とっさに、足が出るところが流石だと言わざるおえない。
アッシュはルークが乗り上げた途端、わずかな動きの間にできた隙間に、見事に膝を打ち込んできた。
わき腹にヒットした攻撃に眉を顰め、しかしルークはそれでひるんだりはしなかった。
アッシュを相手にするのだから、命がけなのは初めから承知だ。
体の質量が大きなものに圧し掛かられると、跳ね返すのが容易ではないことを利用し、ルークはアッシュの両手を捕らえ、がちがちに固定した。
「なんのつもりだ、てめぇ・・・!」
見えないはずのアッシュの目は、的確にルークの顔を捉えねめつけ、言葉には殺気が含んでいた。
「人の寝込みを襲うとは、いい度胸じゃねぇか!」
その間も、アッシュは自分の体の主導権を取り戻そうともがいている。
「いよいよ、俺の寝首をかいて、被験者に成り代わるつもりか?」
不条理を仕掛けているのが自分であることは自覚していたが、それでもアッシュを殺そうなどする訳もない。
「・・・そんなつもり、ないよ。」
ルークは少し悲しくなりながら、答える。
暴れる生き物を抑えるには、力が相当必要で、ルークは体の筋力という筋力を使い、息をつめてアッシュの動きに注意を払う。
そうしていなければ、すぐにこの体勢など跳ね除けられてしまう。
時間のなさと、アッシュの誤解で生じた焦燥感にかられながら、ルークはアッシュの首筋に顔を埋めた。
見えないことが災いして、避けられなかったアッシュは、いきなり感じた首筋の吸血鬼に噛みつかれたような痛みに驚いて、抵抗する力を弱めた。
それに漬け込むようにして、ルークは歯をたてたばかりのアッシュの首筋に、ちろりと舌先を押し付けた。
「・・・・・っ!」
「・・・アッシュ・・・。」
好きだ、と声に出さずに囁く。
漏れた息は音にならずとも、的確にアッシュの耳に届いたはずだ。
アッシュはびくりと体を震わせると、両のこぶしを力いっぱい握り締め、ルークを押し返そうと腕に力を込めた。
それは予想外の強さで、ルークは暴れるアッシュを押し留める為に、必死になる。
「ア、アッシュ・・・待って!」
「ふざけんな、てめぇ!」
暴れるアッシュの左手がルークから外れる。
アッシュは、自由になった左手でルークの顔あたりを殴りつけたが、暗闇の中では動きを予想していたルークに上手くヒットさせることができなかった。
しかし、ルークの耳のあたりを霞め、ルークの右耳はキーンと耳鳴りに襲われる。
「どけっ!」
「アッシュ!」
「ふざけんな、てめぇにやられてたまるか!俺は・・・っ!」
「違うんだ、アッシュ!だから・・・!」
ルークはアッシュに覆いかぶさった。
唇を重ねると、すぐに噛みつかれ血が滲む。
それでも、息つく暇のない攻防戦のなか、ルークはアッシュの右手を掴むと、自分の服のなかへと滑り込ませた。
「・・・・・!?」
「・・・だ、から・・・。」
アッシュの指を開かせ、ルークはその右手を自分の胸元あたりに導く。
「アッシュの、好きにして・・・いいから。」
「・・・おまえ、なにを言って・・・。」
けれど、掴みあいのなかであがった息の中で告げると、アッシュの力がふっと抜けた。
それを、ルークは承諾、ととった。
アッシュの指先が、かりとルークの胸の飾りをひっかき、ルークはもぞりとアッシュの上で腰を揺らした。
「・・・っふ・・・。」
アッシュの右手はルークの胸元をまさぐり、左手はルークの頬を撫でてから唇へと降りてくる。
唇の隙間から入れられた指の先が、ルークの歯茎を撫でて、その感覚に思わずルークの左手は制止を促すようにアッシュの右手を掴む。
左手はアッシュの右手に爪をたてていた。
アッシュのさわさわと胸を撫でる動きに、ルークは自分で導いたことなのに、思わず嫌だと体を捩った。
「ア・・、ん・・あっしゅ・・・。」
呼んでも、アッシュからの返事はない。
その代わりにアッシュの右手は、胸元を滑り落ち、ヘソのあたりのまさぐりだした。
「ふ・・ぁ。」
びくりとルークの体は跳ね、喉をさらして頭は後ろにそらされる。
腰が抜けたように、ルークはぱたんとアッシュの腹のうえに座り込み、震える膝は体を支えるのがやっとで、アッシュはそれに気がついたのか、起き上がって、くるんと体勢を変えた。
ぼすん、と軽い音をたて、ルークの体がベッドに沈む。
上気した頬のまま、みあげたアッシュの顔は目を見開いたまま、ルークの顔のどこを見ているのか覚束ない。
やはり見えないのだ。
だが、定まっていない視線のなかに、欲望が宿っているのが見て取れて、ルークは次に与えられた刺激に、大きく体をくゆらせた。
「あ・・・っ、あ!」
驚くほどの艶かしい悲鳴が、自分の喉を通って飛び出してくる。
アッシュがいると思うと、制御できない。
今、自分に淫らな動きで触れているのが、アッシュの手かと思うと、それだけで高揚する。
「あ・・・、ん・・アッシュ・・・!」
アッシュ、と呼んで首筋に腕を回す。
アッシュは、腕に導かれるようにルークの顔に自分の顔を寄せてきて、きつく抱き合うような自分たちの姿に、ルークはうっとりと目を閉じた。
アッシュの体の重みを、もっと感じたい。
熱い肌や、早鐘をうつ鼓動も。
ところが、ルークがもっと、とねだろうとした時、ふいに、アッシュの重みが引いた。
「え?」
アッシュ?とルークが不安げな声で呼び、薄く目を開けると、アッシュが舌打をして体を起こしているところだった。
「・・・どうした?」
思わず、ルークが聞く。
アッシュの顔は厳しく、まるで憎悪を浮かべているようだった。
それを目にして思わず身を竦めたルークに、どうしたもこうしたもねぇ、とアッシュは吐き捨てた。
「なんだって・・・こんな時に・・・。」
「・・・アッシュ?」
「おまえ、あっちにいけ。」
「え?」
あっちとアッシュが示した方向をルークは見る。
それは、こうなる前にルークが身を横たえていたベッドがあり、つまりは戻れということなのだろうか、とぼんやり考えた。
アッシュはもう一度、舌打した。
そして、
「おまえが行かないなら、俺があっちに行く。」
と足を床に下ろす。
「アッシュ?」
ほんの数歩だが、アッシュはよろけた。
はっきりと見えない目で、勘だけで進んだアッシュは、ベッドに辿り着くと、ばたんと倒れこんだ。
「・・・アッシュ!?」
なんでなんだよ?と呼ぶルークに、返事はない。
その後は、なにを聞いても答えず、ベッドの上にいきなりおきざりにされたルークの呼びかけに反応することもなかった。
しかし、しばらくして、ちくしょう、と呪詛の言葉が続いたことには、なにかの意味があったように思えた。
途中で放り出されて悶々としながらも、ルークはいつの間にか眠りに落ちた。
絶対に寝られないだろうと思っていたというのに、自分の寝汚さには、自分でも驚かされる。
ルークが目を覚ました時、なによりもその胸に飛来した絶望は、アッシュがすでにいなくなっていたことだった。
かき集めたのだろうか。荷物はひとつも残されていなかった。
書置きの類も。
そのことに対して、胸を虚しさが襲ったが、しかしだからといって、書置きが欲しかった訳でもない。
そこに、お礼が書かれてでもいたら、この胸の虚しさはもっと大きく綻んで、紡ぎようもないだろう。
お礼なんかいらない。
ルークは、アッシュと一緒にいたかった。
手放さないで欲しかった。
それは案外簡単なことであるはずだが、世界で一番難しいことでもあった。
ルークが、さらさらと砂が落ちるばかりの胸中を抱いて仲間のところに戻ると、意外にも心配されて出迎えられた。
ルークは漆黒の翼に、攫われたことになっていた。
ちらりとジェイドを見たが、どうも誰にもなにも説明をしていないらしい。
それで、伝言をしてくれた筈のウルシーの為に、ルークは今までのいきさつを説明しなければならなかった。
「まぁ、アッシュが?」
口元を手で覆い、ナタリアが大きな目を一層大きくさせた。
「それなら、わたくしたちに連絡をしてくだされば!治癒術でなんとかできたかもしれませんのに!」
「アッシュはさ、ナタリア・・・。」
ルークは言った。
「ナタリアに心配をかけるようなこと、言う訳ないよ。」
「それが水臭いというのです!」
「おいおい、ナタリア・・・。」
ルークを援護するつもりなのか、息巻く王女にガイが苦笑する。
「アッシュの性格したら、むやみに君に頼ったりしないと思うぜ?」
「どうしてですの?」
「自分の弱味を見せるってのは・・・アッシュにしたらよほどの覚悟があることだ。君にだけは、無様な姿を見せたくないって思うものじゃないか?」
「そんな・・・。」
ナタリアは反論しかかったが、言葉を飲む。
ガイの言葉の意味が、効いたらしい。白い頬がうっすらと赤くなっていた。
美しいナタリアの横顔から、ルークは目を逸らす。
ああいう光景を、きっと自分は作れない。
誰かに請われることが、どんなに貴重であるかがわかる今、ルークはアッシュからのそれを易々と受けられるナタリアが、妬ましいと。
一瞬、本気でそう思ってしまった。
意外にも、アッシュに会ったのは、その3日後だった。
見つけようするとなかなか見つからず、邂逅することが稀なアッシュに、ルークに連絡があった訳でもないのにばったり会うなどあまりあることではない。
美しい青い海が望めるからか、白い建物を多く有しているその街のなかに、アッシュの真っ赤な髪は美しく映え、同時に目立たせる。
叫び声のような歓喜の声をあげ、アッシュを呼んだのはナタリアで、それに対してアッシュは眉をしかめながらも、足を止めた。
ナタリアの声を、アッシュは無碍にできないらしい。
いつでも、呼び止めると答えるのはナタリアの声にだけだ。
「目は大丈夫ですの?」
とナタリアが聞くと、ああ、短く答える。
アッシュはルークなどそこにいないように見もしないくせに、ナタリアにはしっかりとその視線を向けていた。
目が治ったのは本当らしい。
しかし、別れる日の前日のことを思い出すと、その目で見られることも怖かった。
そこにどんな蔑みが浮かんでいるかと思うと、想像しただけで体が強張る。
それでも、後悔はけっしてしてないから、尚更、アッシュの反応が怖いのも事実だ。
じゃあな、とナタリアの引き止める声を振り払って、アッシュが歩みを進める。
アッシュが行ってしまうことに、地面に落とされた視線をルークがあげた瞬間、アッシュと目があった。
的確に捕らえた、と言っていいほどのアッシュの視線を受けて、びくり、とルークは体を振るわせた。
アッシュの形の良い唇が、小さく言葉を紡ぐ。
「・・・・・っ!」
思わず、ルークはアッシュを振り返る。
「どうした?ルーク?」
もう行くぞ、とガイが、立ち尽くしたままのルークを呼んだ。
一同はすでにアッシュになど興味を失ったように、宿への道を急いでいる。
「あ・・ああ。」
「しっかし、アッシュのやつ・・・相変わらずだなぁ。」
目が見えない間、おまえに面倒みて貰ったんだろ?とお礼の一言もなしに去った赤い髪に呆れたようなガイに、期待してねぇし、とルークは答えた。
ルークは部屋の窓を開けていた。
3人部屋だったらどうしようと思ったが、幸運にもルークはひとり部屋を宛がわれていて、夜の風を入れる為というよりも、頭痛でも物音でも、なにかの合図があることを今か今かと待っていた。
月の見えない夜空だった。
ルークの部屋からは、建物と建物の間から、わずかながら海が望めて、隙間を縫って潮風が入り込み、遠くにぽつんと灯台の明かりが見える。
時計の針は、もうすぐ1日の終わりを告げようとしていた。
窓辺に持たれかかって、頬杖をついていたルークの耳に、口笛の音が聞こえてきた。
そのメロディーには覚えがあった。
森の小屋で、毎日同じ時間に訪ねてきた鳥と、コラボレーションとばかりにルークがよく口ずさんでいた子守唄だ。
ルークは急いで窓を閉め、部屋を飛び出す。
剣を持っただけまだ冷静だと自分で思うほど、早く早くと自分自身を急かす。
夜中に大きな音を出す客など、迷惑以外のなにもないだろうから、それなりに常識のついたルークは、大声で人を呼ぶようなマネはしなかった。
外へ出てきたルークは、必死でさきほど口笛が聞こえたであろう場所に目を凝らす。
暗闇のなか、頼りになるのは反対側に立っている街灯のぼんやりとした光だけで、ルークは知らず知らずに前かがみになって、辺りを見回していた。
と。
「・・・・・っ・・しゅ!」
いきなり腕を捕まれ、茂みのなかに引きづり込まれ、大声を出さないように口を押さえられた。
相手は分かっているつもりだが、それでもいきなりのことで驚いたルークの、ほんの数センチ先というところまで顔を近づけたアッシュが、しぃ、というように自分の口元に人差し指をあてている。
アッシュのそんな仕草を見るのは初めてで、目を丸くしながらも、こくこくとルークが頷くと、それを確認したのか口を押さえていた手が外される。
まるで、その時を見計らったかのように厚い雲の間から銀色に光る月が現れた。
月の光が差し込み、照らされたアッシュの姿に、ルークは息を飲む。
アッシュはめずらしく、前髪を下ろしていた。
セットをしているいつもの髪型も精悍さがにじみ出ていて似合っているが・・・髪を下ろしたアッシュには、得もいえぬ色気がある。
どきまぎとしながらも、アッシュのかたちの良い耳、白い頬、輪郭を覆う赤い髪と目を滑らせ、最後に瞳に辿り着いた時、その中に己の姿を見つけて、ルークは思わず息を飲んだ。
まるで瞳そのものが光を放っているかのように、美しく濡れていて、はっきりとした視界を持っている証として深い色をした瞳孔が、ルークを捕らえていた。
ルークは、思わず手を伸ばしていた。
アッシュはそれに逆らわず、ルークが頬を唇を撫でるのを、好きなようにさせている。
「・・・アッシュ、目は・・・?」
「もうなんともねぇ。」
ルークの問いに、アッシュは即答した。
そうか、と安堵の息をつき、ルークが改めてアッシュに向きあおうとすると、いきなり思い切りの力でもって、木に背中を押し付けられる。
「・・・っふ・・・?」
痛みに抗議する間もなかった。
熱く唇を押し付けられ、抵抗する意味など持たないルークは、そのまま目を閉じてアッシュを受け入れた。
アッシュの唇は甘い。
そして、どこか獰猛で、完全な支配力も持っている。
ルークはそれらに翻弄されながら、頭のどこかで何故こんなことになっているのだろうと考えていた。アッシュに開放されたら、聞いてみようとも。
ああ、でも・・・気の迷いだ、意味なんてない、と言われたら。
それくらいなら、なにごともなかったかのように接したほうが良いのかもしれない・・・。
「・・・っ!」
アッシュに舌先を噛まれて、びくりと体を震わせると、アッシュは同時に唇を放し、
「・・・随分と余裕があるじゃねぇか。」
とどこか憎々しげにつぶやいた。
「ア・・・アッシュ・・。」
怒らせてしまったのかと、怯えながらルークはアッシュの袖口を掴む。
「・・・俺・・・。」
ルークの言葉は最後まで言わせて貰えず、そのまま強く腕を引かれる。
「いくぞ。」
「え?いくって、どこへ!?」
「"迎えにいく"と、昼に会った時、言っただろうが。」
それは聞いている。
擦違い様、アッシュは誰にもわからないように、唇の動きだけでルークにそれを伝えてきた。だから、さきほどまで窓を開けて待っていたのだ。
だが、それがどこへ向かうものかは、知らされていない。
ルークが不満げにしている雰囲気を察したのか、アッシュは、「・・・宿だ。」と答えた。
「宿。」
「おまえ、まさかこの後に及んで、俺を拒む気はねぇだろうな。」
そう言われて、ルークはこの先のことを察する。
「え・・えっと・・それって・・。」
真っ赤になりながら、もごもごと質問にならないようなことを言うルークの声は、アッシュに黙殺された。
ルークはずっと、勘違いをしていたことがある。
それは、つい昨日ナタリアに口にしたことであったし、未だに勘違いは解消されてもいなかったが、アッシュは己の無様を晒したくないと思っていたのは確かだ。
しかし、それはナタリアにでもガイにでもなく、ルーク本人に対してだった。
疲れ果てて、くったりと横で眠ってしまったルークの髪を、アッシュは触れていた。
頭の先から、指を滑らせ跳ねた襟足部分にさしかかった時、くすぐったかったのか少しルークは身じろぎしたが、それで目を覚ますことはなかった。
くぅくぅと素直な寝息を漏らすルークの寝顔はあどけなく、ふっくらとしてつやつやとした唇はまるで赤ん坊のもののようだ。
こんな無邪気な顔をしながら、さきほどまであれほど扇情的で、淫らな声をあげていたとは、こいつのギャップには本当に驚かされると、アッシュは思っていた。
ルークはひとつの顔、というものを持たない。
他の連中のことは知らないが、アッシュにとっては、会えばいつだって、前回会ったルークとは違うルークだった。
愚かだったり、無礼だったりしたこともあったが、好奇心と謙虚さを覚えてからは、もうむきだしの感情そのものの存在だった。生まれてすぐのこどものようにまっさらで、アッシュには理解しがたい生き物であった。
それは、今も少しある。
アッシュは、呪い師の薬草を信じてはいなかった。
だから、毒を口にして視界を奪われた時、その先の予定していた未来がないものであることを覚悟した。
そうして、あらゆるすべての喪失のなかに、ルークが含まれていることを悟って愕然とした。
もうルークの顔を見る事はできない。
もう、あいつの先を走っていくことはできない。
そう思った時、漆黒の翼に、ルークを連れて来るように、と命じていた。
しかし、それは諸刃の剣だと気がついたのは、ルークがアッシュのいた家に、ちゃんとひとりで来た時だ。
会えない時は、焦燥感に駆られていたくせに、いざルークが現れると、会いたくなかったと思う矛盾。
ひとりでなにもできない無様な自分をルークに曝け出すのは、プライドの高いアッシュにとっては相当の決断であったが、しかし、このままアッシュの目が見えないとなれば、けっしてルークは自分の下から離れなくなるだろうという計算もアッシュの中には確かにあって、そのふたつの鬩ぎあいの中で得られたルークとの生活は、少しの間だけであったが穏やかで悪い気分のするものではなかった。
むしろ。
アッシュの人生において、今まであったかどうかも分からない心の平穏を得られるものだった。
しかし、その平穏と引き換えにしても、最終的に得た存在の方が大きい。
こんな生活も悪くないとアッシュは思い始めていたのに、それが覆されたのは、ルークがアッシュに圧し掛かってきたからだ。
拒絶する意味もなく、アッシュはあのまま流されても良かった。むしろ、途中までそのつもりだった。
ルークの声に煽られ、それだけで興奮できた。
けれど。
顔を見ることは叶わなかった。
何度も夢ではみたことがある。
ルークを押し倒し、時には陵辱し、時には甘く抱き合った。
それが現実になろうとしているのに、視覚で確認することが叶わないということに、ひどく腹がたったのだ。
求めていたものは、半分しか手に入らない感覚。
折角目の前にあるのに、伸ばしても完全には得られない。
そんなある意味での喪失感は、アッシュを苛立たせた。
「・・・まったく。見えるようになって、良かったぜ・・・。」
でなければ、こんな幸福感を得ることはできなかったに違いない。
「ん・・・アッシュ・・・。」
アッシュのつぶやきが聞こえたのか、寝ぼけているまま名を呼んで、ルークがアッシュにすり寄ってくる。
声も同じ筈なのに、アッシュのそれよりも高く聞こえると周囲の言うその声。
アッシュは自分の正確な声を聞くことはできないが、ルークの声は好きだと思う。
明るいうえに、どこか色っぽく、そして存外に歌も上手い。
あの小さな家のなか、暗闇の世界にいながらも、ルークの歌う声は、確かになにかを照らしていた。
「赤いカナリアみたいなやつ。」
アッシュは答える者のいない睦言をつぶやき、朱色の髪のなかに鼻を埋める。
それは、つい最近失ったことがある、太陽と同じ匂いがした。
fin
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