私的大島弓子論  その1

 大島弓子さんに会ったのは、わたしが夢見る頃を過ぎて、自分と社会に正面から向き合うしかない、いよいよ切羽詰ったころのことだった。このHPのレクイエムにある「月の公園」の少し前のことである。わたしは大島さんの漫画をデビュー作の「ポーラの涙」(1968年.3月)から読んでいた。ちょっとハリウッド的なストーリーとかろやかなペンタッチ(第一期)から一転して、「愛は命あるかぎり」(1969.1月)からこれでもか、これでもかとヒロインを悲しい境遇に突き落とす悲劇の時代(第二期)が始まる。そして「誕生」(女子高校生の妊娠をテーマにした問題作)を経て、「あしたのともだち」」(1971.9月)のあたりから明るい学園もの路線(第三期)にはいる。夢見がちでおっちょこちょいの女の子がひたむきに生きるというテーマが突然変わったのは「鳥のように」1972.4月)からだった。そして「つぐみの森」(1973.2月)を経て「ミモザ館でつかまえて」(1973.春)によって大島弓子さんの世界は北の大地に春が訪れたように一時に開花する。ジョカへ、春休み、花!花!ピーピー草...花!「野イバラ荘園」(1973.8月)までまさにノバ、超新星の爆発だった。「ジョカへ」は以前かいた「男性失格」(1970)のリメイク、薬によって性転換するSFものであったが男性失格のシモンにくらべて「ジョカへ」のソランジュのこの世ならぬ美しさはどうだろう。ジョカへはSFであるとともに,異なるものに変貌してしまったシモン/ソランジュの苦悩と愛の物語に昇華していた。漫画賞を受賞した「ミモザ館で...」も「野イバラ荘園」もかかれていたのは一つの運命、孤独な生が砕け散るまえの束の間の光芒、そこでは愛さえあえかな光を投げかけるしか術はなかった。

 わたしはおそらく野イバラ荘園を見た直後に大島さんのファンクラブをつくることにきめ、どういうかたちであったか、会員を募ったのだった。南は九州の大分から北は北海道の江別市まで、会員はあつまり、コミケの原田氏その他も参加してくれて、会員数はあっというまに30人を越えた。無論、当時はパソコンはなかったし、会員からトレペに自己紹介を書いて送ってもらい、コピーも湿式のブルーコピーで、はっぴねす0号は発刊した。中央にまだつぼみのバラを一輪、ひだりにジョカの横顔、右にシモンの横顔を配した表紙で、ばらは水彩でほのかなピンクに染めた。

 大島弓子さんにファンクラブ・ハピネスを公認していただいたのはいつだったろう。前後はわからないが、1974年、一月頃、約束をして大島さんをたずねた。たしか国分寺のほうだったような気がするのだが、さだかではない。冬のこととて日が落ちるのは早くほの暗い商店街で花をもとめ、お好きだと聞いたクイーンマリーとその朝焼いたケーキを抱えていった。大島さんの家はこじんまりとした離れで、枝折戸をはいったような気がする。部屋は和室で窓の向こうは墓地、そのはるかむこうに環状線の高架があった。大島さんは「時折、お客さまが見えるのよ」とおそろしいことを云ったような気がする。部屋のすみには紅絹に包まれたお琴が立てかけてあった。

 そこでとつぜん「さようなら女たち」の一場面にあったように、わたしは修羅場の大島さんにアシスタントを頼まれたのだった。「キララ星人、応答せよ」の自筆原稿の山のなかにわたしはいた。まさにファンとしては夢のようなできごとである。ケシゴムかけとベタヌリがわたしに課せられたしあわせな仕事で、大島さんはベタがまだらであろうと濃淡があろうとさして気にとめる風もなかった。「ね、わたしは最初こうしたのだけど、逆にしようか、あなたどちらがいいと思う?」主人公の少年が雪の一面に降るなか倒れている、当時としては画期的な見開き2ページをならべて大島さんはこうたずねた。天地を逆にすると地に伏している少年は天上をみて空に浮かぶ。わたしは、「最初ので、いいと思います」と答え、大島さんは「じゃあ、そうしましょう」とにっこりわらった。わたしは内心、えっそんな風に簡単に決めてしまうのと思った。修羅場が一晩で終ったのか、それとも二晩だったのか覚えていない。帰り際、大島さんはわたしに英語のテキストをくれた。まるくちびたケシゴムを記念にいただいた。

 その年の3月、わたしは能登へ旅立つ前、はっぴねすの2号をポストに投函した。道はさがせばあるのでしょうかという後記に、わかれのことばとおとうとのことを書いた。......ぼくは、ちょうちょを採るのが大好きだったんだ。でもある日原っぱで虫かごをあけていっぱいつかまえたちょうちょを放した。空いっぱいにちょうちょが飛んでいってとてもきれいで、ぼくはずっと見ていた。それから、ちょうちょをつかまえる気持にはなれなくなったんだよ......その後、大島さんの本で男の子がちょうちょが飛んでゆくのを見上げているイラストを見たことがある。それが関係あるかどうかわからないけれど。

 結局、わたしは能登から生きて帰った。けれどはっぴねすを復活させる気持にはなれなくて大島さんや会員のかたたちへの負い目はまだかすかに引き摺っている。それから「海にいるのは...」(1974.6月)を読んだことがわたしをそれこそ大きな海に押し出してくれた。大戦で夫をなくし乳飲み子を抱えたアリスは糧を得るため港の町で娼婦となる。娼婦アリス、アリスを愛し忘れ形見の少年をひきとって自分の娘といっしょに育てた先生、アリスへの想いを抱いて海の藻屑ときえた提督オーガスティン。.....マミィ、マミィ、オーガスティンがきたよ、寒いのにきたよ、ねぇオーガスティンかたにのせてよ.......海にいるのは..なにかしら....寄せる真実....返す偽り....寄せるいつわり ...かえす真実.......物語はわたしのうちに沈殿し、わたしは翌年一歩踏み出し、それまでの自分に決別した。そして弐歩踏み出し、踏み外し、転げ落ち、波間に漂い、やがて岸に辿り着いた。そこでにっこり笑って手を貸してくれたのがかずみさんだったのだ。「ほうせんか ぱん」「F式蘭丸」「すべて緑になる日まで」(1976年.1月)わたしが大島さんの世界の近くにいたのはここまでだった。「七月七日に」(1976.6月)もうすこしひろげるなら「さようなら女たち」(1976年.9月)ここ1972年からはじまった大島さんの第四期・浪漫の時代は終るのだ。

 「F式蘭丸」などにも萌芽はあるのだが、「いたい棘、いたくない棘」(1977.6月)「夏の終わりのト短調」「バナナブレッドのプディング」で少女の夢はもはや完結しない。悲劇的結末もハッピーエンドもない。連綿とつづく不確かな生、苦痛に満ちた生を前にして、少女たちはかってのようにはじけるように笑うこともない。あるのはかすかな予兆、夜明けまえの明るみを待つかすかな希望である。痛みを支えにするように少女は立ち尽くす。代表作といわれる「綿の国星」(1978.5月)で大島さんは少女を成長しないチビ猫のなかに閉じ込めてしまった。チビ猫は気付いてしまった少女たちのアンチテーゼとして存在し、補完している。成長を前に立ち尽くす少女たち、決してホワイトフィールドにはなれない須和野チビ猫は少女の別の側面なのだ。女になることを拒絶する少女といってもいい。こうして、知ってしまった、少女の領域を超えてしまった漫画家は少女漫画の花園にはすでにいられないのだ。ちょうど「綿の国星」を発表したころ、大島さんは少女週刊誌から姿を消した。わたしもまた徐々に大島さんの作品を見ることが辛くなっていった。


 実は最近になってその後の作品を読み、こころを打たれたことがある。同じように境界を越えた萩尾望都、山岸涼子のそののちのものがたりを読み比べていくと大きな違いにきづくのだ。しかしその話をするまえに、大島さんと萩尾望都さんとの流れを見てゆきたいと思う

 
 萩尾望都が「ルルとミミ」を引っさげてデビューしたのは大島弓子に遅れること一年半のちの1969年7月のことだった。それから「ビアンカ」1970年「雪の子」1971年2月「かわいそうなママ」1971年4月「精霊狩り」1971年6月「小夜の縫うゆかた」1971年夏「秋の旅」1971年9月「白き森、白き少年の笛」「11月のギムナジウム」1971年10月......萩尾望都は少女漫画家界を文字通り震撼させた。のみならず起爆剤となって少女漫画を変貌せしめたのである。萩尾望都は覚醒した表現者であった。そのために萩尾望都がなしたいくつかの試みのなかで、まず浮かぶのは、少女漫画の伝統のなかであるまじきこと、少女のかわりに少年を主人公にしたことだった。このことから少年愛が竹宮恵子をはじめとしてテーマとなり耳目を集めることになるが、しかし実はこれは大きな目でみれば瑣末なことなのだ。萩尾望都が少女のエンターティンメントとしての少女漫画に取り込んだことは「わたしはなぜ、ここにいるか」「ここでなにをしたらいいのか」という問いかけ、小説とか映画と同じひとの根源的な問いかけであり、萩尾望都はそれを、少女のかわりに、おとなになる前の透明な存在、少年に託したのである。この針のなかをとおるような挑戦が、たかが少女漫画をおとなも楽しめる普遍的なものにしたといってもいい。竹宮恵子とは同居していたこともあり大きな影響を与え合ったようだが、他の少女漫画家、そして大島さんも例外ではなかった。


 わたしにとって初期の萩尾作品のうちで「秋の旅」はもっともこころを動かされた作品である。(少年は敬愛する小説家モーリッツ・クラインを訪ねる。澄んだあたたかいことばで語りかけるモーリッツ・クラインはかって彼の父でもあったのだ。しかしクラインは少年が息子であることには気がつかない。クラインには新しい家族がいた。娘ルイーゼは少年が帰ったあと父に真実を告げる。クラインは馬を駆って少年の乗る列車を追う。一瞬、眼差しは触れ合いふたりのこころは交差する。.    .その家は小さな澄んだ池のほとりにあった .ぼくははっきり覚えている ぼくとおとうとたちはその家で生まれ幼年時代をその家で過ごした 父と母と季節ごとの花と 母はしょっちゅうぼくたちの名を呼んでた よく透る高い声で...ヨハン!パウル!クリスチャン! 父は大きなひとでぼくたちはよく肩ぐるまをねだった  高い背     ありがとう  ありがとう....ありがとう...ありが   こうして少年は狂気の母とおとうとたちのもとへ帰ってゆく ...。 

 1972年春発表された、大島さんの流れを変えた作品「鳥のように」は「秋の旅」にインスピレーションを受けてかかれたものと思う。1973年「春休み」「名残の夏の..」「アポストロフィーS」も同様のモチーフを持つ。「つぐみの森」も「11月のギムナジウム」なくしてはかかれなかったと思う。さりながら、ここではそれをどうこう言おうとしているのではない。時代にはどのような分野にも先駆者がいるものだし、才能と資質があってはじめて刺激を受け開花するものであるのだから、大島作品の価値が些かも減じるわけではない。萩尾望都は少女漫画の地平を広げる役割を果たし結果として少女漫画は百花繚乱し一時的にしろ少年漫画の上に君臨する時代が出現したのだ。

 少年は青年となり成年となる。少年の心を持ちつづける漫画家はいくつになっても少年たちの支持があるかぎり少年漫画をかきつづけることができる。しかし少女は女になる、青年にはならない。少女と女のあいだには超えがたい深淵がある。永遠に少女漫画をかきつづけることは不可能に近いのだ。可憐なアイドルも演技派になり舞台女優になって生き延びるのは一握りであり、並大抵のことではない。少女漫画家もまた、狭き門をくぐり抜け変貌しなくてはならない。もうすこし後に、大島弓子、萩尾望都、山岸涼子の目指したものについて考えてみたいと思う。

 ここまで読んでくださってありがとう。漫画について語りたい方、できたらメールください。

                                       平成15年 1月14日