四百九の昼  (2004 3  31 ) 雨

 夜来の雨があがり、小鳥の声が聞こえる。小鳥の名は知らないが、櫻の蜜を啄ばんでいるのだろう。この川沿いだけでも幾千幾億の花が咲いていよう...一輪一輪の櫻は雨に打たれ、きのうより透きとおって朝の日の光にかがやくばかりであろう。

 さぁ、今日も一日がはじまる。


四百八の夜  (2004 3  30 )  櫻

 今年はもう大丈夫だろうと思っていたのに、五陵公園の前、櫻の堤のしたをとおる時、胸がしめつけられて息ができなくなった。苦しくさりながら甘美でさえある一瞬  去来する櫻吹雪、あれは4月朔日、一年に一度の........

 いつか、わたしが彼岸にわたるときも、川の岸には白い櫻が朧にかすんでどこまでもつづいているような気がする。音もなくふりそそぐ花のような雪のような........

 どうか、この疼く痛みを忘れさせてください.........いいえ、忘れさせないで.......
いたみはいのちそのもの、わたしをわたしにしている聖痕、この傷口こそがわたしを地の底深く流れる源流にいざない、天の高みをあくがれさせる........

 透いてゆくまで.........


四百七の昼  (2004 3  29 )   官能

 結局、このシーズンで一番おもしろかったのは砂の器だった。成功のひとつは現代に時代設定を引き寄せたこと、第二に秀夫と父親が彷徨する理由を、ひどい村八分によるいじめとそのために妻を亡くした秀夫の父の復讐、殺人であったことに、幼い秀夫の亀嵩からの逃亡が殺人犯の息子であることから受けたいわれないいじめであったことに語り換えたことである。現代ではらい病が隔離される病でないことと、もしかしてらいを忌避するテーマ自体がタブーになっているもかもしれないが、かえって直接的ないじめという理由付けは説得力があった。

 秀夫は内心をほとんど吐露しない。秀夫の代弁をしているのは今西刑事、よって今西刑事は秀夫のスーパーエゴといってもいい。すなわち自分を追い詰めているのは刑事の姿を借りた自分であるということ、秀夫が和賀英領から殺人犯の息子である本来の自己に回帰することで、はじめてピアノ協奏曲「宿命」が完成に至った....もっともこれは今西刑事から説明がなされるに過ぎないが.........ことは示唆的である。秀夫は「宿命」を作曲しながら、父と旅をし、辛い生、そのなかにひとつぶふたつぶの煌めく一瞬があるゆえに一層耐え難い生を再び生きる。

 一方、もうひとりの代弁者であるあさみ、これは原作にはない役だったがどうしてもそこにいなければならないという必然は感じなかった。あさみはいはば覚醒していない秀夫である。しかし彼女がいることで今西と秀夫のあいだの鬩ぎあいが減殺されてしまうような気がした。男同士、追うもの、追われるものにもっと焦点を絞ったら...より官能的な物語になったような気がする。そこには男女の愛より、もっと濃密な愛に似たなにかがあったのではなかったか。あさみがごくふつうの女性であればよかったのに。しかし松雪が演じるとふつうではなくなるのだ。 
 
 最終回、台詞を得た、語ることばを持った中居はよかった。しかし、中盤.....ことばを持たない秀夫にもうひとつなにかがほしい。芝居はことばの力ははんぶんもない。にじみ出るもの、匂いのようなもの、肩につもる埃のようなもの.....

 天命、宿命、運命という。運命は努力で変えられるという。

 

四百六の昼  (2004 3  28 )   日本の芸

 夕べ、ローザンヌ国際コンクールの録画を観た。予選を勝ち抜いた13人のなかに15歳から18歳の日本の3人の踊り手がいた。クラシック、コンテンポラリー(モダン)とフリーバリエーション3部門を競う。だいぶ遜色なくなったとはいえ、すがたかたちでは欧米にはまだかなわない。しかし技術ではトップクラスである。解説者が「クラシックは制約の塊だ」というのを聞いてはっとした。そう、これは先日刈谷先生から聞いたことだった。

 刈谷先生は「自我を消せ、機械になりきれ」とおっしゃる。「あなたの朗読は雰囲気でやっているうちはまだ素人芸だ」よとおっしゃる。お見通しというわけだ。デイケアでおばあさんのひとりが「先生は、雰囲気があるねぇ」と言い。思わずわたしは「そうよ、雰囲気しかないのよ」と返して大笑いしたのだが、それに乗っているだけでは先がないということか。

 河合隼雄の対談集で.....日本の芸の場合は西洋的な意味合いでいう自我は一度壊さなければならない。そしてカタチができてからそのひとの人間がじわじわじわじわできてくるから80歳.90歳までかかる.......と書いてあった。研いで研いで研ぎ抜いて、それで90位になって精神があらわれる、表れないかもしれない......芸の道は深くて遠い。

 だが、西洋においてもクラシックにおける制約は音楽でも踊りでもある。ローザンヌでもフリーバリエーションはほとんどコンテンポラリーが選択されるようになった、つまり踊り手は制約を好まない。好きなように表現したい。制約があるからこそその限られたところでなにができるか、せめぎ合いがあり成長もあるはず、なにをどう鍛えるのか。技術という土台があって、自我を捨てて.....はじめて降りてくるものは確かにある。おなじ対談集のなかで村上春樹が「小説をいままでいくつか書いてきて、書くたびに癒されてきた」というようなことを語っていた。そう、わたしもなぜ語りつづけてきたかといえば語ることで癒されてきたのだ。歌って、書いて、踊って、芝居してそのたび ひとは癒される。

 そのみずから癒すことと、自我を削ること、芸の修行はどこで結びつくのだろうか。それともさいしょからふたつのいき方があるのだろうか。刈谷先生は余分なものを削ぎ落としてゆくのがレッスンだという。そのあたりは鍵であるような気がする。自我という濁りのようなあくのようなものが書くこと、語ることで薄められ、レッスンなどで削られてゆくから癒されるというのだろうか。

 河合隼雄はユング派で、自我と非自我は対立するものではなくつながっているものだと書いている。すなわち井戸の底を掘ってゆくと水脈にたどりつく。そこは人類みな共通のところでカウンセリングもまたそういうようなものだというようなことが書いてあるのだが、これは語りのセミナーへ入るとき、なぜ語るかというレポートや往復書簡で偶然わたしが書いたことと重なるのだ。

 語ることはひとの魂の奥の共通のグラウンドに響かせることであろうと思っている。差し出し、受けいれられることもあるけれど、もっとおおきな忘れ去っていた大切なものを思い出すような、懐かしいきよらかな場所に還ったようなあの幸福感はなんだろう。癒しではなくて、自己表現ではなくて。


 ところで日本の三人のうち15歳のふたりはスカラシップを勝ち取り。年長のひとりは世界の舞踊団で学ぶプロ研修賞を手にした。なかでも地味だけれど井澤諒さんの踊りが目に残っている。

四百五の昼  (2004 3  27 )   SUMMER TIME と わらべうた

 朝、末の娘と佐倉へ向う。わか菜はバンプオブチキンというバンドが好きで、佐倉がその生誕地、つまりファンにとっては聖地というわけで、いっしょについてきたのだ。赤羽−田端−日暮里と乗り継いで京成線に乗る。平坦な土地灰色の街並みがつづく。勝田台、ユーカリが丘、友人たちが住む地を通りながら、このあたりは野や畑から造成されたあたらしい街なのだろうと思っていた。それが佐倉が近づくと風景が一変する。野山は起伏にとみ、風が感じられるのだ。

 駅に着いた。娘は感激している。わたしたちは南口に降りて花屋をさがしてあてもなく歩いた。みやげ物屋があり、観光案内所があり、美術館の案内もあって、ここはもうベッドタウンの範囲を越えたところなのだとはじめてわかった。赤い文字の花やの看板をみつけて思わず小走りになる。春のいろの花かごがショウウィンドウに飾られていて、それにしようと思ったら、店内に青い薔薇があった。世界中の園芸家の夢である青い薔薇、栽培できたらノーベル賞ものだという青い薔薇....その夢はいまだかなわず。だからそれは青い色素をすわせた薔薇で、そのせいかすこしつくりものめいた生命とうらはらの死の匂いが漂っていた。

 でもわたしはその花をjunさんに贈りたかったのだ。あやうい美しさのばらをうす青のデルフィニウム?とレースフラワーをあわせて花束にしてもらった。会場に定時について上の端に坐っていたら、子ども連れの細身のひとが座席のあいだを縫うようにきて目があった。「lucaさん! 」饒舌なわたしがなにもしゃべれなかった。プログラム9番にたどりつくまで、junさんはどんな気持ちで出を待っているのだろうと思いながら、わたしも待っていた。

 ”Summer Time” junさんが舞台に現れ、歌いだしたとき、ステージはそれまでとは全く異なる空間になり、時間は濃蜜になった。目を背けたい気持ちがないわけではない、それなのに目が離せない。泣くまいと思うのに涙が滲む。心臓が掴まれたように身動きできない。ならいはじめてそう間がないし、まだまだこれからのところはあるけれど、それは魂からの歌だった。

 次女は佐倉に未練がありそうだったが、池袋に向う。4時から久美ちゃんの企画で「わらべ歌の講習会」があるのだ。3時半に駅に着いたのに、迷子になってあちこち聞いたあげく4:20頃着いた。その途中とても怖ろしいことがあって、娘に死にそうな思いをさせたのだがそれは書かないでおこう。

 てってのねずみ、はしかいねずみ♪麦くって、わら食って、米食ってこーちょこちょ

 舟の船頭さん、乗せとくれ、あぁ ぎっことん ぎっことん
 今日は荒波 乗せられぬ、あぁ ぎっことん ぎっことん

 講師はわらべうたはスキンシップだと言われた。手をつなぐ、手をさする、くすぐる 子どもは遊ぶ天才だとのこと、茶壷、茶々壺など床のなかのざれ歌、また花街では花町の唄をいつのまにかわらべ歌にしてしまったのだそうだ。手をつないで輪になって、「れんげの花咲いた、今年の花はよう咲いた お耳をまわしてすっとんとん、もひとつまわしてすっとんとん」をしていたら、いつのまにか40,50のおばさまたちもが子どものような顔になっていた。

 Summer Time とわらべ歌、対極にあるような歌を一日のうちに聞いたので、まだ整理がつかないのだけれど、歌には力がある。7時過ぎ、東京にはもう行かないという娘と疲れ果てて帰還。


 
四百五の昼  (2004 3  26 )  隅田川

 川は流れる、日々も、ひとびとも、流れ去ってゆくものをこの手に掬い取りたい、せめて煌めきをしるしておきたい...と思いながら追われるように過ぎ去ってゆく日々.....というわけで今夜まとめて更新しましょう、写真も。

四百四の昼  (2004 3  25 )  カフェ・クレール

 忙しい一日だった。刈谷先生の話、クラシックとは制約の塊であることなど、発声でようやくわかったこと、できたことがあって、それは今夜、デイケアのことも.......これから浅草に行く.....


四百三の昼  (2004 3  24 )  卒業

 次男の卒業式だったのだろう、今日は。単位が足りなくて進級できなかった惣は学校をやめることにした。友達が送別会を開いてくれたそうだ。先生方に挨拶したらどの先生もひとことずつ声をかけてくれて、なんだかうれしかった。仕事がんばれそうな気がする....と携帯のむこうですこしうれしそうに惣は言った。

 よかったね。よかったんだね。と言ったら、うんよかったんだよと言った。けっこう苦しかったけどね、お互いに。おかあさん、なんだか ほっとした。あしたからがんばってね。

 惣はIQは高いが偏差値はぜんぜんでとにかく朝起きられなかった。わたしのしごとは朝、惣を起こすことからはじまった。お昼までかかることもよくあった。でも友人は大勢いて、かわいいガールフレンドもいた。うちの息子たちと娘たちはほんとうに対照的だ。男の子たちは男同士でたむろして遊ぶのが一番おもしろいという。どうも大望は抱いてはないようだ。愉しくくらしたいのだ。女の子たちは密かな望みを抱き、自分の現実とのギャップに悩んでいる。二人は姉妹ながら友人同士のように親密だ。

 痛いのが嫌、傷つくのがつらい、それをわたしは思わず攻撃してしまう。隠れたり女々しいのは好きではないから、自分がつらいときは余計に余裕がなくてポンポンとめようがなくことばで傷つけてしまう。それで惣に先日たしなめられた。「おかあさん、おかあさんの気持ちはわかるよ。でも、おかあさんはその気持ちをちゃんとわかるように伝えなくては.....言ってはいけないことばを言ったのわかるでしょう」
........で、わたしはことばがなかった。ほんとうにそのとおりだったから。そして妙に安心したりした。この子はだいじょうぶ。

 今日はみなにつきあって2時半まで会社で仕事。もうすぐ朝だ。元請が30パーセントはねた仕事を管理から書類作成までこなさなければならない。やっぱり元受にならなければつまらない。さぁ がんばろう。


四百二の昼  (2004 3  23 )  からだで

 おととい、ちょっとした悲劇があった。うちの会社では実行予算を出していないときは、仕入れ覗い書を出すきまりなのだが、最近緩んできて、すでに発注したあと、日報といっしょに提出するひとが多くなっていたのだ。このシステムにはわたしの願いがこもっている。ひとつは実行予算をきちんと出し、自分で心積もりをした上で工事に臨んでほしいこと。万一出せないときも、当日バタバタ慌てて段取りをするようなことはしないで、できるかぎり事前に準備をしておくこと。個々の工事の日報入力により原価管理の半ばは達成されたが、予測利益を確保し、赤字工事を防ぐには結果としての管理よりは進行形のそして前を見据えた管理が必要なのだ。今、会社はやっと進行形の形態である。

 銀行に入金に行く前、話をしたい役員がいた。あまり協力的なひとではなく、日報も毎日うたないで、まとめてうち、内容も.......なのである。わたしはおだやかに話をしたつもりだが、相手はストレスがたまっていたのか激昂し、わたしも怒りであたまのなかが真っ白になり、ほかにひとがいたので冷静を装ったが、内心は滾っていたらしく、書類を忘れてしまった。帰って探したがなぜかない。金額にして100万近い損害で、まだでてこないとは限らないが、とりあえず覚悟は決めた。

 からだで返すしかない。これまでもやらねばならないことは、最低限してきたつもりだが、社内の軋轢や時間がとられることが億劫で、今まで必要を知りながら手をつかねたことに取り組もうと思う。積極的に関与して+と出るか-と出るか、100日間と日数を決めて力を尽くそう。長男が仕事を手伝いだし次男も学校をやめて手伝うという今だから、これもいい転機かもしれない。もちろんレッスンも語りも続ける。仕事もほかのことも時間のなかで質を高めよう。今日は第一日目、机や床の拭き掃除、名刺の作成、一週間の損益のチェック。銀行と打ち合わせ、日報のチェックをしていたら、かのひとの現場の日報が半ばでたらめであることに気づいた。喧嘩はしないで語り手としてこちらの気持ちを理解してみらうように話してみよう。


四百一の昼  (2004 3  22 ) 氷雨

 五陵公園の南西の隅に立つ桜は、毎年まわりの桜より一週間は先駆けて咲く。すこし小ぶりでごく淡いピンクの花がもう七分の咲きなのに氷雨に濡れている。会社の帰りにごまのところへ寄って缶のペットフードを与えた。ごまにとってはめったにないご馳走なのだろう、それにとってもおなかが空いていたのかもしれない。氷雨に濡れそぼってがつがつ食べた。授乳中は2.3倍の食餌が必要だそうだ。ごまを見ていると他人事とは思えない。初産でさぞ心細いだろう。4匹の仔犬を育てることに必死なのだろうと思う。そう思うといても立ってもいられなくなって、ここにきてしまう。

 子どものころ、仔犬や仔猫を拾っては切ない想いをしたものだった。目があいていないとまず育たなかった。のちにアルバイトをするようになり多少なりとも自由になるお金ができるようになると獣医のところで動物用のコナミルクと哺乳ビンを買い、以前よりはたやすく育てられるようになった。それでも仔猫がちいさいうちは夜眠るひまもなかった。ちいさくていとおしいふわふわした毛のかたまり、おぼつかない足取りを応援する、心配と晴れがましさが入り混じった気分、、薔薇の花びらのようなざらざらした舌でなめられるこそばゆさ、暗いあかりのしたで覗き込むと古毛布のなかで潤んでいるちっちゃなハシバミみたいな眼。

 痛くてしあわせな日々、今はあんなふうにしあわせにはなれない。ごまを見ても、仔犬を見ても切なくてやりきれないだけ。どうしよう、だれか可愛がってそばにおいてくれるひとはいないだろうか。

 中島敏枝さんから承諾のメールをいただいた。




四百の昼  (2004 3  21 )  神のピエロ

 日曜日、山のような洗濯とそうじの日。6人分の洗濯物ときたら、なかでも靴下の数はハンパじゃなくて、わたしはほとんど手洗いなので2時間のあいだ目の前の鏡を見てフェイストレーニングやスクワットをしながら洗濯をつづけた。ダンスは膝の負担になるかもしれないという心配は杞憂だった。かえってラクに歩けるみたい。すっかりはまって娘たちとGet up and dance というビデオを見ながらエクササイズを踊ってみる。娘たちもすっかり夢中で当分ブームは続きそうである。

 ダンスといえばニジンスキー賞をとった振り付け家?が「(ダンサーは)なんのために、なぜ踊るか、つねに自分に問いかけてゆかなければならない」と言っていた。ニジンスキーは「わたしは神のピエロである」と言っていたそうだ。わたしも語り手としてこの日記でなぜなんのために語るか自分に問い続けてきたように思う。...実はこの31日でプロバイダが業務を終了する。このままではHPもなくなってしまうわけで、わたしはこの先ホームページをどうしようかすこしばかり悩んでいた。河岸を換える、あたらしいHPをたちあげる、それともHPはやめてその時間をほかのことに費やす。語りとは自分にとって何か、これからどうしてゆけばよいか一応の答にたどり着いたので一旦しめようかとも思ったが、ここに通ってくださる方がいるかぎりは細々でもつづけてゆこうとこころに決めた。そう、問いかけるのは一生のことなのだ。あと10日しかないのにまだなんの準備もしてないので、31日に間に合うかわからないが、もし締まってもすぐ引越しして再開するので待っていてくださいね。

 「28日後」という英国映画のビデオを見た。かなりかなりおもしろかった。それから娘たちとケヴィンとD2に買い物に行く。デッキブラシ、サンダル、風呂の蓋など求め、マヨたことタイヤキ(蓬団子入り)を買って車で食べた。おいしかった。それから市場で買い物をして帰宅。今日は風呂場と洗面所のそうじもできてとっても有意義に過ごした日曜日、掃除はHPの引越しに欠かせない過程なのだ。明日はわたしのお部屋の掃除をしよう。

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三百九十九の昼 (2004 3  20 ) 春の雪

 会社の経営とはひとを育てることだと思う。会社はひとが寄り集まった集合体でありひとつの意志を持たねばならない。ひとの生きる力がある程度コミュニケーション能力で左右されるように、会社もひとつの生命体として機能するには、社内・社外におけるコミュニケーションが必須なのだ。縦のつながり上から下へ、また下から上へ、横のつながり、隘路も必要である。単純にトップダウンをすればいいというものでもない。社員個々の意識の向上、技術の向上が会社の存続に大きく影響する。それぞれが伸びようとする意志を持ち有機的に結びつき、あたかもひとつの生き物のように行動すること。会社の目的とは存続し継続することであり、社会に寄与しつづけることであり、構成員の生活を護り続けることである。
 わたしの役割は護り育てること、血流のようにみなの労働をスムーズに金銭という記号に換え外部から取り込み分配し、意志を伝達し共有する場として会議を開き、社内のシステムや個人の問題点を把握し的確な手を打ち、ひとりひとりがより能力を高め発揮できるようバックアップをすること、事前にトラブルの芽をつむこと そうすることではじめて数字が動いてゆく。

 朝、事務所できのうのミスをカバーし、刈谷先生のレッスンに行った。今日は示唆的なことが多かった。母音で響かせるということ、子音はつけたし、音を連なるものとして発声する、無駄な動きをしない。自分の問題点やくせをまず知ろうとすることなど。発声のレッスンのはずがだんだん奥が深くなってきて時間が足りない。次回は時間を延ばしていただくことにした。このごろ洋服などはさっぱり買わない、いや買えない。自分自身に資本投下することがおもしろく、これにはキリがないのだ。

 事務所にもどり、夕食の買い物をすませ、図書館に4/25の下見に行った。70名でいっぱいのこじんまりした視聴覚室だが、語りにはちょうど良さそう。
つい、図書館で本を読みふけってしまった。三度事務所に行き、娘たちとダンスのレッスン、今日はウタダヒカルのオートマチックや甘いわな、ビートルズ、ダンス天国、ドレミの歌はおはなし会で使えそうだ。前回より格段に体のキレがいい。錆付いていたからだがギコギコいいながら動きはじめた。歌もダンスも肉体のコントロールであるが、これがなんて気持ちいいのだろう。あたかも自発的に動くように、脳の指令、イメージと肉体の動きが近づくといいのだが、鏡に映る自分の姿を見ると今は思わず噴出してしまうのだった。


三百九十八の昼 (2004 3  19 )  師恩

 カタリカタリの月例会、発声練習のあと、宿題の「権現堂の伝説」を自分の言葉で......を順番にしていただいた。1月の例会では一度聞いたおはなしを即興で語ってもらったのだが今回は文章に練ったものを語ってもらったのだ。もともとのはなしのあらすじはこうである。

 幸手の権現堂の堤(車で15分ほどの場所にある)は、そこが切れると江戸八百八町が水浸しになるという大切な堤である。あるとき大水で堤が切れ濁流が田畑を呑んだ。村人たちは堤奉行の命令で堤の修復にとりかかったが、せっかく修繕しても一夜のうちにまた堤防が切れてしまう。村人たちは大水の被害と昼夜を分かたぬ工事で疲れ果てていた。そんなある日夕霞の堤を巡礼の母娘がやってきた。母親は村人たちをねぎらったあと、濁流を見つめながら「こう何度も堤防が切れるのは竜神さまの祟りに違いない。これは人身御供を立てねばなるまい」とつぶやいた。それを聞いた堤奉行は村人たちを集めて「誰か、人身御供に立つものはおらんか」と言った。誰も命を投げ出そうとする者はいない。もう一度堤奉行は叫んだ。「誰か、人身御供に立つ者はおらんか」.押し殺したような沈黙のなかどこからともなくこんな声がした。「言い出した者が立てばよかろう」巡礼ははっとしたようすでしばしうつむいていたが、やがて意を決した様子で「よろしい、わたしが人柱にたちましょう、どうかこの娘をよろしくお願いいたします」といったかと思うとあっという間もなく濁流に飛び込んだ。そして娘も村人の手を振り切って「かかさま」と叫び母のあとを追った。不思議なことに母娘が飛び込んだところから水はさあっと引いて、難工事がうそのようにはかどり、それから村人たちが水害に悩まされることはなかったという。今でも権現堂の堤には母娘の巡礼を供養する石碑が立っている。
 最初の原田さんの語りがはじまってから、わたしはゾクゾクした。原田さんは親と娘の別れに焦点をあてて丁寧に語った。佐々木さんのお話は薄桃色の桜が目に浮かぶように美しく、和歌が添えられていた。そして折原さんは巡礼が自分の意志でなく、娘を病から救うために、村人たちから頼まれて人柱に立つというおはなしに語りかえていた。庄司さんの語りは清潔感があった。杉原さんはライフストーリーを語った!また、新人の高島さんがおなじ物語を朗読してくれたことで、みな朗読と語りの違いを実感したと思う。朗読にも朗読者の想いがのらないわけはない。しかし朗読者は黒子のように物語の影にいる。
 語りを勉強しはじめてようやく6ケ月、技術的にはまだまだだが、ものがたりに自分の命を乗せて語るのだという語りの本質はそこに確かにあった。語りを聞くことがこんなに楽しいなんておもわなかったし、おなじおはなしを何度聞いても飽きないのが不思議だった。これは.....わたしのよく知るひとたちの語りだから......いや、そうではない。みな違う物語だから、ひとりひとりがこころで魂でものがたりを生きたからなのだ。なかには子どもの苦しみを感じ一ヶ月悩み続けたひともいたし、老いた親の看護に明け暮れたひともいた。そうしたひとりひとりのいのちの輝きがのった物語だからこんなに胸をうつのだろう。

 午後は浦和に行った。帰り9時も過ぎて、伊勢丹AGIOのはす向かい、Tully'sの二階のイタリアンレストランに寄った。不況だというのに大勢の男や女で夜は賑わっている。見ていると二人連れでお金を払うのはたいてい女だった。小柳雅史さんというギタリストにも会った。4月インディーズデビューだそうだ。バンド名は忘れた。今日は印鑑を忘れ、契約書を送るのを忘れ、大変な一日だった。

 夜、櫻井先生のお声をきいた。富山に行かれるという。わたしはどうして櫻井先生の声を聞くとこんなにしあわせな気持ちになるのだろう。恩師ということばはいままでわたしにとってそう意味がなかったけれど、このごろ神恩、師恩、親恩ということばが身に沁みる。櫻井先生との出会いがなければ今日のような響きあうよろこびを知ることもなかったのだった。

三百九十七の昼 (2004 3  18 ) おおきなおはなし会

 浅草に行こうとして、ふと思い出し橋本さんにTELしたら今日はトムの会の打ち合わせ。4/24に「大きなおはなし会」が開かれる。埼玉では久喜の県立図書館が児童書を担っているのでこのような催しが企画されたのではないかと思う。幼児からおとなまで5部にわけて4つのおはなし11の大型絵本と紙芝居、4つの手遊び、司書さんたちが作成したプログラムなので、あらかじめ内容は決まっているが、それはそれでふだんやらないようなものができる。わたしは「三人の素敵な仲間」黒マントの泥棒三人組の大型絵本、さっそく黒いマントが役に立ちそうだ。翌日4/25は中島敦朗読会、5/8は川口交流会、6/5は中野図書館。面白そうな会が続いてわくわくしてしまう。

 友人からTELがあってお昼をご馳走してくれるというので迎えに行った。痩せてやつれたので驚いた。彼女の夫君は1.2年前、倒産した会社を引き継いで独立した。彼女はこちらの都合などとんとおかまいなく朝晩相談のTELをよこし、11月頃わたしは 「なんでもかんでも聞こうとしないで自分でどうしたらいいか考えたら」と突き放してしまったのだが、業績は今はずいぶんいいようだ。二人で相当な苦労をしたようだった。話し方もまえよりずっと丸くなった。彼女はわたしよりずっとずっと真面目で、学校の役員を引き受け、お弁当を毎日つくり五月蝿がれるほど子どもたちのために尽くした。その子どもたちがそれぞれ独立するという。わたしは子どものことでは手抜きをしたから、子どもたちは独立などするそぶりもない。

 夜、ごまちゃんの様子を見に行った帰りに、「おかあさん、あまりいいおかあさんではなかったね。みんな素直で優しいことは間違いないけれど学校では苦労したね」と言うと次女から「おかあさん、わたしも学校は好きじゃない。だけど学校のことは絶対じゃあない。性格がよければいいじゃない」と慰められた。子どもは思いもかけないことを言う。このあいだ4人で仲良く話しているのを黙って聞いていたら、「オレはおかあさんが髪を短くしてパーマをかけたときスゴイショックだった」などという。「おかあさんは昔きれいだった」とかほんとうに本のなかばかりじゃなくて、母親は子どもにとって特別な存在なんだと濡れタオルを投げつけられた気分だった。今のわたしときたら女を捨てている、恥もなぁんにもなくなってしまった。靴下片びっこでも平気だし、ストッキング伝染してても気にもとめない、どうする?アイフルだわ。

 ところでブランでの食事はとても美味しかった。ご馳走してもらうってとってもハッピーだ。ことにそれが心からのもてなしである場合は.........そのあと古巣で懐かしい友人たちと楽しく話を交わし、夜は久喜座の練習。弟とかるいバトル、ジャブの応酬、銀行で借り入れOK、金利2%。


三百九十六の昼 (2004 3  17 ) 仔犬

 まりとつまらないことで喧嘩して、その勢いで玄関の大そうじができた。情けない原動力だが、怒りは原動力になる。六人家族なので履けなくなったくつが山ほどでてきた。整理してそれから娘たちと水とドッグフードを持って鶏小屋にごまのようすを見にいった。鶏小屋とは置き場の通称でそこには孔雀と鶏がいる。ごまは生きていた。4匹の仔犬たちといっしょに。ごまはかずみさんが拾ってきた黒い犬である。おとなしい性格のよい犬だが、そのごまが仔犬を生んだのは10日前のことだ。4匹もの仔犬をどうしたらいいのだろう。だれか、犬のほしいひとはいませんかぁ?プラントにも二匹いるのだ。人間も犬も鳥たちも生きるのはたいへんだ。

 ペット産業はさびしい人間の多いせいで隆盛を誇っているが、その影で毎年60万頭?もの犬が殺されているのだそうだ。車のなかで次女が「今日学校の帰りに豚が詰め込まれたトラックを見て涙が出た」と言っていたが、それでもハムやベーコンは食べる、焼き豚も豚カツもだ。なんで命は命でしか購われないのだろう。まりは「わたしはきっと年取って死んだら、おなかをすかせたペットに食べられるんだわ、そして一人暮らしの老婆、ペットに食われるとかニュースのはしっこに出るんだわ」と言い、次女とわたしは思わず笑ってしまったのだが........そんなこともあるかもしれない。人間もたまには餌として食われたほうがいいかもしれない。それが公平ってものだ。生きたままはいやだけど。

 .......ロッソでピッツァと.パスタとサラダそれにケーキをいただいた。(......のところは度忘れ、だんだん......が増えてゆくのだろうなぁ)それから電気釜を買って家に帰り、夕食は娘たちに頼んで連絡会議、3月は年度末で売り上げは6000万を越すだろう。どの部門もおおわらわだ、ここできっちり態勢をたてなおして、怪我のないよう、トラブルのないようにと確認しあう。仕事が等分に平均して出るならどんなにいいだろう。でも今は稼げる時に稼げるだけ稼ぐしかない、明日のことはわからないのだもの。

 中島敏枝さんにおとうちゃまのことを語らせていただきたいと手紙を書いた。


三百九十五の昼 (2004 3  16 ) オ−ラ
 
 Qちゃんがオリンピック出場の線にもれたのはがっかりだった。たしかにほかの選手もみながんばったのだろうが、条件の違う大会でのタイムや優勝したかどうかなどだけで選考するのは腑に落ちない。個人的には高橋尚子さんに出てほしかった。なんだか自分も元気が出てくる感じがするのだ。Qちゃんならきっとやってくれるみたいな信頼感もある。ひとの個性って摩訶不思議だ。そこにいるだけで場がぱっと明るくなるキャラもいるし、なんだかわくわくしてくるひともいる。波動っていうかエネルギーをまわりも受けるのね。舞台上のオーラとは少し違う気がするけれど。オーラといえばそれぞれ色があるのだそうだ。アウルともいい、厚いほど其の人自身を護る働きもあるそうだ。

 友人夏樹の元夫広川氏はひとのオーラを見ることができると豪語していた。「わたしのはなにいろ?」と聞いたら 「白、一番強い色」と言っていたがほんとうに見えていたか眉唾ものである。わたしは一度だけオーラを感じたことがある。それは建て直す前の東京宝塚劇場でのこと。公演のあと劇場をとりまくようにスターの出を待っているファンがいて、妹につきあってわたしも平みちさんを待っていた。一瞬のことだった。光が通り過ぎたような感じだった。それとは違ったオーラを見たことが2回ある。一度は叔父だった。濃い色のジャケットを着ていたが何度、目の迷いかとしばたいてみても、もやのようなものが見える。淡い炎のようだった。

 おととい、めずらしく余分にお金を持っていたので衝動的にミュシャのブルネットを買ってしまった。うちに帰ってよく見たら、復刻版のほうだったのでちょっとがっかりした。 リトグラフやデッサンは絵とくらべて手ごろなのでたまに買うことがある。今ほしいのはリチャード・フランクリンだが、若くして飛行機事故でなくなったため寡作なこともあって市場にはほとんど出ない。それに自分のものにしたら持ち主は手放さないのではないかと思う。でも、持つと持たないのあいだにそう隔たりがるわけでもない。手を触れ間近に見る喜びを夢見ている時間のほうが買って手元にあるよりなんぼか豊かだと思う。わたしの場合お金は持たないで歩くのにこしたことはないようだ。


三百九十四の昼 (2004 3  15 ) つれづれ

 セミナーの仲間久美ちゃんが月間MOEの4月号、ぐりとぐらの書店の児童書担当の座談会のページに登場している。さすがは語り手、座談会をリードしている。よかったら見てください。


 わたしは末吉さんが送ってくれた語りのビデオ、義民佐倉惣五郎の物語を見て、ことばがなかった。ひとことでは言えないけれどいくつか引き出してみよう。語り手は女性が多い。畢竟、語り口はこまやかで優しい。骨太な語りをするひとはいるけれど、せいぜいが民話のなかの話であった。懐の深い、世間を充分よく知り、ひとのしあわせも知り、それでなお、自分の信じることのために領民を苦しみから救うために、愛する妻や子どもたちとのしあわせであったろう暮らしを捨て身を捨てた男、実際にこの世にいた、佐倉惣五郎はまことの男だった。その惣五郎が語りのなかに息づいていた。
 わたしが語りはじめるまえに、すでにこうした試みがなされていたのだと思うと感無量だった。4年前語ることを知った当初から、秩父事件を物語として語ることはわたしの夢のひとつだったし、語りを知れば知るほど、一般的な文字にされた民話だけでなく、生きている民話、歴史の襞の市井のひとたちの物語を語りたいと思うようになったから。わたしは残念ながらまだ聞いていないが櫻井先生の「ニコラエフスクの雪」のように、昇華されたライフストーリーもそうした「地の語り」である。
 佐倉惣五郎を聞いて、「きっと、できる」  と思った。歴史のなかには光芒をはなったひとびと、闇をつかのま照らしたひとたちが星の数ほどいるに違いない。わたしたち語り手は夢や希望を語る、妖精や天上のものがたりを語るのだけれど、そればかりでなく生き、苦しみ、そのなかで光を掲げたひとびと、決してあきらめようとしなかったひとびとを語ることも、希望や夢に火を点すことにならないだろうか。


 四十八音にそれぞれ神が宿る。そしてそれぞれの音にふたつの働きがある。ことばの意味でなく、ことばにこめられた音韻の響きがひとの魂に響く。いのちに響く。すなわちいのちからいのちに響く。だから歌詞が外国語であっても、歌詞のない音楽であってもこころを揺り動かされることはあるのだ。
 きのう刈谷先生のレッスンに行った。型とは無心になるということ。楽譜に忠実に余分な情感は入れない。いのちはにじみ出る。



三百九十三の昼 (2004 3  14 ) ダンス

 きのう、乙女ちゃんのところにダンスのレッスンに行った。10代の花のような娘たち4人と老いさらばえた?わたしが生徒。 バンプオブチキンやエグザイルの新曲に乗せて、ステップを踏む。なんて気持ちいいんでしょう、足さえ動けばね。 乙女ちゃんはかっこいい! ピンと神経の行き届いた手の線の美しさ、男に媚びない...というか男性ダンサーみたいだ。あんな風に踊れたら素敵なんだけど.......継続は力.....花たちに負けないようにね。

三百九十二の夜 (2004 3  13 )    j に.....

 :なぜ、ひとは悲しいはなしが好きなのだろう
 なぜ、わたしは雪女をつつじの娘を語りたい日があったのだろう。

 「ひとことでもしゃべれば命をとるとかたがた言うておいた.......」
 「わたしはおまえに会いたい一心で山道を走ってくる、ただのふつうの娘なのに.....」一瞬に命をこめて台詞を発する。その一方で冷静な覚めた意識で語る自分と聞き手をも見守りながら。
 ひとは知らず知らず己の鎮魂のために語る。燃え尽きぬ情念のために、身の内にいる見捨てられた幼い子どものために、虐げられた苦しみのために.愛するものを失った悲しみのために語る。けれどもものがたりに託して語るとき、それはなまの物語ではない。すでに過ぎ去った物語だから......ことばは聞き手の奥底の情念や哀しみに響き、.聞き手も語り手も登場人物としてものがたりを生き共鳴する。そこに浄化、カタルシスがある。ひとはたいていそのような体験を望んでいる。それは単なる癒しではない。魂鎮めは魂振りに通じる。生きる力を呼覚まし、甦らせるのだ。無心になってはじめてゆるされることではあるけれど.......
でも、もしゆるされるならなんてしあわせなことだろう。

 歌うことも語ることももとは祈り、神への捧げものだった。舞台に立つことは自分と対峙することであり、聞き手とひとつのものがたりを生き、同時に天上と地をつなぐことである。そのためには世俗の自分、狭隘な自己を捨てなければならない。触媒になる、橋になる、それがどんなことか知ったらもうやめられはしない。あなたは舞台の上で解き放たれて光になる。


三百九十一の夜 (2004 3  12 )  聖性

 今日は声がとてもよくとおる、からだのなかに障害物がない。からだをとおりこえが脳天を突き抜けて響く。きのうの治療のせいだろうか。うれしくてずっと歌っていた。夕べ寝しなにマリア・カラスを聞いたせいもあるかもしれない。歌をうたうことはは快感だけれど、わたしは今日も変だった。

 朝 めがねが見つからなくて「ねぇ まあちゃん マミィのめがねさがして」とさわいでいたら 「おかあさん かけてる......」 銀行でもドジして それから携帯をとりに千住大橋に向ったが気づいたら乗り越して池袋、日暮里から京成に乗る。東京でも千葉よりの下町は特有の雰囲気がある。三河屋マーケットの店頭には焼き芋がならんでいる。リーベとか昔風の懐かしい喫茶店が残っている。ようようタクシー会社を探して携帯を取り戻し、灰色の暗くなった街を歩く。

 6時をまわったが日暮里に降りてみることにする。左に谷中墓地を見て駅前通りを歩くが30年前の馴染んだ街並みがまだどことなく残っている。昔は富士山が望めたという商店街に下る階段の上にたって 階段が思っていたよりずっと短いのに驚いた。階段の下、富士見ホテルの看板が右に、懐かしいシャルマンの看板がまだあって心臓がズクリとする。間口の狭いシャッターには3/11.12は臨時休業と書いてある。えっもしかしたらまだ営業している? 動悸が激しくなる。

 開店は7時頃だろうとにぎやかな商店街を歩いて時間をつぶすことにした。シャルマンのメニューの厚揚げを買った店はマーケットになっていた。あっという間に谷中銀座は終点のT字路につき左に曲がってママの店バーしゃるまんを探すが跡形もない。前のお店で手作りのあんみつをひとつ、かずみさんに買って聞いてみたけれど シャルマンは締まって長いことたつということ、しゃるまんについてはなにも知らなかった。

 それからはまぐりを買い、ブロッコリーを買い、江戸小物の店で印伝の財布を買いシャルマンのことを尋ねてまわるが、もう店をしめて久しいということ、お寺の地所であるあのあたりは近く取り壊されることになっているということしかわからなかった。胸がしめつけられ目の奥が熱くなる。昭和12年生まれのマスターはとうにどこかで亡くなってしまったのかもしれない。「ようちゃん.....」と呼ぶマスターの少しかすれた聲が聞こえる。

 胸のなかにそっとしまっておいたことば、ほのかに光を放ちわたしをあたためてくれたことばがある。「あなたを見るとき、わたしはいつも聖母マリア、それもエル・グレコの聖母マリアを思い出しました。このひとはいったいどんな人生を送ってきたひとだろうと思いました」........セミナーの別れのとき、ひっそり伝えられたそのことばを聴いたとき、わたしは.......聖性とは無縁の、地をのたうつように生きてきたわたしは.思わぬ光を浴びたようにたじろぎなにか見えてしまったのかとひどく狼狽した。

 とんでもない人生だった。三人分の女の一生を生きたと一人ごちたのは30になる前だと思う。わたしが半ば盲目的にひとつの意志を固めたのが、ここ谷中だった。夕刻ともなれば階段の下の黒い看板に緑色のシャルマンの文字が輝く。神田川みたいなカップルがお風呂帰りに立ち寄って一杯のジンライムで何時間も肩を寄せている。定連の菊っちゃんはユンボのオペだ。出版社に勤めるNさんはドイツに留学している恋人を待っている。夜毎のジャズ、ひとの坩堝、それはたった三ヶ月の酒と薔薇の日々だった。

 いつかは書こうと思っていたそれらの日々、それからの日々。でも今は誰にも語ることなくそっと胸にかかえてあの世に青い青い海底に、青い青い空の底に持ってゆけるような気がする。たとえなにがあったにせよ、日々のなかで、そして語るなかで歌うなかでひとは清められてゆくのだろう。中島タカさんの朝夕の祈りのようにひとのしあわせを祈ることで、念じることですこしずつすこしずつ白く輝く塵となって消えてゆくのだろう。懐かしく暗く甘くよぎっては、わたしをいたたまれなくさせるあの影たちも......

 

三百九十の夜 (2004 3  11 ) 朗読者 音と実相

 夜中 朗読をしている友人と長電話をした。彼女は渡辺知明さんの門下で語りもする。ひとつひとつのことばを粒立たせ、ことばの意味をとらえたいせつに発音することでものがたりの世界をつくる。 想い、情念からはいるわたしの語りとはアプローチの仕方が正反対なのだ。彼女が黒い闇...と発するとき たしかにぬばたまの闇が見えた。彼女はことばで闇をひきよせる。わたしは漆黒の音さえ聞こえぬ夜をイメージしことばに出す。彼女は登場人物の想いを丹念にことばで紡ぐ。わたしは登場人物に自分の想いを重ねほとばしらせる。結果として彼女の語りは端整であり、破綻もない。難をいえば勢いに欠ける。わたしの語りは謳うけれど、その場に支配され、波がある。
 
 おなじ場でひとつはおなじ演目で語ってみたら聞き手もさぞおもしろいだろう。わたしたちもおたがいに足りないものが見えるだろう。

 ことだま 48音のひとつひとつに神がやどるという。アは開く、明るい 熱い
あたたかい アーメン アッラー 愛 ラ行は流れる 流転 乱 螺旋 離苦
音のつらなることば にもそれぞれ意味があり実相がある。風や花 そよぐ風 揺れる花弁がそこにある 音が先か、音で見えるもの 感じるものを引き寄せるのか そよぐ風 揺れる花弁、見えるもの 感じるものを音にするのか。いや、実相であって実相でない。それは心象に咲く匂やかな花、心象にさやさや吹く風、それを全身全霊でことばを媒体にして伝える。そのとき実相をつたえようとする? 直接聞き手の心に心象として映す?
 その花 その風はどこかに咲き、どこかに吹く風ではなくて かって吹き、かって咲き そしてこれからも香しく咲き、これからも頬をよぎる普遍的な花であり風であるのではないか。ゼロからはなにも生まれない。そのとき 聞き手は瞬時に引き寄せる 過去の記憶から花を風を甦らせる。ことばはいわば、エッセンスでありそのものの魂のようなものなのか。

 ことばから実相に翻訳すると隙間が齟齬が生じる。そのまま 風になるような そのまま花になるような語り、朗読でいうと音声化。ことばは記号でなく。


三百九十の昼 (2004 3  11 )  浅草には行ったけれど

 今日は行かないほうがいいという予感はあったのだ。浅草についたら切符がなかった。タクシーで.......無線についたら小さな部屋に通され、そこにはすでに4名の先客があった。「森さん、あなたはどこの癌ですか?」と聞かれ.....!  文京区の区議さんは乳がん、冬彦さんにそっくりのひとは前立腺がん、すい臓がん、胃がん  みな癌の患者さんたちだった。上気した顔で汗をだらだら流している。わたしは毒気を抜かれてみなの会話を聞いていた。そのうちに山形から8人到着した。口コミでやってくるのだ。

 そのうちわたしの番になった。わるいところに石を通したマイクロ波?をあてる。とても熱い、痛い。癌の周辺の活性酸素を焼ききるらしいが原理はよくわからない。腰痛や関節痛、肩こりなどは血行をよくすることで緩和するようだ。何十年ぶりかで汗が流れ出た。左腋のリンパと胸がとても痛くてわたしはちょっと不安になった。.......まさか....。

 帰り 先生の言うように痛みをわすれるほどにはならなかったがぶらぶら歩いた。駒形橋を吹き抜ける風はすこしかび臭かったけれど、隅田川の表ははキラキラさざめいていた。仲見世にまわって人形焼、舟和のいも羊羹、くずもちを買い求め東武線で帰ったが、事務所についたら芋ようかんもくずもちもなく、携帯電話もない。そういえば網棚にのせるとき 胸騒ぎが......。
予感には従うべきなのだった。あしたは千住大橋まで携帯をとりに行かねばならない。

三百八十九の昼 (2004 3  10 )  修理と改造

 セミナーも終わり、一段落したので、歯医者に行った。2本歯がなくてハナシをしていたのだ。わたしは歯医者が大の苦手である。大口をあけて、椅子に横たわるなんてほんとに無防備だ。それに口のなかを弄り回されるのだからよほどお医者さんを信頼してないとできるものじゃない。口の中にお医者さんの手を咥えたままパクリとやったらどうしようという強迫観念にとらわれる。6日から白く腫れあがっていた口内炎は大分よくなった。やっぱり疲れからくるものだったらしい。あのマントは実際高くついた。

 若くてきれいな歯科衛生士?さんに口をあけて修繕してもらいながら、あ、今鼻がひくついた、まさか鼻毛まで見えないだろうと心配していたら、眠ってしまった。途中いびきをかいてるような気がして う・おきなければと思うのだが気持ちよく40分も口をあけたまま眠っていたらしい。明日は浅草まで膝の修理に行く。膝がよくなったらダンスとジムで肉体改造である。

 銀行の待合室で日経新聞を見ていたら、芸術選奨を受賞された柳家小三治師匠のコメントがあった。「芸には人間性がそのまま出る。芸の勝負は人間性の勝負だ」 勝負はするつもりはないがわたしもそう思う。それにワザと精神と技量を支える肉体も土台として必要だ。ちょっとぐっときたのは「師匠がわたしは誉められるのは苦手、叩かれれば叩かれるほどいい」といわれていたところで、なにしろわたしは誉められること大好きなので、やっぱり名を成すひとは違うなぁ、でも師匠やせ我慢してるのじゃないかなぁと思ったりした。

 夜、久喜座の朗読会の練習に行った。代表の江原さんと小林さんしかきていなかった。「おとうちゃまのこと」 を江原さんはいいね、いいねと言ってくれたが、後半情感がこもりすぎるので、もっとかるくしたほうがもっと響くよとアドバイスしてくれた。小林さんもきのう橋本さんもそんなことをいってくれて直したつもりがまだ足りないと反省。押えても押えても迸る想いをどうやってかるく明るく昇華したものにできるか...課題。
小三治師匠は若手へこうも言われた。面白いと思うことを夢中になってすることだ。 さぁ 面白いことはたくさんある!

 年度末で会社は大忙し......今日はわたしも集金に行った。お得意様3軒のうち1軒はオール手形、1軒は先付け小切手の支払いだった。どこもたいへんなのだ。

三百八十八の昼 (2004 3  9 ) 見えてきた一人称の語り

 ケヴィンをトリミングに連れていきながら、図書館のトムの会の例会に行った。今日は新人の高島さんがくるのだ。研修室は他グループでふさがっていて、しまった、どうしよう 高島さん!!と探し回ったらもう米田さんたちと視聴覚室ででおしゃべりしている、よかった!!

 4/24に子ども読書の日にちなんで4回おはなし会をひらくという説明が司書さんからあった。質疑のあと、おはなし。岡崎さんの八郎を聞く。秋田出身の岡崎さんの八郎はリズムがあってかろやかで素朴かつ大胆。背筋がゾクリとした。斉藤隆介さんは自己犠牲のおはなしが多くてちょっと苦手なのだが、こんなふうに読まれるともう語りの世界。楽しかった。

 さてつぎは「おとうちゃまのこと」ひとまえで語るのははじめて、語るといっても半ばはテキストだより。今までの森さんの語りでいちばんいいと山田さんはいうし、小宮さんは以前と違って声が深いところから出ていて耳に心地いいと言ってくれた。腹式が身についてきたんだ。わぁ よかった!!橋本さんは(中島タカさんが)乗り移っているみたいだった、小宮さんはそこにいるみたいだったという。えっそれじゃ 芝居かな? でも、櫻井先生の八雲夫人節子さんの語りもそうだった。先生は節子夫人そのもののように見えた。 !!発表会で 菅野さんは「わたしの落窪物語」の阿漕を演じていた。今井さんのばあやもそうだ。(演じたっていい、もちろん!)

 そういうことかもしれない。代弁者として語るのと演じるのは違うのだ。とりあえずすこしわかった。それにしたって受け入れられるのはうれしい。誉めてもらうともうがんばれちゃう。役者殺すにゃ 刃物はいらぬっていうでしょう。アドバイスと誉め言葉と両方で伸びてゆくんだってホント、そう思う。おとうちゃまへを精魂こめて語ろう。もっと子どもたちを誉めてあげよう。
 junさん(友人の女優さん)に聞いてもらえば、もっとわかるかもしれない。

 次なる疑問は、では役者は演じるのか、なりきるのかということ。わたしはなりきる。だって公演のときは役の気持ちで考えている。そのうえにすべてを見通している自分がいる。語りは?  語りもそうだ。  ???
また、わからなくなっちゃった。でも語りでは聞き手の目を見て語るのね。芝居は違う。目線は役の目線。   ???

 ケヴィンは別犬になった.....夜は連絡会。


三百八十七の昼 (2004 3  8 ) ちいさくなる

 朝からボゥーッとしていた。本町小の図書ボランティアの打ち上げに出て、午後はケヴィンと早春の薄寒い日ざしのなかを散歩しながらつらつら考えていた。
 ひとはなんのために生きるのだろう。人生の価値はどこにあるのだろう。わたしはたぶんよりよく死ぬために生きている。死んで終わりにはならない。生と死は連なるもの円環だから(これは昔話によくあるテーマであり、私自身も幽体離脱などの経験からそう信じている)よりよく死ぬことはよりよく生きることである。それではよりよく生きることとはなにか。自己の完成、平安な暮らしなどいろいろあるだろうが、もっとも価値あることは他者の幸せを願い、他者の幸せになれかしと努めることではないだろうか。

  語りは楽しませ、笑わせるだけでもいい。人生の喜びを伝えることもたいせつなことである。しかし、真に他者の幸せすなわち聞き手の幸せを望むのであれば、一時の笑い、楽しさだけでなくそこにメッセージをこめて伝えるべきではなかろうか。聞き手の心に善きもの美しきもの、また太古からのメッセージを響かせることができたら.....これこそ語り手の使命ではないかと思う。そのメッセージとは生と死の秘密であり、しあわせとはなにか、ひとはどう生きるべきかの指針でもある。口承のうちで神話、伝説は民族、地域によって縛られるが、昔話は世界各地で共通のものが多い。これは単に伝播によるのだろうか。わたしは......しるべとして人間に渡されたものではないかと感じることがままある。

 語り手を分類するときメッセージ性のあるものをよく語るひとたちとメッセージはさほどなくどちらかといえばおもしろく楽しいエンターテインメントとしての語りをするひとたちとあるように思う。それは立っている場所が違うのだが、なぜか職人肌ともいえるよう巧さやわざを持つひとには後者が多い。メッセーもナマで発信すると押し付けになってしまう。語り手はあくまで代弁者でそのうえに自分の人生をかぶせる。わたしの語り手としてのよろこびのひとつは、代弁者として、聞き手に呼応しながら、いかに楽しく美しく平明に(大いなる者、古くて新しき者、摂理、あるいは造物主の)メッセージを伝えるかだと思う。さりながら10人が10人気に入る語りなんてないし語りについての捉え方はひとそれぞれである。

 ここでわたしは片岡先生が言われた「癒しは0に過ぎない」という意味がわかったように思った。癒されるということは自分の傷口がふさがっただけのこと、率先してよりよい生を生きようとするなら、他者に向って働きかけねばならないのだった。響きあわねばならないのであった。自分のためにする語りは小さくなる。

 きのう いただいた赤い花々の花束がリビングのテーブルであざやかだ。花と優しいことば美しいことばをありがとう。

 
三百八十六の昼 (2004 3  7 ) 終りの始まり

 いよいよ始まる。パフォーマンスはまずまず成功。二部の語りの食卓はきのうと打って変わって精彩があった。菅野さんの落窪がおもしろかった。今井さんと菅野さん、一人称の語りが偶然ふたつあり、4月に「おとうちゃまのこと」を一人称で語ることもあってひとり芝居と語りの違いとは何か考えさせられた。本来、語りとは客観的に語られるものである。地の文がまったくない語りはあるのだろうか。語りが話芸であるなら、どんな語りもあるのだろうとは思う。また、聞き手に支持されることこそ語り手の勲章と思う。今は答えが出せない、実際自分で語ってみたらなにかわかるかもしれない。今井さんも菅野さんも独特の語り口調を持っている。これは両刃の剣なのだがツボに入るとおもしろいことこのうえない。もともと芸達者だからこの先が楽しみだ。久美ちゃんの死神はおもしろくなっていた。目の使い方が秀逸。稲葉さんのリューシャの話、チェルノブイリ原発事故を語ったのだが、これもまた現代の民話である。そしてテーマは愛。

 二部のパーソナルストーリーもよかった。竹内さんの夕焼け、清水さんのPTA狂想曲、徳永さんの薫ちゃんと玉子焼きの思い出、小倉さんのアイスキャンデー 村山さんのおりょう伯母さん、事実は強い。語り手の想いがひたひたと聞き手にせまってくる。不思議だなぁと思ったのは清水さんの語りで、いつも思うのはその透明感である。たとえばいい役者って名前を思い出せないことが多い。役そのものになってしまうから役者自身の名は思い出せないのだとわたしは思うのだが......個性の強いメンバーのなかで彼女はとても不思議な存在である。

 扮装しなくてはならないので残念ながら三部は聞くことができなかった。衣装を身に着け、出てきたわたしを見た、いつも動じない小阪さんのぎょっとした顔を見ただけでも努力の甲斐があったというものだ。わたしはファンタジーの紹介の3分に命を賭けた、これは本当である。練習も無いぶっつけ本番だったがまぁまぁよくできた。ファンタジーは村田厚子さんの800字の神さまの絵の具箱、恒吉さんのコヤタの夏、小阪さんのルウは丘を越えて、高月さんの幽霊武士の館、小川さんの幻の島、そしてわたしのカーロ・カルーソーのはなしであった。みなよかったが出色だったのは幽霊武士の館、総じてリハーサルでダメだしを食って泣く想いをしたほうが本番のできはいいようだ。
 おなじテキストでおなじ語り手でどうしてこうも違うのだろうと思うほど日によって印象やできがことなるのはなんでだろう。コヤタ可愛かった。小阪さんはなにか突き抜けたみたいだ。村田さんの口跡の美しいこと。みんなセミナーで最高の語りだった。

 わたしは残念ながらはなはだ納得できないできだった。ですます体がなぜか、だ体になっていて、たぶんほかのファンタジーを身を入れて聴いていたので語調が移ってしまったのだと思う。語尾を維持するためにそっちに気がとられなんだか片手で語っているような気がした。しかしどんな理由があろうと、口内炎で腫れていようと歯が一本なかろうとそのときできる最上の語りをするのが語り手だから言い訳は通用しない。橋本さん、小野寺さん、佐々木さんほかおいでいただいたみなさんすみませんでした。

 片付けのあと、お別れ?パーティーがあった。片岡先生の愛情のこもった講評があり、櫻井先生はひとりひとりのために書いたメモをわたしてくださりみな感激した。ひとことずつの感想がみな尽きぬ想いを語り、次第に時は過ぎてゆく。プログラムの作成についてみなからねぎらいをいただきわたしは泣きそうになってしまった。みんなとハグして別れを惜しんだ。ことばを交わし再会を約し、手を振りキッスを投げあい、あんなに辛かったセミナーがなぜこんなに別れ難いのだろう。みんな大好きだよ、幸せな語り手になってください。一年後、二年後にまた会いましょう。そしてわたしもみなに恥じない語り手になっていよう。カタリカタリで期待しているひとり佐々木さんが今日の発表会を聞いて、「語りってそのひとが持っているものがすべて出るんですね。今日わかりました」と言っていた。そうだと思う。自分を磨くしかないのだ。人間性、ひとを愛すること、そして智慧とわざ。
明日は本町小で子どもたちが待っている。


三百八十五の昼 (2004 3  6 ) 萌黄

 二日続きの徹夜明け、なれないこととてミシンの針から糸がぬけてしまうともうお手上げ、ミシンが理由なく?止まってしまうと娘たちの力を借りなければさっぱりわからない。そんなことで黒いマントの緋の裏をぬいつけ周囲のバイヤスをとめ、結びひもをつけ終わると9時半を廻っていた。急いでお風呂に入って荷物を詰めてタクシーで駅に向った。

 舞台の背景につかう生成りの綿布が30M、それにマント、青いドレス、金髪のかつらに魔法使いの杖でスーツケース1個に袋二つにバッグの大荷物、ヨタヨタしながら乗り継いで、参宮橋につき、青少年センターの看板を見てカルチャーセンターの42号室に着いたら誰もいない。よかったよかった早く着いてとおもむろに化粧し、パンを齧っていたが誰もこない。

 まさか....と思って1階の受付で聞いてみたらセンター棟だった! もう始まっていた。「12:30には必ず集まるのよ」と檄を飛ばした手前、体裁は悪いし藤野さんの視線を背中に感じ、はなはだ居心地悪かった。リハーサルは順次進んだがそのうち熱が出てきて気持ちが悪くなり、気になっていたパフォーマンスの練習が終わったところで部屋に引き上げることにした。するとカフェで仲間たちと会って、リハーサルの結果ショックを受けたひともいて話を聞いたり、それからあのひと、このひとに気づいたことを伝えた。そして、プログラムのコピーをしに駅前のコンビニに行ってから、村田さんにもらった熱さましミミズの粉末を飲んだ。ほんとに魔法使いだよと思った。ついでに誰かと祝杯をあげようと持っていったシャンペンをひとりで飲んでベッドに入って寝てしまった。萌黄色って春の芽吹きの色だってベッドのなかで今更思いながら。

三百八十四の昼 (2004 3  5 ) 待ってたよ

 中央幼稚園年少さんのおはなし会、「森さん、待ってたよ」「忘れなかったよ」「おはなししてよ」ちいさい子たちの声にぐっときた。帰りも「森さん、おもしろかったよ」「また、きてね」 あぁ、なにがあったって....と思った。

 M銀行来社、財務体質の診断結果、A’でなかなかよかったのでほっとした。昨年売利上げが下がったことで、成長性の項目が下がったほかは水準は悪くはない。昨日営業と現場の口論が4きっかけでひとり辞めるという方がいるので慰留と仲裁。おたがい話し合っているうちに、最後はしんみりとしてきたが、一度振りかざした刀を引っ込めることができれば......と思う。ささいなことの積み重ねがおおごとになってしまう。わたしももっと早く打つ手があったのにと悔やまれた。

 7時過ぎ、浦和にとんでユザワヤで必要なものを買う。夜明けまでお針子生活。今日は遅れるわけにはいかないのだ。みんなに「時間通りに来てリハーサルしましょう」と叫んでしまったのだもの、口は災いのもと、しかし二日続きの徹夜はきつい。


三百八十三の昼 (2004 3  4 ) ミシン

 格闘してます。さて、なにができるかな。不器用なんだってことはよ〜くわかったけど、つくるっておもしろい。

三百八十二の昼 (2004 3  3 ) 底冷え

 お雛祭りはうららな日ざしが似合う。4月3日の月遅れのころ、障子に射す日もあかるく、忍び込むそよ風がここちよい頃、お人形を出してならべてもみよう。おととい、ちらし寿司をこしらえショートケーキもつくってかたちばかりのひな祭りはすませた。きのうは折原さんのお嬢さんが焼いた、外はこんがり中はクリーミィで濃厚なニューヨークチーズケーキをワンホールいただいて、(おいしかった!)それからうぐいすもちも桜餅も柏餅もいただいて、娘たちが「おかあさん、もう甘いお菓子は買ってこないで」というのに今日は伊勢丹でシェ・リュイ?の真っ白なフロマージュをおみやげに買った。白いクリームの下はとろりとしたなめらかなプディングと甘酸っぱいこけもものソースとビターなチョコレートシロップのえもいわれぬハーモニー、子どもたちはため息をついた。「どうすればこんなおいしいものがつくれるの!?」

 甘いおいしいお菓子をいただくとこころの傷口がふさがる気がしませんか?もっともチョコレートにはほんとうに傷を癒す働きがあるそうな....チョコレートでお医者様も見離した体内の傷がなおったこともあるそうだ。それで...というわけでもないがわたしは今日ちょっぴりしあわせ。会う人あうひとになにかいいことあった?と訊かれるが、そんなこともない。

 そう、そうPLANETの会田さんにお会いした。きのう8/28にスタジオを借りる申し込みをしたところだったので偶然会えてうれしかった。「NHKの教養講座がおもしろいの」と言ってらした。さぁ、リサイタルの日程が決まったし、3月、4月、5月と予定だけは埋まってゆく。其のときの最良のおはなしを聞いていただけますように。

 カーロのおはなしは語るごとにすこしずつ変わって、これでいいのかなぁとすこし不安だ。ひとりよがりではないかしら、当日語るまできっとこんな気持ちなのだろう。群青の空が見える。ほのかな光に照らされた横顔が見える。
苦しくなる。早く解き放って、手渡したい。

 


三百八十一の昼 (2004 3  2)  ふわふわ

 息子に腹を立てて言ってはならないことばまで放ってしまった。悲しくてなんだかふわふわしている。穴のあいたキャベツをみつけて、春サラダをつくろう。金曜日はおはなし会。キャベツのなかから♪をいっしょに歌おうか。

 橋をわたる 3月ひらひら .4月ほろほろ .
             5月 さわさわ .6月 さらさら
                   7月 ゆらゆら そして8月

 28日はたぶん満月、満ちる月の力を借りて夜会がはじまる。
かがり火燃える、おいでおいでよ
マツロワヌモノ 祭って 祭がはじまる
想いの丈の小袖まとって 奢る花々抱きしめて
おいでおいでよ ことばとイメイジの饗宴に
翳と光 いのちと死とを織るは たゆとう夢


三百八十の夜 (2004 3  2) 眠れぬ夜に

 鬱 うつつ  修了発表会もだんだん面倒になってきて、いつもそうだ。楽しみにしていても近づくと億劫でできれば行きたくないと思う。昔、恋人との約束もそうだった。いやでいやで それで遅刻する。会いたい、会いたくない、会いたい このうらはら....
 アイヌのユーカラのひとつを再話している、これは昔話、生と死の秘密がそこにある。それから昭和の遊女のものがたり、これは現代の民話、生と死のあいだの一瞬の光芒。まったく異なると思っていた魔法・昔話と現実の民話、それは実相の表と裏なのだった。誰だって語るべきものがたりがある。わたししか語れないものがたりがいくつもあって、そのものがたりたちがわたしを突き動かす。語り終えるまでわたしはほんとうには安らかでいられないのだろう。だから、いつ語れるかわからないけど、今夜もイメージをことばに捉えてこの箱に綴じ込めておこう。



三百八十の昼 (2004 3  1)   春の憂い

  冬の冷気は自分を保つにはよいものだ。のぼせていても煌々と白く輝く月や身を切るような風や、澄んだ空、潔い夕焼けに身をさらすと正気に還る。ところが寒さが緩み、空の色も曖昧になってくると裡なるものも緩んでくる。漠としたとりとめないあこがれのような不安のようなまるで若いころのような鬱々とした気分が胸を塞ぐ。

 ファンタジーは起こりえない不思議が起こるものがたり。昔話では不思議も魔法も自然なこと、あたりまえのこと。ひとが築くものがたりは見えないものを見ようとする試みである。

 
三百七十九の昼 (2004 2 .29)  マイブーム

 このごろ家で流行っているのはバスボム、娘がネットで頼んだバスボムは色とりどりで野球のボールくらいの大きさ、夕べは"バターボール"を湯船に入れた。乳白色の湯は甘い匂いがした。修了発表会まであと1週間になったので「カーロ・カルーソー」の練習をお風呂のなかではじめ、それから「おとうちゃまのこと」を語ってみたり、ぼんやりしていたらあっという間に2時間たっていた。

 今朝は東京23区遊び、それからアメリカの州名をさがす遊びをした。敬がいるといろいろな遊びを思いつくのでおもしろい。州名は50のうち17.8しか出てこなかった。ウィスコンシンとかサウスダコタなんて星の名みたいだ。極めつけは早口ことばでわたしがまとめたのは”朝鮮民主主義人民共和国の老若男女(ろうにゃくなんにょ)が貨客船万景峰号(かきゃくせんマンギョンボンゴウ)で高速増殖炉文殊(コウソクゾウショクロモンジュ)の見学に訪れあたたかくうけいれられた”これをつっかえないで3回続けて言ってみてくださいね。

 午後は宮代のおはなしのグループスウスの「おとなのための昔ばなしと音楽のつどい」に行った。1時間早くついてしまい、図書館のなかを逍遥するぜいたくを堪能し、島田さんが4/25に朗読する中島敦のマリアンを見つけて読んだりした。とても素敵な図書館でいたるところに椅子があり、本を手にちょっといいなと思えばすぐ座り込んで読むことができる。ホールもやはらかな間接照明でピアノもあった。開演時間までのあいだ工業大学の音楽サークルのひとがピアノの生演奏をしてくれた。100人以上の聞き手が集まる盛況だった。

 音楽はおはなしのツマではなく五分五分の構成でくるみわり人形やバロックやウェッバーのメモリーなどなかなかいい選曲だった。語りはいつつ、ポターの雨のち晴れのほかは昔話、一言でいうなら端整、それぞれの語り手にあったものがたりをそのおはなしにあった語り口で、踏み出しもせず過不足なく語られた。いいおはなし会だった。だがわたしは満たされなかった。とてものどが乾いているのにコップ半分しか水をもらえないようなもどかしさ。最後の白鳥の王女はよかった。おととい読んだ松井友さんの分析によれば、この話は狩猟民族の話だから王子が捕まえたこの世のものと思えぬ美しい白鳥は神の化身であろう。白鳥のむすめは王子と結婚し子どもを生むが空の彼方から白鳥の群れが迎えにきて翼と風きりばねをあげるからいっしょに行こうと誘う。娘は子どもと愛する夫のために二度まで断るが三度目、白鳥の恋人が迎えに来ると飛び立とうとする。それを王子は抱きついてとめる。憧れを捨て地上にとどまるという切ない美しい話だった。

 もうちょっと溢れてほしい、考えないでカタチにとらわれないで自分を自由にしてほしい。東京子ども図書館のやり方がわるいとは言わないが、自由な語りのとても大きな障害をつくったことは確かだ。なんという無駄な努力だろう。暗記するのはたいへんでしょう?そんな労力はいらないのだ。昔話ならなおさら一言一句テキストに忠実である必要はどこにあろうか。衣服が大事か、魂が大事か....それにしても自分のことばで生き生き語るひとはほんとうはどれくらいいるのだろう?語り手たちの会にも何人もいるのかしら。たとえ再話したところで自分のテキストにこだわったらやっぱり同じじゃないか......

聞くのも楽しいが語るほうがいい  ..................







三百七十八の昼 (2004 2 .28)  溢るるごとく

 息子の作業着を手で洗濯した。どうすればこんなに汚くなるのだろうと思うくらい真っ黒で、なんどもなんども洗濯石鹸をこすり付けてもみ洗いをした。子どものころも次男と違って、泥だらけで帰ってくる子だった。こんなに汚すのは身体を厭わないで働いているのだと思う。
 このごろ、わたしがいつもよりハイテンションなのは、売り上げが伸びているばかりではない。息子のガールフレンドの声も電話の向こうで弾んでいる。彼女も所在なく遊んでいた息子のことを心配していたのだろうと胸が熱くなる。息子は父親の会社で働きはじめて、仕事のやり方に疑問を持ったようだ。わたしもおまえだけを悩ませてはおかないよ。来週はプラントに行って、おまえの言うようにしっかり見てこよう。
 ラインの売り上げが1000万を超えた。年度末だからあたりまえといえばあたりまえだけど。とてもうれしかった。今日は事務所でトイレなどのそうじをして、あとは社員さんたちの話を聞いた。ちょっとしたことでみんなが躓いているところがわかることがある。営業などはとくにメンタルなので障害を取り除いてやると、目覚しいほど実績が伸びてゆく。じつに会社はひとで成っている。
 今週もS病院のダンスのレッスンの見学に行った。今日は入院患者さんのレッスンだった。28名くらいのなかで若いひとが1/3、車椅子の方が1/3、そして年配だけれど車椅子に乗るまでではない方が1/3.。奇声を発しているひと、クビをうなだれているひと、常人と変わらないひと、年代も状態もさまざまなこのひとたちを乙女さんはぐいぐいひっぱってゆく。エネルギーがビシビシ伝わってくる。
 わたしは語り手だが、年代や趣味や健康状態や生きてきた道筋が異なる多数のひとに語ることの難しさはよくわかる。デイケアや年代のちがう子どもの集まるおはなし会がそうだ。高いほうにあわせても低いほうにあわせてもどちらかはつまらない。だからといってまんなかにあわせても、いいというものではない。それがおとめさんのプログラムの立て方はみなに参加させ、若い子が踊る世界にふたつだけの花やもっと難しいのはお年寄りに手拍子させ、お年よりが喜ぶ大漁節や花笠道中は若いひとにも躍らせて、コンビネーションがすごくいいのだ。若いひとにとっても、高齢者にとってもしあわせなことだ。なにを学ぶにも一流の先生から教えを受けるのがいちばんの近道だ。乙女さんからダンスを習おうと思う。
 きのう、先生に7日に語るカーロカルーソーを聞いていただいた。先生は技術的なことはなにもおっしゃらなかったが、わたしがなにを伝えたいのか瞬時に理解してくださって、わたしはそれが言葉に尽くせないほどうれしかった。

三百七十七の昼 (2004 2 .27)  春の光

 ファンタジーのグループの練習があるので遅刻しないように、ほとんど寝ないで家を出たのだ。ところが地図を落としたかしてしまって、とにかく三鷹の駅近くだからすぐ見つかるだろうと思ったが、どこにもいない。タクシーで廻ってそれから片端から電話してみたが和室を借りているグループはないという。あぁ、またやっちゃったと泣きたい気分。12:00までうろうろしたり家にTELしたりして、とうとうあきらめてスターバックスでラテを飲んでから、櫻井先生のお宅に「語りの世界」の原稿を届けに伺った。名簿が語り手たちのもセミナーのも見つからないのでお詫びのTELもできない。小川さん、恒吉さん、村田さん、ごめんね。

 先生の書斎にひな壇がしつらえてあって、おひなさまやこまごました可愛いお道具が緋毛氈に愛情込めて丁寧にならべられていた。坐って見とれていたら、桐の箱からおひなさまを取り出して、お顔から和紙の被いをはずすときのときめきを思い出した。そう家ではもう10年も押入れにしまったままだ。ひいなのまつりも端午の節句も七夕のお飾りも菊の佳節も十五夜さえしなくなって久しい。

 忙しさにまぎれてこころまずしい暮らしをしていることよと恥ずかしいようなような気がした。お庭を見ると、踏み石の蔭にふきのとう、椿の蜜を啄ばむ小鳥、恰幅のいいロシアンブルーの猫ちゃんが日向ぼっこをしている。野良猫といわれれば、どことなし零落の痕跡もなきにしもあらずだが、目が合ってしばし見凝めあった黄色の目には大人(たいじん)の風格があった。「ねぇ、おまえさまはなんでも知っておいでだね」と話しかけるとあたりまえだろと言いたげに伸びをした。

 もし、櫻井先生と出会うことがなかったら、わたしはどうなっていただろう。少なくとも、こんなにおおどかに自分を受け入れることはできなかったであろうし、ひとを受け入れること(自分の子どもでさえも)もできなかっただろう。人生の意味を受け止めて、心静かに晩年を送り、死を迎える心積もりもできなかったであろう。それほど先生から語りのなんたるかを教えていただいたことは大きなできごとであり、僥倖だった。

 上野までまわって始発に乗ったのはゆっくり坐って考えたかったからだったのだけれど、お借りした本「昔話の死と誕生」を読見進むうち夢中になってしまった。昔話が採取狩猟の文明から農耕文明に変わる過程で、自然=神を崇める立場から劇的に変わってしまったこと。その後大陸の影響、仏教の伝来により原初の昔話の秘儀、(たとえば誕生があの世の死であり、死が誕生であることなどの宇宙観をつたえるもの)が徐々に卑小なものに変わってしまったことが数多い例から検証されていたのだ。以前からインデアンやアボリジニなど狩猟民族や縄文文化に惹かれていたことともつながり、原初の昔話の荒々しいほどに美しく本質的な物語に戦慄した。これを語りたいと心底思った。本物だと直感したのだ。出会いってほんとうに不思議なものだ。


三百七十六の昼 (2004 2 .27)  砂の器

 明日は早いというのにDVDを終りまで見てしまった。巡礼の父子の漂泊、うつくしい日本の風景、雪、櫻、全山の緑、紅葉、岬、砂浜、里、神社 ただただ美しかった。そして懐かしい風景、蒲田の駅周辺のごみごみしたようす、この映画が撮影されたころ、蒲田駅の近くでコミケが開催され、わたしは夏樹にあったのだ。裏町のアパート、診療所のわびしいありさま。そうこんなアパートに友人もわたしも住んでいた。そして埼玉会館。映像はいちどきに過去へ意識を押し流す。雑駁だった、けれどまだみずみずしさも微かに残っていた時代、昭和49年。しがらみや自分の不甲斐なさから闇雲に離脱を試みたうんざりするほど熱い時代......。


三百七十五の昼 (2004 2 .26)  ジュピター

 ホルストの惑星のなかから「木星」の主題のひとつをポップスにして、今ヒットしているようだ。ヘンデルの「わたしを泣かせてください」も涙のアリアと銘打たれてソプラニスタが歌っている。喜んでいいのかとても微妙なところだ。
歌詞が原語で歌われて意味がわからなくても、感動することはあるし、たとえ美しいメロディーでももったいない使い方だと感じることもある。

 歌の三要素は詩の力、旋律の美しさ、そして歌い手の声の響きではないかしら。
語りは歌にとても近いのだけれど、音楽性にかける寂しさがある。伝承の語り手の持っていた、歌うような調子は望むべくもない。では、どうする?

 今日はクラシックを聞いていた、ホルストやバロックや手当たり次第に。きのうは中島みゆきや尾崎豊など古いCDを聞いた。詩も曲も書いて、なによりその声の響き、息遣い....語っていると思った。切ないまで迫ってくる情感。けれど語りにも強みがないわけではない。情感より深く透明な魂の底に一瞬のうちににたどりつくことも、異界にいざなうこともできるのだから。

 デイケアで楽しい時間を過ごした。乙女さんのところで覚えたひなまつりの振りをつけてみんなで歌って、「わたしのおかあさん」という記事を朗読し、それからお月さんももいろを語る。悲しいおはなしでもあとのケアがあれば大丈夫とちかごろは飲み込めた。それから20分ほど結婚にまつわる四方山話で盛り上がる。50年前は今よりもっと地域の風習が息づいていた。茨城ではお嫁さんは玄関からはいれなかったそうな。それから茶碗を割る慣わし、お床入りの儀式など......あっと言う間に時間はたってしまった。

 砂の器のビデオがなくなってしまったので、DVDを買ってしまった。夜のおたのしみ。


三百七十四の昼 (2004 2 .25)  軌跡

 ドラマや映画を観ると、どうしても女優に目がいく。女優がいい演技をしているドラマはおもしろい。去年の武蔵はあまり評判はよくなかったようだが、女優陣は健闘していた。出番は少なかったがわたしは水野美紀の演技が好きだった。武蔵を仇と狙いながら、旅をともにするうちに想いを寄せてゆく、その眼差しがよかった。別れ際、武蔵に噛み付いて走り去ってゆくときの目がよかった。あとは仲間由紀恵、賞を総なめにした寺島しのぶも印象的だったけれど、彼女は体臭が感じられるようで、それもいつも寺島しのぶだから、上手いけれどあまり好みではない。だいたい自分のカラーやひとつふたつのパターン演技に頼っているひとが多い。脚本や。演出家との出会いにもよるのだろうが、そこに息遣いが感じられる、女優本人ではなくて別の人間が生きているんだと思わせてくれるひとがいい。その哀しみや喜びが伝わってくるひとがいい。

 それは語りもおなじで雪女という作品をわたしが語るには違いないが、わたしは背景に沈んで、そこにひとつの世界が生まれ、お雪や箕吉が息づくのがほんとうだと思う。演じるわたし、語るわたしが意識の表に出るならそれはすこし違う。ひとつの世界、風のいろや時代が違うばかりでなく則さえ違うまったくの異世界をたとえ短い時間であっても構築するということは深く自分の水底へ降りてゆく、畢竟自分を超えてゆく、かっていたかもしれない懐かしい世界への回帰でもあって、書くこと、描くこと、演じること、歌うこと、語ることはみなその坩堝への道であるような気がする。

 いまは小雪がいちばん好き。ぼくと彼女と彼女の生きる道でこころの動きが肌を透かしてみえるような気がする。脚本も行間のせりふなしの場面の描き方が濃やかなのだけれど。

 女優は美しいに越したことはないので年齢もルックスもハンデとなるばかりだが、もう一度板のうえで別のひとの命を生きたい。悔いのないようにと思う。稽古は苦しくて、だから終わったあとの喝采は語りの比ではない喜びだ。一ヶ月くらい雲の上にいるようだった。語りより官能的な肉体的な充実感がある。

 語りは地の文とは別に数人の台詞がある。目線は客観的な高所、台詞のときは本人になりきる、それが語り手としてベストの選択かわからないが、そうしないと語る自分がつまらないのだ。過去おとなに向けて語ったおもなものがたりを列挙してみる。年は初出の時で、雪女は4回、ほうすけ、おさだおばちゃん、芦刈、つつじの娘は3回、乳母櫻、月の夜晒しは2回語っている。

2000   雪女
2001   乳母桜、月の夜晒し、
父の思い出おさだおばちゃん
      骨董屋
2002   ほうすけ
カイアス王、ピーコンコイ、魔法のオレンジの木
      
うりこ姫、自由の鳥、ジャックと泥棒大人バージョン
2003   
芦刈、三枚のおふだ、絵の無い絵本から
      (煙突そうじの小僧、インドの娘、王座と矢車草) 
      わたしがちいさかったときにつつじの娘
たしのディアドラ
      権現堂の伝説 水からの伝言、
2004   お月さん金のくさり、お月さんももいろ 
             (これからカーロカルーソーの話  
おとうちゃまのこと)


太字は台詞に重要なポイントがあるもの、斜線は歌がポイントであるもの。
青字は根底からの再話、赤字はオリジナル、月の.....とつつじの...は小声でいうと語るときテキストをかなり変えてしまう。ジャックも芦刈もかなり変わっている。
声楽を始めたのが2002年2月、はじめて代役で芝居に出たのが2002年12月、こうしてみるとその影響と拙いなりに成長してゆくさまがはっきり見て取れる。ほうすけははじめて語ったのは2001年6月の目白ゼミだったがそのとき歌はつけたしだった、翌年ステージで語ったとき、刈谷先生のアドバイスで歌として挿入したのだ。とすると最もわたしらしい語りは色のついた斜線の太字で今はディアドラということになる。ほうすけ、絵のない絵本はテキストは全く変えないで表現の再話をすることを念じた。この4年間は覚束ない試みの連鎖だった。
 これから語りたいのは市井のひとの代弁をする語り、オリジナル(ライフストーリーと創作)、再話による切ると血の出るような民話、歌と楽器が入ったもの、見えない世界。
別の観点からいくと上記27編のうち17編がトールキンの分類によるファンタジー、5編が実話をもとにしたもの ほうすけと芦刈はファンタジーの範疇にない文学作品、骨董屋、つつじの娘、お月さんももいろはファンタジーの範疇にはいらない民話(?)

 ところで2002年はほうすけ以外目立つものがないがなにをしていたのだろう。そうだ、書いていたのだ、それからDTP。




三百七十三の昼 (2004 2 .24)  渡すもの

 午後、会社には行かないで、カーロカルーソーとおとうちゃまのことと語りの世界の原稿の改稿に費やした。とかく気が向くと改稿するので、語りと同じで確定したものにはなかなかならないが、もうそうは変わらないだろう。すこし安心して散らかった部屋を掃除していたら、2万円でてきてうれしかった。これで貯金でもすればすればいいのだが、きのうのことがあるので、惣にTシャツやアイスクリームやお菓子を買って半分つかってしまった。家に帰るとかずみさんもお菓子をおみやげに買ってきていた。夫婦だなぁと思う。おばかな親心である。

 もうひとつでてきたのがちょうど三年前の太陽と月の詩(語り手たちの会の会報)だった。一面に小川ユリ子さんの”自分史から学ぶ”があった。小川さんは戦争体験がおありのようで軍国青年として中国で戦死なさった叔父さんのことから......人間を貶め、卑しめるものときちんと対峙できる語りでありたい......中略.....ひとつのお話しが、その当時の人々のどんな思いをのせて語られ語り継がれてきたかをさぐり、イメージし、いまうを生きる自分のどんな思いと重ねて語るのか吟味したいと書かれている。

 三年前の今頃、わたしはまだひとのまえで語ることなどほとんどなかったし、自分史など考えてもみなかった。研究セミナーでおさだおばちゃんを場当たりに語ったのはその年の9月だったと思う。わたしは戦争も戦後も知らない。しかしわたしがちいさかったときに....の田中清子さんの作文を語ることはできる。それをいまの子どもたちに語り、手渡すことはできる。これから子どもたちだけでなく戦中戦後に生きたひとびとの妹たちの想い、母の想い、父の想いを語っていこうと思っている。

 一昨日の新水会で三九三叔父に春休みに上吉田(秩父)に行くと約束をした。そこにはわたしの根が、一族の根がある。何に出会えるかわからないが山の気をあつめるように、流れる水を掬いとるように手を伸べてみよう。そして集め想いをのせてつぎの世代に手渡すのだ。語り手は向こう岸に渡す橋となる。過去から未来への架け橋、そして見える界と見えない界を行き来し、つなぐ架け橋にさえなりうるし、それが本来の役目だと思っている。



三百七十二の昼 (2004 2 .23)  残すもの

 本町小のおはなし会、朝6年3組の教室に行くと、だれひとりいなかった。持久走の練習で校庭を走っているらしい。今日はいい加減違う話をしたかったが、中学でのスタート(まだどうなるかわからないが)のこともあるので1組2組とほぼ同じ構成にした。最後に詩・橋を読む。床に坐ってしんとして聞いている子どもたち、きのうにつづいて今日もものがたりが聞き手に沁みてゆくのがよく見えた。終わって廊下を歩いていると、先生が忘れ物を持って追いかけてきて、「(子どもたちが)感動して立ち上がれないようすです」とおっしゃった。
 残すものは思い出ばかりではないのだ。おさだおばちゃんの話をわたしが忘れないように、子どもたちもわたしの名は忘れても、心に響いて揺り動かされたものがたりは忘れることはないだろう。語り手としてそれ以上のよろこびはない。

 刈谷先生のレッスンで今日はじめて、低い声は低いポジションで出そうとするのでなく、高い声とポジションは同じところで、ただし声は集めて発声するのだと身体でわかった。身体でわからないとほんとうにはわからない。

 今日はたいへんな日だった。ISOの契約、次男の学校問題、会社の改革問題、かずみさんが子どもを怒ったこと。めったに怒ることはないが、怒ると半端ではない。わたしはオロオロするだけだった。


三百七十一の昼 (2004 2 .22)  語り継ぐ

 今日は年に一度の父方の親族の集まりである。大宮の清水苑で毎年、二月の日曜のどれか、12時から4時まで開かれる。親族といっても水野家と新井家(父やおさだおばちゃんの姉であるお仁おばさんが嫁いだ家)の合同のあつまりで、わたしや妹がもっとも若く、なかには現役でがんばっているひともいるが、だいたいが悠々自適のひとたちだ。このなかには医者の米雄さんもいる。
 例によって遅刻した。去年の集合写真ではダレカの手がそこにありえないふたつの手が映っていたのだが、わたしはいつも遅刻なので写真に入ったことはない。順番に近況と思い出を語るのだが、わたしは今回はじめて語りをした。おさだおばちゃんを語るにはすこし早い(関係するひとがその場にいるので)と感じたのでつつじの娘を語った。ものがたりが聞き手のこころを手繰り寄せる感じが手にとるように見えた。そのときなにか玄妙にその場の雰囲気が変わったような気がする。あとはいつもにもまして語るひとの心情が吐露されてされて笑いあり、涙ありの語りの会になった。養子に出された弟への想い、亡き父の思い出、最後は涙、涙だったが、みないい語りだったし、こうしたちいさな共同体で語り継ぐことが語りの原点だと思ったことだった。
 実は昨年の新水会で先輩諸氏の話を聞いて、わたしの語り口は変わったのである。たぶんやはらかに。

  ゆうべの嵐、激しい雨風の音に触発されたのか、それともつつじの娘の余韻のせいか 明け方夢を見た。わたしは旅をしていた。伊勢志摩への旅、そしてはじめての恋人にであった。わたしは抱かれていた。その感触がまだ残っている。ところがそれだけではなく、優しげな顔をしていたのにもかかわらず......夢のなかにいたのはわたしと彼だけではなかった。夢をみているわたしは彼の寝ているかたわらでべつの恋人と内緒話をしているわたし?を見て彼が目を覚ましてしまうじゃないの.....と気をもんでいる.。あの方は幽界にいる。いつかわたしも、あちらに行く、残すのは思い出ばかり。


三百七十の昼 (2004 2 .21)  乙女さん

 霊感は突然訪れる。なぜ語るのか、今朝わかった。きっかけはファンタジーでそれからつぎつぎとパズルのあるべきところにそれぞれの断片がおさまった。それはとても自然で当たり前でそれなのにはっとすることだった。いいようのない気持ちでわたしはへたへたと座り込んで泣いていた。あぁ、これでこの日記を書き続ける意味が半分終わったと思った。それから「カーロ・カルーソーのはなし」の要のところがポンと切り替わった。なんだかボーっとしてリビングに降りた。

 リビングで黒鳥の踊りの32回のアンフェッテトールナンとか4羽の白鳥の踊りとかの真似事を娘たちとして遊んだ。わたしをよく知る方は想像するとかなり恐いんじゃないでしょうか。娘たちは少女のころ、バレーを習っていたことがある。箸にも棒にもかからなかったが、それでもシャッセとかジュテとかパドゥーシャとか体で覚えているようだ。ゆうべ長女が何を言うかと思ったら「おかあさんが死んだらアラベスクわたしにちょうだいね」......アラベスクというのは、ノンナ・ペトロワという少女の、芸の修行を経糸に師であるユーリ・ミロノフとの恋を横糸にして絢爛と描いた山岸涼子さんの本格的長編バレー漫画である。おもしろいには違いないが、娘もまだ見る目がない。なんといっても日出処天子がいちばんの傑作だ。愛とはなにか、小説でもなかなかあそこまでは突き詰められない。

 イラク派兵反対のデモに行こうとしたら、乙女さんと約束していたのを思い出して、わたしは語りで少しでも世界の平和に貢献しようとデモはあきらめて精神科のS病院に向った。病院はたいそう混んでいた。病むひとはこんなに多いのかとすこしばかり驚いた。案内されてデイケアの部屋に行くと37.8人の高齢者や入院している方のまんなかで小柄な乙女さんが掛け声をかけている。ひなまつり、みかんの花咲く丘、大漁節、ソーラン節を手振りよろしくみんなで踊る。汗ばんでくるほどハードなダンスだが、とても楽しかった。次週も見学させていただくことにした。

 乙女さんは3つの病院をかけもちして、そのほかにもバレーを教えたりしているらしい。プログラムはあらかじめ組むの?と聞いたら、その日の顔ぶれや人数や天気などで  臨機応変にその場で考えるのだそうだ。病院の駐車場には6,7台のデイケアのバス...市から委託されているのだろう。それから会社に行った。帰りが遅くなったので地中海倶楽部でお食事。たらば蟹のグラタンとひらめのカルバッチョ、かずみさんは和牛のステーキ、とろけるほど美味しかった。死ぬまでに一度、地中海倶楽部で豪華な会を開きたい。揺れる蝋燭の炎、咽び泣くギター、芳醇な酒、美味しい料理、そして語り.............料理がまずくならないような洒落た小粋な語りができるようになりたい。



三百六十九の昼 (2004 2 .20)  堕ちた!?

 左右色違いの靴下を履いてでかけようとしたら、長女に「おかあさん、堕ちたね」と云われた。「(そのままでは)外に出さない」と叱られたので、もういちど靴下をさがすことにした。靴下が左右違うことなど、自衛隊イラク派兵とかにくらべたらなんだというのだろう。わたしがすっぴんだろうとゴールウェイの買い物袋に書類や本や印鑑を入れて歩こうと、空の色が変わるわけでもないし世の中になんの影響も与えない。

 若いときより一層身奇麗にする努力を怠ってはいけない世代なのはわかっているけど、もうそういうことに気をつかうのは面倒で、これはたしかにダラクなんだと思う。バシっと決めなくては外へいけなかったのはついこのあいだ、スカーフを何枚もつけたりはずしたりして色映りを試したりしていたのだ。でも、ものはいいようで外見にこだわらなくなって本質的なものの考え方をするようになったと云えないこともない。そういうことにしておこう。

 今日は午前中、税理士さんと打ち合わせ、社会保険労務士さんとも会った。それから浦和で仕事をして、帰りユザワヤで仙女のティアラと杖、黒い生地を6M買った。なんとなくぶらぶらして帰った。あす浦和駅出発の自衛隊イラク派兵反対の集まりがあるらしい。行きたいけど足が保つかしら。

 きのうのことがうれしくて、ちょこちょこっと語りの世界の原稿がかけてしまった。ファンタジーについて別ページでまとめようと思う。3ヶ月くらいかかるかもしれない。


三百六十八の昼 (2004 2 .19) ひとはみな

 ひとはみな、その体内に語る回路を持っている。今日は木曜ゼミ、櫻井先生の3回の講義のあと、自主勉強会を開いて今日が3回目。赤いワンピース(切り抜き)を素材にひとりひとり、ものがたりを語ってもらった。。11のそれぞれ異なるものがたり、それぞれの語り口、それはほんとうに楽しくてみんなで笑ったり感心したりしてたちまち2時間が過ぎてしまった。
 青い服、手編みのセーター、なかでも庄司さんのベビードレスのおはなしを聞いていたら、涙が滲んだ。あんなに自信なさそうだった庄司さんの愛に満ちたおはなし、その優しい語り口調、いつの間に身に着けたのだろう、チョキチョキ、チョキチョキの繰り返しの音が耳に快い。ストーリーテラーが生まれたと思った。11月.櫻井先生の講座の最後の日、別れしな、駅頭で先生は「このグループははじめからテキストを使わないで語る最初のグループになるでしょう」とおっしゃった。そのことばが成就しようとしている。高島さんという若い新人もはいったし、このグループはどんなふうに伸びてゆくだろう。わたしもいっしょに伸びてゆこう。

 午後ヤスコさんと会って、盛岡への旅などこれからの相談をした。それから事務所で仕事をした。小川さんからTELがあって研究セミナー修了発表会の練習の相談をした。わたしたちファンタジーのグループ、どうか当日、聞き手のみなさんに楽しんでいただける語りができますように。
 

三百六十七の昼 (2004 2 .18) かくも地上を離れて

 そうだ、思い出した。わたしはきのうふとんのなかで泣いていた。日曜にラブレターという映画を見たのだ。

 「拝啓 藤井樹様 お元気ですか。 私は元気です」
渡辺博子は、二年前山で遭難して死んだ彼に宛て手紙を出した。こちらに越す前、彼が住んでいた小樽の住所。届くはずのない手紙。   しかし、まさかの返事がきたのである。
 「拝啓 渡辺博子様 私も元気です。でもちょっと風邪気味かな。」

 先方もいぶかしく思っている様子だが、とりあえずふたりは文通を続ける。手紙をくれる藤井樹とはいったいだれなのか、謎を解きたくなった博子は現在の恋人秋葉と小樽に出かける。秋葉は樹の友人でもあるのだが、博子が藤井樹のことを忘れかねているのでなかなか恋が進展しない。  だが、謎はとけた。藤井樹は中学の同じクラスにふたりいた。博子はまちがえてもうひとりの藤井樹に手紙を書いたのだ。それからも博子は樹(女)に死んだ恋人の少年時代、彼がどのように生きたか教えてくれるようにポラロイドカメラを送って頼む。

 そこから藤井樹(女)の過去への旅がはじまる。さまざまな思い出が甦る。ふたりは同姓同名ということもあって、かっこうのからかいの標的となっていたので、そんなにいい思い出はない。クラスメートの陰謀でふたりそろって図書委員にされたこともある。最後に会ったのは中学三年の三学期がはじまってすぐのこと、父を病でなくしたため休んでいた樹の家に、藤井樹(少年)が突然訪れ、「この本を自分のかわりに図書室に返してくれ」という。それはプルーストの「失われた時を求めて」だった。樹がひさしぶりに登校すると藤井樹(少年)はすでに転校して主のいない空席が残されていた。

 樹は博子に写真を撮って送るために中学校に行き、先生や後輩の図書部員と会った。樹が名を名乗ると、後輩たちがくすくす笑いだす。ひとが借りないような本の図書カードに藤井樹の名前がたくさん残っていて図書部員のあいだでその本を探すゲームがあるのだという。そして樹はそこで先生から彼が死んだことを聞かされる。

 博子は秋葉と山に行く。朝焼けの雪のなかで藤井樹が遭難した山に向って、彼女は泣きながら叫び続ける。「お元気ですかぁ わたしは元気です  お元気ですかぁ わたしは元気です 」

 晩秋、樹の家に後輩の図書委員が一冊の本を持って訪ねる。それは「失われた時を求めて」 その本の図書カードの裏には樹の顔が丹念に描かれていた。時を経て届いたラブレター.... 

 
 中山美穂が博子と樹の二役を演じていて秀逸である。ところがここで観客は博子=樹、藤井樹=樹のふたつの合わせ鏡のなかにいることに気づく。藤井樹は樹の面影を忘れかね、博子を愛したのだろうか。博子は樹の分身であり、藤井樹は樹の分身であるかもしれない。この三人のだれを主役とも読み取れるのだが、それはとりあえず別において、終章でひとりの少年から少女へのラブレターが、失われたときをこえて届くことが示唆しているものはなんだろうか? すぐれた映画、すぐれた文学、もしかしたら語りも、見る人、読むひと、聞くひとのひとりひとりにそれぞれのメッセージを手渡す。.

........恋とは特定の誰かに向けた想いなのか....いいえ、それはその少女や少年やその他の対象を超えてはるかな永久なるもの、天上に投げかけたまなざしのような儚い純なものなのではないかと思う。.....すくなくとも生れ落ちたばかりの受け止め手が気づかないそのあいだは........恋と結婚とはまったく非なるものである。ゆえに恋の成就はハッピーエンドではない。恋うるとはとことわに一なるもの、全なるもの、はるけきものを求めつづけることだからだ。


 わたしは寺島ダリや岸野リーダーへなげかけた秘めた思い、あこがれ、せつなさを想いだす。ひとを恋うることは海の涯、空の果てを思うようなことだった。エロス・性愛でさえ、この世ならぬものへこの身をこころとともになげかけるものだった。そして語ること、ボランティアという現世的なことばとは別に語りもまた、この世ならぬ、はるかなものへ己をなげかける試みであるのだった。かってはひとをとおして、そして今語りをとおして、かくも恋い慕うのは.....はるか地上を離れてそこになにがあるのだろう.......この地、この肉の身に囚われれていることは........そんなに.......切ないものなのかと思う。



三百六十六の昼 (2004 2 .17) 空のかけら

 昼過ぎまで眠っていた。乾ききった砂地に水が沁み込むように水の底に沈むように昏々と眠った。3時近く銀行に行くのはきのうとおなじ、それから宮代まで10分ほど車を走らせた。黄ばんだ畑地のそこここに忘れられたように雑木林が残っている早春のわびしい風景、けれど陽はうらうらとあたたかい。体育館の駐車場に車を停めて、ケヴィンと外にでる。きおい立ったケヴィンはぐんぐん進む。畑では農家のひとたちが草を刈ったり、種を蒔いたり黙々と働いている。なんだかもうしわけないような気がする。あぜ道から河に出て、さらさらせせらぎの音を聞きながらほとりをあるくと枯れ草のなかにきらきら空のかけら、オオイヌノフグリが咲いていた。旧友に会ったようだ。それからどんどん歩いて大きな河に合流した。ケヴィンもわたしもうっすら疲れてベンチで休んだ。

 事務所に行くと、そこはもう戦場だ。実績三年推移表、ISO9000取得への準備、出来高、損益、わたしはどこで生きているのだろう。河のほとりにいるわたし 夢の狭間にいるわたし 仕事場にいるわたし きりきりと頭痛がするがダンサーの乙女さんの波動がわたしの血潮まで伝わってきてなんだか急に元気になる。乙女さんのご主人がうちで働いていて実はいささか面倒なことで来ていたのだが、わたしは彼女のパワーに気圧されて、土曜日に踊っているところを見にゆくことにする。

 木曜ゼミの打ち合わせ、ヤスコさんと打ち合わせ、4月のワークショップの申し込み 高島さんと打ち合わせ、つながってつながって前へ、前へ

 ほんとうはこんなことを書くはずではなかったのだけれど、夢のようなことは現実の光に瞬く間に薄れてしまうのだ。黄昏に生きるにはどうしたって生活のことなど考えない余裕が、さもなければ逆にどん底の貧窮が、そして他のひとのことなど考えない孤高が必要なんだと思う。


三百六十六の昼 (2004 2 .16) 綾なす悪夢

 風邪であたまのなかは杏仁豆腐。自営業は時間の融通はきくから、ちょっと抜けたり、会合に出たりはできるのだが、勤め人と違って100パーセントの休みもない。いつも脳味噌のすみには仕事が居座っているし、どんなひどい風邪をひいても休めない日もある。今日は給料日。社員さんのは振込み済みだがアルバイトさんの現金をおろさなくてはならない。

 銀行で待っているあいだ、フェンテス短編集を読んだらあまりおもしろくて、そのまま痛む頭と目をかかえ、ココスで読んだ。まえに読んだときはこんなにおもしろかったかしら。午前中布団のなかで渋沢龍彦のねむり姫を読んだからか.......どちらも綾なす悪夢と美の世界だ。そういえばわたしはもうしばらく、善と悪、光と闇、男と女、精神と肉体などの二元的世界感のなかで暮らしていたようだ。風邪の微熱、意識朦朧が重層の眩暈のする絢爛を垣間見せてくれたのか......風邪を愉しもうか....と本屋で毒のありそうな何冊かを買ってきた。フェンテスは過去と現在、土俗てきなものとキリスト教的世界が混沌としている。一人称と二人称が交錯する短編があって自分が迷路のどこにいるのかわからなくなる。けれどどこからか淡い光がさしこんでくる。一人称と二人称と交互に語ってみたら? でもそれではかぎりなくひとり芝居だ。実験的にしてみたいけど......

三百六十五の昼 (2004 2 .15) 誕生日

 かずみさんの誕生日、液晶のパーソナルテレビ・アクヲスをプレゼントした。ついでにもう一年半前に壊れてつかえなくなった電子レンジのかわりを買った。これでケーキもローストチキンもスペアリブもつくれる。それから勢いをかって、ブラザァのミシンを買った。財布の中身は61円になったが爽快な気分である。会社のお金は動かせるけど気が小さいので家計となると気合がいる。手巻き寿司の夕食には家族6人定刻に集まったが、これはまことに稀有なことである。なんとなし春の兆しが感じられる一日だった。

三百六十四の昼 (2004 2 .15) チョコレート

 息子たちのもらったチョコレートをとりあげて食べることは母親にとって勝利にもひとしいこよない喜びである。かずみさんがもらったチョコレートを食べてもいいよというので食べてしまったら、「ひとつくらい残しておいてもいいじゃない」と叱られた。わたしはチョコレートを食べない日はないくらいチョコがすき。かずみさんてば「そんなに甘いものばかり食べると、歩けなくなっても背負ってやらないよ」「いいわよ、車椅子をつかうから」わたしから甘いお菓子をとったらなにが残る? あぁだけど、ウェストもほしい。

三百六十三の昼 (2004 2 .14) ものがたりの構成、まずテーマが。

 終日、事務所で仕事。そんなにチョコレートをもらえそうもない社員さんたちに感謝を込めてバレンタインディのチョコをあげた。

 「おとうちゃまのこと」テキストがとりあえずできた。対談になっているものをできるだけもとのことばをつかって構成してみた。
....どうしてあんな怖ろしいところへ、あんな南洋なんかへね。行ったら、身体に悪いのにどうしてって言ったって.........言い出したら聞きませんから。短いであろう命ならね、思うとおりに。

 このような会話文を語りにするのだが、もともとの回想録を活かして一人称で語ってみようと思う。ひとり芝居でなく語りにする。タカさんは敦の代弁をしわたしはタカさんを代弁するという入れ子の構造になる。すでに語り口調になっているがよく言えば親しみやすく、悪くいえばしまりがない。だらだらシーツのようにおはなしが続き、それがあっちこっちに転調する。コルトレーンのサックスみたいだ。口承の語り手の語り口調に似ているとふと思った。

 昔はそう娯楽もなかったし 炉辺で語るなら、幾分冗長であろうとそれにあまる雰囲気もあっていいだろうが、悠久の語り手の持つカリスマ性や話術を持たないこちらは、起承転結なり序破急なり、テーマを支えるしっかりした構成で足場を固める。なにしろ相手は、さまざまな文化を享受している成熟した聞き手なのだ。まず、ものがたりのエッセンスを掴む。語りにつかうエピソードを選択し流れを決める。そして不要なところは今回は20分の1くらいになるまで容赦なく切る。語調をととのえ、全体のバランスを考えテキストがととのったら語ってみる。ここで感覚的に必要だと思われることばを足し、またはふたたび削る。

 一人称の語りは今回がはじめてではない。「わたしがちいさかったときに」も わたしは....でつづる語りだった。しかしわたしは....はおもに淡々とした叙景文であるのに、タカさんには強いメッセージがあること、もともとが語りことばであることに大きな違いがある。手綱をゆるめれば、語り口は叙情に堕してしまう。あくまでも高潔さがたいせつである。

 「死霊の恋」  もテキストをまとめはじめた。こちらは一人称の小説、それも回顧文である。これを進行形の三人称の文体に変える。テーマは愛と死、霊と肉のふたつで、しとど濡れるあえかな物語、ありえべからざる物語であるから長い描写が多い。これはストーリーの組み換えが若干必要だ。文学を語りにする場合、情景の説明文をどれだけ簡潔に且つ的確にできるか、語彙の選択が勝負の為所である。こちらも20分の1くらいの分量で語りにして20分くらいの長さにとどめたい。

 結局、わたしの場合なにを、どのような分野のものを語るにしてもまずテーマ(生と死そして愛、見えざるものの世界)があり、その
テーマをのせるものがたりの選択が最大のポイントである。
 つぎにものがたりを語るための
構成に整える。そしてものがたりにわたし自身を差し出し攪拌し熟成させる。つぎに充分であり充分過ぎない時間をかけて何度か語ってみる。最後に語る場での研ぎ澄まされた集中、ここでなにかが起こればいい語りになるのだ。もちろん発声のついての日ごろの鍛錬はいわずもがなである。すべてをひっくるめてなにがたいせつといってそれはこころざしだと思う。だが、この5項目が満たされることはそうはない。熟成がいちばんむつかしい。というのも語ることで物語は熟成するのだから。
そして集中がいつもできるとはかぎらず、たとえできたとしても途切れることはままある....というか全編維持できるほうがめづらしい。精進あるのみ、いつかは、きっといつかは.......

 作者がいる小説においては、このものがたりの構成に整えるというのがむつかしい、かといって一言一句そのまま語ればよくこなれた上等の朗読とさして変わらない、むしろ朗読のほうがいい場合だってあるのだ。限定されたところでどれだけ自分をのせられるかというおもしろさはあるのだが。著作権の問題もある。 そこで究極は自分で創作する。または数限りなくある古今東西の伝承から中島敦、芥川龍之介のようにはいかないけれど、ハゲシク再話する。今年は限りなく創作に近い再話をいくつか手がけようと思っている。リサイタルを開いて今までのものをすべて出しつくし受け止めていただいたそのあとで。

 民話についての考察について櫻井先生からメールでほめていただいた。うれしかった。でも夕焼け文庫行きたかったなぁ。そのうちスケジュールをあわせておじゃましたいものだ。
 

三百六十二の昼 (2004 2 .13) 続・民話についての考察

 ずっと胸にわだかまっていた民話への想いを整理できて、ほっとした。ほんとうはずっとずっと民話を語りたかったのだという自分の気持ちがけれどどうしたらよいかわからなかった気持ちが見えてきてほんとうによかった。改稿したのでよかったら見てください。上吉田に行く決心がついた。

 帯広から小包が届いた。古本屋に頼んでおいたウェールズのジプシーの民話の本である。1971年の出版だが状態は良好である。わたしは古本屋を逍遥するのが大好きなのだが足がわるくなって以来この道楽はあきらめていた。けれど今はネットがあって全国津々浦々の古本屋の店先をのぞくことができるのだ。しあわせなことである。

 「おとうちゃまのこと」、原稿がほぼまとまったので、ケヴィンを連れて買い物に出た。夕食の買出しにあすのバレンタインディの準備である。伊勢丹まで行くのは面倒なのでMaryの袋詰めを8袋買って、ちいさい袋に詰め替えることにした。それで今年は5000円ですんでしまった。

 帰り道、橋のたもとに車をとめて、青毛堀河の岸辺をケヴィンと散歩した。川面をさざなみが揺らしている。水鳥がついと水脈をひいてゆく。風はひんやり心地よい。早春の息吹のなかで、岸辺の櫻並木の咲き乱れる日を思った。

三百六十一の昼 (2004 2 .12) 民話についての考察

 民話についてまとめた。川崎さんと経審について、戸山さんと童謡の会について打ち合わせ。久喜座例会。給与振込み。フォント修正。明日「おとうちゃまのこと」中島敦夫人中島タカさんの回想録を語り用にまとめる。


民話とは 

 民話とは実際にどんなお話を指すのかというと、学術的に世間話、昔話、伝説を、「民間説話」と呼ぶことがあり、それを略した形が「民話」であるとする説と研究者の関啓吾が、英語のFOLKTALEから直接訳したという説がある。学術的には柳田国男が言った「口承文芸」「昔話」というのが一般的である。

伝承文学  文字によって伝えられた......おもに神話など
口承文芸  口伝......笑い話、世間話、昔話、伝説、民謡(田植え歌、わらべうた)  なぞなぞ、ことわざ

つまり民話とは民間に口承で伝わったお話の総称である。

では、民話のなかの昔話と伝説はどう違うか

昔話と伝説の違い

比較項目

昔話

伝説

人物
時代
場所

不特定

昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。

特定

景行天皇の時代、日本武尊は父天皇の命より、「東国の悪い神、従わない人たちを平らげよ」との命を受け、妃の橘姫とともに出立した

信憑性

ない。聞き手に信じることを要求しない

内容を信じられることを欲している。

語り口

特定
孤立性、極端製、非写実性、三回の繰り返しを好む。

発端句 むかしむかしあるところに
結末句 どっとはらいなど

不特定



  史実→→伝説・・・・象徴化、簡素化?→昔話


口承文芸としての民話は滅びた

 ラジオさえない時代、昔話は想像の翼をひろげる娯楽のひとつであった。子どもたちや若者は比較的時間のあった年寄りたちから、昔話やまた共同体を維持するために必要なことなどを民話をとおして受け継いだ。
 しかし、ラジオテレビが津々浦々まで娯楽をばら撒き中央の文化を蔓延させ、標準化させ、あまつさえ標準語の採用によって方言による地域の豊かな文化は気息奄々の状態と化した。義務教育の徹底により文盲が皆無に等しくなったことは喜ぶべきことではあるが、当然口承文学の衰退を促した。そして、最後に都市化、核家族化などによりムラ、マチなど共同体の地縁血縁は消滅し、本来共同体で語り継ぐ昔話、個人の体験の集成はその必要性を失ったのである。こうして現在観光用として残っている遠野などの民話の語りも口承ではなくテキストから暗記されたものとなってしまった。

私のうちに響く口承の民話

 テレビが家に来たのは9歳のときだった。それまではなにがおもしろいといって、本を別にすればラジオが主役だった。わたしは木製の電蓄のキャビネットに耳をつけて、落語やラジオドラマに聞き入った。今でもはっきり覚えている。「ジェロニモ太郎」「紅孔雀」「左近、右近」すぐそばで呼ばれても気づかないほどものがたりに没入していた。けれど、本を読むこともラジオを聴くこともひとりだけの孤独な喜びだった。そしてそのころ、家にはおさだおばちゃんが毎日きていた。

 おばちゃんは上手に字が書けなかった。そしてサンキュウベルマッチという怪しげな英語をつかった。だが、おばちゃんの話ときたら、こんなおもしろいものはなかった。おばちゃんは興が乗らないと話してくれなかったけれど、おばちゃんの前に坐ったわたしたち兄弟はどんなにどきどきしただろう。腹を抱えて苦しくてぜいぜいするほどわらいころげたのだ。

 おばちゃんの民話は三つからなりたっていた。ひとつは「おらがまき」、一族にまつわる話である。たとえば、ハイカラなおとっつあん(金助お祖父さん)が三越で柱時計を買って背負って峠をこえてきて村の衆を驚かせた話、関東大震災のとき、村中で昼飯を食い終わっていたのはオらがちだけだったという自慢話。水もしたたるような美男だった兄さん(あにさん)のこと、おいちおばさんが出産に戻ったとき、生まれたのが双子だったのでひとりお返し(間引き)した話。これはわずか60年前の話である。(余談であるが、このときかろうじて命を助かった女の赤子は苦労の末、見初められて結婚し警察幹部の妻として幸福に暮らした。その後わたしの知るかぎり水野の家系では二組の双子が生まれたが、両方とも片割れはまっとうに育たなかった)

 もうひとつは村に起こったさまざまなことや行事についてでお日待ち(女正月)のこと、トウカンヤのことや若い衆宿の悩ましい話など、背戸のうしみさんが子どもを連れて実家に戻ったものの継おっかさんは働かせるばかりで、マンマもくれず、米びつは米が減るとすぐわかるように線がひいてある。うしみさんがいつも寒そうにしているので、お松お祖母さんが隠れて握り飯をやったりしたのだが、とうとう子どももうしみさんも死んでしまった。するとある晩うしみさんの家の庭が昼間のようにぱぁっと明るくなってうしみさんが生きていたときと同じような寒げなしこうで立っていた。それからうしみさんをいびり殺したままおっかさんは病気がちになって死んでしまったというおっかない話、今でいう虐待である。これまでが分類上でいう世間話であろうか。

 そして.三つ目が桃太郎などの昔話、大きな桃が川の上からどんぶらこっこ、すっこっこ、どんぶらこっこ、すっこっこと流れてきたと、ばあさまが縁があるならこっちへこう、縁がねえならあっちいけと呼ばあると、桃は縁があったのか、どんぶらこっこすっこっこといってばあさんのいる方へ流れてきたと。

 おばちゃんはなんどもなんども同じ話をした。わたしたちはなんど聞いてもあきることが無かった。ふつうお話はすじを追うから何度も聞けば覚えてしまう。なぜ飽きなかったといえば、はなしのすじではなくその語り口のおもしろさ、リズムの心地よさとあいまって、ほっこり包まれてひとつの話にみなが興じている楽しさにあったのではないかと思う。

なぜ、民話が語れない?

 その後、四十年の歳月を経て、いつのまにか語る側に身をおくことになった。そうして五十島さんや横山さん(残念ながら佐島さんの語りはまだ聞いたことがない)の方言の語りを聞かせていただく機会を得、リズム、テンポ、間のよさに脱帽した。だが、自分で語りたいとは思わなかった。八雲や参加型や文学、児童書からの語りはできても、松谷みよ子さんの再話は語れても民話(昔話)を本の活字から覚え、語ることがどうしてもできなかった。また都市の語り手が民話(まずほとんどは昔話)を語るのを聞いても正直いいと思うことはなかったのである。語り手=民話、昔話という図式が世間にもあり、自分のなかにもあったから、民話を語れないことはほとんどトラウマになっていたし、研究セミナーで昔話の持つ力を知ったこともあり焦りにちかい心境になっていた。

どうすれば民話が語れるだろう?

 と悩んでいた矢先、突然語れるようになったのだ。それは櫻井先生の銀座ゼミで、先生の語りで「とっつこうか、ひっつこうか」を聞いて各人が順に語るという講義のなかだった。つまり口伝によって語れたのである。その後、おなじように「お月さん金のくさり」も気がつくと語っていた。それから幸手の権現堂の堤のはなしを、これはテキストから語れるようになった。こうして口伝で、また自分の今呼吸しているこの土地の話から、私はひょっこり民話を語れるようになった。

生きている民話

 大島さんが刈谷のゼミで言われたように民話(のなかの昔話)は本来生きているものだった。同じ話を口承で受け継いでも語り手の性差、教育、人生で民話(昔話)は変わってゆくものなのだ。それを同じ本を暗記して100人の語り手が同じ文言で語るとしたらそれは語りではない。大島さんが言われたように昔話の本質は語りにある。かって昔話は語りであったのだから。またどうように実藤さんが言われたように民話(昔話)は語り手が語らなければ生き残れない。とすればわたしたち都市の語り手も民話を自分の人生を織り込んで語りついでゆくことを負託されているのではないか。そしてまた民話とはむかしむかし......ではじまる昔話だけではないことを思い起こす必要もありはしないか。

都市の民話  

 今、巷間に都市伝説といわれるものが流布している。伝説といってもその定義である人物、時代、場所の特定はさだかでない。友人の友人のはなしのようにささやかれ、ネットなどをとおして全国的に広まっている。またその話は進化している。トイレの花子さんやリカちゃん電話の怪談などはその代表的なものだ。ある女の子が親の留守中リカちゃん電話をかける。するとリカちゃんが「わたしリカちゃん、あそびましょう」 女の子はこわごわ、もういちど電話する。「わたし、リカちゃん、今あなたの家の前にいるわ」 階段を上る足音が聞こえる。 電話のベルが静かな部屋になりひびく。 「わたし、リカちゃん、あなたの部屋のまえにいるわ」 ......そして......「わたし、リカちゃん あなたのうしろよ」   これにはさまざまなバージョンがあるが、猿の手や黄金の腕を踏襲した恐ろしさがある。........このように民話は都市の薄闇でもひっそり生きている。

民話の音とパフォーマンス  

 わたしの手元に「武蔵野の民話」 という一冊の本がある。この本をを読むとわずか数十年まえ、今の小河地ダム(奥多摩湖)のあたりで姥捨てが実際にあったことが語られている。 また著者が民話に強く惹かれたのは幼いころ、お祖母さんから聞いた、雪女の話、雪女がな じょなじょなじょな...と歩いてくる じょなじょなじょな とな....とかあずきとぎの婆さんおあずきをとぐ音が強くこころに響いたからだと書かれてあった。 民話はストーリーだけでなく音とパフォーマンスで聞くものの想像力をかきたてる、そしてそれはテキストとしての本にはまったく書かれてはいない。わたしが子どもの頃聞いたおさだおばちゃんの 語りもまさにそのようなものであった。方言を持たずにどうやってあのような語り口を会得できるだろう。文字だけで民話(昔話)を語るのは香りのないお茶をすすめるようなものだ。

民話の復権

 わたしは夢見る。生き生きした切れば血の流れるような民話を語りたい。わたしたちが生きている、この風や太陽に育まれ、先人がたゆまずたがやした土壌にわたしの人生の幾ばくかをのせて語ることはできまいか、他国の昔話や文学を語るのもよいが、一度は死に絶えたこの国の口承文芸にもういちどいのちを吹き込むことはできまいか。つくりものでない再話はできまいか。

そこに根源的ななにかが.... 
  
 こうして自分のなかにわだかまっていた民話について考えてきて、わたしはなぜ自分が民話を語ることに惹かれながら忌避してきたかわかったような気がする。ひとつには紙に記された民話(昔話)をそのまま語ることが香りのない造花を差し出すようなものだと感じていたからだろう。もうひとつは民話(昔話、世間話)のなかのなにかがわたしのなかの根源的なものに触れるからだ。あの切ない子ども時代に自分を回帰させ、幼いころあづけられて過ごした秩父の上吉田の風景をまざまざと甦らせるからかもしれない。 真っ赤な夕焼け 夕闇に迫る黒い山なみ、漆黒の空、落ちてくるような星々  すぐ近くにある墓場 さらさらさらさら川の流れる音、ひろってはいけない白い石、ひとの気配があった山の洞窟 、そして寂しさと父への思慕...生きることへの莫とした不安、
 民話を語ることは自分の原風景に回帰することでもあるのだろう。

民話、その可能性 

 方言を持たない都市の語り手は無理に方言を使わなくてもよいと思う。けれどもイメージとして日本の原風景を持たなくてはなるまい。そのようなものはすでに唱歌や昔話のなか、ひとりひとりの記憶のなかにしかないものかもしれない。だがそれゆえになお、イメージとして伝えなければならないのだろう。そのうえに民話(昔話)のもつ音やパフォーマンスを年長者の語りからまだ学ぶことはできるのではないかと思う。
 また民話=昔話ではないところにもう一度目をむけ、わらべうた、なぞなぞ手遊びなども伝えていきたい。そしてわたしは個人的には太平洋戦争について子どもの立場、父の立場、母の立場で市井のひとびとのことを語ってゆきたい。阪神大震災についても語ってゆきたい。それは、現代の民話、生きている民話のひとつだからである。そして昔話、個人の体験の集成を共同体で語り継ぐという、本来民話の持っていた役割を復活することでもあると信じるからである。

                       平成16年2月12日



三百六十の昼 (2004 2 .10) CM効果

 思いもよらぬ休日だった。昨今は閉店間際の投売りみたいに休日がばら撒かれるのでなんの休日だか忘れてしまう。かずみさんは仕事でわたしとこどもたち4人とお昼前のリビングで猫の親子みたいにごろごろ過ごした。

 敬と日本の漫画がサブカルチャーとして世界に与えた衝撃について語り、大いに盛り上がった。歌舞伎にのめりこんで日本語を習得した外人はそうはいないが、日本の漫画を読みたいがために日本語を習おうとする外国人はかなりいるのである。
 ついでにバナナフィッシュの吉田秋生とモンスターの浦沢直樹に共通する弱点についての討論。ふたりとも力量のある漫画家なのだが、キャラへの思いいれが強すぎてキャラにひっぱられ、全体のダイナミズム、構成が乱れてしまうという欠点がある。あれ、これは語りにも通用するみたい。そのものがたりをひっぱってゆくのは登場人物であるけれど、語り手は本質的にはそのキャラの代弁者ではない。つまり、指輪物語ではフロドが主役だけれど、作者はフロドの人生そのものを語りたいのではなくある世界観を語りたいのだ。
.......脱線してしまった。
 それから手塚治虫の偉大さについて、石の森章太郎がなぜ手塚を超えられないか。それから少女漫画の定義、商業主義に堕した漫画家の末路、最後はやっぱり少女まんがはすごい...という結論に達した。萩尾望都のバルバラ異界が今、おもしろい。少女漫画家にとって(もちろんすべてではないが)漫画をかくことは生きることに重なっていて、その濃密さ、捧げられる情熱はほんとはんぱじゃないと思う。ところでネットで検索したらわたしの持っている手塚治虫の漫画が一冊10000円で売られていた。これはけっこうなお宝である。双子の騎士とか虹のとりでとか、貸し金庫に移そうか......ガロの古いのなんていくらするだろうなぁ。

 それからゴールウェイで買い物、すみやのあとにできた店で娘の春用のコートを買う。そしてモスでお目当ての春待ち大根バーガーとシェイクを買って帰った。テレビCMとネーミングに負けたのである。大根は旨かった。

 今は朝の3時、きょうは60のファイルにタグ?を埋めてフォントを統一し、フォントサイズがブラウザで変わらないようにした。大仕事であった。

 たいへん申し訳ありませんが、フォントサイズについてご意見をいただければうれしいのですが....




三百五十九の昼 (2004 2 .10) くつした

 支払日、銀行で支店長がコーヒーをいれてくれた。が、わたしはすっぴんでそのうえ靴下を片方しかはいていない。それとなく履いているほうの足でカバーしようとしたが見えちゃったに違いない。30分ほどたのしくおしゃべりをした。それから事務所で給与計算、名刺つくり、連絡会など。

 


三百五十八の昼 (2004 2 .9) 冷静と情熱のあいだ
 
 レッスンの50分前に刈谷先生のところへついた。車の鍵がなくて10分遅れ、1時間間違えて差し引き50分というわけだ。「よかったそうだね」と先生はおっしゃった。きのうの情報がもう届いている。衛子さんと紀久恵さんから伝わったのだ。衛子さんは厳しい批評をする方だから、いいというならそんなに悪くはないのだろう。

 発声練習はどうしてこんなに心地よいのだろう。整体みたいだ。そのうち発声論議になった。ひとつのポジションで台詞をしゃべると艶が出る。軟口蓋をあげたまま、喉は下げるのだが喉でコントロールしない。フォームを確立する。声は息に乗せる。昔は複式呼吸などということばはなかったから息遣いといった。腹の右をつかうと明るい声、左を使うと暗い声になる。組み合わせでさまざまな声を出す。目線を変えただけで声は変わる。青とかグリーンとか色彩をイメージすると声は変わる。たしかに声は不思議な精妙なものだ。

 夢基金の講師プロフィールをようやく送れた。修了発表会の案内をUPした。N行政事務所と経審の打ち合わせができた。
 12日までに「童謡と唱歌と語りの会」への提案をまとめる。同じく4/20の中島敦朗読会に語る「おとうちゃまのこと」のテキストをまとめる。月末までに語りの世界の原稿を打つ。死霊の恋のテキストをまとめる。「狐憑」かなにかを朗読するのもいいかもしれない。欲のかきすぎかもしれない。刈谷先生はじっくり構えていたずらに新作に走らず、同じ語りを何度もやって「あのひとのあの語りを聞きたい」と言わせるようになることも考えなさいとおっしゃる。わたしは聞き手へのサービス精神と自分を追い込みたい一心でつぎからつぎへ新しい作品に手を伸ばす。

 歌でも語りでも楽譜なりテキストなりはしっかり入っていなくてはだめだ。それで冷静に高見の見で語ってはじめて、アドリブが当意即妙にでたり、パッションが加わったりもする。刈谷先生に「...(Ah mio kor)を覚えてないと僕がつまらない」と言われたがおはなし会があったのはご存知なので叱られはしなかった。

 きのうの語りについて不安だったので米田さんにTELしたら、「リハーサルよりずっとよかった」というのでひとまず安心した。半端な語りでは遠くから来てくださる方に申し訳なく思う。これでもう忘れてしまえる。つぎのステップに進もう。



三百五十七の昼 (2004 2 .8) 傷つく

 ひとは傷つきやすい。自分が傷つくのを恐れるひとはたいてい他者の痛みにも敏感だ。だれだって触れられたくない赤裸のやはらかなところはあって、ちょっと掠っただけでひりひり痛い。痛いのは生きていること、やはらかでみずみずしいこと。

 昂然と首をあげて敏感な皮膚を風に晒して歩きはじめたのは24.5からだった。そうしないと生き続けることなどできはしないと知ったからだ。それからあまりの痛みを忘れるために、より多くの苦痛を求めるように彷徨した数年があった。自分の痛みや流れる血でしか購えないものがルビーのようにわたしの掌のなかで輝いた。生の秘密。いのちの不可思議を垣間見たときもある。わたしは多くを得、多くを失った。陽炎のようなかそけきもの、美しいものを見る視力を永遠に喪い、生命力、屈しない猛々しさを自分のものにしたのだけれど、そしてそのことに悔いはないのだけれど、ときどきひそひそ疼くものがある。それがわたしを駆り立てるのかもしれない。痛みから逃れようと仄温かい薄闇に逃れようとするひとを白昼の峻厳な光の下に引き摺りだしたいという衝動に。

 「ほら、ごらん これが生きているということ。灼かれた目の痛みが、燃えるようにひりひり痛む皮膚が、これが....」


三百五十六の昼 (2004 2 .8)  ひとつのおわり

 3時間に及ぶおはなし会は無事に終了した。お客様も多くおいでになり、ことに最初から最後まで聞いてくださった方が何人もいた。楽しんでいただけたようだ。みないい顔で語っていたし、終わったあとそれよりもっといい顔をしていた。仲間には先輩も多いし年配の方もいるのでおこがましいのだが、わたしはリハーサルではここという所ははっきりダメだしをする。けれど本番のあとはなにがあろうとひたすら誉めることにしている。それが自信につながるからだ。だが掛け値なしに今日はよかった。ダメ出ししたところはきっちり直っていた。

 わたしのことは....だれもさほど誉めてくれないから、本音を言うとつまらない。もちろんいつも聞きにきてくださるHさんは、「伝わってくるのよね、自分がその人物になったように....どうしてだろう」 と言ってくれたし 涙が出ましたという方もいらっしゃったが....今日はよくできたねって嘘でも仲間から言ってもらうとうれしいのだけどなぁ。人生でもそうで、しだいに年をとり、先に立って歩くようになると、頭をなでてほめられたりねぎらわれることはまずないのがあたりまえ。しかし、人間はいくつになってもそうしてもらいたいのだ。誉めて育てるというのは真実だとつくづく思う。

 それでも自分の出来不出来は自分がいちばんよくわかる。今日は全体としてととのい過ぎた。あと、もっと力で押してもよかったかなぁ。美は乱調にあり...というけれど、多少の齟齬があろうと完成度が低かろうとはじけた方が聞き手のこころに響く感はある。芦刈も初回のステージは物足りなかったし、これから一年かけて仕上げていこうと思う。が、忘れてはならないのは聞き手にとっては今日が唯一の出会いかもしれないということだ。常に、常に自分の最高をめざすしかない。苦しい苦しいことだけれど。

 そして いい語りは新しい語り手を生むのだ。Hさんが語りをしたいという。千葉に越したMさんもできることなら地元のグループに入りたいという。こうして語り手がふえてゆけば、世界はすこしは変わってゆくのではないかしら。

 明日から3回くらい民話について、自分の考えを整理しながらまとめていこう。そして、決めた。今年はリハーサルをする、ひとつの区切りとして。燃え尽きるような激しい恋ものがたりを語りたい。


三百五十五の昼 (2004 2 .7)    明日は..

 明日はおはなし会、夜中も過ぎて、ジタバタ テープにとって聞いてみた。それもお風呂のなかでだ。村のおばあさんが語りかけるように・・・が、やっぱり物足りない。あすは何人見えるかわからないが、視聴覚室なので80名は入る空間だ。やっぱりドラマティックにやってみよう。細かい修正点がある。アクセントの統一、間のバランス、明日になればもう天とお客様におまかせだけれど。
 まっさらから練習をはじめて今日で15日、あとは聞き手と場がものがたりにいのちをくださる。思い起こせば、はじめて芦刈を語ったのが去年のまなびすとのステージだった。やはり2週間ほどの準備だったような気がする。
 お月さんももいろ、20分のドラマを聞き手のみなさんと生きる。わたしの語りはそういう語りと思う。もっとちいさな場で今までと異なるアプローチをしてみよう、寄り添って隙間を埋めるようにとか、リズムやテンポをともに愉しむように...とか。


三百五十五の昼 (2004 2 .6)  雪

 雪を見てきた。日本の雪景色ってほんとうに美しい。しばらく小雪の舞うなかに空をみあげて立っていた。山が連なっている。木々の枝に降り積もる雪、川面はしんと鈍色に静まっている。  雪降る雑木の山から、箕吉と茂作じいさんが薪を背に足早に下ってくる。雪が降るといつのまにか雪女を語っている。

 自然の息吹のなかにいると、力をいただく。体の奥に潜んでいた熱い血が甦る。そんなわるいことばかりではない。自分の周囲からすこしずつ変えていくことはできるにちがいない。雪の下では木の芽が張り、春の訪れは近い。季節は巡る、環境破壊が進もうと地球の鼓動のように時は刻まれ、万物は生成繁茂し、万象は巡り廻る。

 そのなかでわたしたちの生は一瞬の光芒に過ぎないけれど、唯一無二の一瞬なのだ。どうか、よい果となりますように、出会いを結び、たいせつにいとおしんでいけますように。

 掲示板のjunさんの本屋さんのこと、よかったなぁ。たけくらべのみどりと真如の水仙のことなど思い出してしまった。


三百五十四の昼 (2004 2 .5)  民話

 今日、まなびすと・トムの会のおはなし会と語り手たちの会研究セミナー修了発表会のプログラムを34通発送した。A5だと定型外になるのは誤算だった。ひとりでも多くのひとにセミナーの仲間の新しい語りを聞いてもらえたらと思う。トムの会のなかまたちの語りも聞いてもらえたらうれしい。

 櫻井先生から苦言をいただいた。それは民話についてわたしが書いていることに誤解をまねきやすいところがあったからで、指摘し示唆していただいたことはほんとうにうれしかった。民話については考えていることもあるし、誤解を招くような記述があってはいけないので、来週ゆっくり書かせていただこうと思う。明日夜帰る。


三百五十三の昼 (2004 2 .4) スタジオPlanet

 会田さんから「スタジオを 見に来ませんか?」とお誘いいただき、夕方訪ねた。駅から5分、わたしは行けなかったが以前に鈴木砂知子さんがリサイタルをなさったところである。会田さんがスタジオをお持ちなんてぜんぜん知らなかった。会田さんが贔屓にしてくださる妹のカフェの話からスタジオを知ったのだった。

 一面がガラス張り、マフォガニイ色のグランドピアノ、カウンターのあるそれは素敵な空間だった。案内していただいてすぐ、歌を歌ったり、語ったりしてみた。音響もいい。舞台はださないで平土間がいい。ろうそくや篝火というわけにはいかないだろうから背の高いスタンドライトがひとつあるといいな。70人入るそうだが、30人くらいにして、ゆったりした語りの会をひらきたい...と即思った。
ドレス...黒がいいな。コーヒーとケーキげおもてなし、夜の部ではワイン...グッディーズカフェから料理をとって....

 スタジオを持っているってどんな気持ちがするのだろう? 素敵ね。..といったら会田さんはこのスタジオにとても深い思いがあるのだった。今は瀟洒なマンションになっているここには、昔ステンドグラスの窓がある古い洋館が建っていた。わたしは県庁に行く道すがら、駅近くとは思えぬ森のような静謐をまとった洋館の佇まいに、どんな方が住んでいらっしゃるのだろう。一度でいいから玄関先から覗いてみたいと夢のように思った、それがかっての会田さんの家だったのだ。会田さんにとっては大好きだったその家の、そしてスタジオを建ててまもなくなくなられた建築家さんの形見でもあるのだそうだ。

 恋のものがたりがいいわね...と意見が合ってフルートの音色を添えてくださるということだし、わくわくしてしまう。会話のなかで寧のことを話したら、ちょうど今日会田さんはフルートのレッスンの帰りに寧に寄ろうか、ヴィエントに寄ろうか考えて、ヴィエントにしたのだそうだ。不思議ね...特別な出会いかもしれないという予感...

 帰り駅の駐車場で駐車券がみつからなくてあたふたしていたら、親切な男の方が「どうしました?」と声をかけてくださった。懐かしげに「その節はたいへんおせわになりました」とおっしゃる。?? わたしもなにかとても懐かしく思われるのだが、名前もどこであったかも想い出せなくて、お尋ねするのも失礼だし、なんとなく調子を合わせてしまった。券をみつけてくださって、それでは...と足早に去ってしまわれた。   果たして だれだったのだろう?? 

 


三百五十二の昼 (2004 2 .3) マシュマロ

 夕べ、テレビでマシュマロを一日10個食べるとおとなになっても背が伸びるとか特集していた。「食べたい?」と聞かれて「食べたい!」と応えるとかずみさんはすぐに夜の10時過ぎにコンビニへ走って4袋も買ってきてくれた。背はもう伸びなくてもいいが、骨と骨のあいだのクッションになる軟骨が増えそうで、わたしの膝痛にも効きそうなのである。娘たちは串にさしてマシュマロを焼いている。そういえば、美智子さまが皇室に入られるまえ、正田家の暖炉でマシュマロを焼いて召し上がったとなにかで読んだことがある。

 わたしは足がなおるものならばとそんな手間はかけないでむしゃむしゃひたすら食べた。じつはその手間をかけるところが文化というか、生きることを愉しむということなのだが、このごろは語り以外はまったく手間暇かけない暮らしになってしまった。ところで、今日生協に買い物にいったらマシュマロの棚ががらがらである。げにテレビの力はすさまじい。

 あけがた近く、すこし無理をして3/8のプログラムをつくった。そして今日はリハーサル、当日の会場、中央公民館の視聴覚室にいったら、だれもいない。視聴覚室でも県立図書館の視聴覚室だったのだ。着いたところが、ちょうど二部のわたしの出番の前だった。リハーサルは本番より緊張する。ここの視聴覚室は舞台になっていて150席くらいあるだろうか。やはり、ステージに上がるとステージの語りになる。この緊張感がたまらなくすきだ。足が震えて、わりあいいい語りができた。歌と与吉の台詞が練習とはまったく違って、こんなふうにものがたりが自分のいのちを持ってゆくのが不思議でうれしくてならない。聞き手がいないとそうならないのだ。

 トムの会のメンバーはいい語りをするようになったとしみじみ思う。米田さんのツボにはまったときのおもしろさ、絶妙の間、福沢さんは一皮むけて、朗読の匂いがなくなった。今日のおしらさまにはぐっときた。小宮さんの円熟、岡安さんのかっちりしたかたち、関根さんのぬくもり、秋山さんも変わった、そして橋本さんはもっと自信をもって橋本節を炸裂させてほしい。わたしはトムの会のメンバーを誇りに思う。わたしの課題は後半、もっと終盤にむかって収斂させたい。 

 午後は事務所で仕事、1月の日次の集計が出る。1月は集計をみるかぎりはトントン、ただし正式な損益は出なければわからない。カッター、ラインなど4部門は連絡会で目標を修正しても月末ぐうっと数字が伸びるが、なぜかいつも土木の手綱が利かない。ほかがよかったので補えたが土木目標んぼ半分もいかなかった。これは責任の所在が明確でないためと考え、現場代理人あるいは担当営業別工事別に出来高の目標数値をたてさせ、連絡会ごとに数字を追うことにした。その画面ならびに書式をつくる。今日の連絡会ではほかに現場終了後の報告をするようになってどんな変化があったか気づいたことを話してもらった。以前より状況の把握ができる、現場を繰り上げて施工できるなどの効果があがっている。予定時間の差異を見ると得意先の監督の性格ややり方が読み取れるという意見もあった。これを活かすにはもっと予測を立てることが必要だと思う。

 そういえば、会社のことはたいがいそうだ、つねに予測し次なる決断に備える、これの連続。 あぁ、やっぱりこれだ、この修羅場がわたしは好き、さぁ がんばるぞ!
今日は、プログラムの修正、印刷、おたよりの印刷、そのまえに赤のインクをむだにしないように赤いすてきなワンピースをたくさん印刷いたしましょう。


三百五十一の昼 (2004 2 .2) 響く声

 きのう、NHKのお昼ののど自慢を見ていた。かずみさんの大好きな番組なのだ。20組の出場者のうち男の子のデュオが二組あって、一組は鐘ふたつもう一組はグランプリだったが両方とも声がよかった。背筋が震えた。歌のよしあし、上手さをこえて、たしかに魂に響く声はある。いつものとおり、ゲストのプロの歌手がふたり歌ったが。刈谷先生のおっしゃるとおり、出から退場までみごとに緩みのない表情だった。

 どうすればこころに響く声が出せる? 単純に(声だけで)響くという意味合いなら男の声にはかなわないような気がする。若々しい声にもかなわない。声が澄んでいるのだもの。けれどことばを乗せた声なら、魂を乗せた声なら揺り動かせるかもしれない。


三百五十の昼 (2004 2 .1) 感じる

 目には見えない、手でふれることもできない、だけど、感じることはできる。

 誰の代弁をするかということと、誰の立場で語るというのは別です....と片岡先生は言われた。まれに重なる場合があるような気がする。通常、地の文は誰の立場での誰...で語るのではないか。ライフストーリーで一人称で語ることはあるが、原作があるとき、一人称の語りはとても少ない。当然二人称はもっと少ない。倉橋由美子の”悪い夏”という二人称の小説があって、あれはおもしろかったけれど、あなたは....という語りはまずありえない。

 昔話の場合、登場人物には名前さえないことがある。そこにいるのは、おじいさん、おばあさん、やまんば、犬、さる、おに...個性はあまりない。そのひとをそのひとたらしめる特性が欠如している。これは昔話が単純化され象徴化されたためであって、はじめのなりたちでは特性も名もあったのかもしれない。

 わたしのばあい、この登場人物の無個性であることが昔話を語るのを遠ざけたひとつの理由であった。とっかかりがない。つまり登場人物に投入できないのだ。それに反して、権現堂の巡礼とか、松谷さんの再話は語りやすい。人物の造形がくっきりしていて、入り込めるからだ。

 たとえば、月の夜晒しのおまあ、つつじの娘...ふたりはそれぞれ個性がある。目の光さえ浮かんでくるようだ。そのうえにふたりのなかには普遍化されたおんな...がいる。ひとを焦がれて眠れぬ夜を過ごしたことのないおんな...もいるかもしれないが...。一度として夫のどうしようもない癖をうんざりしながら一瞥したことのない妻もこの世にいるかもしれないが....。男とはとても好ましいものだが、ときおりひどくうんざりする存在でもある。まぁ、おそらくあちらもそう思っているのだろうが。

 昔話にはなぜか成熟した男女はあまりでてこない。おじいさん、おばあさんでは、今の自分を投影するのはむつかしい。これには、たしか深いわけがあるのだが、今日はそのことは本題ではない。どこに聞き手が深く感じるかというと、やはり台詞なのではないかと思う。語り手はこのときその人物になりきり、台詞に関しては代弁も立場もない。たとえば、お月さんももいろ...のおりの、与吉、じいやんそのままなのだ。この話では三人はおかみ(権力)によって、殺されてしまうので、三人になりかわるということは、つましくけなげに生きたひとたちにかわるということだ。当然浦庄屋、浦奉行の侍の台詞のときはその立場になりかわるが、ふつう聞き手は心情的に悪に与しないのである。

 一方、地の文では視点は中空にある。あたたかく見守るまなざしといったらいいだろうか。ものがたりは良きもの、美しきものを語るのである。今回は村のばあさまの立場で語ってみた。そして、表の歴史のかげにひっそり生き、死んだ弱い立場のひとたちの代弁をする。その後方にいるのは、果たして誰だろうか。



 長女がどうやらインフルエンザで次女は熱が出てないか幾度も自分の体温をはかっていた。学校にいかないアリバイがほしいので、わたしも昔そうだったからおかしかった。長女のために骨付きチキン!でだしをとった野菜スープをたっぷりつくり、一週間前、いただいた新巻鮭を粕漬けにしておいたのが食べころで美味しかった。野菜サラダやおくらとホタテを叩いたのと、そのうえピザとデザートを宅配してもらって、日曜日よさようなら。



三百四十九の昼 (2004 1 .31)  燃えない

 今日はレッスン。ことばとことば、音と音のあいだを埋めるということ、すなわち朗読でいえば行間を読むに通じる。素に帰らないということ、何拍休む?とか考えているとすぐ先生に気づかれてしまう。そして間、歌はもちろん楽譜とおりに歌うのだが、語りや朗読では、とことん、聞き手を焦らす、間を取りすぎるかなと思うほどとる、それも技術だおっしゃる。
 オペラとは歌う女優である..と先生はいう。..ん、この台詞はどこかで、そうだ、澤田さんが語る女優だと言ったのだ。刈谷先生は、ほんとうは語りを理解していないと思う。冷静に常に冷静であれ....とおっしゃる。わたしはたいがい冷静である。...が静かに炎をあげて、燃えている感じがすることがまれにあって、それはほんとうにいい語りをしているときなのだ。たぶん世阿弥のいう妙....に近いと思う。滅多にないけれど、そんなときわたしはなにかに仕えている。限りなく自分であるのに限りなく自由で、それなのに。

 からだが重くて、思うようにしたいことができなくて、ここ数日、濡れそぼった枯葉を燃やしているようにくすぶっている。つまらない。お月さんももいろは....いろあいがはっきりしてきて、与吉の最後の台詞ではいつも泣いてしまう。死霊の恋は今は語る気にならない。なにかないかなぁ...デュークとか...遺言も重い...なにか自分を奮い立たせるようなものがたりはないだろうか。全霊を込めて打ち込めるもの....恋のような...

 喪うことがなければ、語りはしなかっただろう。歌もいらなかった。ほんとうはそのことがひりひり生きることで、これは代替物に過ぎない、青いそらのかわりの水いろの色紙、川面をわたる風のかわりの送風扇みたいな....そう思うと寂しくなる。

 話は変わるが小泉純一郎は史上最悪の宰相になるかもしれない。あの国会での答弁はなに? 調査委員会のケイ氏はイラクにもともと大量破壊兵器はなかった、われわれ!は大きな間違いをしたと証言した。フセイン政権は崩壊寸前だった。フセインは自国の反対勢力を押えるために破壊兵器があるような振りをしていたのだという。もっともブッシュの元側近は大量破壊兵器などあってもなくてもブッシュはイラクを撃つつもりだったと言っていた。

 愚かな、愚かなことだ。大量破壊をしたのはブッシュ、石油のために?アメリカの威信?キリスト教原理主義のために? 大量破壊兵器ということばを盾に後押しした小泉さん...すなわち日本、それはわたしたち..!たくさんの血は誰が購う? ひとりではない、殺された民間人8000人、半ばは子どもたち、その涙と悲しみ苦しみは誰が購う?  くそったれ!!  そのうえのイラク派兵、なぜ民間援助ではいけない? 憲法を無視して派兵する意味はなしくずしの憲法改悪。小泉純一郎の狙いはそこだ。そのステップさえ踏んで、9条を葬る段取りさえすめばさっさと退場する気だろう、あのひとは。・・・消費税値上げを置き土産に。




三百四十八の昼 (2004 1 .30)  おとうちゃまへ

 4月の中島敦朗読会に奥様の中島タカさんのインタビューからまとめて語りをしてみようかと思う。さもなければ名人伝を朗読する。中島敦さんとはすこしばかりご因縁があって、お孫さんの風ちゃんや光ちゃんは弟のともだちだった。ご長男の格さんの奥様と母も懇意のようだ。インタビューの内容を読んでも中島敦さんが子どもの目線でお子さんたちと向き合っていたのがうかがえるし、タカさんがどんなに敦さんの才能を信じ、ひととなりを愛していたかよくわかる。そのあたりが伝えられたらいいのだが.....

 うちの南北問題は解決とはいえないまでも改善のきざしを見せている。これはわたしが対話型をかなぐりすて、親としての権威を振りかざしたためでもあって、本来のありようなのか、正直わからない。が、長男は週明けから家業を手伝うといいだし、次男も3月半ばからそうなりそうである。内気な長女は免許をとりたいと言い出し、わたしを驚かせた。
 長男のことでかずみさんはうれしそうだった。わたしはこのごろ子どもたちよりかずみさんが愛しい。子どもが生まれてからもう長いこと、子供中心の考え方や献立になっていたかもしれない。それが、かずみさんのよろこぶものが先に目に付くようになった。なぜかといえば子供たちが成長し、わたしの助けを必要としなくなったことと、平行して私自身が子どもたちから離れたくなったからだろう。この変化は急激に起きた。
 時間の切迫、早く子どもたちを巣立ちさせなければという想い、私自身を成就させたいという望み、そしてふたりの息子に恋人ができたことも無関係ではない。けれど、よごと、わたしの布団にもぐりこみ占領しようとする子もいるから、あと二、三年は楽しみつつ苦しみつつ子供たちをみていようと思う。



三百四十七の昼 (2004 1 .29) そっと抱くように

 Ah,mio corの練習、そしてお月さんももいろを2.3度語り、ひねくればあさんを入れてみる。この新曲のまえに刈谷先生がおっしゃったこと、「今年は、(曲、物語、人物に)入り込むだけでなく、包み込むように癒すように歌うことを身につけよう、それは語りでも同じことだ。力が入っていてはできないよ」......テープで聞いてみると一聞瞭然で、先生に言われたように歌うと沁み入るようだ。力の抜きどころがこのごろ時折ひらめくようにわかることがある。でもそれはプリズムの虹のように視点があわないとすぐにも消えてしまう。そっとつつみ込むように語って磁場ができる?だろうか。わたしは全身全霊で語りたいのだけれど。

 今日は頭痛でくらくらして朦朧と過ごした。オーバーワークかインフルエンザか....すこし語りをセーブしようと思う。週に4度もおはなし会があると充分な準備ができないような気がするから。夢基金の問い合わせがきた。久喜座の公演は11/20、市民芸術祭は「あらしのあとに」....が1月、語りのまつりはあるし、おはなしフェスタ久喜の秋を開催するとしたら.....それに娘は受験だった。



三百四十六の昼 (2004 1 .28) お葬式、天国と地獄

 得意先の社長のご父君が亡くなられたので、かずみさんと葬式に出かけた。ダブルのパンツスーツにシルクのストールを着たのはよかったが、香典を忘れて家までとりに帰った。慌てたけれど20分前には式場に着いた。...ところが今主流の椅子席のホールと思っていたのに、二階に上がったらお座敷で、わたしたちは内心ぎょっとした。かずみさんは挨拶もそこそこに靴下を買いに外に出た。黄色の靴下だったのである。わたしはといえばストッキングは黒だったが車に乗せてあっった舞台用のパンプスを履いてきたのでバックベルトではなかったがサイドがベルトになっていてどうみても真冬に履くものではなかった。
 ともかく間に合って神妙にお数珠を取り出しご冥福をこころから祈った。......が時はお昼、お葬式の最中、生きているわたしの肉体は空腹を主張し続けた。前後と右の方には聞こえていただろう。

 帰りの車でわたしはわけもなく「ねぇ、かずみさん」と何度も話しかけた。なぜだかわからないけど、この人生でかずみさんに出会えたことはほんとに幸福だったとしみじみ思ったのだ。お葬式には生前のその方の生き方が滲みでるように思う。父のお葬式には詩吟の結社の方々が漢詩で送ってくださった。父はひとがすきで面倒を惜しまないひとだったから多くのかたが今生の別れにきてくださった。わたしが死んだらどのくらいお葬式にみえるかしら?といったらかずみさんは300人くらいはみえるでしょうと言った。市役所は花輪を送ってくれるかな...とか、あのおともだちは来てくれるかしらとか、わたしの空想はとどまることを知らなかった。たぶん鴨居にすわって?だれが泣くかみていると思う。すこしばかりおどかしてあげようかな....おとうさんみたいにお花をばさばさ揺さぶったりして。
 結婚式もお葬式も列席させていただくと、来し方を振り返るいい機会になる。

 むかし、ガールスカウト埼玉五団のスカウトだったころ、だいすきだった岸野リーダーから天国と地獄の話を聞いたことがある。

 あるひとが神さまに地獄を見せていただきました。そこは大きな広間で大きなテーブルがありました。テーブルの上にはご馳走が山のように盛り付けされ、長い柄のスプーンがおいてありました。ところがそこにいるひとびとは痩せこけて取っ組み合いの喧嘩をしているのです。つぎに神さまは天国を見せてくださいました。やはりそこは大広間で、同じようにテーブルには山のようなご馳走があり長い柄のスプーンが置いてありました。ひとびとは見るからにしあわせそうに微笑んでいるのです。そのひとは神さまに尋ねました。なぜさっきのひとはあんなに悲惨なのに、こちらのひとはこんなにしあわせそうなのですか?  神さまはおっしゃいました。地獄では、みなが自分ばかり食べようとして奪い合いますがスプーンの柄が長いのであんなにご馳走があるのにだれひとり口に入れることができません。それで不幸せなのです。天国ではみなが自分で食べようとはせずに、他のひとに食べさせようとします。だから長い柄のスプーンでもおたがいにおなか一杯食べさせてあげることができて、それでみんなにこにこしているのですよ。

 大阪の中学三年の男の子の事件で、わたしは鬼のような母親よりも、多くのひとが虐待の事実をうすうす勘付いていながら、結果あのようになってしまったことが心底恐かった。なかには五月蝿いからと越してしまったひともいたようだし、中学の先生も友人も児童相談所も近所でもたくさんのひとが知ってはいたのだ。わたしにそのひとたちを責めることはできない。わたしはそこにはいなかった。そして、場所や対象は変わっても、同じことをしていないと誰がいえよう。ひとは面倒なことに巻き込まれたくはない。ひとは自分の暮らしさえ脅かされなければ、他者の痛みなど考えようとはしない。パレスチナでなにもしていないのに撃たれた子どもがいても、イラクやアフガンで劣化ウラン弾による被爆の後遺症で苦しんでいる子どもがたくさんいても、南に飢餓で苦しむ子どもがいても、今、目に入らなければ見過ごすことはできる。自国の政府が態度を明らかにすることにより、または無視することにより、わたしたちに間接的に責任があろうと知らぬ振りをすることができる。

 死ななくてもいい大勢の子どもが虐待や武力や飢餓によって、親の手で、他国の軍隊や無関心によって死に至らしめられるという現実がある。根はそうは変わらないのではないか。他者の痛みへの絶望的な不感症と想像力の無さ.....なにもできない?なにかができる? それでも痛いのだということ、血が流れること、ひとは死ぬのだということ、正義は行われなければならないということ、たとえどんなに絶望のなかにあっても決してあきらめてはいけないということ、わたしたち語り手は子どもたちや大人たちにものがたりを通して伝えつづけることはできるのだ、少なくとも!

 それがわたしが毎日の地獄のような新聞記事を見ても絶望せず、泣き叫ぶこともしないでかろうじて平静を保って生きていられる理由のひとつである。




三百四十五の昼 (2004 1 .27) ふたたびプログラム

 3/8のおはなし会は、市の事業であるまなびすと久喜という、市内の生涯教育のグループが一同に会しての合同発表会のなかのひとつのとりくみとして開かれる。
 それが今年は3時間の枠をいただいたロングおはなし会。ステージ発表とあわせると3時間半のなかで19のおはなしを延べのべ10人の語り手が語る。それが発表会が終わったのが12/2、詳細が決まったのが新年早々なので充分な準備もできなかった。もっと時間を生かせる企画ができなかったかと悔やまれるが次回に期待しよう。

 結局、50分のおはなし会を三つならべたかたちになった。今日は朝からとおしで聞いてプログラムが組み終わったのは3時半だった。おはなしを聞いて、繰り返しの多いことにあらためて気がついた。ストーリー性のあるものがたりを語ることが多いわたしは、繰り返しや滑稽話があまり好きではなかった。長い名の息子などは頼まれても語りたくなかったのである。

 今回のおはなし会のなかにたいへんだぁ、アナンシと五、みつけどり、長い名の息子があって、同じ繰り返しのおはなしでも語り手によって聞いていて楽しい語りやつかれるのがあるのはなぜだろうと思った。どうも心地よいリズム、テンポ、語りの調子などにカギがありそうだ。三回なら三回のなかで微妙なバリエーションをつけられるひともいた。ともかく重くしないこと、聞き手をあまり考えさせてはいけないんだな...と感じた。わたしには未知の分野だけれど、オチがあらかじめ見えているおはなしをおもしろく聞かせるのは、とても語り甲斐がありそうだ。

 ソーディーソーディーとお月さんももいろがわたしのおはなし。二部のラストと三部の導入で、いっときは、一部のはじめと三部のトリになりそうだったからほっとした。くっついているほうが気持ちが途切れないから語りやすい。あした、プログラムをつくって研究セミナーのといっしょにいくつかのグループに発送する予定である。

 2.3日まえ、仙台に転勤になったNさんが早速送ってくださった牛タンをシチューにしたら美味しかった。大根を炊いて、カレイの煮付けもした。かずみさんはなぜだかあちこちで食料をたくさんいただいてくる。だから大根や葱、白菜はこと欠かない。蟹や鹿を送ってくださる方もいる。それだけのことをかずみさんもしているのであろうが、ありがたいことである。



三百四十四の昼 (2004 1 .26)  米雄さん

 一晩、呻吟した結果、従兄弟の米雄さんの病院に行った。こうなる前に行けばよいものを、あたら痩せ我慢をしてばかなんである。深層心理的には自分を罰したい欲求が働いているように思う。すなわち母親として力足らずの自分を罰し、バランスをとっていると見えないこともない。朝のおはなし会は無事すんだ。会社で家で最小ではあるがやるべきことはやった。

 米雄さんは、いつも穏やかで優しい。めがねの奥でいつも目が微笑っている。看護婦さんがふたり、語りを聞きに行きたいと言ってくれた。あとで招待状をもってゆこうと思う。プログラムつくりで触りすぎしばらくパソコンに触れたくない気分。



三百四十三の昼 (2004 1 .25) 正体

 昼頃、青少年センターに着いた。櫻井先生やスタッフの方々と「とき」で食事。ただしわたしはミルクティー。(あの液体がそう呼べるものならば)片岡先生も午後から見えた。オープニングパフォーマンスの話し合いになったが、このままでは決まりそうもないし、早く家に帰りたかったので、思わず仕切ってしまった。すかさず、藤野さんから「とうとう、正体見せたね!」の声。誤解されると困るのだが藤野さんは思い切り言いたいことはいうけれど、そういうひとの例外にもれず、いいひとなのだ。....わたしが本性見せたらこんなものではありませんと思いながら、みなの意見を聞きつつどんどん進めてしまった。
 しおりについてはなかまが喜んでくれてとてもうれしかった。正味一週間そのうち二日は徹夜だった、もちろん遊んだせいもあるけれど。それから一席ぶち、檄を飛ばした。わたしたち二期生は全員が新しい語りをするのだ。ひとりでも多くの方に聞いていただきたいと思う。
 夕べ、潰瘍のために背中がいたむのをかずみさんはさすってくれた。かずみさんが背中がかゆいというのでかいてあげた。こんなとき夫婦だなぁ、愛し合っているなぁと思う。熊の夫婦みたいだけれど....
 寝床をまりとわかなとケヴィンに占領されてしまったので、(不埒にもつぎつぎもぐりこんでくるのである)かずみさんに入れてもらった。わたしの重いあたまをかずみさんはひとばん腕まくらで支えてくれた。やっぱり愛である。


三百四十二の昼 (2004 1 .24)  イメージ

 かっちゃんから電話があってしばしおしゃべりをした。すこやかなひとはいい。話してるとこちらも元気になる。さて今日はあしたセミナーの仲間たちへ届けるしおりの印刷と製本。ようやく山が見えてきた。とちゅうスペシャルバージョンをつくって遊んでいたから余計に時間を食ってしまった。でも、これが語りと同じで何度も何度も違った再話をしているうちに技量があがってくる。イメージが浮かび上がってくる。おもしろくてやめられない。

 好みからいうとスペシャルのほうがわたしはすき。わだつみの底の死者の想いをたちのぼらせて赤々と燃え上がらせるイメージなのだが、さぁそんな風に受け止めてもらえるだろうか。一般向きとは思えないし、インクも食うからわかってくれそうなひとにだけさしあげよう。もとネタはわか菜の版画をスキャナーで取り込んだので、著作権料を請求された。1000円かあしたのおやつとジュースだそうだ。さぁ、あと一息、それから宿題を書き加えて、カーロのはなしを手直し。あぁ明日はわか菜のともだちが遊びにくるのだった。大掃除しなくては....セミナーに間に合うかしら。
 
 フユコのことが、今週月曜からずっと頭を去らなかったのは、日曜日に市民芸術祭で語った少女のイメージにフユコと隣のミチコちゃんを重ねていたからだ。ミチコちゃんは17のとき、心臓病で亡くなったそうだ。わたしと同い年だった。



三百四十二の昼 (2004 1 .23) フユコ・昔

 浦和はなだらかな坂の多い町だった。のぼってはくだり、くだってはのぼり、足のつかない大人用の自転車の荷台にフユコの妹を乗せたわたしは、おそるおそる自転車を走らせた。すこし気を緩めるとたちまち車輪はわだちのあとにはまってハンドルを取られてしまう。四月のはじめの空気はまだ冷たくて、半そでの剥き出しになった腕のうぶげを風がひんやりとおり過ぎてゆく。わたしの後ろをヤスコとフユコが12吋の子供用自転車でついてくる。

 氷川女体神社に向おうとしたのだがあまり遠くてわたしたちは田圃の畦にならんですわった。まだ黄ばんだ叢に少し青草がのぞいている。自転車のカゴのなかのチェックのハンカチにくるんだタッパーにはおやつが入っている。それは暗い台所でわたしが焼いた夏みかんの入ったホットケーキで、少し生しくてわたしはほとんど食べなかったのだが、後年フユコは、あんなに美味しいと思ったものはなかったと言った。

 フユコはほんとうは妹の同級生だった。きちんとした家の子で、当時にはめづらしく姉妹でピアノを習っていた。子沢山で余裕のないうちに比べて、お母さんは専業主婦でおやつはてづくりのケーキ、とても太刀打ちできたものではなかった。子どもはおとなが思っているよりよっぽど早く家の格や内情に気づくのだ。わたしたち兄弟はどこといえないけれど、どこか自分のうちが他所とは違っていることを覚って、そのことに引け目を持っていたように思う。

 中学に進んだフユコと妹は、二階のわたしたちの部屋で毎日男の子のうわさ話に余念がなかった。そのころ高校に通いサルトルやらニーチェやら読みふけっていたわたしは、男の子の話ばかりしている2人を「男の子がなんだっていうの?少しは社会を見なさい」と一喝した記憶がある。ところが事態は思いもよらぬ方向に進展したのだ。ヤスコの学年にとても熱心な左翼系の教師がいた。そのN先生に触発された10人ばかりの生徒がいて、それはPTAや学校を含めた大騒動になり、ついにN先生は辞めざるを得なくなった。その生徒たちのなかにフユコとヤスコがいたのである。

 実際に事が起きるとわたしは真っ青になった。ベトナム問題、安保問題でふたりを炊きつけたのはもとはといえばわたしだった。その後70年安保で国内は騒然となり大学ばかりか高校まで燎原の火のように安保反対の声は高まる。そして地元の高校のバリケード封鎖をした高校生のなかにふたりはいた。わたしたちの部屋の押入れには銀ヘルやアジビラが山と積まれた。結果は、あてにしていた封鎖に呼応する一般生徒はひとりも出ず、一枚上手の学校側が警官を呼ぶこともなく、バリ封は解除され学校は何事もなかったように沈静した。

 しかし、修羅場はそのあとにきた。妹と一時まったくこころがつたわらなくなってしまったのだ。いつもと同じように隣に寝ている妹のこころが氷で鎧われたように手をのべるすべもない。これが喪うということか、わたしは妹を失ってしまうのかと、それは後に妹が死産で死ぬ一歩手前であったときより怖ろしかった。

 わたしたち家族は全力で、父も母もわたしも形振りかまわず、妹を取りかえそうとした。夜中父母は車を走らせ、わたしはことばを尽くして説得した。そして妹はわたしたちの腕の中に戻ってきた。だがフユコは、家を飛び出してしまったのである。わたしは今でも、顔かたちさえ似ていたふたりの運命が、なぜあのときふたつに別れてしまったのだろうと考える。それと同時に、たとえそのときはまったく異なった道と感じたにせよ、そんなに違ったわけでもないような気もする。ヤスコは夫と子どもと店を護って闘い、フユコもたとえ子どもと一緒でなくとも6人の子をこの世に送り出し、パートナーを得て暮らしているのだろう。そして、わたしも.....

 少女のころ、白いレースのカーテンを巻きつけて、わたしたちは踊った。宝塚の脚本で劇もした。でも、わたしたちは知らなかった。いつかフユコがアングラ劇団のプリマになることも、わたしがアマチュア劇団の舞台に立つことも。そしてなにより わたしたちはひとの子の親になるなんて、子どものことで思い悩むようになるなんて夢にも思わなかった。


三百四十二の昼 (2004 1 .23) ももいろ

 きのう二回読んだ「お月さん、ももいろ」お風呂のなかで語ってみた。よかった! 語れる。27日にまにあった。かんたんに入ったものは簡単に忘れるかと思ったらディアドラも覚えていたし、魂の色に近いものがたりを語ることは、そんなにむつかしいことではない。それが聞き手と出会って幾度も幾度も聞き手の方のこころをとおってゆくうち、ものがたりは深くなるのだが、今のところお月さんももいろ...は生まれたてのものがたりだ。

 27日聞いてもらって3日のリハーサルそして7日、しだいによくなるだろう。そうだ、その前にカーロ・カルーソーがる。ことしはちいさい物語をたくさん、そしてなにか出会いがありそうな気もする。わたしは語り手だから、もうこの世にいないひとの物語を、遺していった想いのいくつかを替わりに語ろう。やすらかに、たいらかに魂が鎮まるように。


三百四十二の昼 (2004 1 .22) シジュフォスの日

 市民芸術祭の夜、具合がわるくなった。からだが不調だとスケジュールはひとつひとつこなしてゆくものになる。よろこびは褪せてしまって苦行に近い。それでも穴をあけるわけにはいかないから、幼稚園の3クラス、児童センター、太田小、そして今日木曜ゼミがおわった。賽の河原で石を積んでいるように感じた。長かった。実際におはなしをはじめるとしゃきっとするし、楽しくないわけではないけれど。

 シジュフォスは大石を丘のふもとから汗水たらして丘のてっぺんまで担ぎ上げる。頂上に着いた瞬間、石は転げ落ち、永劫にシジュフォスは大石を担ぎ上げなければならない。一方、東洋では親より先に死んだ子は犀の河原で石を積む。ようやく積んだかと思うと鬼が石を崩してしまう。これはつらい刑罰である。無為のために終わりなき苦行を科せられる。そのなかで石を積むこと、石を担うことにシジュフォスは喜びを子どもは喜びを感じているのだろうか。

 カミュだったか、転がってゆく石を追うときシジュフォスは開放?されているとか書いていたような気がする。しかし大石を担い一歩一歩足を踏みしめて丘を登るとき、その重みに全神経を集中しているとき、シジュフォスは少なくとも考えずにすむのではないか。犀の河原でも小石の塔が崩れないように一心に積み上げるとき、子どもはやはり遊んでいるのだ。遊ぶことは果を求めない。無為なのだ。ではなぜ、それらが刑罰なのか。それは誰も見てくれない、喜んでもくれない、孤独な作業だからではないか。

 そうか...今週、わたしはこころを閉ざしていたのかもしれない。子どもたちのことであまり苦痛だったから。それもあってフユコのことから過去へ遡る旅をしていたのかもしれない。痛いときは開けないなぁ、たしかに...。


 木曜ゼミ、今日は視聴覚室ではないので、発声で大声を出すのは遠慮して滑舌からはじめた。そのあと赤頭巾のお人形をつかってみる。人形をつかうと感情表現がとても自然でゆたかになる。お人形の使い方でそれぞれの工夫のしかたがおもしろかった。つぎに権現堂の伝説をわたしが一度語り、それからひとりずつ語ってもらう。それぞれの視点、選ぶ語彙、は異なるのだが、村人の「言い出したものがなればいい」巡礼の「わかりました、それではわたしが人柱になりましょう」のせりふがそれぞれよかった。

  病院が休みだったので、敬がわかしてくれたお風呂に2時間くらい浸かっていた。潰瘍の痛みを和らげるのはこれがいちばんである。



三百四十一の昼 (2004 1 .21) フユコそしてわたし

 4.5年前、フユコに会った。単刀直入に「なぜ、子どもたちを捨てられたの」と聞いたら、「今を逃したら、これ以上年をとったら、もう新しく生活を組み立てられない、ギリギリの時だった」「わたしは、子どもたちがわたしを憎み忘れるように、子どもたちの目の前で夫と争い、醜いことばを投げつけたの」そういうフユコの面差しはやわらかさを喪い、少女のころのように顎がとがっていた。けれども透明さはそのままで、上等のしなやかな黒革の細身のパンツと痩身には痛々しいような革のコートがかえって優美であえあった。わたしはほんのすこし フユコを憎んだ。

 女であることをつかって、子どもたちを捨てたがゆえに、羽を持つようにかるがると家の呪縛から、わずらわしい夫や子どもたちから逃れたゆえに、まさしくフユコが女であるゆえに、フユコを憎んだ。わたしはフユコに嫉妬していたのだろう。わたしもできることなら逃れたいと望んでいたのかもしれない。そして自分が決してそこまで踏み出しはしないことも知っていたのだろう。

 男はいつでも男だ。けれど女は無理やり女になる。そして母になる。そうすると内分泌の作用からか、まっとうにものが考えられなくなる。母も女も人間とは違うもののようだ。そうして女でなくなって、子どもたちから置き去りにされてようやく人間に戻れる。わたしが語るひとつの理由はこの身、この魂から女であることを削ぎ落としたいからだ。自由になりたいから....だ。 あぁ締め付けられるようだ。波のように押寄せてくる追憶。

 フユコはあの日の言葉とおり、アトリエを持ち自立した。そして子どもたちは母がいなくてもまっすぐ育っていった。血の絆、記憶の木魂によってひとはかたちづくられてゆく、けれどもそこに日々あたらしい息吹が注がれるのだから、悲しむことはない。母であることは聖なることではない。子どもを置いて出てゆくことも男たちの屍の山を越え行くも罪ではない。欲することを為し、そのために起きたことをすべて受け止めればそれでいい。

 家を出た半年後、フユコは家に電話をかけた。14歳の長男ケンタに「(生まれてまもない)アイやレイのことはどうするの?」と訊かれてフユコは「わたしにもわたしの人生があるのよ」と答えたという。その言葉はそのままわたしのことばでもあった。娘や息子についこのあいだも放ったことばだった。「おかあさんにはもう時間がないの。おかあさんにもおかあさんの人生があるのよ」

 自分は捨てても子どもたちや夫に尽くす、戦後生まれたわたしにも日本の凛とした女性像は残像のように理想として残っている。どこかにそうしなければいけないという枷がある。だが同時にわたしは良妻賢母だったお菊おばさんの今際のことば「つまらねぇ 人生だったなぁ」も忘れることができない。わたしはこの人生を悔いなく終わらせたいのだ。


三百四十の昼 (2004 1 .20) Sweet Seventeen

 夕べ、サブリエルを読んだ。古王国記第一巻、古王国とは魔術が栄え、魍魎が跋扈するところ、ある日、古王国と境を接するアンセルスティエールの女学生サブリエルに父アブホーセンから剣が送り届けられる。それは甦ろうとする死霊にまことの死を与える魔法の剣だった。そこからサブリエルの闘いが始まる。

 なかなかおもしろい出だしなのだが、鍵となるチャーターという言葉に意訳でよいから、かっこうの日本語をつけてほしかった。ファンタジーに共通する、闇の世界と光の世界の闘いなのだが第一巻を読んだかぎりでは光と闇の構図がわりあい単純である。悪の化身ケリゴールが軽い。指輪物語のサウロンのような底のない巨大な闇、邪悪さがないから光も薄くなる。第二巻以降はどうなるか!?

 童謡を歌う会を開こうという企画がある。鎌倉では500人規模でひとが集まるそうだ。この町を文化の発信地にしたいというOさんの意気込みに押され、語りで参加できるか次回にOさんとわたし、各自案を持ち寄ることになった。
あとは市民憲章を語りで理解を得るようにできないかというのだが、これはちょっと難しそうである。けれども市民憲章の制定委員会でどなたかがわたしを推してくださった、それはうれしかった。

 今日は惣の17才の誕生日、けれどもちっともSweetではない幕開けだった。英語の欠時がきのう限界をこえてしまったのだ。きのう幼稚園のおはなし会に行かなければ....送ることはできた....いまさら言っても詮無いことだ。親の手を借りなければ続けられない。としたらはなからむリなのだ。


三百三十九の昼 (2004 1 .19) フユコ

 朝、目覚めたら「おかあさん、雪!」という声。雪と聞いてわくわくしたのは二年前までで、からだが利かなくなってからは、雪は本意ではないがわずらわしいものになっている。けれど雪が降ると必ず思い出すことがある。かってフユコは雪の日に生まれた三男にユキトと名づけたとわたしに告げたのだが、そのときわたしの目のまえに、降りしきる雪と、暗い部屋の窓際で薄い背を傾けて嬰児の顔を覗き込んでいる白いうなじが浮かんだのである。そして、そのイメージは折に触れ水底の影のように浮かび上がった。

 昨年の暮れ、ネモさんと会うために出かけようとしていたわたしは、ユキトという音を聞いて思わずテレビを振り返った。そこにユキトが映っていた。テレビでユキトを見るのは3度目だった。それは民放のドキュメンタリーで、ある一家の暮らしを追った通算4回目のシリーズものなのだが、なぜかいつも偶然見ることになるのだ。

 17年前の夏、わたしはユキトに会った。いいえユキトだけでなくケンタやゲンやチエとも会った。ユキトの家族は自給自足を目指して過疎の村に移り住み暮らしていた。子どもたちの母フユコはわたしの年下の幼馴染で、夢見がちな少女だった。学園闘争が吹き荒れた17の年に家を出て、想いの赴くままに生きてきたフユコと、わたしは心のある階層で引き合った。そのフユコが3人の幼い子どもと乳飲み子を連れて遠く埼玉のわたしを頼ってやってきたのだ。フユコの口は重かった、言うに言えないこともあったのだろう。

 結局、夫が迎えに来てフユコと子どもたちは4日いただけで山に帰った。クーラーも無い車に詰め込まれたフユコと子どもたちは真夏の日ざしの下を高速を乗り継ぎ岐阜まで帰ってゆくのだ。わたしはフユコの眼に行き場のない暗い光を見、すがるように差し出された細い手を見て、それはわたし自身が自分の眼のなかに知っている光だったから胸が潰れるような気持ちで見送ったのだ。けれどおなじように私自身、子育てと暮らしに追われ、フユコのことを思いやる余裕もなく、手を振りつづけるフユコにほっと安堵の思いをしたのも事実である。

 それから7年、フユコは暮らしと夫を相手に格闘した。パンを焼いて乏しい現金収入を得、野菜をつくり、草をむしり、米をつくり....わたしが4人目の子を出産して、ようやく追いついたと思った翌年、フユコは双子を産んだ。そのたよりを聞いたとき、もうかなわないとおもったのを覚えている。

 そして華奢な、血管の透いてみえるような美しいフユコは夫と子どもを山に残して出奔したのだ。10年経って、テレビに映るケンタとゲンは父を助けてまっすぐなまばゆいような青年になっていた。あの夏いつも寂しげに指をくわえていたゲンは、昨年11月に結婚した。新妻と手を携えて父に教わった自給自足の暮らしをしてゆくのだという。

 ケンタは、Tシャツの首周りがいつもしゃぶっているために擦り切れていたケンタは、兄らしく弟を祝福していた。ユキトはいなかった。父に反抗を重ねていたユキトは家を出て、役者になるために働きながら勉強していた。ユキトはかって女優だった母をどこかで追っているのだろう。4年まえ、研ぎ澄まされた刃のようだったユキトにかすかに汚れが沈んでいるような気がしてわたしは眼を逸らした。それは世故というものだ、都会に住めば、仕方がないのだと思いながら。

 ケンタもゲンもユキトもチエも真っ白なきれいな歯を見せて笑っていた。子どもたちを捨てた母がどんなに毎晩こころをこめて、幼いひとりひとりの歯を磨いていたか、みんなは知っているだろうか。わたしもまた、子を捨てたフユコをどこかで責めていたのだけれど、残されて育っていった、まっすぐで、におやかで、たくましい子どもたちを見て、これでよかったのだと思った。フユコはやむにやまれぬ決断をしたのだ。平穏な日々の暮らしのなかでさえ、今もわたしは選択を迫られている。仕事をとる?語りを突き進む?夫は?子どもたちは?


三百三十八の昼 (2004 1 .18) 天啓

 戦争で亡くなった子どもたちの代わりに語ろう...とふと気づいて すぅっーと楽になった。それに天意も戦を望まれないだろう。戦争の原因は半ば以上は経済の問題、のこりは民族あるいは宗教間の対立闘争である。正義の戦争などない。

 康子さんが夕べ夜中に届けてくれたドレスにに手をとおすとすぐに小ホールで練習、その20分後は舞台の袖で待機、ピンマイクをつけて舞台中央へ....緞帳が上がる。

 ”今から59年前、日本は太平洋戦争のまっただなかにありました。そして戦争の渦のなかには大勢の子どもたちがいたのです。いつの時代でも、どの国でも戦争でいちばん悲しい思いをするのは 子どもたちではないでしょうか? 今日は広島の子どものおはなしをふたつ語らせていただきます。どうぞ聞いてください。まず最初に、当時小学校三年だった田中清子さんの作文から.....わたしがちいさかったときに”

 山場のお弁当のとろで暗い客席からすすり泣く声が聞こえた。それを聞いたとき、すっと力が抜けて あぁこれだ 刈谷先生がおっしゃっていたことは....と思った。終わったとき、こころが静かでたいらで、充ちていた。語ったあとこんなにやすらかであるのは 初めてであったかもしれない。それはプレッシャーから開放されたというだけではなかった。

 ふたりの橋本さんと喫茶店でコーヒーを飲んだ。ほかにひとつ不思議な気がしたのは前日二回練習してテープに入れたのを聞いたとき、そこにある片鱗があったのだ。とても畏れ多いことだが、櫻井先生の語り口に微かに似たところがあって、好きだと聞いているだけで語り口にも滲んでくるのかなぁと思った。

 家族で食事に行って帰り本屋の梯子をした。”サブリエル”の上で指がうづいた。いい本は指がわかる。それと書棚から浮き出して見える。こうしてわたしは、自分の本棚の最良の本を手にいれてきたのだ。それから、キース・ロバーツのパヴァーヌ、リチャード・メイスンの溺れゆく者たち、吉原さんのグリムの4巻を買った。7

 明日はお月さま金の鎖と自由の鳥。


三百三十七の昼 (2004 1 .17) 雪は降らないかもしれない

 練習するつもりだったが、人手がなく7時まで事務所で過ごした。電話番をしながらFさんと会社中、掃除をした。最近おもしろい相関関係に気づいたからだ。それはあとで書くことにして、12月の日次決算累計と実際の損益に大きな差異、ざっと200万近くあることを発見しがっくりした。未計上の外注費が100万、あとは労務費、一部はもち代としてもこれでは日次をしている意味がない。指標にならない。それに12月は今期はじめて赤字になってしまった。

 あとはシュレッダーで不要の書類の処分その他、途中ねけだして、リハーサルに行く。余分な力が脱けた橋本洋子さんの笑い地蔵がよかった。お子さんたちに聞いてもらってなおしたといってわらっていた。負うた子に教えられ....である。わたしはまだうやむやな感じがする。歌はやめて橋本さんがハーモニカを吹いてくれることになった。天啓を待つしかないか.....天は自ら助く者を....だ。最後の努力はしよう。


三百三十六の昼 (2004 1 .16) 雪女

 朝、次男を学校に送る途中あやうく接触事故を起こすところだった。車線変更でよく見ていなかったので気がついたらボトリングカーの大きい車が左ギリギリにいたのである。ふつう、そう無茶な運転はしないのだが、欠時が限界の次男のために焦ったのだった。くわばら、くわばらである。あとほんのちょっとで激突、下手をすると右車線の車も後続も巻き込む大事故になるところだった。

 午後、浦和の美容院に行った。カラリングとパーマで三時間半、その間あさっての出し物と自由の鳥の練習をした、それから三人がかりでロットに髪を巻いている担当の杉山さんとインターンさんたちにホントに在った恐い話をたくさんしてあげた。仕事のじゃまになっただけかもしれない。帰るとき、カウンターのお姉さんにちょうど持っていたちらし作品を見せて、情報交換をした。この店の販促用のはがきはときどきドキリとする出来栄えなのだ。

 帰ってから尺八の亀次郎さんに確認のTELをしたところ、出られないというので、自分でさとうきび畑を歌うことにした。それから夜の10:30にMACで康子さんと落ち合い、ドレスの仮縫い、おばさんは恐いものなしである。袖のオーガンジーの色は思ったほど派手でなく身頃のブルーに合っていたし、康子さんがとても素敵につくってくれたので、わたしはうれしくなってしまった。衣装でカバーできると思うと少し気がラクである。もう、なるようにしかならない。二年前の芸術祭も岩槻の公演も雪だったがどうやら当日も雪らしい。雪女はわたしかしら、橋本洋子さんかしら?

 あやうさも魅力だよ...とおっしゃったのは誰だっけ...そのあやうさに賭けたいくらいのわたし。


三百三十五の昼 (2004 1 .15) 佐倉惣五郎

 徹夜してプログラムができた。プログラムというより表紙も入れて7Pのしおり、とてもきれいである。アルバイトさんの給与をおろして
昼過ぎ、代々木青少年センターに向った。ところが来ていたのはスタッフと木村さんだけだった。連絡し来ると言っていたライフストーリーの竹内さんは風邪、昔話の村山さんは用事があってこられない。スタッフから連絡するはずの稲葉さんは連絡がとれなかった。えっウソでしょう??と一瞬思った。「一緒に話し合うのが条件です」って言われたのはわたし...のはずだけど。疲れていたし修行がたりないので、思わず顔に出て不機嫌になってしまった。でもわたしも実は遅刻だったのだ。

 おにひめちゃんにお願いしてというかせっついて、帰り道に自由の鳥を語ってもらった。来週幼稚園で語るのである。それからふたりで喫茶店で話した。1100円のセットにしょうとしたら、スイートポテトのケーキがあまりおいしそうなのでオーダーをかえてもらった。おにひめちゃんとこういう風に話すのははじめてでとても楽しかった。江國香織さんの小説のことで意見があったり、わたしは自由の鳥などのおにひめちゃんしか知らなくて、義民佐倉惣五郎を語ったこともまったく知らなかった。秩父事件のことを語ろうと思っていたこともあって興味深く、秩父事件について叔父夫婦が達者なうちに今年こそは話を聞いておこうと思った。叔母の実家が副首領の家なのである。

 あんなに具合が悪かったなのに(ホッカイロを体中5つも貼って歩いていた)おしゃべりをしたあとはなんだか元気になってきた。なんとかなる、なんとかなる、芸術祭の練習がしてなくとも、歯がなくとも、来週語りの予定がびっちりでも800枚のコピーが待っていても、歌の練習がしてなくとも!!

 事務所についたら、年末うかがった会社の方がお金を30万持ってきてくださった。体を張って会社を守っているその女性を見ていると昔の自分が甦ってきて胸がつまった。話しているうちに私も涙ぐみその方も泣いてしまわれた。とてもまっすぐなきれいな目をしていてあなたならぜったいだいじょうぶ...といって手を握った。生きるのはほんとうにしんどいときもある。でもひとは語り合うことができるし、いたわりあうこともできる。






 夕べついでにセミナーの宿題をUPした。短いけれど、そこに3年目の私がいる。

三百三十四の昼 (2004 1 .14) はぁはぁ

 具合が悪いので幼稚園の語りを伸ばしてもらう。ドタキャンであちらも困るだろう。情けない。病院も行かないで一日パソコンに向ってプログラムつくりをした。そんなにかんたんにはできない。途中で新しいことにぶつかると、つい遊んでしまうからだ。絵フォントにケルトパターンというのがあって、それがおもしろかった。たとえば
    おとといはフォントのダウンロードで一日終り、それでもぜんぶが使えるわけでもなかった。

 結局 プログラムは中は甘く、外は渋めの統一感のないものになったが、まあ いいことにしよう。といってもまだ半分しかできていない。急がなくては....メンバーには私のほうからは連絡をとっていないのだが、さて何人見えるだろう。わたしとしてはプログラムの内容について確認をとる。あとみんなで楽しくやろうという気分が盛り上がればいい。明日は全大会議でもって久喜座。芸術祭の準備はまったくできてない。


三百三十三の昼 (2004 1 .13) たより

 二年のあいだ、セミナーでともにまなび、昨年やめた矢野さんからメールがきた。きのうTELで話した研究セミナーの終了おはなし会の練習に力を貸してくれるというのだ。矢野さんは発表会にやる気を失っているセミナーメンバーの話を2.3 聞き心配してTELをくれたらしい。「やる気がないっていってなんになる? どうせなら楽しくやろうじゃない、これが終りなのだもの、わたしは青いドレスも着るし青いイヤリングも買ったし、メ一杯やっちゃうよ」と言ったら矢野さんはゲラゲラ大笑いして今日のメールになったわけ....矢野さんにも出番があればいいな。

 さて、今日給与の振込み手続きが終り、ようやく娘をジムのビギナー講習に連れてゆく約束を果たした。次女は日曜日にエレキギターのレッスンをはじめ「最高!!」とうれしそうだ。母としてしてやれることはもう、そうはない。それでも夢につながるかもしれない扉の前まで連れていくことはまだできよう。ドアを押して中にはいるのも、自分の力をためすのも、飛び立つのもあとは本人である。

 そこで、いよいよプログラムがギリギリ、今日は体調がわるくて、ジムでもソファで寝ていたのだが、夕方なんとか持ち直した。今夜が勝負だ。



三百三十二の昼 (2004 1 .12) 三年

 昨夜、刈谷先生の新年会に呼ばれた。ひとり一芸ということで、10人ほど集まった古参の方たちは一曲ずつ歌を歌った。なかには声の響きだけで胸に突き刺さる方もいる。わたしは語りをふたつ....そのあと芸術談義で盛り上がり、異性のどこにひかれるかで盛り上がった。わたしはつい、かずみさんの声に惹かれ結婚したのだと洩らしたからだ。ふと気づいたら、いままで慕ったひと、惹かれたひとははじめ声にひきつけられたのだ。夏樹もサライも他のひとも....。冥界に行かれたかたがたの顔は忘れてしまっても声ははっきり覚えている。不思議だなぁ...声には魂の色がうつっているような気がする。

 それからゲームをしたり、帰るころあいを逸してしまい、家についたのは12時近かった。それからサイトの更新をして研究サミナーの宿題、八つの目標(ダイヤグラム)の達成度とセミナーの三年間をまとめたら、夜明けだった。推敲もろくにしないで片岡先生にメールで送った。石の上にも三年....という。三年のあいだ、わき目もふらずにひとつのことを求めてゆけば、たしかに見えてくるものはある。

 夜、片岡先生からお願いしてあった研究セミナーに寄せる詩が届いた。



三百三十一の昼 (2004 1 .11) 山へ、 空へ、

 「今日は休みになったから蕎麦でも食いにゆこう、支度して待っていて」とかずみさんからTELがあった。...かずみさんはせっかちで迎えに帰ったとき、用意ができてないと「オレはもう行かない」....と言い出すので大急ぎで身ごしらえをした。子どもたちはだれもついてこなかった。久喜インターから東北道を北上すると小山インターの出口が3キロ以上の渋滞だった。ショッピングモールができたようだ。それで栃木インターまで車を走らせた。強風で車が横揺れする。土煙で山が黄色く煙ってみえる。高速を降りると緊急整備地方道路と書かれた工事看板があってコンクリートのりっぱな道路が続いている。アスファルトにくらべて10倍費用がかかるが10倍以上長持ちするのだそうだ。それにしても、なぜこんなところに....軍用道路かなぁ....と物騒な話をしながら粟野にはいった。

 午後には売り切れてしまういつも立ち寄る村の販売所で、野菜、漬物、味噌、蒟蒻、たまごなどを買い込み蕎麦屋「百川」に向う。百川はすこし様子がかわっていた。大きな薪ストーブに火があかあかと燃え、奥の囲炉裏に火がぱちぱちと爆ぜている。そして機械仕掛けの石臼が音も立てないで蕎麦を挽いている。かずみさんは五合蕎麦と天婦羅、わたしは盛り蕎麦と天婦羅をいただく。おなじような年恰好の夫婦連れが二組つづいてやってきた。どこもおなじだな、子どもたちがあるきはじめ、最後は夫婦だけになるのだ。

 かえりにまえから寄りたかった野州麻紙工房に廻った。このあたりには大麻の畑がはばかるようにひっそり点在している。麻を漉いてつくる紙はどんなものだろう。それは紙というには荒々しい手触りの、野趣に富んだものだった。蔓や枝を漉きこんでつくった灯火の笠はおおきなものは背丈も越す。ステージで語りをすとき、かたわらに置けばそれだけで存在感のある舞台装置になるだろう。一枚のタピストリが目をひいた。空だ...と思った。藍を漉きこんだ美しい青の空に白い雲....やはり空をイメージしたものだという。わたしには高い買い物だったが、いつも空をみることができるのだとつい買ってしまった。

 帰り道 ふたりとも眠くなって 広々としたパーキングに車をとめて空の丸天井の下でうとうとしていた。わたしはすこし黄色味を帯びた空の色がすきである。泰西名画によくみる褪せたみずいろ、青い空の地平線近くのみずいろ、それは西の空に特有の色だと思っていたのに気がつけばはるかにみわたす地平線のぐるりは東も南もみな黄色味を帯びている。光の屈折率のせいなのだろうか。となりにはかずみさんがハンドルに足をかけてお行儀わるくねむっている。わたしは突然かずみさんへのいとおしさがこみあげてきて、このひととこうして晩年を過ごすのだな、それはなんてしあわせなことだろうと思った。どんぐりの木が車に影をのばしている。

 空の下を家にむかって 車は走る。左手の東の地平、薄紫にけぶる筑波山から右手西の地平、金色の赤城山に大空をよこぎって雲が大河のように流れてゆく。太陽をかくした雲は真珠色にかがやき、夕暮れは間近に迫る。ネモさんは会津にいつか帰るという。橋本康子さんは山の近くに移り住む準備をはじめた。わたしもいつか山の近く、空の近くでで暮らしたい、かずみさんといっしょに.......

 

三百三十の昼 (2004 1 .10)   格調の中のドラマ

 刈谷先生の今年はじめのレッスン。先生は意志なき意志で歌うのだとおっしゃった。意志で歌おうとすると喉に力がはいっていい声が出ない。頭で考えないでからだに任せて歌う。今年は格調のなかのドラマをめざしましょうとおっしゃった。
曲はヘンデルの”Ah! mio cor”難しい....一拍の休符が数箇所入る。あ駄目だ と思うともうついてゆけない。集中して一心に音についてゆくと初見でもそこそこ歌える、この不思議。 頭で考えないというのはこういうことでもあるのだ。先生は語りはそんなに忙しくはしないで歌に集中してほしいといわれた。次回は一週間後である。それまでに覚えていないと叱られそうである。

 図書館のおはなし会、今日の担当は山岸さん、男性の司書さんである。長新太の新作絵本がおもしろかった。子どもたちは14名で男の子が多かった。リクエストに応えて赤頭巾を人形つきで、それから手遊びで楽しみ てぶくろを読んでみたが、櫻井先生の語りのようにはできなかった。わたしはドラマのないのは得手ではないようだ。

 夜 地平線近くに 橙色の月がのぼった。8ヶ月振りでジムに行きマシントレーニング....すっかり忘れて逆に坐ったり....トレーナーさんに笑われた。女性のトレーナーさんがトレーニングのメニューをつくってくれることになった。わたしはマジで痩せようと思う。このままではヤバいのである。昨年緩かった服の数々が少しきつめになってしまった。それにからだのキレがとても悪い。あと一度は女優として舞台に立ちたいし、そのためにも体をつくりたい。代謝が落ちているからきつい闘いになりそうだ。ドラマはおきるだろうかそれとも挫折だろうか。減量日記をどこかにUPしようかな。

 


三百二十九の昼 (2004 1 .9)   あぁ

 真面目に仕事をすると、疲れる。ジャケットを着ると肩が凝ってしょうがない。男でも女でも、スーツは細かろうが太かろうが格好のとれる究極の衣服であるが、ここ3年、やくざな楽な衣装に身を包んできたので、スクエアなスーツはからだに応えるのだ。仕事もおなじで、ひとにまかせてポイントだけ掴んでいたほうがよほど楽である。

 セミナーの宿題をするにも頭が切り替わらないので、仕事を抜けて喫茶店で1時間半ほど過ごした。宿題も研究セミナーの終了おはなし会のプログラムもおおよそまとまったのだが、今夜はついフォトショップで遊んでしまい、無為に過ごしてしまった。あすは給与計算と声楽とどうやら図書館のおはなし会があるようだ。宿題ふたつあと二日で仕上げないと、来週はまた修羅場である。市民芸術祭と木曜ゼミと中央幼稚園.....すこし気持ちがわるくなるほどだ。あぁ これがこの感覚が生きてるってことだ。.....

 今日は手紙を4通いただいた。お手紙が届くのはメールとはまた違った喜びである。なかにはとてもおめでたい知らせもあった、そして間違いに気づいて教えてくださるありがたい電話もあった。   失敗した!! 年賀状に2月のトムの会のと3月の終了発表会と日にちを間違えて印刷しそのまま送ってしまった。60通以上はあっただろう。出しなおさなければならないみたい。 年のはじめからドジなんである。



三百二十九の昼 (2004 1 .8)  一期一話

 きのうは年初の連絡会だった。少し厳しい話をした。

 23年前、会社を立ち上げてから、いろいろなことがあった。どん底を経験した社員はもうふたりしかいない。あるていど、安定してからの社員は考えが甘い、そのことを痛感したためである。うちのようなちいさな会社にあっては毎日が真剣勝負、お客様の意に添わない仕事をすればもう仕事の依頼はこない。ある意味職人気質が必要であり、一日なんぼの考えのひとはいらないのだ。そうしてひとりひとりが営業も現場も経理も緊張感を持っていい仕事をしてはじめて会社は生き残れる。このあたりの機微は語りでも同じではないか、たとえば今日聞きにきてくれた子どもはもうこれっきりこないかもしれない。芦刈を聞いてくださって感動してくださった方がつぎのとき、万一手を抜いた語りをしたら、ふたたび足を運んでくださることはないだろう。......一期一話である。

 
 午後はeネットと打ち合わせ、シュレッダーの見積もりをもらい、妥当な値だったので購入を決める。シュレッダーは必需品である。それから携帯料金の見直し、4台の追加を決める。振込み依頼に銀行に行ったら、担当の方にプラントの土地を買ってしまいませんかといわれた。お金を貸してくださるのはうれしいが、さてどうしたものだろう。買出しをしてから最近できたイタリアンレストランペルバ・ロッソに行った。ピッツァもケーキも美味しかった。

 夕食は牡蠣の炊き込みごはんと根菜をたっぷりいれた鶏団子汁。したくをしてこれから久喜座の例会。


三百二十八の昼 (2004 1 .7)  ランチ

 浦和に出かけたが、約束の時間を間違えて 3時間早くついたので妹夫婦が開いているグッディーズカフェによってランチを頼んだ。ランチは2種類、パスタとご飯ものである。わたしがいただいたのは、コーンポタージュとあさりときのこの炊き込みごはん白ワイン風味、付け合せ、食後のコーヒー、チェリーと洋梨のケーキ生クリームキャラメルソース添えだった。とても美味しかった。

 語りをはじめて、この春でちょうど4年になる。新しい気持ちで語りに向かうためにも、そろそろかるいリサイタルとかんがえていて、それにはほんとうに美味しいコーヒーとケーキ、またはお酒と簡単だけれどこころのこもった料理を出したいと心積もりをしていた。浦和駅の近くに知人がスタジオを持っているのだが、候補としては足の便を考えればそのスタジオ、料理なら「グッデーズカフェ」、雰囲気なら「寧」である。スタジオなら食べ物はデリバリーで対応できるが聞かせる感じになりそうなのが難、グッディーズカフェはロイヤルパインズホテルと浦和越谷線をはさんで接しているので車の音が気になる、寧はシャトルの駅から700メートルの距離が厳しいところ。欲をいえば、マチネーとソワレの二回公演でそれぞれ演目もガラリと変えたいのだが、はじめてにしては無謀かしら。どちらにしても2月の夢基金の答え待ち.....。両方はできそうもない。

 須原屋で昭和の遺書という本を買った。それから時間がまだあったのでTAOによってタイシルクのスカートをためつすがめつし、まだ時間があったので ちょうど持っていた語り手たちの会の会員名簿の集計をしてみた。東京117名、千葉、36名、神奈川37名、埼玉、45名、やった!!宿敵千葉、神奈川に勝った。神奈川には横浜があるし、もともと勝負はついているのだが、千葉については東京ディズニーランドと幕張メッセができてから、埼玉の地盤沈下がはじまったのである。かずみさんはどちらの工事にも関わっていた。ちょうど結婚したころのことである。

 さて関東一都六県で255名、東北六県で29名 北海道は6、沖縄は0、九州は18......このことから語り手たちの会は東高西低、首都圏中心の会員構成であり、都市の語り手が多いことがうかがえる。都市が語り手を必要としている、いや都市の住人が語ることを必要としているということもあるのだろう。 会の目的は語りの実践と研究の交流を通じて、人としての感性、創造性を育み、語りの文化を豊かにする.....とある。なお、会員総数は2003年11月で445名。エクセルに入れてあれば集計は一瞬でできるか、一、二と唱えながら数えたので正確な数字であるかどうかはわからない。

 

百二十七の昼 (2004 1 .6)  新聞紙

 朝、橋本さんからトムの会の例会が今日だと連絡があった。このサイトの予定表で13日になっているのを見て連絡してくれたのだ。ありがたいことである。今日こそはレンヂの天板をかたづけなくてはと思っていたので、少し遅れても金属たわしでこすり、きれいにしてから出かけることにした。年末の大掃除の未消化分なのである。告白するとこの6日間というものカセットカンロでしのいでいた。まぁ、なんとかなるものである。

 カセットコンロはおなべをかけっぱなしにしておくと、あっというまにガスがなくなってしまう。それで先日、毎日新聞に載っていた記事がたいそう役立った。二日分の新聞紙を用意して、風呂敷の上に一日分を縦にもう一日分を横にクロスして敷く。そのまんなかに味付けし煮あがったお鍋をのせて、新聞紙の襞を寄せて風呂敷でしっかり鍋を包み、日の当たる場所の座布団の上に置く。朝こしらえて、夕方にはほどよく火が通ったおいしいシチューや煮込みがいただける。道具もいらないこんな簡単で、省エネにもなる方法があったなんてうれしくなる。

 さて、トムの会では2月8日のおはなし会の内容を決めることで喧々諤々であった。今回は3時間の枠がある。休憩をぬいて2時間40分なので3部構成にすることになった。とりあえず、各人が語りたいおはなしを出してもらうとほどよい時間となった。案ずるより.....である。

 参加型のおはなしが5つも出てうれしかった。前年まではただ語りたい....が先行して....というかそれで手一杯で聞き手との交流、聞き手を楽しませる余裕がなかったように思える。もうひとつ「てぶくろ」を数名で役割を決めて語りませんか?と提案したら、みな乗り気だった。桜井先生のサイトを訪問したら、「てぶくろ」を輪読なさったと書いてあったので、期せずして追いかけているみたいで思わずわらってしまった。

 そうそうに途中で退出して、友人と珈琲館で会った。おたがいの近況報告をして、春仙台に恩師を訪ねる計画をたてた。それから衣装をお願いしたら快くひきうけてくれたのでほっとした。あっというまに二時間がたち、こんどは娘とおちあって、カルチャーセンターでエレキギターのレッスンの申し込みをしたが一杯で返事待ちになった。すこしくがっかりしたようすの娘を誘って、チョコレートパフェをご馳走し、わたしはいそいで年賀状の宛名書き、それから買い物をして会社でひと仕事。

 幼稚園、小学校などの予定が決まって、いつのまにかスケジュールが埋まってゆく。毎月、大丈夫だろうか、手を抜かず、気を抜かず、納得のいく語りができるだろうかと危惧がないわけではないのだが、それはそれ 不思議にうまくいくのだ。目に見えないところでさまざまな方々やなにかに助けられているのだなと思う。さぁ今月もがんばりましょう。




三百二十六の昼 (2004 1 .5)   家系

 仕事始め、みなは鷲宮神社で祈願のあと新年会へ、わたしは事務所でみなの机を拭き清める。年賀状がたくさんきている。去年は3割くらいだったのに、今年は会社関係もほとんどがパソコンで作成したものだったので驚いた。素材をならべただけのシンプルな使い方のものがほとんどだったが、著名なデザイナーが語ったように、パソコンは素人をプロにする道具なのだ。町の印刷屋さんはたいへんだろうと思う。

 はやばや、給与支払い報告書を各市町村に送る。収集の許可を県庁のサイトからダウンロードする。給与支払い報告書なども直接市町村にパソコンを通して送るようになるかもしれない。決算報告書も税務署に直接送ったってうちはかまわない。これからITをとおしてよくもわるくも社会のシステムは大きく変わってゆくだろう。個人の参画が容易となるから、端末を通して投票もできるようになるだろうし、、ネットでの個人の取引はもっともっと増えるだろう。私の友人のなかでも食料や衣類のほとんどをネットで調達するひとがいる。

 たとえ10パーセントにあげたとしても個人の間の取引では消費税を払わないですむ。ネットでの個人の取引が増えていったら政府はどうやって網をかけるのだろう。消費税を払いたくないというわけでもないが、ことしはわたしももっとネットを利用しようと思っている。


 あるひとの身の上話を聞いた。お祖母さんが加藤清正の子孫の家の出で、家系図をもって嫁入りなさったという。きれいな方だったそうだ。親のいいなりで嫁いだり離縁したりを繰り返し、三人の子どもはみな姓が違うのだそうだ。三度目の相手は遊び人、でリヤカーに何台も積んで行った着物の類もみな売り飛ばされ、賭場代に消えたという。親に遊郭に売り飛ばされ、首をくくって死んだ娘の話、死に別れた女房を忘れかね、娘の顔を見ると思い出されてならないので、娘に邪険にする父親の話。その方の家ではなぜかみな77歳で亡くなるという、そして今年おとうさんは77歳になる。その方はおとうさんの具合が悪いと聞いたが会いにいくことを躊躇っていた。そして涙ながらに父親から疎まれてすごした年月のことを話されたのだ。.......経緯を別にするなら親のことだから添うてあげたほうがよいのだろうが、.ご自分の気持ちがすむようになさればそれでいいのでは.....としか言えなかった。


  わたしは世間を知ってからというもの、少女のころほど小説や文学作品にのめりこまなくなった。というのも小説よりも奇態な、小説よりも切なくいとおしく、小説より波乱万丈な実話でこの世はいっぱいだと知ったからである。

 父方の祖父は3人の妻を持ち、選挙に狂って身代をなくしたし、川向こうの叔母の実家は秩父事件の副首領の家だった。福島の家では祖父が一代で事業を興し600人の人間を使っていたが、その祖父が倒れ戸板で運ばれたあと、家業を継いだ婿養子の義父はおとなしいひとでたちまち身代をつぶした。そもそも婿養子にはいったわけは義父の姉が祖父の二度目の妻だったからで、先妻の存命中は妻妾同居をしていたらしい。それも最初は姉を妻にし亡くなったあと妹にあたる義母を後添えにした。義母も美しいひとで嫁ぐまえに好いたひとがいたらしい。

 不可思議な偶然はいろいろある。父方の家では双子が育たない。三組とも片割れがなくなったりするのだ。そして長男が跡を継げない。家系とはある意味で怖ろしいものでもある。繰り返し繰り返し現れる類似点、病気、気質、容貌、運命 それは遺伝子だけの問題なのだろうか。運命が遺伝するとは思えないのだけれど。





三百二十五の昼 (2004 1 .4)   有情

 今日は自分のための休日と楽しみにしていたのだ、年賀状を書いて、コーヒーを淹れ、妹の焼いてくれたレーズンのたっぷりはいったライ麦パンで朝食をとりノバラの香りのエッセンスを入れたお風呂で手足をのばす。それからとらことの新年会に行くために駅に向かった。

 電車で斜め前に坐っている二人連れに目がいった。30代半ばの男とそれより少し若い女だった、宇都宮線の車内のごくあたりまえのひとたちのなかでふたりの周囲は濃密な気配がたちこめていた。男は豊か過ぎる黒髪を真ん中でわけている、そう、70年代の活動家のように。両手を膝の間で組み、頭を垂れ音楽に聞き入っているようだ。女は化粧ッ気のない白い顔で男の左の肩に頭を凭れている。右腕を男の左腕に差し入れ、細い白い指で男の腕にふれている。それ自体が意志を持つ生き物のように指は踊るように動く。眉はきりっとして目は切れ長、めがねをかけている。けれどその理知的な表情を裏切って、ぽってりした唇は半ばひらき、時々苦しげに眉根を寄せて想いにふけっているようだ。わたしはさきほどから凝視めているのだが、まったく気づかず自分の世界に沈潜している。女の左の薬指には一列にメレダイヤが並んだ細いプラチナの指輪。そして同じくメレダイヤを4つあわせたイヤリングをつけている。女はオフホワイトのダウンジャケット、男は黒のダウンジャケットを身につけ高価そうではないがふたりともバランスがとれた服装をしている。

 ちいさなバッグがふたつ、紙袋がひとつ、だがお土産らしきものはない。帰省しこれから家に帰るという雰囲気でもなく、まして夫婦とも思えない切羽詰った様子があって、わたしは気にしながら大宮で降りた。わたしもかって、あんな色濃い空気をまとって歩いていたことがあるだろうか。あのふたりのように世界から超絶しみずからを掟とするように生きていたことがあるのだろうか。........そういう日もあった。波濤のように押寄せてくる......男を愛することは、精神的な格闘であった。他者と自分との鬩ぎあい、肉体と精神との葛藤、あらゆるすべを尽くして闘い、勝利が敗北であり屈服が勝利でさえあったのだ。自分のことしか見る余裕はなかったから、わたしもあのふたりのような眼をしていたことはあったのだろう。

 二時過ぎコヤマでとらこにあった。年末に給与を下げられたとがっかりしていた。いつものさばさばしたとらこらしくなかった。弱音を吐きたいときはあるけれど愚痴や不満を言ったからとてどうなるものでもない。力を尽くすしかなく、相手に気持ちを届けようとするしかなく、そうした地道な努力を続けていけば周囲はすこしずつ変わってゆくのだろうと思う。 黙って聞いて、たぶんそれで気は晴れたのだろうがわたしはそんなに優しいひとじゃなかった。わたしはいられるかぎりはとらこといたかったが、五時になってつい「このへんでいいかな....」と言ってしまい、それはとらこを傷つけ、結局、気まずい別れとなった。そう、わたしはとらこのいうようにいいひとではない。

 ジュンク堂で長女のほしがっていた「薔薇と野獣」をみつけ、前からほしかったカポーティーの「誕生日の子どもたち」を買い、ルミネの地下でかずみさんに塩辛とホタテを求め、マルイに走ってバッツで家族にプレゼントを選び(忙しくてクリスマスプレゼントを渡していなかった)帰った。かずみさんと約束した七時は少し回っていたが、かずみさんはプレゼントを気に入ってくれた。

 わたしは数年のあいだに父や叔母や友人、わたしをいつも見守って、わたしが必要としているとき、「オレはおまえがよくやっていると思っているよ」と言ってくれるひとたちをみな喪ってしまったのだけれど、とらこの言うようにかずみさんが、いちばん私を必要とし認めてくれるかずみさんがいるのだもの、あしたからまたがんばろう。

 とらこに「あなたががんばっていることはよく知っているよ、そのままでいいんだよ」  と言ってあげればよかったのかもしれない。しかし....と思う。わたしたちは闘う者同士だ。お互い 噛み合うことはあっても傷を舐めあってはいけないのだ。
 




三百二十四の昼 (2004 1 .3)   余白

 昔は正月がくるたびに年をとった。亡くなったおさだおばちゃんが正月のことを「年取り」といっていたのを思い出す。旧暦の正月、2月4日に年の数だけ煎り豆を食べたのはその名残かもしれない。2月4日は立春で文字通り新春だけれど、新暦の1月1日で初春というのはすこし無理があるような気がする。

 きのう、今日と子どもたちと揃って過ごして思うところが多かった。きのうは墓参りの車中で息子たちふたりにはさまれて、音楽やファッションの話を聞いた。B系というのはBLACK、黒人ぽい音楽やファッションのことなのだそうだ。ヒップホップはB系でギャング(昔の不良のこと、グにアクセント)のファッションもB系。ロックは白人系なのだそうだ。ゴスロリというのはゴシックロリータの略、黒いフリルのついたドレス、縦ロールの髪、ちいさなメードの帽子を被ったりしている。わたしたちの頃ははトラデイショナルとかアイビーしかなかったような気がするがファッションには関心がなかったのでわからない。

 今日は子どもたちとカラオケに行った。歌のジャンルはそれぞれ違うが、うまいので驚いた。相当友人とカラオケに通ったのだろう。惣はヒップホップ、わか菜はあやや、まりはアブリルを英語で、わたしはイタリヤ歌曲など。カラオケは声をセーブしないでいいのでお稽古のときより声が出せる。MAXでマイクなしで歌うとからだが熱くなる。子どもたちの歌を聞いて、元はおなじところから発したのに語りとくらべて歌が隆盛を誇っているわけがわかったような気がした。

 ラップなどは、あれは語りにとても近い。音楽にことばをのせてゆく。ほかの歌でもとてもストレートに心情がカタラレテいる。それはひとつひとつのものがたりなのだ。若い子たちは自分の気持ちに合った歌を選んでその歌に自分の想いをことよせる。ミスチル、キシダン、最後はMO娘のあっぱれ♪あっぱれ♪で盛り上がった。歌詞を聴いていると、夢と不安、希みと絶望、優越感と自己憐憫が交錯していたあの時代が甦ってくる。ひりひり痛かった、空の高みと暗い地の底とをジェットコースターのようにめまぐるしくいったりきたりしていた青春という時代、地理のノートのように余白がたくさんあったあの頃。 

 4人の子どもは今そこにいるのだ。日々こころのなかで騒ぎ立てる衝動、望みや不安と格闘しているのだろうか。それともただ凝っと待っているのだろうか。今年はなにもできなくても、見守っていてやりたい。わたしは...いま、白秋にいる...花野に遊んでいるのならいいのだけれど追い立てられるように暮らしていて、余白はもうない。




三百二十三の昼 (2004 1 .2)   シャンパンの香り

 お正月のせいか めずらしく かずみさんが食事の支度を手伝ってくれた。お雑煮の味付けにきのうの残りのシャンパンを入れたとわらっている。あとでのもうかなと楽しみにしていたのでちょっと残念。お雑煮からほのかにシャンパンの香り。

 朝までかかって年賀状つくり、宛名書き。家のは元旦にかずみさんがくつろいでいるところにおさるが二匹。わたしの個人用は研究セミナーの終了発表会のプログラムの小手調べの意味もあって、ついリキが入ってしまった。

 午後から 秩父の萩寺にお墓参り、長男、次男それに次女と五人でゆくのはひさしぶり、うきうきしてしまう。こどもたちが幼い頃は毎週出歩いていたものだった。萩寺の裏山が墓地になっている。父は高いところが好きで、子孫の足腰のことなど考えてくれなかったので、急坂を子どもたちの力を借りながらやっとの思いで登った。父の墓前で声を出して過ぎ去った一年のこと、新しい一年への気持ちを語りかける。それから一段下の従兄弟の直弘の墓前にぬかずく。直は21で亡くなった。美しい青年だった。その直の年を長男の敬太郎は去年越えた。

 帰りに萩寺のそばにある別品屋で蕎麦を食べた。上手い手打ち蕎麦で父の贔屓の店だった。



百二十二の昼 (2004 1 .1)  常若の国

 さても そこには「我がもの」も「汝がもの」もなし。

 嘆きも裏切りも知らぬ楽しくも親しき国、

 人々は汚れを知らず 罪の意識なく、煩悩もなし。

 この世界は人間の時間の限界を超越する。

 空間も超越する。

 訪れて 帰るひとは 物質的世界に触れるや

 とたんに老い衰え、塵に帰してしまう。












           千の昼、千の夜   2003