日記「千の昼、千の夜で癒しについて書いたことをまとめてみました<>。

   癒しとしての語り

 愛する者の死をライフヒストリーのなかで語るとき、それは亡くなった者への鎮魂という意味合いもあるかもしれない。しかしそれだけではないと思う。否むしろ生き残ったものたちの魂を鎮め、生き続けるために語るのだ。愛別離苦の世にもまして、命を食らわねば生きてゆけないわたしたちは生きるだけで罪を重ねてゆく。その苦しみのなかで はかなく散った者たち、精一杯戦って死んでいった者たちを語ることは、その生が闇のなかで光輝いていたと死者を称揚することであり、抱いたのち空へ放つことであり、残ったものたちがみずからの生をよしとして受け止め歩き続けるためのものでなくてはならない。けっして甘美に追憶することでも感傷にふけることでもない。
 わたしは「おさだおばちゃん」を語り、いつか夏樹のことを語り、サライのことを語るだろう、けれど悲しみはしない。悲しむとしたら、かのひとたちの生を貶めることになろうから。生きることのいとしさとせつなさを共有し、そこにもかしこにも、過去にもそして未来にも、勇気をもってひたむきにたゆまず歩くひとびとがおおぜいいたことを、これからもいることを確かめるために、生きるために語るのだ。

 アルテそして癒し 

 わたしにとって語りは趣味ではなく、アクセサリーではなく、ボランティアでもなく、ひとのためにすることではない。生きることそのものにかぎりなく近い。.......と夕べ書いた物を見て、思わず笑ってしまった。重たい!!昔友人が夜と昼ではおなじことを考えても結論が違うといっていたのを思い出す。ひとは生(なま)物だが、それにしても恥ずかしい。
 興味深いことに気付いた。わたしはものがたりの世界ではなく語り手のなかの乾き、不在のようなものに感応していたみたい。....それで求められてもいないのに勝手に思い入れをしていたのだ。今回の騒動もその衝動が発端だった。先にひとの気持ちを汲んで、行動を起こしあとから自分の理由づけをしたのかもしれない。
 沈黙は金、雄弁は銀というが、その時代銀のほうが価値が高かったからで、沈黙が賢人のすることという意味ではない。ジュリアス・シーザー、ヒットラー、チャーチル、名だたる政治家は皆、雄弁家だった。あれは理性とは違う、情念に近いものに訴える。たとえ詭弁であってもかまわない、沈黙の群集は熱狂し、一体感に燃え上がるというわけだ。語る...というのは騙るの謂もあるわけだし、多数のひとを扇動することも可能なのだ。活字となるとそこに理性が介在する。客観的に判断することが容易になる。
 さて、語りはひとの知に訴えるものではないことが、納得されたが、ここでふたたび「カウンセリングかアート」かという観点から考えてみる。固有の体験を語る、もしくはおはなしのうえに固有の体験をのせて語るとき、語りは癒しすなわちカウンセリングになり得る。自分の裸にある秘めたものが現され、他者に受け止められるので、語り手にとって癒しとなるのだ。けれど、これは炉辺、井戸端でのおしゃべりの延長上にある。語り手によって固有の体験、物語が普遍化されるとき、はじめて聞き手にとっても癒しとなるのではないか。物語は変容する。この変容に不可欠なのが、ひとつは語り手の人間性への洞察そして世界観であり、もうひとつはアルテ(わざ)なのではあるまいか。語り手は実に癒し手になりうる。しかし知らずしてまた意図して扇動家、騙り屋にもなり得るのだ。志を高く持つことと不断にわざを磨き続けることによって、語り手は清明な水晶の柱のように、燃え上がる火柱のように、周囲を明るく照らすことさえできよう。「カウンセリングかアートか」これは末吉さんの命題、わたしにとっては「個の癒しから普遍的な癒しへ」となる。セミナーは講義そのものより、参加し、語り、他の語り手との確執、交流のなかに刺激がある。いつも終って一週間ほどは触発されたことからつぎつぎと生まれるものがあってうれしい。明日は表現のわざそして表現者が得るものについて考えてみたい。



  癒し1

 聞き手との魂の交流によって癒されるのか、必要とされていることに癒されるのかいいえそれもまったくないわけではないが、表現すること自体でも癒されるのだ。末吉さんが話したカウンセリングとアートについてのことばがのどに突き刺さった骨のように存在を主張している。客観的に構築することと主体としての関わりから語りをする。ふたつのあいだでわたしも揺れ動いている。刈谷先生はは客観的に完成度の高いものを差し出せという。けれど自分のこころからわきあがるものでなくてどうして人の心に響かせることができよう、ものがたりに自分の人生をのせてつつましく差し出す、それは再話といっていいのではないか、自分の表現という新たな照明でものがたりを照らし出す、それも再話、櫻井先生のおっしゃるストーリーテラーはストーリークリエイターにつながりはしないか。

   癒し2

 おだやかな常識人の語りが、えてしてさほどおもしろくないのはひとつのことを示唆している。セミナーを見回してみても、多少ズレているひとがわたしを含めて何人かいて、そのひとたちの語りのほうが惹き付けられるような気がする。それは傷をもっていて、その傷口の痛みを癒そう、焼け付くような不在を感じていて、それを埋めよう復活させようという無意識の願いが語ることの根底にあり、その願いが聞くひとのこころに沁みるのではないか。
 わたしがセミナーに望むのはまず本質的なこと、最初の「なぜ語るか」が語りを続けてゆくうちにどのように深化してきたのか、語っていくうち、語り手自身と聞き手になにが起きたか。次によりわかりやすくひとのこころをうつための具体的な技術論である。そして方法論としては学びあうこと。自分たちから踏み込もうとせず、ただ講師の話を聞くだけで、どうして豊かな果実を手にできようか。耳があり口がある。わたしたちは語り手なのだ。

  
  読み聞かせと語り(おはなしネットウィングの講話を聞いて)

 読み聞かせの目的は本を子どもに読ませることという。最終的な目的が本を読むことなのだろうか?書斎に引きこもって本を読む生活が幸せとでもいうのだろうか。また、考えとして本のもっとも良い読み方はすべて信じないで疑いながら読むことだとおっしゃっていた、まさかそれは文学や児童書の読み方ではないだろうと思う。本を読むことはなぜ必要なのかといえば、想像力を豊かにし、さまざまな世界や考えのあることを知り、自分の世界観を持つにいたることではないか。そして幸せな豊かな人生を、人を愛し、仕事や趣味を通してひととのつながりを持ち社会に働きかけてゆく悔いのない人生をわたしたちは自分に求めこどもたちに望んでいるのではないだろうか。

 絵本はわたしもすきだ。芸術品といってもよい絵本はある。けれども読み聞かせより語り...ストーリーテリングのほうがよりこどものイメージ、内奥のチカラを呼び起すことができることも確かにある。絵と文章がマッチしているよい絵本をさがしなさい....というアドバイスはアドバイスとして絵本のなかからさがさなくとも、こどものチカラを呼び起すものがたりは砂の数、星の数ほどある。そしてそれを伝える話し手、語り手は自分の感性やこころを磨くことがいちばんの近道のような気がする。技術は時間がかかってもあとからついてくる。伝えたい想い、ともに楽しみたい想いがあれば、そこから一歩が始まる。

 こころに響くものがたりを聞いたこどもはどうなるだろう。たぶんやさしくなる、すこしゆたかになる、かんがえるようになる....本を読みたいと感じるかもしれない   けれど本を読むことが到達点では断じてないのだ。たとえ本を一生のうち数冊しか読まなくても  己のためだけでなく 他者のしあわせのためにも生きた 実りある豊かな人生を送ったひとは、中島みゆきの地上の星は、あまたいたのだ。活字が発明されてどれだけの時間がたったというのだろう。

 ストーリーテリングが図書館からはじまったこと、本を読ませる前段階としてのストーリーテリングになってしまったことが、そもそも 不幸せなことだったような気もする。けれども図書館の司書さんたちは読み聞かせやストーリーテリングをただ仕事としてしているのではないと思う。そこには喜びがあると思う......語ることも到達点ではない。けれども、語ることはこの苦痛にみちた人生のなかで癒しとなりうる ひとはなぜ生きるのだろう、どこに行こうというのだろう それはわからない しかし語ることは生きることの肯定また死することの肯定につながり すなわちひとりひとりの人生そのものの肯定につながってゆく、そしてたまさか喜びそのものになる  それはどんなとき?語り手と聞き手がものがたりをともに生き、共感しているときだ あぁ生きるっていいなぁ しあわせだなぁって感じるときだ。ひとりひとりがあてがい扶持でない固有の、それでいてみなに愛され愛し豊かな生を生きるために、語りは力になりうるのだ。

          無意識    2003.5.20

 ひとの脳で使われている部分はたかだか10%に過ぎない、。無意識の領域は暗い海のように果てしがない。語りたい衝動はこの暗い海から発している。そしてやはり聞き手の無意識の領域に届けることを希求する。

 無意識の領域にはいったいなにがあるのだろう。、ひとつは今生の過去におけるすでに忘れられてしまった記憶、もうひとつは過去生からこだまする記憶、そしてひと、人類としての共通の記憶である。

 無意識の領域にあるものについて、意識の上で伝えるために必要なのはイメージする力だ。題材は自分がイメージを強く感じる、心底語りたい、描きたい、表現したいものならなんでもいい。なぜならものがたりを伝えるのではないからだ。ものがたりを借りてその奥にある真実を伝えたいのだ。
 それは近代の合理性、効率性の追求、いわゆる科学的なるものの考え方によって喪われ損傷した全的な自己の復元、すなわち生き生きと生きることであり、ひとが魂の奥底に抱くありうべきひとの姿と文明の甦りへの眼差しであり試みなのだ。

 語ること、語りを聞くことで癒されるのはそれぞれが抱えるトラウマが、ものがたりを通して共有され受けとめられること、そして共感と理解によって語る場が原初の共同体に近い愛の磁場を持つものに変わるからではあるまいか。そのうえに語りはただ個々の人生の癒しだけではない、はるかな地平を抱卵する。しかし、それは語り手ひとりひとりのこころざしにかかっている。