その国は、かつて、アントレラ火山の麓にあった。
スペランツァの南東に位置する森と、火山の岩肌に挟まれてはいたが、それでも近くには大河も流れ、そこから惜しみない恵みを頂き、豊かで美しく、規律正しい生活には、不安の影が入り込む余地すらなかった。
彼らは彼らの神を崇め、設けられた戒律に従事することにより永遠の平和を約束されていた。
それはさながら、人々が求める、理想郷のように。
その国の名を、ラヴィ・ロマリスクと言った。
16
長きに渡り守られてきた規則により、リ・ヴォンに属する者たちは、目覚めるとまず、神への感謝と愛を示す為に、祈りをささげる。
国の代表である教皇が人前に姿を現わすのは、朝の、謁見の場でからである。
謁見の場には、司教達のみ出席が許され、教皇の言葉を賜り、その日1日を始める為の祈りをここでも捧げ、その後、場を退した後での、会議となる。
その会議は、全ての司祭、神官たちが、毎日の勤めを各々まっとうする為の指導の場であり、また閉鎖された空間であるこの神殿内で生活する者同士、お互いが安泰である事を確認しあう、大事な朝の儀式でもあった。
会議は、いきなりテーマを掲げ、論議を交換するものではなく、その日1日の、神官たちのスケジュール、巡礼者たちの世話、その他の些細な事柄について、挨拶のように交わされるものから始まる。
それから、司教たちの仕事は、国の公務に移る。
ラヴィ・ロマリスクはそのものが信仰の対象であった。
再生と幸福を司る古代の女神を崇めるリ・ヴォン教の最高機関であり、国家そのものがリ・ヴォン教会に属する。
国家でありながら、王という制度はなく、その代わりに教皇を首長としている。
故に、国の事柄は、全ての権限を王とも言うべき立場の、教皇に委ねられていた。
司祭たちは、教皇に任せられ、公務をも勤める。
階級は、大司教、司教、大司祭、司祭、大神官、神官と区別されているが、リ・ヴォン教会の携わる業務を主にする者たちが、大神官、神官。それも含め、公務にも携わる者たちが、司祭以上の者となっている。
朝の謁見が終わり、足早に会議室へと向かっていたマーテル司教は、ふと、神殿内に数多く設けられている、中庭に植えられている木が、赤く染まり始めているのに、気がついた。
先を急いでいた足を止め、司教は木の葉に手を伸ばす。
数年前から天上に、忌まわしき外殻がつくられてからというもの、地上は夏といえど、十分な日差しを浴びる事ができなくなってしまっていた。
植えられている木々も十分な栄養素を搾取できた訳ではないだろう。
だが、それでもこうして、夏には夏の青々とした、秋には秋の赤い葉に変化をみせてくれる。その姿はけなげで、胸打たれる。
赤く染まりつつある葉からそっと手を離し、再び、会議室へと向かおうとした時、廊下の向こうから来る黒衣の青年の姿を見つけて、司教は、おや、と足を止めた。
それは幼い頃から、よく知る顔である。
「どうしたね?ラルフィルド。」
急ぎ足の青年に、なにをそんなに難しい顔をしているのか、と不思議に思い呼び止めると、青年は年長の、そして尊敬に値する相手の存在に気づき、難しい顔をしたまま足を止めた。
「司教、おはようございます。」
「おはよう。」
どんな場面でも決して敬いの気持ちを忘れてはならない。教えを守り、手を組み頭を下げる青年に、人好きのする微笑を浮かべ、マーテル司祭は満足そうに頷いた。
いつでも穏やかで、人に対して悪意の類を持ち合わせないマーテルは、誰からも敬われ慕われる存在であった。
「実は・・・。」
顔をあげ、言いにくそうに青年は切り出した。
「なんだね?」
「本日の会議への出席が、私だけになる事をお許し頂きたいのですが・・・。」
その言葉に、マーテルは眉を顰める。
「それは構わないが・・・。ビショップはどうした?」
ビショップ、というのは、ラヴィ・ロマリスク国軍、黒鶫騎士団の総長の尊称である。
目の前の、ラルフィルドは黒鶫騎士団に属する騎士で、位は副総長にあたる。
会議には必ず総長、副総長が揃って出席するのが習わしであるから、ラルフィルドの浮かない顔も頷けるというものだった。
「そういえば・・・謁見の場にも姿を現わさなかったが。」
黒鶫騎士団は、個人の階級に関わらず、朝の謁見の場には必ず教皇の護衛の任につく。役に選ばれるのは同じ騎士と決まってはいないが、総長は、司教相当の地位を持っており、朝の謁見の場には教皇からの言葉も頂戴できる立場故、出席しているのが常であった。
「具合でも悪いのかな?」
国軍を従える者が、具合が悪い程度の事で公務を蔑ろにする訳もないと思いつつも、マーテルはビショップの任に就く青年の、華奢な体躯と、絶世の美貌を思い浮かべ、ついついそんな事を口にしてしまう。
腕も度胸も確かであっても、とても強靭な肉体の持ち主には見えないから、だろう。
「いえ・・それが・・・。」
ラルフィルドの口調が苦々しいものへと変貌する。憮然とした態度を隠そうともしない。
「聖皇女の、我が儘でして。」
「・・・フェザーガルドの?」
ぱちぱちと瞬きし、マーテルはラルフィルドを見返す。
聖皇女。
ラヴィ・ロマリスクは表向きは、教皇を中心に形成された国家であったが、その実は・・・神の使い、聖女なる者が存在し、リ・ヴォン教は彼女の守護と、その血族を絶やさぬ事を使命として担っている。
古より伝わりし高貴な血を受け継ぐ聖皇女は、ラヴィ・ロマリスクにとっては、神の代理人であり、絶対的な存在だ。教皇ですら、聖皇女を蔑ろにはできない。
「また何をやらかしたんだ?」
聖皇女・フェザーガルドは御歳17歳。立派な娘へとなりつつあるものの、未だに子供らしさが抜けず、罪のないいたずらを仕出かす事も多い。
マーテルは、このラルフィルド同様、幼い頃からフェザーガルドの成長を間近で見てきた存在でもある。
いつもの我が儘がまた始まったか、とやんちゃな姫君を微笑ましく思う父親のような心境で、マーテルは言った。
そのマーテルの危機感のない表情に、逆に機嫌を損ねたのはラルフィルドだった。
「笑い事ではございません、司教!聖皇女は、ビショップを今日一日、離さない気でございます!」
聖皇女・フェザーガルドと、ビショップであるミゲルは許婚であった。
父親である教皇が、勝手に選んだ相手とはいえ、幼い時から傍に居た為か、フェザーガルドはミゲルを嫌いはしなかった。むしろ、美貌の騎士へと成長したミゲルをいたく気に入っている。その姿は、若い者特有の怖いもの知らずな思い込みを含んでいるのが見て取れたが、許婚に熱をあげるのが悪い訳もなく、教団内でも苦笑混じりに見守ることすらすれ、行動が行き過ぎた場合でも、叱責する者など誰もいない。
「そう、かりかりするな、ラルフィルド。」
今にも頭から湯気が出そうな、ラルフィルドの様子に、笑いながらマーテルは言う。
「しかし・・・聖皇女にも、公務の大事さをいい加減に分かっていただけませんと。・・・いつまでも子供のままでいられては、周りも迷惑です。」
「妹に、厳しい兄だな。」
マーテルは苦笑し、フェザーガルドとまったく同じ金髪碧眼の、ラルフィルドの精悍な顔を見た。
ラルフィルドは、フェザーガルドの実の兄である。
神の代理人である聖皇の座は、女性のみしか受け継ぐことができない為、生まれたときから妹の臣下に下ることを課せられた兄だ。
だが、ふたりはとても仲の良い兄妹だった。野心の少ないラルフィルドには、妹を疎んじている様子は微塵もない。むしろ、妹の勝手な振る舞いが、彼女自身に災いを齎すまいかと、気が気でないらしい。
「確かにそれは望ましいが・・・。1日のうちになんとかなる、というものでもなかろう。フェザーガルドにはおいおいと自覚を促してやれば良い、長い目で見守ってやろうではないか?」
「それはそうですが・・・。」
「それに最近では、近郊での争いの類もなく、軍が必要となる場面もない。教団の運営の話など、若いお前たちには退屈なだけだろう。毎日つきあっていなくても良いのではないか?」
「司教、なにをおっしゃいます・・・。」
慌てるラルフィルドに、マーテルは笑った。
若い者に対する理解があるのも、マーテルの魅力であるが、真面目に公務を勤めようとするラルフィルドには、少々行き過ぎた冗談に聞こえたようだ。
「おお、いかん。そろそろ行かねば、会議に遅刻してしまう。」
ぽんぽん、と若い肩を叩き、マーテルはラルフィルドに先を促す。
「あ、本当ですね。急ぎましょう。」
話に夢中になっていた自分に我に返り、ラルフィルドも身を翻す。
つい口調も、幼い時から面倒を見てもらったおじさんに対するそれになっていた。
国のほど中央に位置する大神殿のファサードは、中央の棟を中心にして、左右に棟が広がり、強大な翼を広げた鳥のようだった。
会議室は、左棟に位置している。その他にも大広間があり、謁見場は中央の棟、右の棟は主に神官たちの住居だ。
左棟の長い階段を上り、会議室へと道を急いでいると、マーテルは息が切れてくる。
幼い時から神殿で暮らしてきた為、めったに外の国というものを見たことはないが、それでも巨大な神殿内での生活は、退屈を知らなかった。もっと若い頃は数々のいたずらを仕掛け、その度、大司祭や司教たちの大目玉を食らったものだし、この階段も一気に駆け上がったものだ。
自分に合わせて上っているラルフィルドを見て、年取ったものだとマーテルは苦笑する。歳月が施したものは何も、体力の衰えだけではない。昔はすっきりとしていた腹まわりも、最近ではしっかり贅肉がつき、大きく丸く張り出している。
マーテル司教が、階段の赤い絨毯を上り終え、会議室へと重厚な扉へ向かう時、入室前に服装を正そうと、ローブの大きな衿を整えていた時だった。
隣で同じように服装をざっと点検していたラルフィルドが、ふと顔をあげ、目を丸くする。
「ビショップ。」
その声に、マーテルは後ろを振り返った。
自分達が、今上ってきた階段に、いつの間に来たのか、黒衣の青年が佇んでいる。
足音も人の気配も一切感じなかった為、まるで初めからそこにいたかのようだ。
マーテルと目が合うと、青年はその場で静かに礼をした。
「ご苦労だったな、ビショップ。」
「・・・いえ。」
マーテルの苦笑交じりの労いの言葉の意味が、彼には伝わっているのだろう。
だが、青年は眉ひとつ動かさず、短く返事をしただけった。
この美貌の青年が長く話す姿を、久しく見た事がない、とマーテルは思う。
いつでも、こうした無表情で短く受け答えをするだけだ。
希望も不満も決して口にせず、若い者特有のまぶしいばかりの無鉄砲さが、この青年に見られることはなかった。
「ビショップ、聖皇女は?」
「中庭だ。」
返答を返すと、青年はその後の言葉を紡ぐ気はないようだった。
それはいつもの事なので、ラルフィルドはなんとか会話を続けようと努力する羽目になる。
「中庭、ですか。」
「外部の者が入り込む心配もないから、安心しろ。」
神殿の中庭は、参拝者には入れない。
四方に、樫の木が植えられ、小さいが泉の湧き出る噴水もある。
そこは神殿内の者だけが許される、憩いの場だ。
だから、安心だ、という意味のことを言われ、ラルフィルドが難しい顔をした。
「いえ、そうではなく・・・。よく聖皇女が、ビショップを解放してくれたものだ、と。」
その言葉に、一瞬だけ、青年は片方の眉を上げた。
「捕らわれていた訳ではないぞ?」
「そういう意味でもなく・・・。」
「では、なんだ?」
あまりにもそっけない青年と、ラルフィルドのやりとりに、マーテルは可笑しくなってきた。
「ミゲル。ラルフィルドは、妹がお前に面倒をかけたのでは、と心配しているのだよ。」
蝶よ花よと育てられたからでもないのだろうが、フェザーガルドの奔放さは、もはや兄のラルフィルドでさえ制することができない。その最大の被害者は目下、許婚であるミゲルであると誰にでも思えたのだが。
「別に迷惑をかけられてなどいません。これから会議だと言ったら、すぐに納得してくれました。」
どうやっているのかその手腕を1度拝見してみたいものだ、とマーテルも思う。
教皇ですら手を焼くフェザーガルドを御せるのは、今やミゲルただひとりだ。
「・・・そうでしたか。」
そう言われたら、謝るにも謝れず、ラルフィルドが曖昧な返事を返す。
マーテルはその姿を見て、もう1度笑った。
「さあ、会議だ。ぼやぼやしていると本当に遅刻だぞ。」
会議室には、巨大なテーブルがあり、そこにはほとんどの司教、司祭たちが顔を揃えていた。
教皇のお出ましは全員が揃ってからだから、正面の玉座には空席のままだったが、重い扉を両側から開けて貰い入室すると、中にいた全員がいっせいに振り向き、マーテルでさえ浴びせられた視線の多さに、気後れしそうになった。
集められた視線は、遅くなった事へと非難のものではなかった。
その証拠に、司祭たちの送ってくる視線は自分ではなく、無言のまま入場し、扉のすぐ手前の席に就こうとしている、自国軍の総長に注がれている。
優雅な仕草で着席したその者が顔を上げると、全員は慌てて視線を元に戻した。
類稀なる美貌というのは、否応なく人の視線を惹きつけるものだ。
悪い事をしていた訳でもないのに、全員が落ち着きをなくし、知らずに見惚れていた自分を誤魔化そうとするかのように咳払いをする者もいた。
ところで、騎士団総長の席は教皇の正面、副総長はその隣席、と定められている。
教皇の席は1番奥にあり、入場も教皇専用の扉が使用される。逆に総長たちは会議室への扉に背を向けた形で座っており、これは、万が一、狼藉者の進入を許した場合、一番に対応し目的を阻む為だ。
それ以外にも、正面の扉と教皇専用の扉の横に裏表でそれぞれ1名づつ、計8名の騎士が立ち、今も護衛の任についている。彼らはまるで石にでもなったかのように微動だにしない。彼らの任務は別にあり、会議の席には元々いないものと想定されているから、柱一本と同じ扱いで、誰も気にかけるものはいない。
やがて、教皇が入場し、全員は立ち上がり、頭を垂れる。
騎士たちはというと、存在しないものであるから、教皇にさえも礼をしなくて良い事になっている。その代わりに、手の持つ槍をお互いを向いて交差し、クロスを作る。それが会議の始まりの合図だ。
一体誰が考えた習わしかは知らないが、よく考えれば奇妙なものだ、とマーテルは思った。それに関しては後で調べてみる事にして、それまでは自分なりにどういう意味があるのが推理してみよう。今日はこの同じ事ばかりの会議にも、退屈せずにすみそうだ、と思った。
教皇が入場し、神へと賛美と儀礼の言葉を口にすると、それが始まりだ。
一同は各々、静かに着席するものの、衣擦れの音が幾重にも重なり、騒がしい音が会議室内に響く。
まずは1日の司教たちの仕事の分担と、それを管轄する者の選別、そして割り当てられた仕事がある者はその進み具合などの報告がされる。
「リム国の式典へは誰を派遣なさいますか?」
「そうだったな。」
数日前から依頼のあった他国からの招待に関して、教皇に判断を任せられていた。
リム国は、国民のおよそ7割がリ・ヴォンを信仰しており、リ・ヴォン教の祝日に、式典を催す予定がある。ぜひともそれにラヴィ・ロマリスクの司祭たちをお招きしたいとの申し出があった。
親交の深い国故に、本来ならば教皇が出席するべきではあったが、何分にも、リ・ヴォンの祝祭は、ラヴィ・ロマリスクでも開かれる。教皇はこちらに出席しなければならない。
司祭、などと謙虚な申し出ではあるが、リム国には、それ相当の地位の者が伺うのが筋というものだ。大司教辺りが適任だろう、と思われた。それには、ガーランド大司教が選ばれた。
「ビショップ。」
「はい。」
それまでは、まるでいないかのようだったにも関わらず、一言声を発すれば、その存在感は決して無視できないものになる。
教皇に呼ばれ答える青年に、知らぬうちに見入ってしまう己の無礼に戸惑うのか、全員が恐る恐るそちらを見る。
「ガーランド大司教と共に、一緒に行ってはくれまいか。」
大司教の護衛の為に、騎士団が伴われるのはいつもの事だ。
それに加え、前教皇時代から司教を務めるガーランド大司教は、すでにかなりの高齢の為、医師も就いていく事が提案された。
さらに、教皇は騎士団総長に付け加える。
「ただし大司教の護衛の為に行くという訳ではない。」
「・・・?」
「と、言いますと?」
指名されたガーランド大司教が椅子の上で、少しだけもじもじと体を動かしながら教皇へと聞き返す。高齢のガーランド大司教は腰痛持ちで、時々、座っているのが苦痛になるらしい。
それを理解している教皇は、大司教の落ち着きない態度も、別に気にしたりはしなかった。
「ガーランド大司教には、リム国に対し、私の名代としてミゲルを紹介して貰いたい。」
「・・・・・。」
驚きの声になる前の、息を飲む音があちらこちらから聞こえた。会議の席で無闇に声をあげる事は禁止されている。
教皇には、聖皇女の伴侶がなるもの、と定められている。
故に、すでに次の教皇には、この総長が就く事は決定されているも同然だった。
だが、まだ若い、という事もあり、表立っての発表などは教会内部にもなされていない。
教皇の名代としてという事は、彼が次期教皇として認められた事を、宣言したも同然だ。
「なるほど。」
大司教は総長の顔を見てにこりと笑い、教皇へ大きく頷き返した。
「それは良い考えでございますな。」
現教皇は齢50歳を迎えたばかり。引退するのはまだまだ先の話だが、次の代の者を教育しておく義務もあり、早い時期に、次代教皇を他国に印象づける事ができれば、それだけラヴィ・ロマリスクが安泰であるという事のアピールにもなる。
信仰の最高機関である以上、外交も必要だ。
「承知してくれるか、ビショップ。」
教皇の言葉に、総長は眉ひとつ動かさず、頭を垂れながら低い声で答えた。
「仰せとあらば。」
総長の顔に、期待しているような喜びの表情が現れないのを見ても、他の司教たちは訝しがる様子もなく、他の司教たちに配慮して控えめな態度を見せている、と思っているようだった。
だが、マーテルだけは、青年の計り知れない胸の内を一瞬、覗いたような気になった。
彼は教皇の座に就くことに特別、関心を持っていない。
野心どころかこの世の全ての事柄にも興味がなく、神も信じず、何も望んでなどいないのではないか。
ふいに、そういう漠然とした不安に駆られた。
兄妹同様、幼い頃から彼を見守ってきたマーテルにしてみれば、なんともやるせない。
それから、思い返してみた。
彼の表情が動くのを、どれだけ見ないだろうか。
「それで、司祭たちがそれまで交わしていた雑談が、ビショップが入場した途端ぴたり、と止まって。」
「ああ、まるで圧倒されたかのように、ぽかんとビショップを見たまま動かなかった。」
朝の任務から開放された騎士は、気分も開放されているようだった。
神殿を正面に見て、左横に建てられているのが、騎士団の詰め所だ。そこに騎士たちは常駐している。
今、若い騎士たちは、自軍の総長の話に夢中になっていた。
本日のトップニュースは当然、さきほどの教皇の決定的な発言だ。会議の席で護衛の任に就いていた者が、噂が届くよりも早く、その話題を持ち帰り、一時、室内は騒然となった。
話題の総長は、会議後そのまま教皇に呼ばれて、まだ帰ってきていない。ついつい騎士たちの口も軽くなるというものだ。
「しかし、あの歳で、次期教皇だと約束されるとは・・・。」
「ビショップは、教皇の覚えもめでたいって事だ。」
「それで、他の司教様たちの反応は?」
「ビショップが名代に認定されて、気分を害されたりはしなかったのか?」
「そんな事はないさ。皆様、事の他お喜びの様子で・・・。」
「うるさいぞ、お前たち!勤務中の私語は慎め!」
部屋の奥から怒鳴り声が飛んできて、若い騎士たちは首を竦める。
石壁で囲まれた小屋の中には、木製の机とベンチが置いてあり、好きなところで騎士たちが休めるようになっている。
席は決まっていないものの、奥には上官が陣取るもの、と暗黙の了解ができている。
子供のようにはしゃぐ騎士たちに釘を刺したのは、第三団隊の団長をしている男だ。
言葉は打ち据えるように強く、厳しい。
だが、この隊長は皆から慕われている。1度は首をすくめた若い騎士たちは、すぐに懲りた様子もなく言い返してくる。本心から鬱陶しがられていないのだ、と分かっている証拠だ。
「お言葉ですが団長〜、自分達は今は休み時間です。」
「そうですよ〜静かにしますから、お許しを。」
「・・・まったく。」
悪びれもない態度の騎士たちに、第三隊長は呆れた声を出す。
「お前たち、本当に口が達者だな。口よりも手を動かせ手を!戦場でも口で敵をやり返す気か?」
えへへへ〜と若い騎士たちの笑い声が響く。
それを聞き、今度は第3団長の前に座っていたラルフィルドが苦笑した。
「今日くらいは大目に見てやろうじゃないか、ヴァレリー。浮かれる彼らの気持ちも分かる・・・。」
「ほ〜。わかっちまうのか。」
ヴァレリーはラルフィルドの顔を見て、にやり、と笑った。
「そんなんで良いのかね?俺に言わせりゃ、お前さんは甘すぎると思うが。」
「仕方ないさ。無鉄砲ですぐに怒鳴るお前と、冷徹な総長の間に挟まれてれば、嫌でも人間が丸くなるというものだ。誰彼かまわず渋顔で接する者ばかりの軍じゃ、彼らも気の毒だろう?」
「言ってくれるじゃねぇか。」
「本当の事だ。」
ラルフィルドとヴァレリーは幼馴染だ。
だからこそ、遠慮ない発言をし合える仲でもある。
「しかしまあ、お前のいう事は一理ある。」
別に言い負かされた訳でもないだろうが、ヴァレリーが言った。
「あいつのあの仏頂面ばかり見てたら、気が滅入るってもんだ。」
「・・・それはビショップの事か?」
眉を顰めるラルフィルドに、ヴァレリーは天然のウェーブのかかったこげ茶色の髪をかきあげ、緑の瞳を細めて、苦笑する。まっすぐな金髪のラルフィルドとは対照的な髪の色だ。ふたりは並んでいると、なにもかも正反対だ、といつも言われる。性格も、見かけも。
「お前は真面目でいけないな。俺たちは、あいつとも幼馴染だろうが。」
「・・・そうだが。」
「まあ、確かに一緒に遊んだっていう記憶は薄いが。もっとも俺が堪え性がなくって、ミゲルのやつがいたら遊びの仲間に入らなかっただけだがな。それでもお前とは・・・仲が良かっただろうに。」
「幼馴染だからといって、特別な関係と甘えるのは良くない。総長に対しては相当の礼儀を弁えて接しなければ。」
「はいはい。だから真面目だってんだよ、お前は。」
そう言いながらヴァレリーは嫌味なくからり、と笑う。
「ところで、あの話だが、お前はどう思う?」
「あの話?」
「決まってるだろう。今朝、教皇から直々にあったって、アレだ。お前はいたんだろう?その場に。」
「・・・・・。」
先ほどヴァレリーが若い騎士たちに釘を刺したからだけではなく、ラルフィルドは声を潜める。
「・・・・正直、驚いた。もう少し先の話になると思ってたからな。」
「・・・それに関して、どうも、グランバル司教が絡んでるらしい。」
「グランバル司教が?」
「ああ。あの方は・・・それがリ・ヴォンの為と考えてはいるんだろうが・・・野心家だからな。かつてのラヴィ・ロマリスクのような、繁栄を取り戻す事をお望みらしい。」
「・・・しかし、それは・・・。」
ラヴィ・ロマリスクが衰退した最大の理由は、言わずと知れた空の厄、ダイクロフトが君臨をし始めたからだ。穏やかな生活が失われ、それによって人々の信仰心も薄れていってしまった。
「ああ・・・だから・・・いずれは。」
ヴァレリーの言葉の先を想像し、ラルフィルドは目を瞬いた。
「まさか・・・天上に対し、戦をしかける、とでも?」
「まさか。」
ヴァレリーは笑う。だが、冗談を笑い飛ばすという笑みではない。
「地上軍に取って代わろうなんてのは、いくらなんでも無理だ。第一、ラヴィ・ロマリスクはリ・ヴォン教の為にあって、俺たちだって戦をする為のものじゃない。だが、いずれこの戦に決着がつくだろう。その後の根回しを今からしておくつもりらしい。」
「根回し?」
「ラヴィ・ロマリスクここにあり、って感じかな。他国に対して、神は信仰を持つ我々に、いかに優越を齎すか。その証が・・・俺たちにはある。」
「・・・なんのことだ?」
「だから・・・。」
察しの悪いラルフィルドに少しだけヴァレリーが、いらついた口調になる。
「それで、ビショップ、の登場だろうが。」
一瞬、ラルフィルドは言葉を失う。
目の前の幼馴染を困惑したように見つめ、彼の言葉をゆっくりと咀嚼した後で、口を開いた。
「だが・・それは・・・。」
「これ以上の宣伝効果はない。なにしろヤツには・・あれがある。あの不思議な力を奇跡と呼ぶなら・・・信じる者も多いだろう。」
「ビショップの存在を、利用する気か?」
固く冷たい声を発する友に、ヴァレリーは苦笑する。
「仕方がないだろう。それが人よりも抜きん出たものを持つ者の定めだ。あいつには他人にはない能力がある。勇猛果敢と謳われる黒鶫騎士団総長で、次期教皇。しかも・・・あの面だ。十分すぎるほどのカリスマ性を備えている。」
「・・・・・。」
押し黙るラルフィルドの不機嫌そうな顔を見て、ヴァレリーは一瞬だけ黙って時間を与えた。
「だが、俺たちにとって、そんなに悪くはないんだがね。グランバル司教は。」
「・・・司教が、良識のある方なのは、私も認める。」
「そうじゃないって。」
ヴァレリーは、ぷっと吹き出すようにして笑った。
「どうやら、俺たちと同じ事を考えているようだ。」
「・・・・?」
「古きしきたりに固執する気はないらしい。革命的な提案を、持っている。」
「・・・・・それはっ!」
思わず立ち上がったラルフィルドに、騎士たちがいっせいに振り向いた。
なにか小競り合いをしているのかと心配顔だ。
「しっ!座れって。」
ヴァレリーは振り向き、騎士たちに向かってなんでもないと、手を振った。
「いつもは冷静なくせに、いきなり我を忘れるのがお前の悪いクセだ。抜けきってないな、子供の頃から。」
「すまない・・・。」
「若いあいつらに聞かれても、差し支えないとは思うが・・・。長い間守られてきた伝統というのは、大きな楔みたいなものだからな。変えようとする動きには、反感も多い。念の為、声は落とせ。」
ラルフィルドがちらりと見ると、もう若い騎士たちはこちらを見てはいなかったが、こちらの会話に聞き耳を立てているかもしれない。
「グランバル司教は、本当に・・・?」
「ああ。どうやらそうらしい・・・。最もグランバル司教は、ここ何年も続いている保守的やり方に不満を持ってもいるから、そういう意味でも思うところがあるのだろうがな。聖皇女のみが、絶対視される今の体制を変え、事実上の最高位である教皇にリ・ヴォンの全ての権限、決定権を委ねるべきだ、と。フェザーガルドではリ・ヴォンを守れないと公言しているらしい・・・。」
「私は!」
「声を荒らげるな!それに俺にまで公務みたいな口調で話さなくても良いだろう。」
嫌そうに顔を歪めたヴァレリーに小さく、すまんと詫びた後、
「・・・・・俺は別に・・・フェザーガルドに文句があるというのではないぞ。」
正確な意味では自分の意見は違う、と言うラルフィルドに、妹を庇う気持ちを見て取って、ヴァレリーは頷いた。
「俺もだ。フェザーガルドはまだ子供だが、やがては立派にリ・ヴォンの礎を守れるようになるだろう。・・・だが俺は・・・聖皇女にぶらさがっているリ・ヴォンのやり方に疑問を感じる。一筋の血脈のみを延々と守り続け、大昔に栄えた民の残した恩恵に縋ろうとするのにもそろそろ限界がある、と思わないか?以前ならいざ知らず・・・。人智によってできぬものはないとまで言われる今となっては、リ・ヴォン内部でのみ、古の技術を受け継いでいこうとしたところで、そこまでだ。この先の大きな進展を図ろうとするならば、外部からの知識も必要になる。・・・地上軍に、なんだか有名な双子がいるらしいが。知ってるか?」
「噂には。」
「そういう理由で、俺は外部との知識の交換を望んでいるのさ。そろそろリ・ヴォンは新しい体制に作り変えられるべきなんだ。といったら、なんだか偉そうだが。」
「いや。同感だ。それに・・・。」
熱っぽくなったヴァレリーの言葉に、ラルフィルドも頷く。
「お互い、リ・ヴォンを思っての事であるのは変わらないだろう。聖皇女というしきたりは、今までは信仰者達の間では、潤滑油でもあったかもしれない。なにしろ・・ここは閉鎖された国であるからな。争いも画策も教会内ですべて起こっていた、という事だ。それらを最終的にまとめようと思ったら、絶対的なものが必要だったんだろう。どんなに教会内で策略をめぐらそうとも、彼らがけっして逆らえない、神の代理者が。・・・・それそのものは悪い考えではない、と思う。だがそれを必ず、聖皇女、と定める必要があるのか?ましてや、聖皇女の座に就く者よりも、それにふさわしい人物がいるなら、その者に全てを委ねても良いのではないか、と・・・。」
ヴァレリーが、笑った。
「お前の言うのは、それがあいつ、だと。」
「先ほど、お前も同じような事を言っただろう?」
「まあな。」
ヴァレリーは面白そうに笑って、頷いた。
「確かに、あいつにはカリスマ性ってやつがある。あの能力も、レンズ信仰も内部に取り込んだ今のリ・ヴォンにとっては、効果的だ。絶対的な存在として、リ・ヴォン内部を統一するのは簡単だろう。」
「ああ。」
「だけど・・・俺は、あいつにリ・ヴォンを任せるのは、反対だ。」
いきなり意見が分かれたヴァレリーに、ラルフィルドが顔を上げた。その目には明らかに、不満の色が浮かんでいる。
「なぜだ・・・?」
「そう、おっかない顔をするなよ。別にガキの時からミゲルを嫌ってたからじゃないぜ。」
そんな小事が理由だと思われたら溜まらない、とヴァレリーが言うと、ますますラルフィルドは訝しげな表情を浮かべた。
「では、なぜ?」
「さあな。」
「・・・おい!?」
「今は言えん。もう少し待ってくれ。」
尚も縋ろうと、ラルフィルドが身を乗り出した時だった。
控えの間は、しん、と静まり返った。
それまで騒いでいた騎士たちは、いきなり口を噤み、それからいっせいに立ち上がる。
大勢が立ち上がった事で、椅子の立てる音が、部屋の中にうるさく響く。
「やれやれ、やっと戻っておいでかよ。」
ヴァレリーは言い、すでに立ち上がっている友人に続いて、自分も立ち上がる。
その姿をチラリと確認した後、ラルフィルドは、奥の自分達の方へと近づいてくる黒い制服姿の総長に対し、頭を下げた。
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