部屋の中は夜でもないに薄暗く、何か灯りをつけるべきかどうか、ハロルドは迷う。
だが、ランプをつけるほどでもないので、結局、手元の暗さは、体を窓辺に移動させることで、解決させていた。
床の間と呼ばれる板張りの上に、やたらと背の低いテーブルと足のない椅子とを持ってきて、そこに座ると、なんだか床のひんやりとして感触が硬く、横にそろえた足の下に感じられる。
日の光はまだ高かった。
そこからは、この宿の自慢だという庭が望める。それは小宇宙のようだ。
置かれている岩や苔は、なんの変哲もないようにみえて、山や川、といった自然の風景を見立て、その土地の上は、手の平のような紅葉がまるで絨毯のように、すっかりと赤く染めていた。
その庭の池の中の美しい魚の泳ぐ様を見た後、ハロルドは手元の本に再び目を落とす。
本を焼いてしまうかもしれない、とは懸念はしたが、居場所を一旦決めてしまうと、また移動するのが面倒だ。そのままにして、物語の先が気になる指先が、ぱらぱらと、本のページをめくる乾いた音をたてていた。
今日は朝から、その物語に読みふけっていた。
それは100巻を越える超大作で、勧善懲悪物という現在ではなかなかお目にかかれない痛快活劇で、8人の主人公たちも多種多様で魅力的だし、これが300年近く前に書かれたものかと思うと、それだけでこみあげてくる喜びがある。
初めにこの国を訪れた時は、近代的なものがあまりなく、妙に田舎っぽい町の佇まいに、すぐに退屈するだろうと溜息混じりに予想をしたものだが、滞在初日のその夜のうちに、その考えは改まった。
この国は、独自の文化を花開かせていた。
他では見られない風習や、個性的で、独特の美学を重んじる人々。
その全てが、ハロルドを魅了した。
そして、それらに夢中なのは、なにもハロルドひとりではない。
初めの物珍しさだけで、好奇心を持っていた時期はすでに終わり、チーム全員が、心の底からここが気に入っている。
「お〜い、ハロルドっと・・・。」
すとん、とふすまを開け、ロニが顔を出した。
ここの横にスライドするドアは、とても静かだ。
ハロルドは、声の方に視線を向ける。
「なに?」
肘置きの上に頬杖をつき、ページをめくっていた手を止めて見あげると、ロニは、なにに感心したのか、ピューと口笛をひとつ吹いた。
「そろそろ、出かけないかって誘いに来たんだが。」
「ああ、そうだったわね。今、行く・・・。」
今日は、皆で買い物でもしよう、と約束していたのを思い出す。
この国の物は、なにもかもが面白い。
それらを見て回るのが、このところ、ナナリーたちの一番の楽しみだった。
ハロルドは、ぱたん、と本を閉じた。
同じ体制でいた体をほぐすように、少しだけ伸びをする。
ちらり、と見ると誘いに来たのに、ロニは部屋の奥へとやってくる。
「それにしても・・・。」
ロニが、にやにやと笑う。
ハロルドをじっくりと見下ろし、満足げにひとつ頷いた。
「なによ?」
見上げるハロルドが、不機嫌そうに聞くと、ロニが言った。
「こうして見てると、お前なかなか色っぽいな。どうだ?ひとつ、たまには俺とデートでも・・・。」
「誰が、誰とデートなんだい?」
「げ。」
振り返ればいわずがもなのナナリー。
誘いに来たのだから、一緒にいたのを忘れていたわけでもあるまい。
ハロルドは舌を出す。
まあ、これもお約束のふたりにコミュニケーションって、ことでほっとくか。
関節技をひとつかけられ、お前はなんでそんな格好でこんなことができんだよ!ロニが叫び声をあげた。
確かに動きにくいが、問題なし!とナナリーが怒鳴り返す。
それを見て、ふふふ、とリアラが笑った。
「ほら、ナナリー。折角の着付けが崩れちゃうわよ?」
「そうだよ、折角、着物着てるんだから、おしとやかに〜。」
ロニを助けようという雰囲気でないから、天然なのだろう。
カイルの能天気はところ構わずだ。
そんなふたりの声など聞こえないかのように、響き渡るロニの声。
いつもの時間は、どこにいても続いている。
この国に来たのはそもそも、モンスターに追いかけられている少女に出会ったのがきっかけだった。
助けた相手をよく見れば、なんだか見慣れない民族衣装に身をつつんでいる。
袖が蝶のようにふくらみ、足元は捲きスカートに似ているが、あまり裾に余裕がない。ちょこちょこと歩くしかなかそうだ。しかもそれはワンピースで、ボタンのひとつもない、ときている。
それは、着物と呼ばれている服で、彼女の国では、ごく自然に皆が着ているものだという。
興味を持った一同が、お礼にと招待された先は、アクアヴェイルという国だった。
かつては、セインガルドと睨みあっていたこの国は、先の騒乱以後、独特の文化を守りつつも、復興に全力で取り組んでいたという。美しい町並みを取り戻し、住人の明るい表情を比べるに、かつての敵国との勝負はこんなところで、ついていた。
「あ、これ可愛い〜。」
町の雑貨屋だった。
リアラが指を差した先には、明るいピンク色の花を象った細工のかんざしがある。
それもアクアヴェイル独特のアクセサリーだ。
「あ、ダメダメ、そんなの。」
一瞥して、ハロルドが首を振る。
「なんでさ?」
リアラが気に入ったものを否定され、リアラそのものに文句をつけられた、と言わんばかりに、カイルが不満そうに聞き返す。
「これ、絶対に安い素材を使ってるわよ〜。いかにもみやげ物って感じじゃない?ここでは、一見地味にみえても、素材にお金をかける事が粋、とされる風習があるから、目先の鮮やかさに騙されちゃダメ。ほら。これなんか、良いわよ?」
どう?リアラ、と言って、別のかんざしを差し出す。蝶を象ったものだが、その中心に赤い玉が乗っている。
「これ、さんごだって。」
「さんご?」
「海の?」
「そう。あまり一般的ではないから知られてないけど、こんなに綺麗な色をしているのよ?」
リアラは目を輝かせ、蝶の中心の赤い玉を覗き込む。
「素敵・・・。」
「俺、海の中のものって、真珠しか価値がないのかと思ってたよ〜。」
「あと、魚だろ?」
「カイルの場合は、食えるから。」
感心しているカイルに、ロニとナナリーが混ぜ返す。
「も〜なんだよ、ふたりとも!」
「はいはい。」
いつものパターンに、苦笑しつつ、ぱんぱん、とハロルドが手を叩いて、もう1度カイルの関心をこちらに向けさせる。
「ちなみに、これ。」
ハロルドは後ろを振り返り、自分の短い髪を無理矢理ひっぱってまとめた頭に挿している、かんざしを見せる。それはやはり蝶を象ってはいるが、リアラに選んだものよりもずっとシンプルで、細工も彫ってあるだけのものだった。うっすらと向こうが透けて見える琥珀のようなもの中に、帯のように濃い色が混ざっている。素材はなんだか分からなかったが、それは、ハロルドの薔薇色の髪に、よく似合っていた。
「これ、琥珀?」
首を傾げて、カイルが言った。
「鼈甲っていうの。」
「鼈甲?」
「そ。海亀の甲羅。」
「え〜?」
そんなものまでアクセサリーになるの?とカイルたちは、驚いている。
この独特の美しい文化を見ていると、ハロルドは、時々、まだまだ自分は物を知らない、と思う。
世界中の本を読み漁っていたるつもりでも、この国に来た時、その文字すら独自なものなのに驚かされた。先ほどハロルドが読んでいた本も、読む前に、そのみみずがのたくった文字を覚えることから始めたものだ。自分達が普段使っている文字に、翻訳されたものはここにも置いてあるし、それを読んだ方が早いのだが、それではつまらなかった。
たとえ、ここでしか意味がなく、この先何の役に立たなかったとしても。
全部が、というのは不可能なのは分かっている。世界はこんなにも広い。でも、いずれくるその時の為に、できる限り多くのものを知り、満足してから死にたい。
それがハロルドのモットーだ。
「ああ、そういえば、あたし半襟の新しいのが欲しかったんだった。いつも無地ばかりじゃ味気ないしさ。」
そろそろ、この店はでないかい?とナナリーが思い出したように言うと、へえ?とそれに対して、からかいの声をあげたのは、懲りない男、ロニだ。
「お前でも、そういうところ、気にするのかね〜。なら初めに買っておけばよかったじゃねぇか。」
「しょうがないだろ。初めはまさか、こんな長期滞在になるとは思ってなかったんだから・・・。」
さらに、こんなに着物を着ていることになろうとは思ってもいなかった。
ナナリーだけではない。
そもそもこの国に着た時から、全員、こんな長逗留をする気はなかった。
物珍しい建物や風習を見学して、名物の美味しいものを食べ、少しの間、ゆっくりと羽を伸ばすつもりだった。
少女の着ていたのと同じ着物とやらも着てみたかったし、十分に楽しんだら、それで立ち去る気だったのだ・・・。
それが・・・。
「まさか、全部燃えちまうとはねぇ・・・。」
「まったくだ。これまでも色々な目にあったが、なんだかそういうの抜きで、マジで嘆くぜ。」
逗留していた宿が、火事を出したのは、かれこれもう、1ヶ月ほども前の話だ。
ロニの言葉ではないが、あちこち旅をして(時さえも超えて)色々な体験をし、そんじょそこらの事では驚かないと思っていた一同も、流石に、これには参ってしまった。
なにしろ宿は全焼。
一同の持ちものも、その巻き添えになり、全て灰になってしまったのだ。
予備の武器も備品も、着替えも食料もなにもかも、だ。
「宿の主人が好意で泊めてくれたけどさ・・・。いきなり無一文になったようなもんだったし・・・。」
宿といっても、火事を出した宿とは別の宿だ。
火事を出した宿の主人はそのまま逃げてしまっていた。
初めにモンスターから少女を助けた事が功を奏し、噂を聞きつけた今の宿の主人が、申し出てくれたのだ。うちに泊まれば良い、と。
無一文というのは大げさだが、一同の持ち合わせていたお金も、大概は燃えてしまっていた。
金が入ったら後で必ず返す!と約束したものの、気の良い主人は、困った時はお互い様さ、と笑って取り合わなかった。このまま、本当に料金を取って貰えなければ、あまりにも申し訳ないとの理由から、近くの町からくる商人の護衛役を買って出たり、隣の町にある小さな競技場で賞金を稼いだり、町の甘味屋でウェイトレスなどして、まとまったお金をつくろうと全員で働いた。
その甲斐あって、なくす前とほぼ同じ料金を手にする事ができたのだが・・・。
「今度は、ジューダスが、あれだし。」
「ま、いいじゃねぇか。ここでの暮らしも満更じゃないしよ。宿の主人とも別れがたい。もうしばらくここにいようぜ。」
「うん、賛成。」
「楽しいもんね、旅も良いけど、こういうのも悪くないよ!」
特にリアラなどは、着物がお気に入りだ。
持っていた着替えが全て燃えてしまったため、衣服も買い揃えなければならなかった。ここは着物だけしかないわけではないが、やはり旅人が着るような服など少なく、折角なのだからここにいる間は着物で過ごしてみようか、という話になった。幸いとも言うべきか、旅路で着用しているいつもの戦闘服は残っている。次に移動した町で、改めて買いなおせば良い、という話になった。
そうと決め、次の日から着物で生活をしだすと、それはなんだか、気持ちがしゃんとした。動きにくく、崩れやすい服でいることは、同時に綺麗な姿勢を求められる。そのうち、動きにくい事にも慣れ、そうなると着物で過ごすことは、楽しくなってきた。
なによりも、同じ形の服に、こんなに色々な柄があるのが素晴らしい。
色も鮮やかなものから、落ち着いたものまで様々だが、帯や半襟の組み合わせを変えれば、同じものでもイメージが全然違う。
着こなしによって、あまりにも違うそれらをその個人個人が競い合っている。本当のお洒落、とはこういう事を言うのだ、と思う。
ナナリーの半襟を選らび、店を出る頃、カイルが言った。
「オレ、のど渇いちゃったよ〜。」
どうやら、店に入る以前から言うチャンスを伺っていたらしい。
「うん、わたしも。」
リアラもカイルに同意する。
「どこかでお茶しない?」
「ああ、それそれ。今日はパーラーで噂のアイスクリンを、食べに行く約束だったよね?」
そう言って、ナナリーはハロルドの顔を見る。
「アイスクリン、って結局はアイスクリームのことだろ〜?」
どこが違うんだよ、とロニもハロルドに言う。
「失礼ね、違うわよ。うちのはミルクも卵もふんだんに使ってて、シャーベットみたいな食感もアイスクリームと違ってて、美味しいんだから!」
うち、というのも、ハロルドはそこのパーラーでウェイトレスのバイトをしていたからだ。
流行のモダンなパーラーの女給、という事で時給も良く、女の子の間では大変な人気のバイトだったのだが、ハロルドの頭脳はこんなところでも役にたった。
1度に、正確に20人以上の注文を受け付けられるハロルドのおかげで、同時に何個かの同じニューを用意する事ができるようになると、ひとつにかかる時間が短縮できるようになる。その為、店の回転率はアップ。客も余計な時間を待たされることもなくなり、ぜひうちで働いてくれ!と店長が喜んで、本採用をしてくれたのは、採用試験のその日のことだった。見かけの華やかさと違う重労働についていけず、すぐに根をあげる少女が後を絶たなかった為に設けられた試験だったらしい。
制服が気に入って選んだバイトで褒められ、ハロルドもまんざらではないようだ。毎日、いそいそと出かけては、うちのアイスクリンは美味しい、と聞かされ続ければ、食べてみたくなるというものだ。
それでハロルドが休日の今日、買い物ついでに皆で出かけようという約束になっていた。
パーラーを覗くと、
「あ、ハロルドちゃんv」
一緒に働いている女の子たちが、めざとく見つけて、嬉しそうに手を振ってくる。
気が良く、働き者の彼女たちは休むことなく、店の中を飛び回っていた。
その姿は、可愛らしく、労働をするもの特有の凛とした、かっこよさがあった。
伸びた背筋や、清潔感を保とうと短く切った爪、張りのあるオーダーをとる声などに、プロ意識が、押し付けがましくなく、にじみ出ている。
その姿にやはり、惹かれるのだろう。
彼女たちをお目当てに通ってくる客も多い。
「あれ?お前、制服、可愛いとか言ってなかったか?」
店内のウェイトレスを(嬉しそうに目を細めて)見回した後、不思議そうにロニが言った。
女の子達が、全員、色も素材もばらばらで、違うものを着ていることに疑問を持ったのだろう。中にはワンピースを着ている者もいる。逆に他国ではそちらのがありふれていてめずらしくないが、ここではワンピースなどの服は洋物と呼ばれ、着ている人はモダンガールと呼ばれるらしい。
「着てるじゃない、ほら。」
ハロルドは言った。
「あのエプロンと、カチューシャ、可愛いじゃない?」
確かに女給たちは、揃いのフリルのついたカチューシャと、エプロンをつけている。下に揃いのワンピースでも着ていたら、まるでメイドさんのようだ。
「エプロンとカチューシャだけで、制服っていうか〜?」
「どうでも良いじゃん、そんなこと!」
つっこむロニに、横からずい、とメニューを差し出し、
「ホラ、オーダー決めなよ!オレ、クリームソーダね!」
自慢のアイスクリンを浮かべた、一番の人気メニューをすばやく選んで、カイルが言った。
結局、それに倣うようにして、全員がクリームソーダを注文する。
「しかし、ついてないね〜ジューダスも。」
エメラルドのように美しい色の液体を、一口飲んで、ナナリーが言う。
「ジューダス、甘いもの、好きだったろう?ここの、食べたかったんじゃないかね。」
そう言って、ソーダの上に浮かぶアイスクリンをスプーンですくって、口に運ぶ。
「当分はお預けってことだな。」
ロニが、自分の分があるくせに、横からナナリーのアイスクリンをすくおうとして、手をぴしゃりと叩かれる。
「なんだかんだって言って長いよね〜。大丈夫なの?ハロルド。」
カイルが言うと、あまり心配している様に見えない。
「大丈夫って言われてもね〜。私は医者じゃないので。」
ちゅる〜とストローでソーダを吸い込みながら、ハロルドが言う。
「それだけ!?」
「他になんて言やいいってのよ?」
うふふ、とリアラが笑う。
「カイル。ハロルドの言う事はそっけないけど、ちゃんと、ジューダスを心配しているんだと思うわ?」
そのリアラは、白地に淡く、芍薬と一緒に小さな草花が描かれた図柄の着物を着ている。半襟は濃いピンクで、帯は黒に花柄のものだ。リアラの茶色い髪とも相性が良く、とても可愛い。
「そうそう。」
ふふん、と笑い、ハロルドはちらりと今度は、ナナリーの方を見た。
ナナリーの着物は、濃い青地に、大胆な赤いらん菊の図柄の、鮮やかなものだ。
ナナリー本人は、こんなに華やかなものはあたしには・・とかなんとか、戸惑っていたが、着てみると、似合いすぎるくらいだ。
実は、それに似たような、柄が大胆に入ったものをハロルドも着たことがある。
色は濃い紫に花の古典柄、帯は赤の花柄を選んだ。
そんな配色にも関わらず、お洒落に見えるのが着物の良いところだ。これが洋服だと、最悪な色あわせなのだが、現に、仕事仲間には、レトロな感じで可愛い!と好評だったのだ。
だが、可愛いでしょ?と浮かれて見せに行ったハロルドに、ジューダスはいつもの嫌味っぽい口調で、ぼそりと言った。
お前が着ると、派手なだけで品がない、と。
ハロルドは自分の癖毛の端を指でひっぱる。
彼女の髪は、とても鮮やかな色で、皆が綺麗だと褒めてくれる。ハロルド自身も自慢なのだが、着る服を選ばなければならないのが難点だった。さすがにこの薔薇色の髪に、派手なピンクは着れない。目に訴えるような鮮やかな色もご法度だ。
そのハロルドは、黒と白の物千鳥の着物に、帯は赤いさくらんぼ柄のものをあわせた。半襟も赤が朱の菊模様だ。
そういえば、今朝、これを着て様子を見に行った時も、ジューダスは嫌味を言ったものだ。
今度は、地味だ、とひとこと。
「まったく、いちいちうるさいったら。」
「え?」
思わず口に出してしまったハロルドに、全員が怪訝な顔をした。
ハロルドが部屋を訪れた時、ジューダスは眠っているようだった。
動くものの気配がしない代わりに、寝息も聞こえてこない。
彼は、普段から寝息を立てるほど、深くは眠らないらしいが、それでも、ここ数日は息苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた事を思えば、数段と安らかになっているのだろう。
音をたてないように、ハロルドは、ジューダスの横たわっている布団に近づく。
そっと覗き込めば、枕の上に少しだけ首を傾げて頭を乗せ、頬の上に影を落とす長いまつげは閉じられている。
ずっと青白かった顔色はそのままだが、苦しそうではない。
ほっ、とハロルドは安堵の溜息をついた。
ぺたん、と浮かせていたお尻を畳につけると、赤とベージュの鮮やかな寝巻きの襟元から、ジューダスの、薄いが締まった白い胸元が見えた。
寝ている間に乱れたらしい。
そっと手を伸ばし、ひっぱって直してやる。
そして、汗はかいてないようだが、起きたら、この長襦袢を着替えさせた方が良いかな、と思った。
ジューダスが、病に倒れたのは、5日ほど前の事だった。
皆の稼ぎで、お金も溜まり、そろそろ出て行こうか、と話していた矢先だった。
それは、高熱を伴うウィルスによるもので、寒い季節に、あちらの町とこちらの町を行き来する商人の護衛を引き受けていたジューダスは、どこかから菌を貰ってきてしまったらしい。
しつこい勢力を存分に発揮したそれのおかげで、ジューダスは初めの3日間、ほとんど起き上がれない状態を続けた。意識を取り戻しても、すぐにことんと眠りについてしまう。そんな事を繰り返し、熱が下がり始めたのは、つい昨日のことだ。
初め、浴衣を寝巻きにしていたのだが、宿用のノリの硬さが気になる、と言ってジューダスが嫌がった。手を挙げてもなんだか、ぱりぱりするのが気に入らないと。
それで、宿の主人が取り出してきたのが・・・。着物の下に着る、女用の長襦袢だった。
これなら沢山あるから、着替えるのにも困らないだろう、という主人の見せてくれたそれは、すべて、あまりにも色鮮やかで、着物ですら負けない。
透けそうなほどに薄く柔らかいから、昔の女性はこれだけを寝巻き代わりに身につけていたらしい。
こんなに沢山?と不思議そうに、そしてあまりの色鮮やかな柄に目を奪われながら女の子たちが言うと、バツの悪そうな顔で、宿屋の主人が言った。
これは、昔、うちが女郎屋だったときに、女郎さんたちが着ていたんだ、と。
所謂、花を売る女性たちが身につけていたものだから、女のお客さんに貸すのは気が引ける。だが、綺麗だし捨てるのも忍びないし、と取っておいたらしい。
浴衣の代わりに、と差し出されたそれに、ジューダスは、眉をあげた。
それがなんであるか、説明されなくても、一瞬で気がついたらしい。
だが、それでも文句は言わなかった。
硬い浴衣よりはマシだと思ったのかもしれないし、文句を言うほどの元気もなかったのかもしれない。
以来、ジューダスは、女物の長襦袢を着て、病の床に臥していた。
ジューダスの安定している息遣いを確かめ、ハロルドはふ、と巾着の中のものを気にした。
折角、持ってきたが、起こすわけにもいかない。小型の発砲スチロールの中に、ドライアイスを入れて貰っているので、まだ溶けないだろうが・・・ジューダスが長く眠っているようなら、どうしたものか。
まだ買い物を続ける、という一同に、私はやることあるのよ〜と言い、ひとり、ハロルドは宿へと戻ってきていた。
巾着の中に、こっそりと頼んでおいた、お持ち帰り用のアイスクリンを入れて。
「どうしよっかな〜・・・。」
ひとりごとをつぶやきながら、ハロルドはふと、この部屋が冷えているのが気になった。
アイスクリンの事を考えたら、冷えているほうが良いが、それでも暖かい部屋の方がジューダスの具合には良い。炭に火をつけようかどうか、迷っていると・・・。
「・・・・・おまえか・・・。」
かすれた声がした。
「あ。」
ジューダスが目を開けて、こちらを見ている。
「ごめん、起こしちゃった?」
気配に敏感な彼のことだ、ハロルドの存在がうるさかったのかもしれない。
「いや・・・。今日は大分、気分が良い・・・。」
それで彼は黙ってしまう。
後まで説明がないところを見ると、話すのがおっくうなのだろう。それで察せというように、目でハロルドを見る。
そして、言った。
「・・・・・朝と違う。」
なにが?とはハロルドは言わなかった。
もちろん、着物のことだと分かっている。
ジューダスの部屋に来る前、ハロルドは1度、自分の部屋に立ち寄っている。
そこで、着物を変えた。
今着ているのは、スモークピンクに、あずき色で縦に細い線が何本か入れられているものだ。さらに、その上に同じ色で薔薇の花が描かれている。帯はこげ茶色に白い線画の菊模様にした。着物の襟元には、半襟とお揃いのアンティークレースが施されてあった。
このところ、こういった和洋折衷的な着方が流行りだと、仕事仲間に教えられ、ハロルドが自分で縫い付けたものだ。
「着物には、ずいぶんと愛着があるようだな・・・。」
病に臥していようとジューダスはジューダスだ。
いつものように、口元に嫌味ともとれる薄い笑いを浮かべ、乱れた襟元を直しながら、そう言った。
「ま、ね。他では着れないし〜。確かに気に入ってるわよ?それに・・・。」
「・・・似合ってる。」
「・・・・・え?」
ハロルドは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
聞き返そうとしたが、それより先に、ジューダスの言葉が耳に入る。
「・・喉が渇いた・・・。」
「あ。」
後ろ手に、ハロルドは巾着を引き寄せる。
「これ、持って帰って来た。食べる?」
「・・・なんだ?」
「アイスクリン。冷たくって、美味しいわよ?」
「・・・ああ。」
それでハロルドは、巾着からお土産用パッケージのアイスクリンを出して、ジューダスに手渡す。
ジューダスはそれを受け取ると、蓋を開ける前に咳をした。ハロルドにかからないように、向こうを向く。それを見て、冷やしては大変だと、ハロルドは近くに置いてあった長羽織を手に取る。ハロルドが前に着ていた着物のような、鮮やかな紫色の羽織だった。
肩にかけてやると、ジューダスはいつものように、別段礼も言わずに、羽織の襟元をひっぱる。
赤とベージュの長襦袢と、紫の羽織の色合いが美しい。羽織の下の、胸元からは赤い南天の模様が覗いている。
ジューダスが、スプーンですくったアイスクリンを口に含む。
しばらく臥せっていた為に頬はこけ、もともと白かった肌は透き通るようだ。
もしも。
ハロルドは、アイスクリンを嚥下するときに上下する、ジューダスの白い喉元を見ていた。
もしも、こんな夢のように美しい遊女が実在したら、どれだけの数の男が、狂わされただろう。
・・・・なに考えてるんだか。
ハロルドは自分で自分の考えに、失笑する。
こいつは、男だ。
いくら綺麗でも、男なのだ。
「・・・ハロルド。」
「え?」
「・・・・・。」
呼ばれ、ハロルドが聞き返すと、ジューダスは心底、呆れたような顔をした。
「なに?」
「・・・聞いてなかったのか?」
「・・・なにを?」
「・・・近づくな、と言ったんだ。」
「・・・・・。」
ハロルドは黙って、目の前の男を見返す。
別に体が触れ合うほどに近いわけではないその距離は、けれど、首を伸ばせば、自然に見詰め合ってしまうような間しかない。
まじまじと見返すハロルドに、ジューダスは細い眉を顰め、あきらかにそうと分かる様な嫌そうな表情を浮かべている。
「・・・どうして?」
皮肉でも嫌味でもからかいの言葉でもなく、そう自分の唇が言葉を紡ぐのを、ハロルドは自分でも遠くから聞いた。まるで、ひとりでに出てきてしまったようだった。
「・・・・・。」
ジューダスはそれには答えず、顔を背ける。
そして自ら体を引いた。
「ねえ・・・どうして?」
今度はひとりでにではなく、自分の意思で、そう言った。
そして、ジューダスがわざわざ置いた距離を埋めるようにして、体を近づける。
「・・・前にも言っただろうが。」
さらに身をよじり、嫌そうにしながら、ジューダスは体をハロルドから遠ざける。
「聞いたけど。」
「・・・だったら、寄るな。」
「・・・・・。」
ハロルドはジューダスに顔を近づける。
顰められる眉の下、アメシス色の瞳は、熱のためか、いつもよりも妙に潤み、透明に水の下に沈む宝石のごとく、輝いていた。
「・・・女じゃあるまいし、そんな事、気にするの?」
「・・・・・。」
「・・・私は気にしないもの。・・・それで良いじゃない?」
ハロルドは、ジューダスの右手の上に、自分の左手を重ねた。
そのまま、半身を起こした体の上に、自分の体を圧し掛かるようにして乗せる。
「熱の汗で、汚れたくらい・・・。」
逃がれられない体制に持ち込み、ハロルドは、すでに上半身を倒しかけているジューダスの顔を覗き込む。
「誰にでもある事じゃない?」
ハロルドは、ジューダスを見下ろす。
ハロルドが、三日月のような笑みを口元に浮かべると、ジューダスは一瞬、その視線から逃れるようにして目を閉じた。
勝った、とそれを見たハロルドは思った。
優劣の問題ではないが、自分の方が優勢だ、と。
そうしてほくそ笑んだその時、背に、熱い手のひらを感じた。
前に倒れ気味だった体制が、いきなり、変わる。
「・・・そういう意味じゃない。」
「・・・・・。」
気がつけば、体制は逆転していた。
先ほどまで見下ろしていたジューダスの顔が、今は数センチ、自分の顔の上にある。
背中には、あいかわらず、熱い手のひらの感触。
抗議の言葉は別段、心に浮かばなかった。
そのまま、なにかに操られるかのように、ハロルドは目を閉じる。
背を引き寄せる左腕の感覚と、唇に右手の冷たい人差し指があてがわれた感覚。
そっと、顔が近づく気配がする。
そうしなかったが、たぶん、目を開ければ彼の長いまつげが閉じられているのが見れただろう。
キスとは言えないそれは、お互いの、初めての、意思表示だった。
買い物の帰りに、もう1度、ハロルドのバイト先でお茶を飲んだ後、宿へと戻ってきた。
寝込んでいるジューダスの様子を見に、部屋へと入ろうとしたナナリーは、しかし、飛び込んできた光景に思わず、息を飲んだ。
・・・・見なかったことにしなければいけない。
そう思い、そっと部屋の襖を閉める。
先ほど、ハロルドのバイト仲間に、ジューダスという人に会ってみたかった、と言われたばかりだった。
理由を聞けば、彼女は含み笑いをして、だって、と言う。
だって、ハロルドちゃんったら、その人の話ばっかりするんだもん。
でもあれは、絶対に自分では気がついてないわよ、という彼女の言葉にナナリーも賛成だった。つい今までは。
これで、ハロルドも自覚をしただろう。
そう思い、ナナリーも含み笑いを浮かべる。
足音をさせない様に、部屋を離れる時、しばらくは誰も近づかないようにする為には、なんて言って皆に説明しようか、と考えていた。
いつの間にか眠っていたようだ。
やけに喉が渇き、体は重く、布団の中に沈んでしまっているかのように、動くのがおっくうだ。
まだ、本調子でないのだろう。
ぼんやりと目を開け、薄暗い中、木製の天井を眺めてから、しびれている左腕を引き寄せようとして・・・。
ジューダスはそれに気がついた。
左腕の上で、ハロルドが眠っている。
薔薇色の頬と、薔薇色の髪が視界を覆う。
目の前にある唇はほんのりと赤く、半開きの口元からは静かな寝息が漏れていた。
あどけなく眠るその顔は、長いまつげが落とす影が色気を感じさせるが、それさえなければ子供のようだ。
ハロルドはしがみつくようにして、体を丸め、ジューダスの顎の辺りにおでこをくっつけていた。
着物はしわくちゃだし、なんだか、首を傾げた角度は痛そうだ。
思わず口元に笑みが浮かび、ジューダスは、左腕を取り戻そうとして・・・やめた。
動かせば、ハロルドは起きてしまうに違いない。
・・・ならばこのまま、この重さを楽しむのも悪くない。
そう考えた自分に、ジューダスは、やはり自分はどこか具合が悪いらしい、と思った。
fin
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