誰に起こされる訳でもなく目を覚まし、ルークはそのまま重い左手を額の上に乗せる。
つう、と眦から涙がこぼれて、
耳へと流れていく感覚に目を閉じる。 最近のルークは、惰眠をむさぼることがなくなった。
それというのも、毎日、夢を見るからだ。
その夢の中では、ルークがルークであってルークでなく、今まで行ってきた場所も行ったこともない場所もでてきて、ルークの記憶にないことを見聞きしている。
体験したことのない筈のことが、少しずつ少しずつ蓄積されるように、ルークに新しい記憶が加わってきていた。
誰の記憶だかはわかっている。
これは、『月のルーク』のものだ。
「おう!おはよう、ルーク・・・ん?」
長い間、使用人として接してきた親友は、ルークの変化に敏い。
結局、あの後眠ることができず、ベッドの中で少し泣いてシャワーを浴びて起きてきたルークを見るなり、少し目が赤いが大丈夫か?と聞いてくる。
なんともねーよ?とにかっと笑って答えながら、ルークは自分の中のなにかが変わってきていることに気がつく。
以前も隠したいことをすぐに見破られることに、まいったな流石はガイ、などと思いつつも、それにどこか甘えたいという欲求も確かにあったのだが、今のルークは、その敏さに追い詰められているような気分になる。
昨日はなかった透明な壁が、ルークの周りにできあがっていて、それは必要以上に他人に甘えることを拒むのだ。
それは今までのルークの中にはなかった負の部分であり、直視しないように心掛けていた闇の部分でもあり、それと同時に・・・ルークという個をくっきりと浮かび上がらせるものでもある。
ルークは、よくも悪くも人に左右されやすい。
仲間が怪我をすれば必要以上に心配するし、落ち込んでいれば自分も気が塞いでしまう性質で、それを優しいと称してくれる人もいるが、それはそう言う仲間たちこそ優しいからだ、と思ってもいた。
人には二面性があって、それが良いとか悪いとかではなく、そのふたつは同時に存在しているからこそ均衡を保ちながら個を存在させていられる。
今までのルークは、贖罪に対する気持ちの強さ故に、かなりバランスを欠いた存在だった。
美しいものを美しいと思い、美味しいものに感動を覚える度に、罪悪感も感じていた。
幸せに繋がるものを連想する度、自分を叱りつけ目の前の小さな喜びにも目をつぶろうとしていた。たとえ、後ろにどんな理由があろうとも、自分の感情を押し殺すことは・・・自ら人形になることと同じだ。
それがアッシュからは、自分がないように見えていたのだということが、今ならわかる。
ルナを意識に取り込んだ途端、ルークには今までの、自分が見えていない自分、というのがはっきりとわかるようになった。
そして、アッシュに見えていた自分がどういう人間なのか、というのも。
アッシュは、ルークとルナは別の人間だという。
だから接しかたも真逆で、ルークに対しての拘りは、ルナに対してはない。
それは、驚くべきことのような気がした。
アッシュは己の『レプリカ』という存在を憎んでいて、ルークの爪の先から髪の毛一本に至るまで嫌っているのだと思っていたからだ。
しかし、ルークとルナが違うとアッシュが認識していたということは、アッシュはルークの人格が嫌いなのであって、かならずしも『レプリカ』が嫌いなのではないという訳で・・・。
「・・・あーあ。」
つきん、と胸のあたりが痛んで、ルークは溜息をついた。
元からアッシュに嫌われていることは・・・納得はしていないが、わかってはいた。
けれど、今のほうが切ない。
もしかしたら・・・ここまで嫌われない可能性があったかもしれない、とわかった今では。
もっとルークが愚かでなかったなら。
アッシュの期待に、少しでも応えられていたなら。
きっと、今とは違う道も、ふたりの被験者とレプリカの前にはあったのだ。
「ルーク、食事中に溜息をつかないで。」
作ってくれた人に失礼よ?とティアに咎められたが、さりげなくあまり食べてないじゃない、とルークの食事を指すことも忘れない。
叱られたように感じるルークだったが、不器用なティアの、ルークの体調を気にしての発言であることは、ルーク以外の誰もが察していたのだろう。
ルークは、良くも悪くも幼い。
不器用な相手からの気遣いに気がつかない。
ルナを取り込んだ今、ルークにもそれがなんとなくわかるようになってきた。
お互いの顔を見て話すことなどできはしないが、今の場面だったらきっと、ルナは鈍いルークに舌を出していることだろう。
うん、食べるよ、とティアに返事をして、ピラフをぱくん、と口に入れる。
バターの香りが濃厚で美味い。ニンジンも入っていたのはいただけないが、細かく切ってある為か味を感じなかったのも良い感じだ。
いきなりぱくぱくと食事をし出したルークに、ティアは安心したようだった。
ほっと息をつくと、それでその話の続きはどうなったの?とナタリアの方を向く。
それを見たルークは、やっぱ気にしてくれてたのか・・と思い、やはり嬉しく思う気持ちも抑えきれない。
結局、自分はどうしたいのだろう?
人に甘えたいのか。
甘えずにきちんと自分という"個"を確立するには、他人の影響を受けないようにしなければならないのに。
なんという矛盾だろう、と少しばかり嘆きそうになって、ルークはスプーンを咥えたまま、窓の外へと目を向けた。
そこには、大きな月が映っている。
はちみつを上からかけたような今日の色を見ながら、ルークは、そういえば満月が近いことを思い出した。
月が満ちれば・・・またルナは現れるだろうか。
そして、アッシュも。
ルークの知らないところで、逢瀬を重ねてきたふたりの秘め事は、まだ生きているのだろうか。
胸を押すような息苦しさに支配されながら、ルークはベッドの上で体を丸めていた。
ふて寝といった体の彼に、初めは気にしていたガイも、理由がわからない為かとうとう諦めて、今はルークを残してさっさとシャワーを浴びに行っている。
だが、ルークはガイたちが誤解しているように拗ねていた訳ではなかった。悩んでいたのである。
ひと月ぶりにケセドニアに戻ってきた。
前回の満月にはここにいたと思うと、少しの皮肉を感じないでもないが、今回はアスターへの訪問が目的だ。
たったひとりの人物を世界の中から探し当てるには、相当の労力が必要となる。今やキムラスカもマルクトも一丸となってヴァン・グランツの行方を追ってはいるが、軍が得られる情報は市場のものとは種が違う。そこで、多民族地ともいえるケセドニアにも網を張り、アスターにも協力を仰いでいるという訳だった。
結果は芳しくなかったが、ルークと同じく、皆この街が好きだった。
だから、ケセドニアの滞在ともなると、あきらかにナタリアなどははしゃいでいたし、ティアもまんざらではなさそうで、女3人は羽を伸ばしてきますと断言して、夜市に出かけて行った。
ジェイドはマルクトの領事館へ報告書を出しに行っているし、そういう訳で、部屋には今、ルークひとりだ。
それも、彼の上に重い空気が押し寄せている原因のひとつでもあった。いつもみたいに誰かと話して紛らわせることもできない。
ルークは、寝返りを打って天窓から覗く月を眺めた。
月は欠けている。
満月は、とっくに過ぎていた。
数日前、満月を迎えたその日、結局アッシュからは連絡はなかった。
そしてルナも。
ルークに記憶を明け渡し、どうやらルナは消えてしまったらしい。
満月を何事もなくやり過ごした後、そのことにルークは気がついた。
そして、それに気がつくと、妙な罪悪感と同時に大きな安堵が生まれた。
ルークの知らないところで、ルナが行動をしているという不安感から解放されたからではない。それはもっと、違う感情に根を張っている部分で数日間その正体は不明だった。
そして、今は自覚している。
ルークは、アッシュが二度とルナに会うことがないという事実に、安堵を覚えているのだ。
ひとりになりたい時の手段は、なにも誰もいない部屋に閉じこもるばかりではない。誰も自分を知らない場所に身をおくことでも、その役割を果たしてくれる。
アッシュは基本的に、自分を知っている人間とは食事をしない。
神託の盾の兵士とは任務と共に食事をすることはあるが、人と連れ立って動かないのが常だった為、どこへでもひとりで行くことに慣れている。
アルビオールを借り受けてからは、操縦士であるギンジが付き添う時もあるが、ギンジは、ひとりになりたい時にそれを邪魔するような人間ではなかったし、常に孤独と共にいたアッシュのそんな性格を理解していて、彼がひとりになりたいそぶりの時には、そっと自ら離れるような気遣いを見せてくれていた。
人の話し声が、がやがやどころかもはや喚き散らしているに近い酒場の片隅で、アッシュはひとり、欠けた月を肴に杯を傾けていた。
いつもは気にもならず、時にはうるさいと感じるその喧騒が、今のアッシュには心地良い。
アッシュは、何杯目かの強い酒を煽り、頬杖をついて窓の外を見やる。
道の彩る夜市の店先に吊るされた薄汚れたランプの光を長い間じっと見つめ、時折我にかえっては、またグラスを傾ける。そんなことを繰り返していると、安物の香水の匂いをさせた女が近づいてきた。
「好い男は、頬杖ついた姿もサマになるねぇ。なんだい、兄さん。ひとりなのかい?」
ずいぶん辛気臭いじゃないか、と言いながら、アッシュに凭れかかってくる仕草はあからさまにある目的を持ったもので、頬にかかる女の呼気には酒の匂いが交り、間違いなく夜の女と知れる裏声がアッシュの神経を逆撫でしたが、わざわざ騒ぎを起こすのも面倒で、アッシュは女を黙殺した。
女はしばらくアッシュに絡んでいたが、完全にその気がないと知ると、ちぇ、と軽く舌打ちし、おぼつかない足取りで、店の奥へと消えて行った。
女がいなくなると、またひとりになり、アッシュはため息をついて、月を仰ぎ見た。
今日の月は遠く、余所余所しい。
視線を外さないままで、ごくりと酒を飲み込み、アッシュが窓枠に肘をひっかけた時、ごとん!と大きな音を鳴らし、なにかがテーブルの上に乗せられた。
「・・・お前・・・。」
「ずいぶんとシケた面だな、アッシュ。」
ルークは、ケセドニアの酒屋を3軒回って見つけたラクリマ・クリスティの瓶を、テーブルの上で杖にするようにして立っていて、冷たくアッシュを見下ろしていた。
そして、睨んでいる、といっても間違いではないその視線を外さないまま、承諾を得ずにアッシュの正面に座る。
ドカッと大きな音を立てて椅子が鳴り、その音をどこで聞いていたのか店員がやってきて、ルークに注文を聞いた。
「チキンのグリルと、ビール。」
「・・・やめておけ。」
店員は、折角の注文に水がさされる前にとさっさと立ち去り、その場に残されるルークが、背もたれを片腕で抱え込んだ行儀の悪い座り方のまま、アッシュを睨む。
「なんか言った?」
「・・・酒はやめておけ、と言ったんだ。」
「お前は飲んでるじゃん?」
「・・・お前はまだ子供だろう?」
途端、ルークの瞳に剣呑な色が滲み、多くの男の子がそうするように、子ども扱いされたことに腹を立てて食いついてきた。
「お前にそれ言われると、ムカつくんだっつーの!自分だけ大人みたいな顔しやがって!」
「事実だろうが、七歳児。」
「だから、その七歳児に手を出すようなロリコン野郎はどこのどいつだっての!」
「それと酒を飲む飲まないの話は、まるで関係ないだろうが!」
話にならん、というようにアッシュは吐き捨て、そのままルークから顔を背ける。
まるで自分がいることが面倒くさいと言わんばかりの態度に、ルークは唇を噛み、アッシュからは見えないように下を向く、もとより自分に興味のないアッシュが、こちらを見ているかどうかはわからないが、そうしないではおられなかった。
「ルナ、は・・・。」
その名前を出した瞬間、空気が弾けるように変わったのを、ルークは感じた。
アッシュは、興味もなさそうなフリをしながら、確実にルークの方を向いた。
なにかを探るようにルークのつむじあたりを見つめ、ルークが次になにを言い出すのかを確信しながらも、言葉を待っている。
「・・・消えた、ぜ?」
「知ってる。」
アッシュは即答した。
それを告げた時、なにかの動揺を示すだろうと思っていた予想が大きく外れ、ルークは反射的に顔をあげる。
ばちり、とアッシュと目があって、その中には、凪いだ湖のような静かさが見て取れて、動揺したのはルークの方だった。
「・・・知ってる、って・・・。」
「・・知らせがあったからな。」
アッシュは、ふい、とルークから視線を外すと言った。
それ以上は入ってくるな、と線引きしているかのようなアッシュの態度に、ルークは目を吊り上げ、文句を言おうと口を開きかけると、まるでそれを止めるかのようなタイミングで、おまたせしました、と店員の声がかかった。
ルークの注文したチキンのグリルと、ビールのジョッキをテーブルに置くと、店員は、それ、というようにワインのボトルを指さした。
「お客さん、うちは持ち込み困るんですけど。」
「あ、ごめんなさい!」
飲むつもりじゃないんです、と素直に謝りながらルークはそれをテーブルの下へと隠そうとして、思いついたように、これと同じものあったら貰えますか?とワインを示す。途端に店員は、ありますよー、と上機嫌で答えて、奥へと消える。
「・・・酒はやめろ、と言ってるだろうが。」
ちらり、と睨むとアッシュは吐き捨てるように言った。
忠告を聞かないルークに軽く舌打ちすらする。
ルナとは飲んでたくせに、と心の中で思いながらも口にせず、アッシュの忠告を無視すると、ルークは目の前に置かれたチキンのグリルにナイフを突き刺した。
「うわっ、うまそー!」
途端に流れ出る透明な肉汁と、鼻をくすぐるハーブの香り。肉は弾力があって、鉄板に面していた部分の固いこげめがまた食欲をそそる。
ぷりぷりの身を口に入れて何度か咀嚼した後、ルークがちらり、と上目使いにアッシュを伺うと、アッシュは頬杖をついて窓の外の月を眺めていた。
その姿に、ルークは次に言うべき言葉を見失う。
美味しいチキンの味からも遠ざかり、ルークはただ胸のつかえを飲み込んでしまおうと、ビールのジョッキを手に取って、厚みのある冷たいガラスに口をつけた。
初めて飲むものではなかったが、やはり苦い。
これのどこが美味しいんだろう、とジェイドやガイのことを思い浮かべていると、
「不味いと思うんなら、なぜ飲む。」
伝わってしまったらしいアッシュが、唸るように言った。
アッシュへの当てつけだなどと言おうものなら、斬り殺されかねないようないつもよりも何倍増しの不機嫌な声だった。
「お前は、」
ごくごくと一気に飲み干し、だん!とグラスを固いテーブルの上に叩きつけるように置いた後、勢いにのせて質問を口にする。
「ルナがいなくなって、悲しいか?」
アッシュは・・・左目を一瞬眇めただけで、ルークの質問を黙殺した。
「なぁ、どうなんだ?答えろよ。」
白々しいほどの無表情に尚も食い下がれば、アッシュは迷惑そうな顔に変わり、
「それを聞いてどうなる。」
とそっけなく言った。
「俺が悲しいと言ったら、どうするつもりだ?」
「俺は・・・。」
「消えたルナを戻してくださるとでも?それとも、俺が悲しめばいつもの俺のお前の態度に対する意趣返しになるか?溜飲がさがるか?」
くだらねぇな、と吐き捨てて、アッシュは再び窓の外を見た。
そこになにか面白いものがある訳ではないのは、百も承知だから、単にルークの顔を見ていたくないだけなのだ。
そこまでの仕打ちをされて、ルークは唇を噛みしめる。
「・・・俺、は・・・。」
無言のアッシュを見る。けっして目を合わせないというアッシュの態度は、ルークに苛立ちと絶望と悔しさと悲しみと、その全てを引き出させるに十分だった。
「・・・こっち、見ろよ。」
アッシュは動かない。
まるでルークが目の前にいないかのようだ。
「こっち見ろって、言ってんだろ!」
決して喚いているような大声ではないが、声に怒気を含ませると、アッシュは急に変わったルークの口調に驚いたように、窓の外から視線をこちらに向けた。
やった、と思った。
やっとアッシュを振り向かせてやった。
「俺の話をしてるんだろうが。なに逃げてんだよ。」
「逃げてなどいない。」
名誉を傷つけられたというように、アッシュは眉を吊り上げてルークを見る。
「逃げてるだろ!ルナが消えたってことを、俺と話してあいつが消えたことを確認するのが怖いんだろ!お前にとって、ルナは・・・!」
どういう存在なんだ、と続く筈の言葉は、ルークの喉からでてこなかった。
言おうとした瞬間、まるで、外に飛び出すことを拒否しているかのようにそこに留まり、ルークの胸を焼いていく。
痛い。
そして、熱い・・・!
「お前と話して、どうなる。」
反対に、アッシュは冷静に言った。
なにかを押し殺しているような、冷静で冷たい声だ。
「お前に、なにがわかる。」
なにがわかる。
所詮、お前にはわからない。
ならば。
ルナになら、理解できるっていうのか。
「なんで、俺がこんな思いしてるんだよ、ちくしょう・・!」
なぜ、俺だけが。
だって、そうだろう?
ルークとルナは、同じじゃないか!
「ああ、わからねぇよ!元からお前は俺を俺として見てないじゃんか!お前は俺を否定しておいて、他の俺の人格は認めんのか?ふざけんな!俺は俺で、ひとりで元から一緒だろ!」
捲し立てられて、アッシュが目を見開いて、ルークのことを見た。
ごん、と音を立て、ルークの頭がテーブルの上に乗る。
「お前・・・。」
アッシュは驚いた表情のまま、ルークの跳ねている襟足部分に手を乗せた。
「・・・酔ってたのか・・・。」
酒に免疫のない子供が、ビールの一気飲みなどするからだ、と呆れると、その言葉に不満があるのか、うー、とルークは唸った。
「酔ってなんかねぇ・・よ。」
誤魔化すんじゃねぇ、という呟きほどのルークの声は、テーブルにしか聞こえなかった。
アッシュはやれやれ、というようにルークのつむじを見て、自分のグラスを手に取る。
これを空けたら、この馬鹿を送っていかなければならない。
こいつの仲間に見つかって、嫌味でも言われたら面倒だな、と思っていると、
「なぁ!」
と、いきなりルークが、がばっと顔をあげた。
「お前は、ルナが好きなのか?」
「・・・・・。」
酔っぱらいのたわごとだ、と黙殺できるような幼稚な質問だった。
好きと嫌い以外でも、人間の関係が成立するということを、この七歳児が理解しているかが、そもそもわからない。
だから、アッシュは黙っていた。
それが、ルークの感情に火を注ぐ。
ふざけんなよ!とルークが叫ぶ。
前よりも大きな声で響き、少しだけ酒場の客が振り向いてみたが、なんだ酔っぱらいかというように、それぞれが自分たちの騒ぎに戻っていく程度のことだった。
「俺だって、あいつだろう?」
胸のあたりを掻きむしるようにして、ルークが痛々しく声をあげた。
「なのに、なんで・・・俺は、ダメ・・・で。」
苦しい。
ルークは初めから、絶望的に負けている。
何故ならば、ルークがルークである以上、決して、いなくなってしまった自分自身には勝つことはできないからだ。
どうあがいても、ルークはルナには・・・なれない。
「ちくしょう!」
ルークが叫ぶのと同時に、目の前のアッシュが目を見開いた。
ルークの瞳からは、はらはらと大粒の涙がこぼれ、それがルークの白い上着の襟へと落ちていく。
「俺じゃ、駄目かよ?」
まるで絞り出すような、初めから負けを認めているみじめなルークの告白を、アッシュは無言のままだったが、目を逸らさずに聞いていた。
「なんで、俺じゃ駄目なんだよ!?」
どうして俺がルナじゃないんだ、と怒鳴った後、ルークはぱたり、とテーブルの上に伏せた。
さきほど、襟足を撫でられた時のアッシュの指は心地良く、それが酔っ払いに対してなのかルナに対するものなのかは分からなかったが、アッシュは本当はこういう人なのだと知れる優しい仕草だった。
うっとりと目を閉じて受け入れていたルークは、勘違いしそうになった。
だけど、それはルナのものだった。
ルークがどんな渇望し、手をいっぱいに伸ばしても届かなかったものは、違う者が独占していて、ルークの手を払いのけている。
ちくしょう、ともう一度小さくつぶやいて・・・ルークは目を閉じた。
ほどなくして、すーすーと小さな規則正しい呼吸音が聞こえてきて、アッシュは持ち上げていたグラスをテーブルに置いた。
「お前は、泣き上戸だったのか・・・。」
そして、自分とは違うふわりとした朱赤の髪の上に、そっと手を置く。
その感触にも微動だにしないところを見ると、どうやらルークは、酒に免疫のないお子様らしく本格的に寝入ってしまったらしい。
アッシュは軽く視線をさげ、静かにルークの寝顔を見いる。
白い頬は健康的で、健全な青年のものだが、どこかあどけない。
なによりも、こんなどんな輩がいるかもわからない場所で寝れる無防備さは、世間知らずのそれだった。
それに惹かれないでいられる者は、たぶん少ない。
ルークの涙で濡れた赤い睫をみながら、アッシュはそんなことを思った。
「・・・駄目じゃねぇよ・・・。」
ルークが宙を舞ったまさに同じ時間にルナの悲鳴を聞いたような気がしたアッシュもその夜、シャドウの訪問を受け、そしてアッシュは、ルナが生まれたきっかけは、自分にあると知った。
何故なら、シャドウの傷の手当をしたのは、アッシュだったからだ。
普段はけっして人に交わらない音素の意識集合体であるシャドウが、ルークたちにちょっかいを出してきたのは礼であると、あの時はっきりと告げられている。
現に今も、心が動かなかったといえば、嘘になる。
それくらい、駆け引きのないルークの涙は純粋で、掛け値なしに美しいものに分類されるそれは、絶大なものだ。
なにを犠牲にしても欲しいと願う者もいるだろう。
だが。
「もう・・・お前では、俺を理解できない。」
月からもルークからも遠い存在であったルナの慟哭にすら似た孤独が、どれだけアッシュの心を慰めたかなど、無垢で健全なルークにはわかるまい。
ルナという存在を知って、かつてはどこか懐かしさを持ってルークを眺めていた頃のアッシュは、変わってしまった。
変わってしまったら、人は元に戻ることはできないのだ。
思いがけず、アッシュは自分の口元を右手で覆った。
そのまま、人目を避けるように窓の方に顔を背ける。
「お前じゃ・・・俺の中にある穴を埋めることはできねぇんだ・・・!」
それは昏く深く、殺伐とした長い生活の中で生まれた、孤独という名の穴だ。
そこを埋めようにも、ルークの持つ光は眩しすぎる。
アッシュは嗚咽が漏れないように唇を噛みしめて、肺が落ち着くのを待ってから、右手のひらで目元を覆った。
流れるものを懸命に抑えてから、大きく息を吐く。
なくなると決まっていたものを一時与えられるのは、初めからなにもないよりも残酷だ。
知ってしまえば、知らなかった前には戻れない。
なにも知らないままだったなら、アッシュはルナどころかルークまで、失わずに済んだかもしれない。
しばらくして店員が置いて行ったワインのラベルに気がつくこともなく、アッシュは静かに銀色の月を睨み、口をついて出そうな恨み言を飲み込んで。
瞬きをした拍子にその頬を、なにかがはらりと滑り落ちていった。
fin
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