケやら海老やらおいしそうに食べていた。惣もわか菜もさすがに若さで8人分の焼肉はあっという間に胃袋のなかに消えた。
ただいま23:45。今夜から生活を変える。シンデレラになることにした。では、おやすみなさい。


百七十八の昼  (2003 7 27)  いっしょに生きてる空間

 夜半、ネモさんにいただいたお香を焚いて、CDを聞いている。ネモさんは重い荷をおろしたようなすっきりした顔をしていた。たとえ 一回かぎりの出会い、一回かぎりの語りでも、子どもたちの引き出しにいっしょに生きてた空間がしまわれるとネモさんが云った。jたいせつなことを話し忘れたような気がする。でもいいのだ、9月ネモさんとわたしは一緒に九州に行くのだもの。

 夕方、ちょうど必死の大掃除がひと段落したとき夏姫がきた。少しやせて高校生?と思うほど若がえった。駅まで迎えにいっていっしょに買い物をした。茄子の好きな夏のために肉じゃがとマーボー茄子をおなべ一杯つくった。豆板醤とテンメン醤をつかって本気でつくったら、あっという間になくなってしまった。


百七十七の昼       (2003 7  26)  もうそう族

 朝、刈谷先生のレッスン、フェイストレーニングは役者としての訓練ばかりでなく歌でも必須とのこと、先生は譜面台に鏡をのせて顔を見ながら歌うようにおっしゃる。さて今朝もわたしはスッピンであった。なぜか先生の前では素でも恥ずかしくないのだが自分の顔を見るとなると話は別である。斜め下から写るので二重顎に見える、左右のバランスが悪い。しかし先生は「己を凝視める者は己を制する」とおっしゃる。口角を下げないで歌うと確かに高音が無理なく出せるのだが己の顔と対面しながら歌うことは苦行であった。鼻の穴を観察しながら愛を歌うのはシュールである。
 
 レッスンのあと、どんぐりでコーヒーを飲んでいたら今日が第4週の土曜日であることに気がついた。ヨーカ堂の語りのカルチャー教室を見学することになっていたのだ。この教室を主催する上田さんのことを語り以外の友人から聞いたのだが、偶然この教室には橋本さんや関根さん、それに語り手たちの会のセミナーの友人も通っていた。偶然が重なるとそれは必然である。

 ちょうど終り間際、橋本さんの指導をしているところだった、せりふのメリハリ、間、勢いなど細かい指摘がされていた。上田さん自身も絵姿女房を語ったがひとり芝居といっていいものだった。感想を求められたので舞台で語ることを前提にするのであれば別だが、そうでないならひとり芝居と語りは別のものと思う。表現が行き過ぎると聞き手の想像の余地を奪ってしまうのではないかというような感想を話した。上田さんはこの教室の狙いは舞台でも、語ることでもなく、語りを通して、内なる隠された自分を解放することだと言った。

 この教室で学んでいる関根さんも橋本さんも前よりくっきり語られるようになった。身振り手振り、台詞からイメージが喚起されるようになったのではないかと思う。帰り橋本さんと積もる話をした。語りについてはそれぞれが思いいれがあり考えも違う。押し付けるつもりはない。しかしものがたりを伝えるだけではないと思う。そして心に響く語りは好き嫌いとかかわりなくほとんど誰の心をも打つのだとも思う。

 わたしの車の前を改造したスカイラインが走っていた。シャコタンでマフラーは夏みかんが入るほどの直径だ。リアウィンドウに高飛車と大書してある。その下に小さく幸手もうそう族と書いてあって笑った。わたしもさしずめ 語り妄想族である。


百七十六の昼       (2003 7  25)  つないでゆく

 九月 九州ヘ行くことになって とんとん拍子にことが進んでいる。とのさんにもかっちゃんにもネモさんにも会ったとき ほんとうに懐かしかった。どこかで会ったことがある....とおもった。Webでもひとの心や魂、なにを求めているか 伝わるのだ。すみれちゃん、みうさん、junさんたちにいつか会えるかしら? いいえきっと会える。そして 今 この日記を読んでくださるあなたにも会えるかもしれない。

 ネモさんとルカは日曜日7時から浦和駅近く、中仙道のOne stepにいます。よかったら声をかけてください。わたしは下のイラストのどちらかのスタイルで行きます。

 今宵 櫻井さん 市川久美子さんは福岡。


百七十五の昼   (2003 7  24)   話し上手聞き上手


 デイケアセンターに語りに行った。2ヶ月振りなのでわくわくした。手遊び 手始めにぐっとちょっとぱー 亀の子のこのこ とっつこうか ひっつこうか いちべいさんがいも掘って 無謀にもつつじの娘 猫の家にいった女の子のはなし。太田小でもやってほしいと頼まれた。それにしてもお年寄りの様子が固い。担当者が替わっただけでこんなに変化がでるのだろうか。

 仕事で大宮に行く。帰り道大栄橋のしたに夢工房桃李という小さなお店を見つけた。宝石のリフォームと益子・笠間の焼き物を商っている。焼き物も趣味のよい斬新な意匠が多く、それでいて使い勝手がよさそうだ。以前はダイヤモンドの卸をしていてベルギーやイスラエルに年10回くらい買出しに行っていのだそうだ。わたしも昔G.Gの資格をとるために勉強をしていたことがある。久しぶりにルーペでダイヤモンドを見たりして、お茶のみをしながら話がはずんだ。

 それからニットソーイングの店に行き、お店のひとと仲良しになった。読み聞かせやPTAの役員をしている方で名刺をお渡しした。このごろ誰とでも友達になれる、語り手修行の賜物である。ショップの店員さん、銀行の窓口さん、タクシーの運転手さん、なかよしになるといろいろ教えていただけるしちょっとした便宜を図ってくださる、これはおたがいにとってしあわせなことである。ところで目下の夢のひとつは舞台でのお衣装を自分でつくること。

 ジュンク堂で久美ちゃんに会って、本(イタリヤの昔話)を買い、コヤマでコーヒーとニューヨークチーズケーキをいただいた。どんぐりのも美味しいが、コヤマの方がやはり一日の長があった。

 最後にマルイで息子から頼まれた買い物 今は夏・秋というシーズンものがあるらしい。新作が出ていたのでつい自分のも買ってしまった。As know asの前で結わくカーデガンはドレープがきれい。12枚ハギで花びらのようなスカートは、先端にボタンホールがあっていろいろ楽しめる。全部ボタンでとめるとバルーンスカートにもドレスにもなる。アシンメトリーにもなる勝れもの。


語り手と書いてあるような
本日のスタイル


百七十四の昼       (2003 7  23)   命日

 みずみずしい白鳳をたずさえて義妹の見舞いに実家に行き、今日が父の命日であることに気づいた。あれは灼けつくように暑い日だった。 前夜 「ありがとう」....と包み込むように深い声でわたしに礼を言ったきり、目覚めることはなかった。夕方 ひとまず 家に帰ったとき 全天が緋色に染まっていた。幾筋も幾筋も黄金色の雲が棚引き、夏が大好きだった父が別れを伝えているようだった。わたしは声をあげてこどものように泣いた。

 あれから10年、月日がたつのは早いものだ。今日は父に呼ばれたのかもしれない。


百七十三の昼      (2003 7  22)   語り手の杖

 おはなしフェスタの会場、東浦和のプラザイーストは駅から1番線のバスに乗る。昔は尾間木という地名であったが今は緑区というプラスチックの名札のような地名がつけられている。昔 このあたりはどこまでも雑木林がつづき、信じられないと思われそうだが 方言さえあったのである。今は住宅と商業地が隣り合って共存していてプラザイーストは図書館と地域の公民館の複合体のようであるが、建物は洗練されていて二階には山口屋が出店していた。山口屋は浦和では名の知られたお洒落なレストランでケーキとくにミルフィーユが美味しいのだ。

 14時、おとなのためのおはなし会〜ファージョンを聞く〜がはじまった。語り手は神戸洋子さん、はじめに小さいお嬢さんのばらそしてサン・フェアリー・アン。
小さいお嬢さんのばらは語り手も聞き手も緊張しているうちに終わってしまった。あひる池はとちゅうからものがたりにひきこまれていった。キャシーのお人形 サンフェアリーアンへの愛、先生がかってセレスティーヌ(サンフェアリー・アン)の持ち主だったとわかる終盤は聞き応えがあった。

 神戸さんは1971年から東京子ども図書館でストーリーテリングを学ばれた方だった。飾り気のないおひとがら、長年幼児教育にたずさわってこられたことがしのばれる語り口だった。ものがたりと語り手のあいだに薄い空気の隙間があって、そのことが聞き手がものがたりに入りこむ妨げになっているように感じたのは残念だった。そしてキャシーも小さいお嬢さんのばらに出てくる幼い三人も、おとなの視点でみた子ども像を作りすぎてしまったという印象が感じられた.。あと語りの途中での言い直しが多かったのはせっかくいいおはなしなのに惜しかったと思う。最後に語りについて話された。



  「
語りはおはなしを通して愛・幸せ・真実を(聞き手に)届けることである。人類は脳に語るという回路を持っている。たとえ錆付いてしまっていても語っていくうちにその回路は甦る。6分くらいの物語を6回ずつ6話語ると、語りが自分に身についてくる。語るときは聞き手のうしろに自分のもっともたいせつなひと、こどもであってもおとなであってもこのおはなしを聞かせたいひとを想定して第一声を出すように自分はしている。

 はじめはむかしばなしのほうが語りやすい。こぐま社の世界のおはなし、グリムでも池田香代子さんの訳のように語り手が参画しているテキストは語りやすい。おはなしかごが出しているちいさなものがたりは初心者に向いている。創作(※自作ということではなく昔話以外の作者があるものという意味のようだ)を語るときは、作者や訳者を尊重して一言一句そのまま語るのが本道だがそのように努力して、なお数回間違えるような場合はテキストの方を変えてもよいと思っている。自分はそれをいい加減ではなくよい加減(語り手にとっても聞き手のとっても)と呼んでいる。
  
 松岡さんから語り手はボートのこぎ手であるから、どうしても向こう岸に着かなければならない、途中で沈没(物語を放棄することらしい)させてはならないと教わっている。途中まちがえても間違えたことは聞き手に悟らせないで通すことが必要である。言い直しはしないほうがよい。最後に声はとても大事である。アナウンサーのように発声する必要はないが息を吐くのではなく声を出すのである。」



 ああ ほんとうにそうだと納得のいくことばもあったし 首をかしげるところもあった。神戸さんはものがたりを覚えるのは本当にたいへん...とおっしゃっていたがわたしはそうは思わない。むつかしいことではないと思う。文字を暗記しようとするから大変なのである。たしかにひとは語るという回路を持っているのだ。脳ではなくてより魂に。

 ものがたりが自分の身になじむにはあるていど時間が必要かもしれない。語りこむこと、聞き手との共同作業によってものがたりは生成し成長する。ものがたりが語り手の魂に沁み込み、聞き手の魂にも沁み込み交流し、いのちをもったものがたりの世界がそこに生まれる。これはつくるということとは異なる。かって存在したものが語られることで今甦るのである。語り手が恣意的にものがたりの世界でなく自分の世界を聞き手に押し付けようとすると聞き手に葛藤が生じる。ものがたりの世界は小さく窮屈になり息苦しくなるのである。このとき語りは語りでなくなる。ひとり芝居に近いものになる。

 たとえちいさなものがたりであっても語られるものがたりには人生が、愛や別れや死が息づいている。神話や伝説、昔話や民話はもちろん、ひとの心を捉えてやまない小説も、思い切り大胆にいえば、太古から伝わる神話や伝説、昔話や民話の再話とさえ云えるのではないか?ひとの魂を揺るがすものは真実や愛、美しいもの、勇気、涙、笑いなのだ。語り手はただものがたりを伝えるのではない、ものがたりを通してそれらのことを伝えつづけ、ひとの魂に響かせるのだ。それは語り手が忘れてはならない大切なことだと思う。

 語り手はただものがたりを覚え、技量を身につければよいのではない。児童文学に明るければよいというのでもない。語りの歴史や分類に精通していればよいのでもないのだ。真摯に生きること、愛して愛されて、泣いて笑って日々をいとおしみ、真実を見つめようとしつづける意志が必要なのである。肉眼で見えないものを見ようとする意思が必要なのである。それがわたしが語り手として歩き続けるための杖である。文字もない昔、語り部には大きな力があった。神や精霊と通じていた。失われたものがたりを甦らすために命を捨てた語り部もいた。いつかはひとの魂を揺り動かす語り手になりたい。