昔、母親から時計を贈られたことがある。
机のうえに置くタイプのもので、教会のようなカタチをしていたそれは、鐘をつけていた。ぴったりな時刻になると鐘は鳴り、ルークにおやつの時間や、昼寝の時間を知らせたものだった。
ルークのお気に入りだったその時計は、ある時から、なにをしても遅れるようになり・・・ガイに相談して直して貰っても、少しするとまた遅れて、とうとう時計の役目を終えたのだ。
ルークは、自分の心臓を抑える。
そこには、役目を終えた時計と同じものが入っている。
ドキン、ドキン、とありえないほどに早鐘を打つそれは、まるでルークの寿命を告げようとしているかのようだった。
ルークは結局、その晩を寝ずに過ごした。
いつもなら、仲間に寝汚いなどと悪口を言われるが、気が高ぶっていたせいもあるだろう。眠気は一向にルークにやってこなかった。
アッシュは、一晩中せわしない呼吸を続けていて、眠っているのかどうかも分からなかった。
時折、声に出して水を欲しがり、その度にルークがすぐに対応して、飲み終わるとまた荒い呼吸が部屋に響く。そんなことが延々と繰り返される夜になった。
夜明け頃、アッシュの熱は下がり始めていた。
ぬるくなっては何度もタオルを変えて、手がふやけて指先が白くなっていたルークは、ほっと安心の溜息をつき、それと同時にぺたんと床に尻餅をついた。
力が抜けたという状態だった。
緊張でピンと張っていた糸が切れたように崩れ、ルークはその場から、ベッドの上のアッシュの横顔を伺う。
それは、まるで陶器の人形のようだった。
貴族の子女の多くが子供の時に嗜む、高価な人形のコレクションは、今でもファブレの屋敷で母の部屋に飾られているが、そのどれよりもアッシュの横顔は白く高貴で、ルークはそう思った途端、よたよたと張ってベッドへと移動し、アッシュの色の薄い頬へと、そっと手を伸ばした。
その指はしっかりとした人の肌の弾力と、体温を伝えてきて、ルークは心からの安堵を覚える。
こんなに荒い息をついていても、アッシュからは生気が感じられない。
目に見えない扉から得体の知れない手が伸びてきて、アッシュを連れ去ってしまうのではないかという、ありもしない妄想にすらルークは怯えた。
「・・・・・アッシュ・・。」
ごめんな、ともう何度口にしたか分からない謝罪をつぶやく。
そして同時に、夜中に言われたことが脳裏を横切る。
ルークのせいじゃない、と言ってくれた。
気にするなとも。
初めてかもしれないアッシュからの気づかいの言葉は、深く深くルークの芯に刺さり、ルークの心臓に傷を残した。
アッシュは魘されて、なにかの夢でも見たのかもしれないが、悪夢を見た人間の口にする言葉ではないのは確かだ。
ルークはずっとアッシュの背中を追ってきた。
誰にそうだと宣言したことはないが、ルークの理想像はすでに、かつて師と仰いだヴァンではなく、今は目の前にいて、会えば必ず自分を罵倒してきたアッシュだった。
被験者だからではない。
アッシュのしなやかな強さが、羨ましかった。
アッシュの揺るがない信念が、眩しかった。
ルークは、良くも悪くも人というものが単純にはできていないことをすでに知っている。
どんなに信念を貫く為であったとしても、それと引き換えに得た境遇に、アッシュが孤独を感じないなどとは、思えない。
それでも、アッシュはその類を口にしたことは一度もない。
ひとりでなにもかもをこなし、いつでも、なんでもないことのような顔をしている。
この点に関してだけは、ルークは羨ましいのと違う感情を覚える。
言うなれば、苛立ちだろうか。
アッシュの強さに対しての。
アッシュは強さ故に、普通なら疎ましいと感じる筈の、得なくても良い逆境を自分から得ている、そう思えてしかたない。
だから、いつかアッシュの孤独を少しでも和らげることができれば良いのにと常々思っていたし、それはきっと自分の役割ではないということに対して、悲しくも思っていた。
アッシュには、ナタリアやガイの方が相応しくて・・・。
「・・・ってなにを考えてるんだ、俺?」
思考の流れていくままに任せていたら、この有様だ。
だからルークは、深く考えることが苦手だった。
嫌いなのではない。苦手なのだ。
考えていると時々、思考と、感情との間に大きな隔たりがあることに気付かされる。
「・・・・ん・・。」
大きく息をついた後、ぱたん、とアッシュの腕がベッドのシーツを叩いたことで、ルークは我に返った。
とたとたと這ったままで、アッシュに近づく。
「アッシュ。大丈夫か?」
「・・・おまえか。」
アッシュの声は掠れているものの、口調はしっかりとしていて、包帯で目元の見えない状態でも、はっきりと覚醒したのだということがわかった。
「なにか、欲しいものあるか?」
「・・・水・・。」
「わかった。」
もう何度このやりとりを繰り返しただろう。
アッシュは、水しか欲しがらない。
やけどする前からそうだったから、アッシュはいったい何食、まともに食べてないのだろう・・・とルークは水をコップに注ぎながら思った。
小川が近くにあった為、アッシュが寝ている間に、ルークはポットと甕いっぱいの水を汲んできていた。
新鮮な雪解け水が流れるその小川から汲んできた水は、甘みがあって、アッシュの喉を潤すのには申し分がない。
ルークがアッシュに水を渡そうと振り返ると、アッシュがのっそりとベッドの上に体を起こそうとしているところだった。
コップを片手にルークが近づくと、気配に気がついたアッシュがなんの躊躇いもなく、ルークの肩に手を伸ばす。
ルークは、手すり代わりに肩を差し出し、片手でその背を支えると、アッシュの体は大した抵抗もなく、すっと持ち上がった。
ごくごくと水を飲む度に動く、アッシュの喉元をルークは見つめる。
アッシュがあまりにもなにも欲しがらない為、いつしかルークは不安を覚えるようになっていたが、喉仏が上下する度に、漠然とした不安の靄が晴れていくのを感じる。
その動きは、アッシュが命を繋ごうとしている証拠に思えた。
「なあ、アッシュ。」
思わずルークが話しかける。
「なにか食わないか?俺、アニスから教わったスープなら、少しは自信あるんだけど・・・。」
そのスープのおかげで、アッシュにやけどを負わせたというのに、しかし他に得意なレパートリーもないので仕方がない。
ルークが言うと、アッシュは一瞬の間をおいた後、ああ・・と歯切れの悪い答えを返してきた。
「?どっち?」
食うの?食わないの?とルークが聞き返すので、アッシュは唸り、
「・・・食っても、良い・・・。」
と、不機嫌そうに言い直す。
「!待ってろ!」
ルークは、新しくスープを作り直す為に立ち上がったが、あまりにも慌てていた為、ずべっと床に転んだ。アッシュには見えることはなかったが、その顔は満面の笑みを浮かべていた。
アッシュの容態はだんだんと良くなっていった。
その日、長い間、本格的に湯浴みをしてないことに対する不満を口にしたアッシュに、ルークは左腕にお湯をかけないのならという条件で許可を出した。
それに対してアッシュは、非常に納得のいかない顔で怒鳴ってきたが(「屑が!何様のつもりだ!?」)、ルークも負けておらず(「俺の言葉は、お医者様の言葉だもんね!」)、しかし湯船の用意ができた頃には、機嫌は直ったようだった。
『意外に、可愛いところあるよな・・・アッシュって。』
アッシュの長い髪をくしくしと洗いながら、ルークは思っていた。
アッシュが特に洗いたがったのは、髪だった。
それまではアッシュの体は、ルークが拭いていたのだが、髪はそうはいかない。
熱を出した時の汗でべとついていたことがよほど不快だったらしく、目も見えず左腕も利かないというのに、アッシュは髪を洗うと言って聞かず、結局、ルークが手伝いをするということで、両者はしぶしぶ妥協した。
さっぱりとしたアッシュは窓辺に座り、お湯で火照った体を冷ましていた。
ルークはその後ろで、風邪でもひかせたら大変と、タオルでアッシュの髪を拭いている。
アッシュの髪は信じられないことに、洗ったことでたごまっていた箇所も、一度櫛を通しただけでもすーっと通り、ルークはかつての自分の髪が長かった時代を思い出して、あまりの違いに眩暈がするほどだった。
「・・・いてぇよ、屑。」
「あ。ごめん。」
櫛で乱暴に髪を梳いていたことを、アッシュに指摘され、ルークは素直に謝った。
羨ましい髪質だったので、少しむっとしていたとは言えない。
改めて、ルークはアッシュの髪に優しく櫛を通す。
「・・・ドライヤーとか・・・ないよな?やっぱり・・・。」
「ねぇよ。」
屋敷にあった音機関を懐かしがってルークが口にすれば、アッシュの答えは即答だった。
「第一・・・あれを使うと、髪は痛むぞ?」
「え?そうなのか?」
ルークはかつて、髪が長かった時、毎日それを利用していた。
もしかして、そのおかげでアッシュみたいな綺麗な髪じゃなかったのかな?と都合よく解釈していると、
「・・・・・なんの音だ?」
とアッシュが囁いた。
音?とルークは顔をあげた。
窓の外から見える緑は萌えるように鮮やかで、少しだけ湿った風が冷たく空気を冷やしている。
その匂いを胸いっぱいに吸いながら、ルークが耳を澄ましていると、やがて小さな歌声が聞こえてきた。
「ああ、鳥だよ。」
とルークは、アッシュに告げた。
いつもこの時間にくるんだと。
ところがアッシュは、包帯の上からでもはっきりとわかるほど眉を吊り上げ、ちげぇよ屑、と言った。
「鳥の声じゃなくって、向こうから近づいてくるやつの事だ。人の足音のような気がする。」
「えー?」
俺には聞こえないけどなぁ、とルークが唇を尖らせていると、確かにザシャ、と小石を踏んだような音がする。
こんなところに、なんの用事があって誰が来たというのだろう、と警戒をしていると、コンコン、とノックの音がした。
足音は単体だったが、漆黒の翼でも様子を見にきたのかな?と思いながら、はーい、とルークが返事をすると、強盗とかだったらどうすんだボケ!とアッシュの叱咤が飛んできた。
しかし、扉を開けた先にいたのは、強盗どころか、間違いなくアッシュの客人だった。
「アッシュさんー!具合どうですか?」
「・・・ギンジ。」
姿が見えなくても声だけで判断できる仲ではあったので、アッシュは一言聞いただけで、ギンジに気がつく。
ギンジは、扉を開けてくれたルークに礼を言い(彼はとっても礼儀正しい)、窓辺のアッシュに近づくと、
「オイラ、漆黒の翼のみなさんに聞いたんです。もーびっくりしましたよ!!」
心配したんですからね!と捲くし立てる。
アッシュは、ギンジのきらきらとした目を鬱陶しそうに(当然だが今は見えない。いつもそうなのだろう)、左手をぱたぱたと振って、追い払うような仕草を見せた。
あ、それってちょっとないんじゃない?とルークは思った。
ギンジはアッシュの心配をして駆けつけてくれたというのに、まるで迷惑みたいじゃないか。
しかし、ルークがアッシュに抗議するよりも早く、ギンジが気にした様子もなく、相変わらずつれないなぁ、アッシュさんは〜とあははと笑うので、言葉の持っていく先をなくしてしまった。
「それより・・・大変でしたでしょう?ルークさん。」
アッシュの具合が快方に向かっていると知ると、くるりと体の向きを変え、ギンジがルークに話しかけてきた。
「この人ったら、本当、素直じゃないですからね!面倒見てもらっているっていうのに、ルークさんにも辛く当たっているんじゃないんですか?」
「黙れ、ギンジ。」
アッシュは大きく舌打をしたが、ギンジにはアッシュの怖さもあまり効果がないようだった。
アッシュとギンジはきっと、普段からこうなのだろうと伺えるやりとりを生で見たルークは、目を丸くする。
そういえば、アッシュは、ギンジを名前で呼んでいる。
ナタリアとか、ガイとかアッシュは気に入っている相手しか名前で呼ばない・・・。
「・・・・・っ!」
あちー!と叫ぶ声に驚いて、ギンジがルークを振り返った。
「え!?ルークさん!?」
ルークは、ギンジの為にお茶を用意していたが、紅茶のパックを入れる前にカップをひっくり返してしまった。
お茶が腕にかかってしまい、ルークはあちあち、と言いながらお風呂場へ行って右腕を冷やす。大量のお湯がかかってしまったわけではないから赤みもすぐに引いたが、もしかしたらアッシュの二の舞になってしまうところだったと思うと、風呂場に行く前に見たアッシュの、呆れたような顔を思い出し、なんとも情けない気分になった。
本当にふがいない・・・。
ルークは、はぁと溜息をついた。
ルークは、人の看病というものをした事がなかった。
今の今までは、ガイに昔して貰ったことを思い出しながらしていたが、果たして正しい介護の仕方なのかどうかがわからない。
少し反省しながら、ルークが風呂場の扉を開けると、ギンジの声が飛んできた。
「ルークさん!大丈夫でしたか!?」
ルークが、たいしたことはないと告げると、ギンジはほっとしたように笑い、
「じゃあ、お昼作りますね。オイラ、材料も買ってきたんですよ!」
と言う。
「・・・昼?」
「そう、親子丼を作ろうと思って!アッシュさんの好物だし。」
「・・・・・。」
「・・・ルークさん?」
もしかして、ルークさん嫌いでしたか?と焦るギンジに、いいや・・とルークは曖昧な返事を返した。
どちらかっていうと好き、かな?と言うと、みるみるうちにギンジは笑顔になり、じゃあ台所借りますね〜と言って腕まくりをする。
頭にタオルでほっかむりまでしているギンジの様子を、少し離れたところで見つめていると、それを気配で察したのかアッシュから、なにも心配することはねぇぞ、と声がかかった。
「ギンジは、あれで料理が上手い。おまえの作るものよりも、よっぽど食えるものが出てくる。」
「・・・・・。」
ルークは、アッシュに寄って行った。
「・・・髪。」
「あ?」
「髪・・・編んだんだ・・・。」
アッシュはまだ窓辺にいたが、さきほどと髪型が変わっていた。
アッシュのさらさらとした髪の毛は、もう大分乾いていたが、今はそれをみつあみにして、右の肩に流している。
初めてみるアッシュの姿に、ルークは目を細め、口調はいくぶん咎めるような色合いを含んでいた。
しかし、アッシュは気がつかなかったらしい。
そんなことか、と言い、
「さっき、ギンジがやってくれた。」
と事も無げに言う。
その時の衝撃が、大きなものだったことに、ルーク自身が驚く。
さきほど、ルークは初めてアッシュの髪に触れたばかりだというのに、それではギンジは普段から、アッシュの髪に触れる機会があったということだろうか。
たとえ触らなくても、大した抵抗を見せていないことから、アッシュは今のような姿でいることが、前にもあったということではないのだろうか。
アッシュの姿を、新鮮だと思って目を細めているのは、この場では、ルークひとりなのだ。きっと。
「・・アッシュ、は・・・。」
「なんだ?」
「・・・・・。」
言い出したものの、後が続かない。
「・・・どうした?」
「ギンジと・・・。」
仲が良いんだね、とようやくそれだけを切り出すと、は?とアッシュは不機嫌そうに返す。
「仲が良い、ねぇ・・・。まぁ悪くはないだろうが、お互いがお互いを利用しているようなもんだからな。」
あいつはアルビオールを飛ばせるんなら、なんでも良いんだろうよ、とアッシュは笑ったが、ルークはそれに大して、そう・・と短く答えただけだった。
喉が渇く。
心臓が・・・またしても、壊れた時計のように、ドクンドクンと早鐘を打つ。
まるで、ルークの寿命を知らせるかのように。
ふとルークは、自分が可笑しいことに気がついた。
それはまるで、蠢く黒い蛇のように、なにか得たいの知れないものが這い上がってくる気配だった。
それが、自分の内面を荒らしまわり、思ってもいないことを口に出させようとする。
自分でもわからない感情は、恐怖以外のなにものでもなく、ルークは歯を食いしばる。
そして、落ち着かせる為にそっとゆるく息を吐くと、アッシュに気がつかれないように、彼の姿が目に入らない位置まで移動する。
なにを考えているんだろう、と額に脂汗を浮かべながら、思った。
今、ルークは確実に、アッシュに対して敵愾心を覚えた。
いつも彼がルークを罵倒するよりも、もっと酷く。
深く深く傷つけてやりたい、と。
・・・・・一瞬だけ、そう思った。
ギンジに、泊まっていきなよとルークが誘うと、いえーアルビオールが心配ですから、とギンジは辞退した。
この森を抜けたあたりに、着陸させたままだという。
アルビオールはまだ世間的にも認知されているとは言い難いほどの、新しい音機関だったため、本来は傍を離れるなどパイロットに許されてないのだそうだ。
そういえば、とルークはノエルを思った。
ノエルもいつも、アルビオールの着陸させる場所に気をつかっていた。
たとえば、あまり人目につかないような場所を選び、宿に一緒に泊まる際も、ギリギリまではその傍を離れなかった。
よほどアルビオールが好きなんだな、と勝手に解釈していたが、そういう理由がそこにはあったのだ。
「・・・アッシュ、薬・・・。」
ルークはその夜、あえてアッシュに今まで飲ませていたのと違う、医者の薬を差し出した。
こちらのほうが効くかもよ?と言葉を添えたが、アッシュはどちらにしろ、胡散臭いもんだなと悪態をつく。
しかし、ルークの差し出した薬を拒んだりはしなかった。
アッシュが薬を飲み込むのを、ルークは見つめていた。
もしかしたら、こちらの薬のほうが劇的に効くかもしれない。それを期待して選んだのは間違いない。
しかし、医者はこの薬が、どの程度で効き目を表すかについては、保証できないとしか言っていなかった。
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