プロトスサーキット2016 

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                                                                                                                2015/6/17

a.フェニキア人のこと、歴史 (第一幕)

その題名で私の「ブログ」記事がある。
いったい、それを何回書いたか判らないくらい「フェニキア人のこと」について書いた。それと同じくらいヒッタイト人と文明も書いている。

といっても、その分野について私は専門家ではないので殆どコピー記事でお茶を濁していた。
だからそれを読んだとして好学心とは程遠く隔靴掻痒の思いをしている人は多数いるはずだった。書いた本人がそう云うのであるから間違いない。 (ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52053229.html

上のテンプレート画像は、フェニキアの「聖鳥」また不死鳥ということだが、図は明らかに「青サギ」(ベヌウ)で古代エジプトピラミッド王墓の装飾壁画に描かれている図とまったく同じ図柄だ。
したがって西アジア周辺をハブ核とした文明が、近隣諸国に拡散したことがあきらかであることは間違いない。

ついでに云ってしまえば、「古代文明ヒッタイト」のことについてもアナトリア(現トルコ周辺)に発生した、ということはおおよそ判っているが、それ以上の核心については幕の中に隠れたままだ。それと同一か、またそれ以上に旧いと目される遺跡「ギョベクリ・テペ」が最近見つかり調査がはじまったばかりだ。
※文明発祥地[アジアとヨーロッパを繋ぐ戦略的に重要な地点に位置するため、アナトリア半島は先史時代からいくつかの文明の発祥地となり新石器時代の神殿遺跡と言われるギョベクリ・テペや、人類最古の定住遺跡と言われるチャタル・ヒュユクなどの数多くの遺跡が発見されている。](ウィキぺデア

以前は「シルクロード交易」ルートを追って日本の古典音楽のルーツ探しをしていたが、どこで道に迷ったか、イラクの「ダマスカス鋼」に寄り道してしまった。そこには日本刀の古典技法「たたら」の秘儀がちりばめられており、しばらく投宿して時間を潰してしまった。
その甲斐あって、「鉄のヒッタイト」文明について、少しは理解したつもりだったが、いまのところ謎の「アナトリア」を更に研究しないことには、西アジア文明の核心に迫れない。

昨年、東京三鷹にある「アナトリア研究施設」アナトリア考古学研究所・中近東文化センターに伺って詳細を見てきた。といつても一般の博物館と違って一般公開はしていない。予約制で主に学童の郊外授業に使われている。(参考アナトリア考古学研究所 http://www.jiaa-kaman.org/jp/index.html

この「フェニキア人」については、ギリシア文明とは一線を画している、という雰囲気があって、資料もそれに比して沢山あるというわけにはいかない。もっとも西洋文明の端緒はすべて「ギリシア」に始まる、というのが欧米思想の根底に流れているので、その考えから一歩外れてしまうと途端に治外法権的になってしまう。

その現代ギリシア経済が、国際経済の中でデフォルト危機に陥っている、というから皮肉でもある。また、世界四代文明国家が、テロ組織の温床となったり世界に二つとない無二の遺跡遺産が破壊されるという、前代未聞の行為が繰り広げられている。

それは70年前の世界戦争の話しではなく、デジタルテクノロジーが世界を覆っているという第二次的インフラ進行の中の出来事として、まさに未曾有の宇宙的展開が始まったといえる。


今の現代生活は、誰によって作られたか?

冒頭に飾ってあるのは「聖鳥ベヌウ」の鳥だが、いまでも空を飛んでいる。
と云うと「ええっ」と驚嘆した声がきこえるようだ。その季節になると時々巣作りをしている風景を見ることがある。といっても私が聖鳥の案内人というわけではない。

ちょっとした縁で田舎に行ったら、注意深く森の頂に目をやると、ベヌウが発見できるかも知れない。ただし、とても用心深く、おおよそ200メートル離れていても、些細な音に反応してサッと飛んで逃げてしまう。それだけ臆病な性格の鳥である。
田んぼで、とくに見るのは純白の「白鷺」で、青サギは同じ種類だから、これも人が近寄るとすぐ逃げる。といっても最近はずうずうしくなって、やたらと飛ばなくなった。時代に合わせて遺伝子が構造を組み替えているのだろう。

なぜいま、この話題が聖鳥「ベヌウ」の話しなのか。

それはフェニキア(フェニックス)とおおいに関っているからだった。フェニックスは不死鳥とか、不老不死伝説とか鳳凰説とか、「エジプト神話の霊鳥ベンヌであるとも古代のフェニキアの護国の鳥フェニキアクス」とか、枚挙にいとまがないほど、形容句が沢山ある。
キリスト教徒はこの鳥を再生のシンボルとみなし教会などの装飾に用いてロゴにしてある。したがって話が旧くなればなるほど、シンボル神が同一になることは、しばしばみうけられる。その語源が「フェニキア」にある、ということは良く知られた俗説だが、本当のところは定かではない。

また異なった一説として、
フェニキアというのはギリシア語の「紫」から派生している。フェニキア人はムラサキ貝(巻貝)から染料をとりだして地中海諸国に輸出していた、という説も根強くある。がやはり定かでない。

なにしろ話しは紀元前15〜8世紀の話しをしているわけで、大作家「司馬遼太郎」のように、つい昨日のような出来事、その物語展開口調というわけにはいかない。

また時代劇モノ特有の「語り口」にあるように、現代人と変わらない思想と生活センスの表現に、ついつい騙されて、それが昔の話であること忘れてしまう。

時代劇で一番気がかりなのは、ドラマ製作担当者が「時代考証」を真面目にしているか、という疑問だ。日本人として一番判りやすくて理解しやすい例が、地理的な日本国の東京都の地勢だ。

徳川家康が、秀吉を下して、自分の納めるべき国家策定の事務所として、それをどこにすべきかという難題を前にして、小田原、鎌倉、そして東京という三肢の中から東京を選んだ。

東京は「東の都」というだけに奈良、京都から東に位置しているので東京という。その当時の東京は、見るも無残な片田舎の広大な原野湿地沼地であったことは、あまり広報として宣伝されていない。
江戸国100万都市、ばかりが先行して、徳川政権の治水事業を語った古文書とか映画とか、そんなものを見たことがない。ましてや「司馬遼太郎」の記した著作物も見たことがない。

最近、地球温暖化の影響で海の水位が上昇しているという科学的分析報告があるが、それを鵜呑みにして検討すると、ベネチアの長靴水遊びが、観光客のセールスポイントというのも、少なからずうなずける。

それをそのまま、1603年の412年前の日本の東京地方にタイムスリップしてみるとよくわかる。見渡す限り一面の湿地帯で、さながら尾瀬沼の中を渡り廊下なしで歩いている様子を再現したようなものである。

とてもじゃないが一歩も前に進めない。そこに入ったとしても「ヒル」や野生昆虫にあっという間に襲われて、柔な人間はすぐさま退散するはずだ。(※注)
世界的にも最古の文献として名高い「古事記」にあるように「豊葦原瑞穂国」と呼ぶように葦原原野の国が日本の姿で、見渡す限りの一面葦の湿地帯で、そこに棲むヒル(蛭)をモチーフにした伝説、蛭子神話を語っている。

そうしたリアルな東京の原始風景を作家司馬遼太郎は書かなかった。テレビの大河ドラマの「坂本竜馬」だったら日本人の99.9パーセントは知っているが、本当の昔の東京の姿を日本人は殆ど知らない。
東京と茨城、千葉を跨ぐ大河「利根川」を治水事業として徳川幕府が施工したというスエズ運河に匹敵するような大工事を99.9パーセントの日本人は知らない。

それから下った「明治維新」の大事業「琵琶湖疏水工事」は、近代日本の幕開けとして南禅寺界隈を、ある意味で再開発した結果である。そのような国家的大規模土木工事事業を知らなければ、日本の国土は2000年前から、平らな平野があって、その土地に2000年前より昔、はるか8000年前の縄文より日本人は暮らしていたと、日本国民は錯覚している。だから3.11の記憶、「陸前高田市」を襲った津波が予想だにしない天災だったとおもってしまう。(当ブログ参照 琵琶湖疏水

※注 倭武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の年に相模の国に至り野火の難に遇い、やがてこの剣で草を薙ぎ免れ得た事から草薙剣と言う。]天神に献上した。その後、素戔嗚の神は国神の娘を娶り大己貴神(オオナムチノカミ) [古くは於保那武智神(オオナムチノカミ)と言う。]を生んだ。そして、ついに根国に行かれた。また、大己貴神[またの名を大物主神(オオモノヌシノカミ)またの名を大国主神(オオクニヌシノカミ)またの名を大国魂神(オオクニタマノカミ)今、大和の国の城上(シキウエ)の郡の大三輪神(オオミワノカミ)である。]は小彦名神(スクナヒコナノカミ)[高皇産霊尊の子で常世に隠れられた。]と共に力を併せ心を一つにして天下を経営した。
蒼生畜産(ソウセイチクサン=人と獣)の為に病気を治す方法を定め、また鳥獣昆虫の災いを掃おうとして禁厭の法を定めて百姓は今に至るまでことごとく恩頼を蒙る。皆、効験があった。

話しをフェニキア人に戻して「チュニス」はフェニキア人の女神タニトフ 「Tanitkh」 が、アラビア語読みでトゥノス、フランス語でチュニスと転訛した、という説も流布しているが、やはりこれも定かではない。
フェニキア人の美の女神タニスを象徴するということだが傍証はない。オスマン・トルコの時代、1830年代に定めた国旗と同年のような話としてある。

笑いながら死んだフェニキア人画像参照

チュニジアで発見された紀元前4世紀のフェニキア人のデスマスクはニヤリと笑っている。
紀元前8世紀頃、古代ギリシャの詩人ホメロスは顔をゆがめさせる薬を使ったサルデーニャ島の儀式殺人について記録している。
嘲笑や引きつり笑いを意味する英語sardonic grinの語源はサルデーニャ島を表すSardiniaだ。
新しい研究によると、当時同島に住む体の不自由な高齢者や犯罪者たちは、引きつり笑いを起こす薬を飲まされて中毒を引きおこした後、高所から突き落とされたり殴打されたりして殺されていたという。

薬草の正体は何世紀も前から謎とされてきたが、今回ジョバンニ・アペンディーノ氏率いる研究チームが、ドクゼリの成分に引きつり笑いを起こす化合物が含まれていることを発見した。
10年ほど前、サルデーニャ島の羊飼いがドクゼリを食べて自殺したが、このときの死体がニヤリと笑っていたという。この笑った面の画像は、すぐ隣のページにあるので参考にしたい。(リンク

これは日本で云うところの姥捨山と似ている。余命の無いものを僻地に隠遁して、一家の平穏を維持するという生活の知恵だ。また、占いシャーマニズム的な余韻をうかがわせる。

よく映画やドラマで見かける、旧い時代の祈祷師が、トランス状態で悪霊を除すというスタイルで、早い話が、その呪い師は、ドラック薬物(サルデーニャ島の羊飼いがドクゼリを食べて自殺)を飲用して自らトリップ状態を再現し、よだれを流し白目をむいて悪霊と闘うという、一種のマジックイリュージョンのエンターテイメントだ。

最近、脱法薬物のニュースを訊かないが、「ドグゼリ」の効果はそれと殆ど同じとおもっていい。おそらく簡単にみつけられるはずで間違っても山に入って「ドグゼリ」探さぬように。飲用すればそれは確実に死ぬ。

そうしたことから、クスリの原料はほとんどの場合、植物から採取している。ちょっと前の昔の時代、近代科学が万能でなかったころ、日本でも「富山の薬売り」が薬籠を背負って全国行脚していた。

また植物は解熱とか、虫除けだとか、多方面で人間の暮らしに関っていた。ある染色家の話しでは、反物糸繊維類を染色するということは、色付けもさることながら、植物に含有している薬物効果によってそれを着る人間の肌から成分が吸収されて、人を健康にする、という二次的効果も含んでいたという話しには、思わず納得したものだった。
また、旧い社寺に植栽されている木々には、相応の理由があって植えられているものが多い。一般的に神社の境内にクスの大木が立っているが、その根を掘り返すと強烈な匂いが漂う。それには防虫効果があり、儀式用の衣装が多い神社では、それを虫除けカビ除けとして内装したという。

また「柘榴の木」が、なんとなく植えられているが、縁もゆかりもない柘榴(ざくろ)がどうして、ここにあるのか、という疑問は、それが染色に使う材料になったり、南天の実が整腸の薬になったり、イチジクの実には美白効果が期待され、ザクロエラグ酸、アントシアニンなど抗酸化作用の高いことが判っており、昔の人は、云い伝えでそれらを知っていた。

その出所が、はるかに遠い地球の裏、そして紀元前5世紀頃の地中海世界の古代文明から出ている、という事実はあまり知られていない。

チュニジアで発見された紀元前4世紀のフェニキア人のデスマスク、サルデーニャ島の羊飼いフェニキア人がドクゼリを食べて自殺したことなど、それを裏付けているが、それを証明する証拠はない。したがってそれは定かでない、としかいいようがない。

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b. 豊葦原瑞穂国 「春夢」 春の世の夢の如し・・・

「神意によって稲が豊かに実り、栄える国の意」、日本国の美称とした「豊葦原瑞穂国」とはどんな国土なのか。

「此の―を挙(のたまひあげ)て我が天祖(あまつみおや)彦火の瓊々杵尊(ににぎのみこと)に授へり」〈神武紀〉
豊葦原中国(旧字体:豐葦原中國、とよあしはらのなかつくに)とも呼ばれ、単に中国、もしくは中津国(中つ国)とも言う。

古文書研究者の解説によると、そうなるらしい。さぞ、それは美しい国土であったに違いない。しかし誰一人としてそれを見たものがいない。

日本書紀には、豊葦原千五百秋瑞穂國(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)という記載がある。神々の住む天上世界である高天原と対比して、人間の住む日本の国土を指すと考えられる。

日本神話によれば、スサノオの粗暴に心を痛めた姉の天照大神は天岩戸に隠れてしまい世の中が混乱してしまった。

八百万の神々は協議の結果、スサノオに千位置戸(通説では財物、異説では拷問道具)を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて葦原中国に放逐し、高天原から追放したとされる(『古事記』では神逐(かんやらい)、『日本書紀』では逐降(かんやらひやらひ)と称する)。

スサノオの息子である大国主(オホナムチ)が、スクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させたといわれる(日本書紀)。

大国主はのち、国土を天孫ニニギに譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となっている。

そこには神話世界が克明に描かれている。その当時、一体誰がそれを読んで理解していたのだろうか。
世界に例を見ないような話が、一字一句きっちり描写されており、後世に残されていると云う事実が脅威であるのに、それを理解できない現代人は、はたして貧しいのか豊かなのか・・・。

もっとも1300年前の当時と学習能力を較べたら、格段の差があり、リテラシー識字率はほぼ100パーセントに近い。


・メモ・
タイトル「シーメンス事件と2.26事件の「斉藤実」(第二幕)」と、場面が一転した。おいおい、それでは話しが違いすぎないか、という「雲外蒼天」のストーリー、自己満足の世界に浸り独り悦に入っていないか、という囁きが聞こえる。充分承知の上で話は展開している。

この私設パソコン上のバーチャル空間には、それらの資料が綺羅星のごとく点在しているが、まったくまとまりがない。そのはずで、単に資料としてコピー引用したものを載せてある(いい訳がましい)。それを漸く、整理しはじめたという次第にいたった。したがって先は長い。ただし自身の持続心が保てるか、と云うのが目下の課題である。

-幣帛-

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シーメンス事件と2.26事件の「斉藤実」 (第二幕)

明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。

前年の1913年(大正2年)には大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。

山縣有朋とヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も後に回顧録でこの説を容認している。

山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。この少し前に日本海軍の活躍により日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。

山本権兵衛は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革をしながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世はイギリス海軍に対抗して海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」として脅威に感じていた。

事件の概要

シーメンス横浜支配人の吉田収吉の姪が海軍艦政本部部員の鈴木周二造船中監の妻であったことから、シーメンスは入札情報を事前に入手し、イギリスのヴィッカースやアームストロングより有利に入札、海軍関係の通信・電気装備品を一手に納入し、謝礼を海軍将校に支払っていた。

外国企業が受注の謝礼をするのは当時当然の慣例になっており、宮内大臣にも贈って来ていたが、平沼騏一郎によれば歴代の宮内大臣でこの謝礼を私有せず国庫に納めたのは波多野敬直だけだったという。また日本海軍でもロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた。

この事件は、この謝礼を示す秘密書類をシーメンス社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が会社から盗み出し、買い取るよう1913年10月17日に東京支店長宛脅迫文書を送ったところに始まる。

要求金額は2500ポンド[2]とも25000円ともいうがこの脅迫は拒否され失敗、カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員アンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売ってドイツへ帰国した。

シーメンス重役陣は同社の信用失墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされた当時海軍大臣の斎藤実は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始することとし一応静観の態度を取った。
その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し、1913年11月27日にシーメンスが秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却、一度事件は終結を見た。(ウィキぺデア引用)

斉藤実 暗殺 二・二六事件

その後内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、2・26事件において斎藤は殺害された。

1936年2月26日、未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。

自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。
斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。

斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。
春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。

2・26事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。

2・26事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。
しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。

2・26事件・の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。

当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。

斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
(引用ウィキぺデア







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