私にとって「語り」とはなにか

「語り」とは?と問われて、今の自分にもっとも近いことばは、なにものにも変えがたい「よろこび」です。そして「語ること」は「生きることはなにか」を知ることでもありました。実は軽い気持ちではじめたことがこんなおおごとになるとは思いもしなかったので戸惑ってもいます。可憐な野の花にひかれて森の小道をたどって行ったら突然眼前に悠然とアマゾン川がひろがっていたといったらいいのでしょうか。見えないものを語ろうとすることは、自然自分自身と向き合うことにつながってゆきました。

私の青春は家族の上に君臨していた母と闘うことにはじまったといっても、過言ではありません。たぶん14歳のころから私は少しづつ力をつけ、その日のために準備をしてきました。まずレトリックを駆使して、つぎに感情に揺さぶりをかけ、終には肉体的に母を打ち負かした後、目標を失った私は数ヶ月の間呆然とすごし、大学進学もやめてしまいました。それは抑えられてきた若い心が伸びようとして重圧を跳ね返そうとしただけではなく、自分と父との母へのひそやかな復讐でもあったのでした。それなのに私は、ごく最近になって、どんなに母を愛していたか、母に振り向いてもらいたかったかをさとったのです。そしてそれを知った一瞬後、まるで合わせ鏡のように、長女の視線がいつも私を追っていたことに気がついたのです。私は30年もの間自分の真実の気持ちに気がつかず、16年もの間娘の気持ちに気がつかないで暮らしていたのでした。それとも心の奥底で気がつきながら知らない振りをしていたのでしょうか。

このことだけでなく、私は自分がこうだと固く信じてきたものが、異なる角度から光を当てるとまったく違った様相になることを、知りました。亡くなった父のことなど、今はまだ恐くて正面から見る勇気はありません。それは現在の、夫や息子たちとのかかわりと深くつながっているような気がするからです。しかしあまり心臓にはよくないけれど知らないより知るほうがいい。なぜなら、自分とまわりの愛するひとたちのかかわりを呪縛から解き放ち、よりよいかたちにかえることができるからです。知った今、私はやり直そうとしています。娘を不登校もふくめてそのまま抱きとめたいと思います。語りを通して私はもうひとつの視力をもつことができたようです。

 「語り」はまた、深い森のように未知なるものに満ちています。ときに、私は聞き手(それは5人のときも100人のときもあるのですが)を前に語っている時、なにかが私自身に降りてくる感じがすることがあります。語っているのは確かに私なのですが、私の口や身体をかりて 何かが踊り出ようとしているような気がするのです。それがなになのかはわかりません。そんな時本来の自分は、意識の渕に半ば沈んで、語る自分と聞き手をはっきり認識しています。そして語り終えたとき、ツキモノが落ちたような、語る前より浄められ軽くなったような感じがあるのです。語りとは、古来神事と深いかかわりがあり、ルーツをたどれば、巫女や口寄せにつながるのかもしれません。また芸能はもとは神に奉納されたいわれをもつのですから、舞台に立つとき神がかりになることもあるかもしれません。ともあれこうしたことは、すべての語り手が経験することなのでしょうか。どこか言うに憚るところがあって、たずねたことはないのですが。

深いよろこびやしあわせは、どのような時に感じるのでしょう。私は、魂が我・ワレという小さな入れ物からあふれ、他の魂と、またもっと多くの魂と共感しひとつになった時、感じるのではないかと思うのです。それは自分を失うことではなく、本来の自分になることであり、大いなる愛と赦しにゆだねることでもあります。恋、宗教的な法悦、アイドルのコンサ−トで熱狂することにもその萌芽はあり、ひとは知らず知らずそれを求めてやまないのでしょう。

 「語り」について語ろうとすると果て無し話のように、尽きることがありません。しかしもし一言でいうとしたらそれは私にとってよろこび、魂のそこからのよろこびです。語りをとおして、私は聞いてくださるかたがたとともに在り、ともに楽しみ、共感します。その時私は、わたしというカラから解き放たれ、そのよろこびを重ねていくたびにすこしずつ、かるくあかるくあたたかくなっていけるような気がするのです。

 研究セミナ-提出レポートから                               13/4/28