上高地・新穂高・飛騨の里・安曇野
2012.8.11〜2012.8.13



盆休みに孫たちと飛騨と安曇野に行くことを約束した。 しかし、日にちが迫り天気予報を

見ると予定した3日間が全て曇り時々雨の降水率50%が連なっている。これではとても

山へ行っても、山の楽しさは半減する。 息子に尋ねると、第一日目の天気は曇りのち晴れ

そこで、朝早く行けば何とかなるのではないか、とのことで、朝5時に出発することにする。

幸い当日の名古屋の天気はよさそうで朝の車の少ない高速道路を快適に走る。 お盆休み

とはいえ朝早いと流石に車の数も少ない。 東海北陸道を岐阜県に入っても、雨は大丈夫の

様子ではあるが、何といっても1500mの標高の上高地では気象条件は安心できない。


こればかりは、天に任す以外方法はない。 清見インターを貫け高山清見道路を通って

高山に入り158号線では日が射しているが山は雲に隠れて見えない。 昔の丹生川村

を通り平湯に向ってなだらかな坂道を走ると、やがて朴の木スキー場が見え、平湯峠に

さしかかる。 昔はこの峠をジクザくと越えたものであるが、日本経済の成長で何時しか

トンネルがぶち抜かれた。 便利にはなったが反面味気ないものではある。 経済では

スピードが要求されるが、旅となると少し違うようだ。 望む目的が道中の景色や情緒を


味わうとなると、のんびりが良い。 そんなことを考えているうちに平湯インターに到着し

平湯温泉の町に出る。 宿は以前宿泊したプリンスホテルの隣にある明治初期からと

言われる「中村館』である。 平湯のバスターミナルの直ぐ近くである。 予定通り3時間

余りで到着した。 旅館に車を預け平湯のバス乗り場より上高地に向けバスに乗り込む。

一時間2本のバス便であるが、今日は臨時便も出ているようだ。 どうやら雨は避けられ

そうである。 天は我らの事情を察して呉れたのか雲行きがよい。 感謝をしよう!!


中村館玄関



老舗・平湯館


一応、雨の準備だけして登山バスに乗り込む。 バスはお盆休みでもあり満員である。

9時に出発、走り出すと間もなく安房トンネルに入る。 このトンネルは1967年世界でも

類のない活火山の下にトンネルを貫くと言う難工事であり、13年間に渡ってボーリング調査を

行い、中ノ湯側からと平湯側からの調査坑の掘削を実施し、中ノ湯側の高熱帯・火山性ガス区間、

平湯側の熱水帯区間と低速度帯という難関を潜ってきたが、1995年2月、中ノ湯側の取り付け道路

工事の最中に火山性ガスを含んだ水蒸気爆発事故を発生し4人の尊い命が犠牲となり工事が中断

したが、調査から33年、着工から17年の大プロジェクト安房トンネルは1997年12月に完成した。


それは長野五輪開催の2ヶ月前であったと言う。 これまで高山市と松本市を結ぶ国道158号安房峠

は対向車とのすれ違いもままならない狭くカーブの連続する峠のうえ、冬は深い雪に埋もれて通行が

不能となり、峠を越すのにひどい時は5時間もかかっていたが、わずか5分で結ばれることになった

上、通年交通が出来る様になり、長野・岐阜の地域の人に生活上大きな利益をもとらしたと言う。

バスは安房トンネルを貫け「中の湯」へでる。 景色が急に山岳風景となり、最近の異常気象に拠る

集中豪雨に見舞われたのか樹木がもぎ取られ赤茶けた山肌を表している。 やがて焼け岳が見え

この様子では穂高連峰の姿を拝めそうだ。大正池が案内され停車ボタンを押す、我々はこちらで降りる。



大正池の先に焼岳

孫達のトイレを済ませ、池の方に下りて行く。 こちらは何時来ても静けさを感じる

所である。 山ノ神に今の天気のお礼を祈る。 人間とは妙なもので、自然現象でも

良い事があればそれは大いなるものの仕業と思いたくなる。池は青い湖面を光らせ

ボートで漕ぎ出している人達もいた。 左手に活火山の荒れた山肌の焼岳があり、

右手には穂高の峰々が見える。 孫達に大正池は焼岳の噴火により川が溶岩で堰き

止められ出来た池だと、説明してやると、ピンとこないのか半信半疑の様子であった。



大正池と穂高連峰




前穂高

大正池より河童橋までは約1時間の散策コース、上高地でも一番変化があり、見どころが

多いが、こちらは、ぶらぶらと、どれだけ時間が掛かるやら? 林をぬけて田代池に出る。 

池の水に孫達は手を浸け冷たさに驚いていた。 田代池も大正池と同様に溶岩の堰き止めで

出来たもので原生林の中に広がる湿原の浅い池で、池のなかには幾つかの島があり、水面に

山並みが映り水が美しく、静かな風景を造り出している。 傍の六百山や霞沢岳の伏流水が

湧き出て作り出した造形で氷点下になる冬も全面結氷せず、水温の方が高い季節の早朝には

木々は霧氷に包まれ幻想的な風景が見られるそうだ。 田代とは水田を意味し水田の様な

湿原で「田代池」と呼ばれているそうだ。



田代池

田代池より少し歩くと分岐点があり林間コースと梓川コースに分かれ、どちらのコースを

歩いても田代橋で合流する。 こちらは梓川コースをとり森林地帯を貫けると梓川に出て田代橋がある。

こちらからは穂高岳の姿がよく見える。 橋を渡ると梓川の右岸に出て川沿いの見晴らしのよいところで、

上高地温泉のホテルが点在し、こちらからは霞沢岳や六百山の眺めがよく、梓川の流れと共に楽しめる。

上高地のホテルや旅館の中でも、この辺りのホテルからは展望の美しいロケーションと言える。


梓川

川に沿って上高地温泉を過ぎると、ウオルター・ウエストンのレリーフがある。 彼は英国の牧師として日本を

訪れ登山家でもあったことから日本各地の山に登り「日本アルプスの登山と探検」などを著し、日本アルプスや

当時の日本の風習を世界中に紹介した。日本人にも近代的な登山意識をめばえさせ、日本山岳会結成の切っ

掛けをつくってくれた。 毎年、上高地を再発見したウエストンを記念し「上高地ウェストン祭」が催されている



ウオルター・ウエストンのレリーフ

ウエストン像から梓川に沿い更に上ると、河童橋周辺の雑踏が見え、

1500mの高さの山の中には思えない賑わいである。


河童橋



 
河童橋・右岸の西糸屋山荘前の賑わい

河童橋へは一時間余りで到着。 時計は10時半になっていた。 朝早く出たせいか

腹が空き、五千尺ロッジ前で休憩。 ジャガイモ・コロッケとウインナー・ソーセージを

食べる。 コロッケはクリームけが少なく、ジャガイモの素朴な味のする独特の

美味いコロッケであった。 大きな玉で一個で腹仕舞いができた。 昼には未だ早く

時間もあるので、女と子供達を残し、男組みだけが明神池まで更に足を伸ばす。



河童橋よりの穂高連峰

明神池は河童橋から約1時間ほどの上流にある池である。 河童橋を5千尺ホテル

のある梓川左岸に渡り、川に沿って歩む。  天気も崩れることもなく穂高連峰は

雪渓の山肌まで見ることが出来る。 やがて小梨平のキャンプ場に入る。 この季節は

カラフルな沢山のテントが張られ、中には長期に滞在しているテントも見かけられる。

テントの外に穂高連峰など上高地の油絵を何枚か描いてあり、力強い筆致で自然とは

又違った迫力が伝わってくる。 予定より時間が掛かり明神館(山荘)に到着。 前では

大勢のハイカーが休んでいる。 広場ではキャンプも張られていた。 明神岳が間近にせまり

山をご神体とした穂高神社奥宮の神域でもある。 梓川に大きなつり橋(明神橋)が掛かり、

明神岳を正面に望める。 橋を渡ると神秘的な明神池へと続く。 入る前に拝観料300円。



明神館前の穂高奥宮参道の碑




明神キャンプ場




明神橋と明神岳

こちらは安曇野にある穂高神社の奥宮である。  旅の安全を祈って明神池に入る。

池は梓川の古い流れが明神岳の崩落砂礫によってせき止められてできたもので

明神岳から常に伏流水が湧き出ていて水面が山を映し静寂の空気が漂っている。

池中には自然 が造った岩や枯れ木などあり、その造形に魅せられる。



穂高神社・奥宮




自然の為した造形美




池は一の池と二の池がある

明神池の傍に嘉門次小屋がある。 この小屋は上高地の再発見をさせたウェストンの山案内人として知られる

上條嘉門次が建てた山小屋で、現在は彼のひ孫に当たる4代目が引継ぎ、囲炉裏で焼いた香ばしい岩魚や

温かい蕎麦などを商い、宿も営んでいる。 昔は明神池の周辺は水が綺麗で岩魚の姿をよく見かけたが、

今は餌付けをしているのか姿を見せない。


嘉門次小屋




囲炉裏の周りを岩魚の塩焼き串が囲み香ばしい匂いが漂う。

明神池付近は水も豊かであるが、遊歩道が、ガレ場や湿地が多く、足元が悪い。

そのため、板張りの遊歩道が整備され随分歩きやすくなった。 帰りは梓川の

右岸の遊歩道を通って帰ることにする。



明神池付近の透明感のある清水の流れ




木製の遊歩道

河童橋に戻ると、子供達は梓川で水遊びをしていた。 呼び寄せて橋たもとの食堂で

昼過ぎた昼食を戴く。 子供達に合わせ、食後のデザートにソフトクリームを食べる。

少し離れた河童橋のバスターミナルまで歩く。 大勢の人達がバスを待っていた。

これは又、疲れた身体で待たされるのかと心配したが、時間通り臨時バスが来て

全員積み残しなく出発した。 宿に着くと時間は4時になっていた。 宿は明治初期

の開業らしく鎧など古い調度品が多く飾られていた。 露天風呂に入り、少しぬるり

とした透明の湯に身体を横たえ、天を仰ぐ。 心配された天候もよくて明日も、よさ

そうだ。上高地を堪能できた喜びをしみじみとあじわう。 夕食は飛騨の定番飛騨牛

ステーキと山海の会席料理。 加齢と共に食が細り、肉は孫達が片付けてくれる。



河童橋下の河原の賑わい

夕食後は子供達に付き合いゲームセンターへ。 こちらは横で暫く見学とする。

暫くしてゲームに飽きたのか、”お爺ちゃん!ビリヤード教えてよ” と言い出す。

”お爺ちゃんは四つ玉しか知らない” と答えると、早速、フロントへ駆けて行った。

やがて4つ玉を持って戻ってきた。 聞いて見ると、こちらの台は4つ玉でも可能で

クロスが少し破れていると言う。 台に行って見ると、確かに鍵の字の破れがあったが

プレーには大して影響はないので始めることにした。 チョークもなくキューも

先が欠けていたが、子供とやるの分には気も使うこともなく丁度よかった。


ルールは簡易ルールで、当たれば赤は3点、白は2点にしていざプレー開始!!

コツ・コッチンと芯に当たった時には子供達は気分がいいのか大喜び!!

早速、点数をはじき点数を競う。 すると手に覚えのある小父さんたちか立ちどまり

ゲームを入れ代わり見ていく、ルールが違う為か、暫く、すると立ち去ってしまう。

あっと言う間に時間が過ぎ、子供達に時間終了を告げる。 子供達は4つ玉を

恨めしそうに持って、フロントへ返却に行ったが、吹っ切れた顔で戻ってきた。

今夜はこれで、おしまい!


朝、目が覚め、外を見ると、ピカピカの快晴で更に天気がよくなっている。 

息子を起こし予定の白川郷行きを変更し、西穂高に行くことにする。

7時半に朝食をとり旅館に別れを告げる。 コースは以前、行ったことのある

中尾高原の「足洗い湯」より鍋平高原のロープウエイ中間駅より西穂高への

ルートである。 旅館より471号線に出て温泉地帯を北上する。 福地温泉の

手前に熊牧場があり、そこを更に進むと栃尾温泉に出る。左折して475号線を

新穂高温泉に向け進むと「中尾」の標識、右折し山手に入ると中尾温泉の湯元

「足洗い湯』に着く。 湯元だけあり湯煙が上がっている。 モニュメントのある小さな

広場であるが、熱い湯からぬるい湯まで足湯が楽しめる。 岩に腰掛け北アルプス

を眺めながらの足湯もまた格別である。 子供達は眺めよりも湯遊びに興じている。


中尾湯元・ 足洗いの湯

「足洗いの湯」から少し鍋平高原よりに岐阜県警のヘリコプター北飛基地がある。

こちらからの笠ヶ岳と錫杖岳がよく見えると言うので寄ることにする。 小さな高台の

上にヘリコプターが留まっていた。 チェンが張られているので救助隊の人に尋ねると

チェンをはずしヘリポートの発着場に案内してくれた。 基地には4.5人の救助隊員が

のんびりと待機していた。 盆休み中は登山の客が多いため事故に備え基地に常駐し

ているそうだ。 こちらは確かに展望の聞く素晴らしい錫杖岳など飛騨の山が見える。


山岳救援機と傘ヶ岳

このあとは更に標高は高く1300m地点の鍋平高原駐車場に行く。 車を下りて

ロープウェイ駅へ。 この辺りは自然散策道が整備されウオーキングが楽しめる。 

駅には既に乗客が改札に並んでいた。 2階構造のゴンドラに乗ると滑るように動き出す

途中何本かの鉄塔に掛かると急激なアップ・ダウンで肝が冷やされる。 その度、

子供たちの歓声が上がる。 約7分で標高2156mの西穂高駅に到着する。



飛騨側の山々

駅の展望台より奥穂高、北穂高、南岳、槍ヶ岳と北東へと北アルプスが連なっている。

反対側の南西には焼岳や飛騨の抜戸岳、錫杖岳、笠ヶ岳が見える。 アルプスはもう秋の空で

澄み渡り、雲は白く軽やかに流れる。 何れにしても天気に恵まれ絶好の山岳展望が楽しめた。



西穂高岳




槍ヶ岳




西穂高




焼岳

北アルプスの山容を楽しみ山を下りる。 鍋平駅では観光客でごった返し駐車場は満車となり

待ちの車が連なっていて早く来た甲斐があった。 この後、白川郷の代わりに高山市街の混雑を

避け「飛騨の里」へと向う。 471号に出て神岡より飛騨古川を通って41号線で高山に入り

41号から158号線に右折すると、案内があり、それに従って左にそれると飛騨の里の

駐車場に入って行く。



案内図

「飛騨の里」はこの地方の豪雪に耐えてきた合掌造りなど飛騨各地から移築された

古い民家や山村の生活用具や生産用具から人々の暮らしの中に苦労や知恵を偲び。

わら細工や陶芸などの実演や体験が出来るようになっている。 里全体が自然の中に

溶け込み自然公園のような佇まいを見せている。


池に映る合掌造りの佇まい




旧中藪家

旧中藪家は軒高が低く、勾配がゆるい板葺きの屋根で囲炉裏のある高山周辺の

平均的な農民の暮らした家で土間が生活の中心になっていた。



旧田中家

国学者・本居宣長の門弟の田中大秀が棲んだ家で田畑を所有し小作人に貸し与えていた家柄。

それらを管理する田舎として用いられてきた。「田舎」とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の

作納状況などを主人に代わって行った出先機関である。




旧若山家 国指定重文

若山家は白川郷にあった農家で御母衣ダム建設で水没する為こちらに寄付されたもので

1751年の建造で荘川造りといわれた入母屋合掌造りから白川村の切り妻合掌造りに切りか

えた頃の荘川村に残った貴重な1軒と言われている。 合掌屋根は梁の下端をペンシル型に

尖らせ、それぞれ桁にピンポイントで乗せただけの構造で、これは雪による大きな垂直加重を

受けるのに強く横からの力には弱いが、山が強風をさえぎってくれる飛騨では合理的な方法

であった。



若山家は土地の名士で、建物は広く立派な造りである。荘川や白川の大家族は一軒の家に

家長をはじめ兄弟、使用人家族など数十人が暮らしていた。それは土地が狭小で分家でき

ないほか、養蚕業は寝る間もないほどの重労働で、まとまった労働力が必要だったからだ。

長男だけが嫁をとり、次男以下には「夜這い」が風習になっていた。イロリを囲んで家長が

奥、台所に近い位置が女性、その向かいに男衆、玄関側に子供たちが座ったと言う。



旧富田家
飛騨北部には江戸時代から神岡鉱山あり、旧冨田家は飛騨地方と富山を結ぶ越中東街道沿いにあり、

神岡鉱山より北にある茂住鉱山の仕送人として荷物や牛馬の中継を営んでいた。当時の富田家には、

裏に離屋、土蔵などが庭を隔ててあり、ほかに物置、便所などが点在する広い屋敷を塀で囲んでいた。



冬を除き、旧富田家では地元のお年寄りが飛騨さしこの実演をしている。今回は「招き猫」の

絵付け体験を行っていた。 大人たちは、もっぱら「飛騨の里」の民家集落を巡ったが、

子供達は煎餅焼きや絵付けなど体験実習を楽しんでいた。


「飛騨の里」のあとは、今夜の宿である安曇野へと北アルプスを貫け、長野県へと車は駆ける。

高山から安曇野までは約2時間、安曇野に入ると丁度、長野特産の林檎の青白い実がびっしり

と稔り赤林檎の景色とは違った美しさであった。 暫く林檎畑を走りやがて常念岳裾野の赤松林

地帯の別荘地に入る。 今夜は、こちらで息子の会社の保養所での泊ることとなる。

  つづく    HOME