わたしにとって「語り」とはなにか

私にとって語りとは第一に伝えようとすること、第二に共有しようとすることである。「伝える」とは現在の時間軸で四方八方にむけてばかりではない。未来にむかって伝え残したいことがある.私の父祖の地では一族のことを、おらがまきもしくはまけという。私はわが一族の向こう見ずな男たちや、「きちい気にならなきゃあだめだよ」と自分や廻りを叱咤しながら晩年、「生きるのはよういじゃあねえなあ」とぽつり呟いた女たちのエピソードを語りとして残したい。高等小学校を出てすぐ、行李一つとおおきな夢を背負って峠をくだり、県庁で給仕をしながら夜学に通った父のことを残したい。できれば秩父事件のことも、首謀者の子孫のひとから聞き取っておきたい。人は二度死ぬという。一度は息を引き取った時、そしてもう一度は記憶から忘れ去られた時、もしそうなら父や伯母たちは私が死んだのちもしばらく生き続けるのだ。私の語りを聞いてくれた人たちの記憶のなかに。


 「共有する」とはなんだろう。聞き手と語り手が一緒に物語をつくりあげる、それだけではないような気がする。ひとの魂の奥には共通のグラウンドがありはしないか。ひとは今、ひとくれの土、分かたれた孤独な存在である。しかし、遠い遠い過去、ひとの魂は全きものの一部であり、引きちぎられた今もこだまのように元なるところをあくがれているのではあるまいか。そして、語り手はその魂の大地を揺さぶり目覚まさせることができる。物語をとおして聞き手も語り手も個なる自分から解き放たれ、生きる力とよろこびが甦るのを感じるのではあるまいか。共有するとは実は民族、人類の共有していた場を復活させるということなのではあるまいか。

13/3/31

(これは語り手たちの会研究セミナーに提出したレポートの一部です。)