天空からダイブ

 

 

 


 秘密というのは、どうしてこうも心を躍らせるのだろう。
 夜、廊下の角から頭を出し、誰も通っていないことを確かめてから、足音を忍ばせて歩み出す。
 めざすのは、ほんの数メートル先だから、緊張など必要ない筈なのに、不思議とルークの体を高揚感が包んでいる。
 
 今日、市街地にお忍びで出た時、いきかう女の子たちがはしゃぎながら口ずさんでいた流行歌の歌詞を思い出す。
 

 静かな夜にはあなたを思う。
 誰もいない街に黒猫のように踏み出してあなたの部屋に忍び込むの。
 めくるめく夢の中で会いましょう。
 密やかな時はすぐそこよ。
 

 めくるめく夢がなんなのかはともかく、密やかなるものが、人の心に齎す効用についてはわかる、とルークは思う。
 ほんのささいな秘密だが、それがふたりだけのもの、となると途端に濃密ななにかに変化するということも。

 目的の部屋にほんの数秒でたどり着き、控え目にノックをしてから、返事も待たずに滑り込む。
 この時間に約束をしていたのだから、相手も来ることを予想していた筈だし、むしろ返事を待ってぐずぐずしているのは得策ではない。

 案の定、アッシュはルークが部屋へと入ってくるのと同時に、手元の本に落としていた視線をあげた。
 挨拶もなにもなく、片眉を少しあげただけの表情で、迎え入れることを示す。

「遅くなったか?」
「・・いや?」
 
 ルークの言葉にアッシュはベッドサイドの時計を確認した。
 約束の10時よりも、長針の位置はほんの少し右に傾いていたが、そんなものは遅くなったの範疇外だ。
 アッシュがそのまま視線をルークに戻す。
 ぱちり、と目が合うとルークの胸は一種の痛みに苛まれる。
 今更、アッシュに傷つけられるとは思わない。むしろ逆で・・・2年以上も前のかつて、アッシュに怒鳴られていた時とは違う緊張感に包まれるのだ。たとえば、どんな表情をして会話したら良いかわからないといったような。
 目が合った後も、ルークがむむっと口元を引き締めて眉に力を入れているので、アッシュは怪訝そうな顔をした。
 ちょこっと首を傾げ、どうした?と奇妙なものを見るように、ルークに言った。
「えー・・あー・・なんだっけ?」
「・・・お前、大丈夫か?」
「なんでもねーよ。あ、薬だよな!」
 ルークは言って、部屋を出る前にポケットに入れた小さなビンを取り出した。中には白い小さな錠剤が30粒ほど入っている。
「飲みきってもまだ治らないようなら、今度はご本人がもう一度様子を診せにきてくださいってさ。」
「そうか。・・・手間をかけさせたな。」
 アッシュは、ルークの手からそれを受け取ると、早速、薬を飲み込む。
 白い喉元が上下に動く様を見届けながら、ルークは様子を伺うように、アッシュの顔を覗き込む。
 アッシュは今、夏だというのに普段着にも長袖のシャツを着ている。リネンのシャツはそれだけで涼しそうであるから、不自然ではないだろうが・・・そうして首元までボタンでキッチリ留めているのは、肌を露出させない為だ。
 見える部分には症状がないのでわかならいが、すこしでもそのボタンを外せば、たちまち赤く爛れた肌が表れる。
「痒みはおさまったのか?」
「ああ・・・。あとは、赤みが引くのを待つだけだ。」
 けれど、そんなに軽視していた大丈夫なのか?という心配の声を、ルークは喉元で飲み込んだ。
 元より・・・ふたりだけの秘密にすると決めたせいで、アッシュは大出を振って医者にも行けなくなってしまった。その責任の一環はルークにもある。
「・・そんな大げさなものじゃねぇだろう。」
 蕁麻疹が出たくらい、とアッシュに言われ、ルークは、そんなに甘くみない方が良いぞ!とつい余計な苦言をしてしまうのだった。


 ルークもタコは嫌いだが・・・。
 アッシュのそれは、ルークの好き嫌いとは違う問題なのだと知ったのは、夕食に出たタコのマリネをアッシュが黙ったまま口にした、その数時間後のことだった。
「タコにアレルギーがあるって、素直に言えば良いじゃねぇかよ・・・。」
 アッシュのアレルギー反応は、全身を覆っている。
 隙をみつけて駆け込んだ医師に薬を調合してもらい、治りかけの今に至るが・・・その時、医師が告げた言葉にルークは身震いをした。アレルギーで起こる腫れは、ひどいと気道をふさぐほどになり、命に係わることすらあるらしい。
 なのに、なんでそこまで父上や母上、強いてはファブレの屋敷に遠慮するんだ、とルークは思ったが・・・それを口に出すことは躊躇われた。
 何故なら・・・アッシュが無理をしないこと、我慢をしなくなることが、イコールで、アッシュが屋敷を去ってしまうことに直結しそうで怖いからだ。

 眉目秀麗にして、頭脳明晰。なにもかもに秀でるルークの被験者。
 けれど・・・その心の底には、自制という事実が隠れている。
 
 アッシュは、したくないこと、嫌なことを飲み込んで公爵子息という立場にいる。
 本来なら・・・貴族の暮らしなど性に合わないのだ、とルークにだけ密かな告白があったのだ。


 ルークは無言のまま、アッシュの顔を見る。
 その顔には嫌悪の類は浮かんでいないが・・・今も胸の中には薄暗い雲が立ち込めているのだろうか。
 それを表にださないように努めての無表情なのだろうか。
 先週、アッシュが不在の時に、母とお茶を一緒にした事がある。
 その時、母はため息交じりに、「貴方たちには無理をさせている」と謝られた。それは・・・常に気を張っているアッシュを気遣っての言葉に、ルークには感じられた。
 己の子供とレプリカとが入れ替わっていることに気がつかなかったことで、何度自分を責め続けたかわからないシュザンヌは、それ故、息子ふたりの、とりわけ心の機微には敏い。その母には、アッシュが無理を重ねていることが分かるのだろうか。もしもそうなら、母ならもしかして。
 ふ、とそんな事が頭を掠めたが、ルークはそれはないな、と首を振った。
 シュザンヌの心の拠り所は、間違いなく自分たちだ。
 それが、親子の情であると知った今、ルークは昔の恐れを捨て、確信を得ていた。なぜならば、自分の心の拠り所も、間違いなく母という存在であったからだ。
 だからルークは、油断していた。・・・失念していた、と言っても良い。
 母が・・・アッシュがこの家から離れることに同意する訳などない、と。

 

 

 

 


 ルークは今、目の前にある世界が今まで見てきたものと同じだとは思えなかった。
 視界を赤く染めるその向こう側では、アッシュが夕食のメインに出されている子羊を器用に切り分けながら、まるでなにごとも起こってないかのように平然としている。
 母は黙っていた。
 この部屋で言葉を発しているのは父しかおらず、そしてそれ以外は、このまま壊れるのではないかと思う程の早鐘を打つ、ルーク自身の鼓動しか聞こえない。しかもそれはルークの耳元で、ざわっざわっとまるで頭の這いずり回るかのように不快な音をさせるのだ。
 気持ちが悪い。
 父の言葉は、耳から入っても、ルークの中からすり抜けていく。

「ビリジアンからは快諾の返事を貰っている。勉強させて貰う身なのだから、失礼のないようにな、アッシュよ。」
 それに対してアッシュは、軽く会釈も交えて、はい、と答えた。
「私も、いずれはお前にベルケンドの統治を、と考えている。そのつもりでいるように。」
 厳しい表情を浮かべていたクリムゾンは、軽く微笑を浮かべた。そこには、慈愛と一緒に、すこしだけの寂しさが漂ってもいる。
「それから・・・勉強の為にこの家から離れるとは言っても、お前の家はここだ。休日にはいつでも帰ってきなさい。」
「ありがとうございます、父上。」
 答えるアッシュの声が、芝居がかっているかのようにいっそ白々しく聞こえるのは、何故だろう。
 ルークが、ぼんやりとその横顔を眺めていると、ふい、とアッシュが顔をこちらに向けた。
 目があった途端、ルークの体を、なにかが痛烈な勢いで走りぬけていく。

 アッシュがバチカルを離れて、ベルケンドへ行く。視察などではなく、向こうに居を構え、このファブレの屋敷からは出ていく。
 
 つい先月、アッシュがアレルギーを起こした時にも、ふたりで話す時間はたくさんあった。
 その時には・・・そんな話が出なかったのに。

「い、いつ・・・決まったんだよ?そんな事?」
 寝耳に水だと震えた声でルークが聞けば、
「・・・正式に決まったのは、先週だ。話だけなら・・・ふた月も前だったか。」
 それならば、アレルギー騒動の時には、すでにベルケンド行きの話は出ていたということではないか!
「・・・いつ。いつ出発なんだ?」
「まだ正式には決まってないが、早ければ来月頭にでも。その前に色々と・・考えていることがあるからな。それのカタをつけるのが先だが。」
「いつ帰ってくるとかって・・・決まってないんだよな?」
 アッシュは溜息をついた。
「ちゃんと話を聞いてたか?俺は視察で行く訳じゃない。ベルケンドに移るんだ。期間などないし、向こうに骨を埋めるつもりで行く。」
 それに対しては、母の表情が曇ったのを、ルークは見逃さなかった。
 もう決定したものとして、告げてくるアッシュの態度が気に入らない。
 ずっと前にわかっていたというのなら、少しくらい教えてくれたって良かっただろうに、それをしなかったことも気に入らない。
 抗議の視線を送ると、ルークの不満気な表情で、それを読み取ったのだろう。
 アッシュは、手にしていたナイフとフォークを子羊の皿の上に置き、その手前で指を組むと、まるで溜息をつくかのように言った。
「事後報告になってしまった事は悪いと思っている・・・だが、その時点での話はお前には関係ない・・・。」

 その瞬間、ルークは頭の中が真っ白になって、気がついた時にはアッシュに向けて、手元にあったグラスの水をぶっかけていた。

 

 

 

 
 旅の途中は、世界を救うことを目指し、本当にぎりぎりの命のせめぎ合いをしたにも関わらず、自分が死ぬかもしれないと思った事は、自ら瘴気を消しに行った時以外なかったのだが・・・今、ルークは自己嫌悪で死ぬかもしれない、と本気で思っていた。

 自室のベッドに腹這いに寝そべり、枕を抱いて拗ねている。
 間違いなく子供の仕草以外なにものでもないが、落ち込んでいるルークはそんな事に気を配っていられる状態にない。

 あの後。
 水をかけられたアッシュが、黙っている訳もなく。
 取り繕っているいつもの貴族然している顔から、まさに鮮血時代の顔に戻ったアッシュが、テーブルを乗り越えて掴みかかってきたことから(いや、テーブルを乗り越えたのはルークの方だったか・・?うろ覚えだが)ふたりの殴り合いの喧嘩に発展した。
 激昂した若いふたりには歯止めが利かず、母の涙声の制止の声も、父の怒鳴り声も効果はなく、とうとう白光騎士団が5人がかりで止めに入るという事態になった。
 
 喧嘩が終わり、頭が冷えた後のルークは、どうしてあんなことを・・と落ち込むばかりである。
 だが・・・その点を反省しているからと言って、そもそもの問題点が解決した訳ではない。それがさらにルークの気分を沈ませる。
 アッシュがベルケンドに行くことは決定していることで、覆ることはない。
 そう分かっているというのに・・・どうしても、納得できない自分がいて、ルークはルーク自身を持てあますのだ。
 納得できない・・・いや、諦めきれない、というべきか。
 ルークの荒れ狂う胸のうちは、まるで駄々っ子が喚いているかのようで、アッシュがいなくなるということに、これほどまでに自分がショックを受けていることもまた、ルークを落ち込ませる原因でもあった。
 ・・・いつか出ていくのではないか。離れていくのではないか。その予感はすでにあったというのに、それが現実になった時の覚悟など、想像していたよりも持っていなかったということだ。

 枕の中に顔を埋めたルークの耳に、控え目なノックの音が入ってきた。
 ベッドの上に身を起こし、はい、と返事をしたのと同時に現れた白い姿に、ルークは居住まいを正す。
「は、母上!」
「入りますよ?ルーク。」
 シュザンヌは慈愛に満ちた表情で息子をみつめ、ルークが落ち着いている事を確認したようだった。
 そして、ベッドの上で胡坐をかくルークに近づくと、幼い子供にそうするように、そっと髪を撫でて慰める。
 そうされるとルークは、気恥ずかしくむず痒く、けれどけっして嫌ではなくむしろ嬉しい。そういう色々な感情の混じったいたたまれない気持ちで、顔をあげることができなかった。
「すみませんでした、母上・・・その・・・。」
「反省をしているのなら、それで良いでしょう。むしろ、あまり気に病みすぎるのもどうかと思いますよ?」
「・・はい。」
 母の気遣いが身に染みて、ルークは頭を下げる。
 そんな息子の様子を、シュザンヌは寂しそうに見つめると、同じ視線で話ができるようにルークの座るベッドに自分も腰を下ろし、俯いているルークの手に自らの手を重ねた。
 
「アッシュがこの家を離れることが、ショックだったのですか?」
「はい・・・。」
「そうですね・・・。私も旦那様から聞かされた時は、とても寂しく感じました。けれど・・・とうとうこの日が来たか、そう思いました。貴方もそう思ったのでしょうけれど。」
「はい。」
 その答えを聞くと、シュザンヌはまるで少女のように首を傾け、薄く笑みを浮かべた。
「アッシュは・・・あの子は相当、色々な事を我慢していたのでしょう。」
「・・・・・。」
「あの子は・・・大変賢い子です。ファブレ家の子息として、どのような立ち居振る舞いが相応しいか、またどのように周囲に期待をされているか、それが分かっています。・・・そして、その期待に応えられるような器用さも持ち合わせている。けれど・・・あの子の本来持っている気質が、それにあっているかどうかは別だ、と私も旦那様も思っていました。」
「・・・母上。」
「さきほどの貴方たちの喧嘩で、テーブルの上に飛び上がったあの子を見た時、」
 やはりテーブルを飛び越えたのはアッシュのようだ。
 母は言うと、その時のことを思い出したのか、くすりと笑った。てっきり顔を曇らせるかと思っていたので、ルークには意外な反応だった。
「あれがあの子の本質、あの子がこの家に帰ってきてから抑え込んでいたものなのだと分かったのです。それと同時に、あの子がどれほど自分を殺しているのかということも。」
 ルークは頷くしかなかった。
 それ以外になにができよう。アッシュが、どれほど苦労をしてそれを気取られまいとしていたかを知っていたのは、なにもルークだけではなかったのだ。
「アッシュをベルケンドへ、という話を旦那様から聞かされてから、私にはあの子が離れて行ってしまう事を納得できない部分もあったのです。けれど・・・さきほどのあの喧嘩を見て、やっと決心ができたのです。私も子離れをできない親を卒業しなければなりません。」
「母上・・・。」
「ルーク、貴方も。」
 母はそう言ってにっこりを笑い、けれどその続きを言う事はなかった。

 

 

 

 

 

 
 ガタン、という衝撃を心地よいとルークは思う。

 天空に手を伸ばすかのように、上へ上へと高く建つバチカルには、市街地と貴族の住む上級地の間を結ぶ大きなエレベーターなど、他の街はけっして持たない機能を有しているが、天空滑車もそのひとつだ。

 入口から反対側の窓から頬杖をつきながら、ルークは下を眺めていた。
 今日は港へ向かう滑車ではなく・・・使わなくなった廃工場への滑車に乗っている。使われなくなって久しい工場跡だったが、政府の音機関倉庫として利用してはどうかという話が持ち上がっており、指揮をまかされたファブレ公爵の名代として子息ふたりがまず、視察へと赴く事になった為だ。
 
 ・・・そういう訳で、ルークの斜向かいにはアッシュが座り、同じように顔を背けて窓の下を眺めている。
 それをルークは、目の前の窓ガラスに映り込んだ映像で確認をしていた。

 アッシュとは、あれ以来、一言も口を利いていない。

 我ながら子供っぽいとは思うものの・・・自分から折れて話しかける気にはなれず、いつのまにか意地の張り合いになって、食事の席で顔をあわせても目も合わせずのままだ。
 普段なら間を取り持とうとする母も、どういう考えがあるのか知らないが、まるでふたりの険悪なムードなど気にもしていないように振る舞っていて、仲直りしようにもタイミングが計れやしない。もっともルークは、仲直りするならアッシュが謝ってからだ、と心に決めているので、タイミングがあろうがなかろうが関係がないと思っているのも事実だ。
 だが、アッシュも全然悪びれない。
 喧嘩をふっかけたのはルークであるが、その原因はアッシュの一方的な態度であるというのに、まるで自分には非がないかのような態度だ。それを見ていると、ルークの腹の底には、黒い膿のような怒りがたまり、またもや喧嘩をふっかけそうになる。そういう時は黙って、無視を決め込むに限る。
 そんな訳で、天空滑車のワゴンの中は無言のままだ。
 よくよく考えてみれば、護衛の騎士のひとりやふたりが同乗しても良さそうなものなのだが・・・。彼らは彼らなりに気を使っているのかもしれない。アッシュとルークが喧嘩中で、しかも相当険悪なことは、屋敷にいる人間には知れ渡っている。気の良い連中が多い白光騎士団だ。なにかのきっかけで仲直りをして貰おうと思っていても不思議ではない。

 それにしても・・・気まずい。
 
 ルークがガラス越しにそっと盗み見ると、アッシュは足と腕を組み、顔を伏せ気味にして目をつむっている。まさか眠っている訳ではないと思うが・・・それにしても、静かだった。
 最近、気がついたのだが・・・アッシュは息をつく時も、大きな音はさせない。剣術の稽古の後、荒れた息を整える時ですら、ひっそりと行う。それを指摘した時、アッシュは癖だ、と答えた。おそらく長い間、乱れた呼吸を悟られることが自分の命に係わるような生き方をしてきた者の習慣なのだろう、と。

『えっと・・・。その時、俺はどう思ったんだっけ・・・。』

 そんな生き方をしてきたアッシュを悲しいと思った。
 それでも一輪の花のように、凛としているアッシュを誇らしいと思った。
 うまくいけば体験しないでも良いような生き方を、半ば強制的にしてきたにも関わらず、それで嘆くこともない。そういうアッシュだからこそ。
 ・・・・・もう、アッシュはそういう生き方をしないで良いんだと思って、ほっとした・・・。

 

 ガタン!

 


 大きな音と共に、ルークの体は前に傾いだ。
「え?」
 びっくりして窓の外を見ると、ワゴンはブランコのように前後に揺れている。
 滑車は動いていないようだ。突然、ワイヤーの上で宙ぶらりんの状態で停まってしまっている。
「えっと・・・これって・・・。」
「・・・故障したようだな。」
 ルークの独り言に返答があった。もっとも、アッシュのそれも独り言なのかもしれなかったが、それでもふたりは、数日ぶりに短く、会話を交わした。
 それを合図にしたように、お互い顔を向け合って目があうと、その瞬間、喧嘩は中断になる。
 困ったなぁ、とルークは頭を掻いた。
「なんだろう?すぐに直るかなぁ。高いところは嫌いじゃないけど・・・。」
「煙となんとかは高いところが好きというからな。」
「うるせー。・・・高いところは嫌いじゃないけど、こういう密閉されたところは嫌いなんだよ!」
 幼い頃は幽閉されて育ったルークだが、なにしろ公爵家は馬鹿でかい。 
 ルーク個人の部屋も・・・本人は狭いと思っていたものの、こう言っては失礼だが、アニスの実家(という名の使用人部屋)の軽く3倍の広さはある。そういう訳でルークは、狭いところと無縁だったと言っても良い。
「落ちたりしてな。」
 そんなルークの心情を読んだかのようなタイミングで、アッシュがうっすらと笑いながら言った。
「お、落ちる?」
「ふたりして谷底にまっさかさまか。・・・俺はそれでも良いが。」
 アッシュは平然としている。まるで、本当にそうなっても別に良いというような、ある種の悟りきったようなそんな表情を浮かべていて、ルークの胸はいっきにザワついた。
「な・・なんだよ、それ!」
「は?」
 自分を睨みつけるルークの剣幕に驚いて、珍しくアッシュは目を丸くする。アッシュにしてみれば、軽口のつもりだったから、ルークが何に怒っているのか皆目理解できない。
「死んでも良いってのか?そんなに、死んだ方がマシってくらい、今の生活が嫌なのかよ!?」
「お・・・おい。」
 そういう意味で言ったんじゃない、と言おうと思ったアッシュだが、反論を察したルークに、うるせー!と先に怒鳴られる。
「なんだって、そうなんだよお前は!!そんなにファブレの家が嫌なのかよ?元はといえばてめぇの実家じゃねぇかよ!貴族として生まれたことに誇りはねぇのか?色々な場面で国政に関われることに、この国を豊かにする為に働けることに、喜びを感じないのか!?それがどうしてそんなに・・・!」
 嫌なんだよ・・・と最後の方は涙声になって訴えるルークに、アッシュは呆気にとられていた。
「・・・そんな事を考えていたのか・・・。」
 勉強は嫌だーと毎日のように泣き言を聞かされていた。遊びたいだの、さぼりたいだの、剣の稽古が好きだの、と。
 しかしその実、職務には誠実で、けっして妥協を許さない姿勢で望んでいたことも。
 ルークがこんなに成長していたとは。いつのまに貴族として王族としての自覚を持ったのだろう。いつから、民衆の為、という考えを持った?元来、優しい性格のルークだ。誰もの幸せを願ってやまないとは知ってはいたが・・・確実に、人の幸せの為に働こうとしている。
 やはりルークは。
『・・・父上の期待が大きい訳だ・・・。』
 究極の身内びいきだが、とてつもなくルークが誇らしい。
 だが同時に、やはり無理かもしれない、とアッシュは目の前が暗くなる。
 それが自嘲の笑みに現れて、それを見たルークは、バカにされた!と激昂した。
「いや、違う。・・・ちょっと落ち着け。」
 ただでさえ、不安定な場所にいるというのに、こんなところで掴みかかられてはたまらない。
 アッシュが言うと、ルークはぐるぐる言いながらも(お前は犬か)留まった。事実、ルークが立ち上がると止まったままのワゴンが揺れる。アッシュもルークと同じく高所恐怖症ではないが・・・足元に支えるものがない箱の中であることを思うとあまり気分は良くない。
 アッシュはため息をついて、そうじゃねぇよ、と続きを話だした。

「確かに俺には今の生活はあわない・・。だが、死ぬほど嫌って程ではない。いくらなんでも、な。」
 さっきのは言葉のアヤだ、とアッシュが笑う。
 まさかお前が本気にするとは思わなかった、と。
「だったら、なんで・・・!」
 それが本当なのは空気で感じられるものの、ルークは納得できない。
 それはきっと、本当に聞きたいことは違うことだからなのだ。
「だったら、なんで・・・・屋敷から出て行こうとするんだよ・・・。」
 するっと自分の喉の奥から出てきた言葉にルークは、あっと思ったがもう遅い。
 第一それは、今ここで吐露しておくべき本音だ。
 ルークは、アッシュに屋敷から出て行ってほしくないのだ。

 その時、強い風が吹いたのか、ワゴンが、今までよりも大きく揺れた。

 わ!と思わず手すりにしがみついてアッシュを伺えば、アッシュは眉を寄せて天井を見ていた。視線は天井を向いているが・・・アッシュの神経は耳にある。ワゴンの軋む音で、安全を確認しているのだ。
 そういうことが伝わる。言葉などなくても、アッシュが何を考えているのか、わかる時がある。
 それに気がついた時、ルークの胸には、安堵と誇りとなにか暖かいものに包まれたが、途端に、絶望にも包まれた。
 たった今、それに気がついたというのに、もうすぐそれは失われてしまう。

 これからは、ルークがどんなにがんばっても、一番褒めて欲しい相手はそこにはいない。
 嫌な事があった時、聞いて欲しくてもおらず、そしてだんだんと屋敷からアッシュの気配が消え、それが当たり前になる日がくる。
 それは、そんなに遠いことではないのだ。
 きっとルークだけは慣れない。
 アッシュがいない事に心は納得せず、いる筈のない部屋の中の音に耳を澄まし、ドアの隙間からこぼれる照明の灯りを求めて、毎日アッシュの部屋の前に立つだろう。
 そして、ぽっかりと胸に空いた喪失感と一生を共にしなければならない。


 そんなことなら、いっそこのまま、アッシュと一緒に天空から落下してしまったほうがマシだ。

 

「・・・ベルケンド行きは、俺から言い出したことではないが・・・父上から話を聞かされた時、屋敷から出られる良い機会だと思ったことは否定しない。」
「・・・・・父上が。」
「ああ。母上は・・・敏い方だからお気づきだったようだが、父上も俺が貴族の暮らしを苦手と思っていることに、気がついておいでのようだ。だからこその配慮だったのだろう。」
 アッシュは、自分の向き不向きをすでに承知している。
 たぶんアッシュは・・・ファブレの跡取りには、あまり向かないだろう。被験者とレプリカの違いはあれど、性格が素直で勤勉家なルークの方が、軍属上がりのアッシュよりも貴族の跡取りにはふさわしい。そう、アッシュが考えているという事を、恐らく父は察している。
 だから、将来どうするかを見定める為の試験の一環なのだろう。この、アッシュのベルケンド行きは。
 だが、それでも・・・いつ息がつまるかわからない屋敷暮らしから解放される。たったそれだけのことで、アッシュ自身の気が楽になった事も事実だ。
「でも、アッシュ。」
 不満そうに、ルークが問う。
 不満、というのはアッシュの感想であったが、よくみればその瞳の奥に潜んでいる正体は、不安だと気がついただろう。
「・・・前に・・・この屋敷には『出て行かない理由がある』って言ったよな?あれは、どうなったんだよ・・・。」
 内心ギクリとしたが、それを表には表さずに、アッシュはルークを見た。
 そんなことを覚えていたとは。
「・・・あれ、か。」
「達成されるようなもんでもない。そうも言ってたじゃん。なのに・・・もう、それは良いのか?」
 ルークが上目使いで見る。
 その視線が熱心に送ってきているものが、引き留めであることは、アッシュ自身も気がついている。
「そうだな・・・。」
 アッシュは溜息をつき、窓の外を見る。
 未だに、天空滑車は動く気配がない。もしも本当に、このままワゴンが動かなかったらどうなるだろうか。ルークとふたりで、ここに。もしも、ベルケンドへ行く来月まで、閉じ込められたりしたのなら、自分はどうするだろう。ルークは、どう思うだろう。
 そんな馬鹿らしいことを思いながら、アッシュは言った。

「ベルケンドへ行く話が決まった時・・・いつお前に話そうか、迷った。」
「・・・うん。」
「言えば・・・どんな場面で話そうと、お前は動揺するだろうとも思ったが・・・逆に案外、なにも危惧するようなことは起こらず、あっさりと俺を送り出すかもしれないとも思った。」
「俺が?そんな事思う訳ないじゃん!」
「ああ・・・。だが、所詮俺とお前は違う人間だ。その時、どう思うかなど・・・俺が確実な答えを知っている訳もない。」
 アッシュが窓の外から下を覗くと、自分たちの乗った滑車を指さす人々が見えた。
 そろそろ地上も天空滑車の異常事態に気がつきだしたようだ。
「・・・だが、もしも。もしもお前が本当に動揺を見せたなら、それが俺の期待している以上の反応だったのなら、」
 ルークの不満そうな顔を目の端に捕らえながら、アッシュは続ける。
「・・・俺はお前に、一緒にベルケンドへ行かないか、と言うつもりだった・・・。」
 だからこそ、あの時点ではルークには関係がない、と言ったのだ。
 ベルケンド行きは決定されたことで覆ることはない。後は、ルークに同行の意志があるか、ないか。その選択しかないのだ。
 そう言おうとしてアッシュが視線を戻すと、ルークが目を見開いて呆けている。
「・・・おい?」
「・・それじゃ、アッシュ・・・。」
 彷徨わせた視線をどこへ持っていくべきか迷うような仕草で、ルークが言った。
「・・・お前の『理由』って・・・・・。俺・・・?」
 ルークは確かに鈍い部分もあるが、それを補えるほど頭も良い。複雑だったかつての世界の仕組みを一度説明されただけで理解したように、この時もルークは、アッシュの言葉を注意深く聞いていた。だから小さな言の葉は、ルークの中から零れ落ちることはなかった。
「そ・・・。」
 そうだ、と返そうとしたアッシュよりも早く、その前でルークはわたわたと、そわそわと落ち着きをなくし、しかし確実に破顔している。
「おい、ルーク・・・。」
「どうしよう・・・。」
「なに?」
 ルークは立ち上がりかけたが、足元が覚束ないことを思い出し、また座る。
 そして、持っていき場をなくしたというように、眉を下げた困ったような笑みを浮かべて、両手をアッシュに広げて見せた。
「・・・俺、今おもいっきりお前に飛びつきたい・・・。」
「ワゴンが揺れるから今はやめろ!!」

 

 
 だが、我慢ができなくなったルークが結局、全力でアッシュに体当たりを食らわせた為、ワゴンはその後、約5分に渡り揺れ続けたのだった。

 

 

 

「やめろと言ったのに、この馬鹿!!」
「でも、このままアッシュと落ちるならそれでも良いや、俺。」
「ふざけんな!俺は嫌だぞ!!」
「えー・・・。」
「・・・せっかく、これから楽しいことが待ってるってのに、ここで死ぬなんぞごめんだ。」


 もちろん、彼らは無事に揺れるワゴンから解放され、一緒にベルケンドへ旅立つことになる。

 

 

 

 

 

 

 


 

 


久々の更新・・・。もうため息もでない・・・。

('12.11.03)