みんなの手で創る木田金次郎美術館
みんなの手で創る木田金次郎美術館  
有島武郎との出会いとその精神的背景   木田金次郎のほぼ50年に亘る画業が“孤高の画家”と呼ばれるのは、単に絵の師につかず中央の画壇と無縁だったから、または、頑迷なまでに有島の遺志を遂げようとした「美の捧誓者」としての生涯を貫いたから、というだけのものではなく、むしろ、有島を通して語られ、また小説のモデル画家として見られることから脱却し、画家としての自己を如何に確立するかという苦闘の結果だったのだろう。
 木田金次郎は内外の美術事情に良く精通していたものの、それらを拒否し自己の意志を貫くために、時流に対しても闘い続けた。
 このような厳しい制作の条件は、独自の絵画世界を切り開くこととなり、ひたすら自然を熟視することによって刻一刻と移りゆく自然の動きを瞬時にして捉え、その姿を生々しく描き出していった。
 昭和29年の岩内大火の被害は、例外なく木田の作品千数百点をも一瞬のうちに焼失させた。木田の受けた衝撃は計り知れないものがあったに違いない。
 しかしそれも、多くの知己からの激励と文子夫人という強力な理解者によって再びその旺盛な制作意欲を取り戻し、その画風は木田金次郎が予感したとおり、大きく変化することとなった。
 筆致や色彩はともに激しく奔放になり、自然に対する感動をより直載に伝える作品が生み出されるようになった。
 それは、大火によって失われたそれまでの自己の歴史を一挙に奪い返そうとする必死の努力であったのかもしれない。
 木田の生涯は、有島武郎との出会いが木田芸術への道としての宿命的なものとしたと同時に、有島の没後において尚、もうひとつの“生れ出ずる悩み”をもって生きなければならなかったのだ。

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