色の濃い、雨独特の匂いがする。
ふ、と浮上するように目を覚ましたルークが思ったのはそんなことだった。
まぶたが重い。
気も重い。
それは、昨夜の歓喜と打って変わって、浮かれていたルークを撃ち落とすように容赦のない仕打ちと思ったことが原因だった。
目を覚ましたら、隣にいない。
たったそれだけのことに、こんなにもショックを受けるなんて。
ローレライの計らいで、また世界に還ってこれた時、なによりも嬉しかったのは、アッシュも一緒だったことだった。
アッシュがルークを疎ましく思っていることは嫌というほどわかっている。
しかし、ルークは・・・旅を続けるうちに、決して深くはなかった筈のふれあいのなかで、アッシュの態度とは反比例するように、どんどんと彼に惹かれていった。
まるで直視すると目がくらむ太陽がそこにあるかのように、彼は圧倒的で、ルークにとっては揺るぎない存在。
一緒に還ってきたというのに、バチカルには戻らないと言われた時、だからルークの頭は真っ白になった。
自分が望むような関係にはきっとなれはしないが、しかし、バチカルの屋敷にいれば、ちらとでも彼の姿を目にする喜びだけは得られる。そう思っていたから。
なにがなんでも離れまいと、同行することを申し出れば、初めこそどやしつけられたが・・・アッシュは結局、ルークが一緒に行くことを承諾した。
その時の、胸に広がった安堵と喜びは、けっして誰にもわかりはしないだろう。
アッシュこそが、自分の世界の中心なのだ、とルークはそれで、改めて思い知ったほどだ。
あくびをひとつして、ルークは毛布のなかで身体を伸ばした。
状況がどうで、どんなに考えていても眠気はくる。
昨日のことを思えら、尚更だ。
アッシュが隣にいないということは・・・深く考えなくても胸を痛ませるが、言葉として言ってしまえば、ただそれだけのことだ。
昨日、貰い物のワインをふたりして煽り、少し酔って・・・事に及んだ。
なし崩し、というやつだと思う。もしくは、気の迷いか。
少し酔って、気分が良くなって、その気になった。
アッシュからしたら、その程度のことなのだろう。
ルーク自身は初めてだったが、それでも、アッシュが手馴れていることなど、分かる。
男相手は、どうかはわからないが、間違いなく経験はある違いない。
だから・・・深い意味を探ろうとするのは、危険な行為なのだ。
ルークの内は、嵐が吹き荒れていたとしても。
ルークは、そっと左側に寝がえりを打った。
触れると、アッシュがいた筈の箇所はまだほんのりと暖かく、アッシュが出て行ってから、さほどたっていないことが伺えた。
だからといって、なんだというのだろう?
ルークは、自分を守るように身体を丸めた。
落ち着くように深呼吸をすると、アッシュの匂いがして、それはますます切なく、ルークの胸を締め付けた。
きっと望んでいないと思うから、ルークは意識しないようにしようと、心に決める。
起き上がって居間への扉を開けると、小さな扉の向こうから水音がして、アッシュがシャワーを浴びているのがわかった。
昨日のなごりは、きっと綺麗さっぱりとそれですべて流されてしまうだろう。
ルークが卵やパンを用意していると、やがてドアが開き、湯気とともにアッシュがシャワー室から出てきた。
「おはよー。」
ルークは、びくりと縮みあがった心臓を気取られないよう、努めて普段通りの声を出して朝食の話を振ると、アッシュの対応はまるっきり普段通りだった。
そのことに安堵を覚えながらも・・・どこかで、がっかりしている自分。
ルークの中身は、もう自分自身でも手に負えなくなっている。
どこか不機嫌そうに、ルークの作ったフレンチトーストをかじるアッシュをチラ見する。
いつもよりも、ふんわりと焼けて美味しい筈なのに、アッシュは別段、そう感じてないようだった。
食事は別段、会話もなく続く。
食器のたてる、カチャカチャという音が、妙に耳につく。
いつも・・・なにかの話題を振っている訳ではない筈だから、普段通りの食事風景の筈だが・・・果たして、そうだったろうか。
意識しないうちに、ルークはいつもなんやかんやとアッシュに話しかけ、うるさがられていた気もする。
無言のこの状態は、アッシュにはどうみえているのだろう。
いつものことだと気にしてないか、ルークが意識しないように意識しないようにと思うたびに、意識してしまっていることに気がついているのか、いても無視しているのか・・・それとも、ルークの態度になど、端から気に留めていないのか。
フレンチトーストを口に入れる時、とろりとしたハチミツが唇を濡らし、アッシュがそれを反射的に舐めとるところをルークは見た。
アッシュの唇は、なにもなくてもほんのりと赤く、艶やかだ。
昨日、この唇が・・・ルークの至るところに触れた。
突然、今ここでキスしたら、アッシュはどうするだろう?
そんなことを考えて、ルークは、はっと我に返った。
「あ・・・あ、そうだ!」
ルークの心の声が聞こえた筈はないのに、疾しいのを誤魔化すかのようにルークが声をあげると、アッシュは、なんだ?という風に顔をあげた。
その視線に捕らわれたと認識した途端、またもや心臓が、ぎゅっと縮みあがる。
「さ、さっき確認したら、砂糖が切れそうなんだ。あと、果物も!買い物に出るけど・・・アッシュ、他にいるものって、ある?」
「・・・・・。」
アッシュは眉を顰めた。
なぜ、そんな顔で見られたのかはわからないが、アッシュはチラリとルークから視線を外すと、
「外・・・雨が降っているぞ。」
と言った。
雨、と言われて反射的に、ルークは窓の外を見た。
そうだ。
改めて言われなくても、朝目を覚ました時にもそう思った筈だ。
だが、今の今まで・・・そのことを忘れていた。
「大丈夫、さっと行ってくるよ。まぁ確かに少し面倒だけどさ。」
ルークは笑顔をつくった。
「なんか、夕食に食いたいもんとかない?ついでに買ってくるけど。」
「・・・・・。」
アッシュは一瞬、無言になった。それは、ルークには理解不能の無言の間だった。
あ、あれ?俺なにか変なことを言いました?とルークが不思議に思っていると。
「・・・魚。」
「え?」
「・・・晩飯は、魚が食いたい。」
ルークは、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、新鮮なのを見繕ってこい、と言われた。
「・・・・・。」
ルークは、表情を隠すために、自分の皿のフレンチトーストを見下ろす。
知らずにナイフを握っていた左手に力が入り、どん!とテーブルを叩きたい衝動に駆られた。
それを押し殺し、ルークは(それでも一言だけ嫌味は言った)食べかけの朝食を投げ出して、テーブルから立った。
寝室に入って外套を用意し、深呼吸するように溜息をついた。
実は、雨の中の外出は、ルークとて面倒だと思っていた。
アッシュにもう一言止められたら、やめようと思っていたのだが・・・今は、取り繕うために言い出した買い物の話が、ルークの救いになった。
少し頭を冷やしたい。
このままでは、衝動に駆られて、なにかを喚いてしまいそうだ。
アッシュのことも。
そして、ルーク自身の内面のことも。
家の扉を開け、湿った雨の香りを嗅ぐ。
ルークは雨が好きだった。
濡れるのは嫌いだが・・・すべてを浄化し、罪を問わず、平等に万物に降るのが雨だ。
そして、ルークの世界を壊し、再生したのも。
「アッシュ・・・。」
出ていく前に、ルークはアッシュを呼んだ。
ん、と反応をした気配を感じると、返事を聞くよりも前に、すばやく要件を口にする。
「昨日のこと・・・気の迷いだって、わかってるから。」
その時、アッシュがどんな顔をしたのかは、そのまま出て行ってしまって、わからなかった。
ケセドニアでは、空気中に交る砂埃を巻き込んで、他の町のどこよりも重く、黒い雨が降る。
その重い水音が、フードの布越しに耳元で音をたてたが、ルークにはそれを楽しむ余裕が、今はなかった。
胸中に渦巻く黒い炎には、やり場がない。
ルークは理不尽だ、と足元に転がる石を蹴った。
ころころと可愛らしく転がる姿に腹がたち、もう一度、今度は少し大きめのものを蹴る。
それは、ごろん、と転がったにすぎず、そして少しだけルークの足元にも痛みの衝撃があった。
アッシュ、と名前を口にする。
いつもは誇らしく愛しい名前が、腹立たしくて仕方がない。
はっきりと、ルークはなにもしていないという自信があった。
昨日のことの発端も、今日顔合わせてからも、ルークはなにもアッシュに対して、気分を害するなにかを仕掛けてはいない筈だ。
なのに、なぜ当たられるような目にあわされなければならない?
魚をルークが嫌いなのは、アッシュだって知っている。
あれは、絶対にわざとだ。
昨日のことだって・・・謝られるのは、むしろこちらの方の筈だ。
アッシュが謝るとは、毛頭思ってはいないけれど。
「おや?ルークの坊やじゃないか。」
「え。」
顔をあげると、ノワールが窓から顔を出し、ちょいちょいとルークを呼んでいる。
腹立たしさに捕らわれて気が付かなかったが、いつの間にかケセドニアで、漆黒の翼が根城にしている店の前まで来ていたらしい。
漆黒の翼には、恩がある。
ノワールのことも、少し苦手だが良い人だと思っている。
だが、今のルークには余裕がなく、おもいっきり不機嫌な顔を取り繕うことをせずに、なんか俺に用か?と聞いていた。
ノワールはそんなルークの態度を、気にした様子もなく、あははと笑った。
「そんな顔しなさんな。この間、あんたに頼まれてたモノ、手に入りそうだよ?」
ルークは、あ!という顔をした。
そうだ。
前回、店に顔を出した時、漆黒の翼に頼んでいたことがあったのだ。
ルークがいそいそと店の中に入ってくると、ノワールは、ほいよ、と言って、一枚の紙切れを、ぴらりとルークに投げて寄越した。
「・・・これは?」
床に落ちたそれを拾い、ルークが覗き込むとそこには、店からどこかへの道順が書いてある。
「・・・ダアトに行くことがあったら、買ってくるって約束だったけどねぇ。灯台下暗しってやつさ。ケセドニアで売ってたよ。そこの店の主人が昔ダアトに住んでいたんだと。」
「へえ!」
ルークは目を輝かせて、ノワールに礼を言う。
漆黒の翼が次にダアトに行くのはいつになるかわからなかったから、相当先の話だと思っていたのに、思わぬ朗報に、ルークの表情は自然に明るくなった。
それを目を細めて見ながら、ノワールが、ふふん、と笑う。
「しかし、あんたもけなげだねぇ。」
「え?」
「聞いたよ。あんたが所望のカヌレってお菓子は、あんたじゃなくって、アッシュの旦那の好物なんだろう?」
「・・・・・。」
アッシュの名前を出されて、ルークは不機嫌そうな顔に逆戻りになった。
大方、喧嘩中ってところかい、とその姿に笑いを噛み殺しながら、ノワールはさらに言う。
「甲斐甲斐しいっていうかさ。・・・まるで、新妻のようじゃないか。」
「え!」
ルークはぎょっとして、ノワールを、目が落ちんばかりに睨みつける。
「な・・なに言って!」
俺は男だぞ!と早口に言うと、そんな姿で言われてもねぇ、とノワールは、にやりと笑いながら、自分の首筋のあたりを指さした。
「ここ。痕、見えてるよ?」
「・・・・!!!」
反射的に、ルークは首筋を抑えた。
そして、みるみるうちにその顔は、まるで蒸気があがりそうなほどに真っ赤になった。
ノワールは、文字通りおなかを抱えて爆笑しながら、お幸せにね、などと言う。
だから、ルークは恥ずかしいやら、さらにアッシュに腹がたつやらで、貰った店へのメモを、ぐしゃりと握りつぶしたのだった。
・・・とはいえ。
それでも結局、カヌレを買いに行ってしまう己が切ない。
ルークが、買い物を終えた時には、雨があがっていた。
家への帰り道は、ぬかるんでいたが、木々のつけた葉の上で水玉が反射してきらきらと光り、行きに通った時よりも明るく、見慣れた景色を演出する。
まるで分け入るように木々の間を歩けば、たちこめる濃厚な緑の匂い。
美しいそれらに目を留めているうちに、ルークは、上機嫌になる自分を抑えられなくなった。
そうだ。
たしかにアッシュの態度は酷いし、文句もあるにはある。
だが、こうして彼の好物を手にして家路についていることは、人に幸福と呼ばれる行為に等しい。
昔・・・絶対に、こんなことを望める関係ではなかったことを思い出せば、なにを贅沢な、という思いが湧いて出て、ルークはアッシュに対する怒りを捨てた。
アッシュがどんなつもりで・・・ルークに対してどう思っていたにしろ、ルークがアッシュを好きなことだけは、揺るぎない。
なにか啓示のようなものが、ルークの心に降ってきて、ルークはそれをまぶしく受け止める。
気が付けば、見慣れた家が見えてきた。
少しだけ野菜を栽培している小さな花壇や、釣り道具などおさめた小さな物置、そして白い壁に緑の窓枠。
そのすべてが、ルークが手にした、小さくも大事な財産だ。
窓の中に、アッシュの赤い髪が覗いて見えた。
ふ、と顔をあげ、ルークの姿を確認したのがわかる。
ルークはそっと手をあげ、アッシュにそれを振ってみせた。
その後のことは、よくわからない。
また、よくわからないままに進んでしまったというのが正しい。
それから数日後は・・とても穏やかな日々を送った。
まるで蜜月のような。
部屋の窓からベッドの上に差し込む光の明るさが、この場にはふさわしくなくて、ルークは途中でアッシュにカーテンを閉めてくれるようにと頼んだ。
アッシュはそれに従ってくれたが・・・その一瞬離れる前に、数日前にノワールに指摘されたのと同じ箇所に、濃厚な痕をつけられた。アッシュのお気に入りの場所なのかもしれない。
シャッと音を立てて綿のカーテンが引かれると、室内の明るさがトーンダウンする。
ルークはそれに、ほぅ、と安堵の息をついた。
周囲は森に囲まれたようなもので、誰もいないとはいえ・・・やはり独特の背徳感を感じてしまう。
悪事は、暗い場所で行われるのが相応しい。
「なにが、悪事だ。」
悪いことなんてしてねぇよ、別に。と威張って言うアッシュがおかしくって、ルークは枕に頭を押し付けるようにして、体の位置を直しながらくすくすと笑った。
そこで、あれ、と違和感を覚える。
「・・・アッシュ?」
「なんだ?」
ベッドの端に腰かけたまま、アッシュは一向にルークの隣に戻ってこない。
不安を覚えて、アッシュを見たが・・・アッシュは意味ありげにルークを見下ろすばかりだ。
その静けさが、ルークの不安をさらに煽る。
「アッシュ。」
どうしたんだよ?と言いながら、誘うように両手を広げれば・・・。
アッシュは満足そうに笑って、あっさりとルークの腕の中に落ちてきた。
覆いかぶさってくる同じ体格、同じ体重を抱きとめると、アッシュの甘い香りとともに、さらりとした絹糸がルークの腕を覆う。
その心地よい感触に、思わず指をからませ、それでも何事が起きたのかを問いただそうとすると、
「・・・なんでもねぇよ。」
と、アッシュが笑い声を含んだ声で、答えた。
「ただ・・・。」
お前の腕で抱きしめられるのが好きなだけだ、と。
信じられないほど甘い言葉を、生まれて初めてできた捻くれた恋人から、生まれて初めて聞かされて、ルークはそれこそ、以前にノワールに新妻とからかわれた時のように、真っ赤になった。
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