ハロルドは昔から他人に関心がなかった。
正確には、他人からの自分の評価に興味がなかったから、他人に関心がなかったのだが。
あるのは、対する人が、自分にとって面白いか面白くないかそれだけだった。
類似するものすらないほどの稀なる才能が、確固たる存在感を彼女に齎していたからだ。
彼女と似ているものなど、この世にはない。
いうなれば、ハロルドは太陽だ。
地上の人間が、凍えるなか羨望のまなざしで見上げても、暑さのなか恨みがましく見つめても、太陽は一向に動じることなく天にある。
そして、凡人と彼女の間には、地上と太陽との差ほどの距離がある。
「あんたは・・・月、ね。」
ひとつだけ灯したままの、ランプの灯で照らされた室内の中に、ハロルドの声はまるでひとりごとのように静かに響いた。
「・・・何の事だ?」
だが、それには答える声があった。
昼よりも夜にこそ似つかわしい深みのある声だ。
ハロルドは、その声を、甘い、と思う。
「・・・なんでもないわ。」
ランプの光に照らされて淡い色を放つシーツを、裸の胸元まで手繰り寄せ、ハロルドはそのまま身をかがめた。
ジューダスは一瞬だけ眉を顰めたようだったが、結局は何も言わず、降りてくるその唇を静かに受けた。
普段から愛想もなく冷たい印象のこの男が、自分に対して影響力を持っている、と気がついたのはいつの事だったろう。
正確にいつ、というのは把握していない。
いつ、というよりもいつの間にか、というのが正しい。
だが、思い出すのは、ある朝の光景だった。
その時は野営で、ハロルドは夜中に目を覚ました。
そのついでに見張り番をしていたロニと交代をする事にし、その後は、ひとりで起きていた。
森の中は静かで、時折、なにかの生き物の生臭い匂いが風で運ばれてきた。
どこか遠くで、ふくろうの鳴き声がした。
焚き火のはぜる音が小さいながらも鋭くして、巻き上がる火の粉を見ながら、人はひとりきりでいる時よりも、誰かといるのに話すことができない時の方が、より一層ひとりでいる事を感じるものだ、と思っていた。
明け方も近くなった頃、いつの間にかうつらうつらしていたハロルドは、ふわり、となにか暖かいものに包まった気がした。
けれどその時は眠くって、見張りの役も忘れていて、重いまぶたを開けようとしなかった。
そして、ふと目を覚まし、いけない!と小声で叫んで身を起こして辺りを見たが、全員がまだ寝ており、何事もなく過ごせた事に、ほっと胸を撫で下ろした。
その時の、ざわりとした感覚。
いっぺんに不安が、波のように押し寄せてきて、ハロルドは落ち着きをなくし、辺りをきょろきょろと見回した。
何を探しているのか、自覚もなしに、必死に探し物をしていたようなものだ。
立ち上がりかけたその時、ハロルドはその探し物を見つけた。
「ああ、ジューダス。」
その時の、求めていた解答を得た自分の声に、安堵の色が濃く含まれていた事を、ハロルドは今でも覚えている。
「・・・起きたのか?」
ジューダスは、背の高くなった草を掻き分けるようにして近づいてきた。
「うん。でも皆はまだよ。」
小声で返事をすると、ジューダスは無言で頷いた。
その姿がバランスが取れてなかった。
白い仮面を被った頭だけが大きく見えている。
ジューダスはマントをしていなかった。
ふと、ハロルドが足元を見ると、マントはそこに落ちていた。
「どこ行ってたの?」
さりげなく、かがみながら、さっきまで自分が包まっていたマントに手をのばす。
「この先の様子を見にな。まだ、しばらく森は続きそうだ。」
「そう。」
マントを手に取り、立ち上がり、なるべくそっけなく聞こえる事を心がけて言う。
「これ、ありがと。」
「・・・・ああ。」
この男には、あからさまな礼は禁物だ。
「じゃあ私、顔、洗ってこようっと♪」
ジューダスに背を向け、近くの川の方に、歩き出す。
「ハロルド。」
「なに?」
「見張りをするなら寝るな。意味がないだろう。」
冷たい嫌味を、はいはい、とハロルドは聞き流す。
いつだってこういう男だ。
人に優しく接した後、まるでそれを後悔するかのように冷たい仕打ちにでる。
まるで隠している内部の優しさに触れられるのを恐れているかのようだ。
この男は、体温を感じさせない外見とは裏腹に、本当は暖かい人間だということは、とっくに気がついていた。
それは例えるなら、冷たい炎のようだ。
あの時、なによりもハロルド自身の心の動揺が大きかった。
目を覚ました時、いつもジューダスの姿を無意識に探していた事と、見つからなかった時に大きな不安にかられる事を、その時、知った。
舌をからめ、キスを濃厚なものへと変えていく。
しばらく堪能した後、唇をジューダスの、仮面をとった素顔のこめかみに落とした。
そのまま耳、首筋へと唇と移し、その柔らかい皮膚の感触を確かめていくと、ジューダスは諦めたように大きく溜息をついた。
そしてハロルドの肩に手を回し、体の位置を反転させた。
ぱふん、と軽い音をさせ、ハロルドの体がベッドに沈む。
見上げるとジューダスは、何を考えているのか分からないいつもの無表情で、ハロルドを見下ろしている。
こういう時のこの瞳にさらされると必ず胸がざわめく。
本当は望まれていない事を不安に思う。
あの朝、森で彼の姿を探した時のように。
私は迷子のようなものだ。
いつでも手を伸ばし、この髪を、この肩を探している。
ハロルドの大きな紫色の瞳が、不安そうに揺れているのを見て、ジューダスはハロルドの髪に指を差し入れ、今度は自分から唇を重ねた。
その時は意外に早くやってきた。
とは言うものの、思いついたらすぐに結論を出せるハロルドの性質にしてみれば、かなりの時間を要した。
なかなかその機会がなかった事と、ハロルド自身が・・・思いがけない事に・・・迷っていたからだ。
それこそ、結論だけなら、あの朝に、とっくに出ている。
けれど、結果が伴わない結論など、単なる空想だ。
だから、確かめてみたかった。
これが、本当に、そういう類のものなのか、を。
薄い夜着だけの格好で、部屋を訪ねた。
ノックをしてしばらくした後、乱暴に部屋の扉を開け、顔を出したジューダスは、そこにいるのがハロルドだと知って、一瞬、眉を顰めた。
たぶん、彼の予想していた人物とは違う人間がいたからだろう。
「・・・・・どうした?」
おざなり、とでも言うような口調で面倒そうにジューダスは聞いた。
入れてよ、と言うハロルドに、明らかに不信がり、なかなかそれ以上、扉を大きく開いてはくれなかった。その時のハロルドは、予想の範疇だった相手の態度に、どうすれば効果的かを考えていた。
予想をしていた割には、手を打っておかなかった自分を、自分自身でめずらしい、と思った。
だが、こういうものは、その場の駆け引きだ。
とりあえず、扉の中に入り込む事を先決に考えなければいけない。
その後の事は、それから考えれば良い。
では、どうやって、あの扉をこれ以上、開かせる。
いきなり甘えるもの、泣きつくのもダメだ。なんだか気味が悪い。
女の価値を引き合いに出したところで、この男に通用するとは思えない。
あれこれと画策するが、どれも決定打にかける気がした。
「・・・・・。」
ハロルドは答える為の言葉を探して、めずらしく無言のまま、宿の廊下に立ち尽くしていた。
何分そうしていただろうか。
初めて見る考えあぐねるハロルドの姿にジューダスもなにも言わず、やがて廊下の向こうから酔っ払いの声が近づいてきて、夜着のままのハロルドは自分の姿に気がついて、しまった、と思った。
「あ。」
その時、ジューダスがハロルドの手を引いた。
バタン、と扉の閉まる音が、後ろでする。
あれほど頑なに思えた扉の中に、今、自分は入ったのだと、ハロルドは知った。
「・・それでどうした?」
ジューダスが言った。
その声には明らかにいらだちが含まれている。
ハロルドは顔をあげた。
ジューダスの顔をまっすぐに見つめて、口を開く。
その時の声は迷いがなく、なんの曇りも感じさせない、鐘の音のようだった。
「女がこんな格好で、男の部屋を訪ねてきたのに、他に理由があると思う?」
「・・・・・。」
ハロルドの目には、一瞬、ジューダスが怯んだように見えた。
そして、眉を顰め、
「・・・・・・・お前が、か?」
と言った。
どういう意味よ?と詰め寄ったが、ジューダスはその後は、黙ったままだった。
その時ハロルドは、凝り固まった怒りにも似た感情がわきあがってくるのを感じた。
それはたぶん、敗北感が一番近かったと思う。
計算どおりに上手く事が運ばなかったことへの。
人間が相手である場合、こういう不測の事態はいつだって、やってくる。
明確な答えを導き出せないという事はこんなにもイラつくものなのか、と思った。
そして、違う、私に負けなどありえない。結論を知るために来たんだ。と、今だに渦を巻いている自分の内面に言い聞かせ、平素の自分を取り戻そうとした。
黙ったままで俯き加減でいたハロルドの肩にジューダスの右手がかかった。
そのまま、利き手の左手がハロルドの顎にかかり、上を向かされ、瞳を覗き込まれる。
今度は、見下ろしてきたジューダスの瞳が、曇ってなかった。
「・・・・・確かめただけだ。」
ジューダスはそう言い、その言葉を聞いた途端、ハロルドは皮肉な事に、生まれて始めての敗北を実感した。
体のラインをなぞられると、思わず、声が漏れる。
時々、自分のものにも関らず、思いもかけない反応を示す体に始めのうちは戸惑ったものだ。
今は、それそのものも、楽しめる。
薄く目を開き、ぼんやりと浮かぶ天井をハロルドは見た。
剣を振るうには細すぎる手だと、思っていた。
始めに見た時は、あれでは相手に致命傷を与えるのは無理だ、と勝手に決めつけていた。
けれど、これはまぎれもなく男の手だ。
自分のものとは、固さも、節の長さも違いすぎる。
剣を握った時、柄に当たる箇所は、他の部分よりも固くなっていて、その手のひらで撫でられると、肌が粟立った。
ハロルドは必死になって手を伸ばす。
黒い髪に触れ、硬い肩の感触を得ようとする。
まるで今、掴まらないとなくなってしまう、とでもいうように。
「・・・ある?」
「なんだ?」
ハロルドのかすれた声をよく聞こうと、ジューダスはその口元に耳を寄せた。
「私を・・・恨んだこと、あるって・・・言ったのよ。」
乱れた息の下からのハロルドの問いかけを
「・・・・・。」
ジューダスは目を細めて聞き流し、そして、その一瞬後には、全ての感情も押し殺した。
かの雪の国の王城での一夜が、全てを一変させた。
その夜、ハロルドは図書館にでかけていた。
眠れなかったというのもあるし、自分のいなくなった後の世界がどのように展開したのかにも、興味があった。
それらを書物で、一挙に調べようと、そう思っていた。
鼻歌まじりで。無邪気に。その先にあるものに、気がつきもせずに。
科学の分野に関しては期待はずれだった感はぬぐえなかったが、それでもまあまあ、面白かった。
気を取り直し、その隣の棚へと取り掛かると、そこが歴史分野だった。
何十冊とあるその歴史書はほとんどが天地戦争時代と、神の目の争乱と呼ばれる18年前の事件についてのもので、残りがファンダリア国の成り立ちに分かれていた。
特に、あまりに古く一部を想像でカバーしなければならない天地戦争のものとは違い、18年前の争乱の物は数も多かった。
そして、それらを読んでいるうちに、ハロルドは、当然、到達するべき答えに行き当たった。
18年前の、その時。
後に「裏切り者」と呼ばれることとなる、その少年の正体を。
書物に書かれていることなど、他人の感情が入り込む隙があるだけ、真実からはずれがあるものだ。
それでも、ハロルドは、関連書物の中で書かれてきた、事実とされる文章だけを繋ぎ合わせ・・・そして、どこにも書かれていない、その真実を推察するに至った。
・・・至ってしまった。
「何?ミクトランって復活したの?懲りないやつねぇ。」
あれは、それこそ、18年前の外殻の上だった。
カイルたちの話を聞いて、そう言った。
その意味も知らずに。
あの時のように無邪気に呆れることなど、もう、できない。
「兄貴が命を賭して討ったはずのミクトランなのに・・・。」
けれど、生き延びていた。
死なずに、精神だけで。
・・・・・ソーディアン・ベルセリオスの中で。
「兄さんが、あれを使ってたのに・・・それなのに、あいつは・・・。」
ハロルドはそこまで言葉を切る。
それは自分の都合だ。
本当の罪があるなら、今、問われるのは、自分だろう。
・・・ソーディアン・ベルセリオスは、ハロルド自身だ。
「・・・私・・。私、があんたを・・・。」
「もう黙れ。」
ジューダスはハロルドの顔をそっと両手で包み込み、その目を覗き込んだ。
瞬きをするとその拍子に、ハロルドの瞳から、涙がこぼれる。
ジューダスはその涙を舌ですくい取り、細い背を力をこめて、抱いた。
ソーディアン・ベルセリオスの中に隠れていたミクトランが、全てを狂わせた。
ヒューゴ・ジルクリストの人生と、その妻と、娘と、息子を。
この、リオン・マグナスを。
「あ・・・。」
感覚に思考が流されそうになる。
そうしてしまえば、どんなに楽だろう。
何も知らず、何も考えず、この背に縋れたら。
だが、ハロルドの思考は結局は流されることなく、本来の彼女の中心で、根を張り苛み続ける。
昔から、データ採取は趣味だった。
その私が、体の感覚全てで得た、初めてで唯一のデータが、この男だった。
目も耳も口も、体の全てを使い、この男の手を指を髪を肩を、刻み込むようにして、貪るようにして採取してきた。
データ以外でも、こんな風に得てきたものなの、ひとつもない。
ソーディアンであった私自身は、コアクリスタルの中でどうしていたのだろう?
あの戦いで傷がついたのだが・・・死んだのか、眠っていたのか、それとも、ミクトランと共謀したのか。
そのどれだったとしても、この男を知った今となっては・・・罪は深すぎる。
「どうして・・・あんた、あの時に・・・。」
言っても無駄なことだと知っていても聞かずにおられない。
カーレルが死ななければ―それは自分の都合だ―ソーディアン・ベルセリオスで、ミクトランを仕留める事もなく、後の復活もなかった。
そうすれば、ヒューゴは操られることもなく、リオン・マグナスの悲劇も・・なかったことになる。
もしもあの時。
カーレルを助けるように私をそそのかしていたなら、この男の幸福も・・・きっと手に入ったのだ。
あのミクトランが、操っている相手の息子など大事にする訳がない。
きっと、使い捨ての道具のように扱っただろう。
この男を、幼い時から何度も何度も、わざと傷つけ続けただろう。
それくらいは容易に想像がつく。
ふい、とジューダスが身を起こした。
突然なくなった重みに不安を覚え、ハロルドがジューダスの顔を確認するように見ると、紫紺の瞳には悲しみが浮かんでいた。
それはハロルドに対して、だろうか。
それとも彼自身に対して、だろうか。
探るように瞳を覗き込むハロルドに、ジューダスは何も言わず、そして、その紫の瞳を、ハロルドが見ている前で、閉じた。
「あ・・っ。」
ハロルドはジューダスの肩に手を伸ばす。
そのまま爪を立てて縋りつく。
この瞬間だけはそれも叶う。
許されたい、けれど許されない。
許しを請うことも許されない。
問う事しかできない。
私を恨んでいるか、と。でも、その先の答えは知りたくない。
知らないふりもできない。
諦めることもできない。
それをするには・・・この男の存在が、私の中で大きすぎる。
この腕を、この肩を、今更失うには・・・遅すぎる。
あの時、森の中で気がつかなければ良かった。
夜着のまま出かけたりしなければ、こんな風にはならなかった。
けれど、どの道を選んでも、結局は迷子になり、この場所に戻ってきてしまう。
涙で歪んだその先で、ジューダスの表情も歪んで見えた。
果たして、それは真実、そのままの表情だったのか、それとも、涙が歪ませた幻想なのか、その時のハロルドには、分からなかった。
体を丸め、子供のようにハロルドは眠る。
体を離すと、すぐにくったりと眠りについたハロルドに、少し無理をしすぎたか、とジューダスはその顔を覗き込んだ。
その頬には、くっきりと涙の後が残っている。
我が儘で、破天荒で、めちゃくちゃな女だが、誰よりも大人で聡いが故に・・・不器用だ。
狡く考えれば良い。
そんな事は自分とは関係ない、と割り切ってしまえば、そうすれば苦しまずに済む。
でも、それができない程、だんだんと彼女が自分に溺れていくのに、ジューダスは気がついていた。
「恨んでなど、いない。」
眠る相手に話しかけても、聞いてはいない。
「今更、誰も恨まない。」
ハロルドの頭を、そっと胸に抱きこんで目を閉じる。
明日、朝、目を覚ました時、彼女はまだ、自分の腕の中にいるだろうか。
ハロルドの知性と好奇心に輝く大きな瞳が目の裏に浮かぶ。
まるで、じわりじわりと真綿で首を絞めるように。
もつれあって身動きが取れないほどに呪縛をかけあい、いずれはお互いがいなくなる事に耐えられなくなるだろう。
一緒にいることに苦しんで、何もかも血で染めるように。
けれど、他の道を選んでも、きっと道に迷うだけだ。
全て、自分と彼女のなすようにしか道はない。
それがこの先、何回、胸を掻き毟るような結果を招こうとも。
それでも良い、とさえ思う。
溺れているのは、自分も同じだ。
ジューダスは思った。
fin
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