ハロルドの頭は、小さく、小鳥のもののようだ。
この小さな容器の中に、コンピュータよりも正確な数字をなんでもない事のようにたたき出す頭脳が詰まっているとは、信じられないな、とジューダスは思い、その頭を乗せている為に、痺れてしまった左腕を揺らさないようにして、体を仰向けに動かした。
泣きつかれて、ハロルドは眠っている。
聞こえる寝息はくうくうと安らかで、細い肩も、今は穏やかな上下を繰り返している。
横で添い寝をしているうちに眠くなり、うとうとしていたジューダスは、今さっき目を覚ましたところだった。
視界の暗さに、部屋に灯りが必要な事に気がつき、首を伸ばすと、窓の外はすっかり夜の帳を下ろしている。
夕刻、食事にでも誘おうと部屋を訪れてみれば、ハロルドは昼寝中で、目を覚ました途端、あの騒ぎだ。
そのハロルドの頬には、くっきりと先ほど大量の流した涙の跡がついている。
ふいてやろうか、と思ったが今、触れればきっと起きてしまうだろう。そう思い、ジューダスは伸ばしかけた右手を元の位置に戻した。
できれば、無邪気なこの寝顔の邪魔はしたくない。
ジューダスは、口元に自分でも気づかない笑みを浮かべる。
誰にも言った事がないが、こういう穏やかな時間が好きだった。
約束に縛られることも、なにかに急かされることもない。
自由で、ゆったりとした時間の中、唯一無二な存在相手と、一緒に過ごせる。
昔の自分なら、何もする前から、到底敵わない事だと諦めていただろう。
なにがきっかけだったか、など覚えていない。
ただ、まずい、と思った記憶だけは鮮明だった。
小鹿のような大きな瞳が、好奇心で輝くのを見ると、ついその先になにがあるのか、自分も見たくなる。
先の読めない行動の中に、緻密な計算が隠れているのを発見すると、胸がすくように小気味良く感じられた。
その突飛な言葉を発する唇の、思いがけない艶やかさに目を奪われ、やわらかそうな感触を思い描いていた事もある。
その度に我に返って、危機感を持った。
自制しなければ、感情に身を任せ、捕らわれるだけだ、と。
『無駄なことだ・・・』
先ほど、見ていた夢が、ふいに思い出された。
どことも知れぬ、闇の中。
青い軍服、赤いマントをつけた“彼”は、嘲り笑いながら、ジューダスに言った。
『お前は誰も愛せはしない。その資格もない。』
瞳に嫌悪感を宿し、愚かな自分を見下ろしていた。
『そうして悪あがきを繰り返し、自己満足と引き換えに、最後には人を傷をつけるだけだ。』
いつもそうだ、と“彼”は言う。
ジューダスと同じ顔、同じ声で。
己を、隠しもせずに、憎んでいると言った。
昔の行いを悔いたりはしないと誓ったけれど。
自分自身の事は憎んでいると。
そのお前が、誰かを愛そうなどと。
またしても、同じように、羞恥心のかけらもないその感情のまま、愚行を繰り返そうというのか。
リオンはそう言い、ジューダスの胸元あたりを指差して。
・・せせら笑った。
・・・分かっている。
ジューダスは、ゆっくりと目を開ける。
視界のぼんやりと暗い影の中に浮かぶ、白い天井が映る。
初めから消え行く運命下にある事は分かっていた。
それゆえ、必要以上の、他人との接触を極力さけてきた。
それは後で、お互いに辛くならないための知恵。親しくなる事で傷を広げないようにするために己に架した戒めだった。
決してそれを破ってはいけない。
そう、自分自身に何度も言い聞かせたつもりだった。
・・・だが。
あの時、差し出された手を、どうして拒絶などできただろう。
ジューダスは溜息をつく。
それは自責の念を含んで、胸を刺す。
ハロルドの頬にはくっきりと、涙のあとがまだ、残っている。
こうしてハロルドを、結局泣かせてしまった。
泣かせてしまったのは、自分だ。
夢の中で、リオンが指摘したとおり、自分はまたもや、愚行を繰り返そうとしている。
悲しませるつもりはなかった。
だが後で、悲しむだろうという事は、予測どころか、確信していた。
それでも・・・・。
「あんたが好きよ?だから私とつきあってよ。」
あの言葉を聞いた時、仕掛けられた罠ではないか、と疑った。
愛した女に、愛されたことなど1度もなかった。・・・一生ないと思っていた。
それが、向こうから来たという。
一瞬、視界が真っ白になり、次にやけに冷静になった。
世の中、こんなに、うまい話があるのか、と。
そうして・・・よせば良いのに、自分の周りの世界と、自分自身とを、天秤にかけてしまった。
秤は・・・。
気持ちの重さの分だけ、こちらに傾いた。
「ん・・・・。」
小さく身じろぎをした気配に、ジューダスは我に返る。
流れにまかれていた思考にストップをかけ、自分が全身全霊をかけて向き合うべき女の顔を覗き込む。
大げさな比喩のようだが、それが事実で、今、もっとも必要な事だ。
もう一瞬さえ、無駄には出来ない。
残された時間は余りある、とは言いがたい。
「私、また寝てたの?」
「ああ。」
不満そうに唇を尖らせ、ジューダスと目があった途端、ハロルドが口にしたのはそんな言葉だった。
今日一日、昼寝をしていたようなものだ。
普段、せかせかとなんらしかをしていなければ気がすまないハロルドにとって、随分と貴重な時間を無駄にした、と感じたのだろう。
だが、次の瞬間、ハロルドはまんざらでもない表情を浮かべた。
その変化がなにを意味するのかをジューダスは考えたが、ハロルドはごろごろと喉を鳴らす猫のように、ジューダスの胸に小さくてとがった鼻の先を押し付けてくる。
「この、バカ。」
「え?」
いきなり、暖かい腕の中で、ぎゅっと目を瞑っていたハロルドの顔を覗き込んで、ある事に気がついたジューダスが言った。
「あれほど、本をベッドに持ち込むな、と言っただろう。」
「あ。」
不機嫌そうなその言葉を、ジューダスの腕を枕にしたままで聞きながら、ハロルドは頬のもうひとつの違和感に気がついた。
「切れてるじゃないか。」
軽く舌打ちし、ジューダスはハロルドの顎のあたりに、自由になる右手を添えて、顔を固定させる。
それから、そっとハロルドの切り傷に、ハロルド自身が手を頬に持っていくよりも早く、指先で触れた後、今度は顔を近づけ、少しだけ、ぺろりと傷を舐めた。
「・・・やん・・・。」
くすぐったい感触に、思わずハロルドが身を捩る。
ジューダスはそんなハロルドの態度にくすり、と笑った。
からかわれていたのだと、ハロルドはちょっとだけ拗ねたようだったが、別段、怒ったりもしなかった。くすくすと笑いをこぼしている。
それを聞き、つられるように少しだけ、ジューダスも笑った。
めずらしくなんだか機嫌が良さそうだわ、とハロルドは横たわった頭の上にその気配を感じた。
「出かけないか?」
唐突に、ジューダスが言った。
「え?どこに?」
体をベッドの上に起こし、ハロルドはジューダスの顔を見下ろした。
今日はなんの約束もしてない。
しかも、もう日が暮れているというのに、一対どこへ行くと言うというのだろう。
ハロルドがそう言うと、ジューダスは、自分もベッドの上に起き上がりながら、まかせろ、と短く言った。
「え、じゃあ、格好は?」
ハロルドの言った言葉の意味を、ジューダスは把握できなかったようだ。
首を傾げる仕草を見て、慌ててハロルドは、早口で言った。
「服、なにを着ていったら良いの?」
もしや、前のように芝居でも見ようというのなら・・・。
芝居というのは、一種の社交界だ。
劇場の入り口にはドアマンもいれば、案内係もいる。普段着で入れるような場所ではない。そう思っての質問だったのだが、それに対してジューダスは
「なんでも良いが・・・。」
と言った。
とりあえず、正装は必要ではないと分かったものの、その答えを、ハロルドは歓迎できない。
「なんでも良い」というのほど、傲慢で面白みがなくて傷つく言葉もないものだ。それは「興味がありません」と意味は同じだ。
だが、そう思っているハロルドの横でジューダスは、なにも気がつかない様子で、ハロルドが、すぐに支度を始めるものだと思っているようだ。
ハロルドは溜息をつき、その通りに、ベッドから立ち上がった。
そして、ふと。
男というのはもしかして・・すべからく、この手の女心に疎いのかもしれない、と思った。
行き先はどこだか知れなかったが、とりあえず今日、初めて外へと踏み出し、ハロルドはその開放感を味わう。
やはり、ひとりなにをするでもなく部屋に篭っているのは、精神的に良くない。
実験でもしているなら、何時間も何日も室内にいることなど苦痛ではないが、今日は・・・そんな気分にもなれなかった。
今日だけではない。
ここ1週間ばかり、ハロルドは、実験に手がつけられないでいた。
しようと思えば思うほど・・・違う事に思考が奪われ、心が彷徨って、集中できなかったからだ。
街灯が、点々と1本の道の上に作られている。
それにそって、ふたりは歩いた。
夜の凛とした雰囲気を、ハロルドは美しいと思う。
どこからか、夕餉の甘い匂いや、人のたてる生活の音が聞こえてきて、音楽を奏でる演出された情景よりも、よほど劇的だ、と感じる。
芝居や本の娯楽に頼らなくても、人間の日々の営みは、平凡な退屈さの中にありながら、けっして退屈なものではないのだ。
「・・・・・?」
やがて、ジューダスは街の角を大きく曲がった。
街の門をくぐり、外へと歩みを進める。
黙ってついてきたハロルドの視線の先に、黒い鋼の、見慣れた巨大なシルエットが、月明りに照らされて浮かび上がっていた。
「え?どこまで飛ぶの?」
イクシフォスラーは、ハロルドが片手間に整備を怠らない為、いつでも飛行可能だ。
だが、そこまで遠出になる、というのは、予想外だった。
思わず、驚きの声をあげたハロルドに、ジューダスは薄く笑った。
「見せたいものがある。」
「なにを?」
まさか、この夜にめずらしいものがあるとでも言うのだろか。
そう思うハロルドの問いに答えず、ジューダスは、ハロルドの手を引いてイクシフォスラーの内部へと入っていく。
たとえ、好きな相手と一緒であっても、今までにない行動のパターンをいきなり見せられると、妙な警戒心を引き起こすものだ。
だが、こうなったら、覚悟を決めてついていくしかない。
この先にあるものが、なんなのか。
まさか待っているのが、さっきの悪夢のようなものではないだろう、と、機嫌の良さそうなジューダスを見て思い、ハロルドは、イクシフォスラーの内部へと、促されるままに入っていった。
いつ読んだ小説だったか。
恋人である女性に、飛行機を運転するパイロットは、乗っている機体を旋回させてみせる。
そうして目の前に広がる逆さの夜空を彼女に見せた後、どれでも好きなものをあげるよ、というのだ。
どれでも好きな星を選んでくれ。それを婚約指輪にして君にあげる、と。
イクシフォスラーから眺める星達は、冴えきった空気のおかげもあり、どれもこれも、ダイヤモンドのように光り輝いていた。
それが何万年もの時間をかけ、辿り着いた光であると分かっていても、手が届きそうだ、とハロルドは思う。
小説の中のパイロットの話も、わかる。
非科学的なものは、好きではないが、どれかひとつくらい、ダイヤモンドに化けてくれても良いのではないか、と思わされるほど、大きく、身近に感じられる星々だった。
ハロルドがメンテナンスを怠らない為、イクシフォスラーの飛行は静かだ。
ほとんど揺れを感じさせず、エンジン音も、この種の大きさの機体のものに比べれば、静かで、耳を塞ぎたくなるような耳障りな機械音はまったく感じさせない。
ねえ、どこ行くの?という再三のハロルドの問いに、ジューダスはチラリと微笑むだけでなにも返さないまま、視線を操縦席へと戻してしまう。
そんな事を繰り返していて、ハロルドは、こうなったら連れて行かれるところまで、自分も口を聞かない、と決めた。
ハロルドが拗ねたことを、ジューダスも気配で感じただろうが、それでも何も言わない。
やがて、飛行艇は、水平線を進み、眼下に広がるのは海ばかりになった。
大陸さえ越えてしまうつもりなのに、多少驚いたが、それでもハロルドは口を開かなかった。
イクシフォスラーは沈みゆく太陽を追いかけるように飛行していく。
水面が朱色に輝やき、その上には濃紺な空が見える。
さきほどまで一面の星空だったのに、その姿が薄くなり、一気に夜から夜明けまで駆け抜けたかのような情景が、目の前に広がっていく。
そして、だんだんとイクシフォスラーの高度が下がっていき、どうやら目的地が近いと知ったハロルドが、すばやく位置を計算すると、そこはかつて、ダリルシェイドと呼ばれた都市の残骸が、山ひとつ挟んだ向こう側に残っている、という場所だった。
イクシフォスラーが静かに舞い降りたあたりにはなにもない。
1番近い、そのかつての都市まですら、歩いて行くなら、何時間もかかってしまうような場所だった。
三方を山に囲まれ、残る一方は、海岸に面していた。
その砂浜は、めったに人がこないことを物語るように、誰にも乱された様子はなく、ただ、風と波とでつくられた、自然の模様を残しているだけだった。
そこに、ぽつん、と小さな家が建っていた。
「・・・・・?」
イクシフォスラーから降りた後、ハロルドはその光景に、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
あまりに予想外だったが、他には何もない。
ジューダスの目的は、その小さな家だとしか思えない。
一体、誰が住んでいるのかしら。
そこに住んでいる誰かに、自分達は会いにきたのだろうか。そんな事を、ハロルドは思う。
「ハロルド。」
呼ばれ、なに、と振り返ったハロルドに向かって、小さく光を反射するものが投げられた。
ハロルドは、とっさにそれを掴む。
手の中に納まったそれを見てみれば、小さな真鍮の鍵だった。
アンティークで、手の持つ部分はハートのようなカタチに曲線を描いている。
「なに?これ。」
「鍵だ。」
聞いて、ハロルドは呆れた。
そんなものは見れば分かる。なんの鍵か、と聞いているのだ。
それに対して、
「入ってみろ。」
ジューダスの答えは簡素だった。
ハロルドは後ろを振り返る。
この家は、では・・・無人ということだろうか。
小さな家だった。
白く塗られた木の壁は、しっかりと組まれ、崩れ落ちそうな気配はない。
屋根は、淡いグリーンで緩やかな傾斜は綺麗な三角をつくり、まるで童話の中にでてくる家のようだった。中から小人が出てきても、違和感はなさそうな。
ジューダスが何を企んでいるかは知らないが、家を見ていて、ハロルドはわくわくしてきた。
まるで子供のなぞなぞ遊びだ。
こういうゲームが、ハロルドは大好きだった。
玄関へと続くポーチの数段の階段を上り、鍵をドアに差込み、ゆっくりとまわす。
薄く開くと、わずかに黴臭い空気が中から流れ出てきた。
そっと、泥棒が中の様子を伺うようにして、ハロルドはドアの隙間から中を見てみる・・・。
「・・・・わ・・あ。」
思わず、子供のような歓声が、ハロルドの口から飛び出した。
「犬までは用意できないぞ?」
ハロルドの後ろに立って、その様子を見ていたジューダスが、軽く笑いを含んだ声で、そっけなく言った。
「魚もなしだ。水槽はあるが。生き物は、ほっておくという訳にはいかない。」
「うん・・・。」
そんなことは良いの、とハロルドは言った。
家の中に足を踏み入れ、ハロルドは天井から床までを、見回す。
リビングと思しき大きめの部屋には、ブラウン系のソファーが置いてあった。シャンデリアと、本物の暖炉。壁は二階へと続く階段のある一面だけが、薄い紫色に塗られている。間違うと悪趣味になりがちだが、抜群のセンスの良さが伺える配色だ。それがぐっと部屋の雰囲気をクラシックなものへと変えている。
とてとてと軽い足音を立て、ハロルドは、ソファーへとジャンプをする。
ぽすんと音をたてて座ったそれは、決して大きくはないが、体の小さなハロルドならば、転寝くらいはできそうだ。ソファーは大きな窓の方向を向いていた。その向こうにあるのは、海だ。暮れていく空が、穏やかに波を染めている。
「ナナリーたちに、無理を言って手伝って貰った。」
ハロルドの後を追うようにして近くに寄ってきたが、座りはせずに、ジューダスは言った。
「ここ?」
「ああ。」
ジューダスの本日の不在は、これが原因だったのか。
きっと家具を運び入れるのに、ロニたちの手を借りたのだろう。
どこで調達したかは知らないが、それをここまで持ってくるなら、業者に頼んでいては何日もかかってしまう。自分の手で補ってしまうのが一番手っ取り早い。だが、家具はひとりで運べるものでもない。家具を買うような家に、他人が住んでいる訳もない。
・・・そう、ここは、ジューダスのものなのだ。
「それよりハロルド。」
笑いを含んだ声で、ジューダスは言う。
「風呂場は覗かなくって良いのか?」
「おフロ?」
「ああ。」
「一緒に入る?」
「・・・・・そういう意味じゃない。」
少しだけ不機嫌そうな声になったジューダスにハロルドは笑った。
「見るわ。どこ?」
「こっちだ。」
案内されて覗いてみたバスルームは、四方が真っ白な壁に覆われていて、真ん中に位置した窓のすぐ下に、猫足のバスタブが置かれている。バスルームの位置はリビングとは逆に山側で、真っ白の壁の中、そこだけ薄い紫に塗られた木枠の窓からは、青々とした緑が見える。それがまるで、額縁で彩られた一枚の絵画のようだ。すぐ横にはウォッシュベイ。窓にかかるカーテンもレーシーな白だ。
「素敵。」
そのシンプルさが、逆に猫足のアンティークなバスタブを引き立てる。
赤い花を浮かべて入ろう。とハロルドは思った。
白い壁とつるんとしたバスタブの底に、鮮やかな色が映えて、さぞかし綺麗だろう。
リラックスして、きっと、何時間もお湯に中にいることになる。
「2階はどうなっているの?」
わくわくしながら、ハロルドは言った。
もはや、ジューダスのセンスは疑いようもない。
きっと他の部屋も、一目で気に入るに決まっている。
「好きに見て来い。」
ジューダスはそっけなく答えた。
だが、ハロルドが、自分が選んだ家具を、その配置を気に入っている事が様子で分かり、自慢気だ。
とんとんとリズム良くハロルドは階段を上った。
階段には、その隅にすら、埃ひとつおちてない。ぴかぴかに磨き上げられて、油断していると足をすべらせてしまいそうだ。
2階には、部屋が3つ、あった。
とりあえず、1番手前の扉をハロルドは開ける。
「こっちじゃない。」
好きに見ろ、と言いながらジューダスはハロルドに注意を促す。
「・・・ここは僕の部屋だ。」
「あ、そんな感じ。」
どこが派手、という訳ではない。
むしろ、置かれている、ベッドのそっけないながらも、重厚な感じや、深い緑色の絨毯や、絵ひとつ飾られていない室内は、暗く重々しい。だが、それ故、男っぽい品の良さが感じられる。
きっとジューダスはここに本棚を置く気だ、とハロルドは思った。
今はまだないが、小さなテーブルと椅子を持ち込み、そこで読書を楽しむだろう、と。
隣の部屋に行った途端、ハロルドは言葉を失う。
まるで、子供の為の部屋。しかも女の子の。
壁は、ピンクの縦じまのストライプ。その中に、真っ白なアンティーク風の木製の家具。そして、白い木枠の窓とは反対側、一面の壁につけて、白いアイアンのベッドが置かれている。そしてそれをすっぽりと包むように、天井から下がる、レーシーな白い天蓋。この部屋にだけ花が飾られていた。小さな花瓶に、可憐な花が、ベッドの横のナイトテーブルと、白い箪笥の上に置かれている。
ここが、ハロルドの部屋なのだ。
「・・・・・・。」
「どうだ?」
ジューダスは言った。
「・・・うん。」
「海側と山側と、どちらの部屋が良いか分からなかったので、海側にしてみたが。」
「・・・うん。」
「天蓋つきのベッドが良いと言っていたが・・・。」
「・・・うん。」
「もっと重厚な感じのものの方が良かったか?」
少しだけ、不安そうにジューダスは言った。
天蓋といっても色々ある。
所謂、貴族が眠るような、厚いカーテンで覆われたものから、こうやって淡く、薄いカーテンで覆われるものまで。どちらが好みなのかまでは、ジューダスは、細かく聞いていないので、分からなかった。
違う方が良いなら、後で変えてやる。とジューダスが言う。
「ううん。良いの。」
ハロルドは首を振って答えた。
こっちの方が良いの。
「そうか。」
ジューダスはそれに対して、そっけなく答える。
「ジューダス。」
「なんだ?」
「あんた、私の事、好きだったのね。」
昼間散々、泣いたというのに、ハロルドはまた目頭が熱くなる。
この部屋だけが、念入りに手が加えられていた。
壁は、元は、ただ白いだけだったのだろう。後からストライプを書いたのが、わずかに漂う塗料の匂いで分かる。
女の子なら喜ぶように可愛らしく、ロマンチックな雰囲気を演出するように。
それでいて、ハロルドの好みにあうように、甘くなりすぎないように作られている。相手をよく知っていなければ、できない仕業だ。
殊更、思い入れが深いのが、作った人にとってどれだけ特別な場所なのか、この部屋を一目見れば、誰にでも分かる。
それはジューダスの事ばかり見ていたハロルドだから、だけではなく。
まるで、おとぎ話の中の、お姫様が迷い込む部屋だった。
それをイメージしたのはきっと、作った人にとって、大事な、大事なお姫様が眠る場所、だから。
「なにを今更。」
ジューダスは言う。
当たり前の事を聞くな、と呆れた声で。
ハロルドは、それを聞いた途端、ジューダスに抱きついた。
ジューダスは、ハロルドが何に感動したのか、ふたつばかり心当たりがあったが、それがどちらなのかを追求するような事はせず、黙って華奢な背に腕を回す。
「一緒に暮らさないか?」
ジューダスは言った。
「・・・・・。」
「この戦いが終わったら。ここに、ふたりで戻ってこよう。」
この戦いが終わったら。
絶対に、ふたりで、ここに。
「うん・・・。」
「隣に、もう一部屋あるんだ。」
「うん。」
「そこはやるから、好きに実験すると良い。ただし、僕を実験体にはしない、と約束するなら。」
「・・・・・うん。」
「・・・本当か?」
ハロルドの返事の、一瞬遅れた事に気がついて、ジューダスは不機嫌そうに、聞き返す。
「しない。」
「なら、約束だ。」
約束。
「その前に、私のお願いをひとつ、聞いて?」
ハロルドはジューダスの胸に埋めていた顔をあげて、にっこりと笑った。
「なんだ・・・?」
何を想像したのか、嫌そうな表情でジューダスは言う。
「ちゃんと、言って?」
「何を。」
「好きだ、って。」
「・・・・・。」
「今まで、言われたこと1度もないもの。」
「そんな事・・・。」
「言わなくても分かるでしょってのはなしよ?」
ハロルドは言った。
その瞳はいたずら気に、挑戦的に光輝いている。
「目に見えないものを、私は信じない。だから、言わなくても分かる、なんてそんないい加減なもので、誤魔化されるほど、私はお人良しではないもの。」
「・・・やっかいな性格だな。」
呆れたように、ジューダスは言った。
「何を今更。」
それこそ、当たり前な事を、とハロルドは言う。
ジューダスは溜息をつく。
腕の中の華奢な体の持ち主が、言い出したら聞かないことは嫌というほど知っている。
本当は、計算式だけが、彼女にとって確かなものであることも。
そして、自分は今まで、相手にとって信じるに足る行動を取っていなかったのだ、と今更ながらに、気がついた。
昼間のハロルドの見た夢、というのが気になる。
とても怖い、といっていたその夢を見せたのは、もしや自分だったのかもしれない。
「好きだ、ハロルド。」
こんな言葉だけで、相手が信じるかどうか分からない。
それでも、届けよ、と願ってジューダスは言った。寸前に溜息をつく事も忘れなかったが。
時代も運命も宿命も記憶の先も、関係なく。
心の中の、指定席。
天国の扉が、永遠に、ここにあらん事を。
「約束するわ。」
ハロルドは。
まっすぐな視線で、ジューダスを見て、にっこりと笑ってそう言った。
ツインテールに結わいた髪を揺らし、ラリリアは、今日も、お気に入りの場所へと向かっていた。
それは、養父の管理している山を越えた先にある。
ラリリアの養父は、森番を仕事としている。
もう長いこと、その仕事についている養父の元に、ラリリアは去年、引き取られてきた。
親というものを幼い頃から知らないラリリアにとって、新しい生活は初め緊張の連続だったが、それにももう慣れた。
引き取った両親は揃って人が良く、子供に恵まれなかった事もあって、ラリリアを本当の娘と思って可愛がってくれる。時には、悪いことは悪い、と厳しくも優しく叱ってもくれる。
その家を見つけたのは、ラリリアにとっては素敵な偶然だった。
山の中腹にある、ラリリアの家の周辺には、いつも沢山の草花が生えており、母の誕生日にきのこのシチューを作ってあげようと思い立って、普段使わない反対側の道へと探しに出かけた事が、幸運を引き寄せた。
その道から、見下ろすと、小さな浜辺が見える。
そして、一軒の家が、そこに建っていた。
ラリリアは慎重に、足を運ぶ。山の急斜面で転んだりしたら、それこそ、どこまで転がってしまうか分からない。
森の中の、木漏れ日を追うようにして歩いていくと、天気が良いこともあり、次第に汗ばんできた。
引き取られる前、それまで育ってきた孤児院に、ある日突然やってきた可愛いお姉さんが、綺麗と褒めてくれた髪にも、汗が滲む。
彼女は、ツインテールにしましょうね、と言った。赤い髪には似合うから、と。そうして、ラリリアの髪を梳き、毎朝、結ってくれたものだ。
それを今では、毎朝、養母がしてくれるようになったが、どうして赤い髪だとツインテールが似合うのか、ラリリアには結局、わからなかった。誰も知らない理由が、もしかしたらあったのかもしれない。
砂浜へと降り立ち、そっと家に近づいていく。
この家の事を聞いた時、養父は初め、思い出せないようだった。
そんなところに家なんかあったか?としばらく考え、それから、ああそうだ、と言ってなんだか色々な事が書き込まれた帳面のようなものを持ってきたのだ。
あったな、確か。20年前・・・あの厄災が起こる前から、誰かが所蔵してたものだ。
父は帳面をめくった。
ああ、あった。そうそう、持ち主の名前は、エミリオ・カトレット。もっとも、1度もあの家に来たことなんざ、なかったんじゃないかな。
どうせ、どこかの会社が、資産隠しの為に個人の名前で買い取ったんだろう、と父が言った意味はわからなかったが、ラリリアは、1度も住んだことがない、というその家の持ち主の名前だけは、はっきりと覚えられた。それは、育った孤児院のお母さんと同じ苗字の名前だったからだ。
だが、ラリリアは、持ち主が1度も来た事がない、というのは嘘だ、と思う。
白いポーチを上がり、ラリリアは家の中をそっと覗き込む。
確かに誰の気配もないが、綺麗に家具が運び込まれている。
本物の暖炉、こちらを向いて置いてあるソファー、シャンデリア。2階へと続く階段のある壁だけが、淡い紫色に塗られている。
まるで、おとぎ話の中の、秘密のお家だ。
眠りから覚めるのを、待っている。
ラリリアは、窓の下に座った。
お弁当に持ってきたサンドイッチを広げる。
このところ、海を見ながらこの家の傍でひっそりと昼食を取るのが、ラリリアの楽しみだった。鍵がかかっている為、中に入ることはできないが、ここにいる、というだけでも十分に自分ひとりの楽しみになる。 帰りには、山を登りながら小枝を拾っていこう。
竈にくべるのに使えて助かるわ、と養母が喜んでくれるだろう。
海は穏やかだった。
太陽の光は暖かく振り注ぎ透明な水をどこまでも透き通らせている。波が立てた白い泡は、砂浜に打ち上げられると同時に、溶けてなくなってしまう。
めったに人が来ないからか、自然の作り出したままの美しい姿が、そこにある。
どこからやってみたのか、海鳥が、家の上で旋回していた。
ラリリアのお弁当を狙っているのかもしれない。
食べ終わった頃、ラリリアは眠くなってきた。
繰り返す波の音が子守唄のようで、白い砂浜がまぶしい。
風は心地よく頬を撫で、もしかしたら、天国はこんなところなのかもしれない、とあまりの気持ち良さの中で、ラリリアは思った。
ことん、と眠りにつく寸前、窓が開く音がして、そこにかけられた白いカーテンが、風で膨らんで揺れるのを、ラリリアは見た、と思った。
fin
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