おかえり。
37.
「そうか・・・。ローラ博士が研究所からこつ然と姿を消したというのは・・・大爆発によって、アムラジェの体と記憶を乗っ取る為に・・・乖離したからなのか。」
ふと、気がついてガイが口にすると、そうでしょうね、とジェイドは言った。
「・・・まだ誰もその瞬間を見たことがないのでわかりませんが・・・スターから聞いた限りでは、『自分はすぅっと消えてしまった』そうですから。」
「それにしても、ずいぶんと早いな?」
そう言ったのは、人間の体験者であるアッシュだ。
「俺の場合は、7年たってから大爆発の兆候が出始めた。・・しかも、スピノザの説によると、俺がレプリカとのフォンスロットを開いた為に時期が早まったという話だ。アムラジェはまだ生まれてから2年だろう?」
「それについては・・・大爆発にはまだ未知の部分が多いからとしか言いようがありませんが・・・。それを言うなら、スターのレプリカが生まれたのは貴方たちよりも遅いにも関わらず、大爆発を起こした時期は早い。一概には言えないという事でしょう。」
だが、確かにジェイド自身も疑問ではある。
それこそ、これからの研究の課題のひとつに加えるべき事項であることは間違いない。
そんなことを当たり前のように思い、自覚はあったが、本当に自分は嫌なヤツだ、と苦笑した。それはアッシュには謎の笑みだったようで、少し怪訝な顔をする。
ジェイドは、なんでもありません、と首を振ると、アムラジェを見た。
「・・・自分になにが起きたのか、最初はわからなかったと言いましたが、貴女のなかには"アムラジェ"というレプリカの記憶があった。ですから・・・そういう可能性に気がついた、といったところですか?」
「少し違うわ。大爆発なる現象が起きた後、私は自分自身を"アムラジェ"だと思ってたの。」
その発言は、リグロも他の連中も意外だったようで、一様に驚いている。
「だって・・・アムラジェの方が見かけも若いのよ?鏡を見て、両方の記憶を持っていてそこに"アムラジェ"の顔があれば、自分がレプリカの方だと疑わないわ。」
以前、再会した当初のルークが、自分が"アッシュ"であると思い込んでいたようなことは、ローラ博士にも起こっていたということだろう。
「だから、そのまましばらくは・・・"アムラジェ"としてダアトで普通に暮らしていたの。」
当然ローラ博士としての記憶も持っていたが、目の前に教団での生活があった為、しばらくは夢でもみたのだろう程度のこととして意識的に思い出すこともなかった。
ふたり分の記憶を持っているのだと気がつく、決定的な事が起こるまでは。
「・・・上官に用事を言いつけられて・・とある街にでかけたの。そこはウィザードに所属する前、私たちが住んでいた街だった。ベルケンドの研究所とも関連のある小さな研究所があって・・そこで主人と娘と暮らしていたの。主人は研究者でもあったけれど、熱心な信者でもあった。2年前に預言が撤廃されるとローレライ教団から発表になった後、不安に駆られる人々が沢山いて・・・主人もそのひとりだった。だから、新生ローレライ教団の預言を詠んでくれるという言葉に飛びついて、その後遺症で・・・。」
そこまでの記憶が一気に脳裏に浮かび、アムラジェは初めて、それは変だ、と強烈に自覚をした。
何故ならその記憶が甦った時、一瞬、レプリカに対する憎悪が胸を過ったからだ。
自分もレプリカなのに・・・そんな馬鹿な、と。
グランコクマでのアッシュとの会話を思い出して、ティアは目を細めた。
アッシュはルークの記憶を持っていても、その時ルークが何を感じていたかまではわからない、と言っていた。
"記憶"と"魂"は別で、"感情"は"魂"に付随するだったか。
アムラジェの言っているのは、この事なのだ。
「それから注意深く考えながら生活して・・・自分は"アムラジェ"としての自覚がないことに気がついたの。記憶はあるから、教団での生活に支障もなかったけれど、なぜか頼まれもしないのに、何度も花に水をやったり、同じものばかりを選んで食べている、そういう記憶が浮かぶ。・・・それは"アムラジェ"の嗜好に基づいた生活なのだとそう気がついた時、はっきりと理解したの。自分は"アムラジェ"ではなく、ローラ・ゲイルなのだと。」
それから、ローラだと自覚をした彼女は、教団の図書でフォミクリーやレプリカの事を調べ・・・専門外ながらも、自分の身の上に、被験者とレプリカとの間のコンタミネーション現象が起こったのではないか、と仮説を立てた。
ただし、この時点では完全同位体という存在を知る由もなかったから、特例としてそういうことがあるのかもしれない、という仮説のまま納得していたのだという。
そして・・・彼女は確かにローラ博士ではあったが、"アムラジェ"になったことで今までとは違う・・被験者の身では決して知りえない世間の裏表も同時に知ることになる。
「・・・私は主人と娘を失った後、しばらくの間レプリカに対する憎しみを持っていた時期があったの。ただ、その後にレプリカに関する報告を聞いて考えを改めた。世の中にはけっしてレプリカに対して好意的な人ばかりではないのを知っていたし、だから、自分の研究で被験者とレプリカの間の軋轢を少しでも緩和できることができたら・・と思ってもいた。これは本当。けれど・・・その考え方こそが、被験者の傲慢であることを、その時はじめて自覚したの。」
「被験者の傲慢?」
「ええ・・・。私の研究はレプリカの被験者にはない優位性についての証明になると思っていた。第七音素で構成された体を持つレプリカは、音素に影響されやすい被験者よりもうまく音素を操れる・・・。そのことが活路になると信じていたの。けれど、自分が"アムラジェ"となり、一方では被験者に怯えながらも慕わずはおられない・・・そのレプリカたちの気持ちの葛藤を理解できた時・・・自分が間違っていたと思った。私がレプリカなら・・・"アムラジェ"ならこう思う。"もうほっといて欲しい"って。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」
もちろんそれは、"アムラジェ"というレプリカの経験を記憶しているローラ・ゲイル個人の意見だろう。
なかにはきっと、自分たちレプリカが被験者よりも優秀であることを証明して欲しいと願うレプリカもいるだろう。レプリカとて人と同じで思うことはまちまちだ。だが、その時ローラ博士は・・・そう思った。
被験者とかレプリカとか、その優越性とか。そういう考え方こそが、レプリカに対する偏見の源であり・・・せっかく人の世界に紛れて上手く生きているレプリカにとっては・・・余計なお世話以外のなにものでもない、と。
「だからおまえは。」
その意見に関しては一切触れず、アッシュが口を開いた。
「・・・第3施設に戻ってきたのか。」
「・・・ええ。」
はっきりとアッシュを見上げるローラの瞳は、揺れていた。
その中には贖罪や後悔などが浮かんでいるのだろうが・・・アッシュはそれを見つけようとはせず、黙ってアムラジェから一歩下がる。
代わりに、同じ研究者同士の業を持つ者として、ジェイドは浅い溜息をついた。
「自分がレプリカになって初めて・・・それまで自分のしてきたことの非情さにも気がついた、というところでしょう。だから・・第3施設で様々な実験を受けさせられていたアッシュを・・連れて逃げた。」
『一緒に逃げましょう。私は、間違っていました。
今頃気がついても遅いけれど、やっぱり間違っていました。
この広い世界なら、どこかに必ずありますよ。
被験者もレプリカも関係なく皆が幸せになれる、そんな理想郷が、どこかにきっと。
そこまで逃げましょう。必ず探し当てましょう。
・・・ないなら、一緒につくりましょう。・・・だから一緒に逃げましょう。』
すると突然、朱赤の彼が泣きだした。
全員が、びっくりしていっせいに朱赤の彼を見る。
「ど・・・どうしたの?」
まるでこの世の終わりでも来るのかというほど泣きじゃくる様にティアは驚き、朱赤の彼の腕をゆっくりとさする。
「どこか痛いの?それともなにか・・・?」
「怖いのでしょうね。」
ジェイドが言い、全員がそちらを振り返る。
「・・・貴方がたは、ひとつ嘘をついている。ドロシーに関して、まるで彼女が納得する範囲の軽い実験に協力して貰っていたという言い方をしていましたが・・・。その程度のことで、急激に彼女が乖離を・・ましてや音素が暴走するような事態におちいるなどありえない。かなり無茶な実験をしましたね?」
「そ・・それは私たちではなく!研究者たちが暴走して・・・!」
「どちらにしろ同じです。」
ピシャリとジェイドがリグロの言い訳を叩き落とした。
「自分の娘のレプリカに対してもそうなのです。その時"ローレライ"と目されていたレプリカに対しては、もっと非道な実験をしたでしょう。"ローレライ"を手に入れたことに浮かれ、結果を得ようと強欲になり・・・その先の事は想像がつきます。なにしろ、アムラジェ本人が連れて逃げようと思ったくらいだ。」
朱赤の彼の泣き声はさらに大きくなった。
なにかに追い詰められて怯えるもののそれは、人の心をえぐる。
ティアのなだめる声など聞こえた風もなく泣きじゃくる彼を見ていた全員が、その裏からにじみ出ている絶望を感じ取って、顔を顰めた。
その時アッシュがすっと動くと、朱赤の彼の隣に立ち、あちこちに跳ね上がる癖毛の中に手を差し入れた。そのまま、指先だけでかき混ぜるようにすると、朱赤の彼は、涙でぐずぐずになった顔をあげてまん丸い瞳でアッシュを見た。
「気にするな。慣れてる。」
「・・・うー・・・。」
あまりにも穏やかに言うので、全員がその内容の剣呑さをうっかり聞き逃しそうになった。
辛そうにナタリアがアッシュから目を逸らし、ガイの表情が固まる。
アッシュの言葉にあることを思い出し、アムラジェは顔をあげてアッシュを見た。
「・・・もしかして・・・貴方は・・・。」
「ええ、そうです。貴女もベルケンドの研究所から盗み出された彼のデータを見た筈だ。」
ジェイドの冷めた口調に、ローラは目を大きく見開いた。
ドロシーは彼に・・・ローレライの完全同位体の『ルーク・フォン・ファブレ』という実験体に近づけようとして何度も音素に手を加えられている。その結果が彼女の保有している音素の暴走だ。
アムラジェは、アッシュを見たが・・・その視線が自分の向く気配に慌てて目を逸らした。居たたまれないとか罪悪感とか、そういう言葉では言い表せない大きく激しいなにかが内側から彼女を苛む。
自分がレプリカになって初めて連れて逃げようとまでした相手。小さな子供のように純粋で、悪びれもなく"死の預言"を口にしていたハレルヤ。彼を守ることが自分の新しい使命だと思わないこともなかった。献身は嘘偽りのない気持ちだった。
しかし、もう"ハレルヤ"はどこにもいないのだ。
いや、初めからいやしなかったのだろう。アムラジェが守っていたものは・・・夢想の中でしか存在しない伝説の生き物だったのだ。
「それにしてもー。」
険悪な表情のまま口調は軽いという裏腹な態度で、アニスが口を開いた。
「そこまでして連れ戻したアッシュを、レムの塔で置き去りにしたのはなんで?」
連れ戻したは良いけど、自分の言う事聞かないってわかって面倒になったとかぁ〜?というトゲのある言い方には、アニスのアムラジェに対する不快感がたっぷりと含まれている。
それを感じて、少しだけ気が晴れたような気分になる自分も、相当、腹を立てているのだわ、とティアは自覚した。
「そうね。色々とあったのはアッシュに聞いているけれど・・・最終的に、何故アッシュをレムの塔に?あの場所にはたしかに魔物こそいなかったけれど・・・ひとりでは行動できなかったハレルヤ様を置き去りにするなんて考えていないにもほどがある。少なくとも世話係の責任において、してはならないことだと思うわ?」
わー、ティアってば言い方きっついと後ろでアニスが小声で言うのが聞こえて、ティアは振り返り、にこりと笑った。
「それに関しては・・・ローラに責任はない。」
リグロが言って、それまで積極的に話をしたがらなかった彼が口を開いたことに、一同は少しだけ面食らった。
「聞いている・・というのなら知っているだろうが。ローラは教会からハレルヤと逃げたは良いが、その後の事を考えて途方に暮れたのだそうだ。もう教会には戻れない、かと言ってウィザードに近づくことは論外だ。そうして迷った挙句・・・とりあえずレムの塔に、身を隠そうと思いついた。君たちが言うようにレムの塔には、防衛反応をする音機関が設置されているから、それを操作すればむしろ魔物から身を守れて安全だからね。そうしてレムの塔の屋上で数日を過ごし・・・ほんの数時間、彼を残したまま、食材や毛布などの買い出しをしようと町まで出てきた時、私に掴まった。」
「リグロに?」
「そうだ。私も偶然、所用でその町にいた。そして・・・失踪したのか、もしや死んだのかと思っていたローラに、ばったりと会った。」
「すぐに彼女だとわかったのですか?・・・彼女はこの通り、みかけが若い。他人の空似とは思わなかった?」
「思わなかった。前にも話したがローラは、弟の妻だったが・・・我々は幼馴染なんだ。私のローラの少女時代を知っている。その為か違和感すら感じなかった。彼女が若返っていると気がついたのは、私を見て逃げたローラを追って、その手を掴んだ後だ。」
つっこもうとすればつっこめるが、そういうものなのだろうと納得して(もとよりそんなことは重要ではない)、それで?と一同は先を促した。
「ローラが・・・"ローレライ"を連れ出したのだろうということは、察していた。なぜなら"ローレライ"はひとりで逃げられる状態ではなく、内部から逃走に手を貸した者が・・・研究所のセキュリティをかいくぐって侵入し、そして誰にも知られずに逃げ出せるほど内部に精通している者が同行しないと不可能だったからだ。だからきっとそれはローラで・・・彼女は一度失踪した後、人知れず研究所に戻ってきたのだろうと、そう思っていた。」
だから問い正した。"ローレライ"はどこだ、と。
アムラジェは再びハレルヤが第3施設に連れ戻されるのを恐れて・・・けっしてレムの塔の事を話さなかった。
その事に苛立ったリグロは、無理矢理アムラジェを連れ、第3施設まで戻ろうとして・・・。
「けれど、第3施設に戻ることは叶わなかった。爆発に巻き込まれるほど、すぐ近くまでは行ったがね。」
「爆発?」
そうか!とガイは思い出した。
「ドロシーの実験による超振動の爆発、その時のことか。」
そうだ、とリグロは頷く。
リグロはアムラジェを連れて第3施設の敷地内まで戻り・・・そこで爆発に巻き込まれた。
ドロシーは無事だったが・・・アムラジェはそれにより気がついたのだ。
"ローレライ"は連れ出したが・・・ドロシーを研究所に置いてきたのは間違いだったと。
もちろん、アムラジェが研究所にいた時も、ドロシーには実験台になってもらったことはある。しかしそれはあくまで音素保有数に手を加える程度のもので、超振動を引き起こすほど危険なものではなかったし、仮にも所長のリグロが可愛がっているあの子にそんな事が許されると思っていなかった。
しかし今、ドロシーはアムラジェが・・・ローラ博士がいない間に、"ローレライ"の代わりに実験をされている。
「それじゃ、あの村で私たちを別れた後、リグロとドロシーは・・・。」
「他の人間に見られないように、隠れていたローラと合流したのです。・・・それからはずっと行動を共に。」
なによりもドロシーが・・・再会したアムラジェから離れなかったのだという。
「うわー・・・なんてこと!」
アニスが嘆く。
「じゃあ、あの村のすぐ近くにアムラジェがいたってこと?」
「しかしその後、すぐに俺たちはレムの塔に向かっている。皮肉なことに・・・お互いに紙一重の行き違いをしてたんだな。」
悔しそうにガイは言ってみたが・・・心の中ではそれほどでもなかった。
たとえあの場にアムラジェがいたのを知っていたとしても・・・彼らは彼らでアッシュ(ハレルヤ)がいる場所へと急いでいたのだ。
むしろ、アムラジェがいるのを見つけてしまって、そのままごちゃごちゃとやっていたら・・・いくら制御装置があったとしても、レムの塔にひとり残されていたアッシュの身が危なかったに違いない。
リグロとドロシーがアムラジェに再会してすぐに。
シュウ医師が調べた時は復調していたにも関わらず、急激にドロシーの体調に異変がおきた。
実験の後遺症に違いないと思ったローラは、リグロを責めた。
それからは・・・ハレルヤよりも、ドロシーがアムラジェにとって優先的な存在になった。
だが、ハレルヤのことを忘れた訳でもけっしてない
リグロはドロシーを救う為に、フォミクリーの研究を盗もうと、マルクトの軍施設に押し入るという暴挙に出たが、その際に"ローレライ"を見たと言った。
その話を聞いた時に、アムラジェの胸に浮かんだものを言葉でなんと言い表したら良いのか。
いうなればそれは郷愁にすら似ていた。
世話係として暮らしていたあの時、間違いなくアムラジェの心の拠り所は"ハレルヤ"であったからだ。
アムラジェは、"ハレルヤ"だと名乗る、赤い髪の剣士を見上げた。
かつて何度も櫛といた長い髪の色は、ずいぶんと赤い。目立たないようにと教会にいる間は黒く染めていた髪だったが、初めに逃げた後は・・・二度と染めようと思わなかった。地の色は夕暮れのように暖かで、何度アムラジェの心を慰めたかわからない。目の前の彼の髪は、その時よりももっと赤く・・・真紅に近いことに違和感を感じたが・・・それでも、アムラジェはアッシュの言葉を嘘だとは思わなかった。
確かに彼は"ハレルヤ"とは違う。自分の意見を話し、剣を握る姿はかつての"ハレルヤ"とは重ならない。だが、瞳の中に宿る光や、纏う凛とした雰囲気は・・・自我を持った"ハレルヤ"として、あまりにもしっくりときた。
だからもう・・・アムラジェの"ハレルヤ"はいない。
まるで、そう"大爆発"が如く、"ハレルヤ"はこの"アッシュ"という存在に喰われてしまったのだ。
そんなことを思っていると、突然だった。
さきほどまでぐずぐずと泣いていた朱赤の髪のもうひとりが立ち上がり、アッシュの手をぎゅっと握ると、そのままとことこと・・・アムラジェの傍に寄ってきた。
そしてアムラジェを、じぃっと見つめる。
「・・・どうした?」
怪訝そうにその行動を問いただすアッシュと、朱赤の彼の顔を戸惑ったように見比べて・・・アムラジェの中でなにかが、突然壊れた気がした。
蜘蛛の糸のように淡く、しかし、心がそこにあるのなら、守るようにがんじがらめにしていたなにか。
隣で拘束されているリグロの息を飲む気配と、戸惑う周囲の雰囲気を感じるのと同時に、アムラジェの頭の上に、ぽん、とふたり分の手の感触が乗せられる。
それは不思議と重くはなく、しかし確実に、アムラジェのこぼれる涙を加速させるものに違いなかった。
アムラジェとリグロは、マルクト兵の監視下のもと、別々の捕虜部屋に監禁されての護送となった。
「ドロシーのことがありますから、ベルケンドに着いたら一旦部屋から出してさしあげますよ。縄で繋がれた状態になりますが。」
そうジェイドが告げると、アムラジェは、こくんと大人しく頷き、目の前で開いている扉の中に足を踏み入れようとして・・・ジェイドを振り返った。
「さきほどの話にはでなかったのだけど・・・アッシュ?彼・・・過去にベルケンドで実験を受けていた被験者というのなら・・・。」
「それについては、目下、調査中です。」
アムラジェが気がついた疑問など、とっくにジェイドのものでもある。
アムラジェは一瞬、探るような視線でジェイドを見たが、なにも言わずに部屋の中に入って行った。
鉄格子のついた重厚な扉が、ガゴン、と重い音を立てて閉まると、アムラジェの姿は見えなくなった。様子を伺う気になどならないので、中を覗くこともせず、見張りの兵士に2、3の支持を与えた後、ジェイドは部屋に背を向けた。
科学者など譜術や譜業を取り上げてしまえば、非力な一般人だ。マルクトの兵を振り切って、マルクト軍艦内から逃げるなどできる訳もないが、たとえ、不測の事態が起こったとしても、アムラジェ、リグロの両名には、ちょうど彼らがアッシュにしたような・・・どこにいても位置が分かる譜術を施してある。
だが、たぶんもう逃げはしないだろう、とジェイドは思った。
いや、それも・・・ジェイドの希望であるのだろう。希望・・・願望、だろうか?
死に逝くドロシーを救いたいというのが本心ならば、彼女の元に向かっている戦艦の中から逃げようなどと・・・これ以上、自分の保身に為に、彼女を犠牲にしようなどとは考えて欲しくないものだ、とジェイドは柄にもなく、そんな事を思った。
『・・・誰かさんたちの影響ですかねぇ・・・。』
埒もない考えが浮かび、自分で自分に苦笑した。
「おかえり。ふたりは?」
「大人しく、監禁されてますよ。」
一同が集っている部屋に戻ると、ガイの言葉に迎えられる。
彼らはいつの間にやら、勝手に沸かした湯でお茶を入れて飲んでいた。しかも持参したお茶菓子までテーブルの上に広がってプチ宴会モードだ。さっきまでここでリグロたちと対峙しつつ、物騒な話をしていたとは思えない切り替えの速さだ、
まるで彼らの方がタルタロスの主のようにふるまっている事に、ジェイドはまたもや苦笑した。
そういえば、ここにいるのは・・・かつて自分たちでタルタロスを動かしたことのある者ばかりだ。クリフォトから戻る時や、ダアトからマルクトへ向かう時。彼らにとっては勝手知ったる他国の軍艦という訳で、あまりにも寛いで見えるのも間違いではないのかもしれない。
「おや、アッシュはどうしました?」
一同の中に赤い髪が見えないので聞くと、甲板に行った、と言う。
一瞬の間をおき・・・それによって意味を持たせた・・・ジェイドは更に質問をする。
「・・・ルークも、一緒ですか?」
全員がジェイドを振り返って見たが、驚きの表情が浮かんだのは一瞬だった。揃いも揃って、すぐにいつもの顔に戻り、そうだ、と答える。
「ルークが外が見たいって言いだしたんだー。だから、アッシュに任せた。」
「意外ですね。彼が素直に子守をするとは。」
「・・はは。昨夜、少し俺が諭したんでね。」
そういうガイの笑みには、安堵が滲んでいる。
それはたぶん、全員が共有する安堵だろう。
誰もが、願望だけではなく・・・彼を"ルーク"だと、本心では信じていた。
確かに、過去の彼の記憶はアッシュの中にあるのかもしれない。しかし・・・間違いなく"ルーク"の魂は、朱赤の彼の中に宿っている。そう確信する根拠は、たぶん、彼らが彼らの愛したルークの、友人であるという自負が齎すものだ。
けれど、"ルーク"が本当に"ルーク"だと判断できる者は、真の意味で証言できる者は、アッシュしかいない。
そのアッシュが、彼を"ルーク"と断言した。
アッシュがアムラジェに対して、朱赤の彼を、間違いなく自分のレプリカである"ルーク"だと言った時・・・それまで、ただ幼かっただけの彼は、自ら自分自身が誰であるかを自覚したようだった。
はっと目を大きくし、アッシュを見上げたその顔の上に、彼らはよく知る"ルーク"の表情を見つけた。
たぶん、あの時・・・彼の魂には、"ルーク"という名前が返されたのだ。
もう誰を憚ることはない。
彼は、"ルーク"だ。
たとえ"ルーク"が記憶を失っていようと構わない。
"ルーク"が"ルーク"であるのなら構わないのだ。帰ってきてくれた、それだけで良い。
頭の痛い事項は以前残っているが・・・その事だけは本当にジェイドは安堵していた。これから先は、自分の・・・もしかしたら不本意ながらもディストと自分の・・・仕事だ。
ベルケンドには過去、アッシュが受けた実験のデータが残っているが、残っているのはそれだけではない。アッシュ自身のデータもきちんと保管されている。
アムラジェたちが何故、アッシュを"ローレライ"だと勘違いしたのか、その最大の理由は、彼の持つ音素振動数が"ローレライ"と同じだから、それだけではない。それならば、彼らは、アッシュをベルケンドの被験者『ルーク・フォン・ファブレ』本人だと気がついたかもしれないのだ。
アムラジェたちが、彼をベルケンドの被験者だと思わなかった理由それは。
保有する音素は93.6%が第七音素・・・。
過去のデータをみても、アッシュがそんな体質だったなどという記録は残っていない。
彼は普通の人間と同じく、第七音素の素養を持つだけの、第一から第六までの音素をきちんと保有する体を持っていた。
それがどういうことなのか。
ジェイドが一旦彼らと別れて、マルクトに戻った理由はそこにあった。
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