第5日ナガルコットへ



ポカラ空港にて、偶然にも又、日本人のK氏と合い、カトマンズまで一緒の飛行機となる。

彼が浮かぬ顔をしているので様子を聞いてみると、トレキングの後、ポカラに戻り、インド人のガイドが

時間があるので、ポカラ市内を案内してやると言うので、てっきりサービスかと思っていたら

そうじゃない、と言って、口論となり、すっかり旅の気分をぶち壊されたと、嘆いていた。

国が違うと常識や習慣も違うので、特に前もっての確認が必要だねと、答えると、彼も頷いていた。

旅の目的はアドベンチャーも一部であり、トラブルも旅の一つの要素であり、特に発展途上国では、

注意が必要であろう。 国に依っては、有る者が、無い者に施すことを当然とする所も有るから・・・

カトマンズに着く頃には、彼の気持も和んでいたので、なによりだった。


K氏と別れて、カトマンズ空港を出ると、ゴルフ帽をかぶった二人の青年がブラカードを持って

迎えてくれたので、運チャンの客引き攻勢は避ける事が出来た。

彼等は、恨めしそうに我々を見ていた。


車に乗りこみ、早速ナガルコットへ向う。   聞く所に依ると、一人は運転手、

もう一人はガイドで、ポカラに住むビルマ系ネパリ人と言う。

ナガルコットへは約1時間ぐらい掛かるらしい。

此方の車はインドのイギリス統治の流れか左ハンドルである。


埃ぽい雑踏のカトマンズの市内を抜け、暫らく走ると、道路に遮断機が下り、

車は止められる。 何かと聞くと、村に観光税のようなもの??を納めるらしい。

段々、道はカーブが多くなり、なだらかな坂道となる。

道の両側は山岳での土地が痩せているのか、細い松ノ木が生えているが枝が少ない。

ガイドが日本の松はどうかと、聞くので、もっと大きく、太いと答えると驚いていた。

こちらは、標高2100Mあり、ポカラより、かなり涼しい様だ。 

坂を上がり切った所で、ガイドがマナスルが見えると言う。

指差す方に青黒く見えた。 彼の話に依ると、雪がかぶって無いからだと言う。

やがてホテル・カントリービラに到着する。 300Rsを払って彼等とも別れる。


ホテルは切り立った崖の上の松並木の中に建っていた。

玄関を入ると、直ぐに、黒の蝶ネクタイをした色白の男が出てきた。 アチュと歳かっこは似ている。

支配人のダッカですと言って、アチュから聞いておりますと、丁重に迎えて呉れた。

早速、チェックインを済まし、ツイ−ンの部屋に案内してくれた。

シングルでいいんだよと、言うと、此方はオールツインですと言う。 ホントかな??


部屋は、ヒマラヤのパノラマを見る為か、ベッドの高さから窓が切られていて、

寝ながらにして、朝の御来光が見られそう。 しかし、今日は霞みで山は見えない、

 明日は晴れて呉れれば、いいが?


シャワー室に行くと、いやに冷えるので、シャワーを出して置く、ガラスが一向に曇らないので

シャワーに手を触れると、何のことはない水だった。

安ホテルにはよくある事、以前ローマで団体の客が同時に湯を使ったので水に成ったことが有った。

静かだと思って、一番奥の部屋にしたのがいけなかったかと、ふと思った。

フロントに連絡すると、直ぐ来てくれた。 様子を聞くと、直らないので部屋を換わって欲しいという。

まー 、しょうがないかと、変なカッコで、ボイラーの近くの部屋に移動となる。

部屋は同じタイプだった。 早速シャワーを出すと、こちらは直ぐに湯が出てきた。

すっかりぺースをくずされ、シャワーを浴びて、やっと落ち着く。

こういった事も旅ならではと思うことが、楽しくする旅をする秘訣の様だ。


夕飯に一階の食堂へ降りる。 客室は誰も居ないのか声が無い。

食堂を覗くと、此方も 客は居なかった。 唯、曲名の知らない洋楽が流れていた。

今日は自分一人だけのようだ。 右手の奥のカウンターを見ると、係のウエイターが一人居た。

東と北の面は総ガラス張りの見晴らしのよい食堂である。

小さい山並みが幾重にも重なり続いているが、ヒマラヤは霞みの中。

明日は、ここで食事をしながらエベレストが見れれば良いが、・・・


ウエイターがメニューを呉れた。 ダンドリ−チキン、サモサ(春巻き風)、トマトと玉葱炒め煮

それにビールを頼む。 暫らくすると料理が来る。

ウエイターに聞きくと、やはり客は無いと言う。 ダンプスも我々二人、ポカラでも二人だった。

こんな程度で良く経営が成り立つものだ。 ウエイターも少年かと思うほど若い。

余程賃金が安いのであろう。


心地よい音楽が流れ、食堂は独り占め、こんな事はネパールでなきゃ味わえない贅沢。

酔も廻って、いい気分になってしまった、もう部屋に帰らねばと、ふらふらと戻る。

ベッドに寝転がると、心臓の鼓動が高鳴っていた・・・・




第6日ナガルコット


目が醒めると、ベッドのカーテンの隙間から光が見えた。 もう夜が明けた様だ。

カーテンを開けると窓は茜色、今にも太陽が登るところだった。

やはり想像してた通りの御来光である。 黄金色の朝日が周囲の雲を染める。




ベッドより見る日の出

残念ながら雲が多く、眼をこすり、東の空を凝視すれど、ヒマラヤは現われず、

次第に太陽が登り周囲が明るくなるにつれ、前の山並みや段々畑の曲線ばかりが目立ち、

ヒマラヤは見ることが出来なかった。

あきらめ食堂に行く、客は誰も居なかった。 山は相変わらず霞んでいる。

ウエイターの少年がチャイを持って来てくれた。

ジュースとトースト、ダル(豆スープ)とスクランブルエッグを頼む。


昨夜、遅くにチェックインしたのか三人連れの客が入ってきた。 一つ離れた窓際の席に座る。

一人は男でネパリの様、もう二人は黒人の女性、ネパリではない。

彼等は英語で話し込んでいた。 男はどうもガイドの様。 

暫らくして、ふと、彼と眼が合う。 すると彼は”どちらからですか”と、聞く。

カトマンズからと答えると、”ヨー ネーション?”と言うから、あー 国のことかと、

日本の名古屋市から来たと答えると、解からないらしく、東京と大阪の中間にあり、トヨタの有る

人口230万の都市だと、説明すると驚いていた。

話している内に、彼は地元のガイドであり、女性は南アフリカのヨハネスブルグから来た

姉妹と云うことが判った。 アパルトヘイトが廃止され、街は住み良くなったのかと訊ねると

黒人達が街に出てくるが、仕事が見付からず、貧富の差が増しているという。

”貴方達は恵まれて居ますね”と言うと、ソーソーと言って、ナガルコットに家を建てるのが夢よ、と、

ジョークとも本当ともとれる様なことを言っていた。

名古屋の傍に日本のキリマンジャロと呼ばれる信仰の山が有ると話すと、

是非見てみたいと言っていた。

旅から帰って日本のキリマンジャロ(御嶽山)の写真を送ってやると、本当似ていると、ネパールで
作った紙だと言って日本の和紙の様なレターペーパーで礼状を送ってくれた。)




デオキ姉妹とガイド




デオキ姉妹と歩喜人


他に客もなく、すっかり落ち着いた時間を持つことが出来た。

支配人が来て、”今日はどうしますか”と言われ、エベレストも見えないし、どうしようか迷っていると

答えると、内のコックに日本語の解かる者が居るから、彼に案内をさせますと言うので、

デオキ姉妹も誘うと、今からカトマンズに行くとの事で、残念ながらお別れする事となる。


部屋に戻り出かける準備をしていると、人懐こそうな青年が”コンニチワ!”と、入ってきた。

コックのラビンドラですと、言う。 聞いてみると、日本人が泊っていると知ったので、

今日は、お客が無いので、マネージャーに、彼が申し入れたんだと言う。

早速、彼に任し,出かける事とする。

ホテルの裏へ出て急な坂道を降りる。 何処へ行くと聞くと、この下にあるカッテケ村へ行こうと言う。



ラビンドラ紹介の村人と


粘土の渇いた様な、滑りやすい曲りくねった道を40分程歩くと村に着き、一軒の農家に入る。

彼は知っているらしく、オバちゃんと親しく話していた。

暫らくすると、オバちゃんが、チャイを出してくれた。 こちらは言葉も解からないので、

手を合わせ”ナマステ!”と言うと、にっこりと笑い、オバちゃんも”ナマステ!”と答えてくれた。

彼女等の所作を見ていると、自然のテンポで日の出と共に起き、日の入りと共に寝る

といった、ゆるやかな流れの生活を過ごしている様で、遠い昔の原風景を見ているよう。

彼女等は素朴に同じ事を毎日繰り返す変わりの無い中に、幸せを見付けているのであろう。

ヒンズー教では毎月祭りや行事があると言う、これも素朴な生活に潤いを与える

彼らの知恵なのであろうか。 


農家を出て、登り道に入り、段々畑を横に見て、のどかな景色ではあるが、汗はびしょり。

こちらの様子を察して、ラビンドラが直ぐ先で、ひなびた茶店の様な処でジュースを取ってくれた。

一気に飲み、一息つく。 彼の巧い日本語に理由を聞くと、以前、日本に居た事があると言う。

  ネパールでは学校を出ても職がなく、コックにでもなろうと思っていたところ、偶々、

ボランテイアの紹介があり、1年半程、新宿で皿洗いをしていた。

其処で見よう見真似で料理を覚えたと言う。

”お昼には僕が日本のオムレツをつくってあげる”と張りきっている。


汗もおさまりホテルのある丘に向け坂道を登り、ホテルに帰る。 

彼は帰る早々、オムレツを作ってくれた。 出来たのを見ると、

オムレツと言うよりも、オムライスだった。 ケチャップ味のライスが鶏肉と入っており、

懐かしい日本の味だった。

やはり、日本食を食べることが出来、日本語で話せることは、本当に落ち着く。

彼に感謝しなくちゃ。  彼も喜んでくれた。

部屋に帰り際、彼のポケットにチップを渡して別れる。


部屋に戻り、ベットに横たわり、気が付くと1時間ほど寝ていた。

夕食には未だ時間があるので、ナカルコットの街に出て見る。 ホテル前の松並木の

坂道を降りて行くと三差路に出た。 道端の松ノ木の傍に祠があり、ヒンドゥーの神が祀られ

周囲には紅い花びらが沢山散りばめられ、お米などが供えられている。

その前で、額の真中にテイカ(丸い紅)を付け、サリーを纏った女性がお祈りをしている。

彼女達には信仰そのものが、生活の様に見えて来る。

其処を通り抜け広い道に出て行くと、白いストゥ−パ(仏塔)が見え、タルチョ(祈祷旗)を風になびかせている。

傍まで行って見ると尖塔は大きく、ネパールの目と言われる鋭い目が不気味に睨んでいる。

奥の高台まで行くと、ナガルコット一番大きいと言われるクラブヒマラヤが

ラインの城郭の様に夕映えに光っていた。

明日は快晴になってくれれば良いが、いずれにしても明日、山が見えなければホテルを出よう、

と思いながら歩いてるうちに、ホテルに着いた。

食堂に入り、それにしてもホテルを出るのは良いが何処へ行くか?・・・

其処へマネージャーが来て明日はどうしますかと、聞くので、何処かお勧めはと尋ねると

あそこはと、食堂に掛かっている絵を指差す。 寺院のある絵である。

聞いてみると、ネパールの古都でバクタプールと言い、見るべき価値があると言うので、それに決定!

マネージャーがガイドと車とカトマンズにホテルも手配してくれると言う。

行き当たりばったりの旅でも皆が良くしてくれ、すっかり落ち着く。

これで今夜もゆっくり、眠れる。




第七日バクタプールからカトマンズへ


朝起きて見ると、期待していた東の空は、穏やかであるが、山は見えなかった。

朝食をしながら、天気の様子をウエイターに訊ねると、午前中は良くなったとしても、ヒマラヤは

見ることが難しいだろうと言う。   残念ながら、ヒマラヤとの対面を諦めるとするか。

後ろ髪を引かれながら、マネイジャーに車を頼み、チェクアウト(3600Rs)を済ます。

暫らく待つとワゴン車が来た。  スタッフに別れを告げ、車に乗ろうとすると、

コックのラビンドラが”忘れ物”と言う。 見ると、仙人の杖だった。  

”記念に置いていく”と言うと、親指を突き出して笑っていた。


遂にエベレストとも逢えず、ナガルコットを後にする。


ガイドは、30歳後半の理知的な男の様にみえた。

バクタプールまでの時間を聞くと、30分程度で着きますと言う。 行きのガイドと違い無口の様だ。

窓を見るとクラブヒマラヤが遠のいて行く。 天気は良いが春霞が強く遠くは霞んでいる。

温度を見ると24度を指していた。  暖かいはずだ。

畑の麦がもう穂を出し、田園風景の道をそれると、 煉瓦造りの家があちこちに建ち

屋根に大きなパラボラアンテナを揚げている。 やがて店屋が軒を連ねる街に入る。

ガイドがバクタプールの街だと言う。 天秤を担ぐ人や、単車や人込みが多くなった。


バクタプールはカトマンズより古い都で889年に建てられ、12世紀から14世紀にかけて良く栄えたと言われる。)


  町の中をかなり走って賑やかな広場に着いた。  ガイドが、ここがトゥモデイースクエヤ−と言う。

 欧米人と思われる人達も多く見かける。 大きな広場で周囲を寺院が取り囲んでいる。

シバ紳の寺院、ニワリの寺院(女神)、5重の塔等立ち並び、彼の話では、

ここでアメリカ映画の”リトル仏陀”のロケがなされたと言う。

確かに、遠い昔の風景を見ているようだ。




五重塔、下から力士、象、獅子、ガルーダと力を10倍加する像が守っている


広場を出て路地を過ぎ、大きな建物の木戸を潜ると、中は四角い中庭があり、ガイドによると

仏教の5ブラザーの聖人が祀られていると言う。  すると突然5・6歳ぐらいの男の子が寄って来て

矢継ぎ早に、”ナンミョウホウレンゲンキョウ”、”フロムジャパン”、゛グッドラック”と叫ぶ。

相手になると、”ボールペンアル?”と言う、何のことはない、子供の物ねだりである。

ノーボールペンと言うと、ガイドが中に入り、遮ってくれた。

そこを出て左へ向うと、ダルバール広場だ。  高い石の柱の上に初代の王のブロンズがあり、

右手に彫刻の美しい窓を持った55ウインドウパレスと黄金の門がある。

この辺りは世界遺産に登録されていると言う。


ダルバール広場のゴールデンゲートと55窓の宮殿


更に奥には白壁の宮殿があり、ポンプキン寺院と続く、広場の中程に来たとき、

若い男が、日本人と見たのか、いきなり、”ハイターアル?”と言う。

何の事かと聞き返すと、ハイタ−はライターの事で、持っていたら下さい、と言う事らしい。

  アイハブノーと言うと、  ”トモダチ!”と言う。 何のこっちゃ???

以前に中国に行った時にも、ライターとマイルドセブンと言われた事があり、納得できた。


一周してもとの広場に戻り、隅にある店から階段を上がると、マルコポーロと言う看板があり、

ガイドが入れと促すので、又、何か押し売りでも考えているのかと思ったら、

彼が経営してるレストランで、奥さんが出てきて、チャイを出してくれたのには、恐縮しちゃった。

お茶を飲み終わると、運転手が待っているからと、早々に出発する。

それにしても、これだけの人が居るのに日本人に逢わなかったのが不思議に感じる。


人ごみの店屋の並ぶ通りを、クラクションを鳴らしまくり、やっと広い通りに出る。

運転手は痺れを切らしていたのであろう、今度は、やたらスピードを上げる。

古い車なので、余計にキシキシと軋みをあげる。

広い並木道を抜けると、建物が多くなってきた。 カトマンズに入った様だ。 

一段と車が増え、日本の30年も前の車で、街中が排気ガスと埃とエンジン音で凄まじい。

ガイドに、カトマンズの人の所得を訊ねると、

3000Rsから6000Rs(1.9円/R)だと言う。  さもあらんと、納得。


ロイヤルパレスの中央通りに入ると、益々、渋滞する。  交叉点ではお巡りさんがマスクをかけ

大気汚染で交通整理も命がけ?  歳とると後遺症が出るのでは?と人ごとながら・・・

ラトナ公園まで来ると、ガイドが、”ワタルネイム??ワタルネイム?と繰り返す。

よく聞くと、ワタルはHOTELだった。 オテルはよく聞くが、ワタルには参った。

マネイジャーから聞いていた、ネパールインターナショナルというと、運転手は知っていた様で

通りから細い路地に入ると、直ぐ見つけてくれた。  400Rsを払い彼らと別れる。

ホテルは通りから奥まった静かな所にあった。

チェクインを済まし、部屋に入る、ここもツインである。 シングルを頼んでいるのに

何処もツインになっている。 外人観光客へは特別の待遇のようだ。

しかし、ホテルは一番良かった。  一風呂浴びて街に出る。

通りに出ると、排気ガスでむんむんしている。  これじゃ排気ガスのワーストワンは当然だ。

歩けど横断歩道がないのに驚いた。  腹がすいたので、ファミリーレストラン風の店を覗くと

ヨーロッパ人が入っていたので、ここぞと飛びこむ。  小奇麗な店で、女の子が席を案内してくれた。

珍らしいく生ビールもあり、マトンのシシカバブと野菜のかき揚を貰った。

やはり外国人が入っているだけの事はある。 ビールも美味いし、料理も結構いけた。

女の子が愛嬌がいいので、写真を撮らせてもらう。



レストランのウエイトレス


腹ごしらえも済まし、王宮へ行くことにする。  歩き出すと、直ぐ先の様に見えていたが結構距離があった。

歩哨兵が門の前にいて、見学が出来るかと聞くと、駄目だとの事で、外から眺めるだけとなった。

パレスは茶色と白のツートンカラーに塗られ、近代的な建物であった。


王宮前の通りを南下し、旧市街の方へ行こうと、15分程歩くと、斜めに入る道があり、

古い赤茶けたレンガ造りの店屋が奥に向って、軒を連ねる。

その入口はに力車(人力車に自転車を付けた乗り物)がたむろしていた。

ここが旧市街の様だ。 聞いてみると、そうだと言って、力車に乗れと、しつこく言う。

幾らだと聞くと、30Rsと言う。 そこへ他の運チャンが割り込み、25RsでOKと言い、

彼ら同士が口論を始める。 客をほって喧嘩じゃ、たまったものじゃない。

やめたとばかり、歩き出すと一人の運チャンが追っ駆けてきて、20RsでOKと言う。

どうやら話が着いた様で、その車に乗る。 すると、いきなりベルを鳴らし、

それでも未だ足りないのか、オオー! ハイ! ハイ!と声をかけ、

人々は勿論、自転車やオートバイで混み合う道へと割り込んでいく。

彼らも生活の糧を得るための競争が激しく大変で、気が立つているのであろう。


  力車は座席が高く、二階から見ている様で、何時もと風景が違い、飛んでいる様で爽快である。

両側の店々を見て行くと、道路に首から肩から身体中、鞄を掛け、立っているオジちゃんがいる。

どうやら売り物の様で、露天に並べているだけでは、駄目だと、知恵を働かせている様だ。

変わった売り方もあるものだ。 それにしてもあの姿は、相当疲れるだろうな?

こう見て来ると、カトマンズの旧市街はバクタプールより一回り大きく、人混みも多い。

やがて、前に三重屋根の寺院が見えた。 どうやらダルバール広場(王宮広場)に来たようだ。

運チャンが振り返り、未だ乗って欲しそうにしていたが、ここで降ろしてもらう。


ダルバール広場は初め12世紀に開かれ、王宮や、多数の寺院や、仏塔かあり、この辺り一帯は店舗を構えた

商店から露天商まであり、野菜から日用品、家具から美術品とありとあらゆる物が売られている。


行き交う人々は、インド系の顔、チベット系、ビルマ系等、多様の顔が見られ、

服装も色々であるが、全てを包み込んでしまう熱気と喧騒の街である。



広場の取っ掛かりに有る、片手に刀を振り上げ、もう一方で生首を持った閻魔大王の様な像は

シバ紳の化身で(カーラ・バウラブ神像)子供も喜びそうなコミカルな顔をしている。

破壊の神であるシバが何故この様な愛嬌のある化身を遣わしたのか不思議である。


広場の中程には、白亜の博物館や、ピラミットの様に石段を積み、その上に三重の塔を

のっけたシバ寺院がある。  日本や中国で見かけるものとは違い独特で、レンガ色に塗られている。

奥には、シバ神の妻であるバルバテイーの寺院があり、その石段では大勢の人が一服していて、

下には犬がうろつき、鹿か山羊が判らないような動物が何かあさっていて、何とも異様である。

クマリの館まで来ると、男が寄って来て、”クマリ九歳オンナノコ”と日本語で話し掛けてくる。

ガイドか物売りか、それとも物乞いか???

聞いていると、ガイドをしたいらしく、クマリは童女の生き神で、国王が今でも

1年に一度、謁見して政治の吉兆をクマリに占ってもらう様にしていると言う。

男に10Rsを渡すと、少ないと言うので、断わると、男は行ってしまった。


クマリの館の前の広場には露天商が出ていて、仏像や民芸品、アクセサリーや骨董品等を

売っていて、ビデオを撮っていると、今度はアンちゃんがアクセサリーの売込みである。

アクセサリーは要らないというと、民芸品の置物をどうかと言う。 とうとう象の彫刻を買ってしまった。

この売りこみは相当しつこくて根性がある。 若いながら天晴れと言わざるを得ない。


しかし、もっと、ゆっくり、落ち着いて見物させて下さい!  ネパールの観光局さん!!


その後、旧王宮を見る。 こちらはクマリの館と違い、真っ白な漆喰が塗られた建物で、 

門には、二匹の獅子の像が構え、その横には紅い天蓋を被って、紅い衣を纏った

猿紳ハヌマンが宮殿を守っている。  それでも心配なのであろうか衛兵までいた。

現在は国賓等を迎える迎賓館に使われているそうだ。

広場を見終わり、通りに出ると相変わらず力車達が客奪いをしていた。


ホテルに戻り、夕食は食堂に行くのも億劫で、フロントにルームサービスを聞くと、

OKとの事で、ルームサービスで済ます事にする。

遂に今夜はネパール最後の晩となった。





第8日パシュパテイナートへ


今日も良い天気で、柔らかい朝の陽射しが窓に映り、遠くは相変わらず霞んでいる。

ホテルのチェクアウトを済まし通りに出ると、通勤時間かオートバイと自転車がしきり無しに走る。

今日は午後の便で、帰ることにし、午前中にパシュパテイナートへ行くことにする。

こちらはカトマンズの東の外れ聖なる河ガンジスの支流のバクマテイ川の辺にあるネパールでは最高の
ヒンズー教寺院のある聖なる場所で、シバが滞在していたと伝えられている。
シバ寺院は879年に建てられ、それ以来、多数の巡礼者が訪れ、
南アジアでの四大寺
院の一つとなっている。

ホテルの話では、タクシーで行けば、直ぐの距離だと、言うので

タクシーを掴まえることにする。 そう言えば、コックのラビンドラがカトマンズではメーターを付けた

タクシーに乗るのが良いと言っていた。 金額がハッキリするのでぼられる心配がないと。

歩道に立って様子を見ていると、一台がよって来たので、ちらり覗くと、メタ−は無さそうなので

ノーサンキューと断わる。  時間もあるので東の方向にぶらぶら行くとタクシーが来たので

手を挙げると寄って来た。 今度はメタ−が付いていたので乗りこむ。

行き先を告げると走りだし、曲がり角で右へ行く、どうも方向が違うので、確認すると、

大丈夫と言う。 暫らくして、おかしいので磁石を見ると南へ行っている。

ストップ!と言うが、止まらない。  更に大きな声で叫ぶと、渋々止まる。

そのまま降りると、料金を払え!と言うが、アイドンペイ! と返すと、睨みつけて行ってしまった。

しかし、降りたのは良いが、タクシーがいなくて、困ってしまった。

どうするベーか? と思っていると、若者が来たので聞いてみた。 要領は得ないが

”次の交叉点で右に行け”と言っているようで、行って見ると、タクシーがいて、

乗ることが出来た。 今度のタクシーは方角も正しい様だ。


前の運チャンとは愛想も違った。  暫らくすると古い建物のある賑わった道に入る

運転手が車を止める。  幾らだと聞くと200Rsと言うので、300Rsを渡し、

この後、空港に行くから、ここで待って欲しい、と頼んで見学に出かける。


人混みに着いて行くと、広場があり、露天商が沢山出ていて花輪等を売っている。

その脇に小さな寺院があり、石畳の道に出て、更に進むと階段のある大きな石橋に出た。

橋の上には大勢の人がおり、周囲を眺めている。

これが聖なる川バクマテイである。  未だヒマラヤの雪融けが始まらないのか川は水が少なく

汚い川底を覗かしていた。  暖かくなると、ガンジスと同じ様に人々の水浴が見られると言う。

橋の上から川下を見ると川岸に四角い火葬台が五つほど並び、その一つから青白い煙が上がっている。

そこに人だかりがあり、燃え残った遺灰を川へ落としている。 これはヒンズーの習慣と言う。

川上にはシバ神を祀る寺院や、それ意外の神々の寺院や塔が両岸に並んでいる。

橋の袂では、老婆が首飾のような物を買えと言う。


無視して橋を渡るとリンガの塔(シバ神のシンボル)の前でサドゥ−(修行者)と出会い

一瞬、眼が合う。 鋭い目に圧倒され、不気味にさえ感じた。

修行の為か身体は痩せ、日に焼けた顔に赤や白の化粧をし、身にはぼろを纏い、

白髪と長い髭をはやしている。  サドゥ−の中には半年間も

立ちっぱなしの修行をする者もいると聞いた事がある。


石畳は左に曲がり山に向って階段となる。  両側には無数のリンガの塔や祠があり

祠やリンガには、真赤な花弁や供え物がなされ、祈りをしている人もいる。

これらは誰かが、功徳をつむ為、寄進をしたのであろう。

この辺りはやたら犬が多く道に寝そべっている。 人々が殺生をしない為、安心しきっている。

右手の森の中では猿が飛び回っている。  山の頂上を目前にして息が弾み苦しい。 

何処からか笛の音が聞こえる。 インドかイスラムのような哀調の旋律で気持が安らぐ。   

頂上から下りの階段に差し掛かると、カッタ! カッタ! カッタ! カッタ!と

見たこともない楽器とも何ともつかない物を鳴らしてサドウ−が通り抜けて行く。

彼等は軽々と階段を上がって行く、かなり鍛えているのであろう。

坂を降りた所に川が流れていて、大きい寺があるが、ヒンズー教徒以外は

入れなくなっていた。  川に沿って白い塔が幾つも並んでい前を抜け、こちらでは

秋の満月の夜には、ネパールは勿論世界から教徒が集まるそうだ。

帰りは下から川に沿って戻ることにする。 


タクシーのいた場所に来たが、何と居ないではないか???

逃げられた! 100Rsを渡したのは何の足しにもならなかった。

  こちらは又、空港まで乗ってやろうと思っているのに・・・


しかし此方は、なんぼでもタクシーが来て、直ぐ掴まえることが出来た。

空港へは、あっと言う間に着いた。  

これでとうとう、ネパールともお暇、 ナマステ!!

13時50分カトマンズ発 フライトは順調でバンコクでミッドナイトの乗り継ぎ、これは辛かったが

翌朝、無事名古屋到着!!  お疲れさんでした。



ネパールの人達は生活は貧しくとも、精神的には大昔から形作られてきた宗教と言うか

インド思想と言うか、その考え方が生活に生きており、毎日祈りを捧げ、挨拶を交わし

寺院や神々の像に献花やお供えが、なされている。 


日本人も以前には”祈る心とか、誇り”とかを持っていた。 

しかし、敗戦を堺に急激に失なっていった。

日本の神社やお寺を見るに、氏子や檀家の崩壊から各地に廃墟となった処をしばしば見うける。  

これは敗戦後、我々が物質的な世界ばかりを追い求め、

精神面を疎かにしてきた結末であろう。

近頃は社会的モラルは地に落ち、テレビでは各界の地位の高い人達が

頭を下げている光景をしばしば、見かける。


殺人、破壊、強盗、セックス、暴力、汚職、不正、詐欺、窃盗、脅迫、虐め、等々

毎日のように出てくる悪いニューズ。

何れにしても、お互いが自分の行いを、「良心に恥じないものか」を見定めることであろう。


今度の旅は、祈りの心(感謝)と自身の誇りの希薄さを感じさせられるものであった。


              
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