23.
そのきらめく刃を、ルークは息を飲んで見つめていた。
かつて、瘴気を消そうと命を賭した時も、アッシュとの対決の時も、ローレライの剣はふたりの間にあり、ふたりを裂くようでもあり、繋げるようでもあり・・・ふたりの強固な絆の主張そのものであった。
ルークはそっと手を伸ばし、ローレライの剣に触れようとした。
アッシュが拒むかと思ったが・・・アッシュはなにもいわず、むしろそうするのが自然というように、今や自分の体の一部と化している剣を、ルークにぽんと渡した。
両手を掲げるようにして覗き込むと、ローレライの剣は『剣』の状態で『鍵』ではない。
独特のフォルムの中心にあるべき宝珠はない。
一体それは・・・どこにあるのだろう?
ローレライの剣を凝視するルークの横で、同じように剣を観察していたジェイドは、感心したとも呆れたとも思えるため息をつき、
「しかし・・・コンタミネーション現象を、そうと知らずに使いこなすとは・・・。」
と、そこで言葉を切った。
切ったのは、思わずこぼれそうになった言葉を皆に聞かせない為だった。
ジェイドはコンタミネーション現象を利用して槍を出現させるが、それは科学の理論を理解したうえで『そういうもの』として使っているからだ。
だが・・・アッシュが起こした現象は、彼がそうと思わずしてやっているもの・・・。
やはり第3施設の"ローレライ"はアッシュで間違いない。
もしも、科学の理論もなにもなく自分ではそうと思わず、コンタミネーション現象を起こせる者が近くにいたならば、ジェイドですらきっと思う。
こいつは"人"ではない、と。
しばらく手の中のローレライの剣を眺めていたルークは、見ているだけではなにもわからないと判断したようで、ひとつゆるく首を振ると、ありがと、と言ってアッシュにそれを返す。
受け取ったアッシュは、ゆっくりと頷いて・・・すぐさま、ローレライの剣は霧散するように光り輝き、アッシュの中へと取り込まれていった。
それを全員が黙ったまま見つめる。
完全に剣が消えた後、アッシュは自分の手を見つめていた。まるでそこに見えない剣がまだ存在しているかのように。
やがて飽きたように顔をあげ・・・全員が自分を見ていることに気がついて、アッシュが一瞬怯んだような仕草を見せた為、ルークはにっこりと笑い、そろそろ寝よか?とまるで子供に言い聞かせるように言う。
頷くアッシュに、ガイは立ち上がり、寝室を用意させるよ、と告げた。
「ガイ、ガイ!俺アッシュと同じ部屋が良い!」
「ん?まぁ、ルークがそれが良いならそうするが。・・・でもこの家、部屋余ってるんだけどなぁ・・・。」
「それはわかるって!でも、夜中にアッシュが何か俺に用があるかもしれないだろ?」
「・・・・・。」
その会話を、アッシュは黙って横で聞いていたが、その顔には、俺は夜中に人をたたき起こすようなことはしない、と書いてある。
不服そうなその表情に忍び笑いを漏らしつつ、ガイは、じゃあそうするか、とウィンクをして見せたが・・・それは、嬉しそうに頷くルークにではなく、不満だろうが了承してくれとのアッシュへのメッセージに違いなかった。
メイドに客室の用意が整ったとの報告を受けた時、ルークたちはお風呂に入ったアッシュの髪を乾かしている最中だった。
初めて風呂に入れた時はひとりで入れなかったのに、アッシュは2回目以降はひとりで入りたがった。
アニスの言うのに、導師は一般人がごしごし体を洗うようなことをせず、大勢に支えられながら儀式的な湯あみを行う習慣なのだそうだ。次期導師と目されていたハレルヤであるアッシュも、それまではそういう方法でしか体を洗えなかったのだと推察していたのだが、一度湯あみ以外で体を洗うことを知ってしまうと、もう今までの方法は嫌らしい。アッシュは色々なことを学習しだしていた。
だが、髪を乾かすという面倒な作業まではひとりではまだできないらしく、それは本人にも自覚があるようで、大人しくルークたちに任せていた。
今回はガイではなく、ティアが手伝っていたのだが・・・。
「本当、まっすぐで癖のない髪ね。手入れがし易いわ。」
羨望の混じった賞賛に、自分が褒められたかのようにルークが嬉しそうに笑う。
その様子を微笑ましく見ながら、アニスがそっとジェイドに目配せをした。
ジェイドはそれに気付いているのかいないのか、何も答えず、同じようにルークたちを見つめている。
やがて、おやすみの声と同時に、髪を乾かし終わったアッシュとルークが客室へと引っ込むと、ガイが部屋に残った人数分の紅茶を言いつけて、一同は暖炉の前へと移動する。
暖炉を囲むようにぐるりと半円状に座った彼らは、同じようにして沈黙し、ある者は腕を組んだり、あるいは紅茶のカップを手に持ったまま、揺らめく炎を見つめていた。
「・・・それにしても。」
口火を切ったのはガイだった。
「・・・まいったな。アッシュのアレは・・・こういっちゃなんだが、平気なんだよな?旦那。」
「体のことでしたら、別段支障はありませんよ。私の場合と同じですから。」
「でもでも!」
さきほどからうずうずしていたアニスが、待ってましたと言わんばかりに、捲し立てる。
「大佐は、自ら体系化してるんですよね?アッシュの場合は、自分でそうだと思ってやっている訳じゃないじゃないですか!」
「ええ。わかりますよ、アニス。」
それは、ジェイドの感想と一緒だった為、頷いて見せて、
「・・・意識してやっていない・・・たとえば本能的なものでやっているのだとしたら・・・アッシュは少し、"人"から離れた存在であるのでしょうね。」
「人から離れている・・・。」
「"人"を超えている、と言った方が表現としては適切ですか。人間は己が世界を支配していると錯覚している生き物です。我々が生物の頂点にいる、とね。確かに、生物としてはそうなのでしょうが・・・世界の理に転換してしまうと、それは違う。世界を構成しているのが、間違いなく音素である以上、世界に君臨しているのは、音素集合体ですよ。・・・今のアッシュは、人間よりもそちらに近い。」
納得した、というような顔で、ガイはがしがしと自分の金色の短髪を掻いた。
「やっぱり第3施設にいたという"ローレライ"は、アッシュなんだろうな・・・。」
「おそらく。・・・本当ははっきりさせる為に、彼の検査をするべきなのでしょうがね・・・。」
「・・・アッシュ本人はともかく、ルークがうるさそうだな。」
「ええ。」
沈黙がまた落ちてきて、全員が思案に入ったようだった。
やがて、ふぅ、と溜息をついてナタリアが首を振った。
「わたくし・・・こういう言い方は嫌なのですけれど、アッシュが"人"を超えた存在だということに・・・なんだか合点がいきますの。今の彼はどうにも・・・聖人君主に近い気がして。昔の"アッシュ"を知っているからかもしれませんが、時々まるで違う人のように感じられてしまって"ハレルヤ"の上に"アッシュ"の姿をうまく思い描くことができないのですわ。」
「うん・・・。」
「人の思い込みというのは、得てしてそういうものですよ。」
ジェイドが言った。
「我々は"アッシュ"を探してダアトを出発しました。その間探していたのは、かつての"鮮血"と呼ばれる彼です。それぞれが知っている"アッシュ"と今の"アッシュ"を比べてしまうのは、仕方のないことかもしれませんよ?」
それに対して、そうね、と相槌を打った後、ティアが言った。
「でも私・・・少し不謹慎かもしれないけれど、今の"アッシュ"で良かった、とも思っているの。」
まだ熱い紅茶の上に、一度視線を落とし、顔をあげて続ける。
「だって・・・昔のアッシュは、あまりにもルークに対して頑なだったでしょう?でも、今のアッシュにはそれがない。・・・もしかしたら、昔のアッシュにだって本心はルークを認めていたのではないかって。その証拠なんじゃないかってそう思えるの。」
「それは、間違いないと思うぜ?」
ガイが同意する。
「・・・アッシュは、まぁ・・・今更、幼馴染として弁護するが、ファブレ侯爵家にいた頃決して幸福じゃなかった。みんなも知っただろ?預言に死を詠まれて、国に知られて、死ぬ前に兵器として人体実験されて・・・。でも、俺たちが思うような不幸というのも違ったのかもしれないとも思う。そんな生活の中でも、ヤツはヤツなりに、なにかを得てもいたのだろうと思うんだ。それこそ子供時代を犠牲にして必死になるようななにかを、さ。それがルークが生まれた途端に一気に覆されたんだ。ルークの存在を疎んじてしまったのは仕方のないかもしれない、とな。だが、どうにも思うんだが・・・本気でアッシュがルークをアテにできないと思っていたのだとしたら、連絡すら取らなかったんじゃないか?」
うーん、とアニスが唸った。
「ルークの存在を認めてはいたけど・・・自分の思い通りにならないから、苛立ってルークに当たり散らしてたってこと?」
「そうだな。なにしろあの頃のルークといえば、自分の存在を否定することばかりだったからな。」
「けれど、今は違いますわ。」
ナタリアが言った。
「前回の戦いの最後で・・・ルークは自らの存在理由を悟った・・・。そして、今は間違いなくアッシュの役に立っている・・・。そうですわね。たとえ、アッシュが変わってしまっていたとしても、悪いことばかりではありませんわね?」
「そうだよぅ。」
「とはいえ、楽観視もできませんよ?」
ジェイドが言った。
「"人"を超えていると言いましたが、それは人間としてのアッシュの存在が、不安定であることを意味してもいるのです。我々は今まで以上に、アッシュの状態に注意しなければなりません。」
釘を刺すようなジェイドの言葉に、それは承知していますよ!とアニスが反抗してみせた。
貴族に復活しても、長い間習慣としていた為に、ガイの朝は早い。
翌日、朝の5時には目を覚まし、肩慣らしの早朝稽古をこなした後、皆にふるまう朝食のメニューをチェックしに厨房に顔を出す。
今日は卵をたっぷりと使っているオムレツと、チキンのサラダ、焼き立てのパン、じゃがいものポタージュを用意して貰うつもりだったが、ガルディオス伯爵家に仕えて2年の料理長は、すでにそんなガイの考えを読んだかのように、ボールに卵を泡立てている最中だった。
朝の挨拶を交わし、ガイがルークはミルクを飲まないことなどを付け加えると、かしこまりました、とにっこりと笑う料理長は、女性客が多いからとデザートまで用意してくれるという。
気の利く使用人というもののありがたさを身に染みてわかっているガイは、昨日の食事も皆が喜んでくれていたことを思い出し、もう一度賛辞の言葉を貰えそうだな、と機嫌よく思った。
リビングで暖炉の火を入れている時だった。
ガイは気配を感じで後ろを振り返った。このメンバーはひとりを除いてほぼ早起きで、別に先を急ぐ旅路にいなくとも日が昇り切るかいないかのうちの誰かしらは起きてくる。だから、その誰かだろうと思って、なんの疑問も抱かずにいたのだが。
「・・・あれ?」
「・・・ガイ。」
そこにいたのは、寝間着姿のアッシュだった。
起きたままという体で、髪を梳かしておらず、どこか眠たげですらある。
「どうしたんだい?」
まさか寝ぼけている訳でもあるまい、と思いながらも、まるで子供に向けるかのような笑みを浮かべて寄って行けば、アッシュは彼よりも背の高いガイを見あげ、
「・・・ルークが。」
と、なんと説明して良いやらという表情でつぶやいた。
「ルーク?」
「具合が悪そうなんだ・・・。診てやってくれないか?」
「・・・ちょっと待っててくれ。」
ガイは手に持っていた暖炉のひっかき棒を立てかけ、アッシュの横に並ぶ。
「具合悪いって、どんな感じだ?熱がありそうなのかい?」
アッシュは首を振った。
それは、違うとも、わからないともとれる仕草で、ガイは昨晩遅くに自宅へと戻ったジェイドを呼んだ方が良いか、と一瞬悩んだ。
風邪、というのならガイでも看病の仕方はわかるが・・・もしも、彼の体質故の・・・レプリカ故の・・・不調なのだとしたら専門はジェイドだ。(死体相手ばかりしていたとはいえ、医学の知識もある)事を大きくするのはまだ早いかもしれないが、念には念をということもある。
調度その時、玄関の開く音がして、ジェイドが来訪したことを知らせる。
「・・・どうしました?」
廊下で裸足のままのアッシュの姿に気がついたジェイドは、すぐに異変に気がついて、こちらが説明する手間を省いてくれた。
「具合はどんな感じなのですか?ルーク。」
「・・・だるい・・・。」
ベッドに仰向けに転がったまま、ルークは目も開けずに言う。
腕をあげてぱたりと頭の上に置き、風邪かなぁ、と呑気な口調で言う。
「診断するのは私ですよ。・・・風邪を引いたという自覚があるんですか?」
「ない、けど・・・。でもグランコクマは比較的寒いからさ。知らず知らずのうちに冷えたのかもって。」
「寝冷えでもしたか?」
「・・・わかんねーけど・・・。昨日はアッシュと一緒に眠ったから、温かかった記憶しかねー・・・。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」
一瞬の沈黙の後、ガイは、子供かおまえたちは、と突っ込みを入れる。
「いや、だって・・・。」
言い訳がましく口を開いたルークだったが、なにを言ったら良いのやら言葉に迷ったらしく、そのまま大人しく口を閉じる。
そのままアッシュをチラリと見ると、アッシュは状況がわかっているのかいないのか、黙ったまま首を傾げていた。
「とりあえず、ルークの具合が良くなるまでは動けませんね。」
仕方ありませんねぇ、という口調でジェイドが言う。
「あれ?これからどこか行く予定だったっけ?」
聞いた覚えがないルークだったが、初耳はガイも同じようだったから、別にルークが忘れている訳でもなさそうだ。
実際にジェイドも、昨日は言わなかったのですが、と説明を加えてから、
「・・・アッシュを連れてダアトに向かうことを提案しようと思っていたのです。」
と言った。
「ダアトに?」
「ええ・・・。アッシュがハレルヤであったなら、ローレライ教団に黙ったままではまずいでしょう?未だにカンタビレはアムラジェを追っているのですから。」
「あ、そうか。カンタビレのアムラジェ捜索は、ハレルヤ殺害の容疑がかかっているからだったな。」
「ええ。今後のアムラジェの処遇がどのようなものになるにせよ、ハレルヤが生きていたのなら、その事実だけでも教団からカンタビレに知らせて貰わないとなりませんね。」
そうでしょう?とベッドの上のルークを見下ろせば、ルークは複雑な表情を浮かべている。
ジェイドの話はもっともだが、これからのことを考えたら不安を隠せない、といった感じだ。
個人的な感情に基づく意見を取り上げていては面倒になるので、ジェイドはそれには気がつかないフリをしてアッシュを見ると、アッシュは、こくんと頷いた。
素直な承諾のそれは、アッシュが別段、教団に対して警戒・・・もしくは嫌な感情を抱いていない証明になっているようだった。
それは良かった、とジェイドが言うと、アッシュは、
「だがそれは、ルークの具合が良くなってからだ。」
と、まるでアッシュが保護者のような口調で言うので、今は自分が保護者面をしているルークは、おおいに拗ねた顔をして首を尖らせたのだった。
「えー?ルーク、風邪なのぉ!?」
「いや、まだ風邪と決まった訳じゃないんだが・・・。」
不満そうなアニスになぜか反射的に謝ってしまうガイである。
「一応、旦那があれこれとルークを診てた。後で診断を下すって一旦、自宅へ戻って行ったよ。」
ご丁寧にジェイドは、ルークの血液まで採って行った。
念には念を、と言うジェイドだったが、その目は完全に嬉しそうに輝いていて、思わずルークに同情したガイだった。
「それにしても、ルークってさ。やたらと風邪を引くよね?」
「え、そうか?」
「そうかって・・・そう思わないの?ガイ。」
というのはティアの声で、若干の非難が含まれているのは、気のせいではない。
このメンバーの中で、ルークとの付き合いの長さはナタリアも同じだが・・・片や城にいる婚約者、片や同じ屋敷で寝起きしていた使用人では、一番にルークの性質を知っていなければならないのは、ガイだろう。
「総長を倒す目的で旅していた時も、ルークって一月に一度のペースで風邪引いてたじゃん!そりゃ寝込んだりすることは稀だったけどさ。」
それこそジェイドの「馬鹿は風邪をひかない筈なんですけどねぇ。」を何度聞いたかわからない。
ガイは、うーん、と唸って、
「・・・そういや、そうかもって思うけど。小さい頃のルークは、しょっちゅう寝込んでたりしたから逆に今は、問題なく健康に感じるんだよな。」
「えー。」
「そういえば・・・私も、ファブレの家までせっかく訪ねていったのに、ルークに会えない事が度々ありましたわね。」
「うーん・・・。子供は免疫力がないっていうからねぇ・・・。」
と、アニスが自分なりの答えを見つけたと言わんばかりに言う。
「それなら、今日の予定は空いてしまった訳ね・・・。」
ティアが頬に指をあてて小首をかしげるという、旅の間に度々みせていた仕草で(案外癖なのかもしれない)つぶやいて、
「今後のことも決まっていないし・・・。」
と今日、相談しようと思っていたことを告げると、ああそれは、とガイは今朝のジェイドとの会話を皆に伝えた。
「あー・・・そうか。ダアト・・・忘れてた。」
薄情なセリフはアニスのもので、ガイは苦笑する。
だが、その笑みが消えるか消えないかのタイミングで、アニスは、ぽつりとつぶやいた。
「・・・ダアトに行ってハレルヤ様だと確認されたら・・・アッシュは教団に引き取られちゃうしなぁ・・・。」
「・・・・あ。」
そうだったなと思い、改めてアニスを見ると浮かない顔だ。
見ようによっては寂しそうでもあるその表情に、ガイは意外な感想をもった。
アッシュが同行しようがしまいが・・・アニスはあまり気にしないと思っていたからだ。しかし、今の表情を見る限り、できればまだダアトには行きたくないと考えているのが丸わかりだ。
見れば・・・ティアはともかく、ナタリアもやはり喜ばしく思っていないという顔で、うーん、と唸ってガイは、がしがし頭を掻いた。
自分は・・・どうだろう?
アッシュの話題になると、ついルークの反応ばかり気にしてしまうけれど・・・今回、アッシュとはずいぶんと打ち解けた感があるから、寂しいといえば、寂しい。しかし、彼の性格は大きく変わってしまっている。
本来の"アッシュ"と今の彼はかけ離れていて、自分はアッシュと別れたいのかいないのか・・・どう考えたら良いのか、戸惑う。
どっちにしろ・・・アッシュがダアトにいることになれば、自分も残ると言い張るルークの姿は目に見えるようで、すべてが、すんなりと収まりそうにないのは間違いがないと思われた。
「まぁ、どのみちそれも、ルークの具合が良くなったらの話だよね。」
とアニスは、アッシュと同じことを言った。
階段を上る足を止め、アッシュ、とルークは振り返った。
目の前の巨大な扉は大きな音をたて、今にも閉じようとしている。
反射的に飛びついたのと、扉が閉じるのは一緒だった。
アッシュ!アッシュ!!
ルークは狂ったように扉を叩き、真っ白な部屋にひとり取り残された彼の名を呼んだ。
アッシュが残っちゃダメなんだ!
ここに、アッシュが残ったら!!
叫べど、叩けど、その向こうからは何の物音も、人の声も聞こえず、ルークの焦燥感を煽る。
中でなにが起こっているかがわからない。
けれど、確実になにが起こるかは、わかる。
アッシュ!!
どうか、どうか・・・!!
オレヲオイテイカナイデ・・・・・!!
伸ばした手を、ぎゅっと掴まれた感覚で目を覚ました。
「ルーク?」
「・・・アッシュ・・・。」
まだぼんやりとしたまま視線を下げて、汗ばんだ自分の手が決して離すまいと握りしめているものの正体に気がつき、ルークは慌てて手を開いた。
あまりにも強い力だった為に、アッシュの手が白くなるほど、ルークの指が食い込んでいた。
確実に痛いだろうに、アッシュはその手を解こうとしなかった。逆にその事がルークはいたたまれなくって、そっとアッシュの顔を伺えば、そこにあったのはルークへの怒りでも煩わしさでもなく、純粋に具合の悪いルークの様子をみようと、身を乗り出して心配しているアッシュの姿だった。
「・・ごめんな、アッシュ。」
「なにを謝る?」
手が痛かっただろうという事以外にも、謝ることは実は、たくさんある。
今、面倒をかけてしまっている事。
余計な心配をかけてしまっていること。・・・自分がアッシュを守ると言っていたくせに。
そのくせ、アッシュが心配してくれているという事実が無性に嬉しく、そこに付け込んでいる自分。
そして。
存在を奪ってしまったこと。
白い部屋にひとり、置き去りにしてしまったこと。
追っていた師を、アッシュの代わりに自分が倒してしまったこと。
本当は・・・それはアッシュの悲願だった。
あの長くも短い旅の間、大爆発によって自分が長くないと思っていたアッシュを動かしていたものは、自らの手で師を倒したい、その一心だった。
かつての長馴染みとのほの甘い約束も、己の存在を奪ったレプリカであるルークへの拘りもその過程にあるものに過ぎず、アッシュは本当の己の存在意義を、ヴァンという男の上に塗りつぶすことで得ようと本気で望んでいた。
アッシュと一度同じになって、その記憶を見て。
ルークは痛いほどそれを知っている。
けれど、今のアッシュには、ルークが口にする謝罪の意味が、半分すらもわからない。
今もルークの言葉の意図を掴めないまま、静かにルークの表情の目を凝らし、そこになにがあるのかをアッシュなりに理解をしようとしている。
かつての彼らの間には望むべきもないことだった。
こうして分かり合おうとする事すら、彼らにはない選択だった。
ここにいるアッシュはアッシュであって別人で。
ルークが白い部屋にひとり置き去りにした彼の人の姿を、もう見ることはできない。
その時、ルークは初めて、自分の考えていたことに我に返ってぞっとした。
アッシュは、なにも気がつかないように、不思議そうに表情を変えたルークを見ている。
その目の不安が過らないように手を握り、ルークはさらにその上から、ぽんぽんとアッシュの手を軽く叩いた。
にこりと笑いかければ、にこりと笑い返す。
再会したばかりの時よりも、さらに表情は柔らかさを増している。
かつてのアッシュにはなかったもの。
アッシュではなくなってしまったかのような、彼。
もしもアッシュの記憶が戻らず、これからの一生、ずっとこのままだとしたら。
彼は、生まれ変わったようなものなのだろうか。
なにもかも考え方すら変わり、もう二度と、認められなかったもの、許せなかったものを思い出すこともなく、それはそれで幸せであることは間違いない。
けれど。
そうなったら、ルークは二度と、会えば自分を罵倒していたあの頃のアッシュに会うことはない。
あの時伝えたかった言葉も、本当はこうしたかったという本心も届くことはなく、それは。
まるで、アッシュが死んだままになっていることと・・・同じに、思えた。
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