彼女の名前をそう呼ぶ者が誰もいなかった頃、その部屋は、ハロルドの世界の中心だった。

 ある日、その部屋の扉が開いていたことが全ての始まりだった。
どの部屋の扉も、自分ひとりでは開けることもできないほど重く、部屋と部屋の間を移動したいのなら、開けて貰うか、または、開けっ放しになっている時しかチャンスはなかった頃だ。
その部屋は、いつも扉が閉まっていて、まるで、自分が来るのを拒んでいるかのようで、それがハロルドには歯がゆかった。
なぜならば、そこには、自分の好奇心を満たすだけのものがちゃんとある事を、その時からハロルドは知っていたからだ。
だが、その事をきちんと伝える術をその頃のハロルドは持っていず、いつかひとりで開けられる日がくるまでは、到底待てそうにない。
そんな事は、まったくの時間のロスだ、と思い、なにか良い方法はないか、と小さい頭を悩ませていた時、偶然にもその重要な扉が開いていたのを見つけたのだ。
ハロルドは、大人たちに見つかって連れ戻されないように、こっそりと部屋に入り、そして、それを見つけた。
ハロルドが夜になると、眠る為に入れられる、落下防止の為の柵のついたベッドよりも大きな机の上に、広げられた大きな紙。
そこには、色々な記号と、この部屋の本の中でよく見る文字がびっしりと書きこまれ、図鑑の中の虫のような格好をした機械に説明をつけていた。
夢中で覗き込んでいる幼子に、声がけられたのはその時だ。
「なにをしているんだ?そんなところで。」
思えば、いきなり頭ごなしに怒りもせず、良い大人だったのだな、と思う。
ハロルドは大きな瞳を上に向け、乗っていた机の上から、その大人を見上げる。
大人は、ぽんとハロルドの頭を一度なでると、幼子の体を軽そうに抱き上げ、机の、しいてはその上の紙の上からどけようとした。
「私は、エネルギー源にレンズを使ったらよいとおもいます。」
その声を聞き、大人は、ハロルドの体を床に下ろそうとしていた手を止める。
「レンズ、か?」
「はい。」
「しかし、レンズは・・・。」
「まだ謎も多くって、心配もありますが、この機械を動かすほどのエネルギーを持っているものは、他にないと思います。」
「確かにレンズなら、申し分ないほどのエネルギーを補給できるが。」
大人はハロルドを抱えたまま、しばらく、その顔を見つめる。
「なるほど、人類における第一歩というものは、必ず、不測の事態を抱いて先に進むという矛盾の上になり成り立っている。冒険も必要かもしれないな。」
自分の話を聞いてもらえた、そう思い、ハロルドは嬉しくなる。
「お前は、レンズをどこで知った?」
「ご本で。」
それは、前に自分を抱き上げているこの大人が、読んでいたものだ。
マネをして捲って見ると、大部分は、まだハロルドの理解できない単語が羅列されていたが、それでもとても面白く感じた。
彗星の残骸をレンズと呼ぶことも、それが未だに解明しきれていない、未知なる可能性を秘めたエネルギーであることも、そこで初めて知った。
そうハロルドが説明すると、
「宜しい。」
大人は言い、ハロルドを再び、机の上に座らせるようにして、下ろした。
「もしや、カーレルが、と期待していたのだが、どうやらお前の方にこそ才能があるようだ。」
そう、嬉しそうにハロルドの頭を撫でる。
自分の宝であることと、人類の宝でもあること、両方に誇りを持っている事がその大きな手のひらから伝わってきた。
「宜しい、お前は好きなだけ、ここで遊ぶが良い。お前にだけはそれを許す。その代わり、他の誰もいれてはいけないよ?大事な研究資料ばかりだ。うっかり汚されてもいけないし、また、お前が汚してもいけない、わかってるね?」
「はい、パパ。」
見上げる先で、ハロルドの頭を撫でている姿はとても嬉しそうだった。
この人が嬉しそうにしているのを見ると、自分も嬉しい。
この人を愛している、とハロルドは思う。
愛していて当然の人だから、愛していると。
だが、同時に、そういう風に考えるという事が、後々悲しくなるのだろう、という事も、漠然と感じてもした。
ハロルドが3歳の時の話だ。

 

 

 

 


 

piece

 

 

 

 

 

 遠くごろごろと鳴る、垂れ下がった緞帳のような暗い雲を眺め、ハロルドは待っている。
空はまだ夕暮れ時だというのに、一足飛びに夜が来たかのようだ。
こうして見ていると、グロテスクよね。
と、厚みのある雲を見上げ、光る前に、窓から離れる。
雷は苦手だった。

 もっとも、仕組みは分かっているし、危険は危険に違いないが、それほど怖いものではないと知ってはいる。
無知で怖がるのはみっともない。
だから、逆を言えば、仕組みを知っているからこそ、開き直って怖がっても良いという事だ。
大きな音に驚かされるのが嫌、というのだけでも、立派に嫌いな理由になるし。
「・・・仕方ないじゃないの。人間、ひとつやふたつ、苦手なものがあって、なにが悪いのよ!!」
誰もいない、しん・・・とした部屋で、その声は、大きく響いた。

 ハロルドは、そろそろかな、と壁に掛かっている時計を見つめる。
それは、古く貴重な本が陳列された背の高い本棚に阻まれて、見えなくても時が分かるように、決まった時間になると鐘を鳴らす。
あと5分もしないうちに、それは5回、埃と紙とインクのにおいを漂わせている、この図書館の中に鐘を響かせるだろう。


 雷雲が接近している夕暮れ時、ハロルドは、待っていた。
たぶん。きっと。
彼は来る。
雷が鳴り始めたから。それを私が苦手としている事を、知っているから。

 「そういうと思ってた。」「それを選ぶと思ってた。」・・・・・「来ると思ってた。」
それが「ある」か「ない」かの行動だとするならば、「ない」よね。とハロルドは思う。
「思っていた」というのは、結果論の言葉だ。
たとえ、本当にそう思ってたとしても、そんなものは結果が出てからあとづけしたのではないとは、証明できない。
証明できないなら「ある」といえない。
要は気分の問題だ。
「思っていた。」という要素を組み入れることで、相手をより深く理解していると、相手に信じさせたく、自分はそれで納得したいのだろう。
なら今、「来ると思っている。」というこの状況も後になって。

 「証明のできない、「来ると思ってた」になってしまう訳、ね。」

 そんな事はどっちでも良い、と言ってしまえばそれまでだけど〜。
とハロルドは思った。
けれどハロルドは、自分はどこかで、やっぱり信じていると思う。
きっと、来る。

 ハロルドは目を閉じて、宿からここまでの距離と道筋を思い浮かべる。

 今、きっと宿から直線の道を歩いている。ここで1分30秒。
そして、角を左に曲がり。
身長に見合わないほどに足が長い。
その歩幅を考えると、角から図書館の入り口までは、3分。
重い木の扉を開け、薄い絨毯の階段を上り、ここまで、1分。
さあ、扉が開く音。



 キィ・・・。



 「何をしている・・・。」
外見でイメージするよりも、低めの声。
そして、いつも不機嫌を装っているような声だ。
雷雲のおかげで、日が暮れたように暗い部屋の中でも、自分を見つけたのだろう。
挨拶も確認もなく、語りかけてくる。
目をつぶったまま動かないハロルドに、眠っているのか?と小さな声で言いながら、そっと歩みよってくる気配がした。
眠っているなら、起こしてしまわないように、と思っているのだろう。
その不器用で飾り気のない優しさに、ハロルドの口元が緩んだ。

 「・・・あんたが来るところを、イメージしてたの。」
目をつぶったまま答えると、声は、さらに不機嫌そうに、そうか、と言った。
突然、答えが返ってきても驚いた風もない。
案外、眠っていないと気がついていたのかもしれない。
「・・・雷が鳴り始めてるぞ?」
「知ってる。」
「なら、何故、さっさと帰ってこない。」
呆れたのか、溜息をつき、声の主が、ハロルドの正面に立った気配がした。
ハロルドは目を開け、机の向こうからこちらを見ている顔を見返す。

 
 その時、とうとう窓の外に光が走り、一瞬遅れて、鋭い空を切り裂くような音がした。
雷はあたりを一面、明るく照らすと、すぐに雲の中に戻ったようだ。
窓の外からの光は、図書館の中にも入り込み、目の前に立つ男の姿を濃く浮かび上がらせた。
強い光の世界と、次に訪れる静寂は幻想的なイメージをかもし出す。


 それでかもしれない。
さっきまで読んでいた古い伝記を、ハロルドは思い出した。
読み物としては面白いが、それが実際に言い伝えられていたとなると、人間の考える事というのは奇妙だ、と思った。
その手の伝記には、元になった教訓があることが多い。
一体、何を教えたくて、あんなモンスターを創造したのだろうか。
もっとも、私の時代にはすでに言い伝えられていたモンスターだったから、うんと起源は古いはず。

 荒れた天候の、暗い空を背にした黒いマント姿は、その話を連想させる。
歴史上、もっとも美しく、もっとも妖艶と言われる、想像上のモンスター。
若い女の生き血を吸い、夜な夜な、彼女を誘惑しに現れる。


 綺麗だわ。とハロルドは思う。
暗い部屋に浮かび上がる白い面は、その仮面の下から覗ける部分だけでも、完璧であるという事が分かる。
それを脱げば、現れるのは絶世の美貌。
どんな画家でも表現しきれない、天然の、完成品。
いっそ、神々しくさえある。
細いながらも贅肉の一切ない、薄い筋肉で覆われた体は均整が取れ、小柄な体躯に比較しても長く細い手足が理想的な体型を創り上げている。

 本当に、綺麗な人よね・・・。




 自分の質問にいつまでも答えないのが気に入らないのか、相手は細い眉を寄せた。
睨みつけてくる。
もっとも、この男のおっかない顔というのは、全然怖くない。
ハロルドは、余裕で、肩をすくめて「何故帰ってこない」という質問に答える事にした。
「だって、あんたを待ってたんだもの。」
「なぜだ?」
少しくらい驚くかと思ったが、気にした風もない。
即、それに対する質問が飛んでくる。
まわりくどい話は面倒だ、と思っているようだ。
折角、私が「待ってた」と言っているのに。
少しはこの後の、ロマンチックな展開を期待したりとかしないのかしら。

 「まあ、座ってよ。」
「・・・・・。」
「・・・なにもしないわよ。」
相手はそれでようやく向かいの椅子に腰を下ろす。
だが、油断できないと思っているのが、ありありの態度だ。
テーブルの上に肘をかけ、指を組んでハロルドを見返してくる。
「・・・で?」
「うん?」
「座ったぞ。理由を言え。」
だから、その色気もなにもない態度はどうにかならないものか。
少しだけがっかりしながらも、ハロルドは相手の近くの白い箱を指差した。
「それ。」
「・・・・・?」
「一緒に食べようと思って、買っておいたの。」
少しだけためらった仕草を見せた後、ハロルドの顔をちらりと見て、その箱に手を伸ばす。
同じ真っ白い箱のフタを開け、中を確認した後、相手は、怪訝そうな顔をした。
「・・・なんだ?」
「なにって、ケーキ。」
「見れば分かる。何故、ケーキなのか、と聞いている。」



 その時、外で稲妻が走った。

 話は中断し、ハロルドは小さく身をすくませたが、目を開けて見ると、目の前の男は外を眺めていた。
様子を見ているのではなく、見惚れている。
ハロルドと正反対に、この男は稲妻が好きらしい。
町の宿に辿り着き、荒れた天候をやり過ごせることにほっとしている横で、皆と離れ、窓の外を眺めている姿を何度か目撃しているうちに、そうだとハロルドは気がついた。
案の定、相手は席を立ち、そっと窓に歩み寄っていく。
そして、窓際に立つと、次に光るのを待って、空の気配を伺っている。
腕を組み、何気なさを装って外を見ている仕草が、様になっている。
だが。
絵になるその姿を前に、ハロルドは唇をそっと尖らす。

 ・・・つまんない。

 折角、ここまで思惑通りに進んだのに。
今日、この日に、この場所で、ふたりっきりなのに。
たかが、雷雨こどきに、邪魔されるなんて。




 「ここって、父の書斎によく似てるのよね・・・。」

 この男の興味が、いまや、外にのみ向いている事が不満で、ハロルドは口を開く。
相手を窓から引き剥がす為には、こちらから歩み寄りを見せなければ。
「・・・書斎?」
ハロルドの目論み通りになった。
相手は窓からこちらに目を移し、聞き返してくる。
「そう・・・。私だけが入る事を許された、特別な場所だったの。」
「お前だけ、か?」
「大事な研究資料がいっぱいあったから。誰かに不用意に入られて、汚されたりなくされたりするのを恐れたのね。そこには、大きな本棚がいくつもあって、こういう大きな机があって。子供の時の視線で見上げてたから、余計に巨大に見えたものよ?」
「・・・・・。」
「私にとっては私の部屋よりも大事な場所だったわ。」
そこで、ふつりとハロルドが言葉を切ると、とうとう相手は窓の傍を離れ、ハロルドの座るテーブルへと戻ってきた。
元いた位置に音もなく座ると、指を軽く組んだ姿勢で、静かにハロルドを見返し、視線で話の先を促す。
それで、この話に相手が興味を持ったことを確認し、ハロルドは再び、口を開く。
「そこには、私が知りたいと思った事、全てがあったの。無造作に置かれていたと言っても良いわ。なにもかも、持ってきた人にとってはあって当たり前なものだけど、私にとっては未知なものばかり。それが、ほんの少し、視線をずらすだけで、あちらこちらに散らばっていて・・・宝探しをしていたようなものだった。」
「そうか。」
なるほど、と相槌を打つ。
子供の宝というのは、おもちゃだが、ハロルドにとっての宝とは、知識そのものだった。
それに納得したのだろう。
すると相手は、ふと気づいたように、質問してくる。
「・・・カーレルも、入る事を許可されなかったのか。」
「そう。そういうところは徹底した人だったから。」
「・・・そうか。」
「でも一度だけ。父が留守の間に兄さんを入れて、一緒に遊んだけどね。思えば、一番あの時が楽しかった。大事で特別な場所だったけど・・・やはりひとりで部屋にいるのは寂しいもの。」
「・・・そういうものか。」
つい口に出してしまった、というような相槌に、ハロルドは眉を寄せる。
「なに、ジューダス。あんた、そう思わないの?」
「・・・いや。」
ジューダスは考える。
ヒューゴの屋敷の中で、ひとりで自分の部屋にいる時、ほっとした。
誰の視線もないその中では、いろいろなものから一瞬だけ開放される事ができる、と思っていた。
たとえ、そこに孤独の影がこびりついていたとしても、誰かの言葉の刃で、胸を抉られるよりはマシだった。
幼い頃からそれらを繰り返し、心に頑丈な壁ができた後になっても、他人が鬱陶しいのは変わらなかった。
だから、ひとりの部屋は嫌いではなかった。
・・いや。
「・・・いつも、ひとりではなかったな。シャルがいたから。」
それを聞き、ふふふ、とハロルドが笑った。
含み笑いではなく、少女の屈託のない笑い声で。

 シャルがいた、か。
それは、ちょこっとだけ誇りだ。

 「あんたにとってシャルティエがそうだったのね?私にとって兄さんがそうだったように。」
「そう、とは?」
「たったひとりだけ、特別だった人。」
「・・・・・。」




 ハロルドはそこで言葉を切り、自分が口をつぐんだ事で、しんと静まり返った他に誰もいない図書館の中に、その気配を探す。
本当に、ここは、特別な部屋によく似ている。
探せば、どこかに、幼い時のカーレルが隠れているかのようだ。


 「私にとって、掛値なしに好きだったのは、後にも先にも兄さんだけよ。」
「それは・・・。」
冷たく光る瞳で見据え、ジューダスはハロルドに聞き返す。
その光を、甘いと感じこそすれ、嫌悪の類は抱かない。
どんなに突き放して見えたとしても、それがこの男からしてみれば、悪意のない行為であるという事を、ハロルドはすでに知っている。
「その言葉、そのものの意味と解釈して良いのか?」
「ええ。」
面白い事言うわ、とハロルドは思う。
今の言葉の中に、どんな裏が隠れていると思ったのだろう。
それの方が気になる。

 「私はね、感情があまりない子供だったの。」
「今とは正反対だな?」
「良い方に成長したって言いなさいよ。」
少しだけ唇を尖らせ、ハロルドは言う。
「もちろん、怒ったり泣いたりは人並にしたわよ?でも・・・なにもかもが・・・実感として伴わなかったというべきかしら。例えば、どんな本を読んでも、それが真実である確立がどれくらいなのか、それを常に計算していたわ。フィクションに限らず、人が書いたものというのはね、書いた本人が反映されるものよ?その人の物の見方で、同じものも180度違ってしまう・・・。この世の全てが、そういうおとぎ話である可能性を頭のどこかで知っている。そんな、冷めた子供だったの。」
「・・・そうか。」
それ以上の言葉をジューダスは言わない。
まるで、それがどうした、と言わんばかりの態度だ。
だが、ハロルドは、それが「天才」と謳われた自分への賛辞の言葉でなかった事を、嬉しく思った。
「やはり天才は違うな」などという言葉を、今、言われたら、たぶん自分は傷つく。
それを、相手は分かっている、と感じる。

 「その頃はだから、父を愛してはいたけれど・・・。『愛していて当然の人』だから愛していた、に過ぎなかったの。この場面でこう思うべきだ、と思う。それに感情を追従させる。実際に自分の中から湧き上がってきた感情のほとんどは、まず思考があって・・・それが感情すら支配していた、と言えば分かるかしら。泣いている自分も、怒っている自分も、その状況下ではその姿であるべきだからそうしていたの。決してその視点から見下ろすのを辞められなかった。自分自身すらもね。・・・・・ずいぶんと可愛げのない子供だったな、って、あんたでも思うでしょう?」
「ああ。」
「・・・・・慰めもお世辞もなし?」
「期待してもいないくせに、求めるな。」
「う〜。」
頬を膨らましているハロルドには、もう、感情のない子供という姿は微塵もない。
確かに。
色々と迷惑をかけられはするが・・良い方に成長したらしい。
それを見て、ジューダスは思う。


 「でも、ひとつだけ例外がいて。それが兄さんだったの。」
すでに告げている事実を、相手の中に確認するように、もう一度ハロルドは言う。


 「どんなにそうしようと思っても頑固なほど自然に動かなかった感情も、兄さんの前に出ると勝手に現れ出てた。兄さんと一緒にいると楽しかったし、長く離れていると、同じ家の中でも寂しかった。」
「・・カーレルがいたことにより、それまでが不完全な感情だったと、理解できた訳だな。」
それに、ちょっと目を見開き、ハロルドは次に頷いた。
これだから、この男は面白い。
普段は無口で、何を考えているのかを決して見せないが、真理に近いところに常にいるのだろうと感じさせるような事を、時々言う。
ハロルド自身も、知ってはいても、意識してなかったような。

 「そう、まさにそれね。兄さんを通して、自分の中に感情が欠けているというのも、だから、気がついたの。これが本来の「好き」という感情のあり方であって、それまでのものが可笑しいのだってね。」
持って生まれた感情にはマニュアルがない。
なにかが欠けているか、なんて、本人には分からない。
本来、あるべき姿を実感し、それと比べてみないことには。
ハロルドは口の端をあげて笑う。
楽だ。
自分の言わんとする事が、すぐに理解できる相手、というのは。
・・・本当に。

 ・・・どうして、そんな事まで、コイツは分かっちゃうのかしら。



 「さ。そこでこのケーキの登場です。」
「・・・・・。」
いきなり、じゃ〜ん、と言いつつ、箱のフタを開けるハロルドの姿に、ジューダスは半ば呆れる。
そこでもなにも、話に結論がついてない。
なぜ、ここでケーキが出てくるのか、さっぱり分からない。
なのにハロルドの方は、嬉しそうにケーキの箱を覗き込むと、わざわざ持ってきたらしく、野営の時などで使用している皿を2枚、荷物の中からひっぱりだしてきて、テーブルの上に並べた。
「私は、このオレンジムースのケーキvあんたは、いちごのショートケーキね?いちごが美味しそうだから迷うけど、譲ってあげる。あんた、いちご、好きだったでしょ?」
にこにこしながら、ハロルドは箱からケーキを出すと、倒れないように器用に並べ、箱の底から小さな蝋燭を2本、出してきた。
「さ、じゃあお祝いしましょv」
「・・・祝い?」
なんだ?と怪訝そうに、ジューダスは聞く。
細いピンクとブルーの蝋燭をビニールの袋から出しながら、ん?とハロルドは顔をあげた。
「なんか言った?」
「何の祝いだ?」
「なにって、誕生日。」
「・・・・・誕生日、か?」
「うん。」
そこでハロルドは外を見て、忌々しそうに荒れた天候を睨みつけた後、澄ました顔に戻ってジューダスに答える。
「今日・・・兄さんの誕生日、と同じ日なの。」
「カーレルの?24歳のか?」
ハロルドの言い回しがおかしいのに首を傾げつつ、ジューダスは聞き返す。
「ああ、違う違う。」
ハロルドは言い、軽く手を振った。
「誕生日と同じ日付、ってだけ。実際は、ダイクロフト決戦の2ヶ月前に23歳になったばかりなのよ〜。ホラ、1000年、時間すっとばしてきたって言っても、正確に1000年後の同じ日って訳じゃなかったでしょ?こっちきたら、また同じ日が回ってきちゃったって訳。だけど、折角だからさ。」
シュッっと軽い音をさせ、ハロルドがマッチに火を灯す。
「・・・軽くお祝いしてあげようと思って。」
「・・・・・。」
「まあ、正確な誕生日ではないから、軽く、ね。気持ち程度。そんな何回も誕生日迎えるの嫌だもんね。これくらいになってくると、別に嬉しくもないし。」
そう言いながら、ハロルドはそれぞれのケーキに1本づつ立てた蝋燭に、火をつける。
その小さな灯火は、厚い雲の下にあるせいで日が落ちてもいないのに暗い部屋の中に、ずらりと並んだ本の縁を濃く照らしている。
炎が揺れると、薄く影も揺らめく。
その小さな光を吹き消す前に、ハロルドはもう一度、静寂が支配する図書室から、乱暴に雨風が吹きすさぶ外へと視線を走らせた。
「本当は晴れたらよかったのに・・・。」
ベルクラントを思い起こさせる稲妻が暴れている日なんて、ついてない。
どうせなら、綺麗な夕焼けが見れた方が良かった。
今まで、それこそ、幼い頃から何年も見れなかった、夕日があった方が。

 「・・・・・。」
ハロルドの顔に浮かんだ表情を、ジューダスは黙って見ていた。
どこか遠くを見つめている時、ハロルドは別人だ。
彼女が、彼女の世界だけを見ているのに、それを邪魔をするのは気が引ける。
そう思っていると、すぐにハロルドは表情を朗らかなものへと変えた。
嬉しそうに、目尻を下げると、目の前のテーブルにある好物に向き合う。
「・・・・さ。消しましょ、消しましょ。ケーキ食べよう♪」
そう言って、ハロルドはふ〜っと蝋燭を消す。
その前に「ハッピーバースデー」も言わなかった。
なんの為に蝋燭に火を灯したのか、まるで意味がない。
そうジューダスは思って呆れたが、ハロルドの事だ。
これで気がすんだ、というところなのだろう。

 イベントを終えたハロルドは、にこにこしながら、ケーキにフォークをさす。
それに習うように、ジューダスがフォークを手に取ったのを、ハロルドは目の端で捕らえた。
何も言わなかったが、きっとひっそりと、カーレルの生まれた事を祝ってくれている。
それはきっと当たっているはずで、それがハロルドは嬉しい。
それこそが、望んでいた事だったから。

 誰も自分たちを知らない未来で、ダイクロフトもベルクラントもない時代にひっそりと。
自分ひとりだけで、兄を祝うのでは、なんだか、寂しすぎる。
昔、戦争が始まる前にやったお誕生日会では、友達と大勢でケーキを食べた。
そういう風に、密やかながらも、祝ってケーキを食べてくれる人が欲しかった。



 ハロルドがふわりと口の中に広がるオレンジの香りと、さっぱりとした甘みに幸せな気分に浸っていると、
「・・・?」
丸いオレンジのケーキの横に、ちょこんといちごが乗せられた。
真っ赤に熟れて、カタチも良くって、とても甘そうな、いちご。
下の方には、ショートケーキの生クリームがついたままだ。
「どしたの?」
主役のいちごを寄越したジューダスに、首を傾げて、ハロルドは言う。
いらないっての?いちごは好きだったはずなのに。
「どうしたもなにも。」
フン、と面白くもなさそうに、ジューダスは言う。
「誕生日、なんだろう。」
「・・・・・!」



 ハロルドは思う。
「後にも」は嘘だ。

 先なら、たしかにカーレルだけだった。
けれど「後にも」ではない。
今、この感情をそうでないなどと、どうして言いきれるだろう。
掛値なしの、なんの計算もなしの感情でない、と。


 いちごを譲った相手は、澄ましたいつもの無表情で、黙々とケーキを食べている。
なにを気にしている風でもない。
けれど、ハロルドにとっては確実な一撃だった。
一瞬、なにか、言い出しそうになった。
自分でも思いがけないような、なにか。
口にした途端、自分でも気づく、そういうもの。
思考よりも先にあり、時折それを押しのけ、自分の内部を支配しようとするもの。
それこそをたぶん、感情というのだろう。
しかも誘発でない。
勝手に暴れだす、嵐のような。



 夜というのは、ひとつの生き物だ。
昼は耐えていられても、日が暮れれば、嫌でも目をそむけている現実を思い出させては傷を抉る。
ひとりで泣き出しそうなる度、ひとりになってしまったと嘆く度、黒く深い絶望の縁で、ジューダスの事を思うとほっとした。
まだ、いる、と。
まだ、私はひとりではない、と。
心の中で、何度、呪文を唱えただろう。

 私にとって、この男は、そういう暗い夜の帳の中にゆらめく蝋燭の光のように、必要不可欠な要素だ。


 そして、ハロルドは見る。

 目の前にいる男の中に、兄の欠片を。
優しくて、優しくて、どうしてこんなに優しいのかと、疑問すら感じていた兄の、あの包み込むような優しさが、不器用でそっけないこの男の中にも、確かにある、と。

 目を凝らせば、それは世界中に散らばっている。
なにも、この男だけの中ではなく。
それこそ、これからいくらでも、見つかるだろう。
けれど、人を寄せ付けないこの男が持っている欠片は、決して押し付けがましくない優しさだからこそ、本物だ、と信じられるところで他の誰のものよりも似ている。

 表面に見えている部分は、思いやり溢れていた兄とはちっとも似てないのに。だからこそ。
目には決して見えない、手に触れる事のできない、根底にある揺ぎない部分は。
誰よりも似ている。
・・・・・そう、思う。



 ハロルドは、こちらをちらりとも見もせずにケーキを食べ終わり、再び、窓辺に移動したジューダスを視線で追った。

 そういえば、カーレルも稲妻が好きだった。
ああしてよく、窓辺に張り付き、いつまでも飽きずに外を見ていた。
昔の話だ。
そのうち、ダイクロフトがあがり、空は取り上げられてしまったから。
だけどあの時、夢中で外を見ていたカーレルの姿は、いつも大人びていた姿とは別人のように、子供そのものだった。
その時だけは、ハロルドも、兄を兄ではなく、弟のように感じたものだ。
思い出し、ハロルドはこっそりと笑う。

 「ねえ、やみそう?」
窓辺に向かって話かけると、やみそうにないな、とそっけなく答えが返ってきた。
それを聞き、ふむ、と一拍おいてハロルドは言った。
「このまま雷がやまなかったら、ここにふたりで泊まる事になりそうね?」
「・・・なんだと?」
聞き捨てならないという風に、窓辺から、不機嫌そうな声が返ってくる。
「だって、私、雷嫌いだし〜。あんたは好きでしょ?私は外に出たくない。あんたは雷見ていたい。調度良いじゃない?」
「外に出られないのはお前だけだ。僕はひとりでも帰れる。」
あっさりとハロルドの言葉を受け流し、酷いことを平気で言う。
「なによ〜?私をここに置き去りにする気?人非人〜!!」
「お前が言うな。」
けれど、それが本心でないのは、明らかだった。

 雷が嫌いといっている私を、暗い図書館に置き去りにするなど。
この男は、したりはしない。
それをハロルドは信じてる。
・・・なによりも、そうするぐらいだったら、私を迎えに来た意味がないし。

 にんまりと含み笑いをするハロルドに気がつきもせず、あいかわらずジューダスは窓の外を眺めたままだ。
なにが、そんなに面白いやら。
・・・まあ、いいけど。

 嫌いな雷だが、この男には似合う。
ただの電気の軌跡も、妖艶と神秘の産物に思えてくる。

 おかげで、今日は、ひとりの夜を過ごさないですみそうだし。
そう思い、ハロルドは、皿の上に乗っていた小さな誕生日プレゼントを、口に入れた。
生クリームのついたいちごを。
・・・それは贈ってくれた本人のように、そっけなく甘い。




 『だからこの先、何度雷が来ても、何度ひとりの夜がきても、私はへっちゃらよ?兄さん?』

 

 

 

 

fin          

 

 

 

 


色々と詰め込みすぎて、なにが話の中心なのか、さっぱりわからない話になっちゃいました(汗)
捧げ物だったので、力入れたんですが、それが却って悪かったかな〜っと・・・。
なにに困ったかといいますと、背景になにをおくか、ですね。 雷にすべきか、ケーキにすべきか・・・。 結局は、この話のもともとのタイトルだった「雷鳴」を重視して、雷で光った感じの空をイメージしたんです・・・・が。 これは実は晴れ間の写真・・・。 すみませぬ、大嘘つきの私で(笑)

ところで、実はこれは「Ve+Le+Ta」様への捧げ物だったのですが、あちらに贈らせて頂いたものと、微妙に違います。 気がつかれた方がいたら嬉しいなv

冒頭の幼いハロルドの話は、「初めて読んだのが、レンズの本だった」という、「永遠に夜が」の使いまわしなんですが、まあ、こんな感じだった、という事で。
ただ、残念なのは・・・ネタを思い浮かんだ時は、イケル!と思ったのです、名作になる予感〜vって・・・。 しかしフタをあけたらこの体たらく・・・。 故に、未練たらたらな話になっちゃった・・・;; 

そういう未練ばかりの話ですが、読んでいただいて、感謝いたします。

(04’10.11)