これは平成13年11月、表現よみOの会の主催者渡辺知明氏とるかとの間で交わされたMLおよびメールによる往復書簡である。朗読と語りを考えるにあたり、示唆的な内容を含んでいるので渡辺さんの許可を得て掲載する。

平成13112日 140

みなさん、こんにちは

このグループにいれていただいてから、渡辺さんや山口さん、根本さんとのメール交換・TELを通して、朗読と語りはどう違うのだろうとあらためて考えるようになりました。ごく私的な考えですが、聞いてください。

「朗読」は知性ですること、つまり文学作品の世界を理解し忠実に表現するのでしょう?そしてやはり、聞き手の知性に訴えるような気がします。「語り」については10人いれば10通りの解釈があるだろうけれど、わたしは聞き手の集団的無意識の扉を叩くのだと思っています。

本来の「語り」って口承のものなのです。だから活字になったもの、個人が作り上げたものは語りになりにくいし、ただ暗記するなら朗読と変わりはない。

芥川は今昔物語から想を得ていますね、鼻とか、六の宮の姫君?とか・・・・あれは再話といってもいいのではないでしょうか?そして、八雲の作品はほとんど伝承されたものの芸術的再話です。そういうのは語れると思う。

ただ、「語り」というのは必要があったのだと、たとえば古今東西の民話はなぜ、似通った構造をもつのでしょう。書き言葉が生まれてひろまるのに、そう時間がたったわけではありません。それまでの人類の遠い長い歴史においてひとが生きていくうえで必要なことはほとんど口承で伝えられていました。ひとが幸せに生きるのに必要なこと、世界観、集団社会の秩序を保つのになにをしたらよいか、なにをしていけないか、民族の歴史そういうものはみな語りべ、語り手によってつたえられていたのではないでしょうか?そうしたものの残滓が伝説、民話になって残っているのではないかと思ったりしています。

種族的な記憶はないでしょうか?なぜひとは夕方になると不安を感じたり(今では都市が夜を喪ったというのに)秋になると言い知れぬ寂しさを感じたりするのでしょう。太古、夜は全き闇の何が襲ってくるやも知れぬ恐ろしい時間でした。やがて来る冬は食べ物と寒さの心配をしなければならない、いわば死と隣り合わせの恐怖の季節でした。そうしたかすかな記憶がまだ現代人の深層に谺しているのではないかと思います。

集団的無意識の扉を叩くというのにはそういう意味がある。わたしは見果てぬ夢に終わるかもしれないけれど、できることなら語りべになりたい。そのために一回一回の与えられた「語り」の場を大切にしてゆきたいと願っています。

平成14112 9:08:42

るかさん、みなさん、こんにちは。

渡辺知明です。メール投稿ありがとうございます。なにも緊張することはありません。掲示板のほうがもっとたくさんの人たちに見られる可能性があります。このメーリングリストのメンバーは、すべて信頼の置ける人たちであると、わたしは信じて書いています。

「語り」というものについて、そのジャンルの理論的な確立は重要だと思っています。しかし、残念ながら、実際にやっている方がたの理論というものはまだまだだという気がします。「語り」の心がけというようなものが多いようです。

わたしが「語り」を考えるときに参考にしているのは、川田順造『口頭伝承論』です。ここには、本来の「語り」についての基礎的な考えが書かれています。

さて、るかさんのお話しです。「聞き手の集団的無意識の扉を叩く」というのはおもしろい表現ですね。ユングを基本にしている河合隼雄もそんな考えだったかと思います。

「語り」の一回性とよみの創造性という点では、表現よみにも通じるところがあると思います。森さんの考える「朗読」は、テキストを読みあげるような、いかにも「朗読」というものでしょう。「朗読」「語り」と呼び名で区別すると、わたしたち分かったような気
がするのですが、困ったことには「朗読」ではない「朗読」とか、「語り」でない「語り」があったり、「朗読」のような「語り」があれば、「語り」のような「朗読」というものがあります。

あえていうなら、「表現よみ」は「語り」のような「朗読」ということになるでしょう。ただし、「語り」は、森さんの考えるような質のものです。ただし、「活字になったもの、個人が作り上げたものは語りになりにくい」という点では、わたしはテキストそのものの「語り口」から考えると、「語り」となるのは可能だと思っています。

森さんは芥川龍之介のいわゆる語り物を例にあげていますが、問題は作品の素材ではなく、その作品の文体が「語り」の性質を持つかということです。たとえば、よく朗読される「蜘蛛の糸」は一見、語り風ですが、その文体の語り口は、語り風ではないのです。つまり、よく書けていないのです。文末だけが語り風なので、たいていの人はだまされています。実際によんで見ればムリが分かります。

森さんのキーワードである「種族的な記憶」といものも、ユングあたりの考えが支えになっているのでしょうか。わたしが取り組んできた作品は、もっぱら日本の近代文学ですから、森さんのいう「知性」――近代的知性というものでしょうか。きのうテレビで市川森一が「最近、明治あたりの文学を振り返って読んで、近代日本の出発点を振り返ってみたい」と発言していました。

もしも、近代の文学が日本の伝統を背負ったところに成立しているような作品ならば、森さんのいうような「種族的な記憶」まで含んで表現されているかと思います。いわゆる「近代化」で振り捨てられたような「集団的無意識」というものまでを含んで作品化したものこそ、すぐれた文学作品なのだと思っています。

今、わたしは室生犀星に凝っています。犀星にも、芥川龍之介のような王朝ものがありますが、芥川よりもはるかに新しい要素のあるものです。芥川は人間の現代化に挫折したかもしれませんが、犀星は古いものを失わずに現代に引き継いでいるような気がします。

思いつくまま、書き出したら、ついつい長くなってしまいました。わたしの発言に刺激されたらば、また、書いてください。ここは、公開のシンポジウムのような場だと思ってくださればいいのです。よみ手というものは、聞き手がいないと、なかなかはりきらないものです。メーリングリストもよみ手がいてくれるので、ちょっと意識して、ひとりよがりの考えにならないように、あたたかく見つめてくれていると信じています。では、またご発言よろしくお願いします。


平成13112日  2320

渡辺知明さま、みなさまこんばんわ

渡辺さんがてぐすねひいてお待ちになっているのでは^_^;・・・と再度おはなししようと思います。

まずはじめにこの前のメールの冒頭で書いたとおり、これは自分が語りをした実体験の中から得た極わたくし的な語り論であることをお断りしたいと思います。

1年半まえ、「語り」はじめたときから、わたしの内部でなにかが変わりはじめました。否、むしろ、もとからあったものに気付いたといったほうが近いでしょう。それはわたしにとって、個人的なルネサンスといった意味合いを持つものだったのです。

もしすこしでも興味をお持ちの方がいたら、わたしのHPのStorytelling〜地下室(なぜ語るか)、屋根裏部屋(語りとはなにか1および2)を見ていただけたらと思います。そこに「語り」に出会い、「語り」のもたらす豊穣の世界にとまどいながら、のめりこんでゆくおばさんの心もようが拙い筆で綴られています。

渡辺さんのご指摘のとおり”集団的無意識”とはユングからの借用です。自分の気持ちにぴったりくるものだったので借りましたが、わたしのことばでは「ひとの魂の奥の共通のグラウンド」になります。

「語り」とは一方的に発信するものではなく、聞き手とともにひとつの場を共有するものなのです。聞き手とともに醸すものなのです。そして根底に「生きることへの肯定」裏返せば「死することへの肯定」があるように感じます。ですから、なにを語るかはさほど、問題ではありません。わたしはちかごろ、自分史(自分や身近なひとのエピソード)を語ることが多いのですが、一所懸命生きた市井のひとの一生をそのいとしさ、いとわしさを含めて共に抱きとめてもらえたら、それでもうなにもいうことはありません。これは「語り」の醍醐味だと思います。

「近代的知性」というものははたして、人間に幸福をもたらしたでしょうか?これは語り論とは関係ありませんが、なんだか言いたくなりました。芥川の作品の引用についてはことばたらずであったことをお詫びします。六の宮の姫について、あのラストは納得できないことも申し添えたいと思います。

渡辺さん、わたしは表現よみをまだ聞いたことがありません。大崎での発表会を楽しみにしております。そしてできるなら表現よみは表現よみとして勉強したいと思っております。しかし、わたしにとって朗読に近い「語り」というものはありません。「語り」は生きることと、とても密接にからみあっているからです。

2001113 8:33:53

るかさん、みなさん、こんにちは。
渡辺知明です。メール投稿ありがとうございます。「極わたくし的な語り論」は、大賛成です。わたしの表現よみ理論も同様です。理論というものは、どこかに、わたくし的なものがないと魅力がないものです。

結論的なことをいうと、森さんの考える語りとわたしの表現よみには、かなりの共通性があるということです。その共通性について考えようと思っています。いわゆる「朗読」や「音訳」からは得るのがむずかしいことが、語りと表現よみにはあるのです。それはいったいなんでしょうか。

きのうも日本コトバの会の川崎での例会があったのですが、繰り返し話題になることです。まず、話し方が変わる。他人向けだった話し方が、自分の内面の感情と連動しながら話せるようになることです。それが、聞き手からもわかるのです。実感をこめて話せるようになるということです。

わたしの会には、よくアナウンスやナレーションの訓練をした人がくるのですが、わるくいうと、しらじらしい・気どった感じがするものです。語ることがどこか他人事なのです。それが、表現よみの訓練をつんでいくと、心の中から語っている感じになるのです。テキストをよんでも、まるで語っているようによめるのです。

るかさんが語りの経験について書いたものを読んだとき、そのような変化がるかさんに起こったのだろうなと感じました。問題は、どうしたら自分の声が・語りが・よみが「ひとの魂の奥の共通のグラウンド」に届くかということになります。

よく心を伝えるといいますが、心そのものは実体のないもので、なにか乗り物が必要です。それが、声であり、ことばであり、作品のテキストであるということになるでしょう。本質的な問題は、テキストのあるなしに、関わらずに、その人の心と表現との結びつきだと思います。語りでも、よみでも、問題は心の表現なのです。

||
「語り」とは一方的に発信するものではなく、聞き手
||
とともにひとつの場を共有するものなのです。聞き手とともに醸すものなのです。

語り手と聞き手とが直接に共有できるのは、心そのもではなく、その乗り物でしょう。媒介となることばやテキストということになるでしょう。つまり、文学などで「かなしい、かなしい」ということばの直接の意味を繰り返すのではなく、その状況を語ることによって読者に、その思いを感じさせるようなものです。

わたしが小三治の「うどんや」を聞いて、涙が出そうになったのは、表面的にはくだらない酔っぱらいの語る話が、その人の人生を語るものになっていたからです。

||
「近代的知性」というものははたして、人間に幸福を
||
もたらしたでしょうか?これは語り論とは関係ありませんが、なんだか言いたくなり
||
ました。

一般的な風潮としては「近代」否定が流行しています。しかし、近代という時代を通過することによって、日本人に起こったさまざまな変化は、良かれ悪しかれ現代人の知性を作り上げているのだと思います。それは、わたしの愛する近代文学のなかにさまざまに表現されています。近代をはずしてしまった人間観はうっかりするとユートピア的なものか非合理的なものなるのではないでしょうか。

||
しかし、わたしにとって朗読に近い「語り」というものはありません。「語り」は生
||
きることと、とても密接にからみあっているからです。

そうですね。わたしにとっても、表現よみとして作品をよむことは、生きることに、密接にからみあっています。そこが、わたしのいう語りと表現よみとの共通性です。

そうそう、こちらから質問してしまいましょう。わたしは斎藤隆介「ベロ出しチョンマ」を語りでやろうと思って練習したことがあります。半分ほど、覚えたとき、ある人から、「斎藤隆介のようなしっかりしたテキストは語りにしないほうがいい」といわれました。また、自分でも覚えることで、声に出す内容がどんどん軽くなって、記憶を再生するような意識が多くなる危険を感じました。このような作品は、語りとしてやる場合どうするべきなのでしょうか。

理論というものは多数派に対して、少数派がアンチテーゼを提出して挑むことによって発展するものです。どうぞ、主流でない立場でもどんどん発言してください。ちなみに、大久保忠利の表現よみ理論というものは、朗読という多数派に対する反対意見からはじまった理論なのです。もしも、わたしの発言に刺激されたら、またご発言ください。そして、わたしの考えを刺激してください。


   渡辺知明さま

今日はおつかれさまでした。いかがでしたか?

ご心配かけてすみません。そういうことではないので気になさらないで下さい。おもに生業のことです。修羅場です。
「語り」についてはまがりかどかもしれません。ただ疲れているだけかもしれません。
いままでは語り(おはなし)とわたしは蜜実一体となっていて、考えることも必要なかったのです。あれはなんといったらいいのでしょう。ゆるされている感じ、空気や聞き手とひとつになっている感じ至福に近いものでした。それが、語るとき自分と語りの間に毛ほどの隙間が生まれたような違和感があるのです。
朗読について考えるようになったこと演劇をはじめたことといささか関係があるのかもしれません。研究セミナーを引きずっているのかもしれません。

火曜日に語る「おさだおばちゃん」もどうなるかわかりません。わたしの場合、即興に近いので、聞き手や場所の力や、集中度で違うものがたりになってしまいます。

今までは、偶然や場所の力や恐いもの知らずでやってしまった素人芸だったと思います。
だから、直感的に、技術にとらわれるとヤバイと思っていました。このまま霊感にたよって走るか、渡辺さんのように磨いて磨いて磨く不断の努力を続けてゆくか.......。それとも、表現よみも感覚的なものですか?

るかさん、こんにちは。

渡辺知明です。メールありがとうございました。チェーホフの公演は、メーリングリストに書いたとおり無事に終了しました。

表現よみもテキストを見はするものの即興的な要素の強いものです。それまでの流れの乗り具合によって、ときどきのよみが変化します。きのうも、1回目と2回目では、自分の感じ方がちがっていました。それは音の響きがどうこうというものではなく、自分の内部にわき上がる作品の世界の感じ方がちがうのです。

どんな芸術でも、すぐれた人は表現についてできる限り考えているものです。それを前提のうえで、現場においては即興的なひらめきで表現を変えていくものなのでしょう。その変化をさせられるようになるためには、また基本訓練も必要になってくるわけです。

今回のメールでもメーリングリストに書けるかたちにしてくださると、わたしも考えを発表できるのでありがたいのです。では、また、お便りください。

2001
1112 17:33:30

渡辺さま

片岡先生は気がつくといつも眠っています。^_^;大学の先生・語り手たちの会の中心メンバーです。櫻井美紀さんとの共著のほか著書が何冊かあるらしい....この間の人類共通の無意識は出所がちがうけど、どうやらユングがお好き.....今わかっているプロフィールはこれくらいかな

今日は語りの発表会でした。以前、いちどセミナーで語ったとき櫻井先生がこれぞ、語りといってくださった「おさだおばちゃん」を語りました。前よりより立体的になったかも・・・・
語っているときって意識の半分はみょうに澄んで、かなり見えるんです。ハンカチ出しているひとがなんにんとか...あれ、ここで泣いちゃうの....とか残りのはんぶんはものがたりと分かち難くひとつになっている
確かなことは、書かれた字をすっかり忘れないと心にとどきにくい...ということ。朗読と似ているようでまったくちがうのはここだと思います。2001 11 13 2232

渡辺知明さま

おはようございます。
理論になるとは思えませんが、昨日、気付いたことをまとめてみました。よかったら、わたしのHP、日記をごらんになってくださいませ。 2001 11.14 1106

るかさん、こんにちは。

渡辺知明です。片岡先生についてもお知らせと日記についてのメールありがとうございました。日記は二、三回読ませていただきました。以下、書くことはよろしかったら、朗読メーリングリストにも公開したいのですが、いかがでしょうか。ご返事ください。

「聞き手として、はっきりわかったことは、朗読と語りの根底にある違いです。(中略)朗読は文字を追います、朗読者は文字からイメージを組み立てるのでしょうか?」

表現よみは「よむ」ということから離れられません。どこまでいっても、テキストを「よむ」のです。ただし、表現的によむのです。というのは、理解というものは、そもそも受け身のものではなく、「多分こんな声だろう」と感じた声を、その瞬間にその場で表現し
てみるわけです。それによって、自分の理解を表現としてフィードバックするのです。ですから、俳優の朗読のような演技的な方法とはちがうのです。

「素話は書かれた文字を暗記して音声化します。もちろんそれだけではないのですが、暗記している文字を追うと、聞き手にも文字しか見えないのです。」

これが理想的な「語り」なのでしょうね。しかし、これまで、わたしが聞いた限り、内容を当人のものにしているような「語り」には出会ったことがありません。でも、最近、板垣正義さんからいただいた録音で、北林谷栄が九州弁で老婆の役をした(おそらくテキストをよんだ)放送劇の一人語りが、まさに「語り」でした。

「語りは本来の口承のものは現在ほとんど存在しません。テキストをつまり書かれた文字を媒介にするのです。この意味において、朗読、素話と共通するのですが、書かれた文字を捨て去る、忘れ去る、そしてイメージとして伝える、緑濃い山並みそのまま、暗いくらい空そのまま、それなくしてことだまとしての力を持ち得ないとわたしは昨日改めて感じました。」

前半はなるほどと思いますが後半の「ことだま」については、文学的な表現なので、理論としては理解できません。イメージを自分の身についたものにするというような意味でしょうか。実際の表現の場における心理などを具体的に書いてもらうとわかりやすいですね。

「技量というものは語りにおいてほとんど意味がない。伝えたい思いのみ・・・あとの間、テンポ、語調の変化は後から自然とついてくるのです。へたに自分で演出するのはわたしの場合、かえってじゃまになるようです。」

本質論としては、このとおりです。わたしも下手な演出はしないほうがいいという意見です。ただし「思いのみ」としてしまったらいけないと思います。精神主義的・神がかり的な修業によって技を磨くのではなく、理論的なアプローチがあると思います。そこから、
どのように訓練すれば、実践的な効果があがるかという道筋が見えるでしょう。どのような分野でも、一級の芸術家は理論的な考えのもとに実践的な訓練を積み重ねているものです。

わたしは、その人のよみを聞けば、その人が抱えている問題点をとらえられます。それも理論的な裏づけがあるからだと思っています。

2001
1115 9:08:55

渡辺知明さま

ご返事が送れてすみませんでした。
どのようにお答えしたものか思案にあぐねていました。文字によってつたえることは、とてもむつかしいことですね。

白石加代子さんの「語り」についての渡辺さんの批評はとても納得できます。わたしは白石さんの「語り」は好きではありません。中途半端な演技のおしつけひとり芝居と感じています。聞き手と共有しようという意志を少しも感じないのです。もうひとつは、白石さんの「語り」が豊かなイメージから発しているのではなく、テキスト(文字)から発していると感じるのです。

ことたまとは単なる文学的表現ではありません。本来の原初の、魂から発することばの意味でわたしは使わせていただいています。文字が生まれたということは人類にとって画期的なことでした。しかし、それは豊かな口承の文化を衰退させることにもなりました。

小泉八雲の出自がアイルランドであることを知った時わたしは思わず頷いたものです。ケルトの地は伝説、フェアリーストーリーの宝庫ですが、ひとびとは長い間、文字をもたかったのです。ですから近年まで豊穣なStorytellingによる伝承が残っていました。

その地に生まれた八雲が日本に渡り、節子夫人から日本の民話、幽霊話を聞き心惹かれ、文学に昇華させたことはとても自然なことに思われたのでした。翻訳したものは語りにくいものですが、八雲の作品にかぎっていえば、わたしはとても語りやすい。それは八雲が節子夫人に「もっと、もっと、はなしてください」とせがんで聞いて、ものがたりの世界にひたり、その感動を文章化したからではないかと思うのです。さて、文字というのは、いわば、生のことば、魂から発することばを保存するため、フリーズしているのだという見方はできませんか?わたしたちは読みながら一瞬のうちにイメージ化します。つまり知らず知らず、解凍しているのです。朗読もそういう知的な行為のひとつではないのでしょうか?

文字⇒イメージ⇒音声化

わたしにとっての「語り」は

イメージ⇒音声化⇒イメージ


すなわち魂から発することたまを聞き手に伝えようとする試みなのです。

ゆえに技より伝えようとする想いが根幹と考えるのです。たとえ技術的に優れていようとからっぽな語りなにも感じない語りもあれば、表現は稚拙であってもその想いをひしひしと感じる語りもある。

わたしは語りを芸術、文芸とは思いません。もっと切実な、ひとの生きることにかかせないこと、根底はコミュニケーションだと感じているのです。若いひとたちが語るということばを日常的に使っていることをご存知ですか?うちの20歳の長男は「今日はともだちと熱く語ってきたよ」とかいいますが、軽いおしゃべりとは区別して使っているのですね。心情を相手に吐露するときは語るのです。

渡辺さん、巷には数多の語り手がおります。願わくはもっともっと語りを聞いてください。いつかわたしの語りも聞いていただけたらと思います。

そういうわけでたいへん申し訳ないのですが、Re:日記をMLにするのはおゆるしください。参考になるかわかりませんが、この間の発表会のあといただいた感想をひとつ添付させていただきます。

手違いがあって、23日はうかがえなくなってしまいました。よい会になりますよう祈っております。与野で、渡辺さんの「悟浄歎異」  中島敦作を聞かせていただくのを楽しみにしております。2001.11.18 527

るかさん、こんにちは。

渡辺知明です。メールありがとうございました。かなり、「語り」についてのお考えがわかってきました。いい刺激を与えてくださるので、また考えたくなりました。おつきあいください。

また、お願いですが、今回のメールで、差し支えない部分を朗読MLに発言してくださいませんか。現在60名いるメンバーにとっても価値あることになるし、森さんの「語り」についてのお考えが広まることになると思います。

||
さて、文字というのは、いわば、生のことば、魂から発することばを保存するため、
||
フリーズしているのだという見方はできませんか?わたしたちは読みながら一瞬のう
||
ちにイメージ化します。つまり知らず知らず、解凍しているのです。朗読もそういう
||
知的な行為のひとつ
||
ではないのでしょうか?
||
||
文字イメージ音声化

わたしは、表現よみの話をするときに、文字は冷凍食品で、表現よみがその解凍だというような表現をします。表現よみは、いわば「瞬間解凍」とでもいうものかもしれません。次のような合いコトバもあります。

目でよんでからだで感じて声に出す

||
わたしにとっての「語り」は
||
||
イメージ音声化イメージ
||
すなわち魂から発することたまを聞き手に伝えようと
||
する試みなのです。

わたしがこだわるのは、イメージというものの「乗り物」の問題です。物質と精神というものは哲学の根本的な概念です。わたしは精神も物質的な「乗り物」なくしては成り立たないと考えています。それは表現の「媒体」ということです。表現よみでも「語り」でも、
コトバ=言語が、その「乗り物」になります。

森さんが語り出すまえの「イメージ」とは、じつはイメージではなく、「語ろう」とする心理や心がまえではないでしょうか。イメージとしても、表現されてないわけですから、かたちのないものではないでしょうか。もしかして、イメージが生き生きとしてくるのは、
語る最中ではないでしょうか。一こと語り出すと同時に、声が表現となり、イメージを形成する、それを聞きながら、さらに次のイメージへとすすむというものではないでしょうか。

そうなると、イメージとコトバとの一体化が瞬間であるという点では、表現よみと変わらないものとなります。ちがいがあるすれば、コトバの提供が、「記憶再生」から取られるのか、「テキストよみ」から取られるのかという点になると思います。

||
ゆえに技より伝えようとする想いが根幹と考えるのです。たとえ技術的に優れていよ
||
うとからっぽな語りなにも感じない語りもあれば、表現は稚拙であってもその想いを
||
ひしひしと感じる語りもある。

ゆえに、わたしの結論では、「想い」はコトバとイメージとを結びつけるような技術的な訓練によって高められるということになります。技か想いかとい二者選択の問題ではなく想いと技とが一体になることが理想なのだと思います。よみや語りを聞くと、技の面、想いの面を切りはなして見ることもできますが、それ相応の技と想いとの一体化があるのでしょう。

11月23日は残念です。12月23日お会いできるのを楽しみにします。森さんの「語り」はぜひお聞きしたいと思います。また、ほかの人のいい語りも、どんどんご紹介ください。

2001
1118 10:04:58

   渡辺知明さま

昨日 わたしは会社の旅行で草津におりました。未明ひとり、考え事をしながら露天風呂に浸かっておりましたら光芒が天を過ぎりました。火の玉に見まごう流れ星でした。しし座流星雨だったのです。

わたしは首が痛いのも忘れて空を見上げていました。
流れ星のひそみにならって祈りつづけました。地に平和を、神さまの御こころが地にあまねく成りますように、悠久の天の運行に比して、一瞬の流れ星の軌跡よりはかないひと生ですが、どうかことたまでつかのま、ひとさまをしあわせにできますように・・・

わたしも渡辺さんとWEB上で意見を交換にすることで胸の中にあった語りについての考察がより明確になりました。ありがとうございました。

イメージということばでひとくくりにするのは無理がありますね。「おさだおばさん」を例にとると、まずおばさんの生をそのいとしさ、いとわしさも含めて、聞き手のみなさんに受け止めていただきたいという強い想いがあります。これはわたしのメッセージです。

つぎにおばちゃんを映像としてだけでなく全体像として思い浮かべます。一度、イメージを追ってものがたりの流れができると、わたしは、齟齬がないか確認するためメモ紙にざっと落としてみます。そしてそのあと文字を徹底的に忘れる・・ここがわたしにとってのポイントです。文字はありません。ことばが発現します。エピソードが積み重なりおばちゃんのイメージが聞き手のみなさんの心に浮かび上がってきます。形成するのではなく生成するのです。

わたしの意図、演出ではなく 生まれ、命を持ち歩き出すのです。声を潜める、くりかえす、イントネーション、息遣い、自分で自分に驚きながら語っています。これが技とは思えません。伝えたいという意思のあとはその空気.....聞き手と語り手のいる..........に任せる。同じものがたりでもエピソードがふえたり、順序がいれかわったり、力のいれどころが変わったりその場の雰囲気、聞き手によって、また私自身の心象風景により変化します。だから一回きりなのです。

発表会のとき、合間にフルートの演奏をお願いしました。その方が「おさだおばさん」に心を動かされ、「どうすれば、あのように語れるのか」聞かれました。わたしは「文字を忘れるのです。音楽をなさる方は音符を追うだけですか?」とたづねると驚いたように「音符を追うといい音楽にはならないですよ」といわれました。たぶん音楽家もイメージを抱いて演奏しているのでは.........と考えつきました。


渡辺さん 一度文字を捨て、語ってみませんか?いろいろなことを感得されることと思います。目に見えず名状し難い世界がある、わたしたちはそこに光を与え、命を与えることができるのです。        2001 11.20 337

渡辺さま

想いを伝えるというのはかくも難しいことかとおもいつつ今宵も(すでに早朝)メールをおくります。文字を捨てるというのは、表現をするときわすれませんか?という意味です。渡辺さんはすでにそうされているのかもしれませんが書かれた文字を自分の血肉としてしまう。そしてイメージから伝える。このとき手に書物はないほうがよいのではと思います。どうしても文字にたよってしまうので..........ですから、ひとつのものがたりを自分のものにするのにはとても月日がかかります。暗記とは違うのです。自分のなかで酒のように熟成させるのです。文学作品を語ることはわたしにもあります。選択するとき、翻訳ものはあまり選びません。(漆黒の王子はよい訳ですね)文体が簡潔で美しく、作品の世界がうかびあがってくるもの。あとは相性ですね。それで、このあいだから、渡辺さんを誘惑してるのですよ。ちいさなものがたりを語ってみませんか?きっと渡辺さんは語り手としても名を為す方だと思います。

ところでわたしの語りはさほどのものではありません。でも狐がついてるかナ.....狐じゃなくてなにかが憑いてる感じはしますよ。なにかがわたしの躰を借りてる感じ。語る前、祈ることがならいです。「語りの神さま、降りてきてください。どうか聞き手のみなさまの魂に届くことたまを使わせてください。」2001.1123 447

るかさん、こんにちは。

渡辺知明です。メールありがとうございました。

||
文字を捨てるというのは、表現をするとき
||
わすれませんか?という意味です。
||
渡辺さんはすでにそうされているのかもしれませんが

なるほど、わかりました。そちらの掲示板にも書きましたが、声を問題にする人は、文字というものを、邪魔者のように思っているようですが、文字が声を排除しているのではありません。文字の背後には、声のコトバが生きています。わたしは、声のコトバも文字の助けを借りて表現力を高められると思っているのです。

||
暗記とは違うのです。自分のなかで酒のように
||
熟成させるのです。

表現よみの理想は、文字を媒介にした「瞬間発酵」をさせるということです。

ある劇団の研究生の卒業公演の課題が「桃太郎」ということだったそうです。わたしが語れるとしたら、そんな話でしょう。しかし、わたし自身、下手ながら小説を書きつづけている者なので、口から出る自分のコトバについては、書きコトバほど十分には語れないと思ってしまうのです。

11月25日(日)夜に、秋元紀子さんという方から招待を受けた「語り」を聞きます。安房直子の作品をずっと語っているそうです。その昼は「チェーホフ演劇祭」のチェーホフ書簡朗読の公演を聞きます。わたしの好きな鈴木瑞穂がチェーホフの担当です。


  20011123 8:51:39

森洋子さん、こんにちは。

渡辺知明です。メールありがとうございました。

わたしはこれまで小説を30本くらい書いてきました。詳しくは、わたしのページの『群狼』のページにあります。
たしかに自分の書いた作品は自分のもので、およそのストーリーや場面などは頭に入っていますが、それを文章に書いた表現以上に語れる自身はまったくありません。やはり、文章は文章として磨き上げられているのですから、その密度を語るで表現するのはムリだと思えるのです。
また、自分の書いた小説は、たとえ下手なものでも、一枚の原稿用紙に最低2時間くらいの思考が投入されています。それと同等の内容を語るということは考えられません。
森さんは、語りことばの密度と、書かれたコトバの密度というものを、どのようにお考えでしょうか。
ところで、今日は表現よみO(オー)の会を無事終了しました。80席の定員を越える人に聞いていただきました。山口さんの斎藤隆介「こだま峠」も安定したものでした。わたしも快く疲れています。では、また。
2001
1123 22:59:13

渡辺知明さま

渡辺さんは創作をなさるのですね。でしたら、ご自分の創られたものを語るのがなによりのことではないでしょうか?熟成も醗酵もなくはじめから躬のうちにあるのですから・・・・

わたしは自分のオリジナルがもっとも無理なく語れます。文字に変換するまえのイメージがそのまま残っているからです。実はこの頃MLなぞ出さずにそしらぬ顔で渡辺さんに表現読みの手ほどきを受けにいけばよかったと時おり思っているのですよ。

25
日は語りを聞きにいかれるのですね。そしてチェーホフ。わたしは劇団の手伝いで高円寺に行きます。お元気で・・・・・2001.11.232234

るかさん、こんにちは。

渡辺知明です。メールありがとうございました。表現よみO(オー)の会では、飯島晶子さん「お母さん」は演劇に近いもの、わたしの「カチカチ山」は表現よみだと思います。

わたしも演劇の経験はありますが、表現よみは、いわゆる「朗読」よりは、表現よみに近いものです。演劇で、小説を演ずるとしたら、地の文はナレーター、会話ごとに、人物を演ずることになります。飯島さんのお母さんでは、酔ったストリッパーと、手紙を書いた息子、語り手を、それぞれ独立的に演じました。

しかし、わたしの「カチカチ山」では、語り手のワクのなかにくくられるように、狸と兎の会話がおさめられます。たとえば、兎のあるセリフは、〈セリフの表面の意味兎の裏の心理登場人物としての兎の語り手の評価作者による作品での位置〉という四重構造になります。それに対して、演劇で兎を演ずるとしたら〈セリフの表面の意味兎の裏の心理〉ということになります。つまり、表現よみの場合は、小説の演出者である作者の意図までをよみの全体に及ぼす必要があるのです。

よみを考えるときの問題は、「朗読」「語り」「表現よみ」という名称の問題ではありません。ひとつひとつのよみの良し悪しを、よみに即して評価し、理論化することなのだと思います。その意味で、いろいろな人のよみを聞きたいし、その上で理論を深めて、自分の
実践に生かしたいと思っています。また、このような人との議論が自分の理論とよみの実践に生きるのです。ぜひ、今後もいろいろと話しかけてください。今日の午後2時からシアターX(カイ)で、鈴木瑞穂らの「はぐらかされたわが生涯」というチェーホフ書簡の朗読劇です。そして、夜には、安房直子作品の語り(松元紀子)です。聞いてきたら、また感想をメーリングリストに書きます。

2001
1125 7:59:53

     渡辺知明さま

「表現よみOの会」
盛会だったようですね。おめでとうございます。

わたしは今日劇団のなかまといっしょに高円寺に行きました。明日の公演の仕込みのためです。といってもまだ正式の劇団員ではなく、来週客演するのです。

演劇は初めてですが、直感的に朗読より語りに近いような気がします。


作者、演出家の視点は同じでも、(当劇団は座付き作者で演出も同じです)役者が変わると同じドラマが劇的に変わってしまう。今回はWキャストなのでより明確になりました。本よみの段階から、舞台稽古にはいり役者に熱がはいってくると、蜃気楼のように空間が生まれます。わたしはそれに見惚れて自分が登場人物であることをつい忘れてしまうのですが、あのなかで呼吸ができるようになったらどんなにおもしろいでしょうね。役者と乞食は3日やったらやめられないってわかるような気がします。たぶん、公演が終わったらそのまま劇団員になってしまうでしょうね。おもしろいことに劇団のひとたち、みなさん語りもするんですよ。語りも歌も演劇もその起源は神に捧げるものだったと聞いたことがあります。


語りは最終的には語るひとのひととなりです。技だけが露わになるのならいいのですけれど持っているもの、性格、知性、育ち、あたたかさ、人間的奥行き、引き出し多くのものがが露わになります。とても恐い世界です。このたび、渡辺さんと論を続けているうちに自分のなかで考えがまとまってきたことはとてもうれしいことでした。

でも根本的に大切にしているものが違うと思います。どちらがいい悪いではなく信奉するものが違うのです。とりあえず、論より実践かな・・・渡辺さんの表現よみを聞かせていただくのを楽しみにしています。

表現するのはなんのためなのでしょう。
誰のためでしょう。
何を伝えたいのでしょう。


これは渡辺さんにというより自問ですね。つねに問い掛けてゆきたいと思っています。

2001.11.25 128