12.船 越 峠

(Since:2007/03/29)

 船越峠については、これまで「船越の西国街道」など他項でもふれてきましたが、H18年11月から始まった船越峠頂上付近の開発によって、昔の面影が殆どなくなる事が予想されますので、独立したアイテムとして整理しておくことにしました。

昭和32年船越峠-水野誠三氏撮影

 船越郵便局から、ほぼ一直線に登ってきた街道は的場橋を渡ると大きく右に曲がり、ほんの少しの間的場川と並走します。的場川は間もなく右折しますが、街道は船越峠までまっすぐに北上していきます。
 峠の頂上付近は、かなり深い切り通しになっていて、かつては道の両側の石垣の上から木々が覆いかぶさってきていて、昼でも薄暗く空気も冷んやりして大変淋しいところでした。写真は昭和32年の船越峠ですが人影もまばらな道でした。
 この峠は、自動車のような文明の利器で越すとそれ程ことはありませんが、徒歩や大八車など人力による場合は厳しい峠です。しろうが子供の頃、小学校の年中行事に船越峠の“お地蔵さん”まで往復するマラソン大会がありました。地蔵堂は府中永田バス停近くにあり、往復約3kmほどありますが、船越峠の上り下りは心臓が飛び出ると思うほどきつかった想い出があります。今でもママチャリで通学する高校生の多くは、自転車から降りて押してのぼっていきます。

 江戸時代「船越峠」はいろいろな名前で呼ばれていたようです。文献に出てくる船越峠の呼び名は次の通りです。

  1. 「寛永15年船越村地詰帳」(1638年)
    地詰帳は今でいう課税台帳で、田畠屋敷の所在地、面積、所有者、収穫高が列記されています。これは船越で現存最古の地詰帖ですが、船越峠近くにたをという小字(コアザ)があり、2400u程のやせた畠があったようです。“たを”は間違いなく“垰(タオ)”で、船越峠のことに違いありません。垰という一般名称が小字に使われ 固有名詞化したのでしょうか。

  2. 「正徳2年安芸郡府中村社寺堂古跡帖」(1712年)〜府中町史・資料編
    中国行程記と芸藩通志の府中村絵図には“比丘尼坂”という表示があり不気味に思っていたのですが、先年この古跡帖の中に「ここもり御立山(現柳ヶ丘団地)下の往還筋に比丘尼切坂というたをがあります。そこにひくにの塚といわれる墓があります」との記述を発見して合点がいきました。切坂とは切り通しというほどの意味でしょう。
    この墓はしろうが子供の頃“お地蔵さん”と呼んだ前述の地蔵堂で、マラソンの折り返し地点だったところに違いありません。


  3. 「濱ちどりの記」(1720年代中頃)〜加藤缶楽妻・閑子
    「そのほど過ぎて船越坂まで古松いよやかにして 竹などしげりたる如く雲を凌ぎて生たり。旅人も夏のあつさを此所にわすれ侍る」

    当時の船越峠の様子がよく偲ばれます。船越坂は固有名詞化していたのでしょうか。

  4. 「中国行程記」(1750−60年頃)〜毛利藩絵師有馬喜惣太
    船越村絵図に“比丘尼坂”の書き込みがあります。しかし、この絵図の街道は、的場橋を越えると比丘尼坂にかかり 更に有江坂(不明)を経て船越・府中境に至っています。

    この絵図の村境は、海田市場合も府中と同様かなり西に寄っており、作者はその位置を勘違いしていると思われます。

  5. 「文化度国郡志」(1815年)〜芸藩通志の基資料
    同書は船越の峠として、“的場峠”と“怨ィ首峠”の二つを上げており的場峠について
    的場峠 麓より壱町廿間上り峠之間」
    と述べています。的場峠とは船越峠のことと考えて間違いありません。


  6. 「芸藩通志」(1829年)
     通志は藩内の村々の絵図を収録しています。この中で船越村絵図は府中村に向かう峠を「マトバ坂」と記しています。
     一方、府中村絵図では船越に向かう坂道を「ヒクニ坂」としていて「正徳2年安芸郡府中村社寺堂古跡帖」の記述に合致しています。

  以上 江戸時代の船越峠の呼び名をご紹介しましたが、“船越峠”の名前は見当たりません。「濱ちどりの記」の“船越坂”が 最も近い表現ですが、“峠”は頂上を意味しますのでそこ迄の上り道は“船越坂”でいいのかも知れません。江戸時代の総括として、芸藩通志に従い船越側を“的場坂”、府中側を“比丘尼坂”と呼ぶのが妥当のようです。 

 ところで、しろうが子供の頃地元の大人たちは、的場橋から峠に向かう街道沿いの地区を“新垰(シンタオ)”と呼んでいました。このあたりの字(アザナ)は“細田”といいますが、その中でもより街道沿いのところを云ったのかもしれません。「新垰の○○さん」というように場所を特定するのに使っていたようです。
 いずれにしても、新垰という限りは“新垰は何時出来たのか”“古垰のどこを通っていたのか”が気になります。ここ数年来、関係資料を求めてきましたが、未だそれを裏付ける史料は見つかっていません。ただその間に聞いた古老の情報や参考資料等がありますので整理しておきます。 

1.古老たちの話
  1. 新垰と古垰の道筋
     新垰が的場橋を渡って右折するのに対し、古垰はそこを直進して小請田山東側の中腹を北上し、現船越峠の近くにあった旧避病院の入口をかすめながらもう少し上った後 府中永田に下っていた。だから当時の船越峠は今より20m近く西よりで10-20m位高かったはず。
  2. 新垰完成の時期
    “ハチ山(現柳ヶ丘団地)”に広島鎮台(明治21年より広島師団の演習場(砲兵隊)があり、その為に必要だったのだろう。新垰は明治20年以降に作られたと思われる。
2.しろうの記憶に残る古垰残道(昭和20年代)
  • しろうが子供の記憶にも、古老たちの云う古垰らしい残道があります。その残道は次の3つですが、昭和38年に始まった請田団地の開発まで残っていたようです。  
  1. 行き止まりの道(現存)
     的場橋から請田に直進する急坂の道があります。この道は団地開発前からありましたが、この広い道は行き止まりになっており、何のためにつけられたのか不思議に思ったものでした。
     しかし、この崖は新垰開発時かその後の宅地造成で削り取られたものと考えられ、このとき古垰道の上り口は消滅したともの思われます。
  2. 請田の広い農道
     請田団地東壁の崖上は、かつては段々畑・柿の木畑・大きな墓所などがありました。そして次項ハチ山道分岐から、大八車が通るほどの道がついていました。その他の請田の道は、人が一人通る程度の広さなのに随分様子が違う印象でした。
  3. ハチ山道分岐の棚状の道?跡
     船越峠の手前100m(理髪店の位置)のところに、Y字型にハチ山(日焼山=柳ヶ丘)道を分岐する三叉路があって、ここからもう一本請田への道が派生し逆K字になっていました。ハチ山道新設時の名残でしょうか、ハチ山道と請田道の間は、山肌が大きく削り取られてその中程に長さ数mの棚が残っていました。

     これは古垰の残道と考えられないこともありません。ちょうど前項の広い農道と避病院前の道を結ぶ高さだったのです。
    船越峠の新垰と古垰
    船越峠の新垰と古垰

 古垰?の写真
写真は、最近ふるさと写真保存会が入手した昭和39年頃の「船越町航空写真」の一部を拡大したものです。
写真左の白い部分の上半分が開発中の柳ヶ丘団地の北東部で、下半分が請田団地です。請田団地を取巻くように色の濃い部分がありますが これが急傾斜地です。
右の写真をクリックして 拡大写真を確認してください。請田団地のすぐ右にかすかに旧道らしい筋が写っているのがお判りでしょうか。
 これがしろうの記憶に残る道に間違いなく、写真の中にこの道を発見した時は感動しました。もしこれが古垰ならば最高です。
3.寛永の地詰帳に見る“たを”の位置
 寛永15年船越村地詰帳に、たをの位置を推測させる記録があります。
  • 船越峠付近の農耕面積(集計値)
  •  地 名       田  畑  面  積
    小請田 4,100u(うち 田 4,100u)
    まとば 3,500u(うち 田 1,100u)
    た を 2,400u(うち 田  200u)
    池の迫 2,200u(うち 田 2,200u)
    道ノ下 2,500u(うち 田 2,200u)
    はき原  700u(うち 田  400u)
    ほそだ 4,600u(うち 田 4,600u)

     この中で注目すべきは道ノ下という字(アザ)です。とは、たを=古垰を意味するに違いありません。また道ノ下というからには、道は高いところつまり小請田を通っていたことになります。上の表は道ノ下のほとんどが田で、逆にたをの大半が畠でたをには水が十分でなかったことを示しています。
     明治に入って、池の迫・道ノ下・はき原ほそだに統合されたと考えられますが、この地は萩原山麓の谷あいの地で、比較的水利に恵まれていたと考えられ、田畠合計10,000uのうち 田が大半の9,400uを占めています。

  •   注1:”ほそだ”
    街道は的場橋を渡って右折して“新垰”に入り、的場川とちょっとの間並走した後、まもなく右折した川と分かれて北上する。この川の北側で請田団地と東の小山との谷あいの地域が、“細田”である。
      注2:現在の“たお”
    現在も注1の地域を現すのに“たお”という言葉が使われているが、これは新垰を略したもので、正式字の“細田”と同じ意味に使われている。従って、“たお”は新垰開通後に出来た俗称で古垰を意味するものではないと考えられる。
      注3:不思議な小請田の田
    小請田とは現在の請田団地であることは間違いないが、しろうの記憶では団地化の前でも東斜面に水があったとは考えられない。ただし、小請田山の西斜面と堀越に向かって分岐した八幡山との谷間に水が湧き、田んぼが拓かれていたことも考えられる。
4.新垰掘削の時期
  •  残念ながら、新垰掘削の時期を明らかにする史実は発見出来ませんでした。軍事施設だったせいでしょうか、ハチ山に演習場があった記録すら見当たりません。
  •  確かに、明治6(1888)年広島城内に広島鎮台が設立、同19年に広島師団に改称、同21年には師団司令部が置かれるなど広島の軍事施設が強化されていますが、演習場までは確認出来ませんでした。
     しかし、第2次大戦中ハチ山の現チェリーゴード付近に陸軍の探照(サーチライト)隊が駐留して、日本製鋼所を守護していたことは事実で、戦後しろうもその残骸を確認しています。従って、明治時代に演習場があっても不思議ではないと思われます。
  •  一方、調査を進めていくうちに、新垰の開通の必要性は単に演習場だけの問題ではなく、国・県をあげた施策の一環ではないかと思うようになりました。
  •  船越町史によりますと、西国街道は明治9年に国道4号線に昇格していますが、依然として未整備で屈曲が多く幅員の狭い前近代的な道でした。
  •   明治13年広島の県令に就任した千田貞暁は、物資の渋滞が生産不振の原因なっている状況を憂い、その打開策として港湾・道路整備を重点に取り組むこととしました。そして明治15年 国・県道の認定路線を定め、20年代にかけて県内の主要道路の改修・整備を進めました。
  •  しろうは、船越峠の新垰もこの時整備されたのではないかと考えます。その時期は、はっきり特定することは出来ませんが、明治21-2年頃広島から海田市まで乗合馬車が走っていた記録があります(船越町史)ので、明治20頃までには新垰は完成していたと思われます。
 以上新垰・古垰について考えてきました。確定的な史実は見つかっていませんが、現時点では明治20年頃までに近代化の一環として整備されたもので、それまでの古垰は、請田団地の東壁上を通っていたというのが しろうの見解です。そして船越峠という呼称は新垰開通以降に定着したのではないかと推定します。皆さんは如何お考えでしょうか。
 参考:西国街道が最初から新垰のルートを取ったらどうなるか
 前出の「船越峠の新垰古垰」の写真を見ると 確かにそんな気がします。そこで仮に 400年前に 新垰ルートで峠越えするとどうなったかを考えて見ます。
 この場合、街道は的場橋ではなく細田の支流を合流する地点より上の浅くて狭い所で渡川したはずです。そして谷あいを進みハチ山道分岐(現理髪店)の近くで、 いきなり屏風のような萩原山の尾根に行く手を阻まれます。文化度国郡志船越編の「的場峠:麓から壱町廿間上り峠の間」といえば頂上から約140mでこのあたりになります。
 尾根の高さは現在の路面から20m以上。尾根とその裾野に切り通しをつけるとすれば、府中側も含め長さ200数十m近くになります。少し手前から上ろうにも小請田山の裾野は、的場川の支流に洗われて何度も崖崩れを起こしていて上ることは出来ません。
 切り通しをつけることは可能だったかもしれませんが、結局、のぼりやすい的場橋付近から小請田山の登り坂にかかり、徐々に高度を上げるのが順当だったのではないでしょうか。このため、峠の切り通しも比較的少なくて済んだと思われます。又芸藩通志船越村絵図がマトバ坂としているのも的場橋から登ったからでしょう。
 通常、歴史書の距離の単位 “町”は“丁”と同義語で、任意に使われていますが、当 国郡志船越編の場合には距離はすべて丁、面積を町と使い分けています。従って、しろうは毛筆・草書体でしかも個性的に書かれた「四丁」の2文字を「町」と読み間違え、壱町と書いたのではないかと考えています。船越峠から4丁20間は約500mで丁度的場橋付近なのです。

 一方、そんな単純なミスをするだろうかという疑問も捨て切れません。しかし、どう考えても1町20間の峠道に無理があるし、道ノ下のあざ名など寛永の地詰帳の解釈など新たな問題を生じるので、現時点では古老の言伝えに従うことにいたします。
 

以上

参考文献
「船越町史」
「府中町史」
「芸藩通志」:文政12(1829)年頼杏平編
「古路・古道調査報告書」:平成4年広島市教育委員会
                 広島市歴史科学教育事業団