第5日 エステルゴム、センテンドレ



今日はブタペストまで280kmの行程、途中ドナウ・ベンドにあるハンガリーの古都エステルゴム

を見て、バロックの美術館と言われるセンテンドレによりブタペストに向う。

ウイーンを出て一車線の草原地帯を走る。 車は少なく、出会う車もポツポツ

運転手には気持ちのいいコースである。 間もなくハンガリーに入る、



大草原を走る


寄せ棟の三角屋根に二本の煙突を持った20坪程の民家が続き、小さい町マルドを抜けると、

高いポプラ並木の綺麗な道となり、スロバキヤの国境の近くを通る。

すると、水をたっぷり湛えたドナウに出会う。 川岸には白樺の並木があり、細波が

見られる。  これぞ美しきドナウ!  周辺は自然のままで木も茂っている。

バス内に美しき青きドナウの曲が流れる。 暫らくすると、道の袂にセメント工場が建っていた。

こんな平原で何処に原料があるのかと思ったら、前方に小高い山が見えている。

心配することはないと、ひと安心。 

やがてエステルゴムに到着、エステルゴム大聖堂の下にある大きなレストランに入る。

聞く所によると、ビールメイカーの経営らしい。  入口を入ると、

”コンニチワ!” とウエイターが向えてくれる。  気分がいい!

 中ではピアノ演奏がなされていた ♪♪

食事を済まし、坂道を上がると、大聖堂の前に出た広場になっていて街が一望、見晴らしが良い。

大聖堂は下がローマのパンテオンの正面の様なデザイン、上はドーム型の屋根、周囲を

柱列で取り囲んだロシア正教風の雰囲気をもっている。

 
現地の中年の男性ガイドが待っていて、早速、案内をして呉れる。

素晴らしいイントネーションで、知識もレベルも高い、自由化になってから

知識人が賃金の高い観光業界に移って来ているとの事だった。


ハンガリーはアジアからやって来たマジャール人で、 当初はシャーマニズムを寄り所としていたが

西暦1000年にイシュトバーン1世がドナウを望む、この丘に都を定め、王宮とカトリックの

大聖堂を造り、キリスト教国として出発した。 その後、13世紀蒙古に攻められ、それを切欠に

ブタペストに遷都する。 更に16世紀に入り、トルコが侵入し破壊されたが

礼拝堂だけが残り、大聖堂は19世紀に至りネオクラシク様式に建て替えられた。

現在カトリックの総本山となっており、ハンガリー1の大きさを誇っている。 人口は2万8千人




エステルゴム大聖堂の従事者


内部に入ると、140年前の物らしく、明るく、ごてごてした装飾もなくスッキリしている。

ただ祭壇の”聖母マリヤの昇天”の絵画(イタリヤ人の作)の大きさに驚かされる。

聖堂内の隅に唯一残った礼拝堂は、ルネッサン期に建てられた物では

ヨーロッパでイタリヤを除き、一番古いと言われる。

聖堂を出て、ドナウの側に行くと、名前の通り、川が大きく曲がり眺めが素晴らしい。

今日もドナウは夕日を受けて、とうとうと流れていた。




ドナウ・ベンドの眺め対岸はスロバキア


第二次大戦前は対岸のシュトロボの街と橋で行き来が出来たが爆撃で橋脚だけが残り、

今は舟で行き来をしていると言っていた。  橋の復興が両岸の人達の願いと言う。

エステルゴムを出て、ドナウに沿ってバスは走る。 この辺りのドナウは本当に美しい。

日本の川はコンクリートで護岸されているが、此方は草も生え、木も茂り水鳥もいて

並木道が続き、昔と変わらない姿を見せているよう。

やがて、小高い山が川の傍にあり、その上に石造りの要塞(ミシェグラード)があり、

昔、蒙古が攻めてきた時に、ここで守ったらしい。

砦を越えると、
センテンドレに着いた。  

現在、人口2万1千の街に、15以上の美術館を持ち、若い芸術家が多いと言われる。

セルビア人が多く、ハンガリーでも有数のセルビア文化の残った町と言う。

坂をあがると、建ちの低い箱庭のような店屋が並び、道が不規則に入り込み、白い壁が多い、

民芸品や美術品、刺繍衣装、等を売っている。
 ここで暫らく解散となる。   

遠くにも行けず、店屋をぶらぶらと覗き、町の外れにある店でアイスクリームを貰って時間を潰す。

皆が戻り、バスは走り出す。 ブタペストまで19km、やがて市内に入る。

ハンガリーは人口1千万、ブタペストは200万人 13世紀に都がエステルゴムより移される

97%がハンガリー人で残りはドイツ、ルーマニアその他となっている。

第一次大戦でドイツ、ルーマニア、ブルガリヤと共に参戦した関係もありドイツ人が多い。

従って、ドイツからの投資も盛んと言う。


街は夕焼に染まり、暫らく走ると、古代ローマの遺跡、柱や水道橋の跡があり、

更に右手には、円形劇場の遺跡も見えていた。

やっと、今日の行程も終わり、ホテル(Novotel.Centrum)に着く。  大きいホテルである。

ホテルに荷物を置き、今夜は街の有名な民芸酒場で、夕食となる。


酒場に行くと、入口でウエイターがパーリンカ(杏の蒸留酒)で歓待をして呉れる。

皆さん口にして、きついのに驚いていた。 ウエイターの横ではバイオリン弾きが

知らない曲を♪♪♪と、すすり泣くような音色で迎えてくれる。

大きなワイン樽を横にした輪切りにした物を部屋にして、3・4人の客が入れる。

その並んだ間を中に行くと、大きい部屋があり、そこに通された。

舞台には騎馬民族らしく馬車の車輪が壁に掛かり、弦楽の4重奏団がムードを盛り上げていた。

テーブルには桜色のクロスが敷かれ、燭台には赤色の蝋燭が燈っていた。

黒いベストを着たウエイターが陶磁器の壷に入ったワインと黒いパンを持って来て呉れた。

ワインのゴブレットも陶磁器製である。ワインがつがれ、誰かが乾杯! の声。

舞台では、赤いスカートにブーツをはく女性と白いシャツに黒いズボンで

ブーツをはく男性が出て来て、くるくる廻って手を叩き、民族舞踊を踊る。

コサックダンス程、飛び上らないが、良く似た踊りである。

今夜のメインデイシュのグヤ−シュも出てきて、宴は更に盛り上る。

牛肉とジャガ芋、人参等の野菜をパブリカを混ぜて煮た料理

舞台は替って、黒いハットの庇が上向いた帽子を被った牧童風の男達が、

鞭を鳴らし踊ったり、手を鳴らし太腿や、脹脛をテンポ良く叩いて踊る。

宴もやがて終わり、心地よい気分でホテルに帰る。





第6日 ブタペスト市内


朝、目が醒める、天気は良さそうだが、少し薄曇、前の高架道路は、もう勤めの車が走る。

1Fのガーデンの見える食堂でビュフェスタイルの朝食を済まし、バスで市内観光に出発する。

最初にブダペストのブダ地区に行く、ゲレルトの丘に上がると、辺りは紅葉していて、

眺めが素晴らしい。 *
19世紀初期ハプスブルグ家がハンガリーの反乱を押さえる為、要塞を造った

ここからはドナウを挟んでブタ地区とペスト地区が手に取る様に見える。

 ブタ地区は宮殿が直ぐ傍に、ペスト地区は国会議事堂や、イシュトバーン聖堂の高い塔が見える。

川にはマルギット橋を先頭に鎖橋、エリザベート橋、自由橋と両岸を繋いでいる。

 我々が帰りかけると、大道芸人のオジさん(ジプシー?)

がバイオリンを弾きだしたが、誰も投げ銭をする人もなし、残念!

丘を降りてエリザベート橋を渡り、ブタペストで一番の有名な通りバーチイ通りを抜け、

川沿いより王宮、マーチャ−シュ教会、鎖橋を左に見てオペラ座に出る。

 外観はウイ−ンの物と、よくにている。 現在一行は日本に興行に行っているとの事。

その前を抜け綺麗な並木通りの突き当たりに、高い記念碑が見える。

ここが英雄広場で、ハンガリー建国千年記念に造られた広場である。 

記念碑の先には十字と冠を持つ大天使ガ
ブリエルを戴き両袖に扇情に並ぶ柱の間には、

歴代の国王や英雄の像が並んでいる。 


英雄広場


大きい敷地は石が敷かれ、左奥には西洋美術館、右奥には現代美術館がある。

この裏側は市民公園となっており、バスから見る事にする。

園内は樹々が茂り緑の公園で動物園があり、ネオクラシックの宮殿のような温泉があり、

その他、千年祭の時、博覧会が開かれ、その時のパピリオンが残されている。

この後、イシュトバーン大聖堂へと走り、途中リストが住んでいたマンション(記念館)の前を通り

大聖堂に着く。  正面入口は幅広い階段があり、その上にドーム型の屋根を持った荘厳な大聖堂。

 1851年に着工し、1906年に完成したと言われる。 外観は排気ガスで

黒く汚れていて年代より古く見える。 中に入ると、こげ茶色の大理石が使われ、

 エステルゴムの聖堂より暗く、丸いネオルネサンス式で、中央祭壇には聖イシュトバーンの彫像が

置かれていた。 これは彼がハンガリーを建国し、偉大であった為1083年に聖人となった為と言う。


聖堂を出て、国会議事堂(ヨーロッパで2番目に大きい)を見ながら又、ブタの方へマルギット橋を渡る。

マルギット島は古くローマ時代から橋で結ばれ、13世紀蒙古に攻められた時、危険を感じた王は

王女マルギットを神に捧げる為、マルギット島に修道院を建て彼女に生涯祈らせた。

その効あり、蒙古はその後、来る事はなかったと言う伝説がある。

又、トルコ占領時代はハレム化していた。 今はホテルや温泉もあり市民の公園となっている。

橋を渡ると、トルコ占領時代の将軍グル・ババの像があり、その先にはトルコ風呂も残っている。

クサリ橋まで来ると、橋の両側にライオン像ががあり、その舌を掘り忘れた作家は

不評を気にし自殺したという。 しかし、今はこの橋がドナウで一番綺麗と言われる。  



鎖橋とライオン像


この後王宮へ行く。

次は王宮、ここは対岸のペスト側から見た方が美しい。 水色のドームの屋根に

柱列の並ぶハサードである。
 元は13世紀に建てられ、

15世紀マーチャーシュ1世の時にはハンガリールネッサンスと言われ、一番栄えた。

しかし、16世紀にはトルコに破壊された。  十七世紀に入り、ハプスブルグ家の支配となり

バロック様式の宮殿となった。   現在は美術館や博物館、図書館として使われている。

中庭に入ると沢山の銅像があり、宮殿の青いドームの前には、サボイのオイエン公の騎馬像もある。



宮殿の青いドーム


ペスト側を見ると、素晴らしい眺めで、町全体がよく見える。  正面に鎖橋が見え、

その奥にイシュトバーン大聖堂が聳え、左には議事堂が見える。



宮殿前遊牧民マジャール人の騎馬像

バスに戻り、漁夫の砦にあるマーチャ−シュ教会へ行く。 漁夫の砦は

スリが多いらしくガイドより注意があった。 階段を登ると大道芸人が二人でバイオリンを弾き、

物売りが何かを売り付けようと声を掛けて来る。 広場に出ると、ジプシー女性が

寄ってきて、ニホンジン? と言う。 確かに、気を付けないといけない様だ。 

もう一人の男は、"折り紙、生け花、酒、鳩・・・”と日本語の単語を並べ呼び掛けて来るが

意図がさっぱり解らない??     正午の教会の鐘がなる。
 
この砦は元ここに漁業組合があり魚市が開かれていたので、この名前が付けられた。

白い石灰石で造られた尖がり帽子の7つの尖塔を回廊でつないだ広場となり

教会の前には中世のペストの終焉記念に建てられた三位一体の像がある。


教会の尖塔には烏の像が乗っかり、マーチャーシュ1世の象徴となっている。

中に入ると赤い大理石が使われ幾何学的な摸様である。 16世紀にオスマントルコに占領され

モスクに利用されていた為か壁の模様も細かく、何処かイスラームの色が残っている。

壁には、やはり烏がリングをくわえた姿が描かれ、王の印となっている。

又、19世紀にはハプスブルグ帝国のフランツヨーゼフ皇帝とエルジェベート王妃が

ハンガーりの王となる為の戴冠式が為された。 この時寺院もゴシックに改装された。

外に出ると日本のTVが土地の子供を使ってロケをしていた。

この後、石畳の敷かれた王宮街のレストランで食事をとり、午後は自由行動となる。


我々は、バーチイ通りに出てぶらぶら歩き、通りは賑やかで、デパ−トも2軒あり、

カフェや陶磁器店、刺繍のクロスや、人形、ワインなどの土産店もある。 通りを北上し、

シェラトンホテルの前より折り返し、買い物をして、少し時間は早いがエルジェベート橋の

停留所でバスに乗る。 ホテルに向うが降りる停留所が解らず、風景を見て、この辺りと思って

手摺にある降車のボタンを押し、降りてみると、何と一つ手前で、テクテクと

一区歩かせてもらった。 お蔭ですっかり、運動もできちゃった!





第7日 フランクフルトへ


これでブタペストともお別れ、荷物を纏めるのも行きがけとは違い気持ちが乗らない。

どうにか詰めて外に出す。 各都市二泊ずつのホテルであるが、荷物纏めは鬱陶しい。

昨日と同じ食堂で朝食をとり、バスで空港へ、飛行機は10:40のLH便、出国手続を済まし

暫らく待合で、やがて改札が始まり飛行機に乗りこむ。

座席につき、三列席で通路側の席は開いているので、これはゆったり行けると思っていたら、

時間、間際に外国人の青年が乗りこんできた。    まー しょうが無いか・・・

子供に頼まれて、免税店で買ったマイルドセブンにオマケの時計が付いていて、

その時計を見ていると、”日本からですか?”と隣の青年が聞くので、そうです、と答えると、

”私日本へ行ったことがあります、石井と言うプロテニスの選手は友達です”と言う。

聞いて見ると、彼はハンガリー人でブタペストに住み、東京でジュニヤテニスの世界選手権が

あった時、彼は優勝し、石井選手とも友達になった。 浅草や、秋葉原にも行ったと言う。

英語もテニスの国際試合で自然に覚えたとのこと、プロの選手になりたかったが

身長が大きくならなかったので諦め、現在はテニスのエンジニア−をしている。

今日も、ドイツの友達がテニスクラブにいて、頼まれたので手伝いに行くとのことだった。

又、こちらの事も聞かれ、仕事をリタイアし旅行が好きで今回も中欧の三都を廻った、

と答えると、ハピーですねと言っていた。  彼にマイルドセブンの時計をあげると、

喜んで、又フランクフルトに来た時は連絡して下さいと、何か紙に書いたメモをくれた。 

見ると彼の住所だった。  



機内で同席したS氏


間もなくフランクフルト到着のアナウンスがあり、機はどんどん高度を下げ、無事到着。

彼とも握手を交わして別れ、我々は予定通り午後のフランクフルト発LH736便で名古屋に飛ぶ。  

(この出会いが、こんな展開になるとは・・・・次回アップロードします)


結 す び

今回中欧の三国は、奇しくも歴史の一時期、ヨ−ロッパで風靡したハプスブルグ家が治めた国々で

過去、紛争の歴史を持ちながらも、夫々、文化を発展させてきた。

中世ヨーロッパで起きたルネッサンスは自然を科学的にとらえる視点から自然科学を発展させ

新しい物を創り出して来た。  今日では土星へも探査機を送りだし、生命科学の世界では

人工皮膚の合成から、人工臓器へと進み、いよいよ神の領域まで入ろうとしている。

然るに、平和の世界を実現するという社会科学は19世紀でストップしてしまった侭である。

ヨーロッパでは国境の壁を無くし、EUという世界の完成に努力している。

平和についても、全ての国々が国益、国益と言わず、自然科学並の力を入れた

取組みが出来ないものだろうか? こんな思いで旅を終えた。

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