最近、アッシュは自分で起きた、という記憶がない。
その理由は、実は毎日、髪を結わきにくるルークに起こされるからなのだが・・・その時点ではアッシュは気がついてなかった。
むしろ、いつもよりも早く仕事が終わることにご満悦で(ルークの仕事が早くなるだろうというアッシュの目論みは当たったのである)、そんなことはどうでも良かったからというのもある。
アッシュは案外、仕事以外のことは、無頓着な性格もしていた。
その日。
アッシュはひさしぶりに、自分以外誰もいない部屋で、ぱっちりと目を覚ました。
白い天井を見上げ、なんだか不思議な気分に陥る。
目覚めは悪くなかった。しかし、なにかが欠けているような、なにか重要なことを忘れているような気がした。
とその時、軽いノックの音がして、ルークが来たのだと思ったアッシュは、勝手に入って来い、とぞんざいな返事をした。しかし、扉が開き、入室してきたのは、自分の担当ではないメイドだった。
「失礼いたします。おはようございます、アッシュ様。」
アッシュが面食らっているのを余所に、メイドは礼儀正しくお辞儀をし、朝早くからの来訪を詫びた。
それで思い出したのだが、彼女はルーク付きのメイドだ。
年は若いが、まだルークが不遜で無知な時代から屋敷にいて、その頃からガイと一緒にルークに付いていた。
ルークが帰還した時も、ひっそりと涙を拭っていた姿を目撃している。
わがまま放題だった後も、改心して無垢なこどもみたいになった後も、どちらのルークも決して見放さず、面倒を見ていたひとりだ。
「・・・どうした?」
彼女が来たということは、ルークからの伝言なのだろうというアッシュの予想は当たった。
メイドは、それが・・・と顔をあげ、ルークの様子を話しだした。
「ルーク様は、体調を崩しておられまして。本日は、朝、こちらに伺えないとのことです。」
「体調を崩した?風邪か?」
「まだ、お医者様が到着されていないので、はっきりとは申し上げられませんが、体温をお計りしたところ、お熱が・・・。」
「熱、か。高いのか?」
「ルーク様は、たいしたことはないと仰せられておられますが。38℃近くのお熱です・・・。」
「高いな。」
ルークは子供体質なのか、体温が高い。
不思議なことに、被験者とレプリカであるにも関わらず、低血圧のアッシュとは常に0.5度以上の差がある。
そんなこともあり、37℃程度ではあまり発熱しているという症状が診られないルークなのだが、38℃を越えればさすがにバテるだろう。
メイドは、呼吸もお苦しそうです・・・と落ち着かない様子で、一言添えた。長くルークに仕えているだけあって、親身にならざるおえないのだろう。
そうか、と言いながらアッシュは少しだけ、複雑な気分になった。
だが、その原因に思い当たらなかった為、追究することはせず、調子が狂うなと頭をがしがしと掻いた。
そして、指に纏わりつく、自分の髪の毛をひっぱってみる。
今日は、結わきに来るヤツがいない、ということなのか・・・。
昼を過ぎる頃、ルークの熱は本格的にあがってきていた。
主治医の診断だとやはり風邪とのことで、苦い薬とともに安静にしているようにという支持を残していった。
最近は忙しくなさっておいででしたからな、と眉を顰め、これを機に少しお体をご自愛ください、と言った。忙しさ故に、体力もなくなっておりますよ、と。
そんなことは無自覚だったルークは、目を丸くして、しかし反論よりも先に、アッシュのことが気になった。
ルークとアッシュは同じ領土を預かっているが、知識に長けている分、アッシュのほうが仕事の量は多いと思う。許可を求める書類などが回ってきた時は、アッシュが先に書類に目を通し、ルークによく噛む様に詳細を説明して、納得をしたうえでサインをさせる。
その役目がある分、アッシュの仕事はルークよりも、必然的に多くなる。
だから、ルークが忙しいというのなら、アッシュなどは激務だ。
先に体調を崩してしまったことは情けなく、そして同時に、アッシュの体調も気にかかってきた。
『あいつ、無理しなきゃ良いけど・・・。』
幸いなことに、本日は登城の予定はない。
仕事も、屋敷のなかで済ませる予定だったが、それでも根を詰めるタイプのアッシュだ。
むしろ、ルークが倒れた分を自分で片付けてしまおうとするかもしれない。
そんなことを、つらつらと考えているうちに、ルークの体を睡魔が襲ってきた。
目の奥が重く、自分の熱であったまった枕と、額に滲む汗の感触が気持ち悪い。
しかし、ほとんど抵抗もできず、ルークは、具合の悪い者がそうなるように、纏わりつくような重い眠りへと落ちていった。
なんだか、心地よい感じがする。
ふっと、意識が浮上して、ルークは思った。
冷たい指の感触が、額の辺りをぽんと撫でた。
昔も、熱を出すとこうしてガイが様子をみてくれたっけ・・・とうつらうつらと思い出す。
ガイとも、母とも違う指。
覚えのないくせにどこか懐かしい。安心する・・・。
「あ?」
「・・・起こしたか。」
ルークは驚いて、熱で浮かされてとろんとした目を見開いた。
まだ夢を見ているのかな?と思う。
「・・・アッシュ?」
「具合はどうだ?」
「ん・・・平気・・・。」
ルークはまだ、意識がはっきりとしていないようで、どこか舌足らずな話し方で、返事をする。
まるで子供のようだとアッシュは笑い、そうは見えねぇな、と病人相手に悪態をついた。
事実、ルークの頬はりんごのように赤く、目は潤んでいて、息は苦しそうだ。
どうがんばっても、具合が良さそうには見えない。
なにか欲しいものはあるか?とアッシュが聞くと、ルークは、んー氷・・・とつぶやいた。
喉が渇いているのだな、とアッシュは察し、待っていろと告げると、ルーク付きのメイドに(彼女はずっと看病している)氷を持ってくるように指示をした。
ついでに、すりおろしたりんごも言いつけていると、あ、とルークの声がする。
「どうした?」
振り向くと、ルークがアッシュを指差していた。
その真っ白な腕は血色をなくし、ただでさえ白いというのに、まるで紙のようだ。
「髪・・・。」
「あ?」
「髪、むすんで・・・る・・・。」
アッシュは自分のひとつ結びにしている髪を触った。
これがなんだというのだ。
ルークはふとんに入ったままの頬を恨みがましく膨らませた。
「せっかく良い夢だと思ったのに・・・。」
「夢?」
なにを言ってるんだこいつは、とアッシュが首を傾げると(病人のうわ言だと半分は思っていた)、ルークは、こんなオチねぇよ、と続けた。
さっぱり分からない。
「アッシュが、見舞いにきてくれるなんて・・・良い夢だと思ったのに、さ。」
「・・・・・。」
「髪を結んで現れるなんて、反則だ・・・。」
アッシュはもう一度、自分の髪を触る。
「俺が、髪をひとつにまとめたら、悪いのか?」
だったら、今までのはなんだったんだ、とアッシュが病人相手に凄むと、ちがうーとルークは嘆いた。
「アッシュの髪を、まとめるのは、俺じゃなきゃダメなんだぜ?」
「・・・・・。」
「なんだよーその髪・・・。誰にやってもらったんだよ。メイドか?」
どのメイドだよ、お前付きの?とルークの恨み節は続く。
「・・・いや?」
アッシュは言った。
「・・・これは、俺が自分でやったんだ。」
事実、それは朝、ルークが来れないと聞かされてから、アッシュが自分でひとつにまとめたものだ。
ルークに負けず、アッシュも手先が器用なので、わざわざ人にやってもらうことほどのこともなかったのだが、それを聞いた途端、ルークは、ほにゃん、と笑った。
「なんだー。」
えへへ、と顔をほころばせる。
「なら良いけどさ。お前・・・俺以外に、髪触らせるなよな・・・。」
「・・・どうしてだ?」
「どうしてって・・・それは・・・。」
話の途中で、ルークの言葉は途切れた。
寝たのか?と思ってアッシュが顔を覗きこむと、きょとん、とした表情でこちらを見上げている。
「・・・正装・・・。」
ルークが言ったことで、アッシュは自分の格好を見下ろす。
アッシュは、正式な場で着る服に着替えている。今日は登城の予定はなかったから、ルークは不思議に思ったらしい。
これは、とアッシュは言った。
「さっき、使いの者がきて、ナタリアから直々のお呼び出しだ。」
「・・・ナタリア、から?」
ぴくん、とルークの肩が揺れた。
そのことを、自分も行かなければならないと焦ったのだと勘違いしたアッシュは、お前は行けないと伝えてあるから安心しろ、と言った。
「情けないと思うのなら、さっさと風邪を治すことだな。」
アッシュはふとんに半分顔を埋めてしまったルークに言い、じゃあいってくる、と背を向けようとした。
「・・・おい!?」
がくん、と服のひっぱられる感覚に、アッシュが振り向く。
「大人しくしていろ!ナタリアに風邪でもうつしたら・・・。」
「行っちゃ、やだ。」
言いかけた言葉をアッシュは飲み込む。
ルークはふとんのなかから、精一杯の力でアッシュの服の端を掴んでいたが、唇は拗ねたように尖らせ、瞳は発熱のためにキラキラと潤んでいた。
幼い子供の懇願のような口調に、アッシュは内心ほだされそうになる気持ちをぐっと押さえ、心とは反対にルークを睨みつけた。
「放せ。」
「いやだ。」
「仕事に行けないだろうがっ!」
「いーやーだー。」
「お前なぁ・・・。」
頑固なルークにアッシュは呆れる。
「なにか、土産でも買ってきてやるから・・・。」
ルークは登城したり、街に視察にでかけるときまって理由をつけては、買い物を楽しんでいる。
だから、それができなから拗ねているのだと思った。
しかし。
「行っちゃやだ。ナタリアのとこになんか・・・行っちゃ駄目・・・。」
「・・・は?」
なにを言っているんだこいつは、とアッシュは眉を顰める。
その視線を嫌がるようにルークはふとんに顔を埋める。
「俺が、ナタリアに会ったら駄目なのか?」
「・・・うん。」
「どうしてだ?お前の婚約者だからか?」
「・・・・・。」
ルーク・フォン・ファブレとナタリア・ルツ・ランバルディアは、お互いにレプリカと王の養女という立場でも、未だ婚約を解消していない。いずれはどのようにか決着がつくだろうが、その問題は現在も据え置きになっている。
「それとも・・・。」
見ると、眠くなってきたのか、ルークはとろんとしてきているようだ。
眠らせてやりたいのは山々だったが、聞き捨てならないことを聞いたのだから、問いたださないとならない。
「お前は俺のこと・・・。」
「・・・・・。」
どう思ってるんだ、と尋ねても、ルークからの返事はなかった。
もう一度問いただそうと、アッシュがベッドの中を覗きこむと・・・。
「おい!?」
くすーという能天気な寝息が聞こえ、アッシュはがっくりと肩を落とした。
なんだ。なんなんだ、こいつは!
アッシュのレプリカらしく、ルークもやはり天然さんなのだった。
「それで、ルークの具合はどうですの?」
自分の顔を見るなりナタリアがそんなことを言うものだから、アッシュは苦笑した。
公務のことで、直々にこの姫殿下に呼び出されたというのに、当の本人はその用件よりも、病に伏したルークの方が大事と見える。
誰にも言ったことはないが、アッシュはルークとナタリアの婚約が破棄されない理由のひとつは、ナタリア自身にあるのだろうと考えている。
本人はどういうつもりであれ(たとえば姉のような気持ちだったとしても)ナタリアのルーク贔屓は誰が見ても両全で、それが周囲に影響を及ぼしているのだろう。
本来の婚約者である筈のアッシュは、まあ、複雑な気持ちがないでもない。
しかし、現状としてナタリアと結婚する意志がなくなった今となっては、自分に火の粉が降りかからないのは歓迎すべき点だ。
もっとも・・・。
その火の粉がルークにかかってしまうのは、面白くないのだが。
「安静に寝てろ、と言ってある。」
アッシュが言うと、まあ、あのルークに安静にと言っても大人しく言うことをきくものではありませんわ!とやけに確信的に言い放った。
そのうえ、わたくしがこれからお見舞いに、などと言うものだから、アッシュに止められる。
「お前まで風邪引いたら、大変だろうが!」
「わたくし、そんなに柔では!」
「そういう問題じゃねぇ!」
ナタリアの側近とか、アッシュの護衛とかそういう比較的身近な人間しかいなくて良かった。
王女との口喧嘩など、公の場ではありえない。
兎角、ルークのことになるとムキになるのは、アッシュも同じだった。
もっとも、アッシュがルークを意識し出したのは、つい最近・・・髪を結ぶのを任せるようになってからだ。
初めこそは、髪をひっぱられて痛い思いをしたものの、ルークの指は心地よかった。
うなじから、時々頬を、柔らかくなぞる指先は繊細で、とても剣を握る男のものとは思えなかった。
するりするりと自分の髪の中を、ルークの指が泳ぐ。
その心地よさに、時折、そのまま眠ってしまうことすらある。
優しい指先は、ルークの性格そのものを現わしているようで。
思えば、この10年間、こんな風に自分に接触してきた者は誰もいなかった。
屋敷に戻ってきた後も、アッシュは身支度を手伝われるのを嫌がり、すべて自分で行ってきた。
髪を結うのをルークに許したのも、元はといえば、仕事がはかどることを狙ってのことだったが・・・。
今思えば、相手が他の誰かであったら、許さないと思う。
そうして、いつの間にか・・・ルークが他の誰かに触れるのも許せなくなっていた。
今朝の会話を思い出す。
ナタリアに会いに行くな、と言われた時、一瞬、勝ち誇ったような歓喜に震えた。
それを冷静に押さえつけ、念の為に、ナタリアに会われるのが嫌なのかと確認したものの、アッシュは、けっしてそうではない、と確信していた。
ルークは自分に固執しはじめている。
それは、アッシュがルークを意識しているのと、たぶん、根っ子は同じ筈だ。
ふたりは同じ領域で今、背中合せだった位置を向かい合えるかどうかに差し掛かっているのだ。
医者に貰った薬が効いて、ルークぐっすり眠っていた。
目を覚ますと、昔なじみのメイドがいて(名をアーニャという)、心配そうに顔を覗きこみ、なにか欲しいものはないかと聞いてきた。
ルークが水を欲しがると彼女は、微笑んで水差しをルークの口元へと運ぶ。
からからに渇いた口の中に、その柔らかい水を含むと甘く感じられ、ごくんと飲み込んだ途端、それは体中に染み渡っていく。よほど体が欲していたのだろう。
ルークは水差しの水をほとんど飲み終えると、やっと、はふっと息をついた。
りんごをすりおろしますが、召し上がりますか?とアーニャが言う。
目覚めたら食べさせてやれ、とアッシュ様に言いつけられました、とも。
「・・・アッシュ?」
朝、会った時は、熱のせいで半分夢見心地だった。
見舞いに来てもらって夢のようだと思ったが、本当に夢ではなかった。
ルークのけだるく動けない体に、不釣合いなほど、気持ちが高揚していくのがわかった。
毛布のなかに口元を隠し、へへへ、と笑いを浮かべる。
しかし、次の瞬間、眠る前のやりとりを思い出した。
「・・・そういえば、アッシュは?」
ふと気になって聞くと、まだお戻りにはなっていないようですよ、という返事がアーニャから帰ってきた。
「え?まだ?・・つうか、今、何時だ?」
アーニャは7時です、という。
夕食の時間まで1時間をきっている。
そんな遅くまで、城でなにをしているというのだろう。
不安になって、ルークはしょぼくれた。
もちろん、アッシュの勤勉さは知っているし、公務にかこつけ、愛しい女と会えるから、などと浮ついた気持ちで登城する筈はないと思っている。
しかし・・・たとえ、仕事でもアッシュがナタリアに会いに行ったという事実は曲げようもない。
理由がなんであれ、ナタリアに会えれば、アッシュは嬉しいのではないだろうか。
そんな風に、ルークのいないところで、楽しむアッシュなど想像したくない。
はぁ・・とルークは息をついた。
呼吸はだいぶ楽になっていたから、これは本当に溜息だ。もぞもぞとルークは、ふとんのなかで体を丸めた。
長い手足を折って、内側に畳むように抱えこむ体勢は、不安を覚えた時のルークの癖なのだが、そうだと知っている者は少ない。
事実、ルークも自分でも気がついていなかった。
ルークは頭からふとんをかぶると、暗くなった視界をさらに暗くするように、ぎゅっと目をつぶる。
このまま眠ってしまおう、と思う。
こんな風に情けないのは、自分が病にかかっているからだ。
いつもならなんでもないし、こんな考え方はしない。
その時、繭のようにルークをくるんでいたふとんが剥ぎ取られた。
一気に寒くなって、ルークはあわてて、つぶっていたまぶたを空ける。
「あ・・・ア、アッシュ!?」
いきなりこんなことをアーニャがする訳はないから、アッシュだろうとは思っていたが、しかし、いくらなんでも病人の寝床を奪い取ることはないだろう。
ルークが怒り半分、呆れ半分でアッシュを睨むと、アッシュは気にしてもいないようで、ほれ、というように紙袋を寝ているルークに差し出す。
「・・・寒いんですけど。」
お礼よりも文句を先に言っても、アッシュには通じない。
ほれほれ、というように差し出すそれを、ルークは口を尖らせながら受け取った。
「約束していた土産だ。・・・なにを拗ねているんだ、お前は。」
「拗ねてねぇよ!」
「じゃあ、勝手に怒ってんのか?」
俺は怒らせるようなことをした覚えはないからな、と先に断られ、ルークは悔しくて歯噛みしそうになった。
だが、アッシュの言うことは事実だ。
アッシュは、ルークを怒らせるようなことはなにもしていない。
ナタリアに呼び出されて、公務で、城に行っただけだ。
ぷい、とそっぽを向いたまま、意地になってこちらを見ないルークを、アッシュは密かに微笑ましいと思っていた。
子供の独占欲にさらされるのも悪くない、と思う。
それが憎からず思う相手になら、尚更だ。
「見ないのか?」
お前の為にわざわざ探してきたんだぞ、と恩着せがましく言うと、ルークは、精一杯の虚勢なのか、ふんと鼻を慣らし、渋々の体を装って紙袋を開ける。
しかし、口元をむずむずと綻ばせている状態では、喜んでいることがバレバレだった。
「あ・・・。トマトジュース?」
でてきたのは、とろみのある赤いジュースで、ルークはアッシュから土産を貰ったという事実に嬉しい反面、そのチョイスには複雑な気持ちになった。
ルークはけっしてトマトは嫌いではない。
しかし、なんというか・・・もう少し面白いもんが(もしくは甘いお菓子とか)良かったな、と思うのは・・・もちろん、わがままだ。
きっとアッシュは、自分の健康が優れないから、少しでも体に良い物を、と選んでくれたに違いないのだと良い方に解釈しようとした。
「ありがとう・・・美味そう・・・。」
言いかけたルークの言葉を、アッシュは、違う、と遮った。
「え?なにが?」
「そのジュースだ。」
「え?」
「・・・トマトじゃねぇ・・・。」
言われてルークは、ジュースをもう一度しげしげと見る。
しかし、透明のビンにたっぷりと入ったそれを揺らしてみても、どうしてもトマトジュースにしか見えない。
するとアッシュは、ルークの手からビンをとりあげ、フタを空けてルークの鼻先へと持って行く。
途端に、ルークの鼻腔をくすぐる、独特の甘い香り。
「あ・・・オレンジジュース?」
「そうだ。」
「でも・・・。」
香りは間違いなくオレンジなのに、色はトマトにしかみえない。
不思議そうにルークが首を傾けると、アッシュはその反応に満足気に笑い、南の方で採れる特別なオレンジだ、と言った。
「ブラッディオレンジというそうだ。色が赤いから、そう呼ぶらしい・・・。」
「鮮血?」
ルークの眉が驚きで、ぴょこんとあがる。
血まみれのオレンジなどとなんてぶっそうな名前なんだろう。
「だが、従来のものよりも甘みが強く、香りも高い。美味いぞ。」
「・・・アッシュも飲んだのか?」
「さっき。味見を勧められてな。」
「ふうん・・・。」
言葉こそそっけないが、ルークが興味を示したことは明らかだった。
きょときょととビンの上から下までを眺めまわし、目元まで持ち上げては、振って見ている。
アッシュは、子供のままのその仕草に笑いを堪えながら、飲むか?とルークに聞いた。
すぐに、飲むと答えるだろうと、コンソールにふせて置かれていたたグラスを、手にとって用意したのに。
「いらない。」
ばふん、と枕の音を立て、寝台に寝転がってしまう。
「・・・なに?」
「まーだ、いらないよー。」
手に持ったグラスを持ったまま、アッシュは唖然とルークを見た。
気に入らないのか?それとも、オレンジジュースは嫌いだったか?自分に対して、まだ拗ねているとでも?
黙ってしまったアッシュを、寝台の上からチラリと見上げ、ルークは、含み笑いをした。
いらないと言えば、アッシュがどんな反応をするか見たかったのだ。
自分を置いて、城に行ったきり帰ってこなくって。どんなに切ない思いをしたか。これはその仕返しだ。
子供じみていることは、自分でも自覚していたが、ことアッシュに関しては冷静でいられる自信もないし、また我慢をするつもりもなかった。
「でも。」
アッシュはまだ、固まっている。
というよりも、頭を撫でようと手を伸ばしたら、犬に逃げられたようなタイミングの悪さに、自分でも対処に困っているのだろう。
「飲ませてくれるなら、飲んでも良いよ?」
それなら飲まなくて良い、とアッシュは怒るだろうか。
そうしたら、ごめん、やっぱり飲ませてと、せがんでみせなければ。アッシュは拗ねると本当に手間がかかるから・・・。
ルークの予想に反して、アッシュは手に持ったままだったコップにオレンジジュースを注いだ。
そのまま、ぐいっと自分で煽る。
あー俺の土産!とそれを見て、ルークは焦った。
なんだよ、本当に怒ったのか?とわたわた起き上がろうとすると、左の肩口あたりをアッシュに強く押される。
反動で倒れこむと、ばふんともう一度、頭の下で枕が音をたてた。
「ちょ・・・なにす・・・。」
あれ?とルークは思った。
怒鳴ろうとしたのに、アッシュの姿がない。
それどころが、視界が狭い。目の前には白い柔らかそうな壁と、赤いふわふわとした羽根のようなものが一列に並んでいるのが見える・・・。
そこで、ルークは自分の今の状況を把握した。
一瞬で、パニックになる。
なんで?なんで?と頭の中は疑問の嵐だ。
つい最近、自分の気持ちを自覚したばかりのルークには、アッシュが同じ気持ちなのだとは、想像することもできず、ただ、なんでアッシュが自分にキスしているのだろう、新手のいやがらせだろうか、とすら考えていた。
「ん・・・。」
口の中に流れ込んできた液体を、ごくんと飲む下す。
「・・・は・・。」
「・・・美味いだろう?」
身を起こし、アッシュがにやりと笑ったのを見て、ルークは我に返る。
「うま・・・うまいって・・・!」
「オレンジジュースだ。他よりも甘いだろう?」
「わ・・わかんね・・・。」
ふとんを口元まで引き上げ、くぐもった声でルークは言った。
覚えのある酸味の強い味は、確かにオレンジのもので、アッシュの言うように甘みも強い気はしたが・・・正直、じっくりを味わうどころではない。
とてもではないが、視線をアッシュにあわせることができなかった。
しかし、それを聞くと、アッシュが不機嫌そうに、あ?と聞き返してきた。顔を見ていないが、絶対にいつものように眉を寄せて目を吊り上げているに違いない。
「だ・・・だって、わかんなかったもんは、仕方ねぇよ・・・。」
「・・・・・。」
恐る恐る様子を伺えば、アッシュは腹だたしそうに、自分を見下ろしていた。
それでルークは、アッシュは味に対する答えではなく、もっと違うなにかを自分に求めているのだと気がついた。
「だ・・・だけど・・・。」
今しがた、オレンジジュースを貰ったばかりだというのに、口の中が乾く。
早鐘のように鳴り響く自分の鼓動に、俺このままなら確実に死ぬ、と慄きながら、ルークは言った。
「もう一度、飲めば・・・わかる、かも・・・。」
言った途端、ルークは真っ赤になった。 その反応は、満足のいくもので、アッシュは、ふ、と目元をほころばせる。
わからない、などと言われた時は、口移しで飲ませた意味が最早わからないのか、と腹だたしかったが(一瞬、きちんと教育しなかったガイを心のなかで罵ったほどだ)、ちゃんとルークには、意味が通じていたものらしい。
しかも、もっとと強請られるなど、到底悪い気分ではない。
アッシュの笑みは、そうとわかるほど顔に表れていたものらしい。
アッシュの顔をみあげていたルークが、ぱっと笑う。そして、まるで雛鳥が親鳥にそうするように、あーんと口を開いた。
「もっと頂戴・・・。」
こどものような無垢な仕草でありながら、覗いた舌はさきほどのオレンジジュースの赤さに染まっていて、計算されていないのに、濃密な色香を放ってた。
純粋な少年のなかに潜む艶かしさにあてられ、アッシュは一瞬、くらり、とした。
しかし、そうなってしまうと、同時にアッシュの悪いクセが顔を出す。
別段、勝ち負けの差がある訳でもないというのに、ルークに請われるまま与えてしまっては、待ってました、と言わんばかりではないか、と妙な意地を感じる。
ルークは寝転がったまま、アッシュを、きょとん、と見上げている。
オレンジジュースを所望だというのに、アッシュは動かず、なにごとかを唸っているところをみると・・・もしかして、自分はとんでもない勘違いをした挙句、アッシュを呆れさせてしまったのではないか、と不安になった。
「あ・・あの、アッシュ・・・。」
おっかなびっくりに声をかけた。
「・・・あ、あの・・・俺、起きるから・・・その。」
「俺は。」
アッシュが口を開いた。
その瞳は妙に強く光っていて、もしかして俺、これから斬られる?とルークが本気で怯えるほど、力が篭っていた。
「お前が好きだ。」
「・・・え。」
しかし、ごめんなさい、と反射的に口にしそうになったルークに告げられたのは、本当に唐突で、色気の欠片もないくせに、この世にこれ以上は必要ではないというくらいに、甘いものだった。
「今・・・なんて?」
「好きだ。」
アッシュはまるで、言い慣れてでもいるように、ぽん、と言葉を聞き返したルークに投げて寄越す。
「お前は?」
ちょっと待て、とルークは思った。
これは、いきなりな展開すぎる。今しがた告げられたアッシュの言葉も、理解できないというのに(理解できないというより真意を疑っている)、今度は自分の気持ちを聞かれるとは。
もっとも、ルークの気持ちは決まっている。
問題は、それを告げたら・・・どう転んでも、後戻りはできない、ということ。
今のままの・・・兄弟のような、ライバルのような、微妙でそのうえ心地よい、ふたりの立場を手放さなければならない、ということだった。
答えるのは簡単だった。
しかし、それによって失うものは、後になり心境の変化でもおとずれようものなら、大きな代償を求められるものでもある。
そうなっては遅すぎる。
けれど、この先、アッシュ抜きで。
ルークは自分の人生が成り立つなど、考えられない。
「俺も。」
「・・ああ。」
「俺も・・・おまえが好きだよ。たぶん・・・本当は、ずっと前から好きだったんだ。」
なあ、とルークは顔をあげた。
「今の言葉、信じても良いんだよな?」
アッシュを信じられないのではなく、ルークにしてみたら、さっきの言葉は夢のようだったのだ。
報われることなど、ありえないと思っていた。
どんなに、自分がアッシュを好きでも、アッシュはその正反対だった。
自分の正体を知って、改心して、どんなに良かれと思って行動しても、その全てをアッシュには認めて貰えなかった。
今にして思えば、過去の行動は全て、世界の為でも人の為でもありながら、同時に、いつかアッシュに褒められたいと心の底で、思っていてもいなかったか。
でも、それは、儚い望みとして一度は消えた。
それが今になって・・・思いもかけない、ほんの些細な日常のなかで、再び、自分の前に現れるなんて。
「ああ・・・本当だから、信じろ。」
アッシュは言った。
それを聞いて、ルークの顔が綻んだのだが。
「・・・多分な。」
「た、多分ー!?」
あぁ?とルークは、アッシュのような胡乱な目つきになった。
なんだ、その最後の余計なつけたしは。
「いや、今の気持ちは本当だ。」
アッシュは言った。
「だが・・俺たちは、今まで色々ありすぎたからな。この先もどうなるか分からない、とな。」
「ふーん・・・。」
ルークの目は、明らかにアッシュを疑っている。しかし、それも仕方ない。さきほどのは、明らかにアッシュの失言だった。
アッシュは、ルークに誠実でありたいと柄にもなく思い、それが口をついてでてしまったのだが・・・世の中には、言わなくても(もしくは言って後悔するような)ことがある。
アッシュは、過去のルークに対しての己の態度を、褒められたものではないのを自覚している。
そして、ルークという個人を欲する気持ちが生まれた以上、ルークに対する罪悪感は、これからもっと大きくなると思う。
アッシュの心変わりというよりも、そのことが起因となり、結局、自滅を招くかもしれないと、いつになく弱気になった。
まったくもって、驚かされる。
この俺が、今更、未来の自分の姿に怯える、など。
しかしそれは、こうありたいという理想像が明確であるが故に抱く不安でもある。
間違いなくアッシュは、ルークに対して、これからは守ってやりたいと思い始めていた。
それこそ懐に入れて、代わりに矢面にも、文字通り剣先にも立って、守ってやりたい。
これは、暴走というのか?自覚したばかりで、勢いのあるうちの、若い熱情、ただそれだけなのか?
だが、人の行動するきっかけなど、全てがそんなものだろう。
「先行きが分からないのは事実だがな。」
アッシュは、そっぽを向いているルークのつむじに向かって言った。
面白いことに、口説くというよりも、ルークを説得しよう試みている。
「それでも・・・これから、始めてみるのも、悪くないと思わないか?」
その先に待つものなど、そこまで行きつかなければ誰にもわからない。
こうして、進むか進まないかを悶々としていても、先にあるはずのものがどのようなカタチをしているかなど、わかるわけもないのだ。
そっぽを向いていても、聞こえない筈はない。
ルークは、相変わらず拗ねた表情だったのだけれども。
その口は、だんだんと笑みのカタチを作っていくのだった。
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