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                                                                                                       2015/6/9



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太安萬侶墓誌 - 古事記編纂者・太安万侶の実在を確定させた墓誌、重要文化財【大古事記展】
2014年11月11日 
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1012415564.html

1979年、奈良市此瀬町の茶畑開墾中に発見された墳墓から、短冊型の銅版の墓誌が発見された。

表面には太安万侶の居住地(左京四條四坊)、位階勲等(従四位下勲五等)、没年月日(癸亥年七月六日)など41文字が刻まれている。
癸亥年は、養老7年(723年)。この墓が太安万侶のものであることが確定したとともに、太安万侶が実在したことを証明する画期的な発見となった。

古事記の序に登場する太安万侶はその実在性が不確かだったために、古事記の序及び古事記そのものの信用を貶め、古事記の偽書説もあったものの、この墓誌の発見で、改めて古事記の序及び古事記が見直され、その編纂者としての太安万侶が脚光を浴びるきっかけとなった。

太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(723年8月11日))は、奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は民部卿従四位下。贈従三位。
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太安万侶墓

奈良県奈良市此瀬町の太安万侶墓から出土した墓誌と真珠。墓誌は青銅製、共に重要文化財、文化庁蔵、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

1979年(昭和54年)1月23日、奈良県立橿原考古学研究所より、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され(北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。

墓誌の銘文は2行41字。左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載。墓誌銘全文引用は以下の通り。

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された。

また『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財(美術工芸品)に指定されている。
1979年奈良市此瀬町の茶畑開墾中に発見された墳墓から、短冊型の銅版の墓誌が発見された。

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考古学を楽しんでいたころ

この36年前のビッグニュースを知ったのは新聞記事だった。そのころ私はまだパソコンインターネットに手を染めていなかった。世間もまた、IT産業が、ここまで進化するとは誰も予想していなかった。

その36年前と、今の世相を比較してみると、一昔×10くらいのギャップを感じる。自分が歳をとったせいもあるが、全体の動くスピードがとても速い、と感じる。
実際、そんなには性急していないとは思うが、気分的にせわしない。金のなくなり方も早い。

これまで、自筆のブログとかHPでは主に西洋歴史を考査し書いてきた。全部を習得したわけではないが、そろそろ見切りをつけて国内の歴史に視点を移そうと思いついた。そういう突然のシフトは、前触れが無いようだ。
若いころ・・・、そして幼いころ、何かに夢中になっていて、突然それに飽きて、次なる舞台へ無節操に移ってしまう、あの感覚とおなじだ。

その取っ掛かりは、基本的に「考古学」範囲にあるので、自分の枠として無理はなかった。京都「南禅寺」界隈の高級別荘群の庭園をカメラが写していた。

京都だから社寺古刹庭園かと思ったら、それは一般人(高額所得者)の所有している広大な敷地に展開する、古式なる日本庭園だった。その映像をみる限りでは、なんの変哲もない季節を捉えた明媚な庭でしかなかった。
しばらく、それを見ているとある人物の、琵琶湖疏水を利用した「濡れ山水」庭園の世界であることを説明していた。一つばかりでなく、界隈著名な人物の庭園も紹介していたが、どれもみな贅を尽くした「わびさび」芸術で、みていても気持ちのおちつくものだった。

南禅寺界隈では、レンガ作りの疎水水路が上空を走っていて、それはさながらローマ時代の古代建築を彷彿とさせ、とても興味をそそられたので、早速パソコン検索してみると、琵琶湖から取水した大事業が一緒にかかれてり、それを読み進めると、さながら日本史のおさらいをしているような感覚を覚えた。

それは面白い、今日からこれをやろう、と決めたのが丁度5月の節句ころだった。

(続編はのちほど・・・)



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2015/6/9
豊葦原瑞穂国「春夢」 春の世の夢の如し・・・
《神意によって稲が豊かに実り、栄える国の意》日本国の美称。

「此の―を挙(のたまひあげ)て我が天祖(あまつみおや)彦火の瓊々杵尊(ににぎのみこと)に授へり」〈神武紀〉

豊葦原中国(旧字体:豐葦原中國、とよあしはらのなかつくに)とも呼ばれ、単に中国、もしくは中津国(中つ国)とも言う。
日本書紀には、豊葦原千五百秋瑞穂國(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)という記載がある。神々の住む天上世界である高天原と対比して、人間の住む日本の国土を指すと考えられる。

日本神話によれば、スサノオの粗暴に心を痛めた姉の天照大神は天岩戸に隠れてしまい世の中が混乱してしまった。

このため、八百万の神々は協議の結果、スサノオに千位置戸(通説では財物、異説では拷問道具)を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて葦原中国に放逐し、高天原から追放したとされる(『古事記』では神逐(かんやらい)、『日本書紀』では逐降(かんやらひやらひ)と称する)。

スサノオの息子である大国主(オホナムチ)が、スクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させたといわれる(日本書紀)。

大国主はのち、国土を天孫ニニギに譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となっている。

なお、安房の国については、養老2年(718)に上総国から分かれ、その後、一時、上総国に合併されますが、天
平勝宝元年(757)に再び独立、上総・下総・安房国が成立しました。名前の由来は、『古語拾遺』では四国の阿波国の忌部が移住したことによるとされています。
こちらは、四国と房総の黒潮を通じた交流を物語る地名と言えるでしょう。

古社叢の「聖地」の構造(1)
──東関東の場合──
田 中 充 子
はじめに 
神社、正確にいうと日本の古社叢は、拝むところ、つまり拝所は一つではない。だれでも本殿には参るが、それ以外に摂社、末社がある。さらにご神木、神池、磐いわくら座あるいは神ひもろぎ籬などがある。本論ではそういう点に着目して、日本の古社叢の拝所、すなわち聖地の構造についてのべる。聖地についてはいろいろな説があるが、ここでは「一の宮研究の方法」(『社叢学研究第8号』上田篤)にしたがって論をすすめたい。
 
そこで「日本の聖地」である古い社叢の信仰を、そのまつられる祭神の種類からそれをもたらした者が「天孫族」「出雲族」「先住族」、いいかえると古墳人、弥生人、縄文人とする視点から事例調査した。
事例調査対象として、東関東に鎮座する一の宮をとりあげる。県でいうと、千葉県と茨城県の海岸地帯であり、昔の 国 名 で いう と、南から 北へ安
あわ房国・上かずさ総国・下しもうさ総国・常ひたち陸国である。(図1)

図1 安房国・上総国・下総国・常陸国の位置図−140− 古社叢の「聖地」の構造(1)─
東関東の場合 この四つの国の一の宮は、安房国では安房郡の安房神社(千葉県館山市)、上総国では埴はにう生郡の玉前神社(たまさき千葉県長生郡)、下総国では香取郡の香取神宮(千葉県佐原市)、常陸国では鹿島郡の鹿島神宮(茨城県鹿島郡)である。
ほかに、一宮ではないが、常陸国鹿島郡の大おおあらい洗磯いそざき前神社(茨城県東茨城郡)と常陸国の那珂郡の酒さかつら列磯いそざき前神社(茨城県ひたちなか市)を加え、合計六つの社叢について調査した。

調査対象は、社殿(本社、摂社、末社)にまつられるもののほか、聖なる地物(ヒモロギその他、木、森、井戸、水面)、聖なる地形(イワクラその他、岩、山)などとした。
これらの聖地には神がおわします、と日本人はかんがえている。それは、キリスト教やイスラム教などいわゆる西洋でいうところの神ではない。

では日本のカミとはなにか?
 
国学者の本居宣長(1730 〜1801)は『古事記伝』(巻三)で「鳥獣木草のたぐひ、海水など、其そのほか余何にまれ、尋よのつね常ならずすぐれた徳ありて、何か し こ畏き物をか み徴とは言ふなり」といっている。具体的にはどういうことだろうか。「畏きもの」とは、辞書には「おそれおおいこと」「すばらしいこと」などと書かれている。そうすると、古社叢のなかにはカミガミがいっぱいいらっしゃる、ということではないか。

それらのカミガミを祭った人々に「天孫族」「出雲族」「先住族」の三種類とするわけはここにある。

まず天孫族とは『記紀神話』にのべられているところの「高たかまがはら天原」に居住し、そこから「葦原の国」、すなわち日本国にやってきた人々である。高天原がどこであるかについては、いまのところ確定されていない。それはさておき、天孫族は「葦原の国」を稲作によって「瑞穂の国」にかえるという使命をもってきた人々である。

「葦原の国」というと、なんとなく美しくロマンチックなイメージがする。しかしそれは湿地や沼に葦が繁茂するところであって、生活するには厳しいところだ。天孫族は、そういう痩せてどうしようもない土地に「強力な軍事集団」をひきいてやってきた。男も女も武装していた。

しかし、イネがムギの何倍もの生産力をもっていることを知り、稲作が新しい時代をつくるとして大転換する。弥生人とは異なる「乾田農法」あるいは「灌漑農法」を開発し、そうして日本の各地に進出し、湿地を沃野にかえ、稲作を広めたけっか、そのモニュメントとして古墳をつくった。さらに在来人のまつる社叢を復活してそこに自分たちの「英雄」をまつった。そのシンボルとなるものが、神殿であり鏡である。 
二番目の出雲族は『記紀神話』で知られるように、スサノオやオオクニヌシに代表される。

京都精華大学紀要 第三十七号 −139−
http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no37/tanaka_atsuko.pdf



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