初めてルークと対峙した時。
ルークは己と同じ顔に恐怖し吐き気を覚えたというが、アッシュは舌打ちした。
舌打ちをした理由はどっちだったのか、これが己のレプリカかという嫌悪感からか、それとも思惑が外れたことに対してだったのか。
いずれにしろ、アッシュはルークに対して、鏡を覗き込むような違和感を感じなかった。
思っていたよりも、自分とルークは似ていない。
・・・それがアッシュの感想だった。
35.
むしろ、ローラ博士とアムラジェが似ても似つかないという状態だったなら、話は早かった。
それならば、アムラジェはアストンやアッシュの印象通りただの人間だという事になるからだ。
けれど・・・。
「こんなに同じ顔の人間が、赤の他人ってことないよなぁ・・・。」
名簿の写真をもう一度見ながらガイが言うと、
「双子ということはないでしょうか・・・ないですわね。」
一瞬、双子という可能性を考慮しようとしたナタリアは、ローラ博士とアムラジェの年齢の開きに気がついて、即訂正した。
アムラジェはどうみても17、8歳の外見をしている。そんな年の離れた双子などありえない。
「いっそ・・・親子というのは?」
「・・・10年前の名簿に記載された年齢によると、ローラ博士は現在32歳だ。・・・アムラジェが17歳だとして、ローラ博士が15歳の時の子供ってことになるぞ?」
「15歳でも子供は産めるけど・・・。」
「アムラジェが大人っぽく見えるだけで、本当は15歳くらいなのかもしれないわよ?そうしたらローラ博士が17歳で産んだということになって、そんなに無理がないように思うわ。」
「いや、待て。そうじゃねぇ。」
親子説のあるかなしかを考えて出しているところに、アッシュが待ったをかける。
一同が瞠目するなか、アッシュは「そこじゃなくってだな。」ともう一度繰り返した。
「親子なら確かに外見が似ていてもおかしくはない。だが・・・ローラ博士のこの顔とアムラジェの顔はそっくりだ。そっくり同じと言っても過言じゃねえ。けれど、そんなことが・・・ありえるのか?」
「確かに・・・親子って考えてもそっくりすぎだけどぉ。」
少し不満そうにアニスが言った。
「・・となると、やっぱりローラ博士とアムラジェは、被験者とレプリカって事なのか?」 ガイが顎に手をおきながら言う。
「アストンさんやアッシュの説を否定して悪いけど、正直俺は、ここまで似ていたならアムラジェはローラ博士のレプリカ以外ありえないと思っているんだ。」
アニスも、うん、とその横で頷く。
「それに関しては、俺も否定しねぇ。」
アッシュが同意を示すと、アニスは怪訝な顔になった。
「じゃ、なに?」
「お前、さっき言ったな。まるでローラ博士が年をとっていないみたいだ、と。」
え、そんなこと言った?という感じでアニスは目を丸くしたが、別に意見を変える気はないようだった。
「俺もそう思う。・・・正直、このふたりは、被験者とレプリカとしてもあまりにも似すぎている。それに対して、俺は違和感を覚えるんだ。」
かつての話だが、とアッシュは続けた。
「一度・・・どこでだったか市場で偶然、レプリカとかちあった時があった。その時、並んで立っていた俺たちに向かって、店の主人が聞いてきた。お前らよく見たら双子か、とな。よく見たら、ということは・・・よく見ないと、俺たちが同じ顔をしていることに気がつかなかったということじゃないのか?それに関しては心当たりがあったから、やはり他人から見てもそうなのか、とその時は思ったんだが。」
「心当たり?」
「ああ。俺が・・タルタロスで初めてレプリカの顔を見た時・・・あっちは俺の顔を見るのはそのずっと後になったようだが・・・初めて見た時、俺にあまり似てないな、と思った。」
一同はうん?と少し考えるような顔になった。
似ている、似ていないというのなら、ふたりは確かに同じ顔なのだが・・・。
その続きは、アッシュが口にした。
「お前たちだって、俺とレプリカを間違えたりしないだろう?確かに一見、俺たちは見分けはつかない。だが、少しでもどちらかを知ってしまうともう俺たちを混合することはなくなる。お前たちが、俺をレプリカと間違えないように、ギンジや漆黒の翼の連中が、レプリカを俺と間違えることはない。・・そうだろ?」
「それはそうだけど・・・。結局、なにが言いたいわけ?」
アニスが口を尖らすと、そのせっかちな態度に、だからそういうことだ、とアッシュは苦笑した。
「人間ってのは、生きていると色々なことがある。その経験値の良しあしで、纏う雰囲気や顔つきが違ってくるってことだ。本気で見分けがつかないほどの双子となると生活のパターンが似ていたり、生まれてからほとんど離れて暮らしていなかったりするものじゃないか?・・・アムラジェが生まれていたことすら認識されていなかったレプリカだったとして、被験者のローラ博士と見分けがつかないほど似ているというのは・・・違和感を覚える。そういう話なんだ。」
「つまりアッシュは」
そこで発言したのはティアだった。
「アムラジェがロ―ラ博士のレプリカとすることに異を唱えるということね?」
「そこまではっきりとした反論をしたい訳じゃねぇ。」
アッシュは肩を竦めて、
「顔のことは、アムラジェがローラ博士のレプリカでないと辻褄が合わないことも認める。そのうえで、違和感を覚える。それが気にし過ぎだと言われば反論もできん。だが、どうにもしっくりこなくて気持ちが悪い、腑に落ちない。そう言いたいだけだ。」
そう言うと、自分の役目は終わったかのように口をつぐむ。
それに対してガイは、
「おいおい・・・。言いたいことだけ言ったら、満足して終わりかよ?」
と苦笑した。
事実、アッシュは主張したいだけしたら、後は知らんといった体だ。きょろきょろと周囲を見回し、怪訝そうな顔で、おい、と低い声を出した。
「あいつは・・・どうした?」
あいつと言われて、全員が我に返る。
ランチを食べて戻ってきて、上機嫌で大人しくしている姿を見てから、全員の頭の中から朱赤の彼のことが抜け落ちていた。
周囲を見回しても、あの赤い髪は視界に入らない。
慌てた様子でティアが立ち上がり、それに倣うようにして全員も椅子から腰を浮かせる。
仮にも図書館で大声で呼ぶわけにもいかないし、なにしろ見かけは青年という子供だ。迷子にでもなられたら説明のしようもないし、どうしよう、と焦っている一同から離れたアッシュが、回廊のように広がる図書館を見上げると、3階の踊り場あたりから、ちょこんと、赤い靴の先が見えた。
「・・・なにをしている?」
階段を上り、アッシュが近づいて、床に腹這いで本を覗き込んでいた彼に上から声をかけると、にぱっと笑って「にん!」と言う。
にん?なんじゃそりゃとアッシュが屈むと、どうやら「オールドランド童話」に夢中だったようで、得意そうに、これこれと挿絵に描かれた丸い怪物を指さした。
「ありじごくにんー。」
「はぁ?」
なんのことだ?とアッシュは挿絵をじっと見て・・・遥か昔、遠い記憶を呼び起こす。
それはたぶん、失われてしまった場所での、ほんの些細な記憶の欠片だ。たしか、乳母に読み聞かせをしてもらったことがある・・・ような気がした。
アッシュは首を振って、本物かどうかもわからない残像を振り払い、朱赤の彼から本を取り上げた。
ぱっと身を起こした彼はアッシュの頬にくっつかんばかりに近づき、これこれ!と得意そうに、もう一度怪物を指さす。
「グミあげるー。」
「・・・あ?」
「あ、いたいた!良かったー。」
階段を駆け上ってきたらしいアニスが軽く息を弾ませて、勝手にどっかいっちゃ駄目だよぅ、と朱赤を叱ったが、どうにもこうにも怒られていると思っていない彼は、嬉しそうに笑うだけだ。
「あれ?童話読んでたの?」
アッシュの手元の本に気がついたアニスまで、ありじごくにんだよ、懐かしいーー!となどと言う。
なんのことやら訳がわからないアッシュが首を傾げていると、それに気がついたアニスが、前にさー、と事の次第を説明しだした。
「ケセドニアの路地裏に、ありじごくにんを名乗る謎の人物が、こういう恰好して立ってたんだよー。グミとかさ、欲しがるくせにあげると砂の中に放り込んで、ほんとになにしたいんだって感じだったんだぁ。」
「・・そんなものにつきあってたのか。」
ヒマだなお前ら、とアッシュが呆れて言うと、
「つきあったのは主にルークだって!絶対に詐欺かなんかだっていうのに、怪我してたら大変だからとか言ってパナシーアボトルあげちゃったりしたんだよ!あの時、戦争してたから物資高かったのに!!」
今思い出しても腹立つーー!と違うことにいきり始めたアニスに、止めなかったのならお前だって同罪だろう、とアッシュが言う。
「・・・まぁ、確かに。最後の方では私もなんか面白くなってきちゃって、あげちゃえーって言った記憶あるけどさ。」
「そんなに何度も会ったのかよ・・・。」
馬鹿だな、と思わずアッシュがつぶやくと、朱赤の彼が嬉しそうに、ばかだなーと真似をする。
「あ、こら!誰が馬鹿なのよ、あんたでしょ、あんた!ありじごくにん気に入ってたのは!」
「ありじごくにんー。」
朱赤の彼は、きゃらきゃら笑い、ありじごくにんーと繰り返す。
「ありじごくにんーありじごくにんーとくながー。」
「トクナガは関係ないー!」
「・・・俺には、たいした違いがないように見えるが。」
と騒ぐ子供ふたりに頭を抱えながら、アッシュはアニスの背中の大事な武器の顔を見た。
それにしても。
ちらり、と床を転げまわって喜んでいる朱赤の彼を見る。
それにしても・・・。一同のいた場所から、この本棚まで、けっこうの距離がある。
ひとりでここまで来て「オールドランド童話」を探したのだとしたら・・・彼の行動範囲が広がっている、とみるべきなのか。
すると今度は、ガイが階段をゆっくりと上がってくるのが見えた。
なんやかやと過保護というイメージがあったから、血眼で探しているものと思ったがそんな様子もなく、ふと見上げた視線の先で朱赤の彼と目が合って、にこりと微笑んでいる。
「よ!」
床に寝転んでいる朱赤の彼の頭をくしゃりと撫ぜると、お姉さんに面倒見て貰ってたんだって?と言う。
「お姉さん?」
「ああ。どうやら俺たちにほっとかれて退屈してたらしくって。どこぞの学生さんが面倒みてくれてたって、図書館の人が教えてくれた。その人がここまで連れてきてくれたんだろうけど・・・。」
いないな、ときょろきょろしながらガイが言うので、最初から誰もいなかったぞ、とアッシュは答えた。
「あれ。じゃあ、授業に戻っちゃったのかな?お礼を言いそびれた。」
「別に良いだろう。そいつも礼が言われたくて、こいつに親切にした訳ではあるまい。」
「そりゃ、そうだろうけど・・・その考えは、社会通念としてどうよ。・・・お前って出世しないタイプだよな、普通なら。」
「お前は出世するタイプだな。普通に。」
俺は別に出世に興味ない、とこの歳で詠師までいった男に言われ、ガイは苦笑した。
その夜は、やたらと寒かった。
たしかに大学のある街はだいぶ北に位置しているが、夏に差し掛かっているというのに、宿には季節外れの暖炉の火が入れられたほどだ。
一同は、今までの情報を整理するという名目で、その前に座ってお茶を飲んでいた。
目的は達せられたというには情報は乏しく、けれど皆無だった訳でもない。その状態は、逆に落ち着かずどう考えたら良いか迷う。
面倒くさいなぁ、とアニスがぼやいた。
「なんていうか・・・。ローラ博士とアムラジェのこともそうだけど、結局・・・リグロとアムラジェを結びつけるものは見つからなかったし。やっぱり、ローラ博士を外してしまうと、リグロとアムラジェが知り合いだったってのは無理がある気がする・・・。」
「同感ですわ。」
ナタリアは言い、はぁ、と溜息をついてから、その行儀の悪さに気がついて姿勢を正した。
「それは初めから覚悟のうえだろう。」
壁に寄り掛かっているアッシュの言葉はそっけない。
「そもそも、何を目的に行動しているかわからない奴らを追っているんだ。思うように成果があがらなくでも仕方がない。」
「あれ?意外ー。」
アニスがきょとん、とアッシュを見る。
「なにがだ。」
「いやー。てっきりあんたのことだから、思うように捗らなかった事を怒るかと思ってたー。」
「状況を把握できずに、やみくもに腹を立てるほど子供じゃない。」
「えー。でも昔、ルークに・・・。」
「あれは!」
アニスの言わんとしようとしたことに気がついたアッシュが、それを遮るように声をあげた。
「あの屑の卑屈さが、燗に触ったんだ!妨害もあったんだ。思うように事が進まなくったって仕方がねェ。それを悔しがるならいざ知らず、全てが自分のせいであるかのように、なにかと謝ってきやがって。少しは胸を張ってここまでやったと言ったらどうなんだ・・・!」
「・・・あなたに対する負い目があったんですもの。それをあの時のルークに求めるのは酷というものだわ。」
パタン、とドアを閉めて戻ってきたティアに、アニスが、おかえりーと暖炉の前の席を薦めた。
「大人しく寝たかい?」
ポットごと差し入れて貰っていた紅茶をカップに注ぎ、ティアの好みのミルクをたっぷりと入れてから、ガイが尋ねる。
目の前におかれたカップはほかほかの湯気を立てていて、思わずティアの口元がほころんだ。
「ええ・・・。少し時間がかかったけど。」
朱赤の彼を寝かしつけるために、ふたりで出て行ってから優に30分はかかっている。
「はじめのうちは、なんだか興奮してて・・・ありじごくにんがどうかしたの?」
それに対して、ぶふっとアニスが笑ったが、アッシュは眉間に皺を寄せただけで黙っていた。
「今度は、素直に引き受けて欲しいものだわ。」
その嫌味はアッシュに対してだ。
朱赤の彼に寝るように促した時、彼は素早くアッシュの後ろに隠れてなかなか言うことを聞かなかった。どうやらアッシュに寝かしつけて欲しいらしいのだと全員が察したのだが・・・当のアッシュに全力で拒否され、それなのに、どやされても怒られてもしがみついて離れようとせず、何度かの根気強い説得の後、渋々差し伸べられたティアの手を取ったのだ。
きっと昼間あまり構ってもらえなかったからだよ、と名残惜しそうにアッシュを振り返る顔を見て、アニスは可哀想に思ったのだが、アッシュは我関せずといった態度だ。
それでも、以前よりはアニスがアッシュにつっかかる機会は減っていた。グズだのと言葉では言いながらも、アッシュは朱赤の彼を足手まといだとは、けっして言わない。面倒はみなくても気にかけている。昔はそこまでの理解は及ばなかったが・・・ここまで一緒に行動していれば、言葉の冷たさだけに惑わされないくらいには、全員がアッシュという人間に慣れていた。
「悪かったな。俺が代われば良かった。」
ティアのアッシュへの嫌味に返答したのはガイで、俺は慣れているからなぁ、と続ける。
「むしろ・・・懐かしいよ。あの頃は俺もまだガキだったからうまくいかなくって、内心では寝かしつけるのが嫌だと思ってたんだが。ゲンキンなもんだな。」
「わー、ガイってば。昔っから苦労性!」
「あはは。よく言われるよ。」
「そのうえ、色々皆を気遣ったりしなくちゃならないし。まるでお母さんだね!」
「ですわね。」
「そうね。」
「おいおい・・・。」
せめてお父さんにしてくれー、とガイが変なところで嘆くと、からかうネタが出来たとばかりにアニスがにんまりと笑った。
「いやいや、やっぱりお母さんだって。ルークのお母さん、ブウサギのお母さん。」
勘弁してくれよー、と言いながらもガイは、そういえばブウサギたちの世話誰がやってんのかなー、などと気になる様子でつぶやく。
「まあ、お母さんというのは別にして、確かになにかの世話係ばかりやっているのは事実かな。だからこそ人の面倒をみる事とかに、自信もあるのさ。」
「なら、次からはお前がみれば良い。お前なら寝かしつけるのも上手いだろう。」
アッシュが当然のように言うのに対して、ガイは苦笑した。
「いやいやそれは・・・。まったくもって不憫なことこのうえないな。」
「なにがだ。」
まるでわかってない風のアッシュに、あの子は寝るのを嫌がっているんじゃないんだよ、と言う。
「あの子は、おまえに構ってもらいたいんだ。ティアでも俺でもない。おまえが良いんだよ。」
その時の、アッシュの顔は一種の見ものだったと思う。
アッシュは素に戻った。一瞬、ぽかんとして、ガイの言葉を理解するのに数秒かかったらしく、理解した後は、急激に怪訝そうな顔になった。
「なんでだ。」
「なにが?」
「なんで俺なんだ?子守なんぞ、得意じゃねぇぞ?」
え、得意とか不得意の問題だと思ってるの?とアニスが目を丸くする。
「えー?あんなにあんなにアッシュに纏わりついているのに?アッシュに一番懐いているのに、自覚ないの?」
「懐く?」
アッシュは困惑顔だ。
「なんで俺なんだ?他にもいるだろう?」
お前たちと一緒に楽しそうにしている、と真顔で言われ、照れて誤魔化している訳でもなんでもなく、本気でアッシュがそう語っているのだと気がついたアニスは、たしかにこりゃ不憫だ、と嘆いた。
朱赤の彼も、そしてアッシュ自身も、である。
導師という立場から、周囲に人がいても気の置ける仲間というものを持てなかったイオンを近くで見てきたアニスには分かった。・・・長い間、アニスにもいなかったがそれは自業自得だ・・・アッシュは、人の好意が自分に向けられるという経験が異常に少ない。そしてそれがあたりまえだと自分では思っている。だからこそ・・・朱赤の彼が自分を慕うという構図が理解できないのだ。『理解』の必要なことは一ミリもないというのに、そこに『なぜ』とい理由を見つけようとする。
そして、アニスは急に思い出した。
そうか、この人は長い間を孤独に生きていたんだった、と。
そんな個人の問題を人前で追及することは、不本意だった為、アニスは話を切り上げることにした。
「ま、いっか。それで、明日はどうするの?」
一瞬、皆はいきなり話題が変わったことに面食らったようだったがなにかを察したのだろう。本来の目的は達成されたことだし、と何事もなかったように、そのまま話の流れに乗る。
「そうだなぁ・・・。いつまでもこの町にいたところですることもない。どこかに移動するとしようぜ。」
「そうですわね。」
「それじゃ、買い物ができるところにしましょう。そろそろ足りないものが出てきたし。」
ティアの言葉に、じゃあさ!とアニスが提案した。
「ケセドニアはどう?ちょうど昼間に話題が出たことだし、ありじごくにんがいないか、あの路地裏を覗いてみようよぅ!」
朱赤の彼も喜ぶだろうしと言うと、アッシュは眉を吊り上げたが・・・結局、反対はしなかった。
コツン!と窓ガラスになにかが当たる音に目を覚まし、温かいベッドから抜け出す。
裸足を冷たい床に下すと、一瞬、震えが走ったが、それよりも好奇心の方が勝った。
窓を開けて、首だけを外に出して覗いてみると、暗闇の中、なにかがひらひらと揺れているのが分かった。
それが、昼間に教えられたのと同じ合図だと気がついて、ぱっと表情を明るくし、彼は部屋の扉を開けた。
誰もいない廊下をぺたぺたと歩いて階段を下り、宿の外へと出てみたが、厚い雲が月を遮っているせいか、周囲はよく見えなかった。目を凝らして、目印のハンカチで作った蝶を探すと、植木の影から目的の蝶と一緒に白い手が、おいでおいでと自分を誘っているのが見えた。
彼はなんの警戒心も抱かずに、そちらに向かう。
昼間、遊んで貰った時、夜に続きをしようと約束していた。今度はなんだろう。ありじごくにんの絵本以外に魅力的ななにかを教えて貰えるだろうか。
わくわくと心弾ませていた彼は、後ろから忍び寄る影にに気がつかない。
夜目にも分かる赤い髪は、間違いなく"ローレライ"だ。
その姿にほっとして、同時にしくり、と心の奥でなにかが痛んだ。
レムの塔で別れて以来の再会だったが、昼間、図書館で声をかけた時、彼は自分の事を忘れてしまっているようだった。
それもある意味では、仕方がないのかもしれないとは思う。
彼は赤子も同然で、ほんのわずかな時とこちらが思っている間にも、様々なことを学び、記憶の中にそれらを仕舞い込んでいく。過去の記憶の上へ上へと上書きするように。その間に彼の周りには変な連中が現れて、彼の面倒をみるようになり、すっかりと自分の役目は取られてしまった。今や、彼の中で自分の存在意義などないに等しいのだろう。ましてや一度などは自らの意志で自分の手から逃げ出している。
でも、それももうすぐ片がつく。ようやく彼を取り戻せるのだ。
歩いてくる彼の後ろに、黒い影が忍び寄って行くのが見える。
怯えさせないこと、怪我をさせないことを約束させている。万が一のことはないと思うが、前回のような暴走はごめんだ。
彼女は息を詰めて、男が計画を実行するのを待った。
子供は振り向かない。
白いハンカチの蝶に気を取られ、まっすぐ前を向いているその赤い髪に手を伸ばした。
やっとこれで・・・目的が達成されると思った瞬間、ひょっと風を切る音がして、あと数センチで届く筈だった指先から血が噴き出した。
たいして深くはないが、風圧、それだけで皮膚が斬られたことに気がつき、驚いて振り向いくと目の前にあったのは、今まさに自分が手を伸ばしていたものと寸分違いのないものだった。
「・・・・!?」
驚愕して、後ろを振り返る。
赤い髪をした子供が、きょとん、とこちらを見ている。
その向いには、まさに合わせ鏡の如く、同じ顔をした赤い髪の、男。
「こんな夜中に、彼をどこに連れ出そうってのか、ぜひお聞かせいただきたいね。」
その横で、金髪の青年が、剣呑な表情を浮かべてリグロを見ていた。
はっと気がつけば、リグロたちを取り囲むようにして、研究所で会った面々が逃げ道をふさぎ、立ちはだかっている。
案じて見れば、彼女は隠れていた茂みから、後ろ向きに下がりながら出てきた。
その視線の先は確認できないが、この連中の中の誰かがいるのは明白だ。
万事休すとはこのことだった。リグロは慌てていたが、彼女を見れば、その顔に浮かんでいるものは意外にも穏やかで、彼女がすでにこの状況を諦めているということが察せられた。
リグロの首筋に、ひたっと冷たい剣の切っ先があてられる。
観念しろよ、と金髪に青年に言われ、リグロの目に映るものすべてが、絶望で真っ赤になった。
「くそ・・・っ!」
ここまで来て、こんなところで、まだ目的が達成されていないのに!
この連中に阻まれてたまるか!
リグロは隙をつき、懐に入れていた小型の瓶を取り出した。
即座の殺傷能力のあるものではないが、中にはある薬品が入っていて、破裂すると化学反応によって煙が発生し、それを吸った者は音素の感覚を麻痺させる。マルクトの軍施設に押し入った時に使用したものだった。
それを、すばやく地面にたたきつけた。
「あ、何を!?」
「貴様・・・!」
気づいて動揺してももう遅い。
事前に抗体を得ているリグロと彼女以外の者はここで気を失う。
邪魔は入ったが、それからゆっくりと"ローレライ"を回収すれば良い。
目を覆う光の中、リグロは口元に笑みを浮かべた。
「唸れ烈風、大気の刃よ・・・・・切り刻め!タービュランス!!」
ぶわっと周辺の地面から砂塵が巻き上がり、それは空へと化学反応の煙を散らしていく。
一瞬にして、強烈な光も煙も消え去り、薬品を入れていた瓶の破片だけが残る。
驚愕の表情を浮かべたリグロが、何事が起こったのかと周辺を見回すと、赤い目でリグロを見据えたままコバルトブルーの制服を着た軍人が、深い闇の中から抜き出てきたかのように現れた。
「大佐!!」
「ジェイド!良いところに来てくれた!!」
タービュランスにより窮地を逃れた一同は、現れたジェイドの姿に安堵の表情を浮かべた。
当のジェイドはいつもと変わらず、余裕の態度だ。
「やれやれ・・・。鳩で連絡を受けてから、妙な胸騒ぎを感じていたんですが・・・そんなところが当たっても嬉しくありませんねぇ。」
油断しすぎですよ貴方たちは、と呆れたように言われ、一転、全員がバツの悪い顔になる。
その事を責めるのは後にしましょうと、恐ろしいことを言って、ジェイドは今や捕らわれの身寸前のふたりの、女性の方に向き直った。
「貴女は気がつかれていないと思っていたようですが・・・。とっくに彼は自分の爪に施された譜術に気がついてました。」
"彼"と示され、憮然とした表情で腕組みをしているアッシュを見て、女性は明らかに動揺をした。
戸惑いもここに極まるという表情で、アッシュと、朱赤の彼を見比べる。
「彼って・・・でも・・・。」
「ああ、そうでしたねぇ。」
ジェイドが言う。
それはそれは冷たく、嘲笑うように。
こういう時のジェイドは、いっそ、彼こそが"死神"にふさわしい。
自分が死んだことに気がつかない者を、強引に黄泉の国に連れて行く使者さながらに、ジェイドは彼女たちに告げた。
「貴女は自分が勘違いをしていることを・・・初めから、ここに至るまでの、その全てにおいて大いなる勘違いをしている事を知らないのでしたね。」
不機嫌そうに、そしてつまらなそうに、自分の左手の爪をガリガリとひっかいているアッシュの横で、朱赤の彼が、久しぶりに帰ってきた友人に向かって、じぇいどーと嬉しそうに笑いかけた。
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