萩と山陽道の旅
2013.5.1〜5.4
福山〜尾道〜呉〜広島〜萩〜山口〜防府〜岩国〜

連休に山陽道を通り長州・萩まで息子とドライブ旅行に出かけた。 何せ長距離なので途中休憩が

必要で、まず福山市で鞆の浦を見て、尾道で1泊休憩し萩にたどり着いた。 萩を見物して萩で泊り

帰りは山口を見て、防府の毛利邸による。 次いで岩国で泊まり、翌日、岩国の錦帯橋公園を散策

して帰えった、と言う膝栗毛ならぬ1400kmのドライブの旅である。


まず初めに、旅はやっぱり天候で楽しさが半分は決められる。 そこで週間予報と長期予報を見比べ

宿の予約にはいった。 連休のこと、早くからめぼしい宿は満席。 あの手この手を使って、何とか確保

にこぎつけた。 かいあって当日は五月晴れ後は交通渋滞の心配だけ、避けるため朝6時に出発する。


名古屋高速もガラあきで、少し眠いが早起きの得がある様だ。 名古屋高速から東名阪道へ入るが

こちらも、順調に走る。 後は何時も混む四日市の渋滞箇所をぬければ亀山インターの渋滞だけである。

早起きの3文の徳も、ご利益がありそうだ。 車は四日市を過ぎ、亀山の新名神への乗り入れも巧く行き

草津までぶんぶんとエンジンは快調に廻る。 何時の間にか眠気眼が覚め、朝の気分の良さを感じながら

名神高速に合流。 京都から大山崎をぬけ吹田へ。 これから中国自動車道に入る。 通常だと池田から

神戸までがいつも渋滞区間であるが車はよく流れている。 どうやら3文の徳は、まだ効いている様である。


この辺りは高度成長期に開発され、すっかり神戸まで建物が続いている。 神戸ジャンクションより山陽道

に入いり、山岳地帯を姫路に向け走る。 姫路を越え竜野西が過ぎると、急激に道は南下し、瀬戸内側を

赤穂をぬけて備前に入る。 昔ならば国境を越えることであり、福石PAで一息入れ、運転を交替する。

備前からは、また山コースとなり、岡山を越えて倉敷へ入ると、水島港が近く、また瀬戸内海近くを走り

福山東ICで降りて244号線を南下、最初の観光ポイントである「鞆の浦」に向う。 鞆の浦は沼隈半島南端

にある鞆港周辺地域の歴史的地区で万葉集にも鞆の浦として詠われた所で、瀬戸内海の潮の分疑点に

当たり、多くの船の潮待ちの溜まり場として近世まで知られていたが、明治以降鉄道の発達と汽船の就航で

潮待ちもなくなり、置き去られ、古い街並みが残り、最近は歴史と観光のポイントとして人気が出ている。

また風光明媚なことから国立公園法により、最初に指定された地区の一つである(瀬戸内海国立公園)。

「鞆の浦」は沼隈半島の端にあった。 車を留めて散策とする。 観光センターで案内書を貰い、持時間

により、色々な観光コースが選べる。 こちらは1時間半コースで、まず安国寺を見る。

福山・鞆の浦


安国寺

こちらは海からは裏通りにあり、重要文化財の釈迦堂を持ち臨済宗妙心寺派の寺院で

鎌倉時代に金宝寺として創建され、南北時代、足利尊氏により安国寺と改称された。

安土桃山時代に毛利輝元、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)により再建された。 恵瓊は

毛利氏の外交担当の僧として仕え、元は安国寺に出家し、京都・東福寺にも入り恵心の

教えを受け、恵心と毛利隆元との親交があったことから毛利氏に仕える。 信長が本能寺

で討死した際、羽柴秀吉と毛利氏との備中高松城の戦いの休戦交渉も恵瓊がまとめた。

三門を入ると禅宗特有の花窓を持った金堂が風化した弁がらの紅黒い塗りが年月をへた

美しさで国宝の姿を見せる。 安国寺にまいった後、鞆港の方へと歩む。 古い街並みが

並び、この辺り一角に歴史的旧跡が多く残っている。 一つは坂本竜馬率いる海援隊の

「いろは丸と紀州藩・明光丸の衝突事件」の処理の為、この地が舞台となった。


鞆町の古い街並


いろは丸事件

本事件は1867年5月23時頃に伊予大洲藩所有で海援隊が借り受けて長崎港から大阪に向かって

いた「いろは丸」と、長崎港に向かっていた紀州藩・軍艦・明光丸が鞆港の南東の宇治島付近で衝突

し、いろは丸は沈没したことから、竜馬と海援隊士などいろは丸乗組員は明光丸に乗り移って、鞆の浦

に上陸した。竜馬は紀州藩の用意した升屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を開始したが、

交渉がまとまらぬ内に明光丸が長崎に向けて出港し、再交渉を行う為に後を追った。 長崎奉行所で海

 援隊と土佐藩は紀州藩と積荷の賠償を求め明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ原因を追及した。

紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、竜馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。

さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。 これが日本で初の海難審判とされている。




坂本竜馬宿泊跡、船問屋・桝屋清右衛門宅




桝屋清右衛門宅で見つかった天井裏の竜馬の隠れ部屋




竜馬のいろは丸事件談判の町屋(旧魚屋万蔵宅)




対潮楼

福禅寺の対潮楼はいろは丸事件の談判跡であるが、また1711年、朝鮮通信使

がこちらに逗留し、客殿からの海の景観を「日東第一形勝」と賞賛し、従事官

李邦彦が、その書を残し、正使・洪啓禧が客殿を「対潮楼」と命名している。


いろは丸展示館、江戸時代の倉庫で、いろは丸から見つかった
多くの遺品が展示され、沈没船の状況などが説明されている。




いろはまる衝突の絵図、左、紀州藩軍艦




いろは丸から引き上げられた部品

二つ目の歴史は幕末の新政府つくりの始まりとなった「堺町門の変」である。

七卿都落ち事件

堺町門の変は1863年の8月、薩摩と会津藩など公武合体派が画策した政変で、失脚した三条実美ら七郷が

都から追放された事件で長州兵と共に兵庫津より長州藩の三田尻を目指した時、鞆港にも寄り、旧保命酒屋

の太田家にも泊まり、途中、悪天候で徳山に上陸、こちらから陸路、長州に向かったと言う。




鞆七卿都落の宿舎、以前は福山藩の御用名酒屋の蔵元「中村家」の屋敷で、本陣としても使用され

ていた家柄で明治に太田家の所有となった。 瀬戸内の近世商家建築を代表するもので

重要文化財に指定されている。


家・内部



江戸時代に栄えた鞆の代表的な商家、土蔵の基礎の長い石が特徴




鞆の浦港

鞆港は江戸時代の姿を残し、波止に突き出た常夜灯や船着場、漆喰の土蔵や商家の

家並み、左手には弁天島が見え、島々がつながり穏やかな海とが往時を残している。


他にも街を一望できる中央の古城跡には歴史館が、紀州藩の宿舎となった円福寺は東海岸に

ある。 港の奥には福島藩藩主・阿部正弘の別邸跡や福山城の長屋門などもあり、落ち着いて

みると、奥が深い街である。 昼が遅くなって、いろは丸展示館の隣にある古いうどん屋に

入り、天ぷらうどんを頼む。 店主の小父さんが一人で、うどんつくりからサービスからレジ

まで裁いているが、追われづめの状態。 店を眺めると、瀬戸内に関係のある志賀直哉や

林芙美子など小説家や文学系の人物の書など資料を集め展示して店主の趣向が窺える。

食べ終え展示の資料を見ていると、店の小父さんが話し出した。 ” 会社をやめて、8年前

に、こちらに遊びに来た時、この古い家が空家になっていた。 欲しくなり直ぐ買った。 此処

を改造し喫茶店でも始め様と、自分でこつこつ改修し、始めたが失敗。 それでも、こちらは

観光客があるので、うどん屋でもと、習いに行き始め出したと言う。 その間集めた資料が

これだけと言う。 自分の暖めていたことを始めたが、現実は忙しく大変なようだが・・・・ 

店を開いたことに誇りを持っていてた。 嘗ては腕利きの企業戦士だったのであろう。


尾道・千光寺山公園

千休寺公園の藤とツツジ

小父さんに別れを告げ鞆の浦の沼隈半島南端を海に沿って廻り、国道2号線に出て尾道へと向う。

今日の宿は尾道国際ホテルに予約している。 ホテルに入る前に尾道の千光寺山公園に登る。

千光寺山は標高144.2mの山で海側から廻り込んで西側に登山道はあった。 かなり狭く対向車

がくると厳しい道幅である。 幸い対向車に出会うことなく山の駐車場につく。 公園は山頂から

 中腹にかけて広がり、素晴らしい藤の花が盛りで、ツツジや柴桜も咲き誇り、初夏盛りである。

園内には市美術館や文学のこみちなどもあり、ぶらぶらと10分程で頂上に登りつく。 展望台に

登ると、そこには素晴らしい尾道水道や瀬戸内海の島々が広がり四国山脈も、うっすらと見え、

身震いするほどの絶景である。 ”千光寺山よりの展望を見ずして尾道を語るな” と言われるが

これは確かに見るべき価値がある!!

水道には船が行きかい、瀬戸水路の要所であることが分る。 遠くの島波は空と溶け合って、

ダイナミックな雲へとつながって行く。


東は新尾道大橋から尾道の街、尾道水道を挟み対岸は向島の展望



尾道の目玉風景



尾道水道と向島を初め瀬戸の島々、四国の石鎚山は写真では見難い。




水道を行きかう船

展望台より中腹にある千光寺に曲がりくねった坂道を下りて行く。 文学のこみちに芭蕉の

句や頼山陽、林芙美子など此山には過去多くの著名人の足跡があったのであろう。 それ

だけの魅力を持った景観である。 千光寺は山の崖にへばりつく様に朱塗の本堂があった。

赤や青の幟が立てられ、造りが山岳の普請のためか小ぶりであるが、舞台を持ち、昔は

ロープウエーや自動車もなく、こちらまで登るのは大変な行で、寺に登りつき、この舞台

より瀬戸内海を眺めた時は仏よりも、きっと有り難かったのではなかろうか? やっぱり、

今人と違い、先人達は仏と自然と一体として捉えていたのであろう。

 
   千光寺舞台より                     千光寺ぽんぽん岩よりの尾道水道と向島ドック

千光寺は真言宗の寺で本堂は1686年の建立で、本尊は千手観音で秘仏とされている。 鐘楼は除夜

の鐘で知られた尾道のシンボルでもある。 今はついているのか御開帳で御本尊を拝むことも出来た。

 小柄なご本尊であった。 名残を残し千光寺山公園を下り、ホテルへと急ぐ。 ホテルは尾道駅の西500m

程の尾道水道畔の所にあった。 こじんまりしたシティーホテルで、ビジネスホテルに近い感じ。 


尾道国際ホテル

ホテルにテェックインする。 部屋はツイーンであるが3ベットでも余裕のある広さであった。

夕食の予約をしていなかったので、フロントで街の様子を尋ねる。 やはり食事するには駅界隈

だそうで、案内地図を貰って外に出る。、駅前に来ると、やはり賑やかである。 山手を見ると、

初夏の日は西に傾き、千光寺山に上る時、見かけた城が見える。 夕日を浴び美しい姿である。

尾道は嘗ては造船の街であったが、寺の多い街でもあるが、駅前辺りには食事をする手頃な

店が見つからない。 息子が寿司屋か名物のラーメンでも食べるかと、言うが、それもやめて

結局、ホテルに戻る。 どうやら尾道は夜の街ではなく、落ち着いた昼の街の様な気がする。


結局、ホテルのレストランで和定食を頼み、広島の銘酒・賀茂鶴を貰う。 息子はカツ定食を

注文していた。 尾道に城があったのか、気になり訊ねて見ると、なんと尾道商工会が街興し

のために弘前城を模し観光用に建てたそうだが、歴史的裏づけのないことから物議をかもし

現在は閉鎖されていると言う。 しかし、よく目立ち観光には充分役立っているのでは・・・


駅より見る尾道城、




ホテルより見る尾道水道の夕暮れ

尾道は、ホテルの東には小津安二郎縁の老舗旅館や映画やドラマの舞台であり、

やっぱり、自然と、文学と、映画の詩的な街である様だ。 翌朝は息子の希望で呉に

寄って萩に向うことにする。 息子が運転をするというので、「老いては子に従う」の

先人の知恵に則り、息子に任し横でナビゲの役をはたすことにする。 ホテルを出て

尾道ICより山陽自動車道にのり、西へと走る。 今日も天気は快晴で恵まれている。


 三原市をぬけ竹原トンネルを通って高屋へ。  この辺りは赤い石州瓦屋根の集落を 

多く見かける。 独特の赤褐色で鬼瓦は城の様に鯱が乗っていてカッコがいい。やがて

高屋JCTより東広島呉自動車道に入って郷原を通り阿賀ICより185号線で呉に入る。


呉市海事歴史科学館他

市街を走り呉港が近づく。 この辺りは戦時中軍港のため、フェンスがめぐらされ目隠し

された地域であった。 やがて目的の呉市海事歴史科学館に到着するが、駐車場が

見つからず、ゆめタウンに駐車する。 思っていたのとは違い大和ミュージアムは呉港に

面した大きな建物である。 入口広場には海事歴史館らしく「ポセイドンの銅像」が立ち

入口で黄色いチラシを貰う。 チラシは「原爆と戦争展」と書いてあり、是非見て下さい。

と言う。 入場券を買って大和ミュウジアムに入る。 いきなり、戦艦大和が逆光の

中に威容を見せる。 1/10のモデルとは言え、やはり迫力を感じる。 



呉市海事歴史科学館(大和ミュ−ジアム)正門



戦艦大和 10分の1モデル

金色の菊の紋章を輝かせ前6門、後3門の大砲を構える。 見たこともないが、戦争体験者には

最後の頼りの戦艦で、在りし日の威容が迫ってくる。 昭和15年8月に呉海軍工廠で進水し

連合軍の進攻に対して沖縄方面航空作戦で米機動部隊の猛攻撃を受け、1945年4月7日、

坊の岬沖(薩摩半島沖)で撃沈され海の藻屑と消えた。 乗員2,740名が戦死した。 吹き抜け

になった大和展示広場は一階と二階から見ることが出来、見学する人たちの表情は、何かを求

めて凝視している様で、普通一般の展示館とは異質の感じを受けた。 夫々の思いをもって

この会場に来ているのであろう。 


2Fより見る同、大和 



海底に沈んだ大和の状態の模型、真っ二つに船体が折れている。




特殊潜航艇




ゼロ式艦上戦闘機62型
この戦闘機は太平洋戦争中エンジントラブルで琵琶湖に不時着したものを引き上げた
もので、この機と同じものが大戦では活躍したが、戦争末期には特攻機として体当たり
攻撃に利用され多くの若い命を失くした。



戦艦・陸奥のスクリュー

その他、陸奥の錨など海軍兵器の実物が数多く展示されていて、それと明治以降の日本の近代化と海軍の

歴史そのものである「呉の歴史」が表示されている。 尚、入口で貰った「原爆と戦争展」を4階で開催して

いると言うので行ってみた。 こちらは被爆市民と戦争体験者よりの多くの体験談を聞き取り、遺品や資料

と共に展示されていて、展示への賛同署名と戦争の愚かさを訴えっていた。


ミュウジアム館長の趣意書

「技術というモノが持つ素晴らしい一面と同時に、多くの悲劇を生む要素をも持っている」

と書かれている様に、原発問題もしかり、人間のおろかさをよく自覚しないと、不幸を繰り返すことになる。


大和ミュウジアムのあと隣に海上自衛隊呉史料館があるので、そちらも見ることにする。

自衛隊の広報を目的とした施設で無料であった。 内容は海上自衛隊の歴史や装備品の紹介

などが展示されており、1階部分では海上自衛隊の歴史について、2階は機雷の脅威と掃海艇の活躍、

3階は目玉と言える実物の潜水艦の「あきしお」の艦内が一部展示され内部まで見学が出来た。その他

 潜水艦の模型や絵図や映像などの資料も紹介していた。


潜水艦・あきしお




「あきしお」艦内




海上自衛隊・呉港風景

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