扉を開けると、図書館独特の古い紙の匂いがした。
ハロルドはこの匂いがとても好きだ。
この匂いを嗅ぐと、未知なるものが自分を待っているような気分になる。
それは宝箱を開ける寸前の気持ちに似ている。
自分にとって新しい何かが、そして価値のある何かが手に入るのでは、という期待で胸が震える。
だが今は、自分の為にここに来たのではなかった。
いくつかの本棚を通り過ぎ、奥へと足を進めていって、ハロルドは目的の人物を見つけた。
「ジューダス。」
黒衣の人物はその声を聞き、仮面の顔を上へと上げた。
木製の机の上に、何冊かを重ねていて、その中の1冊を広げて目を通していたようだ。
彼はハロルドを見ても何も言わず、そのまま視線で次の言葉を促した。
「もうそろそろ、夕食の時間だって、ロニがあんたを探してたわよ?」
今は、かの城内に立ち寄っているところだった。
天地戦争時代から戻ってきてからというもの、ぷっつりとエルレインの消息がつかめなくなっている。
しばらくは旅をしてあちらこちらの様子を見て廻ったのだが、なんの手がかりもなく、しばらく滞在する予定で、再びこの地に訪れた。
ここはどんな宿屋よりも快適で、図書館のような施設も城内に作られている。
向こうの次の手が見えないと焦る一向には、格好の休息地、という訳だ。
ジューダスはハロルドの伝言を聞いて一瞬だけ目を細めると、
「そうか。」
と言って顔を上げた。
立ち上がる気配はない。
「呼びに来たってのに、なによ?」
「この章を読み終わったら行く。先に行ってて良いぞ。」
そっけない一言で、自分を追い払おうとしている事を感じて、ハロルドは頬を膨らませた。
それから半歩下がって、自分も本棚を見上げ、本を探すフリをしながらジューダスの様子を盗み見た。
最近、この男の態度は、ずっとこうだ。
特に自分に対して、のように思う。
正確にはどうだろう、最近のこの男がわからない。以前はかなり親しくしていた、と自分では思っていたのに。
コミュニケーションを取ろうという気がまったく見られないし、嫌がっているというよりもむしろ、自分と会話をする事が、まるで意味のない事だと思っているようだ。
特別嫌われる事をした覚えもないが、そうだろうか。
ハロルドは考える。
心当たりというほどでもないが、気にかかるのは、ジューダスのこの態度が始まったのは、ふたりで森番の小屋に逗留した後からだ、と思う。
自分が足を挫いて、しばらくの間、そこから動けなかった。
幸い食料もあったし、ハプニングとしては大したものではないと自分では思っていたが・・・。
ジューダスにとってはそうではなかったのだろうか。
だが、いくら考えても、その時はそれ以上の迷惑をかけてはいない。そして、この男は多少他人に迷惑をかけられたからといって、いつまでもそれを根を持つほど、女々しい男ではない。
「あ。」
「・・・なんだ?」
ハロルドの声を聞いて、ジューダスは本から顔をあげた。
ハロルドはその時、背伸びをして、自分よりも高い位置にある棚の本を取ろうとしていた。
前々から探していた種の本だった。ここにあるとは思わなかった。
けれど、いくら手を伸ばしても、背表紙に触ることもできない。
「ねぇ、取って?」
ハロルドは後ろを振り返っていった。
「・・・・・僕が、か?」
ぱちぱちと2、3回瞬きをして、不機嫌というよりもどこか驚いた風にジューダスは答えた。
なぜジューダスが驚いたのか、すぐに分かった。
そういう頼まれ事には慣れてないのだろう。
その理由は・・・。
「あんた、ちっちゃいわね〜。」
「うるさい。」
自分の事を棚にあげ、ハロルドは可笑しそうに言う。
男としてはかなり小柄な彼は、ハロルドの代わりに手を伸ばしたものの、結局、本を取る事はできなかった。
可笑しそうに笑い続けるハロルドに背を向け、ジューダスは図書室に備えつけられたハシゴを持ってくると、それに上がって目的の本を取り、ハロルドに向かって乱暴に放り投げた。
「あっぶないわねー!もうちょっと丁寧にやりなさいよ。」
慌てて本を抱えたハロルドが頬を膨らませて言う。
「文句があるなら、次からは違うやつに頼むんだな。」
冷たく言い放ち、ジューダスは今まで自分が読んでいた本をかたずけ始める。
「はいはい。悪かったわよ。いつもはこういう事はロニに頼むから、あんたが小さいって事、うっかり忘れてたわー。」
「・・・・・。」
「次からは気をつけます、とりあえず、ありがと。取ってくれて。」
「・・・・・ああ。」
本を棚に戻しながら答えたジューダスの表情はその時、向こうを向いていてハロルドには見えなかった。
「ねぇ、どうでも良いんだけどー。」
図書館から城内の食堂へ戻る途中の渡り廊下で、ハロルドはジューダスに話しかける。
「・・・何だ?」
ジューダスは振り向きもせずに言った。
その歩みはゆるみもしない。
後ろを歩くハロルドは、必然的に、味もそっけもない背中に向かって話しかけなければならない。
「どうしてそう早足で歩くのよ?もっとゆっくり歩いてよ。」
ハロルドの歩く速度が遅いという訳ではけっしてない。
ジューダスが早いのだ。それも普段よりも、だと思う。
まるで自分を引き離そうとしているかのようだ。
面白くないわね、と口の中でハロルドは言った。
「お前が遅いんだ。さっさと来い。」
にべもなく言い放つジューダスに、ますますハロルドは口を尖らす。
「こっちにあわせてくれても良いでしょうが。美しくか弱い乙女が一緒にいるんだから。」
「誰がか弱いって?」
それを言う時でさえ、ジューダスは振り向きもしない。
まるで自分の存在を無視しているかのようだ。それも面白くない。
「あんた、優しくないのもほどがありすぎー。それくらいロニだってしてくれるのに。」
そう、なんだかんだと言いながら、ロニは女性陣には優しい。
ナナリーに怒鳴られ、関節技をかけられようとも、ロニはけっしてナナリーに手をあげたりしない。
案外、あいつってフェミニストよね、とハロルドは思った。
普段はちゃらちゃらした態度なだけに、その影に隠れて見えないだけだ。
「ロニとは・・・。」
「え?」
ジューダスがぼそり、と言ったのを、ハロルドは考え事をしていて気にしていなかった。
我に返って聞き返す。
「何?」
「ロニとはずいぶんと仲が良いようだな、と言ったんだ。」
いつの間にかジューダスは立ち止まっていた。
それを頭の隅で不思議に思いながらもつられるように、ハロルドも立ち止まる。
「仲良いっていうか・・・まあね。何で?」
「・・・奇妙な組み合わせだな。」
「ああ、うん。」
ハロルドは自分でもそう思う、と思った。
「あいつはホラ、やっぱり兄貴ってやつだから。」
そういうと自然に、口元に笑みがこぼれてくる。
誰でも始めは自分と線を引く。
それはいつもの事だし、気にしても仕方がなかった。
このパーティに入った当初も、そうだと思った。
全員、気の良い人間ばかりだが自分を受け入れるまで時間がかかるだろう、と。
「それじゃダメだろう」と最初に言ったのはロニだ。
皆が自分を受け入れられないとお前は言うが、お前だってそういう理由をつけて自ら線を引こうとしているじゃないか、と。
そう言って、その目に見えない境界線にためらいもなく入ってきてくれた。
「兄貴分っていうのは、自分よりも幼い子供の面倒を自然に見れるやつの事だからね。あいつが持ってるそういう部分に・・助けられてるかな。」
別に本当の兄のカーレルのように、何もかもの救いを求めている訳ではない。
ただ、気のおける。その事が心の中に安らぎを齎してくれる。
幼い頃から友人を持たなかったハロルドにとってはそれは貴重な感情だ。
目新しく、どこかこそばゆい感じがする。
「兄貴分、か。」
ジューダスは言った。
それはまるで溜息のように漏れた声だったが、どこか暖かさも含まれていた。
「馬鹿だがな。確かに・・・そうだな。」
そういえば、とハロルドはジューダスを見る。
あいかわらずこちらには背を向けているが、先刻までの突き放した冷たさは感じられなくなった。
初めて会った当初、このふたりの関係も面白いと思ったものだ。
カイルに対し、どちらも過保護ではあったが、一方は弟を守る兄の役を、一方はあえて突き放して成長を見守る父の役を、それぞれ分担しているようだった。
だが、そのくせ、カイルの兄役は、カイルの父親役の彼の兄でもあろうとしているようだった。
カイルに対して過保護といったが、ロニのジューダスに対する過保護ぶりも尋常ではないような気がする。
目だって何をするではないが、ジューダスが孤立しないように、常に気を配っているのが感じられる。
ふと、ジューダスが振り返った。
ハロルドはジューダスの仮面の下の顔を見た。
じっと見つめ、そして考える。
ロニがこの男を守ろうとする理由はなんだろう?
カイルのように無鉄砲な訳でも、弱い訳でもない。むしろその反対だ。
ジューダスは近づいてくる。
ハロルドはその目を見返す。
アメシスト色の瞳だ。
この男は、笑う時、目で笑う。
大きく声を出すところなど想像できないが、目で笑う時、驚くほど優しい色がそこには浮かぶ。
今は、目の前の瞳には何の感情も浮かんでおらず、そうなると逆に、本当に寒々しいほどの冷たいイメージになる。
けれど透き通っている。
ハロルドはジューダスの紫色の瞳を覗き込み、その透明度に心が揺れるのを感じた。
油断していた、と言って良い。
「・・・・・っ!」
どんなに細いと思っていても男の力はこんなに強いのか、と思った。
小さいと感じていた四肢を跳ね除ける事ができない。
押さえつけられるように両腕で拘束されて息ができなくなる。
強く押し付けられるように重ねられた唇の下から、苦しい息が漏れ、それでも手の力が緩められる事はなく、逃れようと必死で顔をそむけようとすると、今度は頭を両手で固定された。
まともに思考は動かず、ある種の恐怖が這い上がってきてハロルドは暴れた。
「・・・・・っ!」
暴れて噛み付くとやっとジューダスは唇を離した。
右手で口元を軽く押さえ、ちらり、とハロルドを見る。
まるで、その傷を負わせた事を責めているかのようだ。
「な・・・なにを・・・!」
息があがって上手く言葉を紡げない自分に腹が立った。
目の前の男にも、もちろん。
「何すんのよ・・・いきなり?」
上気した頬のまま睨みつけると、そんなハロルドの様子を見たジューダスは目ではなく、口の端をあげて笑った。
「了解を取るべきだったか?」
どっちにしろ同じだろう、と言わんばかりの態度に、ハロルドの頭に血が上る。
「確かに、ハイそうですか、とはいかないけどね?でも、こんなやり方、卑怯だわ。」
怒鳴りつけたいのを必死で抑えハロルドが言うと、ジューダスは笑った。
「卑怯、か。フェアであれば許してくださるという訳か?憐み深い事だな。」
本当に心底、腹を立てていて、さっき、ひっぱたくなりなんなりしてやれば良かった、そう思いながらハロルドの心の中を、一瞬、なにかが掠めた。
それはとても小さなもので、怒りに支配されていたハロルドにとっては、すぐに忘れてしまうようなものだった。
くるり、と身を翻し、ハロルドの次の言葉を待つこともなく、ジューダスは歩き出した。
心なしかそれは、先程よりは幾分、ゆっくりした歩みに思えた。
たとえ、歩調が遅くなっていたとしても。
もうその背を追う気には、ハロルドはなれなかった。
「なぁんかトゲトゲしくね?お前。何かあったのか?」
世間話をするようにロニが言ったのは、数日後だった。
たぶん、すぐには気がついていたのだろうが、ハロルドの様子を見つつ、頃合を見計らって声をかけてきたのだろう。
口調もけっして、問いただすようなものにならないように、そっけなさを装っている。
その事に内心では感謝していたが、ハロルドは全部を話す気にはなれない。
「別に?」
にっこりと笑いかけるとロニは気味悪そうに一歩引いた。
笑顔のハロルドが見かけ通りだと思う命知らずはこのパーティーにはいない。
「最近、寝不足だったから。もうちょっとで実験が上手くいきそうなのよねぇ。成功したら、あんた、試させてくれない?」
「冗談じゃねぇぞ?」
ハロルドの言葉に、ますます気味悪そうにロニが身を引く。
それは半分は嘘だった。
寝不足には違いないが、実験の為ではない。
ハロルドは自分の唇をそっと指でなぞる。
口紅を塗っているため、指にはうっすらと赤い色がついた。
ハロルドは、それを見て、そして思い出していた。
突然だったし、驚いてもいたのに、ジューダスの唇の感触は今でも生々しく覚えている。
どういうつもりだったのか、と。
今になってもまだ、問い正せない。
「ジューダスに・・・。」
「え?」
ハロルドは我に返った。
ロニの声にではなく、「ジューダス」の名前に反応をしてしまった。
それに気がついて、自分で自分に、むっとなる。
ロニは話を聞いてもいないハロルドに呆れたようだったが、もう一度言った。
「ジューダスのヤツ、前に負傷してただろ?その傷の治りが悪いみたいだがら、お前、何か薬を作ってくんないか、って言ったんだよ。」
「ああ、そう・・・。」
取り繕うのも忘れ、それと分かるほど、ほっとして息をついたハロルドの様子を、ロニは怪訝そうに見つめた。
「何だ?何かあるのか?」
「・・何の事?」
「いや?気のせいなら良いんだけどよ。」
「何もないわよー。」
あくまでも白を切るハロルドに、ロニはそれ以上の追求はせず、ふうん、と言った。
「まあ、なら良いけど、そうだな。お前らは似たもの同士だし、変に気まずいって事もないか。」
「・・・似たもの同士?」
ハロルドはきりりと眉をつりあげる。
「私とあいつのどこか似ているっていうのよ?」
「ん?そりゃ、頭がやけに良いもの同士だしよ。」
確かに知性という点では、ジューダスは他よりも抜きん出ていると思う。
ハロルドがいきなりふっかけた議論に、きちんと自分なりの返答を返せる人間などめずらしい。
それはパーティーの中に限らず。
「それから、妙に協調性に欠ける。」
「それは・・・。」
「それと・・・もうひとつ。」
「何?」
ハロルドはロニを見返す。
「・・・大事なモンを、自分の意思を貫き通して失くした。」
「・・・・・。」
ズキリ、とハロルドの胸が痛む。
天空に浮かぶ機械の城で、ハロルドが失った半身。
今でも後悔していない、そう言える。
けれど果たして、10年後もそう思うだろうか。
ふいに、そんな事が浮かび、ハロルドはそれに対して動揺した。
大丈夫だ、私は間違わなかった。それだけは嘘ではない。
そう思う。
でも、もう一度、あの場面に引き戻されたら、同じ選択を、果たして私はするだろうか・・・。
ハロルドは頭をひとつ振り、鍵をかけ封じた扉から逃れる時のように、意識を無理矢理違う方へと向ける。
そして、次に頭に浮かんだのは、似ているが、違う光景だった。
同じ場所、違う時間。
強い意志を湛えながらも、翳る紫の瞳。
皮肉気な別れの言葉。
剣を掲げる、華奢な黒いマントのしたの背中。
いつもよりも、もっと小さく見える・・・背中。
「あいつはあの時・・・。」
そうと意識しないまま、ハロルドのつぶやきが漏れる。
「何を守ろうとしたんだろう・・・。」
自分と同じように歴史を?
それとももっと別のもの?
「いや、あいつが守りたかったのは、絆、だろう。」
「え?」
一瞬、ロニがいるのを忘れていたハロルドは、我に返って横を見た。
ガシガシと自分の頭をかき、ロニハ片目を細める。
まるで自分自身の痛い記憶と戦っているかのようだ。
「あいつは前にさ。仲間だった人たちを、やむを得ずに裏切っている。その人たちの成し遂げた事を・・・誰にも邪魔させたくなかったんだろう。たとえ、半身を差し出すことになっても。せめてもの罪滅ぼし・・・違うな。あれがあいつの、前の仲間達に対する気持ちの伝え方だった。本人たちには届かなくってもな。」
「裏切り?」
そう言えば、ダイクロフトに着いた時に、リアラがそんな事を言っていたのを思い出す。
「・・・カイルのお父さん?」
「ああ。」
その時の事を思い出したのか、ロニの目が懐かしそうに細められる。
ロニはロニで、カイルの父親には特別な思いがありそうだった。
「でも、どうして?」
そんないも深く思っているのなら・・・。
「どうして、裏切ったか、か?」
ロニが言った。
ハロルドはロニの顔を見る。
ロニは小声でたまんねぇよね、ちくしょう、と毒づいた。
「あいつにはさ。命かけるほど愛した女性がいてさ。その人の為だったんだよ。」
「・・・・・え?」
「人質に取られてさ。仲間を裏切れって・・・殺せって言われたらしい。いや、正確には・・・どうせひとりでは敵わないから、ここで死ねだったかな。」
やるせないように履き捨てるロニの言葉に、ハロルドは何も感じなかった。
そう、とだけ言い、それから初めて、自分の今の胸のうちは変だ、と気がついた。
怒りも憐れみも悲しみも、何も。
何も感じない。
その代わり、あの忘れがたい瞳の色が、無表情のままの彼の姿が、今、目の前にあるかのように思い出された。
ふと、手を伸ばす自分の姿を思い描く。
けれど手を伸ばし、そして自分はどうする気だろう?
「あーあ、まったく。」
ロニはもう一度、やりきれない、というようにぼやいた。
その声は行き場のないままに、消えた。
Next
|