岩滝公園周遊

4Since:2005/04/15-Revised:2015/07/27


公園案内図

 岩滝公園は正確には岩滝山の南斜面の内、岩滝神社の大鳥居より上の部分を云うようですが、殆どの人はそれ程厳密な区別はせず、岩滝山=岩滝公園と理解しているようです。今日はこの岩滝公園を歩くことにしましょう。

 岩滝山は、呉婆々宇山の流れをくむ標高195mの小さな山ですが、海抜0mから立ち上がり、岩が滝のように流れる峻険な山ですので、登ると意外にきつい山なのです。このため古くから聖地として崇められ、岩滝神社や岩滝観音(後に豊稔寺)が祀られました。岩滝山の頂上に観音堂があったので、“観音さん”の愛称で呼ばれることもあります。

 第2次世界大戦後、失業対策事業の一環としてここにさくらが植えられ岩間や山肌をぬって周遊の路が整備されて、岩滝公園に模様替えしたのでした。この路は、私がもっとも好きな散策路の一つで、是非皆さんにもお勧めしたいと思います。

 また、岩滝公園内には、1番から33番までの石仏(地蔵菩薩)が祀られていて、路傍の岩の上で路行く私たちをを見守ってくれています。公園周回路と観音めぐりの路は一部は重複していますが、専用の地蔵めぐりの路は周回路よりも細く険しい修業の路となっています。
 地蔵は、番外まで含めると40数体あるそうで、毎年2月3日の節分の日には、寒風をついて数十人の信者の人たちが、ご詠歌を歌いながら地蔵一つ一つを巡礼するのです。

 さて、ぼつぼつ出発しましょう。スタートは岩滝神社境内下の広場です。

  1. 馬場広場
    境内下広場 市場坂の急坂を登り、石造りの鳥居を過ぎると間もなく広い広場に到着です。ここは秋祭りには屋台がたち、同じく市場坂を登ってきた町内会の“みこし”の休憩場所になります。その広場にはさくらつつじふじの花が植えられていて、春は大変華やか雰囲気です。秋には銀杏黄葉やさくらの紅葉が見事です。

     広場右手前の小高い展望台は、通常はブランコなどのある子供広場ですが、まつりの日には御旅所に早変わりします。神官や氏子総代に担がれたお宮のみこしが、御旅所まで御神幸し神事が催されるのです。
     またこの広場には、昭和9年に建てられた大きな忠魂碑があります。
     

  2. 治水功績碑寺尾翁治水功績碑
     岩滝神社については、別項「西国街道を歩く」や「お社めぐりの小路」でご案内しましたので、ここでは省略します。正面の石段の前で一礼して左折すると、突き当たりにフェンスに囲われた防火用水があり、その後に大きな石造りの碑がひっそり建っていて「寺尾友次翁治水功績碑」と刻まれています。
     説明版も何もありませんが、古老の話によりますと、明治6年に干拓完了した鴻治新田は、その後も海水漏れで不毛の地となっていました。寺尾友次翁は永年にわたり堤防や樋門の改修に努められ、遂に農耕適地に改善されたそうです。その偉業を称えるため、町が昭和8年に石碑を建立したのです。 

     船越の平野部は今でも殆どが海面より低く、昭和17年に瀬野川の堤防が切れて大洪水になった時は、小学校の講堂の中をサヨリが泳いでいたという実話があるほどです。しかし、今は新鋭の排水設備によって管理されています。
     この他翁は正専寺の建設にも多大の貢献をされたと聞いています。

  3. さくら園
    さくら園

  4.  顕彰碑の西側一帯には沢山のさくらの古木があり、花見時期には近郊からの花見客で賑わいます。
     しかし、近年木自体は盛りを過ぎたのか、所々枯れた枝が見うけられ、平成16年の度重なる台風で、かなり痛めつけられてしまったようです。
     さくら園は段々畑になっていて、お花見弁当を開くのに大変好都合になっています。これは第2次世界大戦中の食糧不足を補うために、人々がこんな山の上まで開墾していた時の名残りなのです

    4つつじ園
    上:寒行の一行
    下:公園周回路の出発点
    寒行始め
    周回路出発点
     功績碑の右手、神社境内へのスロープにかかる所に最初の石仏・能化地蔵があります。寒行はこの地蔵さんから始るのですが、どうやら番外のお地蔵さんのようで番号は付いていません。そこから鳥居川の源流を渡ります。橋はなく、幅1.5m強のコンクリートの“飛び渡り”(歩み?)で渡る仕掛けになっています。

     いよいよ周遊路に入ります。このあたり木々が繁って昼間でも薄暗い感じ。秋にはかえでの紅葉が美しいのですが、さくらの頃は常緑樹も葉を入れ替える時期つつじ園で、間もなくむせ返るような新緑に変わります。
     時折“チーチ”と小鳥の鳴き声が聞こえてきます。一番地蔵を過ぎると路は二手に別れます。左折の急坂を登ると鐘楼下の展望台に出ますが、今は分岐を右にとって進みます。

     丁度このあたりは、岩滝神社境内にある天満宮や権太夫稲荷の真裏あたりで、路の両側にはつつじがよく手入れされています。五月に入るとさつきがキリッと引締まった小ぶりの花で彩りを添えるることでしょう。

     
  5. 奥の院分岐
    奥の院分岐 清々しい早朝の木漏れ日の中を進んでいくと、時折散歩中の人に出会います。お一人であったり、ご夫婦であったり、グループであったり。「お早うございます!」と挨拶をかわし更に登ります。
     しばらく直進の坂道を登ると、第四番地蔵のところに奥の院への分岐点があります。この分岐点を左にとると岩に俳句うたなどが彫られた歌碑の道を経て高野山真言宗岩滝山豊稔寺の奥の院に向うのですが、今は直進の路を選んで東に向かいます。落ちずの岩へ

     このあたりから、路の左右の様子がいよいよ“岩滝”らしい地形に変り、急斜面を横切りながら登ります。右手の木々の間からは下界の様子が垣間見られ、左手の急斜面ではシーズン中淡いピンクの山ツツジ彩りをそえてくれます。間もなく急な岩間を登りますので、ゆっくり進んで体力を蓄えておいて下さい。

  6. 落ちずの岩今の落ちずの岩
     やがて右手の樹海が切れると、突然視界が広がります。左手はいくつもの大きな岩が積み重なって、一番手前の正面には、三角の岩がコンクリートの台に乗っかっています。
     この岩は“おむすび岩”とも呼ばれていて、元々は下の大きな岩の上にくさびの石を敷いて微妙なバランスを保っていました。そこが面白くていろいろな名前が付けられたのでしたが、いつの日か危険防止対策が施され、普通の石になってしまいました。それでも第7番と第8番の地蔵さんがこれを挟むようにして、しっかりと安全を守っているのです。

  7. 岩間の路
    落ちずの岩付近の岩間を行く
    寒行の一行
    岩間の路
     ここからは急な岩間の路に変わります。本当は、一段ごとに下界の景色が変ってくるのですが、今しばらく見るのを我慢してふらつかないよう足元に注意して登りましょう。寒行の一行も一歩々々慎重に登っていました。
     石段の幅も高くなりますので膝が悪い人にはチョッとしんどい感じです。私も少々膝を痛めていますので、手で膝頭を押えながら登ります。杖があると楽です。

     落ちずの岩を少し進んだ所で右折し、路は一旦尾根に出ますがすぐに左折して西斜面を直進します。間もなく右に第13番地蔵がありそこで路は二手に分かれます。地蔵道分岐で、左の獣道のような道が地蔵めぐり専用の路、右に登る階段が周回路です。今は周回路を行きましょう。   

  8. 天空の眺望スポット
     路は石段を登りながら急カーブで右折し、頑張って登って行くと300度の展望-新旧対比突然視界が開けます。眼下に思わず息を呑むような下界の光景が拡がります。まさに一幅の航空写真です。
     しかし、下界をゆっくりと見下ろす前に、先ず石段に腰を下ろしてください。このポイントはそれ程広くはなく手すりもありません。景色に見とれて思わず一歩踏み出したら大変です。特にカメラを構えた時は決して足を動かさないで下さい。

     東は左やや後方の船越中学校・日浦山、南は絵下山・江田島・安芸の小富士・黄金山、西に宮島・極楽寺山・仏舎利搭まで約250度の眺望をひとりじめ出来たのです。しかし、先日久しぶりに登ってみると周囲の木々が大きくなってかなり視界を狭めているようです。特に東側の船越中学校は見えなくなってしまったようです。 

     私は昔からこのビューポイントが好きでした。気分がブルーになった時、ハイになり過ぎた時ここに来て下界を眺めました。すると下界での出来事が米粒ほどの大きさになり、たちまち我に返って気持ちが落ち着いたのでした。
     提言します、もし悩みがあったら、“キレ”そうになったら、是非一人でここに来てジッと下界を眺めてください。悩みは霧散するに違いありません。
     さて、疲れが取れたらぼつぼつ参りましょう。あと少しで頂上です。

  9. 焼け跡焼け跡
     尾根伝いに少し登った右手の斜面に、黒く焼けただれた木々が目に入ります。そうです。山火事の跡です。もう10年以上も前のことになるでしょう、山火事としては比較的小規模で火が尾根を越える事がなかったのが幸いでしたが、未だに緑がなく不気味で痛々しい感じです。
     左手にはコンクリート製のベンチがあります。かつてはこちらが最大のビューポイントでしたが、今は木々が生長して視界が大分さえぎられてしまいました。

  10. 展望広場
    展望広場 間もなく大きな山桜が目に入ります。いよいよ展望広場に到着です。細長い形をした広場ですが、ぽつんと“日限延命地蔵”が祀られているだけで、どうしてこんなに広いのか不思議な感じです。
     実はここには後に“豊稔寺”になった岩滝山観音禅院があったのです。同院は大正14年7月ここに建立されましたが、参詣者の便宜のため昭和12年6月に中腹に移座された後広場になりました。(同院は、その後昭和23年寺号を許されて高野山真言宗豊稔寺となり、更に昭和53年本堂を下手の現在地に移したので旧本堂は奥ノ院と呼ばれることになりました。)
     又、展望広場の一角に国土地理院4等三角点があります。地図にも印があって163.2とありますから、岩滝山山頂から約30mほど下った所になります。No33番地蔵

     延命地蔵の左手から茶臼山を経て呉婆々宇山へ抜ける山道が続いています。この道は岩滝山山頂への道でもあります。この路をちょっと入った所に地蔵めぐりを締めくくる第33番地蔵が祀られています。
     山頂へ行っても視界は全く利きませんので、路を左にとって下りにかかりましょう。 

  11. 展望スポット蔵岩
     下りは尾根伝いの路です。殆ど樹木の陰に隠れて展望は利きませんが、ふと気がつくと私たちを迎えてくださるお地蔵さんの番号が段々若くなっていきます。そうです、先ほど岩間の路から分岐した地蔵めぐりの路がこの下山道に合流して登ってきたのです 

    蔵岩 間もなく大きな岩場に到達し、展望が開けます。かつてこの近くに植物のグループが付けたと思われる案内板があり、「蔵岩まであと少し。大パノラマひとり占め」と書いていたので、この岩が「蔵岩」と思われます。岩の上から見渡すとやや西よりに200度近い展望です。左は海田の町から中央の日本製鋼所広島工場、その向うは坂鯛尾、金輪島、安芸の小富士、向宇品と続きます。右の端は広島市内から双葉山の仏舎利まで望めます。大きく展望がきくのはここが最期です。蔵岩でしばらく眺望を楽しんでから下山を再開しましょう。

     少し下がった右手に第30番地蔵があります。岩間の路・第13番地蔵から分岐した地蔵めぐりの路は、アップダウンしながら中腹を横切ってここで合流するのです。
     しばらく木陰を尾根伝いに進み左に曲がると、豊稔寺奥ノ院入口です。

  12. 船越観音奥ノ院奥の院
     入口には、3体の石仏・観音像が安置されています。その内の一体は、等身大でいいお顔の観世音菩薩(観音さん)です。その一角に「昭和47年奈良薬師寺管長高田好胤先生船越観音豊稔寺御手植ノ記念樹」の看板がありますが、この月桂樹は残お釈迦様念ながら折れてしまったそうで、今また根もとから新しい枝が伸びてきています。

     さて、私が訪れたのは丁度“花祭り”の日で、境内近くには色とりどりの幟が立ち、お釈迦様が花で飾られていました。しかし、花祭りはすでに4月3日に済んでいたようで、人影はありませんでした。昭和53年に本尊が下手の現在地に移されてからは、奥の院は通常無人で何かの催しあるときだけ開かれるようです。

  13. 鐘楼・休憩所
    上:鐘 楼
    下:休憩所
    鐘楼
    展望休憩所
     奥の院本堂前をまっすぐに進むと、別項歌碑の道を経て“奥の院分岐”に向いますが、周回路に引き返すことにしましょう。入口からすぐそこに鐘楼が見えます。花祭りの関係でしょうかこちらも赤や青の幟で華やかです。

     鐘楼は子供の頃から“除夜の鐘”や火事など緊急時の警報として慣れ親しんだ鐘楼です。鐘は尾根にあり、高い所で鳴るので船越中で聞こえないことろはありません。
     ふと鐘の製造年月をみると昭和43年となっていて、どうやら子供の頃聞いた鐘とは違うようです。改鋳されたのでしょうか。
     下から上がって来た親子連れが“ゴーン”と一つ撞いてまた登っていきます。

     鐘楼を過ぎるとすぐに休憩所です。さくらの時期にはお弁当を開くグループもあることでしょう。ここもかつては展望のきく所でしたが、今は木々が育って視界を遮ってしまいました。

  14. 天狗の足跡
     さて、このあたりから路は尾根を右に左に蛇行しながら下ります。休憩所から下り始めると左下に岩滝神社が見えますが、その方向のやや右前数mに大きな岩が垣間見えます。実はこれが“天狗の足跡”のついた“くぐり岩”の裏側なのですが、ここから直接には行きにくいので歩を進めましょう。

    天狗の足跡 休憩所の下に回りこんだのち左に大きく旋回し、次に右に曲がり始める階段のところで、左手を水平に上げてその指の先を見ると先程の岩があります。
     この写真は周回路から撮ったものですが、木が邪魔をしたり角度が悪くて様子がよく分りません。崖をよじ登って 間近で見ると猿の頭蓋骨のようにも見えます。私達はこの岩を天狗の足跡とも呼んでいました。(写真をクリックしてみて下さい)
     元気のいい人は是非崖をよじ登って見て欲しいのですが、滑りやすいので気をつけてください。

     天狗の足跡は、船越の民話「たかさぎさん」に由来しています。詳しくは写真の解説に書きましたが、天狗が岩滝から対岸の矢野までジャンプしたという壮大な話です。

     以上で公園内の目ぼしいところの解説は終わりです。ここからは尾根伝いに出発点まで帰りましょう。しばらく下るとさくら園の上部に到達します。
     さくらを楽しみながら朱塗りの手すりに沿って下って行くと、さくらの木が意外に傷んでいるのに気がつきます。枝が腐ったり、台風で折れたり、中には立ち枯れの木もあります。
     “そめい吉野”の寿命は60年とも言われているようですが、もう寿命なのでしょうか。樹木医に見てもらったら元気になるのでしょうか。頑張って花を咲かせているのが感じられて、このままではいかにも可愛そうです。何らかの手当てをしてやって欲しいものです。
    (注:最近若い苗木かボツボツ見られるようになりました。嬉しい限りです。)

     そんなことを考えているうちに、治水功績碑のところまで帰ってきました。これで岩滝公園周遊のご案内を終了します。

     お疲れさまでした。!!

    歌碑の道
     前述の 5.奥ノ院分岐から14.船越観音奥ノ院に至る道には、俳句や仏歌を刻んだ岩がいくつかあり、距離的には短いのですが、「歌碑の道」と名付けるにふさわしいものがあります。よって「岩滝公園周遊」の1項目に格上げしますのでご紹介します。是非改めてお訪ね頂きたいと思います。

    句碑南面 歌碑の道に入るには、周回路の奥ノ院分岐のからと船越観音奥ノ院からの二つの方法がありますが、ここでは奥の院分岐を左にとる道順でご紹介します。分岐から幅広の階段を60歩30段ほど登ると道は大きく右に曲がります。階段を登るときは下ばかり見て通常上を向きませんので、これまで気付きませんでしたが、顔をあげ正面を数mも見あげると大きな岩に文字が彫ってあるのに気付きます。

     ひとりゆく ものに うぐいす なきに鳬(ケリ) 鯉城

    と読み取ることが出来ます。読み人は恐らく「鯉城」さんと読んでよいのでしょう。自信はありません。間違っていたらごめんなさい。
     この道は何度も通っている道ですが、どちらから行っても目立たない位置で、頭の上にこんな句があるとは気がつきませんでした。先日知人を案内した時指摘され初めて気付いた次第です。そして改めてその岩がこれまで見知っていた句碑の南面であることに気がついたのでした。
     一旦右に取った上り階段をUターンで戻るとすぐに平坦な道に変わります。そして左手のやや低い位置に三角柱状の大きな岩があって

     うららかや ゆびさすあたり いつくしま 霊人

    の句が彫られています。やはりあの句碑に間違いありません。
     今は周辺の木々が大きく成長し下界の様子などは伺えませんが、かつてはここから厳島が望まれた事でしょう。「霊人」さんは長く出自が不明でしたが、先日「こどもいわたき」という船小創立100周年記念誌で、作者は花都の住人田中霊人さんといい、元植田高明町長も俳句の門下生だったということが明らかになりました。従って鯉城さんもその一門と考えられます。

     道は岩滝山の中腹を水平に西に向かいます。公園整備の時 山を削って棚状の道が付けられたのですが、岩滝山というだけに削られた山肌には岩が露出しています。句碑から10数mも進んだ右手の岩肌に、仏歌が2首並んで彫刻してあります。
    仏歌12

    最初の歌は

    もとのほとけに かゑれの教
     きいておこなゑ いきほとけ
     賢弘

    とあります。作者については心当たりがありません。その並びの左隣に

    のりのみち
     しるもしらぬも
      わたすべし 
    元市

    それから更に10数m進むと仏歌3また別の元市さんの歌があります。 

    さむくとも
     たもとにいれよ にしのかぜ
      みたのくにより ふくとおもゑは 
    元市

     深い歌の意味はよく分かりませんが、恐らく素直に理解すればよいのでしょう。最初の俳句と違って弥陀の教えを刻んだものと見受けました。地蔵さんには祀った人の名前が彫ってありますが、その中に「元市セイ」というのがあります。果して同じ人物なのでしょうか。

     道は南に開けた水平な道なので、本来は下界の見晴らしが良いはずなのですが、成長した木に遮られて視界は殆ど利きません。あきらめて仏歌を見ながら西に向かうと間もなく奥ノ院境内に到着です。
     

    以 上