如何にして君、とらわれし者よ。
その渇きたる唇を、我が手に取り戻しえよう。
薄暗く、何も見えなかった。
手の感覚もなく、足は前へと歩んでいるのかも判らない。
ただ、スクリーンの写り流れ行くように、景色だけが目の前を通り過ぎていく。
それが感覚のない歩みを証明しているようだった。
ちかり、と蛍のように、瞬く光が見えた。
そして次には、意思とは関係なく、その角を曲がる映像が見える。
石でできた螺旋の階段が目の前にあって、こんなところには記憶がないな、とジューダスは思った。
石の段差はすべて同じ高さで、いつまでも続くかと思わせるほど長く、階段を一歩一歩登っているというのに、あいかわらず感覚はふわりふわりと浮いているようだった。
やがて、唐突に、目の前に空間が現れる。
視界が固定しているので、あいにくと天井を見上げたりできないが、それでも、そこが塔の最上階だという事を知ってる。
広場の真ん中に、鳥かごがあった。
自分で望んだ訳でもないのに、勝手に、ジューダスの体はそこに近づいていく。
鳥かごの中には、なにもないように思えた。
暗くて・・・光が差し込んでいるのに、目を凝らしても暗いと感じる。暗くて、中を覗けない。
背後からばさばさっと大きな羽ばたきが聞こえた。
ふいに耳の後ろから聞こえたその音に、背中の筋が、あわ立つ。
いつのまに振り向いたのか、大きな白い羽根が一本、床に落ちているのが見えた。
それを拾い上げ、鳥かごを見ると・・・・。
中に、天使がひとり。
淡く光を放つ白い翼は、神々しいよりも痛々しく感じられた。
その翼があるからこそ、ここに閉じ込められたのだ。
ゆるゆると顔をあげ、天使はジューダスを見る。
何も言わない。
こちらから声をかけるのを待っているようだ。
これ以上に、美しいものはない。
とジューダスは思う。
スミレ色の瞳は潤み、まるで小さな星を宿しているかのようだ。
薔薇色の髪は揺れ、花びらのように、光を反射している。
それらを食い入るように見つめる。
待たれていても、声をかける気がしない。
この美しき捕らわれ者は、今、この時をもって、最上として存在している。
ほんの小さなひずみがそれを壊す。
その為に、少しの音も許されない。
「ジューダス。」
天使は甘く彼の名前を囁いた。
甘美なその声に、ジューダスは震え、全てを捧げたい衝動にかられる。
どうして今まで。
今まで、何故、気がつかなかったのだろう。
「ジューダス。」
天使は彼を呼び、鳥かごの中から白い手を差し出す。
その手を取ったら、終わりだ、と思った。
もう、それだけでは止まらなくなると。
全てを。
全てを手に入れるまで、きっと、我慢できなくなる、と。
ジューダスは手を伸ばし、白い手を乱暴に、引き寄せた。
躊躇う気持ちなど、そこには微塵もはなかった。
「あんた、いつまで寝てる気?」
甘い声が聞こえた。
そう思った瞬間、ジューダスはいきなり覚醒した。
「わ!」
突然、体を起こしたジューダスに、危うく、頭に頭をぶつけられそうになって、ハロルドは飛びのくようにして、それをよける。
「・・・・今、何時だ?」
気がつけば、宿のベッドの上だった。
低くかすれた声でジューダスは、ハロルドに向かって言った。
窓からは、強い光が入り込み、シーツを白く照らしている。
その暖かさで、頼りない早朝のそれではない、と知る。
喉がからからに渇いていた。体のだるさが、深い眠りに、長い間入っていた事を証明している。
「まだ、お昼前よ?」
ぷくっと膨れて、ハロルドは答えた。
寝起きで、一番初めに言われた言葉が、それだったのが気に入らないらしい。
「あんたがカイルよりも、遅く起きるなんて前代未聞のこんこんちきだわ!もしや死んでるのかと思って、心配して見に来てやったってのに、お礼はないわけ?」
「ハロルド。」
「なによ?」
「どうやって部屋に入った。」
ここはジューダスのひとり部屋だ。
昨日、間違いなく鍵を閉めて、ベッドに入ったというのに、どうしてハロルドがここにいられるのだ。
覚醒したばかりだが、ジューダスの頭の回転は、すでに平常通りに動きつつある。
だが、ハロルドは、そうとは感じなかったらしい。
「そんなのこじ開けたに決まってるじゃない?あんた、まだボケてるの?」
「普通に言うな・・・・。」
ジューダスは顔にかかる髪をかきあげて、ハロルドを睨む。
乱れた髪の間から、ハロルドの唇が、弓を描くのが見える。
その蟲惑的で、赤い、唇がハロルドの自慢だった。
その唇を凝視して、いつもつけている口紅の色はこれだったろうか、と思った。
「・・・なに?」
「・・・え?」
ハロルドに言われ、ジューダスは我に返る。
見れば、ハロルドは眉をよせ、怪訝そうな表情で、こちらを見返していた。
「なんか、じ〜〜〜〜っと人の顔見て。気持ち悪いわよ?なにか言いたいことでもあるの?」
「・・・いや。」
ジューダスは視線を、ハロルドの顔から逸らし、窓の外へと向けた後、ふと思い出し、言った。
「おい。」
「ん?な〜に?」
「いつまでいる気だ。」
ほえ?と言ってハロルドは首を傾げる。
その顔を見て、最後まで言わなければ分からないのか、と舌打ちし、ジューダスは扉の方を、顎で差した。
「僕は着替えるんだ。でてけ。」
「あ〜。」
ハロルドは、座っていたジューダスのベッドから、ぽんと降りた。
「けち。」
「なんだって?」
どういう意味か分からず、ジューダスは思わず聞き返す。
ハロルドはにやにやと笑い、そしていきなり、
「いいじゃない、減るもんじゃなし。男が細かいこと気にしないの、ホラ、脱いで脱いでv」
そう言いながら、ジューダスの寝巻きのボタンを外しだす。
ストリップをさせられる趣味はないと思い、
「ふざけるな。」
その手を押さえつけ、ジューダスが本気で睨むと、ハロルドはちぇ。と言って、ようやく観念したのか、扉へと向かった。
そして、去り際。
「もうすぐランチだからね〜。遅刻はなしよ〜。」
と釘を刺して、出て行った。
その後姿が。
妙に目に焼きつく。
ジューダスは頭をひとつ振ると、今朝の夢の事を、考えまいと努めた。
「うひょ〜vハンバーグvv」
宿の食堂で、ランチの出てきた皿を見るなり、カイルは嬉しそうに声をあげる。
こういうお子様メニューがカイルは好きだ。
年相応・・・というには、多少カイルは成長しすぎている。
そしてその前でも「やったv」と小さくガッツポーズを作っているのがひとり。
「おいしそ〜〜〜vいただきま〜〜すv」
そう言って、人数の分が揃うのも待たず、先に食べだすハロルドの姿に、全員が苦笑する。
カイルと同じく、ハロルドもお子様メニューが好きだ。
こちらは、多少どころがかなり、年相応とはいかないのだが、ハロルドにハンバーグ、という組み合わせが、なぜか似合う。
今も、顎が外れそうなほどの大口をあけ、ナイフで切ったハンバーグを、肉汁をぼたぼたこぼしながら、食べる姿はまるで、離乳食を食べだしたばかりの子供のようだ。
どうにもこうにも可愛らしい。
「可愛い?僕には恐竜が肉にかぶりついているようにしか見えないぞ?」
憎まれ口を叩くジューダスに、ナナリーは呆れて苦笑する。
「またそんな事、言って。可愛いじゃないか、無邪気って感じでさ。」
「よせよせ、ナナリー。こいつのはいつものアレだって。」
そういうロニの口元は、呆れているというよりも、別のカタチに歪んでいる。
今にも笑い出したいのをこらえてるかのようだった。
横で、リアラもふふふ、と笑った。
「・・・なんだ?」
怪訝そうに3人の顔を交互に見るジューダスに、
「い〜や?なんでもねぇよ?」
「ね〜。」
「うん、何もないわよ。」
などと言い、冷めちゃうわよジューダス、と食事の来た事を指摘して、話題を逸らす。
「ジューダス。」
斜め前から、ハロルドの声がした。
「・・・なんだ?」
ジューダスは、思考の流れの一部分に鍵をかけたまま、普通である事を意識して、そちらを見る。
目が会うとハロルドは、笑みをつくる。
食べた後、口紅のおちた唇は、その代わりに肉の脂でてかっていた。
そこから、ちらりと、舌が覗き、その姿は野生動物かなにかを連想させる。
ハロルドは、おもちゃをねだる子供そのものの口調で言った。
「ハンバーグいらないなら、頂戴v」
「あ〜〜!ずるいハロルド!オレも狙ってたのに!」
「おいおい、お前ら!!自分の分はもう食っただろうが!」
「そうだよ、ジューダスは朝食も抜いてるんだから。これ以上食べなかったら、ただでさえ細いのに、更に体力がなくなって、前衛で使い物にならなくなっちまうよ!」
「・・・おい。」
フォローするのか、貶すのかはっきりしろ、とジューダスが頭を抱えたくなる。
ロニとナナリーは、そんなうめき声も聞こえないのか、カイルとハロルドと言い合っている。
「じゃあさ!ロニの半分、頂戴よ!」
「あ、なんで俺がお前にやらなきゃなんねぇんだよ!」
「私、ロニの残りは嫌だわ。変な菌が移りそう・・・。」
「それはそうだね、ハロルド。じゃ、あたしのを3分の1分けてあげるから、それで我慢しなよ。」
「やったv」
なにがなにやらわからない。
いつの間には、ハロルドはナナリーのハンバーグをせしめている。
その言い合いを聞いているうちに、ジューダスは可笑しくなってきた。
能天気で、屈託のない、いつもの会話。
なんの意味もないようでいて、それこそが楽しみそのもの。
「・・・うん?」
「どうした?」
「うん、ちょっと・・・。」
ナナリーに本当に3分の1ほどのハンバーグをわけて貰い(思うに、ナナリーはハロルドが小さいのも、心配しているらしい。)ハロルドがそれすらも平らげた後、突然、変な顔をした。
食後に飲み物を頼んで、皆で、くつろいでいた時だ。
「背中がね・・・。」
「痛むのかい?」
町に入る前の戦闘で、背中の筋でも痛めたのかと心配し、ナナリーは眉を顰める。
「ううん。違うの。」
ハロルドは、左腕を背中に回し、そのあたりを確かめるように撫でた。
その体制は見ていると苦しそうに見えるが、本人は平気な顔をしている。
「痛痒いっていうの?なんか、歯が生えてくる時みたいな感じ・・・。」
「なんじゃそりゃ。」
「背中のどの辺りだ?」
何気なく聞いたジューダスに、ハロルドはう〜んと考えてから、答えた。
「肩甲骨のあたり?しかも両方なんだよね。」
「・・・・・・・。」
「どこかに打ったのかね?」
「うん、そんなとこかもね。でも両方一片なんて、めずらしいわねぇ。」
「おいおい、自分の事だろ?」
呆れて言う、ロニの言葉を最後にその話は終わった。
全員は、そんなことなどなかったかのように、別の話題で盛り上がる。
それにあいづちを打ちながら、ジューダスの心は別の方へと向いていた。
なんてことはないと気にしないように務めようとしても、心は勝手にその事で占領されていく。
ハロルドは肩甲骨だと言った。
それはちょうど。
人間の、翼が生えていた時の名残だと言われている。
偶然だ。
とジューダスは、自分に言い聞かせるように、思った。
そう、なんてことのない事だ。
ただ単に、ハロルドがどこかにぶつけでもしたのだろう。
そう、単なる。
ジューダスはハロルドを盗み見る。
夢の中とはまるで違う。
よく笑い、よくしゃべる。
あの儚く、うちから光るような透明感はない。
あれそのものが、単なる夢だ。
だから。
偶然だ。
薄暗く細い階段をジューダスは登る。
もう何度目の来訪だろう、と考える。
いつもいつも。
飽きることなく、絶えることなく、ここへの階段を躊躇うことなく登っていく。
まるで、義務のように。
まるで、責務のように。<
階段を登りきり、空間へ出る。
鳥かごの中の彼女は、あやうげな視線を彷徨わせ、自分の姿を確認する。
そして何も言わない。
いつからか、彼女は、何も言葉を発しなくなった。
啼く時、意外は。
ジューダスは鳥かごの中に手を伸ばし、彼女の髪を掴むと乱暴に引き寄せて、苦しげに開いた唇をむさぼる。片方の手で、鳥かごの中の白い足を外へと引き出すと、くるるるる、と笛の音のような声が彼女の喉から漏れた。
なんて名前の鳥なのだろう、とその声を聞く度、ジューダスは思う。
一度、本人に尋ねてみたが、首を振っただけで、答えなかった。
たぶん、本人も、自分がなんという名前の鳥なのか、わからないのだろう。
ジューダスは、白い足を撫でながら、囁くようにして聞いた。
「外に出たいと思わないか?」
ぽかん、としたように、彼女はジューダスを見た。
その時は、外、の意味がわからなかったようだった。
だが、時期に目をつぶり、首を振る。
「出たくないのか?自由になれるのだぞ?」
彼女は、白い右手をかごの上へと向ける。
何を意味したものかは知らないが、言いたい事は伝わった。
「かごには、扉がないから、か?」
鳥かごには、本来ついている、扉がない。
四方が、下から上までの一本の金属の糸で繋がり、その鳥かごを閉じている。
そして、その金属は、決して切れることはない。
彼女は生まれながらに、ここに閉じ込められている。死ぬまで外には出られない。
「かわいそうに。」
ジューダスは言った。
その言葉の空ろさに、自分自身で吐き気を覚えながら、おざなりに、決まりきった奇麗事を。
「可哀想に。」
「ねえ、あんたさ〜。」
「なんだ?」
買出しにふたりで出てきた。
空は薄暗く、雨が降り出しそうだった。
ジューダスは雨に濡れるのが好きだった。
だから、面倒がるナナリーに、代わりに行く事を申し出たというのに、なぜだかハロルドまでついてきた。
「どっちが良い?」
「なんの事だ?」
ふう・・とハロルドは溜息をつく。
そして、つかつかと近づいて来て、背伸びをすると、ジューダスの瞳を覗き込む。
「な・・なんだ?」
思わず身を引いたジューダスに、ハロルドは人差し指をピッと立て
「あんた、絶対に変!」
その指でジューダスの鼻先を・・・仮面の・・・ぐいっと押した。
「宿を出た時から・・・ううん。昨日からよ!なんだかぼ〜〜〜〜〜っとして。あんたらしくないったら!反応も鈍いし、一体、何を考えてるの?自分のおかれてる状況にも気がつかないほど!」
「状況?」
思わず、周りを見回したジューダスは・・・固まった。
色とりどりのレースと、見慣れない、ひらひらした蝶に似たカタチのものの陳列。
そこは、ランジェリーショップだった。
「お・・・・。」
お前!!と怒鳴りたいのに、それすらジューダスの口からは出てこなかった。
我に返ったときに認識した状況に、ショックが強すぎた。
ダメージは計り知れない。
やっと、普通の反応をしたジューダスに、ハロルドはにっこりと笑う。
宿を出たときから、うわの空だった。
自分は、一緒に出かけられるのが嬉しくってはしゃいでいたというのに、何を話しかけても無反応。
面白くなくって、嫌がらせにランジュリーショップに入ったら、ぼんやりとしたまま、ジューダスはついてきた。ありえない。絶対にありえない。
やっとここで、普通の彼に戻ったのを見届け、ハロルドは言う。
「まあ、いいじゃない。今時、彼女とランジェリーショップに入る男なんて、当たり前なんだしv」
お前は僕の恋人じゃないぞ、と思いながらも、ひとりで店を出て行く勇気もない。
外を出た途端、どんな視線にさらされるやら、考えただけでも冷汗がでる。
それなら、たとえ、ハロルドと腕を組む羽目になったとしても、一緒に出た方が良い。
我に返った段階で、後先考えずに外に飛び出さず、状況を分析するだけの冷静さを失わないあたり、ジューダスである。
「でねでねv」
ハロルドは嬉しそうに、にじり寄ってくる。
絶対によからぬ事を考えている、と思い、ジューダスは身構える。
「このチェックと、花柄、どっちが良い?」
ハロルドは両手に、ブラとショーツのセットを持って、ジューダスに見せる。
「ば・・・!!」
このバカが!とジューダスは怒鳴った。
「なによ〜?選んでくれたっていいじゃない。ねえねえ、どっちがあんたの好み?」
「そんなもの、どっちでも一緒だ!」
「一緒じゃないわよ〜。」
「第一、どうして僕の好みが関係ある!!」
「ほえ?」
ハロルドは、きょとんとし、それから、それもそうね・・・と言った。
あんたがする訳じゃあるまいし・・・とぶつぶつ言いながら、棚に戻すかと思いきや、今度はピンク色で黒いレースのついたものを手に取ると、自分の胸にあて、振り返る。
「じゃ、どう?似合う?」
「・・・・・・・・。」
「あ、怒ったのね?はいはい。じゃ、買ってくるから待ってて。」
その後姿は明らかに、自分をからかって喜んでいた。
ジューダスは怒りと羞恥で顔を真っ赤にしながら、ハロルドが会計を終えて戻ってくるのを待った。
「な〜に、まだ怒ってるの?」
「当たり前だ。」
お茶を飲みたい!と強く言われ、渋々、ハロルドと一緒に店に入っていた。
お詫びに奢るから、機嫌直してよ〜と言われ、ジューダスはハロルドを見る。
にこりと笑う姿を確認した後、再び、視線を逸らした。
なにも怒ってるばかりが、目を合わせない理由ではない。
ハロルドと今、ふたりだけになるという事を避けようとしている自分を感じる。
バカげている、と思う。
あれは夢だ。
「・・・つっ。」
声にならない、言葉を発して、ハロルドがびくりと椅子の上で姿勢を正した。
「なんだ?」
「うん・・・・。」
ハロルドは顔をわずかにしかめて、左手を背中へと回した。
「昨日、言ってたやつ。なんか、痛くなってきたのよ。」
「痛い・・・のか?」
「うん・・なんかね・・・下から突き上げてくるような痛さなの。本当になんか生えてくるんじゃないでしょうね?」」
「そんな訳、ないだろう・・・。」
言いながら、ジューダスはハロルドの顔を見る。
痛みに、少しだけ歪んだ顔は、初めて見るものだった。
知らず、それを凝視している。
いつもは、明るい瞳の中にも、あんな表情が隠れているのだろうか。
あの夢の中の天使のように、儚げで消え入りそうな、危うい表情が。
何を考えている・・・。
ジューダスは、ハロルドから視線を外した。
無理やり引き剥がした、と言って良い。
そうして明らかにうろたえている胸のうちを悟られないように、目をつぶる。
これ以上、勝手に視線がハロルドの上を彷徨わないように。
「ねえ・・・。」
その耳に、ハロルドの声が聞こえた。
表情を見ないで聞くそれは、不安そうだった。
「後で、薬、塗ってくれる?」
「薬?」
目を開け、ハロルドを見る。
浮かない表情をしていた。
「うん。自分で処方してみようと思って。」
「ナナリーに頼んだらどうだ?」
「できれば、それは、ね。分かるでしょう?」
ナナリーは、とても心配症だ。
彼女の優しさには、大いに助けられるが、本当になんでもないときは・・・心配させてしまうのが、気の毒なほどだ。
彼女は、太陽のように笑っているのが似合うし、その笑顔がある事で、照らし出されるなにかが、仲間内にはある。
そして、彼女の心配症の原因には、過去の辛い出来事があるのだ。
それを、少しでも思い出させたくない。
だからこそ、本当に心配して貰うほどの怪我や病気でない限り、ナナリーの耳には入れたくない。
ハロルドの気持ちは、同じように思うジューダスだからこそ、理解できた。
では、リアラ・・・と思ったが、彼女はナナリーと同室だ。
仲の良いふたりのうち、ひとりだけ呼び出すのは、難しい。
「分かった・・。」
しかたないな、と溜息をつき、ジューダスは言った。
「ありがと。」
ハロルドは、えへへと笑った。
けれど、それはどこか晴れない笑顔だった。
夜遅くに、ジューダスはハロルドの部屋を訪ねた。
ごめんね、遅くに・・とハロルドは、彼女にしては殊勝な事を真剣な表情で言う。
「いや・・。」
部屋の中は、冷えた空気が満ちていた。
この辺は、夜になると冷えるのだが、雪国で育った彼女には、この程度の寒さでは、暖房を入れるほどではないらしい。
ハロルドは、ベッドに横すわりに腰掛け、枕元にもう一本、蝋燭を灯した。
そこの壁だけ、一層ぼんやりと明るく照らしだされる。
「ちょっとだけ向こう向いててくれる?」
「ああ・・・。」
ジューダスはハロルドに背を向けた。
わずかな衣擦れの音がして、それから、もういいわよ、という声がした。
なるべく意識をしないように、ジューダスはハロルドの方を振り返る。
ハロルドはこちらに背を向けていた。
はだけた衣服で胸元を押さえ、あらわになった背中をジューダスの前にさらしている。
「お願い。」
「ああ・・・。」
短く答えてジューダスは、ハロルドへ近づく。
今の、無防備なハロルドの傍による、その事に、ひるみそうになる。
陽に当たる事がほとんどないその肌は、透けるように白い。
しみもほくろも、ひとつもない、肌だった。
蝋燭の炎が近くで揺れ、肌の上で陰が蠢いた。
淡い光の中に浮かぶ肌のキメ細やかさに、思わず息を呑む。
綺麗だな、と知らずに思い、ジューダスはうろたえる。
そして、ハロルドがこちらの顔を見れない事に、ほっとした。
自分の視線の先を知られたくなかった。
動揺を悟られぬように、ジューダスは、そっとハロルドの肩甲骨のあたりを、指で触れた。
「・・・・っ。その辺り・・・。」
少しだけ身震いをして、ハロルドが痛むところを指摘した。
その時の声の変化を、ジューダスは気がつかない事にした。
見るかぎり、別に外傷はないようだった。
「まだ、痛むのか?」
「ううん、今は。時々、ずきずきするけど。」
「痛みが変わって来てるのか?」
「うん。」
なんだろう、と思い、ジューダスは目を凝らす。
一瞬。
「・・・・なんだ?」
「え?」
「傷が・・・。」
小さく引っかいたような傷ができていた。
ばかな、とジューダスは思う。
さっき見たときはなかったはずだ。いや、それよりも。
今、目の前でその傷が浮かび上がった。それこそ、あぶりだしたかのように。中から。
そんなはずはない。
「いた・・・。」
小さく身じろぎし、ハロルドが声をあげる。
「痛むのか?」
「うん。今、突然、ちくり、と。」
「薬を貸せ。」
ジューダスは言った。
この傷は。
彼女の体にあってはならないものだ、と思った。
ハロルドから薬を受け取ったジューダスは、本能的な恐怖に似たようなものに、突き動かされるように、乱暴な仕草で、薬を傷へと塗りこむ。
傷そのものが、跡形もなく消えてしまうように。
「ちょ・・ちょっと。」
「なんだ?」
「乱暴にしないでよ、痛いでしょ。」
我に返り、ジューダスは手を放す。
「すまない・・・。」
「いいけどね。」
ハロルドは言い、はだけた衣服を身に纏おうとして、ちらり、とジューダスを見た。
その視線で言おうとする事が分かり、ジューダスは背を向ける。
ぱさぱさと軽い布の音をさせて、服を着た後、ハロルドが、言った。
「悪いけど・・・・・明日も・・・。」
「ああ、分かってる。様子を見る為にも、明日また来てやる。」
階段を登る足を、重いと思った。
いつもなら感じる事のない重さだ。
だが、なにかに操られでもしているように、歩みは止まることがない。
気がつくと、ガタンガタンと時計を動かすゼンマイの音が聞こえる。
今まで聞いたことがなかったそれに、ここは時計台だったのか、と改めて気がついた。
細く長い階段の途中に、小さく切り抜いた窓があった。
そこから月の光が差し込んでいる。
だが、高い場所にあるのか、外を見る事はできない、と知っている。
広間に出た。
見れば鳥かごの外に。
彼女の細く白い手がでている。
だらりと力を失って、下へと垂れ下がっている。
ジューダスはかごに近づく。
うつぶせに倒れている彼女の背中には、翼がなかった。
もがれたかのように、何もその背にはない。
無数の羽毛が、床に落ちている。
それらが、ジューダスが動くたびに、ふわりとすこしだけ舞い上がった。
ジューダスは鳥かごの真下に腰を下ろすと、力のない白いその手を自分の頬へと引き寄せた。
滑らかな指が、ジューダスの頬を撫でる。
ああ、そうか。
ジューダスは思った。
やっと、自由になれたのか。
ぽう・・と小さくマッチの火が灯った。
それを蝋燭に移し、ハロルドが、枕元へと持っていく。
「どうなんだ?痛みは。」
「昨日からは何もないの。薬が効いたのかしら。」
昨日と同じ時刻に、ジューダスはハロルドの部屋へとやってきた。
今日は月が出ていなかった。
月明かりがない分だけ、昨日よりも蝋燭の数を増やして、部屋を照らす。
ぼんやりと浮かぶオレンジ色の光で、陰影が強く映し出され、ふたりだけの部屋は濃密さを増しているような気さえした。
「でも、安心できないから。私の目で見られたら良いんだけど・・・。」
ハロルドが背中に手を回しながら、言う。
よせ、触るな。とジューダスはそれをやめさせた。
傷は触ると悪化する。ましてや、正体の分からない傷だ。
「鏡を持ってきてやろうか。」
「あ、うん。そうね。お願い。」
ハロルドにジューダスは手鏡を手渡す。
背中を現わすには、服を脱がなければならない。
ジューダスはハロルドの方へ背を向けた。
衣擦れの音、と、沈黙。
背中をのぞきこんでいるらしく、息をつめている気配。
そのすぐ後・・・。
「何?これ・・・。」
ハロルドの戸惑うような声がした。
「どうした?」
「見て・・・。」
言われて、ジューダスはハロルドの方を振り向いた。
ベッドに座っているハロルドの背中は、こちらに向けられていて、ちょうど蝋燭の光に照らされ、それ自体が発光しているかのように、輝いていた。
その背中に、ハロルドが見ろ、と言った傷がある。
ぎくり・・・とジューダスの体が揺れた。
出血はなかった。
だがまるで、その背中から、なにかを引きちぎったかのような痛々しい傷跡。
夢の中の。
天使と同じ傷跡だった。
眩暈に似た感覚に、ジューダスは目をつぶる。
ハロルドは、手鏡で、自分の背中をもう一度見る。
手を伸ばして、指先で触れると、傷に見えるそれには、おうとつがなく、表面はつるりとしている。
まるで、肌に傷の模様をプリントしているみたいだった。
気味が悪くなり、ハロルドはジューダスを呼んだ。
「ね、昨日もこんなに大きい傷だったの?」
不安そうな声が、部屋に響く。
コツン・・・と足音が鳴った。
「ねえ、どうだった?」
何も言わず、ジューダスが、近づいてくる。
その気配に、不安そうにハロルドが、後ろを振り返ろうとした、その時。
「・・・・あ・・。」
びくり、と体を震わせ、ハロルドが声を呑みこんだ。
ジューダスの長い指が、傷の上を這っていく。
上から下へと撫でた後、指は、再び上へと這い登っていく。
「・・・・っ・・・!」
その感覚に耐えて、ようやく声をかみ殺した時、指は手のひらへと変わっていった。
乾いて熱い、その感覚に、体の芯が震える。
思わず、刺激から逃れようと体を前に倒して、次に、ぞわりと肌が粟立った。
「・・・・・あっ・・・。」
ジューダスは唇で傷をなぞった。
とたんに、びくり、と跳ねた後、ハロルドの背中がしなる。
前のめりになったその背に舌を這わせて、足を片方、引き寄せた。
撫で上げると、ハロルドは、くん、と喉を逸らした。
そのまま、くるるる、といつものように鳴くかと思ったのに。
鳴き声は聞けなかった。
ジューダスは、それを確かめると、前へとハロルドの体を押す。
力の抜けたそれは、簡単にベッドに倒れこんだ。
「・・じゃ、ない・・・。」
「なんだ?」
うつぶせたハロルドが何かを言い、ジューダスはその口元に耳を寄せる。
「一緒じゃない・・・。」
「なにがだ?」
「自由なんて言ったって・・・あんたがいれば一緒だわ・・・。私を空に放つつもりなんてないクセに・・・。」
ジューダスは、目をつぶる。
大きく息を吐き、ハロルドも目をつぶった。
大きなはばたきの音を、聞いた、と思った。
「ああ。」
目を開けて、ジューダスは、なにを当たり前な事を、と言うように言った。
口元に笑みを浮かべて。
「そうだ。」
捕らえられ、観念した獲物のようにくったりと、ハロルドは体をベッドに預ける。
髪を掴み、耳元に唇を寄せた瞬間、ジューダスは、ハロルドの背中にあった傷が、溶けるように体の中に消えていくのを、見た。
fin
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