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母に泣きながら抱きつかれ、父に・・・たぶん初めてだと思う・・・普通の家庭の父が、誇らしげに息子の髪をかき混ぜるのと同じようにして頭を撫でられ、ルークはやっと帰ってきて良かったのだ、と実感した。
屋敷の者たちも、父母と同様にルークたちを喜んで迎え入れてくれた。
長い間、自分の存在と意義とを模索し、悩んだルークにとって、あの日々は無駄でなかったのだと思える瞬間でもあったのだが・・・。
だからと言って、その悩みと決別した訳ではない。
ルークにとっての新たな悩みの種といえば・・・一緒に帰還した、アッシュのことだった。
アッシュとは未だに和解がなされていない。
和解と言っても、ルークはすでに被験者であるアッシュに対してわだかまりはなく、むしろ憧憬の念すら抱いていたから、許されるものなら仲良くしたいと思っている。
だが、それはアッシュ次第だった。
師匠の野望を阻止するべく旅をしていたあの頃、何度顔をあわせても、アッシュからねぎらいの言葉も温かい声もかけてもらうことができなかったルークにとって、アッシュの傍というのはそれなりに緊張する場所であった。
流石のアッシュも、両親の前であからさまにルークを罵倒などしないから、必然的(というよりも狙ってだが)に、ルークは両親のいる場所でしかアッシュに話しかけることができないでいる。
これではいけないと思うものの、アッシュを前にするとどうにも竦んで、乱れる動悸が収まらないのだ。
そもそも・・・ローレライのきまぐれなのかなんなのか、ふたりで地上に落とされて、かつての旅の仲間と再会した時も、アッシュとは一言も話をしていない。
駆け寄ってきたナタリアや、状況を説明する為にジェイドと話しているのを見ているが、それ以外にアッシュが口を開いていないのだから、たとえば、再び戻ってきたことをどう思っているのかとか、これからどうするつもりなのかとか、そういった類のことですら、アッシュの意志を確認することもできなかった。
しかもそんな中、あれよあれよという間にふたりは仲間たちの手によってバチカルに戻されてしまい、とうとうルークにはなにもわからないままになってしまったのだった。
ただ・・・わかっているのは。
バチカルに戻ってきて、ルークと並んでファブレの屋敷を見上げたアッシュが・・・知らせを受けた父母が屋敷から出てくるまでの間に一言、
「・・・まるで悪夢だな。」
と憎々しげにつぶやいたのを、聞いた。
それが、アッシュのことなのか、それとも傍らに並んでいたルークと一緒にいることになのかは未だに怖くて確かめられない。
ルークの意志とは無関係に、ファブレ子息ふたりの帰還が英雄帰還として発表され、バチカルを初めとしたキムラスカ全体がお祭りムードに包まれてから数週間後。
「うー・・・。」
肩の凝る勉強に集中力が途絶えたまさにその時、部屋をノックする者がいて、ルークはちらりと時計を見た。
3時少し前。これはきっと、母のお茶の時間に誘われたのだろう。
案の定、入室してきたのはシュザンヌの身の世話をしているメイドで、母からの伝言を最後まで聞かずに、ルークは部屋を飛び出した。
帰還した後、シュザンヌはまるで今までできなかったことを取り返そうというように、ルークと一緒にいたがった。
昔から過保護ではあったが、母は自分の体調が良くない日が多かったばかりに、ルークと少しばかり心が離れてしまったと思っている節があって、ふたりが揃って戻ってきてからというもの、なにか機会を見つけてはルークを構う。
しかし、自分がそれに応じることがどれほどシュザンヌの心を慰めるかを、今のルークは理解していた。
レプリカであろうとなかろうと、帰ってきてと、おかりなさいと、涙を浮かべて言ってくれた母の言葉は、なによりもこの屋敷でのルークの生活の糧となってくれている。
「失礼します、母上!」
ちょうど勉強に飽きたこともあって、喜び勇んで花の咲き乱れるサンルームへと足を踏み入れる。
ファブレの屋敷には数えきれないほどの部屋があるが、母は温室となっているこのサンルームがお気に入りで、気分の良い時などは決まってそこでティータイムを開く。
今日は朝食で顔を合わせた時、すでにシュザンヌの顔色が良い事は確認していたから、絶対にここだろうと予測してのことだった。案の定、花のカーテンの向こうから母の朗らかな笑い声がする。そちらに足を向けたルークは、テーブルが見えると足を止めた。
そこには、予想もしていない風景が広がっていて、テーブルを囲む真紅の髪が見えたのだ。
「・・・・アッシュ。」
声に出して名前を呼んでもこちらを見ようともせず、シュザンヌの斜向かいに腰を下ろし、紅茶の入ったカップに口をつけているのは、アッシュだった。
ごくん、とルークは唾を飲み込む。
そして、こちらをみてにっこり笑った母に笑みを返し(その笑みがひきつっていないががルークには気になった)、ルークはアッシュの隣にさりげなく腰を下す。
戻ってきて以来、ふたりは与えられる公務をふたつに分けてこなしていたが、未だ勉強中の身のルークよりも、アッシュが担当する仕事の方が分量が多い。
今日も、アッシュが仕事をしている間、ルークは残って勉強をするというスケジュールだったので、屋敷にアッシュがいる訳ないと思い込んでいたのだ。
「き、今日は・・・。」
少し裏返ったような声は、走って息が切れているせいにできそうだ。
「ナタリアと一種に視察じゃなかったのかよ?」
自然を装って、アッシュの横顔を見れば、ちらり、とアッシュがルークの方に顔を向けた。
濃い翡翠の瞳がルークを捕らえ、そこに不快な色が浮かばなかったことをルークが安堵していると、アッシュはまるで囁くように、ルークの質問に答えた。
「・・・その予定だったが、ナタリアにはナタリアの思惑があったらしくてな。」
そして、こくり、ともう一口紅茶を飲み込む。
「今度の視察には、俺ではなくお前に同行して欲しいそうだ。だがお前の都合もあるからな。明日あさってに突然という訳にはいかないと説明したら、延期することになった。」
「え?俺?」
「ああ・・・。ベルケンドのビリジアン知事の元へと行くことになる。知事とお前は面識がある。」
まるで自分は関係ない、と言わんばかりのアッシュの口調。
そのくせ、まるっきり自嘲的なものが滲んでもいないのが、ルークには理解しがたかった。
アッシュならば、ルークが自分の代わりに視察するとなったら、激怒するか皮肉のひとつでも飛んできそうなものだ。
だが、アッシュの態度は平静で、なんら変わったところもない。
もしかして心の底では面白くないと思っているのかもしれないと考えてもみたが、どうにもそんなそぶりはなく、しかも。
『わ・・・笑ってる・・・。』
母との会話の合間に、アッシュは穏やかに笑ってみせた。
普段、ルークにみせる顔が特別険しいだけであって、そりゃアッシュも笑うだろう。
そんな風に思いながらも、やはり笑うアッシュというのは貴重に思えて、つられてにこにこと笑みを浮かべるルークである。
「ああ、そうでした。私からあなたたちに提案があるのです。」
サンドイッチを平らげたルークが、スコーンを手に取って半分に割っている時、嬉しそうな声でシュザンヌが言った。
「なんですか?母上。」
ジャムとクロテッドクリームをたっぷり塗ったスコーンをもごもごと頬張りながらルークが訊ねる横で、アッシュは片眉を少し動かしたまま無言だった。
「今回折角、貴方たちが誕生日に帰ってきたというのに、その後のパーティはすべて祝賀の為のものばかりでしたでしょう?ですから、誕生日のお祝いを改めて開こうかと。」
「・・・誕生日。」
ルークの胸につきりと小さな痛みが走る。
にこにこと笑うシュザンヌの顔を直視できず、そのままルークは横のアッシュをちらりと見やると、
「お気遣いは無用です、母上。」
速攻で返答があった。
「帰還した際に、陛下をはじめとする方々にまで祝っていただいて、それだけでも身に余る光栄です。そのうえ、そこまでしていただいては・・・。」
口調では遠慮してみせているが、それはもはや拒否以外のなにものでもない響きだった。
誕生日の祝いと言われて、それに対して少しわだかまりがなかった訳でもないルークだったが、流石にそれはないだろう、とアッシュに詰め寄りそうになったほどだ。
しかし、それを感じている筈なのに(母は察しの良い方だ)シュザンヌはにっこりと笑い、
「そんなに畏まったものではないの。身内だけのものです。」
とアッシュの言葉を相殺した。
「要するに、母が貴方たちを祝いたいのです。ふたり揃って誕生日を祝うなど、今までできなかったのですから。」
ルークの横で、アッシュがぐっと詰まる。
そこへ畳かけるようにして、
「ね?そうしましょう。母はとても楽しみなのです。」
などと言われてしまえば、アッシュだって、不本意ながらの承諾の礼を言わざる負えない。
その姿を見て、母上ってすごいなーとルークが素直に感心したとか、しないとか。
誕生日という行事が、ルークはあまり好きではない。
その人が生まれたというのは、大きなイベントだということはもちろんわかっていて、旅の間、誕生日を迎えたアニスを皆で祝った時は、本当に楽しかった。
そんなに贅沢はできなかったが、それでも奮発して用意した大きなバースデーケーキの登場に目を丸くしたアニスが、その時ばかりは大人びているいつもの顔を脱ぎ捨てて、はしゃいで見えたものだ。
・・・人を祝うのはあんなにも楽しいのに、ルークは『自分の誕生日』のことを考えると、心が固まってしまうような感覚におちいる。
それは、もちろん、ルークには本当の意味での『自分の誕生日』がないからだ。
母が提案した誕生日パーティは身内だけの筈だったが・・・優しくいつでもルークを気にかけてくれているシュザンヌは、ルークのかつての仲間にも声をかけてくれていた。
提案から一週間という短い期間しかなかったにも関わらず、全員が快く招待を受けてくれていて、ルークはそれを本当に嬉しく思う。
皆が各々のスケジュールを調整してくれてまで、ルークたちを祝ってくれようとしているのだ。嬉しくない訳がない。
しかし、それと同時にどうしても消えないわだかまりもあって、ルークはそれを務めて表に出さないよう心掛けていた。
なのに・・・アッシュの態度はまるで逆だった。
ルークたちの誕生日、と呼ばれているその日、生まれたのはアッシュひとりだけだ。
つまりはその日を祝われるのは本当はアッシュだけの筈で、その主役である彼は、シュザンヌの前でこそ殊勝に喜んでいるフリをしているものの、絶対に心の底では迷惑がっていることを、ルークは知っていた。
それに、ルークは苛立ちを覚えていた。
誕生日は、特別じゃなく誰にでもあるもので、誰にとっても特別な日だ。自分の誕生日がないルークは、そのことに関してのみは、自分を可哀想だと思っても良いと考えている。誕生日がないというのは、温かいなにかが欠けているということだ。
なのに、本当に祝われる本人が、そんな態度だなんて。贅沢すぎると思う。
パーティを夜に控えたその日、ルークはそわそわしていた。
誕生日を祝う為にはりきっているのは、なにもシュザンヌだけではなく、屋敷中の人間がやれ飾る花だ、やれ鏡を掃除だと準備に浮かれている中で、厨房では夜の為の料理の仕込がすでに始まっており、その良い匂いはルークのいる部屋にまで漂ってくる。
想像するに、はちみつソースで皮をパリパリに焼いたチキン、あまいコーンポタージュ、オマールエビのグリルなどが用意されて筈で、何故ならそれらがルークの大好物であることを、料理長はとっくの昔に気がついているからだ。
たまらない料理の匂いにつられるように中庭に出てきたルークは、そのまま剣の稽古でもしようと木刀を振っていた。
以前は、相手をしましょうと名乗り出てきた騎士たちも、最近はめっきり少なくなってきていた。
ルークくらいの手練れになると、すでに自分たちでは相手にならないと踏んでいて、むしろルークの剣捌きを見せてもらいたいと遠巻きに眺めていたりする。
『そういえば・・・。』
とルークは、目の前でぴたりと止めた木刀の剣先を見ながら、思い出していた。
つい昨日、同じようにここで、アッシュが剣の鍛錬をしているのを見かけた。
アッシュは静かに剣を傾けていた。
目の前にはなにもないのに、その身に纏いつく風すらも斬り裂いてしまいそうなほど、静かに佇み、雑念もなにもなく、ただ真剣と語り合っている。
そんな感想を持つほどの集中力と気合が、ぴしりと空気を震わせていて、同じ剣士だけが感じる覇気に、思わずルークの背筋にも震えが走ったほどだ。
アッシュは強い。
それは、誰よりもルークが知っていることで、それだけではなく、アッシュはなににおいても完璧で、隙というものがない。
まるで、神が予めそう創ったかのようにすら見えるルークの被験者は、そのくせ、その才能に溺れることなく努力の人でもあった。
もう軍人として戦闘に立つことがないであろう今でも、剣の鍛錬を怠らないように、常に己を律し、油断や怠慢を許さない。
『いつか、手合せとか頼めないかなぁ・・・。』
ルークは思った。
一度は本気でやりあって、かろうじてルークは勝っているものの・・・その時、アッシュの体調が万全でなかったことを知ってからは、ルークの中ではあの勝負はなかったものとなっている。
アッシュが普段通りの力を出せていたとしたら、ルークは果たして勝てたのだろうか。
そんなことを考えていたルークの視界の隅に、赤い物が入り込んだ。
ちょうどアッシュの髪に似ているその色に、思わずルークの視線はそれを追ったのだが・・・。
「・・・・・?」
よくよく見れば、目の前に赤い物などない。
もしかしたらアッシュのことを考えていたから、そう見間違えただけかもしれないと思いつつも、ルークは手に持っていた木刀を壁に立てかけ、赤い物が消えた方向に近づく。
無数にあるファブレの屋敷の部屋の中で、中庭に面しているのは、ルークの部屋とアッシュの部屋と、廊下と、厨房に面している部屋くらいなものだ。
もしかしたら、そのどこかに隠れてしまったのかもしれない。
そう思いつき、適当な扉を開いて中をそっと覗いてみれば。
「あ。」
ちらりと見えた後頭部で、全身を見なくとも、アッシュとわかる。
どこも束になることはない流れる水の波紋のような美しい真紅の長い髪は、アッシュのもの以外にはありえない。
そうでなくても・・・たとえばその髪を隠し、全身を布で覆ってしまったとしても、ルークにはアッシュがわかる。
一緒に屋敷に帰ってきてからは特にそれを感じる。
たとえ、広い屋敷の端の部屋と端の部屋にいても、ルークはアッシュが屋敷にいるかどうかくらいは自分にはわかる、と思う。
それにしてもなにをしているのだろう?
こっそりと覗き見をしながら、ルークは訝しんだ。
そこは厨房に連なる準備部屋ともいうべきところで、夜の為に用意された数々の料理がところ狭しと並べられ、パーティ会場にお目見えするのを待っている。
『もしかして、今日の料理の確認・・・とか?』
アッシュがパーティの料理にまで事細かに支持を出す図は想像できないが、それでも完璧主義の彼のことだ。
もしや招待客になにかの不備があってはならないと(たとえば・・ありえそうもないが、ガイが来るのに豆腐が出るとかだ。)事前に下見をしに来たのかもしれない。
そんなことをルークが考えている時だった。
目の前のケーキに注がれていたアッシュの視線がわずかに動き・・・白い生クリームを赤く彩っていたいちごのひとつを摘まむと、アッシュはそれをおもむろに口に入れた。
「嘘だろ!?」
目撃したものに驚いて、思わず叫んでしまってから、しまった!と口を抑えても、もう遅い。
アッシュはルークの声に振り向いて、けれどつまみ食いを見られたことを悪びれも照れもせずに、もぐもぐと咀嚼してごくんと飲み込んだ後・・・余裕たっぷりに、お前かとつぶやいただけだった。
まるでいたずらをしたのはルークでもあるかのように。ルークの方は動揺しているというのに。
「アッシュ、アッシュ!い・・・今!」
わたわたと騒がしく部屋に入ってきたルークに、うるせぇよ、とアッシュは静かにしろと言う。
「ばれるだろうが。」
「だって、だって今・・!」
それでもなにか言おうとするルークの顎を、アッシュは乱暴にぐいっと掴むと、
「うるせぇって言ってんだろ。」
とその言葉を封じるように、開かせたルークの口の中になにかを押し込み、不敵ともいえる笑みを浮かべる。
「・・・これでお前も共犯だからな。」
『あ。』
もぐもぐとルークも、口の中に入れられたものを噛む。
甘くて、酸っぱくって、纏っている生クリームの絶妙な甘さ。
やっぱりうちの料理長のケーキは最高だ・・・とか思っている場合ではない!
「アッシュ、なんで・・・?」
つまみ食いなど。
絶対にアッシュはしないだろうと思っていたのに。
どうしてこんな、らしくない・・。
ルークがそう言うと、アッシュはこのうえもなく気分を害したように目を眇めた。
「『らしくない』?」
そしてそのままルークを睨む。
それは、旅の途中で何度も投げられた視線と同じに見えて、反射的にルークが首は竦ませた。
だが、予想に反して怒鳴られはせず、反対にアッシュは、ふい、とルークに背を向けて部屋を出て行った。
扉が閉められなかったことに、一緒に来いというアッシュの意志を感じて、ルークはその後を追う。
果たして中庭に戻ってみると、アッシュは壁に凭れかかり、両腕を胸のあたりに組んでルークを待っていた。
そのさりげない仕草すら、アッシュは様になる。
剣を奮っていても、食事をしていても、物を書き読みするだけで・・・アッシュは全ての人を魅了してしまう。
貴族の見本のような人。
王になるべくして生まれた人。
アッシュの魂は生まれながらにして高貴で、誰一人足元にも及ばない。
ルークは、自分が自分である為にしてきた努力とは別に、生まれ持ったもの中で誇れるものがあるとするならば、それはアッシュのレプリカであること以外ないと思う。
そんな風に、眩しく己の被験者を見つめていたルークに、アッシュは軽く目を閉じたまま、まるで溜息のように言葉を投げた。
「なにが『俺らしくない』んだ?」
「え?」
「・・・お前には、『俺』がどう見えているんだ?」
「え、えっと・・・。」
怒号すらあげないものの、どうやら怒っているらしい彼の態度に、ルークは戸惑う。
怒鳴られるのを心配すると、ルークの言葉は選んで迷っているうちにどんどんと削られ、結局、なんと答えたら良いやらわからない。
どうしてアッシュが怒っているのか、わからないから尚更だった。
「俺から見て、アッシュは・・・。」
それでも(黙っているともっと怒られるに決まっている)悩みながらルークが口を開くと、アッシュは目を開けて、ちらりとルークを見た。
そこでどきん、と心臓が鳴って一時言葉を失ってしまったが、勇気を出して続きを口にする。
「・・・完璧な人、かな?」
「・・・・・完璧、ねぇ。」
アッシュは笑った。
それは若干怯えているルークの態度を笑ったのではなく、どう見ても自嘲だった。
「完璧ったって色々あるがな。お前の言う完璧と、他人の思い描く完璧と、俺の言う完璧は目指すところが違うだろうよ。・・けど、まぁ良い。そんな禅問答したい訳じゃねぇ。」
「じゃ、なに?」
なにが言いたいのかわからない、というのがルークは苦手だ。
ルークという人物は、卑屈だ気にし過ぎだと人に言われるほど己の事に悩にはするが・・・自分の気持ちを誤るということはあまりない。
それは、こうありたいという欲望を持つ人間には稀なことで、己を原寸大の自分と捉える、しっかりとした自分の尺度がなければできないことでもある。
誰しも自分の理想を思い描くあまり、都合の悪いことに目をつむり、自分自身の感情にすら誤解を生じるということを、多かれ少なかれしているものだからだ。
だから、ルークは相手がアッシュであるということを一瞬忘れ、もったいぶったような彼の態度に、少しの苛立ちを覚えた。
「アッシュ、なんか変だぜ?さっきも・・・つまみ食いなんかしてさ。あれ、今日のパーティ用のケーキだろ?あんな風に穴をあけたら、料理長が困るだろうが!」
ついつい責めるような口調になってルークが言えば、アッシュはきょとんと捲し立てるルークを見て・・・ふ、と笑った。
「相変わらず、真面目だな。流石は父上自慢のファブレ子爵だけある。」
「はぁ?なに言ってんだよ。」
からかわれている、もしくは誤魔化されようとしていると判断して、ルークの口調は更に荒くなる。
だが、アッシュはそう怒るな、とルークの言葉を遮った。
「本気で褒めてるんだよ。」
「・・・・・。」
そんなことを言われたら、ルークは言葉を失って・・・ぽかんとアッシュを見るしかない。
もちろん、アッシュに褒められたということは嬉しく、それを直接言われたのは初めてのことで、素直に喜んで良い場面である。
だが、ルークにはどうしてこんな時にこんな流れでアッシュがそんな事を言うのかが、理解できなかったのだ。
「じ・・自慢って・・・。」
どうにか会話を続けようとルークは言った。
「お前のが、父上にとっては自慢じゃん?俺なんかよりも・・・。」
「お前は時々、人の言葉をわざわざ違えて受け取ることがあるな。それが卑屈だって言われるんだよ。」
諦めの溜息まじりに言われ、なんだとー、とルークはアッシュに噛みついた。
「なんだよ、それ!」
「おまえのが、父上の望むような子爵になれる。そのことに何故気がつかないんだ。」
なんだ、それ。
ルークはぐっと拳を握った。
それではまるで、アッシュの方が卑屈を言っているようではないか。
だが、ルークと対峙するアッシュの瞳は不思議なほど凪いでいた。
自嘲の類は一切見せず、本気でそう言っているかのようだ。
なんだか変だった。
こんなのは、ルークの知るアッシュではない。
ルークの喉から、うぐっと得体のしれない音が鳴った。
なにか言い返そうとして、適当な言葉が見つからないせいで、空振りしたような声だった。
「アッシュ・・・。」
ルークは言った。
なにか言わないと、なんだか嫌な予感に飲み込まれそうで。
「なんで、いきなりそんな事言うんだよ?」
「俺は思っていることを言ったまでだ。」
アッシュは言い、ふう、と溜息をついて、背を預けている壁から身を起こした。
そのままルークの横へと移動してくる。もう少しですれ違ってしまうという位置で、アッシュは足を止めた。
「お前、さっき俺を完璧だと言ったな?」
「うん。そう思ってるから。」
そう言うと、アッシュはさきほどと同じように、完璧ねぇ、と自嘲気味に笑った。
「俺は・・・。」
そのままルークを見る。
「相当、無理をしているんだがな。」
「え?」
今度はルークがきょとんとして、アッシュを見る。
今なんて言った?
無理?
アッシュが?
「・・・性に合わねぇんだよ。貴族の暮らしが。」
「え?でも・・・・。」
反射的に答えてから、ルークはその意味を改めて考えた。
ルークの目には、アッシュ自身がどう言おうと、立派な子爵の任をこなしているようにしか見えない。それも楽々と。
「本来の俺には、教団の軍人暮らしの方が似合う。・・・帰ってきて、この屋敷の前に立った時、怯んだ。このまま屋敷に戻ったら、その先になにが待っているかを想像したら、踵をかえして立ち去りたかった。敵前逃亡なんざ一度もしたことねぇが・・・逃げ出したい気持ちってのはああいうのなんだろう。」
「アッシュ・・・。」
「完璧ではないが、確かに俺は器用だ。」
ルークの物言いたげな視線を無視して、アッシュは続けた。
「与えられた子爵の仕事もだから、それなりにこなしてはいるだろう。だが、それだけだ。俺の中は空虚で、なにかをやり遂げたという達成感は得られない。もしかしたらこの先もずっと、こんな生活が続くのかと思うと・・・正直、キツイ。お前が俺をどう思おうと勝手だが、本来の俺は、ああして目の前に美味そうなものがあったら、礼儀も気にせず手を出すような、そういう男だ。」
きちんと場を弁えているお前の方がよほど貴族らしい、とアッシュは言った。
ルークは、アッシュ自身が言うように本来の彼がそうだとは思えない。
何故なら、まだ自分がレプリカだと知らぬまま、この屋敷に来て、嫌と言うほど自分の被験者が・・アッシュが・・・いかに優れた性質の貴族の子息であったかを思い知らされてきているからだ。
誰もが、アッシュを褒めていた。
あの頃のルーク様は、あの頃のルーク様でしたらこのくらい。
何度、そんな言葉を投げかけられ、その度に絶望しただろう。
その賞賛のすべてが、嘘で演じ切れていたものだとは思えない。
「なぁ、アッシュ。まさか・・・。」
さきほどからひたひたとの背中をにじり寄ってくる嫌な予感に耐え切れず、ルークはとうとうその不安を口にした。
「ファブレの屋敷を出て・・・どこかに行くとか・・・言わないよな?」
その時の、アッシュの表情はなんと言ったら良いのか。
図星を刺されたようでもあり、答えに迷った風でもあり、だがルークの問いを笑い飛ばさなかったのだけは確かだ。
アッシュは少しの間をおいて・・・石でも吐き出すかのように、言わねぇよ、と答えた。
「本当か!?」
疑ってルークが問いただすと、アッシュは今度は大きく頷き、
「ああ。出て行かない。」
ときっぱりと言った。
だが、ルークはそれだけでは安心できなかった。
胸に渦巻く不安の雲は晴れるどころか、ますます黒く厚くなるばかりだ。
「アッシュ、本当のこと言ってくれ。」
懇願するようにして、ルークは言う。
「今だけじゃなくって、将来的にも、ここを・・・ファブレの屋敷を出て行かないって約束してくれ。けっして俺には、黙って出て行かないって。」
「出ていかねぇよ。」
少しの間もおかず、アッシュは答える。
「将来のことを絶対とは言えないが、少なくともお前に黙って出て行かないと誓う。」
「本当に!?」
「ああ・・・。」
アッシュは少し眉を寄せ、しつこいと言わんばかりに溜息をついた。
「それだけは約束するから安心して良い。俺には、出て行かない『理由』が、ここにあるからな。」
そう言いながらアッシュは、ルークを見た。
「理由?」
ルークは首を傾げた。
己の居場所を探し続けたルークにとって、自分の家だから、という以上の理由など想像がつかない。
だから、改めて「家にいる理由」が他にあるなど理解しがたかった。
だが・・・ルークとアッシュは違う人間だ。
ルークにもそれなりに生きる理由があるように、アッシュにはアッシュの生きる理由があるのだろう。
だが、それはそれでまた、ルークの不安を煽る。
「その理由ってさ・・・。」
探るように上目づかいになりながら、ルークは尋ねた。
「・・・なくなるような、もんか?」
「あ?」
「だから・・・しばらくしたら、達成されて意味がなくなる、とか。」
「・・・・・。」
アッシュは、瞬きした後、
「いや?」
と答えた。
「達成されるようなもんじゃねぇ。意味がなくなることもない。・・・たぶんな。」
「たぶんって・・・。」
なんだろう、その不確かな言い方は、とルークはアッシュのように眉を顰めた。
それを見て、アッシュは溜息交じりに答える。
「それは、俺がどうこうできるもんじゃねぇってことだ。」
「どういう意味だよ?」
「今は意味はわからなくて良い。」
そのうち分かるだろう、とアッシュは笑った。
それは鈍いルークを笑ってるようでもあり、なにかを誤魔化したようでもある、ルークの初めて見る種の笑みだった。
まるで可愛い子犬のいたずらに困っているような。
『あ、あれ?』
なんだか変だ、とルークは自分の胸のあたりをぺたぺた触る。
なんか今、ちょっと心臓のあたりが痛かったような・・・?
す、とアッシュの影が動き、ルークに直接的に日光があたる。
反射的にルークは、ちょっと待って、と言いそうになった。
もう話は済んでいて、それはルークも納得しているのに、アッシュが行ってしまう、会話が終わってしまうと思ったら、とっさに引き留める為の手が伸びたほどだ。
だが、その手が届く前に、アッシュがそういえば、というように振り返った。
「・・・誕生日を祝われるのなど、久しぶりだ・・・。」
「教団にいる間は、なにもなかったのか?」
言ってしまってからルークは、しまった、と思った。
それは、とても思いやりのない質問で、アッシュが気分を害してもおかしくなかったからだ。
しかし、アッシュは気にした風もなく、いや?とルークの質問に答える。
「たまたま任務がなかった時に、教会内でヴァンに何度かな。後は、アリエッタにも一度。どちらもある意味で律儀な奴だったからな。」
「そ、そうか・・・。」
そんな、ルークなら喜んで思い出したくもなさそうな過去を、何事もないように話すアッシュが眩しかった。
今はルークのせいではないとわかっていたが、そんな環境にいたことを、誕生日を祝われないことを、当たり前のように思っているアッシュが悲しかった。
黙ってしまったルークに、アッシュは勘違いしたらしく、お前には俺からプレゼントしてやるよ、と言った。
「え?いいよ!だって、明日は本当は俺の誕生日じゃなくって・・・。」
「お前のだ。」
お前のじゃん、と言おうとしたルークの言葉に、アッシュの同じ言葉がかぶさってきて、否定する。
「え?」
「俺の誕生日でもあるが・・・お前の誕生日でもあるんだよ。」
だってそれは、と言おうとしたルークを、アッシュが止める。
「・・・俺がヴァンに攫われたのは、10年前、『俺の誕生日会』で忙しかったせいで、屋敷の警備が手薄になっていたからだ。」
だから俺の誕生日を祝うと言われた時、素直に喜べなかったんだが、とアッシュは眉を顰めた後、
「・・・攫われたすぐ後に、お前は生まれている。・・・だから、同日か少なくとも、一日くらいしか違わない筈だ。」
「え・・・嘘。」
ルークはアッシュの言葉を反芻した。
アッシュは誕生日に誘拐されて、同日か、たとえ違っても一日くらいの差でルークが生まれてる?
・・・ということは。
「俺・・・アッシュと同じ誕生日、なのか?」
「ああ。厳密に言ったら違う可能性もあるが・・・一日か二日違いだったら、同じ日で良いんじゃねぇか?」
正確な日にちを知ろうにも、もうヴァンはいないしな、とアッシュは言った。
「・・・もっとも、同じじゃ嫌だとお前が言うなら、頃良い日を選びなおすって手もあるが。」
「え、やだ。」
ルークが慌てて首を振ると、アッシュはそうか、と眉を寄せた。
「・・・なら、いつが良い?」
「いや、そっちの嫌だじゃなくって!違う日は嫌だ!アッシュさえ良ければ、同じ誕生日が良い!」
ずっとアッシュの代わりに祝われていたからというなじみの話ではなく、純粋に、ルークはアッシュと同じ誕生日が良いのだ。
顔も同じ、髪も同じ、声も同じ、身長も体重も。
それほど同じなのに、違うのは性格だけ。
考えている事だけ。
それならば、誕生日だって同じが良い。
ルークがそれこそ手振りまで加えて力説すると、アッシュは、ふっと笑い、じゃあそうするか、と言った。
その瞳は穏やかで、今まで見たどんなエメラルドも叶わないほど美しく深い緑色のその中に、ルークの姿が映っているのが見えた。
それは、いつか見た母に向けるアッシュの笑みとなんら変わらないもので、それが己に向けられたことを意識した途端、ルークの顔になにか熱いものが上ってくる。思わずのぼせそうな勢いだ。
「なぁ、俺さ・・・今、剣の稽古してたんだけど。」
いつか頼めたらなぁ、と思っていた願い事も、今なら口にしても怒られなさそうだ。
「手合せとか、頼めないかなぁ?」
勢いに任せてルークが言うと、アッシュは振り向いて、
「・・・良いぜ?」
と不敵に、にやりと笑った。
それは、ルークには絶対に負けないと思っている顔だ。
俺だって負けねぇ!と思いながらルークは、さきほどアッシュに掴まれた顎のあたりが、熱を持っていることに気がついた。
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