なぜ語るか
ひとはパンのみにて生くるにあらず」・・・・・・おばあさんのおはなしを聞いて苦しい収容所の生活を生きぬいたひとびとは、他の部屋のひとびとより上等な食事をとっていたわけではありません。・・・・・では、なぜ?




日本では古来から、ことばを単なる記号ではなく
ことだま・・・・魂、魂より生ずるものとしてたいせつにしてきました。
ことばは、直接生命に働きかける強い力を本来もっているのです。暖かい、優しいことばは魂の奥底にある生命力を揺さぶり甦らせることができます。希望が生まれわたしたちはふたたび一歩を踏み出すことができるのです。逆の場合もありえます。否定のことば、汚いことば、乱暴なことばにさらされた、やわらかなみずみずしい魂はいったいどこにいくのでしょう?



わたしの語りの師櫻井美紀さんは、
「こどもたちに語りにいくとき、おはなしだけを持ってゆくのではないのですよ。こどもたちへの愛情をもってゆくのです。」と教えてくれました。・・・・そう、わたしはこどもたちに語りにいくとき、おはなしをとおして、メッセージを伝えにいくのです。
「わたしたちおとなはあなたたちをとても愛しています。まっすぐ、すくすく伸びてください。これから苦しいことにであうこともあるでしょう。もしかしたら、今あなたにはとてもつらいことがあるのかもしれない。でもだいじょうぶ、あなたのなかには強い力が眠っているのです。どんなにつらくても、乗り越えられない苦しみはない・・・・大丈夫・・・・・」



おはなしがはじまると、たとえクラスがざわざわしていても、ケンカをしていても、こどもたちの心がピーンとひとつになっておはなしに向かってくるのを感じます。そうするともうわたしもそこにはいないのです。聞き手であるこどもたちと語り手の私がひとつの場をつくり、たった一度しかないものがたりが生まれます。こどもたちはものがたりを生きるのでしょうか?それとも楽しむのでしょうか?おはなしが終わるとキラキラひかるこどもたちのまなざしがわたしのなかに残ってそれはわたしをほんの少し息苦しくさせ、そしてわたしは生きる喜びに満たされている自分に気が付くのです。


ひとつひとつのおはなしは、か細い一本の糸でしかないかもしれない。でも撚り合せればラプンツェルの黄金の髪のように太いロープになるのではないでしょうか?ひとの命を支えられるほどに。信頼、正義、愛、笑い、ひととしてなさねばならないこと、おはなしのなかにはたくさんのメッセージが埋もれています。そしてそれは、決して楽ではない
ひとりひとりの生を夢や想像力で豊かにし、たとえ忘れたにしても、魂の底深く沈殿し極限状態に陥ったときしらずしらず大きな支えになってくれるのではないでしょうか?



ハンスとゾフィーはなぜもう少し待てなかったのでしょう?いずれヒットラー専制下のドイツが連合軍に屈するのは時間の問題だったはずです。ふたりが愛した家族や友人、得られるであろう職業を通して国や社会に貢献すること。そのような未来を捨て命を賭してまで彼らはなぜ、ビラを撒きメッセージを伝えようとしたのでしょうか?


わたしはそうしなければ、ハンスとゾフィーは
みずからの生命が光を放つ、本来の生命となりえないと知ってやむにやまれず、行動をおこしたのではないかと思うのです。ふたりはただ祖国のためにひとのためにしたのではないのです。みずからの魂と生命の尊厳のために闘ったのでした。



・・・・今、とりあえず、日本は平和です。、・・・・しかし、新聞を開けば、こどもたちの悲鳴や呻き声が聞こえてきます食べるに困るひとはそうはいないかもしれない。でも、かほどにひとのこころが荒廃した時代があったのでしょうか?惑い、悩み、苦しんでいるこどもがおおぜいいます。わたしたちは何もできないけれど、せめてこどもたちにメッセージを伝えたい、伝えずにはいられない・・・・そんなに悪いことばかりじゃないんだよ・・・・だいじょうぶ・・・



              「さぁ・・・・おはなしを聞いて・・・・・・」