中山道・柏原宿〜醒ヶ井宿
08.6.24


今朝、新聞を見ると、醒ヶ井(滋賀県米原市醒ヶ井)の梅花藻が咲き出したとの記事を見た。

もはや梅花藻の時期なのかと、季節の変わりの速さにとまどってしまう。

これも温暖化の為か歳の所為か、季節の巡りをめでると言うが最近はゆっくりと楽しみもできず、

慌しく変わって行く。 TVでは今日、名古屋は29度、梅雨中の晴れ間、天気は良いという。


早速、出掛けることにする。 名古屋高速に乗り一宮より名神高速を走る。  7月5日には東海北陸道が

富山まで全線開通の予定で一宮ジャンクション辺りは車が輻輳することになろう、今日は順調のようだ。

先達てまで養老山脈が新緑であったが、もう濃い緑一色になってしまった。 田植えされた早苗も

すっかり株が増え水面が見えにくくなった。  関ヶ原インターで降り、トルゲートで道を確認する。

係りの小父さんが地図を呉れて説明を、その時、後からクラクション! 地図だけ貰って早々駆け出す。

隠居の老人が、何をのんびりとと、思ったのであろう。   お邪魔しました!


21号へ出て即、旧中山道に入る。 いっぺんに自動車は少なく狭い道幅、こちらは中山道・柏原宿

古い町屋も残り街並がいかにも落ち着いた雰囲気、少し道草をと、ゆっくり走り駐車場を探す。

役場と言う標識を見つけ飛び込む。 降りると役場の跡で今は柏原診療所であった。

診療所で伺うと、どうぞ利用下さいとのことで、親切な心使いに感謝する。

名古屋と違い、この辺りは標高が180mと高く、東に伊吹山、西に鈴鹿山脈の霊仙山に挟まれ

日本海と太平洋の風の通り道で冬は雪が多く寒い所、その為、さすがに涼しく24度と快適。


柏原宿

   柏原宿は中山道67宿の60番目の宿場町で近江8宿の内で一番、宿の長さが長く13町(1.4km)あり、

   1843年の調べでは人口1468人、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場5軒、旅籠22軒、造酒屋3軒、もぐさ屋

   9軒、煮売屋12軒あり、大いに賑わい。 幕末の動乱には8千人の武士や足軽が宿泊したと言われている。





中山道と言うと裏街道とか女道とか呼ばれ東海道より郷愁を感じるところ、町並みが

綺麗にされていて中山道・柏原宿の石碑も真新しく、地域の人たちの心意気が伝わってくる。






今は静まり返り猫の子も見えないが往時は江戸や京へと旅人が行きかい賑わったのであろう。

雪の多いところ道路中央に除雪用の噴水口が整備されている。





診療所を出て北へ歩くと、初めてお婆さんと出会う。 案内所でもないかと訊ねて見ると、

其処に柏原宿歴史館があると言われて覗いて見る。



柏原宿歴史館入口

古い造りの民家の様で石畳の玄関前より入いる。 左手は喫茶店となり正面が出札となっている。

係員が案内をしてくれて、ビデオでの説明がはじめられる。

建物は大正6年に建てられた民家を改築したとのことで、よき時代の雰囲気を持った家である。


一階は座敷と展示場からなり座敷は利用者に食事もできる様になっていた。

展示物は問屋場の大福帳や萬留帳等の古文書や、小判、1分銀等の貨幣、それに

当時の旅人の携帯品である印籠、キセル、手鏡、折畳み枕、雨合羽、菅笠などが並び、

地元の特産であった「伊吹もぐさ」は旅の携帯品として又、土産としても重宝で往時は、

もぐさ屋が10軒もあったが、今ではその老舗・亀屋左京商店一軒が残っていると言う。

奉行所の高札があり、往来する荷物の重さや運ぶ人足数の制限について記されていた。

それに、皇女和宮が将軍家茂との結婚のため江戸に向かう途中の本陣宿泊関連文書や

切支丹取締りの宗門改帳等も展示されている。 2階には歌川広重と渓斎英泉の

二人によって描かれた「木曾街道六十九次」の版画複製が飾られている。



展示風景




近江・美濃国境に以前建てられていた札

近江と美濃の国境は50cm程の小川が流れ近江の旅籠と美濃の旅籠が隣接し

旅人同士が寝ながら障子越しに旅話ができたといわれる所であったそうだ。



柏原宿歴史館裏庭





柏原宿歴史館正面









柏原宿歴史館をでて西へ行くと右側に大きな中仙道・柏原宿の碑が立ちその先に日枝神社がある。





日枝神社







左手角には元造り酒屋の亀屋左京の分家跡がある。

兎に角、この街は亀屋一族で栄えていたようである。




旅籠や・ 三寶屋






明星山薬師への道標






旅籠や・麻屋

柏原宿は規模が大きく木曽街道69宿の4番目の宿高だけに旅籠屋がやはり目に付く。

しかし、現在は一軒の旅館もないそうで、これらの旅籠やさんは何をして生計を維持

されているのか、従来の構えを維持するのも物入りで大変だろうが、その苦労が窺がえる。

やはり、皆さんが遺して行く誇りとこだわりを持つからであろう。



かなり古い町屋





柏原宿でただ一軒現存する郷宿跡の加藤家。

*郷宿とは脇本陣と旅籠の中間で武士や公用で旅する庄屋等の泊まる所





旅籠屋・堺屋






一里塚の碑

バス停の看板の先に見えるのが一里塚の代変わりの榎木






柏原宿見付け、ここから東へ13丁(約1400m)柏原宿が始まる。 

柏原宿の西端、昔も今も変わりなしとあるが、確かによく留めている。 






老木の松並木が残り旧中山道の風情を漂わす。 旅人の夏場は日光を冬場は寒風を

防ぎ旅の心地よさを守って来たのであろう。 




北畠具行卿の墓地

柏原宿の西のはずれに街道より右手に獣道のような道を山中に5分程入ると

墓場があり其処に北畠具行卿の墓があるというので行って見たが、猿除けか

電流の流れた線が引かれ入る事ができず、墓碑は見ることが出来なかった。


* 北畠具行卿は鎌倉末期の公家で後醍醐天皇の側近として仕え、1331年

後醍醐天皇を擁立した倒幕計画がなされると具行も中心メンバーとして挙兵したが

幕府軍に捕らえられ鎌倉への途中、この地に留まり護送する京極高氏により幕府への

助命嘆願を行なうが聞き入れられず、この地で斬殺処刑される。

 高氏も具行の丁重な感謝に、別れを惜しんだと伝えられている。



  ここを見て折り返し東へと戻る。 

柏原宿歴史館を過ぎ更に東へと歩く。 今では国道21号線が走り何時の間にか中仙道に取って

替わり街並は取り残されたが、それが今の素朴さを遺し相変わらず静かな佇まいの

町並みは何とも代えがたい落ち着きを与えてくれる。





年寄とは町奉行の下働きをする名誉職で庄屋等の名主が行なう行政の仕事で

手当てが少なくて職業としては成り立たなかったそうだ。



年寄、山根孫九郎とある。






 常夜灯のある街道の眺め、上には街灯も見える。






造り酒屋、年寄・山田東作とある。






弁柄格子に白い提灯を吊るした町屋






柏原宿一の伊吹もぐさ屋の老舗・かめや。 固く閉ざされた門の外灯が一際目に付く。






かめや・亀屋左京商店

この店の中興の祖と言われる6代目・七兵衛は、典型的な近江商人の一人で、二十歳の時、

思い立って江戸へ商いに出かけ巧みに伊吹もぐさを江戸中に売り込み、更に全国に広める為、

 広重が「木曾街道六十九次」の中で描いた亀屋の絵に真似て店の造りまで改造したという。

その建物が現在も残されていて、店を入った所に大きな長い眉毛の福助人形が置かれ、

横にはケヤキに彫られた天井につきそうな看板が置かれていて江戸時代を見るようである。

店内の撮影は、お断りしているとのことで、残念ながらできなかった。


* 福助人形はこちらの亀屋のものが元祖と言われ、天明年間に生まれた福助と言う正直者の

商い熱心な番頭がいてどんな小さな商いでも真心で努め、その結果商いが繁盛し主人も

福助を大事にした。 やがて、この話しを伏見の人形屋が耳にし、福を招く縁起ものとして

福助の姿を人形にした。 それが大流行し商店の店先に飾られる様になったという。  

又、歌川広重の木曽街道69次の柏原の絵に巨大福助が描かれており有名であった  

ことを物語っている。



本陣跡、年寄・南部辰右衛門とあり。

亀屋とは反対側には本陣跡があり皇女和宮が将軍家茂との結婚のため江戸への途中投宿した所である。

石碑には「文久元年10月24日、当日晴れ、翌日、赤坂宿泊り木曽路へ」 とある。

当時は攘夷派の妨害の虞もあり、東海道を避け中山道を利用したと言われている。


その時の一行は4144人、使った米は1500俵と伝えられ、人足1万6千人うち馬士千人、馬千匹、

薪4千5百束、わらじ千足などを準備した記され、当時の人口2000人程度の村で、その段取りや受け容れには

計り知れぬ苦労もあっただろうが、賑やかなものであったに違いない。 

NHK・TVドラマで「篤姫」に人気が湧いているが、やがて皇女和宮も大奥へお目見えとなろう。


因みに徳川幕府の将軍達は当初は上洛の際、地元の土豪の邸を借りたりしていたが

三代・家光の代には柏原御殿を建て都度利用していたが、本陣なども整備され

幕府も安定して来ると、元禄時代には御殿を閉鎖されたと言う。



医師・年寄 堤覚之丞と書かれ、現在も診療を続けられている。


つづく   HOME