ロ シ ア
03.4.29〜03.5.4

中部空港より9:30の大韓航空でソウルへと旅立つ。ソウルと言えば今までは金浦空港であったが、

インチョン空港が開港し金浦は国内メインとなり、11:30、初めてのインチョン空港に到着した。 インチョン

は朝鮮戦争でマックアーサーが上陸したことで有名で 港には彼の銅像も建ち、無数の島を持つ遠浅の

海岸に島を切り開いた広大な空港である。 現在もどんどん島が削られ造成されて今後新らしい企業が誘致

され極東のハブ空港を目指している。 インチョンに降り立ち、その大きさに驚かされる。 ブランドの免税店が

ずらりと並び、乗客へのアピ−ルがやかましい。 生憎、SARSウイルス発生の為、観光客が激減している様だ。

我々のツアーも8人となり、家族旅行の感じ。 モスクワ行きまで時間があるので、空港の食堂で昼食を済まし

時間を過ごす。 空港内の賣店も客が少なく、係りの女性は手持ち無沙汰で、売り上げ激減と言う。 ちょいと

激励をしてお別れし、モスクワ行きに乗り込む。 後は飛行機まかせモスクワまで長い搭乗である。

 モスクワ・シェレメーチエヴォ空港には夜の8時半に到着する。


モスクワ



モスクワはロシア連邦の首都で人口1150万のヨーロッパで人口の一番多い都市である。 1147年に

キエフ大公国ユーリー・ドルゴルキーによって開かれ1271年にモスクワ公国となり発展してきた。 市の

中をモスクワ川が蛇行しながら流れ、赤の広場から道路が6つの主要道路が地方へ広がり、空港は市内

郊外あわせ4空港を保有している。 ソ連崩壊後経済は停滞していたが近年は天然ガスの開発が進み

経済は急激によくなって来ている。





ロシアは1989年に社会主義が崩壊し、10年も過ぎているのに、未だに社会の切り替えが進まず

社会主義時代の習慣が抜けないのか、それとも金不足なのか入国手続きにやけに時間が掛かる。

ゲートも少ないが、係りの人間がチンタラチンと客を待つているのに知らぬ顔でマイペースで、ひどい

サービス振り。 韓国のビジネスマンが狙われているのか、克明にテェックされている。そのため我々も

将棋倒しに遅れて行く。 何と言うサービスか? やっと我々の番となり観光ビザでスムースに通して

くれるが、やっはりマイペース。 やっと手続きを済ませ、今夜のホテルへとマイクロバスで町へでる。

寒い土地のためか街路樹がやけに細く成長が悪いようだ。 ホテルは中心部から少し北に位置する処

全ロシア博覧会センターの傍にあり、近隣には宇宙飛行士記念博物館や宇宙征服者のオベリスクなど

宇宙公園が広がる。馬蹄形をした大規模なホテルで3600人収容可能と言う大ホテルである。中は丸い

大きなロビーでエレベーターが天井まで貫けている。 カジノやナイトクラブもあるが、ロビーでは怪しげな

女性が客引きをしている。 こちらは部屋に案内された時にはもう10時、窓からロシア博覧会センターの

ネオンがきらきらと輝いていた。



HOTEL COSMOS

ホテル・コスモスはモスクワオリンピックの為に1979年に建てられたそうで、サービスは何処か田舎臭く

よく言えば素朴な感じ。 朝食時、ウエートレスにビデオを向けると、手を振り愛想を振りまいてくれた。

今日は9時半にバスにて市内見学、先ずはモスクワ大学のある「雀が丘」へ出発。 ホテルを出ると直ぐに

ロヶットのモニュメントや世界初の宇宙人となったガガーリンの石像の立つ宇宙センターが広がっている。 

ガイドの説明によるとモスクワは水が多くあると言う意味だそうで、12世紀に開かれた人口1000万人の都市

ヨーロッパでは人口の一番多い街である。 やがて立ちの低い雑木林の丘に入って来る。ユーラシア大陸の

大きさを見せ付ける様な広大な丘である。 雀が丘は、ソ連時代は「レーニンの丘」と呼んでいたそうだが、

市の南西部にあり市内では一番高い地でモスクワ大学や迎賓館、映画撮影場等があり、丘からは市内全体

が展望できる。 「戦争と平和」に出て来るナポレオンがモスクワ侵攻の時、モスクワ市街を眺めて感慨に

ふけった処だそうだ。 直ぐ前に丸い中央競技場が見え、1980年、オリンピックがこちらで開催された。 

残念ながら日本は自由主義陣営のアメリカ側につき参加をボイコットしてオリンピック精神が守られず、

多くの日本アスリートが大きなチャンスをなくし失望の涙にくれた。



雀が丘 背景はモスクワ大学

「雀が丘」にはモスクワ大学が置かれ、スターリン時代にたてられた尖塔のある建物が大学の象徴

になっている。 ロシアでは葱坊主を持った尖塔が多いが、スターリンが余程、ヨーロッパのゴシックの

寺院に憧れたのか、時代の芸術やモダニズムを否定しこの様なネオゴシックの建物を好んだ。この他に

市内にはロシア外務省やホテル・レニングラードなど、同じ建物を七つが建てられソビエト時代の衛星国

にも、このスターリン様式の建物が今も残っている。 「雀が丘」では広い場にポツリポツリと小母ちゃん

たちが露店を出し、ロシヤ土産のマトリョーシカ人形を綺麗に並べて、我々に声を掛けてくる。 雀が丘に別れ

政治の中心である「赤の広場」へと向う。 途中、ノボテビッチ修道院へ寄って行く。 こちらはチャイコフスキー

の有名な「白鳥の湖」がある。 彼はこの周囲を散策しながら「白鳥の湖」の構想を練ったと言われている。

5月と言うのに、湖面にはまだ氷が残っていた。 やはりモスクワは、まだ寒い土地である。 この修道院は

ヴァシーリー3世によって1524年にスモレスクがモスクワ大公国に併合されたのを記念して建てられた。

当時の王族や貴族の女子が多く教育をうけた修道院で、女帝ソフィアも政変に破れ修道女としてこちらで

亡くなった。 こちらの墓地は著名人の墓が多いことで有名である。 トルストイ、チェーホフ、シャリアピン、

プロコフィエフ、エリチン等など



ノボテビッチ修道院の白鳥の湖

ノボテビッチ修道院を見て、市内を赤の広場へと走る。 ソ連時代に建てられた灰色のアパート群が

多く見られ社会主義時代の統一された規格のものが多く、その間に政府の建てた公共の馬鹿でかい

建物が多く目に付く、話によると民営に徐々に切り替えてはいると言う。 アパートは高いもので平方m

2000$、安いものは500$だそうだ。 労働者の平均賃金は月150$家賃50$と言う。 「赤の広場」は

モスクワ市の中心に位置し、曲がりくねったモスクワ川の河畔にあり、やがて遠方に赤の広場の15世紀

に造られた城壁の尖塔が見え金色に輝くクレムリンのドームも見えてきた。 車の数が多くなり市の中心

に近づき目立った建物も見えて来た。 ガイドから白い柱列を持つ建物の前にドストエフスキー像を案内

され、間もなくバスは「赤の広場」に到着した。 広場はクレムリンの東北部の城壁と国立歴史博物館や

グム百貨店に囲まれたところで、7万3000平方m広さで、ソ連時代、メーディーや革命記念日には盛大な

パレードが行われ、歴史を秘めて厳然と存在していると言う雰囲気をもっている。 グム国立百貨店側から

見ると、正面にレーニン廟があり、右手に歴史博物館、左手に玉葱型の尖塔を持つワシリー聖堂が見える。

ワシーリー聖堂はイヴァン雷帝がカザン・ハン国征服の記念として1560年に建てられた。 イワン雷帝は、

そのあまりの美しさに感動し二度と、この美しい建物が建てられないようにと、設計者二人の目をくり抜いて

しまったと言う逸話が残っている。 確かに色合いと言いデザインと言いイワン雷帝のロシア勝利を表す

建物として例のない神秘的喜悦を謳うものとの要求から、ロシア人設計者の意気込みが現れている。



赤の広場と中央、レーニン廟





同 ロブノエ・メスト処刑台

ロブノエ・メスト台は16世紀に建造され、かつてはロシア皇帝が布令を発する場所であったが処刑台でもあり、

17世紀末、農民反乱の指導者ステンカ・ラージンがここで処刑されたのが有名で、1812年にはナポレオンが率

いるフランス軍が侵攻したが、あまりの寒さのために、最終的に引き返すことになった処でもある。 その後、

ロシア革命の時には革命軍と反革命勢力との戦闘が繰り広げられたり、血なまぐさい歴史の跡である。



赤の広場



 
赤の広場 左は 聖ワシリー聖堂





赤の広場 ユニークな傑作聖ワシリー聖堂




赤の広場・国立歴史博物館




赤の広場・ヴァスクレセンスキー門





赤い星のある城壁のスパスカヤ塔

赤い広場を見て前にあるグム百貨店にはいる。
こちらは帝政ロシアの1893年に造られモスクワを代表する百貨店で

ロシア革命の時には1200もの店の入るモスクワの消費生活のセンターとなっていたそうだ。 建物は横に長く外観は

宮殿を思わす様でロシアを代表する建物でもある。 通路が二層のアーケード様式になっていて天井がガラス張りで

明るい。 衣類や小間物、化粧品などの商店が並び家電製品も販売されている、かなり商品も揃えられてきている。

しかし西側の品物はまだ少ないようだ。 アイスクリームが美味しいとの話で、それを買って、二階のテラスで休憩する。

アイス・クリームは結構、美味しかった。


グム百貨店・アーケード街

食事の後、ロシアの4大美術館の中で、ロシア美術を専門に集めている歴史的トレチャコフ美術館にいく。

こちらはロシアの4大美術館の中で、唯一ロシア美術を専門に集め11世紀以降の作品を展示ししている

モスクワの商人であったパーヴェル・トレチャコフが自国の画家たちの優れた作品を収集し公共の文化の

向上を願っていた。 遺言によりコレクションは1892年モスクワ市に寄贈された。 ロシア革命以降は国有

化され、他の美術館のコレクションも加えられて現在ではロシア最大の美術館の一つに数えられている。

美術館は多くのイコン画を集め19世紀ロシア・リアリズム絵画の移動展派の作品が多く展示されている。

イコン画は平面的で無表情で、ぴんとこないが、 移動派の作品は生活感や自然が奥行きや陰影をもって

大らかな表現で描かれていて、19世紀ロシアの表現力の豊かさに驚かされる。  1856年に建設された。




トレチャコフ美術館とパーヴェル・トレチャコフ像

美術館観賞後は自由となり、夕刻より「ボリショイサーカス」を見る。 世界のトップレベルだけに流石

すばらしいものだった。 サーカス団は約4,000人のアーティストとスタッフ、6,000頭の動物 、約70ヶ所

の常設・仮設劇場をもつ世界最大のものでボリショイとは英語ではGreatとBigとなり、まさに、その通り

動物の多さ、その調教された演技の素晴らしさ、空中ブランコのスケールの大きさ、サーカス団の人種の

多彩さ等々、これぞ、『ハラショー!!』 感動の連発で、まさにファミリーな大エンターテイメントだった。

サーカスを見終わり、外に出たときには、皆さんサーカスがエキサイティングだった為かSARS予防の

マスクは何処へやら、なくなっていた。


今夜は11時過ぎの寝台列車でサンクトペテルブルグに向う。 全行程は649.7kmである。

モスクワ・レーニングラード駅に着くと、列車は既に着いていて、デッキ前で アテンダントが

我々を早速、出迎えてくれる。 コンパートメントは二人室でローズ色のベルベットでしあげられ

まあまあの広さである。 ミネラルウォーターやお菓子、歯ブラシのアメニティーも付いている。

やがて列車が動き出すと、ボーイがベットメーキングに来てくれた。 セッティングが終わると

後は寝るばかり、かたことと揺られながら眠りに着く。 鬱々としながらカーテン越しに外を

覗くと夜が明けてピンク色の空が見えた。 洗面を済ますと外はすっかり明るくなり、そろそろ

到着
の時刻、モスクワを出発して8時間である。 やがてブレーキの音と共に列車がとまる。

快晴のサンクト・ペテルブルグ到着である。 皆さん おはよう!!


サンクトペテルブルグ



サンクトペテルブルグはバルト海フィンランド湾のネバ川河口のデルタ地帯に開けたロシアの世界都市である。

人口100万を超え都市としては世界で最も北に位置し、島が多く運河網が発達し北のベニスとも呼ばれている。

ネヴァ川は運河やボルガなど河川につながっているため、この都市はカスビ海やウラル、ボルガからの船舶の

バルト海への出口となっていて、バルト海において重要な港湾都市となっている。 都市の名は”聖ペテロの街”

を意味し、ソ連時代はレニングラードと呼んでいた。 この土地は元はスエーデン領であったが、スエーッデンとの

戦争で勝利し、ピオヨート大帝よって1703年に沼地に築かれた都市である。 ペテルブルクは西欧に追いつく為に

西欧に倣って街が築かれ、ロシア帝国の首都として歴代の皇帝により整備がおこなわれ、科学アカデミーが造られ

1754年には王宮として「冬の宮」が完成してネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心として放射状の街並みが

作られて発展して来た。



駅よりホテルへと向う。 ホテルは「プリバルティスカヤホテル」で、モスコーフスキー駅よりネフスキー大道り

に出る。 ロシヤでは名前の語尾に00スキーと付くことが多いが男子の名前によくつけられ、女子の場合は

スカヤーが付けられるそうだ。街並はモスクワと違って18世紀に建てられたためか垢抜けした美しい街である。

この通りは旧海軍省から
ネフスキー修道院まで続き、帝政時代より街の中心であり、サンクトペテルブルクを

代表する建築物や観光名所が並び多くの観光客も訪れるところと言う。

 ホテルには20分ほどで
到着した。 市中心部より離れた島でデカプリスト島のフィンランド湾に面した風光明媚

な海岸に建つデラックスホテルである。 ホテルは階段を上がった処に、この字型に立つスホテルである。今月27日

は国が建都300年記念式典を行うために世界の来客を迎えるということで会議室など改装に追われていた。 早速

部屋に荷物を下ろし朝食をとる。 見渡す様なダイニングルームでビュッフェスタイルの「いくら」のあるコンチネンタル

と言った朝食である。  外はバルト海が広がり名産の琥珀が落ちているかもしれない



バスより見る「プリバルティスカヤ・ホテル」

食事後、ホテルを出てネバ川を渡り、朝一番にサンクトペテルブルグ観光の目玉である、ネバ川沿いにたつ

エルミタージュ美術館に行く。 朝から大勢の客が列を作っている。 エルミタージュは世界三大美術館の

一つでメトロポリタン、ルーブル美術館に並べられる。 エルミタージュとはフランス語で「隠れ家」と言う意味で、

フランスに、よくよく憧れが、あったのであろう。 この美術館はロマノフ王朝の皇帝の住まいであった「冬宮」

を中心に4つの建物からできている。 最初、冬宮がエリザヴェータ女帝により建てられ、その後を継いだエカテ

リーナ2世が1764年にドイツから買ったコレクションを新しく展示する建物を増築しエルミタージュ”が始まった。


フランスの啓蒙思想の影響も受け、その後1862年には一般公開した。現在5つの建物に何万もの美術コレクション

を持っていると言う。 壁面を水色、柱を白に塗り分け、柱頭に金のアクセントをつけた素晴らしいデザインで西欧を

越そうとする意欲が見える。 門を入ると、うねった階段がある。赤い絨毯が敷かれ壁は白く金の装飾が施され天井

にはギリシャ神話が描かれ「大使の階段」と呼ばれる空間である。 館内はバロック様式でつくられ内装の装飾に

多くの金が使われている。 「大帝の間」には上段が作られ中央にピオトル大帝の肖像画が飾られている。 部屋

は赤い壁で覆われ柱が白いため室内が引き締められている。 こちらで謁見がなされたのだろうか? 次いで


「紋章の間」 こちらは大ホールで一番大きい部屋と言われる。 金色のギリシャ・コリント風の列柱が並び、天井

には豪華なシャンデリアが下がって欄間には各州の紋章が意匠化された金色の間と言ったホールである。 この

あと、「パピリオンの間」に入る。 この部屋はエカテリーナ2世の隠れ家として作られた処で、彼女はバロックに

嫌気がさしたのかルネッサンス風ではあるが床はローマ式のモザイク、しかし天井は豪華なシャンデリアが下がり

統一されていないが落ち着いた上品な部屋である。 ポチョムキン公爵からエカテリーナ2世に贈られた時が来ると

羽を広げる金の孔雀時計がガラスケースの中に飾られている。 特別にフランスか外国で作らせた工芸品である。

ここで親しい人たちと楽しい時間を過ごしたのであろう。 旧エカテリーナ棟はスケジュールの関係で後ろ髪を引か

れる思いで引き上げる。



エルミタージュ美術館 冬宮


食事を済ませ、昼からはネフスキー通りにある「カザン聖堂」へ行くことにする。ロシア正教会の大聖堂で

重要なイコン「カザンの生神女」からの名前で、ローマのサンピエトロをモデルに1801年に着工された。

当初、ロシア正教会側は、ローマ・カトリックの模倣だと言うことで反対したが宮廷によって決断された。

建設途中、祖国戦争により中断され、1811年に完成した。 この戦争でナポレオン軍を撃退した将軍・

ミハエル・クトゥーゾフがここに埋葬され、勝利によってカザン聖堂は戦勝記念の建築となった。右手に

回廊入口に建つ銅像はロシア軍総司令官ミハエル・クトゥーゾフの立像である。 現在は、ロシア正教会

の中心となっている。



ネフスキー大通りに面するカザン聖堂

カザン聖堂よりイサク広場に回り、こちらにはロシア正教会の聖地「聖イサク寺院」が金色の尖塔が聳えている。

この大聖堂はアレクサンドル一世の時代に建造されたもので、フランス人建築家オーギュスト・ド・モンフェラン 

によって中央にドームを持つロシア・ビサンチン様式で建てられている。 世界で3番目に大きな聖堂といわれ、

高さは約101m、面積1万平方mあり、ネヴァ川に近く湿地帯であったことから、基礎工事に2万4000本もの

杭が使用され、その上に花崗岩や石灰石が敷かれているそうだ。 又、この広場にはピオトル大帝の騎馬像

があり、ピオトル大帝の時代に初代の「聖イサク教会」がバシリエフスキー島に建設されたのが起源とされる。



聖イサアク大聖堂





ピオトル大帝の騎馬像(青銅の騎士)

ロシアの作家A・プーシキンが1833年に、この騎馬像を題材にた叙事詩”青銅の騎士”

を発表し有名になって、この像も、この名で呼ばれる様になった。 イサアク広場の後、

橋を渡り、ワシリエフスキー島の芸術アカデミー前よりネバ川を展望する。 この辺りは

ネバ川が大ネバと小ネバに分岐した所で素晴らしい眺めが見られるが、5月と言うのに

流氷がまだ流れていると言う、ロシアならではの風景である。



芸術アカデミー前のスフィンクス像

ロシアが19世紀一時期、エジプト様式を取り入れ、エジプトから得たものでナイル川沿岸の

フィヴァで3500年前に彫られたもので、花崗岩で出来ている



流氷のあるエルミタージュ美術館




ワシリエフスキー島より望むイサク大聖堂




ネバ川の流氷

次はワシリエフスキー島よりネバ川を渡り、市の中心街にある「血の上の救世主教会」に向う。

ネフスキー大通に出て、東に少し行った処から左へ運河沿いに行くと、ロシア教会の玉葱型の

屋根を持つ、モスクワのワシリー寺院によく似た大聖堂が見えてくる。 しかしワシリー聖堂より

は300年もの後に建てられただけに、色彩が洗練されていて正面のデコレーションンも精緻に

なりイスラム風のアーチのファサ−ドを持って凝りに凝っているという感しである。血の上教会

は「キリスト復活大聖堂」が公式の名前で、教会は1881年アレクサンドル2世が農奴解放など

大改革を実施してきたが、実態は農夫を賃金奴隷として売っただけに終わったため社会主義者

の急進派のテロの標的となり暗殺された。 跡を継いだアレキサンドル3世により先帝を弔う為に

終焉のこの地に建てられた。 ロシア革命以後、教会は大打撃をうけ荒廃をしていたが、ソ連邦

崩壊後復活した。 何処でも変革期にはテロがあるのが悲しいもので、悲しさの美しい寺院である。



血の上の救世主教会

「血の上の教会」を見てネバ川を東へ走ると、川が右手に曲がった所に公園風のエレアがある。

その敷地に水色と白の冬宮の様な色彩のスモールヌイ修道院が建っている。 こちらは19世紀

はじめエカテリーナ2世により貴族の令嬢たちの女学校として建てられ、1917年の10月革命の

際にはレーニンによる作戦本部がおかれ10月25日ソビエト政権の独立宣言がここで行われた。

翌1918年には首都がモスクワに移されるまでソビエト政府の中枢となつていたところである。

幾つかの棟があり、メインの3つの尖塔を持つ本館は改装中であった。 こちらも観光客のカメラ

スポットになっている。 今日は、これで観光予定は終わり、夜は外のレストランでロシア民族

舞踊団のショーを見ながらの夕食、コサックの踊りやバラライカの演奏による「歌声喫茶」全盛

時代の「カチューシャや「トロイカ「ともし火など懐かしい昔のノスタルジーをかきたてられた。

今夜は良い夢でも見れるかな〜


スモールヌイ修道院

早いもので旅程も4日目となる。 今日は自由日となりOPでエカテリーナ宮殿に行く。 こちらは

サンクトペテルブルクから南へ約30km程のプーシキン市(旧ツァールスコエ・セロー)にあり暫く

道中の景色を楽しむ。 こちらに来てよく目に付くのが、公園と広場が多い、それに著名人の銅像の

多さである。 また、韓国企業の広告看板の多さに驚く。 SAMSUNGやL.Gの看板広告が目立ち

日本の企業の看板が余り見られないのが気がかりである。韓国企業はロシアを含む東欧諸国へかなり

喰い込んでいるようだ。 空港でも韓国のビジネスマンをよく見かけた。やがてプーシキン市に到着し

バスを降りる。 宮殿の方に歩いて行くと。 軍人の服装をし管楽器を持った二人の小父ちゃんが、

我々を見つけると、矢庭に演奏を始めた。 何んと曲は君が代である。 異国に来て国歌で迎えられ

るとは、本当に嬉しいものだ。 日本人と、よく判断できるものだ。 それだけアジア系では日本人が

多いのであろうか。 韓国人が 来たとしても、きっと君が代が吹奏されるのだろうな〜 

傑作だね〜  一度見てみたいね〜


ツァールスコエ・セローとは皇帝の村を意味し避暑地だそうで冬宮に対する夏の離宮である。

エカテリーナ2世の為にイタリア建築家ラストレッリによって建てられたバロック調の宮殿である。

建設は1752年5月から4年を要し1756年7月に全長325メートルの現行規模の宮殿となった。

1791年5月、日本人・大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見した宮殿でもある。 冬宮と同じ

様にファサードは壁が青く柱の白い配色でイメージは余り変わらない。 入口を入ると白塗られ

た中央階段の間があり壁には彫刻が施され、有田の焼物や燭台が壁の持ち出しに装飾として

飾られている。 階段を上がると1000平方mの大広間があり、柱と壁は金細工で飾られバロック

式の黄金のホールである。 第2次大戦で破壊されて一時期ドイツに占領されていたが、その後

修復され、こちらでは舞踏会やパーティーに使われていたそうだ。 次は小さな部屋でダイニング

ルームで大きなテーブルの上にマイセンの食器が並べられている。 隅にはオランダのデルフト

焼きのペーチカが座っている。 椅子は金縁の椅子が置かれ壁にはエカテリーナ一世や他の

家族の金縁の肖像画が飾られている。 次いで「赤の間」と「緑の間」などがあり、少し大きな

エカテリーナ二世の間がある。 こちらには等身大の彼女の人形と肖像画が飾られている。

夫々、各部屋は様式や色調、装飾をかえ、特徴のある仕上げとなっている。 


次の部屋は有名な「琥珀の部屋」である。 琥珀はピオトル大帝が結婚の時ビルヘルム1世

から贈られた物でピオトル死後、エカテリ−ナ2世の1770年に完成し世界で唯一の琥珀の

部屋となった。 エカテリーナ2世はこの部屋を愛し自らが許す者以外の入室を禁じたと言う。

しかし第二次世界大戦時にドイツ軍によって占領されて、その時持ち去られ、ドイツで焼失した

ものか、今も、その行方が分からないと言う。 戦争中に破壊された宮殿は、その後、復旧され

「琥珀の間」は20年がかりで修復されペテルブルグ建都300年(2003年5月)に完成したそうだ

が、我々の訪問時は復元中で部屋の一部しか見れなかった。 因みに琥珀は樹木の樹脂が

長期に渡り地中で硬化して鉱物の硬さになったもので、バルト海沿岸で多く産出され宝飾品に

よく利用されていると言う。 次いで「緑の食堂」は古代ギリシャをテーマにデザイン化した壁を

イギリスのウェッジウッドの陶磁器で仕上げたかの様なユニークな感じのする部屋である。次いで


 「アレキサンドル1世の応接間」で自身の自画像とエカテリーナ2世などの肖像画が掛けられ、

扉を開けると、入口がら次の入口が見通せる設計が為されて、建物の大きさが感じられる。 

 最後は「アレクサンドル一世の書斎」である。 大理石の太い柱が立ち、白い壁で孔雀石で 

部屋の主要な所を装飾されていて、風格を感じる部屋である。 宮殿の前は庭園が

広がり公園となっている。


エカテリーナ宮殿

冬と夏の宮殿を見終わりこれだけのものに投じた費用は何れにしてもロシアの民が負担しており

アレキサンドル2世の暗殺など、フランス革命を知っていながら民の心をおろそかにした結果が

国をあやめてしまったと言える。 そんな思いをしながら本日の旅程を終える。 今夜は夕食の

準備がないのでレストランでとる事にする。 レストランに行くと目じりの上がったカザフ人の様な

青年ウエイターが出てきた。”支払いは$でもよいか?”と訊ねると、OKと言う。英語も分るようだ。

ガイドは$は受取らないと言っていたが、ロシアも少しづつ自由経済へと変わってきているようだ。

 お勧めを訊ねると、”ガルショーク(肉の入ったシチュ)、ビーフストロガノフ、ポテトサラダ”と言う。

それに飲み物はビールを頼んでOK!とする。 ロシア・ビールも、なかなかの物で美味かった。

それに壷の中に肉が入ってパイ生地で蓋したシチュが美味かった。 ガルショークと言うそうだ。

再度モスクワへ

翌日は空路で再度モスクワへ向う。 空港は市内より南へ17kmの位置にあるプルコヴォ1空港である。

国内線の小型機でモスクワまで一時間ほどで到着した。 
ペトロフスキー公園のそばのレストランで昼食

をとり、ロシア民芸品の店によって、午後はクレムリンの見学である。


クレムリン

「クレムリン」はモスクワの中心にある旧ロシア帝国の宮殿で、ソ連時代には共産党の本部が

置かれたところである。 クレムリンはロシア語で城砦と言う意味で、名のとおり20の城門を持ち

約2kmの城壁で囲まれている。 内部には時代ごとに変わった建物や寺院が建っている。城砦

の城壁は12世紀に築かれたといわれるが、宮殿を持って政治の中枢として整ったのは15世紀

イワン雷帝の時代である。 代々のツアーリ(皇帝)の戴冠式が行われ大聖堂なども建てられた。

18世紀に至り、ピオトル大帝は国の発展の為ペテルブルグに遷都し、クレムリンは休眠に入る。

1812年の祖国戦争でナポレオンにモスクワも攻撃を受けクレムリンも破壊された。その後、ロシア

革命が1917年に起きペテルブルグよりクレムリンに移り政冶の中心となり、ソ連崩壊後も現在まで

続いている。



クレムリンの玄関口である白い「クタフィヤ塔」を入ると第二の門、尖塔の先に 赤い星のある

 トロイツカヤ塔が見える。 そこを潜るとクレムリン内となり、左手に兵器庫があり大砲が並ぶ。

右手にはクレムリン大会宮殿ある。 近代的な建物で宮殿には思えないシンプルさである。

現在は国会議事堂であるが、ソ連時代には共産党大会や大きな国際会議が開催されていた。

更に奥に進むと左に三角形をした大統領府がある。 1776年に建てられ元老院として使用され

て来て、レーニンの執務室もあるが、現在は公開されていない。 大統領府の前には横に長い

大統領官邸がある。この建物はソ連時代に建てられ、当時はソ連邦最高会議が開られていた。

 
ロシア連邦大統領府(旧元老院)




ロシア連邦大統領官邸(ロシア最高幹部会ビル)


大統領官邸の南には「大砲の王様」がある。 16世紀の鋳造技術の傑作で口径が世界最大で

クレムリン防衛のためスパスカヤ塔に置かれていたが使うことはなかったと言う。 更に先には

「イヴァン雷帝の鐘楼」がある。 当初は60mであったが、その後、増築されて86mとなりクレムリン

の警備塔の役目も果たし、1812年、ナポレオンがモスクワ退去の際、爆破されたが、持ちこたえ、

イタリア人により修復されて、21個の鐘が鳴り渡っている。 鐘楼の傍には巨大な鐘があり、これは、

鐘の王様」と言われ、18世紀に作られ、鐘の表面はアンナ女王、アレクセイ王の肖像がレリー

フで飾られている。重さが200トンあり、1737年火事があり水を掛けた為に11トン分が欠けたと言う。



イヴァン雷帝の鐘楼




鐘の王様 

クレムリン内には多くの寺院があるが、 ウスベンスキー寺院は、その中心的寺院で歴代皇帝の

戴冠式が、こちらで行われて来た。 現在の建物は1474年の大地震の後、ウラジミールにある

ウスペンスキー寺院をモデルに再建されたもので、白石で作られ、内部はイヴァン雷帝の玉座が

あり、多くのイコンと249の物語のフレスコ画が描かれていて、ロシアの歴史が迫ってくる。最後に

一番奥まった所にクレムリン大宮殿があり、ロシア革命前までは、ロシア皇帝がモスクワ滞在中に

使用していたが、その後は共産主義政党の国際組織・コミンテルンとして機能してきた。 現在は

政治世界の中心舞台として各国首脳との会談やレセプション、勲章授与式などに使われている。

建設は1849年に完成し、外観三階建て、内部二階建で当時に建てられたヨーロッパ列強の宮廷

建築を凌駕していて、19世紀ロシア建築の極致とも言われている。



ウスベンスキー寺院



クレムリン大宮殿

クレムリン見学後、夜のフライトでモスクワに別れを告げる。


終わりに

ロシアのモスクワとペテルブルグを見て、ゴルバチョフの「情報公開と改革」からソビエト崩壊に

つながり10年を過ぎたと言うのにホテルでは外貨交換が出来なかったり、冷蔵庫使用には30$

のデポジットが必要だったり、荷物の受渡しが室内に限られたり、旅行者には不便なことが多い。

中でも驚いたのはパスポートをホテルに預けなければいけないと言うのには驚いた。 また空港

での係員の仕事ぶりは、長年の社会主義による宗教など心のモラルが低下しているのか、言われ

たことだけを機械的にこなしているだけと言う、自分の仕事を何の為にしているか? 仕事の目的が

抜けているように思う。 転換には時間がかかる様である。 しかし、街には商品も多く並び、これ

からどんどん加速して良くなって行くのであろう。 期待したいものである。 それにしても、ロシアの

広大な土地を見ると、うらやましい限り。 最近は温暖化が進み、これからはシベリヤ地方などは

凍土氷解で脚光を浴び、どんどん開拓され住みよい地域に発展するであろう。今後、我々も交流を

広め、大きな心でロシアとのお付き合いが必要だと思う。

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